現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

18 / 18
国譲り
第十八話 「名を変える神」


 第十八話 「名を変える神」

 

 丈は、土の匂いの中に立っていた。

 

 さっきまで守矢神社の拝殿にいたはずだった。

 

 夜の床板。

 紙垂の白さ。

 遠くで鳴く虫の声。

 神奈子と諏訪子の、低く尖った声。

 

 それらが、風にさらわれるように遠のいていった。

 

 代わりに、足元へ湿った土の感触が戻ってくる。

 

 裸足ではない。

 

 けれど、土の冷たさが足の裏まで染みてくる。

 

 丈は息を吸った。

 

 水の匂いがした。

 

 湖。

 

 草。

 

 煙。

 

 人の暮らし。

 

 そこに、石の冷たさと、縄の乾いた匂いが混じっていた。

 

「……ここ、どこだよ」

 

 丈の声は、自分の口から出たはずなのに、少し遠くで響いた。

 

 返事はすぐそばから来た。

 

『昔の諏訪よ』

 

 神奈子の声だった。

 

 姿は見えない。

 

 だが、声ははっきり聞こえる。

 

 拝殿で聞いた時よりも、少し遠く、少し古い。

 

『正確には、諏訪と呼ばれる形が今よりずっと曖昧だった頃ね』

 

『またそういう言い方する』

 

 諏訪子の声が重なった。

 

『昔の諏訪、でいいじゃん』

 

『丈に説明するなら、曖昧なところは曖昧と言っておくべきでしょう』

 

『今から見せるものの方が、よっぽど曖昧だよ』

 

「おい」

 

 丈は眉を寄せた。

 

「喧嘩すんなよ」

 

 二柱は黙った。

 

 さっき夜の拝殿で、丈は余計なことを言った。

 

 どっちも諏訪を思ってるんだろ、などと。

 

 その一言で、二柱の声が一瞬で荒れた。

 

 今思い出しても、背中が冷える。

 

 だから、丈は慌てて付け足した。

 

「いや、喧嘩っていうか……普通に話せ」

 

『普通に話してるよ』

 

 諏訪子が軽く言う。

 

『今のところはね』

 

『余計なことを言わない』

 

 神奈子がたしなめる。

 

 丈は深く息を吐いた。

 

 何だこれ。

 

 夢なのか。

 

 神様の昔話なのか。

 

 巻き込まれているのか。

 

 たぶん全部だ。

 

 そう思った方が早かった。

 

 目の前に、湖が広がっていた。

 

 今の諏訪湖よりも、ずっと近く感じる。

 

 水面は静かだったが、静かすぎるわけではない。風が走るたびに細かく震え、空の色を砕いている。

 

 湖の周りには人がいた。

 

 粗い布をまとった女が、水を汲んでいる。

 

 男たちは木材を運び、土を掘り、何かの水路を直している。

 

 子供たちは泥だらけで走り、年寄りに怒鳴られている。

 

 少し離れた木の根元には、小さな供え物があった。

 

 石の前で、誰かが頭を下げている。

 

 また別の場所では、縄が張られていた。

 

 その向こうへ行こうとした子供が、母親に耳を引っ張られて戻される。

 

「いたたたた!」

 

「そこは行くなって言っただろ!」

 

「ちょっと見ただけ!」

 

「見ただけで済まないところもあるんだよ!」

 

 丈は、思わず足を止めた。

 

 普通の生活だった。

 

 朝飯を作り、子供を叱り、水を引き、木を運ぶ。

 

 それなのに、その一つ一つに、神様とか、祟りとか、そういうものが隣にいる。

 

 今の神社みたいに、決まった場所へ行って手を合わせるだけではない。

 

 石の横を通る時。

 

 水を汲む時。

 

 木を切る時。

 

 子供が悪さをした時。

 

 そのたびに、何かへ声を掛け、何かを避け、何かへ礼をしている。

 

「……近いな」

 

 丈は呟いた。

 

『そう』

 

 諏訪子が答えた。

 

『近かった』

 

 その声は、いつもの軽さを少しだけ失っていた。

 

『人と神の距離が近い。怖いものも、ありがたいものも、生活の中にいた』

 

 神奈子が続ける。

 

『美しく聞こえるでしょう』

 

「違うのか」

 

『美しいだけではないわ』

 

 湖畔で、女が子供の手を掴んで石の前に連れていく。

 

 子供はむくれている。

 

 女は子供の頭を押さえ、石へ向けて深く下げさせた。

 

「ごめんなさいは」

 

「……ごめんなさい」

 

「聞こえない」

 

「ごめんなさい!」

 

 子供が泣きそうな声で言う。

 

 石は何も言わない。

 

