第二話「神社の日常」
諏訪へ引っ越してきて、一週間。
丈はようやく、この土地の空気に少しずつ慣れ始めていた。
朝は寒い。
昼は妙に風が強い。
夕方になると山が赤く染まる。
夜は静かすぎて、逆に眠れない。
東京とは全部違った。
だが。
悪くはなかった。
「おはようございます!」
そして毎朝。
家の前には、必ず東風谷早苗がいた。
「……またいる」
「います!」
「なんでそんな元気なんだよ朝から……」
「健康だからです!」
「小学生の回答だなぁ……」
ランドセルを背負った早苗は、今日もやたら機嫌が良かった。
その理由を、丈はなんとなく理解している。
友達。
なのだろう。
たぶん。
早苗は、友達が少ない。
本人は隠しているつもりらしいが、わりとわかりやすかった。
学校でも浮いている。
授業中に平然と『神様がですね』とか言い始めるし、校庭の隅へ向かって一人で会話していたりする。
そりゃ変なやつ扱いもされる。
実際、クラスの男子連中も。
『東風谷また神様と喋ってるぞ』
『うわ、また始まった』
そんな風に笑っていた。
だが。
早苗本人は、あまり気にしていないようだった。
いや。
気にしていない、ように見せている。
たぶん本当は傷ついている。
でも。
神様を好きなことだけは、やめられない。
そんな感じだった。
「丈くん?」
「んー?」
「どうしました?」
「別に」
並んで歩く。
山道。
風。
鳥の声。
朝露の匂い。
最初は田舎だと思っていた景色も、最近は少しだけ好きになってきた。
「今日ですね、理科ありますよ!」
「へー」
「植物観察です!」
「お前、理科好きそうだな」
「好きですよ?」
早苗は胸を張った。
「科学ってすごいじゃないですか!」
「おぉ?」
「神様の奇跡を、人間が真似し始めてるんですよ!」
「発想がいちいち神なんだよな……」
「だって本当ですし」
そう言って笑う。
丈は少しだけ意外だった。
もっと、神様信仰一辺倒なやつかと思っていた。
だが早苗は、テレビも好きだし、漫画も読むし、ゲームセンターにもちょっと憧れている。
その上で。
神様も本気で信じている。
なんというか。
全部同じ場所にあるのだ。
現代も。
神話も。
科学も。
全部。
東風谷早苗の中では、普通に繋がっている。
◇
「丈くーん!」
「ん?」
最初の頃。
丈は、東風谷早苗という少女をよくわからないやつだと思っていた。
実際、今でも半分くらいはそう思っている。
変なことを言う。
変なところで真面目。
変なものを信じている。
しかも、それを恥ずかしいと思っていない。
普通、小学生くらいになると、人は周囲に合わせ始める。
浮かないように。
笑われないように。
変だと思われないように。
だが。
早苗には、それが薄かった。
いや。
ないわけではない。
たぶん。
本当は周囲と仲良くしたい。
みんなと笑いたい。
普通に遊びたい。
でも。
それ以上に。
神様が好きなのだ。
だから隠せない。
結果、浮く。
そしてまた、神様のところへ戻っていく。
そんな循環だった。
「丈くん!」
「うおっ」
背中を叩かれる。
振り向くと、早苗が立っていた。
「何ぼーっとしてるんですか?」
「別に」
「授業始まりますよ?」
「お前が起こしに来なかったら寝てたわ」
「ちゃんとしてください!」
ぷんすか怒っている。
だが。
どこか嬉しそうでもあった。
たぶん。
こういう他愛ないやり取り自体が、早苗にとって珍しいのだ。
◇
理科の授業。
校庭で植物観察をしていた。
「ではー、班ごとに分かれてくださーい」
先生の声。
ぞろぞろと動き出す生徒たち。
その中で。
ほんの少しだけ。
早苗が立ち止まった。
