現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第二話「神社の日常」

第二話「神社の日常」

 

 諏訪へ引っ越してきて、一週間。

 丈はようやく、この土地の空気に少しずつ慣れ始めていた。

 

 朝は寒い。

 昼は妙に風が強い。

 夕方になると山が赤く染まる。

 夜は静かすぎて、逆に眠れない。

 東京とは全部違った。

 

 だが。

 悪くはなかった。

 

「おはようございます!」

 

 そして毎朝。

 家の前には、必ず東風谷早苗がいた。

 

「……またいる」

 

「います!」

 

「なんでそんな元気なんだよ朝から……」

 

「健康だからです!」

 

「小学生の回答だなぁ……」

 

 ランドセルを背負った早苗は、今日もやたら機嫌が良かった。

 その理由を、丈はなんとなく理解している。

 友達。

 なのだろう。

 たぶん。

 

 早苗は、友達が少ない。

 本人は隠しているつもりらしいが、わりとわかりやすかった。

 学校でも浮いている。

 

 授業中に平然と『神様がですね』とか言い始めるし、校庭の隅へ向かって一人で会話していたりする。

 そりゃ変なやつ扱いもされる。

 実際、クラスの男子連中も。

 

『東風谷また神様と喋ってるぞ』

 

『うわ、また始まった』

 

 そんな風に笑っていた。

 

 だが。

 早苗本人は、あまり気にしていないようだった。

 いや。

 気にしていない、ように見せている。

 たぶん本当は傷ついている。

 

 でも。

 神様を好きなことだけは、やめられない。

 そんな感じだった。

 

「丈くん?」

 

「んー?」

 

「どうしました?」

 

「別に」

 

 並んで歩く。

 山道。

 風。

 鳥の声。

 朝露の匂い。

 最初は田舎だと思っていた景色も、最近は少しだけ好きになってきた。

 

「今日ですね、理科ありますよ!」

 

「へー」

 

「植物観察です!」

 

「お前、理科好きそうだな」

 

「好きですよ?」

 

 早苗は胸を張った。

 

「科学ってすごいじゃないですか!」

 

「おぉ?」

 

「神様の奇跡を、人間が真似し始めてるんですよ!」

 

「発想がいちいち神なんだよな……」

 

「だって本当ですし」

 

 そう言って笑う。

 丈は少しだけ意外だった。

 もっと、神様信仰一辺倒なやつかと思っていた。

 だが早苗は、テレビも好きだし、漫画も読むし、ゲームセンターにもちょっと憧れている。

 

 その上で。

 神様も本気で信じている。

 なんというか。

 全部同じ場所にあるのだ。

 現代も。

 神話も。

 科学も。

 全部。

 

 東風谷早苗の中では、普通に繋がっている。

 

  ◇

 

「丈くーん!」

 

「ん?」

 

 最初の頃。

 丈は、東風谷早苗という少女をよくわからないやつだと思っていた。

 実際、今でも半分くらいはそう思っている。

 変なことを言う。

 変なところで真面目。

 変なものを信じている。

 しかも、それを恥ずかしいと思っていない。

 

 普通、小学生くらいになると、人は周囲に合わせ始める。

 浮かないように。

 笑われないように。

 変だと思われないように。

 

 だが。

 早苗には、それが薄かった。

 いや。

 ないわけではない。

 たぶん。

 

 本当は周囲と仲良くしたい。

 みんなと笑いたい。

 普通に遊びたい。

 

 でも。

 それ以上に。

 神様が好きなのだ。

 だから隠せない。

 結果、浮く。

 そしてまた、神様のところへ戻っていく。

 そんな循環だった。

 

「丈くん!」

 

「うおっ」

 

 背中を叩かれる。

 振り向くと、早苗が立っていた。

 

「何ぼーっとしてるんですか?」

 

「別に」

 

「授業始まりますよ?」

 

「お前が起こしに来なかったら寝てたわ」

 

「ちゃんとしてください!」

 

 ぷんすか怒っている。

 

 だが。

 どこか嬉しそうでもあった。

 たぶん。

 こういう他愛ないやり取り自体が、早苗にとって珍しいのだ。

 

  ◇

 

 理科の授業。

 校庭で植物観察をしていた。

 

「ではー、班ごとに分かれてくださーい」

 

 先生の声。

 ぞろぞろと動き出す生徒たち。

 その中で。

 ほんの少しだけ。

 早苗が立ち止まった。

 班が余ったのだ。

 

「あー……東風谷、そっち入れてもらえ」

 

「えっ」

 

 男子グループが露骨に嫌そうな顔をする。

 

「いや、人数多いし……」

 

「でも他もいっぱいだぞー」

 

 微妙な空気。

 丈はそのやり取りを見ながら、小さく息を吐いた。

 

