第十九話 「名をなくした神」
霧が出ていた。
湖から上がった白い霧が、草の先を濡らし、木の幹を撫で、低い家々の屋根を薄く隠している。
朝なのか、夕方なのか、丈には分からなかった。
ただ、空はまだ明るくならず、湖の向こうにある山の輪郭だけが、ぼんやりと黒く浮かんでいる。
水の匂いがした。
土の匂いもする。
煙の匂いも、少し。
誰かが火を焚いている。
遠くで、木を割る音がした。
こつん。
こつん。
それから、女の声。
「水口、見てきたかい!」
「見た!」
「見ただけじゃ駄目だよ、詰まってないか聞いてるんだ!」
「詰まってた!」
「なら直してきな!」
「今から!」
「今からじゃない、見た時にやりな!」
男たちの笑い声が起こる。
子供が叱られているらしい。
丈は霧の中に立ったまま、その声を聞いていた。
守矢神社の布団に入ったはずだった。
神奈子と諏訪子に、名を変える神の話を見せられた後、やっと眠ったはずだった。
なのに、今、また知らない場所にいる。
いや、知らない場所ではない。
夢だ。
これは夢だ。
そう分かるのに、足元の土は冷たく、霧は頬に触れ、遠くの煙は鼻の奥にまで届く。
夢にしては、生々しすぎた。
「……またかよ」
丈は小さく呟いた。
返事はなかった。
神奈子の声も、諏訪子の声も聞こえない。
いつもなら、何かしら横から口を出してくるはずなのに。
かわりに、足元の土の奥で、何かがゆっくり動いた。
蛇のような。
縄のような。
石の列のような。
昨夜、足首へ触れた気配。
丈は眉を寄せる。
「お前が見せてんのか」
土は答えない。
だが、霧が少しだけ流れた。
向こうへ行け。
そう言われた気がした。
丈は歩き出した。
◇
霧の中に、女神が倒れていた。
湖の縁から少し離れた草地。
背の低い草が濡れている。
その上に、女神は横たわっていた。
美しい、という言葉がまず浮かんだ。
けれど、すぐに違うと思った。
今の彼女に、美しいなどと言うのは、あまりにも薄い。
髪は乱れ、衣は泥に汚れ、片方の袖は裂けている。白かったはずの布は、水と土を吸って重くなり、ところどころ黒ずんでいた。
顔色は悪い。
唇も乾いている。
それでも、ただの人間ではなかった。
倒れていても、周囲の霧が彼女を避けるように流れる。
草の露が、彼女の肌へ触れる寸前で止まる。
そこに神がいる。
丈にも分かった。
ただし、ひどく弱っている。
輪郭がほどけかけていた。
風に吹かれれば消えるというより、誰かに呼ばれなければそのまま土と霧に紛れてしまいそうだった。
女神の指が、わずかに動いた。
その時、霧の向こうから男が来た。
丈は息を呑む。
昨日、遠くに見えた男だ。
顔はまだはっきりしない。
けれど、背の高さ、肩幅、歩き方に覚えがある。
畦を歩き慣れた足。
草の濡れを気にしない踏み方。
腰に道具を下げ、手には木の桶を持っている。
神でも、武人でもない。
よく働く人間の体つきだった。
男は女神を見つけると、足を止めた。
驚いた顔をする。
次に、周りを見る。
誰かが倒れている。
ただし、人ではないかもしれない。
そこまで分かったのだろう。
男はしばらく動かなかった。
霧の中で、女神と男だけが向かい合っているように見えた。
やがて、男は頭を掻いた。
「生きてるのか」
女神は答えない。
男は近づき、しゃがむ。
「いや、神様なら死んではないか」
女神の指が、もう一度動いた。
男はそれを見て、少しだけ安心したような顔になる。
「動けるか」
返事はない。
「動けないなら、そう言え」
女神の唇が、ゆっくり開いた。
掠れた声。
「……言えるなら、動いている」
男は黙った。
それから、ふっと笑った。
「口は動くな」
女神が、目だけで男を睨んだ。
神の目だった。
弱っていても、そこにはまだ、荒い光が残っていた。
男は気にしなかった。
「水を持ってくる」
「いらない」
「いるだろ」
「いらないと言った」
「じゃあ、俺が飲むついでに持ってくる」
「聞け」
「聞いた」
「なら、持ってくるな」
「聞いた上で、持ってくる」
男は立ち上がった。
女神は何か言おうとしたが、声にならなかった。
男は霧の向こうへ歩いていく。
丈は、その背中を見ていた。
「何なんだ、あいつ」
誰に聞いたわけでもない。
だが、少し分かった。
この男は、神を恐れていないわけではない。
女神が人ではないことにも、気づいている。
それでも、倒れているなら水を持ってくる。
そういう男なのだ。
女神は、草の上で目を閉じた。
その横顔に、怒りがあった。
屈辱も。
疲労も。
そして、薄い恐怖も。
丈はそこで初めて気づいた。
この女神は、何かから逃げてきたのだ。
◇
男は本当に水を持ってきた。
木の椀に水を入れ、女神のそばに置く。
女神は見ない。
男は少し待つ。
女神はやはり見ない。
「飲まないのか」
「いらない」
「そうか」
男は椀を持ち上げ、自分で少し飲んだ。
それから、また女神のそばに置く。
「毒じゃない」
「毒だと思っているわけではない」
「じゃあ飲め」
「命令するな」
「命令じゃない。水だ」
「意味が分からない」
「水は飲むものだ」
「……人間は、すぐ物事を簡単にする」
「複雑にしても喉は潤わない」
女神は、ようやく椀を見た。
手を伸ばす。
指が震えていた。
椀を掴む力がない。