班が余ったのだ。
「あー……東風谷、そっち入れてもらえ」
「えっ」
男子グループが露骨に嫌そうな顔をする。
「いや、人数多いし……」
「でも他もいっぱいだぞー」
微妙な空気。
丈はそのやり取りを見ながら、小さく息を吐いた。
「じゃあこっち来いよ」
「え?」
早苗が目を丸くする。
「どうせ二人だし」
「……いいんですか?」
「別に困んねぇし」
すると。
早苗は、ぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございます!」
「声でけぇ」
周囲から、少しだけ視線を感じた。
だが丈は気にしなかった。
むしろ。
なんとなく気に入らなかったのだ。
あからさまに避けられている感じが。
「丈くん、優しいですね」
「普通だろ」
「普通じゃないですよ」
「そうか?」
「はい」
早苗は、本気でそう言っている顔だった。
丈は少しだけ居心地が悪くなった。
◇
「で、これは?」
「オオイヌノフグリです!」
「名前ひどくね?」
「でも可愛いですよ?」
しゃがみ込みながら、早苗が花を指差す。
青い、小さな花。
丈は適当にスケッチしながら、ちらりと早苗を見た。
授業中の早苗は、妙に生き生きしていた。
植物の名前。
山の話。
季節の風。
鳥。
虫。
神社育ちだからなのか、やたら詳しい。
「なんでそんな知ってんだよ」
「神社って自然いっぱいですから!」
「それで覚えるもんなのか……?」
「あと神奈子様が教えてくれました!」
「急に信用なくなるんだよなその情報源」
「本当ですってば!」
だが。
その時だった。
風が吹く。
ざぁっ、と。
校庭脇の木々が大きく揺れた。
そして。
ぽとり、と。
丈のノートへ葉っぱが落ちる。
「……?」
それは。
妙に綺麗な紅葉だった。
季節外れの。
「え?」
早苗も目を丸くする。
「なんで……」
今は春。
紅葉の時期ではない。
その時。
耳元で。
『あげる』
少女の声。
「っ!?」
丈が勢いよく振り返る。
誰もいない。
だが。
校舎の窓。
一瞬だけ。
帽子の少女が、こちらを見て笑っていた。
「……またいた」
「え?」
「いや……」
早苗は紅葉を見つめていた。
そして。
小さく呟く。
「諏訪子様……?」
「誰だよその諏訪子って」
「守矢神社の神様です」
「二柱いるのかよ」
「いますよ?」
「多いなぁ……」
頭を抱えたくなった。
だが。
最近。
本当に。
“何か”が増えている。
見える。
聞こえる。
気配を感じる。
しかも。
それが、早苗と関わるほど強くなっている気がした。
◇
昼休み。
校庭でサッカーをしていた丈へ、早苗が駆け寄ってくる。
「今日、神社来ますか?」
「また?」
「またです!」
「お前ほんと毎日誘うな……」
「嫌ですか?」
「いや、別に」
「じゃあ来てください!」
強引だった。
だが。
不思議と嫌ではない。
「……今日は何すんだよ」
「神楽の練習です!」
「神楽?」
「見ます?」
「面白いの?」
「たぶん!」
「雑だなぁ……」
その時だった。
「東風谷ー!」
クラスの男子が声を上げた。
「また神社かよー!」
「神様と遊ぶのかー?」
げらげら笑う。
悪意は薄い。
だが。
慣れている感じの笑いだった。
早苗は一瞬だけ、表情を止めた。
ほんの少し。
本当に少しだけ。
傷ついた顔をした。
でも次の瞬間には、いつもの笑顔へ戻る。
「そうですよ!」
「うわ出た!」
「神様いるんだろー?」
「いますよ?」
「見えねーし!」
「見えますってば!」
また笑い声。
丈は、その様子を黙って見ていた。
そして。
「別にいてもいいだろ」
ぽつり、と。
そう言った。
一瞬。
空気が止まる。