「じゃあこっち来いよ」

 

「え?」

 

 早苗が目を丸くする。

 

「どうせ二人だし」

 

「……いいんですか?」

 

「別に困んねぇし」

 

 すると。

 早苗は、ぱっと顔を明るくした。

 

「ありがとうございます!」

 

「声でけぇ」

 

 周囲から、少しだけ視線を感じた。

 だが丈は気にしなかった。

 むしろ。

 なんとなく気に入らなかったのだ。

 あからさまに避けられている感じが。

 

「丈くん、優しいですね」

 

「普通だろ」

 

「普通じゃないですよ」

 

「そうか?」

 

「はい」

 

 早苗は、本気でそう言っている顔だった。

 丈は少しだけ居心地が悪くなった。

 

  ◇

 

「で、これは?」

 

「オオイヌノフグリです!」

 

「名前ひどくね?」

 

「でも可愛いですよ?」

 

 しゃがみ込みながら、早苗が花を指差す。

 青い、小さな花。

 丈は適当にスケッチしながら、ちらりと早苗を見た。

 授業中の早苗は、妙に生き生きしていた。

 

 植物の名前。

 山の話。

 季節の風。

 鳥。

 虫。

 神社育ちだからなのか、やたら詳しい。

 

「なんでそんな知ってんだよ」

 

「神社って自然いっぱいですから!」

 

「それで覚えるもんなのか……?」

 

「あと神奈子様が教えてくれました!」

 

「急に信用なくなるんだよなその情報源」

 

「本当ですってば!」

 

 だが。

 その時だった。

 

 風が吹く。

 ざぁっ、と。

 校庭脇の木々が大きく揺れた。

 

 そして。

 ぽとり、と。

 丈のノートへ葉っぱが落ちる。

 

「……?」

 

 それは。

 妙に綺麗な紅葉だった。

 季節外れの。

 

「え?」

 

 早苗も目を丸くする。

 

「なんで……」

 

 今は春。

 紅葉の時期ではない。

 その時。

 耳元で。

 

『あげる』

 

 少女の声。

 

「っ!?」

 

 丈が勢いよく振り返る。

 誰もいない。

 

 だが。

 校舎の窓。

 一瞬だけ。

 帽子の少女が、こちらを見て笑っていた。

 

「……またいた」

 

「え?」

 

「いや……」

 

 早苗は紅葉を見つめていた。

 そして。

 小さく呟く。

 

「諏訪子様……?」

 

「誰だよその諏訪子って」

 

「守矢神社の神様です」

 

「二柱いるのかよ」

 

「いますよ?」

 

「多いなぁ……」

 

 頭を抱えたくなった。

 

 だが。

 最近。

 本当に。

 “何か”が増えている。

 見える。

 聞こえる。

 気配を感じる。

 

 しかも。

 それが、早苗と関わるほど強くなっている気がした。

 

  ◇

 

 昼休み。

 

 校庭でサッカーをしていた丈へ、早苗が駆け寄ってくる。

 

「今日、神社来ますか?」

 

「また?」

 

「またです!」

 

「お前ほんと毎日誘うな……」

 

「嫌ですか?」

 

「いや、別に」

 

「じゃあ来てください!」

 

 強引だった。

 

 だが。

 不思議と嫌ではない。

 

「……今日は何すんだよ」

 

「神楽の練習です!」

 

「神楽?」

 

「見ます?」

 

「面白いの?」

 

「たぶん!」

 

「雑だなぁ……」

 

 その時だった。

 

「東風谷ー!」

 

 クラスの男子が声を上げた。

 

「また神社かよー!」

 

「神様と遊ぶのかー?」

 

 げらげら笑う。

 悪意は薄い。

 

 だが。

 慣れている感じの笑いだった。

 早苗は一瞬だけ、表情を止めた。

 

 ほんの少し。

 本当に少しだけ。

 傷ついた顔をした。

 

 でも次の瞬間には、いつもの笑顔へ戻る。

 

「そうですよ!」

 

「うわ出た!」

 

「神様いるんだろー?」

 

「いますよ?」

 

「見えねーし!」

 

「見えますってば!」

 

 また笑い声。

 丈は、その様子を黙って見ていた。

 

 そして。

 

「別にいてもいいだろ」

 

 ぽつり、と。

 そう言った。

 

 一瞬。

 

 空気が止まる。

 

「……は?」

 

「だから、別に神様くらいいてもよくね?」

 

 男子たちはぽかんとしていた。

 丈自身、別に神を信じているわけではない。

 

 でも。

 早苗が笑われる理由も、なんとなく気に入らなかった。

 

「いやでも東風谷変じゃん」

 

「変だけど」

 

「認めるのかよ!」

 