 けれど、丈には分かった。

 

 そこには何かがいる。

 

 石そのものなのか。

 

 石に宿るものなのか。

 

 土地の気配がそこに寄っているだけなのか。

 

 分からない。

 

 だが、いる。

 

 子供はそれを怖がっている。

 

 女も怖がっている。

 

 それでも、二人は石のすぐそばで暮らしている。

 

『近いっていうのは、そういうことよ』

 

 神奈子が言う。

 

『恵みも近い。祟りも近い。人は、神と一緒に暮らす代わりに、ずっと気を配り続ける』

 

『気を配ってくれるなら、優しくするよ』

 

 諏訪子が言った。

 

『だいたいはね』

 

「だいたいかよ」

 

『全部とは言ってない』

 

「怖ぇよ」

 

『怖くていいんだよ。怖いから、ちゃんと見る』

 

 丈は、猿鬼のことを思い出した。

 

 怖いから近づかない。

 

 怖いから呼ばない。

 

 怖いからふざけない。

 

 それは人を守る怖さだと、諏訪子は言っていた。

 

 昔の人は、それをもっと近くで知っていたのだろう。

 

 目の前の子供は、石へ向かって謝りながら泣いている。

 

 母親はその背中をさすっている。

 

 怖がらせている。

 

 けれど、ただ脅しているのではない。

 

 その場所で生きるための作法を、体に教えている。

 

 丈は、何とも言えない気持ちになった。

 

 土の下で、何かが動いた。

 

 蛇のようなもの。

 

 縄のようなもの。

 

 石の連なりのようなもの。

 

 それは、丈の足元をゆっくり横切った。

 

「うおっ」

 

『踏まない方がいいよ』

 

 諏訪子が言う。

 

「先に言えよ!」

 

『踏まなかったじゃん』

 

「踏む寸前だっただろ!」

 

『踏んだら踏んだで、覚えるよ』

 

「覚え方が雑なんだよ」

 

『土地ってそういうものだよ』

 

 丈は足元を見た。

 

 もう何もいない。

 

 だが、消えた感じはしなかった。

 

 土の下で、今も何かがこちらを見ている。

 

 背筋が冷える。

 

 怖い。

 

 けれど、嫌ではない。

 

 山で感じたものと同じだった。

 

 そこにある。

 

 ただ、そこにある。

 

 人のためにあるわけではない。

 

 でも、人がそこに住む以上、無視できないもの。

 

 丈は小さく息を吐いた。

 

「これが、洩矢の土地か」

 

『そうだね』

 

 諏訪子は短く答えた。

 

『でも、今日はそこを細かく見る日じゃない』

 

「じゃあ、何を見るんだよ」

 

『名が変わるところ』

 

 神奈子が言った。

 

『あなたが知るべきなのは、そこよ』

 

 風が吹いた。

 

 湖畔の人々の声が遠のく。

 

 水面が白く揺れる。

 

 景色が、薄い布のようにめくれた。

 

     ◇

 

 次に丈が立っていたのは、広い場所だった。

 

 諏訪ではない。

 

 それは、見た瞬間に分かった。

 

 土の匂いが違う。

 

 水の気配も遠い。

 

 空が高く、乾いている。

 

 人々の気配もあるが、さっきの諏訪のように土地へ溶けてはいない。

 

 何か大きな場。

 

 神々が集まる場。

 

 言葉が重く、決まりが形になる場所。

 

 丈は周りを見回した。

 

「ここは?」

 

『出雲』

 

 神奈子が答えた。

 

『天津の神話において、大きな節目となった場所』

 

「出雲……」

 

 丈はその名を知っている。

 

 詳しくは知らない。

 

 だが、神話に出てくる場所だということくらいは分かる。

 

 空気が張り詰めていた。

 

 どこかで、無数の視線が集まっている。

 

 姿が見えるものもいる。

 

 見えないものもいる。

 

 人の形をした神。

 

 光のような神。

 

 雷のような神。

 

 大地のような神。

 

 そのすべてが、ある一点を見ていた。

 

 二柱の神が向かい合っている。

 

 一方は、雷を帯びていた。

 

 剣のような硬さ。

 

 空から落ちる力。

 

 近づけば焼かれるような気配。

 

 もう一方は、強い体をしていた。

 

 土を踏む足。

 

 太い腕。

 

 水と風を抱えたような気配。

 

 丈は、胸がざわつくのを感じた。

 

 この二柱の名を、彼は知っている気がした。

 

 知識としてではなく、今から語られるものとして。

 

『武御雷』

 

 神奈子が言った。

 

 雷を帯びた神を示す声だった。

 

『そして、タケミナカタ』

 