「……は?」
「だから、別に神様くらいいてもよくね?」
男子たちはぽかんとしていた。
丈自身、別に神を信じているわけではない。
でも。
早苗が笑われる理由も、なんとなく気に入らなかった。
「いやでも東風谷変じゃん」
「変だけど」
「認めるのかよ!」
「でも別に迷惑かけてねぇだろ」
「……まぁ」
「ならいいじゃん」
男子たちは顔を見合わせた。
やがて。
「まぁいいけどさぁ」
そんな曖昧な返事を残して、サッカーへ戻っていく。
その背中を見送りながら、丈は頭を掻いた。
「……なんか疲れるな」
すると。
隣から、小さな声。
「……ありがとうございます」
振り向く。
早苗が、少しだけ俯いていた。
「別に」
「でも、庇ってくれました」
「庇うっていうか……」
うまく言葉にならない。
ただ。
早苗が本気なのは、もう知っていた。
嘘でも。
ふざけでも。
かっこつけでもない。
だから。
笑う気にはなれなかった。
「お前、神様好きなんだろ」
「はい」
「なら別にいいんじゃねぇの」
その瞬間。
早苗は、少しだけ泣きそうな顔をした。
だがすぐに笑う。
「……丈くんって、変ですね」
「お前に言われたくねぇよ」
二人で少し笑った。
その時。
風が吹く。
ざぁっ、と。
校庭の木々が揺れた。
そして丈には。
一瞬だけ。
校舎の屋上に、小さな影が見えた。
帽子。
笑っている。
『へぇ』
声。
『優しいじゃん』
「っ!?」
「丈くん?」
「……いや」
最近。
本当に。
変なものが見える。
◇
丈は、自分がそこまで社交的な人間だとは思っていなかった。
別に一人が嫌いなわけじゃない。
誰かと群れるのも嫌いではない。
ただ。
面倒臭いのだ。
人間関係というもの全般が。
だから、東京にいた頃も、特別仲の良い友達というのはいなかった。
クラスメイト。
遊び相手。
そのくらい。
けれど。
東風谷早苗という少女は、妙に放っておけなかった。
最初は、変なやつだと思った。
今でも変なやつだと思っている。
だが。
たぶん。
こいつは、嘘をつけない。
それがわかってしまった。
だから。
笑われても。
浮いても。
変人扱いされても。
神様が好きだと言い続ける。
その不器用さが。
少しだけ。
見ていて痛かった。
昼休み。
教室。
騒がしい声。
男子たちの笑い声。
女子たちの小さなグループ。
そんな中で。
早苗は、自分の机で一人、何かを書いていた。
近くへ行く。
「何してんだ?」
「えっ?」
早苗が顔を上げる。
「わっ、丈くん」
「そんな驚くなよ」
「急に来るからです!」
机を覗き込む。
そこには、妙な絵が描かれていた。
丸。
蛇。
目玉みたいな模様。
「なんだこれ」
「ミシャグジ様です!」
「読めねぇ」
「ミジャグジ様!」
「なんなんだそれ」
すると。
早苗は少しだけ嬉しそうな顔をした。
好きな話題になった時の顔だ。
「昔から諏訪にいる神様ですよ!」
「また神か……」
「すごいんですよ? 蛇だったり、石だったり、風だったり、人によって見え方違うんです!」
「怖っ」
「でも土地を守ってくれる神様なんです!」
熱弁している。
周囲のクラスメイトたちは、そんな早苗をちらちら見ていた。
半分は呆れ。
半分は距離感。
だが。
丈は少しだけ思った。
早苗は。
こうやって話している時だけ、妙に楽しそうだ。
たぶん。
学校で、神様の話をちゃんと聞いてくれる相手が少ないのだろう。
「丈くん、信じます?」
「何を」
「ミジャグジ様!」
「いやぁ……」
正直、わからない。
でも。
最近。
見えている。
聞こえている。
感じている。
それを全部否定できるほど、もう現実的でもいられなかった。
「……いるかもしれねぇな」