男が支えようとすると、女神は鋭く睨む。
「触るな」
「じゃあこぼすな」
「触るな」
「分かった」
男は手を引いた。
女神は震える手で椀を持ち、少し水を飲んだ。
喉が動く。
一口。
二口。
その瞬間、彼女の肩からわずかに力が抜けた。
水が体に入る。
神でも、水は必要なのか。
丈は妙なことを考えた。
男も同じことを思ったらしく、女神を見ながら言った。
「神様も水を飲むんだな」
女神は椀を持ったまま、目を細める。
「無礼だぞ」
「悪い」
「悪いと思っていない」
「少しは思ってる」
「少し?」
「多めに言って少し」
女神は黙った。
怒る体力も惜しいのかもしれない。
男は腰を下ろした。
霧の中、少し離れて座る。
近すぎない。
離れすぎない。
女神が警戒しても、すぐには触れない距離。
けれど、何かあれば手が届く距離。
その距離の取り方が、不思議に自然だった。
男は聞く。
「名は」
女神の指が止まった。
椀の水面が揺れる。
「……ない」
声が、さっきより低かった。
「ない?」
「ないと言った」
「名がないと呼べないな」
「呼ぶ必要はない」
「ある。飯を出す時に困る」
女神は、男を見た。
今度は怒りではなく、理解できないものを見る目だった。
「飯?」
「食えるならな」
「私は神だ」
「神様は水を飲むだろ」
「……食べない」
「食べないなら、火のそばに座ってろ」
「なぜ」
「濡れてるから」
「神に向かって」
「濡れてる神様だろ」
女神は言葉を失った。
丈も少し失った。
失礼にもほどがある。
だが、不思議と侮辱には聞こえなかった。
男はただ、濡れているものを濡れていると言い、冷えていそうなものを火のそばに置こうとしているだけだった。
神として扱わない。
かといって、ただの人間として扱うわけでもない。
倒れているものとして扱っている。
その当たり前さが、女神には通じていなかった。
いや。
通じているからこそ、戸惑っているのかもしれない。
女神は、小さく呟いた。
「……変な人間だな」
「神様に変と言われる筋合いはない」
「言い返すな」
「言い返すくらいはする」
「私を誰だと思っている」
男はしばらく黙った。
それから、首を傾げる。
「分からん」
女神の顔から、わずかに血の気が引いた。
男は続ける。
「名を知らない。何の神かも知らない。だから、分からん」
女神の指が、椀を握りしめる。
「……そうか」
「ああ」
「分からないのか」
「分からないな」
その言葉が、なぜか女神に深く刺さったのが分かった。
分からない。
男は何気なく言った。
だが、女神にとっては違った。
名を呼ばれない。
何の神か分からない。
自分が自分であることを、誰にも示されない。
女神は椀を見下ろした。
水面に映る顔は、霧に濡れて輪郭がぼやけている。
彼女は椀を傾けた。
水が少しこぼれ、草を濡らす。
男も、そこでようやく何かに気づいたらしい。
少し困った顔になる。
「……悪い」
「謝るな」
「いや、今のは悪かった」
「謝るなと言っている」
「じゃあ、言い方を変える」
男は少し考えた。
「今は分からん」
女神は、目を上げる。
「今は?」
「後で分かるかもしれない」
「……なぜ」
「お前がここにいるなら、そのうち何か分かるだろ」
霧が流れた。
女神は、何も言わなかった。
◇
男の家は、湖から少し離れた場所にあった。
家というより、作業場と住まいが一緒になったような小屋だった。
柱は太く、屋根は低い。
戸口には干した草が吊るされ、軒下には木の道具が並んでいる。
中には火があった。
小さな火だ。
女神は戸口で立ち止まる。
男が振り返る。
「入れ」
「人の家か」
「そうだ」
「神を入れるのか」
「濡れてるからな」
「理由がずっとそれだな」
「十分だろ」
女神は不満そうにしながらも、中へ入った。
火のそばに座る。
最初は距離を取っていたが、やがて少し近づいた。
冷えていたのだ。
男は干した布を持ってきて、少し離れた場所へ置いた。
「濡れたままだと冷える」
「見るな」
「見ない」
「出ていけ」
「ここ俺の家だぞ」
「なら後ろを向け」
男は素直に後ろを向いた。
女神はしばらく男の背中を睨んでいたが、やがて泥に濡れた衣の上から布を羽織った。
完全に着替えることはしない。
警戒は解いていない。
それでも、布は使った。
火が小さく鳴る。
ぱち、と薪が爆ぜる。
女神は火を見ていた。
男は背を向けたまま言う。
「飯は」
「いらない」
「食えないのか、食わないのか」
「……少しなら」
「なら少し出す」
「話を聞け」
「聞いた。少しだな」
男は外へ出て、すぐに戻ってきた。
木の椀に、粥のようなものを入れている。
薄い。
水が多い。
けれど、湯気が立っていた。
女神はそれをじっと見る。
「毒ではない」
「さっきも聞いた」
「今度は聞いていない」
「顔が聞いてた」
「人間は顔でも話すのか」
「神様も顔で怒ってる」
女神は椀を受け取った。
食べるのに少し時間がかかった。
一口ごとに、体がそれを受け入れるか確かめているようだった。
男は火の向こうで、道具を直し始めた。
縄を縒る。
木の部品を削る。
刃物で細いささくれを落とす。
女神を見るでもなく、見ないでもなく、そこにいるものとして扱っている。
その時間が、妙に静かだった。
外では、村の音がしている。