 もう一方を示す。

 

 丈は眉を寄せた。

 

「タケミナカタって……」

 

『今の諏訪で語られる名のひとつよ』

 

 神奈子の声は穏やかだった。

 

 穏やかすぎた。

 

『ただし、今見せているのは、諏訪で起こった出来事ではない』

 

 諏訪子が少しだけ笑う。

 

『ここ、大事だよ』

 

「何が」

 

『神話の中心で語られた出来事と、土地で起こったことは、いつも綺麗に同じじゃない』

 

 丈は二柱を見ることができない。

 

 声だけがある。

 

 けれど、二人がこちらを見ている気がした。

 

『この相撲は、諏訪が天津側へ接続されるための大きな型になった』

 

 神奈子が言う。

 

『型?』

 

『形、と言ってもいいわ』

 

 武御雷とタケミナカタが、向かい合う。

 

 言葉が交わされる。

 

 丈には、そのすべては聞こえない。

 

 だが、空気で分かる。

 

 国を渡せ。

 

 力を示せ。

 

 従え。

 

 そういう言葉が、見えない刃になって場に満ちていた。

 

 タケミナカタが腕を差し出す。

 

 武御雷も応じる。

 

 二柱が手を取った。

 

 その瞬間、空気が折れた。

 

 丈はそう感じた。

 

 相撲。

 

 確かに相撲だった。

 

 手を取る。

 

 力を比べる。

 

 相手を押す。

 

 だが、校庭で男子がふざけてやる相撲とは違う。

 

 手を取っただけで、周囲の気配が震える。

 

 見ている神々の息が止まる。

 

 丈の喉も詰まった。

 

 武御雷の腕が変わる。

 

 氷のように。

 

 剣のように。

 

 それとも雷そのもののように。

 

 掴まれたタケミナカタの腕が、ぐにゃりと歪んだ。

 

 痛みが走ったのが、丈にも分かった。

 

 タケミナカタが後退る。

 

 怒り。

 

 驚き。

 

 そして、負けを悟る気配。

 

 丈は思わず声を出した。

 

「待て」

 

 誰にも届かない。

 

 景色の中の神々は、丈など見ていない。

 

 タケミナカタは退く。

 

 退くというより、逃げる。

 

 武御雷の気配が追う。

 

 風景が流れた。

 

 山。

 

 川。

 

 野。

 

 霧。

 

 水。

 

 そして、諏訪。

 

 タケミナカタは、諏訪で止まる。

 

 いや。

 

 止められる。

 

 そこから出るな。

 

 この地に留まれ。

 

 そういう言葉が落ちる。

 

 音としてではない。

 

 けれど、丈には分かった。

 

 敗北した神が、諏訪に留まる。

 

 諏訪は、天津の神話の中へ繋がれる。

 

 その場に、名が打ち込まれる。

 

 タケミナカタ。

 

 その名が、諏訪へ届く。

 

 丈は息を呑んだ。

 

「これが、諏訪の始まりなのか」

 

『始まりのひとつよ』

 

 神奈子が答える。

 

『全部ではない』

 

『全部って言うには、諏訪は古すぎるしね』

 

 諏訪子が言う。

 

『でも、天津側から見れば、この話は分かりやすい。負けた神が諏訪へ至り、そこに留まった。諏訪は天津の秩序の中で語れる場所になる』

 

「語れる場所?」

 

『説明できる場所』

 

 神奈子が言った。

 

『外の神話に接続できる場所。名を持ち、役目を持ち、由来を持つ場所』

 

 丈は、山の廃寺を思い出した。

 

 正行院ではない寺。

 

 けれど正行院の札に導かれ、猿寺として見られ、猿鬼を去る寺の猿へ変えた場所。

 

「……猿寺みたいなもんか」

 

『そう』

 

 神奈子の声が少しだけ柔らかくなる。

 

『あなたが見たことに近いわ』

 

 諏訪子が小さく笑う。

 

『あれより、ずっと大きくて、ずっと面倒で、ずっと尾を引いてるけどね』

 

「尾を引いてるって」

 

『今でも引いてる』

 

「今でも?」

 

 答えはなかった。

 

 代わりに景色が少し薄くなる。

 

 出雲の場が霞み、諏訪の湖が遠くに浮かぶ。

 

 タケミナカタという名だけが、風に乗って残った。

 

     ◇

 

 丈は、また諏訪の地に立っていた。

 

 湖のほとり。

 

 人々の暮らし。

 

 水を汲む音。

 

 子供の声。

 

 祠の前で頭を下げる老人。

 

 だが、さっきと少し違う。

 

 空の上に、別の視線がある。

 

 遠くから、この土地を見ているものがある。

 