その返事を聞いた瞬間。
早苗の顔が、本当に嬉しそうになった。
「ですよね!?」
「いや、まだ半信半疑だけど」
「半分でも大進歩です!」
「お前、基準低いな……」
だが。
その時だった。
教室の窓が、からん、と鳴る。
風。
春の風が吹き込んできた。
そして。
丈には見えた。
窓の外。
校庭の木の上。
小さな影。
帽子。
ぶらぶら揺れる足。
にやにや笑う顔。
『聞こえてるよー』
「っ!?」
丈が勢いよく振り返る。
だが。
次の瞬間には、もう何もいない。
「丈くん?」
「……またいた」
早苗の顔が真剣になる。
「諏訪子様ですか?」
「たぶん帽子のやつ」
「諏訪子様ですね」
「確定なのかよ……」
頭が痛くなってきた。
だが。
早苗は少しだけ興奮していた。
「すごいです……」
「何が」
「普通、こんなにはっきり干渉してきませんよ?」
「嫌なんだけどそれ」
「私はちょっと羨ましいです」
「なんでだよ」
「諏訪子様、人見知りなんです」
「神が?」
「神がです」
もうツッコむのも疲れてきた。
◇
掃除当番。
丈と早苗は、なぜか同じ班だった。
「窓側お願いします!」
「はいはい」
雑巾を持って窓を拭く。
春の日差し。
柔らかい光。
外では野球をしている声が聞こえる。
平和だった。
その時。
「東風谷ってさ」
同じ掃除班の女子が、何気なく聞いた。
「本当に神様見えるの?」
一瞬。
空気が止まる。
丈は手を止めた。
早苗は。
少しだけ迷ってから。
「……見えますよ?」
そう答えた。
「へぇー」
女子たちは顔を見合わせる。
「どんな感じなの?」
「えっと……」
早苗は少し考えた。
「普通にいます」
「いやわかんないって」
「あっ、でも人によって違います!」
「ふーん……」
興味半分。
からかい半分。
そんな空気だった。
だが。
早苗は真面目に答えている。
嘘をつけないからだ。
「怖くないの?」
「怖い神様もいますけど、優しい神様もいますよ?」
「へぇー」
女子の一人が笑った。
「東風谷さんってさ、ほんと変わってるよね」
悪意は薄い。
でも。
その言葉に。
早苗はほんの少しだけ、寂しそうに笑った。
「……よく言われます」
その顔を見て。
丈は、少しだけ胸がむず痒くなった。
別にいじめられているわけじゃない。
でも。
理解されていない。
それだけで、人は孤独になる。
早苗は、たぶんずっとそうだった。
神様が好き。
見える。
感じる。
その感覚を、誰とも共有できない。
だから。
いつも少しだけ、周囲から浮いている。
そして。
それを受け入れてしまっている。
その感じが。
妙に。
胸へ引っかかった。
◇
放課後。
守矢神社。
「おぉー……」
丈は思わず声を漏らした。
神楽殿。
夕陽。
そして。
舞う早苗。
白い装束。
鈴の音。
風。
小学生とは思えないほど、動きが綺麗だった。
いや。
綺麗というより。
妙に“慣れている”。
まるで。
誰かに見せるためではなく。
ずっと昔から、当たり前に踊ってきたみたいに。
鈴が鳴る。
しゃん。
しゃん。
その音が、境内へ静かに響いていく。
そして。
その瞬間だった。
空気が変わった。
「……っ」
丈は息を呑む。
風が止まる。
鳥の声も消える。
世界が、一瞬だけ静止したみたいだった。
そして。
“いる”。
何か。
大きなものが。
見えない。
でも。
確かに。
そこにいた。
「――よしっ」
神楽を終えた早苗が、ぱっとこちらを見る。
「どうでした!?」
「……すげぇな」
「え?」
「なんか、本当に神様来そうだった」
その瞬間。
早苗は完全に固まった。
「……来てましたよ?」
「は?」
「え?」
沈黙。