子供の声。
犬のような獣の声。
木を打つ音。
誰かが笑う声。
火の前で、名をなくした女神が粥を食べている。
丈はその光景を見て、胸の奥が変に重くなった。
神奈子。
そう呼びそうになって、止めた。
この女神は、まだ神奈子ではない。
タケミナカタでもない。
名をなくした神だ。
呼べば、違うものになってしまう気がした。
◇
数日が過ぎた。
夢なのに、日が経つ。
その感覚が妙だった。
丈は、女神が少しずつ動けるようになっていくのを見た。
最初は火のそばから離れなかった。
男が出した水を飲み、少しの粥を食べ、夜になるとほとんど眠らずに戸口の方を見ていた。
外から物音がすると、すぐに体を強張らせる。
男は何も聞かなかった。
なぜ逃げてきたのか。
誰に負けたのか。
名は本当にないのか。
何も聞かない。
ただ、朝になれば水を置き、火が小さくなれば薪を足した。
それが、女神を余計に苛立たせていた。
「なぜ聞かない」
ある夜、女神が言った。
男は縄を縒っていた手を止める。
「何を」
「私が何者か」
「言いたいのか」
「言いたくない」
「なら聞かない」
「……気にならないのか」
「なる」
「なら聞け」
「言いたくないんだろ」
「そうだ」
「なら聞かない」
「面倒な男だな」
「よく言われる」
「誰に」
「いろんな奴に」
「神にも?」
「今、言われた」
女神は黙った。
男はまた縄を縒る。
火が揺れる。
しばらくして、女神が言った。
「私は、名があった」
「だろうな」
「今はない」
「そうか」
「奪われたのか、落としたのか、捨てたのか、自分でも分からない」
男の手が止まった。
女神は火を見ている。
「呼ばれていた。祀られていた。役目もあった。風も、水も、私を知っていた」
火が小さく鳴る。
「だが、負けた」
その言葉だけ、低かった。
「負ければ、名は残らない。勝ったものの言葉で語られる。負けたものの名は、削られる。都合のいい形へ押し込められる」
男は何も言わない。
「私は逃げた」
女神の指が、膝の上で震えた。
「逃げて、ここへ来た」
外で風が鳴る。
小屋の壁が、かすかに軋んだ。
「笑うか」
女神が言う。
男は少しだけ首を傾げた。
「笑うところがあったか」
「神が逃げた」
「人も逃げる」
「私は神だ」
「神も逃げた」
「お前は、本当に無礼だな」
「でも、生きてる」
女神は目を上げた。
男は縄を置いていた。
「逃げて、ここにいる。なら、生きてるんだろ」
女神は、言葉を失った。
「名は」
男が言う。
「また呼ばれれば戻るのか」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのか」
「名は、ただの音ではない。誰が呼ぶか。何を思って呼ぶか。何のために呼ぶか。それで形が変わる」
「じゃあ、変わっても呼ばれればいいのか」
女神は怒りかけた。
火の光が、彼女の頬を赤く照らす。
手の中で、羽織った布がきつく握られる。
今すぐ否定したかった。
いいわけがない。
元の名で、元の姿で、元の役目で呼ばれなければ意味がない。
そのはずだった。
しかし、女神は口を開いたまま、言葉を落とした。
視線が、火から男の手へ移る。
荒れた手。
縄を縒り、木を削り、水路を直す手。
その手が、自分に水を置いた。
その手が、火に薪を足した。
その手が、名前のない自分を追い出さなかった。
女神は、布を握る指をゆっくり緩める。
そして、何も言わずに火を見た。
男はそれ以上聞かなかった。
ただ、薪を一本くべた。
◇
男は、日が昇ると外へ出た。
腰に道具を差し、縄を肩に掛け、木桶を片手に持つ。
女神は最初、それについていこうとした。
戸口から一歩外へ出る。
霧の薄れた朝。
湖の光。
人々の声。
そこまではよかった。
だが、村の奥、木立の向こうへ続く道を男が指さした瞬間、女神の足が止まった。
何かが、そこにあった。
見えない線。
縄が張られているわけではない。
柵があるわけでもない。
だが、女神はその先へ進まなかった。
進めない、というより。
進みたくない。
体が拒んでいる。
そんな止まり方だった。
男は振り返る。
「どうした」
女神は無言で道の奥を見る。
そこは、洩矢の領域だった。
丈にも分かった。
木々の間に、湿った土の気配が濃い。
石がある。
縄がある。
水が伏せている。
そして、土の下に蛇のようなものがいる。
女神は唇を引き結んだ。
「……行かない」
「そうか」
男はあっさり頷いた。
理由を聞かない。
女神はそれが気に入らないように眉を動かした。
「聞かないのか」
「聞いてほしいのか」
「聞くな」
「なら聞かない」
「腹が立つ男だな」
「最近、そればかりだな」
男は少し笑った。
「昼には戻る」
「戻らなくていい」
「じゃあ夕方に戻る」
「話を聞け」
「聞いた上で戻る」
男は歩き出した。
女神はその背中を睨んでいる。
だが、一歩も進まない。
男が木立の奥へ入っていくと、女神は小さく息を吐いた。
悔しそうだった。
怒っているのに、どこか怯えてもいる。
丈はその横顔を見た。
彼女は強い神だった。
それでも、この土地の奥には入れない。
いや、入らない。
自分を拒むものの中へ、踏み込むことを選ばない。
その線の向こうで、男は働く。
洩矢の領域で。
女神の知らない顔をして。
◇