 そこに住む者たちには見えない。

 

 でも、神々には分かる。

 

 諏訪は、ただの土地ではなくなりつつあった。

 

 名を通じて、外の神話へ接続される。

 

 タケミナカタ。

 

 その名が、風のように湖畔を撫でる。

 

 丈はその名を聞いて、不思議な感覚を覚えた。

 

 重い。

 

 大きい。

 

 そして、少しだけ苦い。

 

『名前は、ただの呼び方じゃない』

 

 神奈子が言う。

 

『呼ばれ方が変われば、見られ方が変わる。見られ方が変われば、祀られ方が変わる』

 

『祀られ方が変われば、そこにいるものの姿も変わる』

 

 諏訪子が続けた。

 

『本人が望むかどうかとは、別にね』

 

 丈は眉を寄せる。

 

「お前らも、名前を変えたのか」

 

 しばらく沈黙があった。

 

 風が湖面を撫でる。

 

 神奈子が答えた。

 

『ええ』

 

 短い返事だった。

 

『私たちも、名前を変えている。姿も、役目も、祀られ方も、ひとつではない』

 

 諏訪子が軽く言う。

 

『神様って、わりとそういうとこあるんだよ』

 

「軽く言うなよ」

 

『重く言っても変わらないし』

 

『軽く言えば済む話でもないわ』

 

 神奈子の声が少し冷える。

 

 諏訪子はすぐに返さなかった。

 

 丈は、その間にあるものを感じた。

 

 まただ。

 

 この二人は同じことを話しているのに、同じ言葉にしない。

 

 神奈子は、名を変えることを残るための手段として語る。

 

 諏訪子は、名を変えられることをどこか皮肉に語る。

 

 どちらも嘘ではない。

 

 でも、全部でもない。

 

「猿鬼も、名前を変えた」

 

 丈は言った。

 

「猿鬼から、去る寺の猿に」

 

『そう』

 

 神奈子が答える。

 

『あれは小さな祀り直しだった』

 

『強引だったけどね』

 

 諏訪子が言う。

 

「お前が言ったんだろ」

 

『私も強引だと思ってたよ』

 

「言えよ」

 

『言ったらやめた?』

 

「……やめなかった」

 

『でしょ』

 

 丈は黙った。

 

 あの時、やめる選択肢はなかった。

 

 慎二の影は戻った。

 

 猿鬼は丈を追っていた。

 

 学校に残れば、誰かが巻き込まれたかもしれない。

 

 だから、名もなき廃寺に猿鬼を納めた。

 

 鬼ではなく、猿として。

 

 災いを去らせるものとして。

 

 それが正しいかどうかは、今でも分からない。

 

 ただ、終わらせるにはそれしかなかった。

 

『分かるでしょう』

 

 神奈子が言った。

 

『名を変えることは、消すことではない。けれど、元のまま残すことでもない』

 

「じゃあ、どっちなんだよ」

 

『どちらでもあるわ』

 

 丈は顔をしかめた。

 

「ずるい答えだな」

 

『ええ』

 

 神奈子は否定しなかった。

 

『ずるいのよ』

 

 その声に、ほんの少し苦味があった。

 

 丈はその苦味を聞いた。

 

 だが、踏み込まない方がいい気もした。

 

 踏み込めば、また夜の拝殿みたいになる。

 

 そう思ったのに、口が動いた。

 

「じゃあ、お前らは何を変えたんだ」

 

 二柱は沈黙した。

 

 長い沈黙だった。

 

 諏訪の人々の声だけが、遠くで聞こえる。

 

 子供が笑う。

 

 女が水を汲む。

 

 男が縄を張る。

 

 老人が石へ礼をする。

 

 その普通の音の中で、神奈子が言った。

 

『それは、今すべて話すことではないわ』

 

「またそれかよ」

 

『必要なことは話している』

 

 神奈子の声は固い。

 

『あなたが今知るべきなのは、諏訪が名を変え、姿を変えながら残ってきたということ』

 

『それと、丈の言葉のこと』

 

 諏訪子が引き継いだ。

 

『そこは話さないと危ない』

 

「俺の?」

 

『うん』

 

 景色が揺れた。

 

 湖畔の向こうに、人影が見える。

 

 遠い。

 

 顔は分からない。

 

 男だ。

 

 大人の男。

 

 背は高く、肩幅がある。

 

 豪傑というより、よく働く人間の体つきだった。

 

 田の畦に立ち、誰かへ何かを言っている。

 

 子供が笑う。

 

 女が呆れたように肩をすくめる。

 

 男が振り返る。

 

 顔は見えない。

 

 なのに、丈は胸の奥を掴まれたような気がした。

 