「でも別に迷惑かけてねぇだろ」

 

「……まぁ」

 

「ならいいじゃん」

 

 男子たちは顔を見合わせた。

 やがて。

 

「まぁいいけどさぁ」

 

 そんな曖昧な返事を残して、サッカーへ戻っていく。

 その背中を見送りながら、丈は頭を掻いた。

 

「……なんか疲れるな」

 

 すると。

 隣から、小さな声。

 

「……ありがとうございます」

 

 振り向く。

 早苗が、少しだけ俯いていた。

 

「別に」

 

「でも、庇ってくれました」

 

「庇うっていうか……」

 

 うまく言葉にならない。

 

 ただ。

 早苗が本気なのは、もう知っていた。

 

 嘘でも。

 ふざけでも。

 かっこつけでもない。

 だから。

 笑う気にはなれなかった。

 

「お前、神様好きなんだろ」

 

「はい」

 

「なら別にいいんじゃねぇの」

 

 その瞬間。

 早苗は、少しだけ泣きそうな顔をした。

 

 だがすぐに笑う。

 

「……丈くんって、変ですね」

 

「お前に言われたくねぇよ」

 

 二人で少し笑った。

 

 その時。

 風が吹く。

 ざぁっ、と。

 校庭の木々が揺れた。

 

 そして丈には。

 一瞬だけ。

 校舎の屋上に、小さな影が見えた。

 

 帽子。

 笑っている。

 

『へぇ』

 

 声。

 

『優しいじゃん』

 

「っ!?」

 

「丈くん?」

 

「……いや」

 

 最近。

 本当に。

 変なものが見える。

 

  ◇

 

 丈は、自分がそこまで社交的な人間だとは思っていなかった。

 別に一人が嫌いなわけじゃない。

 誰かと群れるのも嫌いではない。

 

 ただ。

 面倒臭いのだ。

 人間関係というもの全般が。

 

 だから、東京にいた頃も、特別仲の良い友達というのはいなかった。

 クラスメイト。

 遊び相手。

 そのくらい。

 

 けれど。

 東風谷早苗という少女は、妙に放っておけなかった。

 最初は、変なやつだと思った。

 今でも変なやつだと思っている。

 

 だが。

 たぶん。

 こいつは、嘘をつけない。

 

 それがわかってしまった。

 

 だから。

 笑われても。

 浮いても。

 変人扱いされても。

 神様が好きだと言い続ける。

 その不器用さが。

 少しだけ。

 見ていて痛かった。

 

 昼休み。

 教室。

 

 騒がしい声。

 男子たちの笑い声。

 女子たちの小さなグループ。

 そんな中で。

 早苗は、自分の机で一人、何かを書いていた。

 近くへ行く。

 

「何してんだ?」

 

「えっ?」

 

 早苗が顔を上げる。

 

「わっ、丈くん」

 

「そんな驚くなよ」

 

「急に来るからです!」

 

 机を覗き込む。

 そこには、妙な絵が描かれていた。

 

 丸。

 

 蛇。

 

 目玉みたいな模様。

 

「なんだこれ」

 

「ミシャグジ様です!」

 

「読めねぇ」

 

「ミジャグジ様!」

 

「なんなんだそれ」

 

 すると。

 早苗は少しだけ嬉しそうな顔をした。

 好きな話題になった時の顔だ。

 

「昔から諏訪にいる神様ですよ!」

 

「また神か……」

 

「すごいんですよ? 蛇だったり、石だったり、風だったり、人によって見え方違うんです!」

 

「怖っ」

 

「でも土地を守ってくれる神様なんです!」

 

 熱弁している。

 周囲のクラスメイトたちは、そんな早苗をちらちら見ていた。

 

 半分は呆れ。

 

 半分は距離感。

 

 だが。

 丈は少しだけ思った。

 早苗は。

 こうやって話している時だけ、妙に楽しそうだ。

 たぶん。

 学校で、神様の話をちゃんと聞いてくれる相手が少ないのだろう。

 

「丈くん、信じます?」

 

「何を」

 

「ミジャグジ様!」

 

「いやぁ……」

 

 正直、わからない。

 

 でも。

 最近。

 見えている。

 聞こえている。

 感じている。

 それを全部否定できるほど、もう現実的でもいられなかった。

 

「……いるかもしれねぇな」

 

 その返事を聞いた瞬間。

 早苗の顔が、本当に嬉しそうになった。

 

「ですよね!?」

 

「いや、まだ半信半疑だけど」

 

「半分でも大進歩です!」

 

「お前、基準低いな……」

 

 だが。

 その時だった。

 

 教室の窓が、からん、と鳴る。

 風。

 春の風が吹き込んできた。

 

 そして。

 丈には見えた。

 窓の外。

 校庭の木の上。

 