男は、日中の大半をそこへ行って過ごした。
水路を見る。
石を積み直す。
倒れかけた杭を直す。
縄を張り替える。
湿った土へ膝をつき、泥だらけになって帰ってくる。
女神は、いつも小屋の前か、湖のそばで待っていた。
待っている、と言えば怒るだろう。
だが、待っていた。
男が帰ってくると、まず足元を見る。
泥のつき方を見る。
濡れた袖を見る。
持っていた道具の傷を見る。
それから、何でもなさそうな顔で聞く。
「何をしていた」
「水口を直していた」
「昨日も直していなかったか」
「昨日直したところの上が詰まった」
「人間の仕事は終わらないな」
「神様の仕事もそうだろ」
別の日。
「今日は」
「石を戻した」
「石?」
「子供が動かした」
「また子供か」
「動かしたくなる形だったんだろ」
「なぜ戻す」
「そこにないと落ち着かないらしい」
「誰が」
男は少しだけ口を閉じる。
その沈黙を、女神は見逃さなかった。
「誰が、落ち着かない」
「土地が」
男は短く言った。
それ以上は話さなかった。
女神はじっと男を見る。
「お前は、その土地のことになると口数が減る」
「そうか」
「そうだ」
「分からないことを、分かったように話すと怒られる」
「誰に」
男は湖の向こうを見た。
木立の方ではない。
もっと低い場所。
土の下を見るように。
「いろいろに」
女神はそれ以上聞かなかった。
聞けなかった。
その言い方に、見えない手が触れていたからだ。
また別の日。
男は、細い縄を持って帰ってきた。
湿っている。
新しく綯ったものではなく、どこかから外してきたものだった。
女神はそれを見て顔をしかめる。
「汚い縄だな」
「汚いと言うな」
「古い」
「それならいい」
「何だそれは」
「張り替えた残り」
「どこの」
男は少し間を置いた。
「森の入口」
女神の目が細くなる。
「何のための縄だ」
「入るな、という印」
「誰が入るなと」
「人が」
「誰に向けて」
「人に向けて」
「その奥にいるものへではなく?」
男は黙った。
縄を軒下に掛ける。
女神は、彼の背中を見ていた。
「お前は、隠すのが下手だな」
「話すのが下手なんだ」
「同じだ」
「違う」
男は振り返る。
その顔は、少しだけ真面目だった。
「話していいことと、話さない方がいいことがある」
「私にか」
「お前に限らない」
「神にも隠すのか」
「神だから隠すこともある」
女神の目に、怒りが走る。
しかし、男は逸らさない。
「怖いものは、むやみに人へ渡すものじゃない」
「私が怖いと?」
「怖いだろ」
即答だった。
女神の唇が動く。
けれど、言葉が出ない。
男は続ける。
「お前も、あそこのものも」
「あそこのもの」
「それ以上は言わない」
「なぜ」
「言うと、近くなる」
女神は息を止めた。
その言葉は、彼女にも分かった。
名を口にする。
由来を語る。
形を与える。
それは、遠くにあるものを近くへ呼ぶ。
男はそれを知っている。
知っているから、口を閉じる。
彼は無知ではない。
ただ、語らないのだ。
女神は、そこに苛立った。
同時に、強く惹かれた。
男は、彼女が知らないものを知っている。
彼女が踏み込めない領域で働き、そこの作法を守り、そこの恐れに従っている。
日中の男は、彼女の知らない顔をしていた。
湖の霧の中で女神に水を出す男ではない。
火のそばで粥をよそう男でもない。
洩矢の土地で、怖いものに頭を下げ、口を慎み、手を動かす男。
その顔を、女神は見られない。
見られないことが、腹立たしかった。
◇
男は話した。
洩矢の民の日常を。
ただし、神のことになると口数を減らした。
「朝は水を見る」
「なぜ」
「水が変わると、田も変わる」
「それは分かる」
「水口に葉が詰まれば、下の田が乾く。上で勝手に引けば、下が怒る」
「人間同士の話か」
「人間同士の話でもある」
「でも、違うのだな」
男は肩をすくめた。
「水には水の通り道がある」
それだけ言った。
別の日には、男は子供の話をした。
「あの子は、三度目だ」
「何が」
「禁じた石へ座った」
「なぜ座る」
「座りやすいから」
「馬鹿なのか」
「子供はそういうものだ」
「それで?」
「三度目だから、今日は母親が泣かせた」
「泣かせるほどのことか」
「泣いて覚えるなら安い」
「ずいぶん乱暴だな」
「その後に熱を出すよりいい」
女神はじっと男を見る。
「本当に熱が出るのか」
「出るかもしれない」
「出ないかもしれない」
「だから叱る」
「分からないのに?」
「分からないから」
また別の日。
男は祭りの支度を話した。
「縄を綯う」
「誰が」
「村の女たち」
「男は?」
「杭を打つ。木を運ぶ。邪魔をする子供を捕まえる」
「それも仕事か」
「結構大事だ」
「何の祭りだ」
男は少し黙る。
「水が荒れないように」
「誰に願う」
さらに黙る。
女神は低く言う。
「また黙る」
「黙るところだ」
「いつもそうだ。肝心なところで黙る」
「肝心だから黙る」
女神は男を睨む。
男は困ったように笑うだけだった。
「お前は、私に何を話して、何を話さないか決めている」
「そうだな」
「腹立たしい」
「悪い」
「謝ればよいと思っているな」
「少し」
「少し?」
「多めに言って少し」
女神はため息を吐いた。
だが、そのやりとりを嫌がってはいなかった。