「……誰だ」

 

 諏訪子が少しだけ嫌そうに言う。

 

『昔の男』

 

「雑」

 

『雑でいい』

 

 神奈子が静かに言った。

 

『あなたに、少し似ている男よ』

 

「俺に?」

 

『姿ではないわ』

 

『言葉の置き方』

 

 諏訪子が続ける。

 

『分からないものに踏み込むところ。勝手に間に立つところ。自分が何を踏んでいるか分かってないのに、妙に真っ直ぐ言うところ』

 

「悪口か?」

 

『半分くらい』

 

「残りは?」

 

『もっと悪い』

 

「おい」

 

 諏訪子は笑った。

 

 だが、笑いきれていなかった。

 

 神奈子の声が重なる。

 

『あなたの言葉には、天津の匂いがある』

 

 丈は顔をしかめた。

 

「匂いって何だよ」

 

『ものに名を置く匂い』

 

 神奈子は言った。

 

『これはこういうものだと定める声。曖昧なものに形を与える言葉』

 

 諏訪子が低く言う。

 

『上から蓋をする匂い、とも言う』

 

「俺、そんなつもりで言ってねぇよ」

 

『つもりの話じゃない』

 

 神奈子の声は厳しかった。

 

『あなたは猿鬼と呼んだ』

 

 丈は何も言えなくなる。

 

『名のなかった山のものは、あなたの言葉で猿鬼へ寄った』

 

 諏訪子が続ける。

 

『そして、あなたは去る寺の猿と呼び直した』

 

 あの廃寺の光景が浮かぶ。

 

 黒い猿鬼。

 

 長い腕。

 

 赤い目。

 

 それが少しずつ小さな合掌猿へ変わっていく姿。

 

 丈の言葉と、早苗の祈り。

 

 何度も何度も重ねた声。

 

 その果てに、鬼が猿になった。

 

「……俺の言葉が、そうしたのか」

 

『早苗の祈りがなければ無理だった』

 

 神奈子が言う。

 

『山と寺の受け皿も必要だった』

 

『でも、最初に名を打ち込んだのは丈だよ』

 

 諏訪子の声は、責めているようではなかった。

 

 だが、軽くもなかった。

 

『だから怖いんだよ。丈の言葉は、土地の曖昧なものに届く。届いて、形を決める』

 

「便利じゃないのか」

 

『便利だよ』

 

 諏訪子が即答した。

 

『便利なものは、だいたい危ない』

 

 神奈子が続ける。

 

『形を与えなければ救えないものがある。けれど、形を与えれば失われるものもある』

 

 丈は黙った。

 

 景色の中の男が、誰かを止めている。

 

 何かを言っている。

 

 声は聞こえない。

 

 だが、その場にいる者たちが、男の言葉で少しだけ動きを変えたのが分かった。

 

 石を動かそうとしていた子供が手を止める。

 

 水路で言い争っていた男たちが黙る。

 

 男は大声ではない。

 

 命令でもない。

 

 でも、言葉が置かれると、周りの空気が少し整う。

 

 丈はそれを見て、嫌な感じがした。

 

 似ている。

 

 そう言われると、確かに嫌だった。

 

「そいつ、何したんだよ」

 

 二柱は黙った。

 

「おい」

 

『今は関係ない』

 

 神奈子が言った。

 

 早い。

 

 答えが早すぎる。

 

「絶対関係あるだろ」

 

『ない』

 

 諏訪子も即答した。

 

「二人して嘘下手かよ」

 

『嘘じゃないよ』

 

「目が泳いでる感じがする」

 

『姿見えてないでしょ』

 

「声が泳いでる」

 

『嫌な子だねぇ』

 

 諏訪子の声は軽いが、どこか落ち着かない。

 

 神奈子も沈黙している。

 

 丈は確信した。

 

 絶対に何かある。

 

 だが、今ここで聞いても答えないだろう。

 

 男の影は、ゆっくり遠ざかっていく。

 

 その背中を、神奈子と諏訪子の気配が同時に追った。

 

 ほんの一瞬。

 

 それだけで、丈は気まずくなった。

 

 何だ。

 

 何なんだこの男。

 

 聞いてはいけない気もする。

 

 でも、気になる。

 

 すごく気になる。

 

 丈がそう思った瞬間、足元の土がわずかに震えた。

 

 蛇のようなものが、土の下を通った気がした。

 

     ◇

 

 景色は、また変わった。

 

 今度は、出雲でも、湖畔でもなかった。

 

 幾つもの景色が重なっている。

 

 神社のような場所。

 

 山の祠。

 

 湖のほとり。

 

 名もなき廃寺。

 

 正行院の札。

 

 合掌猿。

 