「……マジ?」
「はい」
「どこに」
「そこに」
早苗が、神楽殿の後ろを指差す。
だが。
丈には何も見えない。
ただ。
そこには、妙な気配だけが残っていた。
「……いたのか」
「いました」
早苗はどこか嬉しそうだった。
「神奈子様、すごく興味持ってました」
「俺に?」
「はい!」
「なんで……」
「わかりません!」
「おい」
だが。
その時。
ふわり、と。
風が吹いた。
丈の髪を撫でる。
そして。
耳元で。
『似てる』
女の声がした。
「っ!?」
丈が勢いよく振り返る。
だが。
そこには夕暮れしかなかった。
「丈くん?」
「……また声した」
その瞬間。
早苗の顔から笑みが消えた。
「……本当に?」
「おう」
「なんて?」
「似てる、って」
早苗は黙った。
そして。
ゆっくり御柱を見る。
風が吹く。
山が鳴る。
どこか遠くで、誰かが笑っている気がした。
「……丈くん」
「ん?」
「たぶんですけど」
「おう」
「かなり気に入られてます」
「嫌だよ」
「私も最初そう思いました」
「最初?」
「慣れます!」
「慣れたくねぇ……」
そう言いながらも。
丈は、少しだけ笑っていた。
怖い。
でも。
どこか嫌ではない。
守矢神社は、そんな場所だった。
◇
放課後の守矢神社は、昼間とはまた違う顔をしていた。
夕陽が山へ沈み始める時間。
境内全体が、赤く染まっている。
長い石段。
風に揺れる注連縄。
巨大な御柱。
どこか古い木の匂い。
町から少し離れているせいか、人の気配も少ない。
静かだった。
けれど。
ただ静かなだけではない。
見えない何かが、ずっとそこにいる。
そんな空気があった。
丈は最近、その感覚に少しずつ慣れ始めていた。
「丈くん、こっちです!」
「おう」
先を歩く早苗の後ろを追いながら、境内を進む。
白いスニーカー。
緑色の髪。
夕陽を受けると、その色は少しだけ柔らかく見えた。
学校にいる時より。
神社にいる時の早苗の方が、自然だった。
いや。
安心している、のかもしれない。
学校では、どこか気を張っている。
笑われても平気な顔をして。
変わり者扱いされても気にしていないふりをして。
でも。
神社に戻ると、表情が少し幼くなる。
好きな場所へ帰ってきた子供の顔になる。
「今日はですね、境内案内します!」
「前もしてなかったか?」
「今日はもっと細かくです!」
「そんな見るとこあるのか……?」
「あります!」
やたら自信満々だった。
まず案内されたのは、小さな祠だった。
境内の隅。
杉の木の影に隠れるように置かれた、小さな石の社。
苔が生えている。
かなり古い。
「これは?」
「摂社です!」
「せっしゃ?」
「本殿とは別の神様を祀る場所ですね!」
早苗は、説明している時だけ妙に先生っぽくなる。
「ここには何いるんだ?」
「土地神様だったと思います!」
「思います?」
「昔すぎて曖昧なんです!」
「雑だなぁ……」
だが。
丈は、祠を見た瞬間に少しだけ背筋が寒くなった。
いる。
何か。
見えない。
でも。
確かに。
そこに。
「……なんかいる気がする」
ぽつり、と。
そう呟いた瞬間。
早苗の顔が変わった。
「え?」
「いや、なんとなく」
「……本当に?」
その声は、少しだけ震えていた。
「なんだよ」
「丈くん、それ結構すごいです」
「そうなのか?」
「普通は何も感じませんよ?」
そう言いながら、早苗は祠へ向き直る。
そして。
ぺこり、と小さく頭を下げた。
「こんにちは。お邪魔してます」
まるで。
本当に誰かへ挨拶するみたいだった。
丈はその様子を見ながら、妙な気分になる。
変なやつだ。
でも。
馬鹿にできない。
たぶん。
早苗には本当に見えている。