丈には分かった。
彼女は、男が話す洩矢の日常を聞くのを待つようになっている。
水口。
石。
縄。
子供。
祭り。
女たちの叱り声。
男たちの泥臭い仕事。
老人が語る、半分だけ聞こえる昔話。
それらが彼女の中へ積もっていく。
彼女は諏訪を見ている。
男の口から。
男の泥のついた足から。
男が話さない沈黙から。
その沈黙の向こうに、洩矢の神がいる。
彼が恐れ、祀り、口に出さず、日中その領域で働く神。
彼女は、その場所に入れない。
彼女自身が拒む。
だが、拒みながら見ていた。
見えないものを、男を通して見ようとしていた。
そして。
丈は、女神の目が時々暗くなるのを見た。
男が「そこは言えない」と口を閉じるたび。
男が土の奥を怖がるたび。
男が見えないものへ頭を下げる仕草をするたび。
女神の指が、わずかに動いた。
羨望か。
嫉妬か。
飢えか。
丈には分からない。
ただ、その手つきは、何かを掴みたいように見えた。
自分がそこへ入れないなら。
自分がその場所の神になれば。
男が恐れ、祀り、口を慎むその場所に、自分が立てるなら。
そんな言葉は、誰の口からも出なかった。
だが、霧の中で、女神の目が一瞬だけ暗く光った。
丈は、それを見てしまった。
◇
ある日、男は昼を過ぎても戻らなかった。
女神は小屋の前にいた。
最初は座っていた。
次に立った。
湖へ行き、すぐに戻った。
戸口の前を二度歩いた。
三度目で、自分が歩いていることに気づいたように足を止める。
眉を寄せる。
不快そうに、何もない空間を睨む。
丈は思わず呟いた。
「待ってるじゃん」
女神には聞こえない。
それでも、言いたくなった。
夕方になって、男が戻った。
肩に泥がついている。
腕に細い傷がある。
女神はそれを見た瞬間、目を細めた。
「遅い」
「そうか」
「遅い」
「二回言った」
「聞こえなかったかと思った」
「聞こえた」
「なら返事をしろ」
「ただいま?」
「ふざけるな」
男は少し笑った。
女神は腕の傷を見る。
「何をした」
「滑った」
「どこで」
「奥」
「洩矢の?」
男は返事をしなかった。
女神の顔が険しくなる。
「また黙る」
「手当てしてくれるのか」
「話を逸らすな」
「手当てしないなら、俺がする」
男は桶の水で傷を洗い始める。
女神はしばらく見ていた。
それから、苛立ったように近づいた。
「貸せ」
「何を」
「腕」
「触るなと言っていたのはお前だろ」
「今は私が触る」
「勝手だな」
「神とはそういうものだ」
女神は男の腕を掴んだ。
乱暴だった。
しかし、傷に触れる指先だけは慎重だった。
男は少しだけ眉を上げる。
「治せるのか」
「この程度なら」
「便利だな」
「便利と言うな」
女神の指先に、風のような気配が宿る。
傷が少しずつ閉じていく。
完全ではない。
だが、血は止まった。
男は自分の腕を見る。
「助かった」
「当然だ」
「ありがとう」
女神の手が止まった。
たったそれだけの言葉だった。
ありがとう。
女神は男の腕を離す。
「……安い礼だな」
「もっといるのか」
「いらない」
「なら安くていいだろ」
「本当に腹立たしい」
「それも何度目だ」
「数えるな」
女神は背を向けた。
けれど、少しだけ耳が赤かった。
神の耳が赤くなるのか。
丈は思った。
思って、見なかったことにした。
◇
夜。
雨が降った。
強い雨ではない。
細い雨が、屋根をずっと叩いている。
小屋の中は暗く、火だけが赤い。
女神は戸口の方を見ていた。
雨の音に、何かを思い出している顔だった。
男が言う。
「追手か」
女神は答えない。
「違うならいい」
「違わないかもしれない」
男は顔を上げた。
「来るのか」
「分からない」
「ここへ?」
「いずれ」
雨音が強くなる。
女神は膝の上で指を組んだ。
「天津の神々は、土地を分ける」
男は黙って聞いている。
「役目を定める。名を置く。誰がどこを治め、何を祀り、何を退けるかを決める」
「悪いことか」
「悪いだけなら簡単だ」
女神は火を見る。
「整う。争いは減る。遠くからでも説明できる。人は、どこへ祈ればいいか分かりやすくなる」
「いいことにも聞こえる」
「そうだ」
女神の声が低くなる。
「だから厄介なのだ」
火が揺れる。
「この土地は、生きている」
男は何も言わない。
「水も、石も、木も、土の下にいるものも、人の暮らしから離れていない。祟りも恵みも、近すぎるほど近い」
「それが諏訪だ」
「そうだ」
女神は初めて、その言葉を受け入れるように言った。
「それが、諏訪だ」
雨が屋根を叩く。
「だが、天津の秩序は、それを許すだろうか」
男の表情がわずかに変わる。
「どういう意味だ」
「分からぬものは名を与えられる。怖いものは退けられる。土地は切り分けられ、役目は整理される。神とも祟りともつかぬものは、奥へ追いやられる」
「奥へ残るなら」
「残ればいい、と言うか」
女神の声に、少し怒りが混じった。
「名もなく、呼ばれもせず、恐れられもせず、ただ土の下へ沈められて、それを残ったと言うか」
男は黙った。
「……悪い」
「謝るな」
「でも、今のは悪かった」
「謝るなと言っている」
女神は、顔を伏せる。
「名を失うことを、簡単に言うな」
雨音だけが続いた。
男はしばらく黙っていた。
それから、静かに言う。
「じゃあ、どうする」