 タケミナカタ。

 

 洩矢。

 

 それらが、薄い紙を何枚も重ねたように、丈の前で揺れていた。

 

『名を変えるというのはね』

 

 神奈子が言う。

 

『一度だけのことではないわ』

 

 ひとつの祠に、別の名が重なる。

 

 古い石の上に、新しい縄が掛けられる。

 

 誰かが昔の名を忘れる。

 

 別の誰かが、新しい名を呼ぶ。

 

 それでも、石はそこにある。

 

 水は流れる。

 

 土地は呼吸している。

 

『時代ごとに、人は呼び方を変える。祀り方を変える。恐れ方を変える』

 

 諏訪子が言う。

 

『神様の方も、それに合わせたり、合わせなかったりする』

 

「合わせなかったら?」

 

『忘れられる』

 

 神奈子が答えた。

 

『届かなくなる』

 

『でも、消えないこともある』

 

 諏訪子が言う。

 

『土の下に残る。石の影に残る。人が忘れても、土地が覚えてる』

 

『人に届かなければ、守れないものもあるわ』

 

『土地が残れば、また芽が出ることもある』

 

『芽が出る前に刈られることもある』

 

『刈られても根が残ることもある』

 

『根ごと焼かれることもある』

 

 声が少しずつ低くなる。

 

 丈は慌てて言った。

 

「だから喧嘩すんなって」

 

 二柱は黙った。

 

 今度は怒られなかった。

 

 ただ、神奈子が小さく息を吐いた。

 

『……そうね』

 

 諏訪子も軽く笑う。

 

『今日はここまでにしとこうか』

 

「いや、待て。まだ分かってない」

 

『全部分かる話じゃないよ』

 

 諏訪子が言う。

 

『丈が今日知ればいいのは三つ』

 

 三つ。

 

 諏訪子の声が、指を立てるように区切った。

 

『一つ。出雲で武御雷とタケミナカタが力を競った。その話が、諏訪を天津側に接続する大きな型になった』

 

 神奈子が続ける。

 

『二つ。諏訪はその後、名を変え、姿を変えながら残った。私たちも同じよ。猿寺のように、名と役目を変えて残っている』

 

 そして、二柱の声が少しだけ重なる。

 

『三つ』

 

『あなたの言葉には、名を置く力がある』

 

 丈は、自分の喉に手を当てた。

 

 猿鬼と叫んだ喉。

 

 去る寺の猿だと言い直した喉。

 

 ただの声だと思っていた。

 

 でも、そうではないらしい。

 

「じゃあ、俺はどうすりゃいい」

 

『気をつけなさい』

 

 神奈子が言った。

 

 すごく当たり前の答えだった。

 

「それだけかよ」

 

『それだけよ』

 

『それが一番難しいんだよ』

 

 諏訪子が言う。

 

『見えたものをすぐ呼ばない。怖いものにすぐ名前をつけない。分からないものを、分かった形に押し込めない』

 

「でも、呼ばなきゃ駄目な時もあるんだろ」

 

『ある』

 

 神奈子が答える。

 

『その時は、呼び方を間違えないこと』

 

「難しすぎるだろ」

 

『だから、早苗がいる』

 

 諏訪子が少し笑った。

 

『あの子は場を作る。丈は名を置く。二人でやるなら、まだ危うさを抑えられる』

 

「早苗に迷惑かけるってことか」

 

『そうとも言う』

 

「言い方」

 

『でも、あの子も選ぶよ』

 

 神奈子の声が柔らかくなる。

 

『早苗は、ただ巻き込まれる子ではないわ』

 

 丈は黙った。

 

 山の廃寺で、額に札を貼った早苗の姿を思い出す。

 

 神社の娘が、寺の札を貼り、祝詞と仏言を混ぜ、猿鬼を祀った。

 

 怖がっていた。

 

 震えていた。

 

 それでも、やった。

 

 たぶん、早苗はまた同じことがあればやる。

 

 それが少し怖かった。

 

「……分かった」

 

『本当に?』

 

「半分くらい」

 

『正直でよろしい』

 

 諏訪子が笑う。

 

 神奈子はしばらく黙っていた。

 

 それから、静かに言う。

 

『丈』

 

「何だ」

 

『今日見たものを、すぐ答えにしないこと』

 

「どういう意味だよ」

 

『どちらが正しいか。どちらが悪いか。残すことがいいのか、変えないことがいいのか。そういう形に、すぐ入れないで』

 

 諏訪子が続ける。

 

『私たちだって、まだそうできてないんだから』

 

 丈は二柱の声を聞いた。

 

 神様でも、答えを持っていない。

 

 いや、持っているのかもしれない。

 