それが、最近少しずつわかってきていた。
風が吹く。
杉の葉が揺れる。
そして。
からん。
小さく鈴が鳴った。
「っ!?」
丈が目を見開く。
風は吹いていない。
なのに。
祠の鈴だけが揺れていた。
「……あ」
早苗が小さく笑う。
「挨拶返してくれました」
「いやいやいや」
「歓迎されてますね」
「怖ぇよ!」
だが。
早苗は少し嬉しそうだった。
まるで。
自分の大切なものを認めてもらえたみたいに。
その顔を見て。
丈は、少しだけ言葉に詰まった。
◇
境内の裏手。
山道へ続く小道。
夕暮れの光が木々の隙間から差し込んでいた。
「ここ、夜になると結構怖いですよ」
「お前は平気なのか」
「慣れてます!」
「強ぇな……」
実際。
丈は少し怖かった。
暗い山。
人気のない道。
風で揺れる木々。
だが。
それ以上に。
この場所には、“何か”がいる。
そんな感覚が強かった。
都会にはなかった空気。
見えないものが、すぐ近くにいる感じ。
「昔ですね、この辺で天狗見たって話あるんですよ!」
「また始まった」
「本当ですってば!」
「お前の本当は信用ならねぇ」
「失礼ですね!?」
早苗は頬を膨らませる。
その表情が、少し子供っぽくて。
丈は思わず笑った。
「な、なんですか」
「いや別に」
「笑いましたね?」
「お前、そういう顔すんだなって」
「どういう意味ですかそれ!」
怒っている。
だが。
本気で怒っているわけではない。
その空気が、なんとなく心地よかった。
丈は最近、神社へ来るのが嫌ではなくなっていた。
理由はわからない。
神様なんて、まだよくわからない。
変な気配も怖い。
でも。
早苗といる時間は、妙に落ち着いた。
その時だった。
ざわり。
風が吹く。
木々が一斉に揺れた。
同時に。
ぞわり、と。
背筋へ寒気が走る。
「……丈くん?」
早苗の声も、少し緊張していた。
山の奥。
暗くなり始めた木々の間。
誰かいる。
いや。
“何か”。
丈は息を呑んだ。
見えない。
だが。
視線だけは、はっきり感じる。
じっと。
こちらを見ている。
「……帰りましょうか」
早苗が、小さく言った。
「お、おう」
いつもの明るい声ではなかった。
その瞬間。
丈は理解する。
早苗だって。
全部平気なわけじゃない。
神様が好きでも。
見えないものが怖くないわけではないのだ。
ただ。
怖くても向き合っている。
それだけなのだ。
山道を戻る。
夕暮れが濃くなる。
そして。
境内へ戻った瞬間。
さっきまでの重苦しい気配が、嘘みたいに消えた。
「……なんだったんだ今の」
「たぶん、山のものです」
「雑!」
「でも悪い感じではなかったですよ?」
「そうなのか?」
「はい」
早苗は少し考える。
そして。
「……見に来たのかもしれません」
「何を」
「丈くんを」
「なんでだよ……」
本当に。
最近。
妙なものに絡まれている気がした。
◇
夕暮れ。
帰り道。
「ねぇ丈くん」
「んー?」
「明日も来ますか?」
「毎日誘うな、お前」
「嫌ですか?」
「……別に」
「やった!」
本当に嬉しそうだった。
その笑顔を見て。
丈はなんとなく思った。
たぶん。
こいつ。
ずっと、一人だったのかもしれない。
神様はいる。
でも。
それを理解してくれる人間は、ほとんどいない。
だから。
丈が『笑わなかった』ことが、きっと。
早苗には、すごく嬉しかったのだ。
山の向こうへ、夕陽が沈んでいく。
風が吹く。
その風の中で。
丈は一瞬だけ。
誰かの笑い声を聞いた気がした。
子供みたいな。
でも。
どこか古い声。
『今度はどうなるかなぁ』
その囁きは。
春の風の中に解けるように、静かに消えていった。