「先に、形を作る」
「形?」
「天津に認められる形だ」
女神は顔を上げた。
その目に、弱っていた頃の濁りはもうなかった。
代わりに、危うい光が宿っている。
「奪われる前に、差し出す。裂かれる前に、結び直す。消される前に、名を変える」
「それは、守ることなのか」
「守ることだ」
即答だった。
男は女神を見る。
「本当に?」
女神の表情が、わずかに揺れる。
唇が開く。
すぐ閉じる。
膝の上の指が、強く絡まる。
「守ることだ」
今度は、少し遅かった。
男はそれ以上追及しなかった。
丈は見ていた。
女神の視線が、戸口の向こうへ流れる。
雨に濡れた夜の奥。
日中、男が消えていく木立の方へ。
彼女の目は、そこを見ていた。
彼女を拒む場所。
男が泥だらけになって戻る場所。
彼が詳しく話さない場所。
彼が恐れ、祀り、口を慎む場所。
女神は、その方角から目を逸らさなかった。
「形を作れば」
彼女は小さく言った。
「そこにも、名が届く」
男は聞き返さなかった。
聞こえていたはずなのに、聞き返さなかった。
女神は、少しだけ苛立ったように顔を歪める。
「天津に認められる形があれば、諏訪は裂かれずに済む」
雨が屋根を叩く。
「誰も知らぬ古い恐れも、名を与えれば残せる」
火が揺れる。
「役目を置けば、人も祈れる」
女神の声は、少しずつ速くなる。
「祈れるなら、消えない。名があれば、呼べる。呼べるなら、そこにいられる」
男が静かに言った。
「お前がか」
女神が止まった。
火の音だけが聞こえる。
男は女神を見ていた。
責めている顔ではない。
ただ、見ていた。
女神は、ゆっくり目を伏せる。
「……諏訪がだ」
「そうか」
「そうだ」
「なら、そうなんだろう」
女神は男を睨んだ。
「信じていないな」
「分からない」
「また、それか」
「でも、お前がそう言い張るなら、今はそうなんだろう」
「言い張る?」
女神は笑った。
乾いた笑いだった。
「私は、言い張っているように見えるか」
「少し」
「無礼だな」
「いつものことだ」
女神は笑うのをやめた。
火に照らされた顔が、ひどく若く見えた。
神に若いも老いたもあるのか、丈には分からない。
ただ、その顔は、何かに必死にしがみつく者の顔だった。
男は火に薪を足した。
「その形に、名はいるのか」
「いる」
「お前の名か」
「……私のものではない」
「なら」
「私のものにする」
女神は言った。
雨が、さらに強くなった。
「天津の神話には、すでに型がある。武御雷に敗れ、諏訪へ至った神。敗れたが、諏訪に留まることを許された神」
「タケミナカタ」
男が言った。
女神が驚いたように見る。
「知っているのか」
「少しはな。旅人も来る。話も流れる」
女神は黙る。
男は続ける。
「その名を使うのか」
「使うのではない」
「じゃあ何だ」
「私が、そうなる」
火が大きく揺れた。
「私は、タケミナカタになる」
その言葉が、小屋の中に落ちた。
誰かが呼んだわけではない。
民が祀ったわけでもない。
女神が、自分で名を選んだ。
いや、選んだというより、傷口に別の皮を被せたようだった。
丈は喉が詰まる。
神奈子。
そう呼びたくなった。
でも、まだ違う。
これは、名を失った神が別の名へ手を伸ばす瞬間だ。
男は、女神を見ていた。
「それで、お前は残れるのか」
「残る」
「諏訪は」
「残す」
「洩矢は」
女神の目が細くなる。
「変わってもらう」
男は黙った。
雨が降る。
火が鳴る。
土の下で、何かが身をよじった気がした。
「それは、あの土地の神が許すのか」
「許さないだろう」
「なら」
「戦う」
女神の声は、静かだった。
静かすぎた。
「私は、諏訪を守るために、諏訪を譲る」
男は顔を歪めた。
「変な言い方だな」
「事実だ」
「誰に譲る」
「天津に認められる形へ」
「そのために、今いる神を退けるのか」
「必要なら」
男は、女神を見ていた。
女神も、目を逸らさなかった。
「殺すのか」
男が聞いた。
火が、一瞬だけ小さくなった。
女神は答えた。
「必要なら」
その言葉に、男は何も返さなかった。
ただ、雨の音だけが小屋を包んだ。
◇
翌朝、雨は上がっていた。
湖の上に霧が広がっている。
村の人々は、いつものように動き出していた。
昨日の雨で水路に葉が詰まったらしく、男たちが早くから集まっている。
子供は泥にはしゃぎ、女に怒鳴られている。
老人は石の前に座り、湿った縄を張り直している。
生きている土地。
生きている人々。
女神は、小屋の前でそれを見ていた。
男が隣に立つ。
「行くのか」
「行く」
「止めたら」
「止めるのか」
「止めても行くんだろ」
「そうだ」
「じゃあ、止めない」
女神は少しだけ男を見る。
「お前は、いつもそうだな」
「何が」
「止めるべき時に、止めない」
「止めてほしいのか」
「まさか」
「ならいい」
「よくない」
「どっちだ」
「……本当に面倒な男だ」
男は笑った。
女神は、湖の方を見る。
「この土地を、失いたくない」
初めて、彼女はそう言った。
誰に向けたのか分からない声だった。
男は、少しだけ目を細める。
「なら、壊すな」
「壊さないために、変える」
「変えれば、壊れるものもある」
「変えなければ、消えるものもある」
二人は黙った。
その沈黙は、夜の神奈子と諏訪子の問答に似ていた。