 それぞれの答えはある。

 

 でも、それが相手にとって答えになるとは限らない。

 

 そんな気がした。

 

 景色が薄れていく。

 

 湖畔の人々。

 

 出雲の場。

 

 武御雷とタケミナカタ。

 

 遠くの男の背中。

 

 合掌する猿。

 

 それらが、霧の中へ沈んでいく。

 

「待て」

 

 丈は思わず言った。

 

「あの男のこと、まだ聞いてない」

 

『また今度』

 

 諏訪子が答える。

 

「絶対ごまかしてるだろ」

 

『ごまかしてるよ』

 

「認めるなよ」

 

『今聞かれると面倒なんだもん』

 

 神奈子が小さく言う。

 

『今は、必要なことだけでいいわ』

 

「じゃあ、必要になったら話すのか」

 

『ええ』

 

『たぶんね』

 

「そこは言い切れよ」

 

 返事はなかった。

 

 代わりに、足元の土がまた震えた。

 

 蛇のようなものが、丈の足元からすっと通り過ぎる。

 

 それは、さっきより近かった。

 

 丈は動けなかった。

 

 その気配が、彼の足首に触れた気がした。

 

 冷たい。

 

 けれど、痛くはない。

 

 ただ、何かが繋がったような感覚があった。

 

『……あ』

 

 諏訪子の声がした。

 

 小さく。

 

 少しだけ、しまった、という響きで。

 

「何だよ」

 

『いや』

 

 神奈子の声もわずかに硬くなる。

 

『丈、今のは』

 

 そこで景色が崩れた。

 

 土が消える。

 

 水の匂いが薄れる。

 

 風が遠のく。

 

 拝殿の床の冷たさが戻ってくる。

 

     ◇

 

 丈は、守矢神社の拝殿に座っていた。

 

 夜だった。

 

 さっきと同じ夜。

 

 けれど、随分長い時間が過ぎた気がする。

 

 外では虫が鳴いている。

 

 廊下の奥から、早苗の寝息がかすかに聞こえた。

 

 神奈子と諏訪子の気配は、まだ近くにあった。

 

 だが、どちらも少し黙っている。

 

「……終わりか」

 

『今日はね』

 

 諏訪子が言う。

 

 少しだけ、声が硬い。

 

「最後の、何だったんだ」

 

『何でもない』

 

「何でもない声じゃなかったぞ」

 

『何でもないってことにしておこう』

 

「雑」

 

『便利だからね』

 

 神奈子が静かに言った。

 

『丈。もう戻って休みなさい』

 

「またそれか」

 

『あなたは疲れている』

 

「神様って、都合悪くなると子供扱いするよな」

 

『実際子供でしょう』

 

「そうだけど」

 

『それに、今日あなたが知るべきことは伝えたわ』

 

 丈は不満だった。

 

 不満だったが、頭が重い。

 

 まぶたも重い。

 

 体の奥に、山を歩いた疲れとは別の疲れが溜まっていた。

 

 何かを見すぎた後の疲れ。

 

 知りたくないのに、知り始めてしまった疲れ。

 

「……分かったよ」

 

 丈は立ち上がろうとした。

 

 足がしびれていた。

 

「痛っ」

 

 思わず声が出る。

 

 それがあまりにも普通で、少しだけ笑えた。

 

 出雲だの、タケミナカタだの、名を変える神だのを見た後でも、足はしびれる。

 

 そこだけは、とても人間らしかった。

 

 丈は廊下へ向かう前に、拝殿の奥へ小さく頭を下げた。

 

 何に対してかは分からない。

 

 でも、下げた方がいい気がした。

 

「……おやすみ」

 

『おやすみ』

 

 諏訪子が返す。

 

『ゆっくり休みなさい』

 

 神奈子も言った。

 

 丈は布団へ戻った。

 

 横になると、疲れが一気に押し寄せてくる。

 

 目を閉じる。

 

 だが、すぐには眠れなかった。

 

 瞼の裏に、湖の風景が浮かぶ。

 

 水を汲む女。

 

 石に謝る子供。

 

 出雲で手を取る二柱の神。

 

 タケミナカタという名。

 

 遠くに立っていた、丈に似ているという男。

 

 それから、足元を通った蛇のようなもの。

 

 あれは何だったのか。

 

 聞いても、二柱は答えなかった。

 

 いや、答えたくなさそうだった。

 

 丈は寝返りを打った。

 

 隣の部屋で、早苗が小さく寝息を立てている。

 

 その音を聞いていると、少し落ち着いた。

 

 今は考えても分からない。

 

 たぶん、また分からないことが増えた。

 

 でも、ひとつだけ分かった。

 