丈は、胸の奥が嫌に重くなる。
ここから始まったのか。
まだ神奈子ではない女神と、男の、この会話から。
女神は歩き出した。
男が言う。
「名を持つなら」
女神が振り返る。
「俺は、どう呼べばいい」
女神はしばらく黙った。
風が吹く。
湖の霧が流れる。
そして彼女は、少しだけ顔を上げた。
「タケミナカタ」
その名を口にした瞬間、彼女の周囲の空気が変わった。
名が、体に入る。
完全には馴染まない。
けれど、確かに形を与える。
名をなくした神が、新しい名をまとった。
丈は、その瞬間を見た。
痛々しかった。
力強かった。
そして、どこか寂しかった。
男は頷く。
「そうか」
女神は言った。
「呼ぶな」
「今聞いたのに?」
「まだ早い」
「面倒な神様だ」
「お前ほどではない」
女神は歩き出す。
男はその背を見送った。
霧が流れ、彼女の姿を少しずつ隠していく。
丈は後を追おうとした。
だが、足が動かない。
土の下から、蛇のようなものが丈の足首に絡んでいた。
痛くはない。
ただ、ここまでだ、と言われているようだった。
「待てよ」
丈は霧の向こうへ声をかける。
女神は振り返らない。
かわりに、土の奥から声ではない声が響いた。
まだ。
これはまだ、始まりだ。
◇
丈は目を覚ました。
布団の中だった。
天井が見える。
守矢神社の客間。
障子の向こうは、まだ暗い。
朝には早い。
胸が重い。
喉が乾いていた。
夢だった。
そう言える。
けれど、あれをただの夢とは思えなかった。
湖の霧。
火の匂い。
男の声。
名をなくした女神。
タケミナカタという名を選んだ瞬間。
男が日中通っていた、女神の入れない場所。
そこで泥だらけになって帰ってくる姿。
口にしない神の名。
話さない作法。
全部、まだ体の中に残っている。
丈は起き上がった。
隣の部屋から、早苗の寝息が聞こえる。
いつもの静かな寝息。
その普通さに、少しだけ安心した。
だが、安心しきれない。
神奈子は語らなかった。
諏訪子も語らなかった。
昨夜、二柱が見せたのは、出雲の相撲と、名前を変える神の話だった。
けれど、この夢は違う。
もっと生々しかった。
言わない方がいい。
丈は、すぐにそう思った。
少なくとも、早苗には言えない。
諏訪子にも言えない。
神奈子にも、たぶん言わない方がいい。
見てしまったこと自体が、誰かの机の引き出しを勝手に開けたみたいで気まずい。
丈は布団をかぶり直そうとした。
その時、障子の向こうで床が軋んだ。
風の気配がある。
神奈子だ。
丈は固まった。
『起きているの?』
声がした。
いつも通りの、落ち着いた声。
いや。
少し違う。
落ち着いているように整えている声だった。
「……起きた」
『そう』
神奈子はそこで黙った。
丈も黙る。
黙っていればいい。
何も言わなければいい。
夢を見たことなど、言う必要はない。
丈はそう思って、布団の端を掴んだ。
『眠れなかった?』
「寝た」
『夢は?』
「見てない」
即答してしまった。
しまった。
丈は自分の口を殴りたくなった。
障子の向こうで、神奈子の気配が止まる。
『……夢は、って聞いただけよ』
「だから見てない」
『私は、夢を見たかとは聞いたけれど、何かを隠しているかとは聞いていないわ』
「隠してない」
『何を?』
「……何も」
沈黙。
丈は目を閉じた。
終わった。
これはもう終わった。
障子の向こうで、神奈子が一歩近づいた。
床板が、かすかに鳴る。
『丈』
「何だよ」
『何を見たの』
「何も」
『何を見たの』
「だから」
『何を見たの』
同じ問いだった。
声は荒くない。
だが、いつもの神奈子ではなかった。
間が短い。
待たない。
答えを許さず、問いを重ねる。
丈は布団から顔だけ出した。
「……神奈子、怖いぞ」
『答えなさい』
「横暴だな」
『ええ、そうよ』
返事が早かった。
丈は少し驚く。
神奈子は、普段ならもっと言葉を整える。
今の彼女は、整える前に出ている。
焦っている。
珍しく。
かなり。
『どこから見たの』
「何を」
『夢』
「見てないって」
『丈』
声が低くなった。
丈は観念した。
「……霧」
障子の向こうが静まる。
「湖の近く」
さらに静まる。
「倒れてる女神」
風が止まった。
丈は、それ以上言うのをやめた。
けれど、神奈子はやめなかった。
『男は』
「いた」
『何をしたの』
「水を持ってきた」
長い沈黙。
神奈子の気配が、一瞬だけ遠くなったように感じた。
逃げたわけではない。
だが、心だけが遠くへ行ったような気配。
丈は布団の上で胡坐をかく。
「神奈子」
『他には』
遮られた。
丈は眉を寄せる。
『小屋は見た?』
「……見た」
『名の話は』
「少し」
『どこまで』
「名がないと呼べない、って」
神奈子の気配が揺れる。
『その後は』
「粥」
『それだけ?』
「あと、日中」
『日中?』
その声だけ、明らかに硬くなった。
丈はしまったと思った。
言わなければよかった。
だが、もう遅い。
「男が、洩矢の方へ行ってた」
障子の向こうで、神奈子が黙る。
「神奈子……いや、その女神は、そこへ行かなかった」
床板が、みし、と鳴った。
神奈子が立ち尽くした音かもしれない。
『何を聞いたの』
「男から?」
『ええ』
「水口とか、石とか、縄とか。祭りの支度とか」
『神の名は』
「聞いてない」
『本当に?』
「聞いてない」
『男は話した?』
「話さなかった」
『あなたは見た?』
「何を」
『奥を』
丈は首を振る。
神奈子には見えないだろうが、首を振った。
「見てない。男が行くところまで」
『……そう』
神奈子の声が、ほんの少し緩んだ。
だが、すぐにまた張り詰める。
『雨の夜は』
丈は黙った。
神奈子も黙る。
障子の向こうの気配が、今度は一歩も引かない。
『見たのね』
「少し」
『どこまで』
「天津の秩序がどうとか、土地が分けられるとか」
『その後』
「タケミナカタ」
言った瞬間、神奈子の気配が細く揺れた。
丈は続けなかった。
しかし神奈子は、まだ聞いた。
『私が、そう言った?』
「……言った」
『他には』
「諏訪を守るために、諏訪を譲るって」
沈黙。
重い沈黙だった。
丈は、喉が乾くのを感じた。
神奈子は、問いを重ねるくせに、自分のことは何も言わない。
どこまで見たか。
何を聞いたか。
誰がいたか。
どの言葉まで届いたか。
そればかりを確認する。
まるで、火事の跡で燃え残ったものを数えているみたいだった。
「神奈子」
『何』
「俺ばっか答えてないか」
返事はなかった。
「お前は何も言わないのかよ」
『今は』
「今は?」
『話せない』
「でも聞くのは聞くんだな」
『聞くわ』
はっきり言った。
丈は少し腹が立った。
「横暴」
『そうね』
「認めるのかよ」
『今は、取り繕う余裕がないの』
その声が、ひどく珍しかった。
焦っている。
隠している。
しかも、隠し方が下手になっている。
丈は知る由もないが、神奈子はそう遠くない未来、幻想郷へ行く。
そして行った先の彼女は、もっと強引に、もっと派手に、もっと破天荒に振る舞うようになる。
今、障子の向こうにいる神奈子には、その片鱗があった。
自分で流れを掴みに来る。
相手の返事を待たない。
必要なら、多少の礼儀も順番も踏み越える。
いつもの落ち着いた神奈子の下に、そういう強さがあった。
いや。
強さというより、焦りが形を取っている。
「そんなに知られたくなかったのか」
丈が言うと、神奈子は黙った。
長い沈黙。
そして。
『ええ』
短く答えた。
丈は何も言えなくなる。
『知られたくなかったわ』
障子の向こうの声は、低かった。
『少なくとも、今ではなかった』
「何で」
『それを聞くなら』
神奈子の声が少しだけ戻る。
いつもの、言葉を選ぶ声。
けれど、まだ端が荒い。
『責任を取れる?』
丈は顔をしかめた。
「なんだよ。それ」
『責任よ』
「責任って何だよ」
『知ったものを、知らなかったことにはできない。私を見る目が変わる。諏訪子を見る目も変わる。早苗にかける言葉も変わる』
「俺が何か言うと思ってるのか」
『言わなくても変わるわ』
「それは、まあ」
否定できなかった。
すでに変わっている。
神奈子を見る目は、もう少し変わっている。
名をなくして倒れていた女神。
水を出され、粥を食べ、男の帰りを待ち、洩矢の領域を見つめていた女神。
それを見てしまった。
今までと同じようには見られない。
『丈』
神奈子の声が、少し柔らかくなった。
『今朝は、ここで止めて』
「まだ何も聞いてない」
『だから止めて』
「ずるいな」
『ずるいわ』
「そこも認めるのかよ」
『取り繕う余裕がないと言ったでしょう』
丈はため息を吐いた。
怒りたいのに、怒りきれない。
神奈子がいつも通り偉そうに誤魔化していたら、もっと言えた。
でも、今の神奈子は違う。
質問ばかりしてくる。
焦っている。
横暴だ。
なのに、どこか傷口を押さえているようにも見える。
「……分かった」
丈は言った。
「今は聞かない」
神奈子の気配が、わずかに緩む。
「でも、忘れねぇぞ」
『忘れなくていいわ』
「あと、早苗には言わない」
『お願いするわ』
「諏訪子には?」
神奈子が、そこで少しだけ止まった。
『……言わないで』
「珍しいな」
『何が』
「神奈子が、お願いするの」
返事はなかった。
丈は、それ以上言わなかった。
障子の外が、少しずつ明るくなっている。
朝が近い。
隣の部屋で、早苗が寝返りを打った音がした。
丈と神奈子は同時に黙った。
まるで悪いことをしているみたいだった。
実際、少し悪いことをしている気分だった。
早苗には言えない話。
諏訪子にも言わないでほしい話。
神奈子が珍しく、子供相手に取り乱した朝。
『もう少し寝なさい』
神奈子が言った。
「寝られると思うか?」
『寝なさい』
「命令かよ」
『お願いよ』
「お願いに聞こえねぇ」
『じゃあ、命令でいいわ』
「開き直った」
『ええ』
丈は少し笑った。
笑うと、胸の重さがほんの少しだけ軽くなった。
「分かったよ」
布団に潜る。
目を閉じる。
障子の向こうで、神奈子の気配がしばらく動かなかった。
去るのかと思ったが、去らない。
ただ、そこにいた。
見張っているのか。
心配しているのか。
自分でも分からないのか。
丈には判断できなかった。
やがて、床板が静かに鳴る。
神奈子の気配が遠ざかる。
廊下に朝の冷たい空気だけが残った。
丈は布団の中で目を閉じたまま、小さく呟く。
「……神様って、面倒くせぇ」
返事はなかった。
けれど、遠くで風が一度だけ揺れた。
怒ったのか。
笑ったのか。
分からなかった。