 猿鬼の時、自分たちは小さなことをしたのではない。

 

 小さく見えて、ずっと古いことをなぞっていた。

 

 名をつける。

 

 名を変える。

 

 形を変えて残す。

 

 それが救いにもなり、傷にもなる。

 

 丈は、喉に手を当てた。

 

 自分の声が、少し怖かった。

 

「……気をつけろって言われてもな」

 

 小さく呟く。

 

 返事はない。

 

 やがて、眠気が勝った。

 

 丈は眠った。

 

 そして、その夜。

 

 丈は夢を見た。

 

 神奈子も諏訪子も、語らなかった夢だった。

 

 湖の霧の中で、名をなくした女神が倒れていた。

 

 そのそばに、ひとりの男が立っている。

 

 男はしばらく女神を見下ろし、それから困ったように頭を掻いた。

 

「生きてるのか」

 

 女神は答えない。

 

 男はしゃがみ込んだ。

 

「まあ、神様なら死んではないか」

 

 女神の指が、わずかに動く。

 

 男はそれを見て、ため息を吐いた。

 

「動けるか」

 

 返事はない。

 

「動けないなら、そう言え」

 

 女神は、掠れた声で言った。

 

「……言えるなら、動いている」

 

 男は少し黙った。

 

 それから、ふっと笑った。

 

「口は動くな」

 

 女神が睨む。

 

 男は気にしない。

 

「水を持ってくる」

 

 霧の向こうへ男が歩いていく。

 

 女神は、それを止めなかった。

 

 丈は夢の中で、その光景を見ていた。

 

 神奈子も諏訪子も話さなかった、余計な部分。

 

 蛇のような土の記憶が、静かにほどけ始めていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

ToLOVEる ~ 生まれ変わった意味を探して~(作者:アイスが食べたいマン)(原作:ToLOVEる)

生まれ変わった主人公時雨優斗(ときさめゆうと)▼何故生まれ変わったのか?▼何故自分がだったのか?▼生きる理由を探しながら身近な人の幸せを守ろうとする主人公の話▼主人公に原作知識はありません。▼タグは順次増えるかもです。▼初投稿なので誤字や文が変かもしれませんがご了承ください。


総合評価:1474/評価:7.7/連載:40話/更新日時:2026年06月06日(土) 17:57 小説情報

石油王()に転生したので全力でメディア様に媚びる(作者:Una)(原作:Fate/)

Fateのアトラム・ガリアスタに転生しちゃった主人公が全力でメディア様に媚びるためにいろいろ準備する話


総合評価:17357/評価:8.48/連載:39話/更新日時:2026年05月18日(月) 00:53 小説情報

Fate/stay night [Alter Ego of Calamity] ――理外の双貌 (作者:りー037)(原作:Fate/stay night)

冬木市で行われる魔術師たちの殺し合い『第五次聖杯戦争』。▼必勝を期して最強の剣士(セイバー)を召喚したはずの遠坂凛の前に現れたのは、万能の杯すら鼻で嗤う「呪いの王」両面宿儺だった。▼伏黒恵の肉体(全盛期の力)と、一度敗北を知り丸くなった(?)精神。▼二つの極致を併せ持つアルターエゴにとって、この命懸けの儀式は単なる「暇つぶし」でしかない。▼機嫌を損ねれば即・…


総合評価:3736/評価:8.45/完結:52話/更新日時:2026年06月05日(金) 22:51 小説情報

乗っ取り系魔物「クックックッ、俺に身体を貸せ……」魔法少女「貴方の力なんて借りない!」(作者:タロスズ)(オリジナル現代/冒険・バトル)

乗っ取り系魔物「クックックッ、お前達でアイツに勝てるのか?俺に身体を貸せ……代わりに戦ってやる。」▼魔法少女「貴方の力なんて借りない!」▼乗っ取り系魔物「クックックッ、カップ麺ばかりでは栄養が偏るぞ?俺に身体を貸せ……ハンバーグを作ってやる。」▼魔法少女「貴方の力なんて借りない!…………あっ、美味しい……」▼乗っ取り系魔物「クックックッ、魔法少女にかまけて勉…


総合評価:11514/評価:8.24/連載:14話/更新日時:2026年04月16日(木) 15:44 小説情報

石流龍(石流龍じゃない)の肉体を手に入れた(作者:和尚我津)(原作:呪術廻戦)

呪術廻戦の人類側噛ませ犬代表の、仙台藩の『大砲』こと石流龍(石流龍じゃない)に転生した男が、噛ませ犬の汚名を返上するために両面宿儺に挑む。▼


総合評価:32019/評価:9.2/完結:27話/更新日時:2026年03月05日(木) 21:05 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>