 小さな影。

 帽子。

 ぶらぶら揺れる足。

 にやにや笑う顔。

 

『聞こえてるよー』

 

「っ!?」

 

 丈が勢いよく振り返る。

 だが。

 次の瞬間には、もう何もいない。

 

「丈くん?」

 

「……またいた」

 

 早苗の顔が真剣になる。

 

「諏訪子様ですか?」

 

「たぶん帽子のやつ」

 

「諏訪子様ですね」

 

「確定なのかよ……」

 

 頭が痛くなってきた。

 

 だが。

 早苗は少しだけ興奮していた。

 

「すごいです……」

 

「何が」

 

「普通、こんなにはっきり干渉してきませんよ?」

 

「嫌なんだけどそれ」

 

「私はちょっと羨ましいです」

 

「なんでだよ」

 

「諏訪子様、人見知りなんです」

 

「神が?」

 

「神がです」

 

 もうツッコむのも疲れてきた。

 

  ◇

 

 掃除当番。

 

 丈と早苗は、なぜか同じ班だった。

 

「窓側お願いします!」

 

「はいはい」

 

 雑巾を持って窓を拭く。

 春の日差し。

 柔らかい光。

 外では野球をしている声が聞こえる。

 平和だった。

 

 その時。

 

「東風谷ってさ」

 

 同じ掃除班の女子が、何気なく聞いた。

 

「本当に神様見えるの?」

 

 一瞬。

 

 空気が止まる。

 

 丈は手を止めた。

 

 早苗は。

 少しだけ迷ってから。

 

「……見えますよ?」

 

 そう答えた。

 

「へぇー」

 

 女子たちは顔を見合わせる。

 

「どんな感じなの?」

 

「えっと……」

 

 早苗は少し考えた。

 

「普通にいます」

 

「いやわかんないって」

 

「あっ、でも人によって違います!」

 

「ふーん……」

 

 興味半分。

 からかい半分。

 そんな空気だった。

 

 だが。

 早苗は真面目に答えている。

 嘘をつけないからだ。

 

「怖くないの?」

 

「怖い神様もいますけど、優しい神様もいますよ?」

 

「へぇー」

 

 女子の一人が笑った。

 

「東風谷さんってさ、ほんと変わってるよね」

 

 悪意は薄い。

 

 でも。

 その言葉に。

 早苗はほんの少しだけ、寂しそうに笑った。

 

「……よく言われます」

 

 その顔を見て。

 丈は、少しだけ胸がむず痒くなった。

 別にいじめられているわけじゃない。

 

 でも。

 理解されていない。

 それだけで、人は孤独になる。

 早苗は、たぶんずっとそうだった。

 

 神様が好き。

 見える。

 感じる。

 その感覚を、誰とも共有できない。

 

 だから。

 いつも少しだけ、周囲から浮いている。

 そして。

 それを受け入れてしまっている。

 

 その感じが。

 妙に。

 胸へ引っかかった。

 

  ◇

 

 放課後。

 

 守矢神社。

 

「おぉー……」

 

 丈は思わず声を漏らした。

 

 神楽殿。

 夕陽。

 

 そして。

 舞う早苗。

 白い装束。

 鈴の音。

 風。

 

 小学生とは思えないほど、動きが綺麗だった。

 いや。

 綺麗というより。

 妙に“慣れている”。

 まるで。

 誰かに見せるためではなく。

 ずっと昔から、当たり前に踊ってきたみたいに。

 

 鈴が鳴る。

 

 しゃん。

 しゃん。

 

 その音が、境内へ静かに響いていく。

 

 そして。

 その瞬間だった。

 空気が変わった。

 

「……っ」

 

 丈は息を呑む。

 風が止まる。

 鳥の声も消える。

 世界が、一瞬だけ静止したみたいだった。

 

 そして。

 

 “いる”。

 

 何か。

 

 大きなものが。

 見えない。

 

 でも。

 確かに。

 そこにいた。

 

「――よしっ」

 

 神楽を終えた早苗が、ぱっとこちらを見る。

 

「どうでした!?」

 

「……すげぇな」

 

「え?」

 

「なんか、本当に神様来そうだった」

 

 その瞬間。

 早苗は完全に固まった。

 

「……来てましたよ?」

 

「は?」

 

「え?」

 

 沈黙。

 

「……マジ?」

 

「はい」

 

「どこに」

 

「そこに」

 

 早苗が、神楽殿の後ろを指差す。

 

 だが。

 丈には何も見えない。

 ただ。

 そこには、妙な気配だけが残っていた。

 

「……いたのか」

 

「いました」

 

 早苗はどこか嬉しそうだった。

 

「神奈子様、すごく興味持ってました」

 

「俺に?」

 

「はい!」

 

「なんで……」

 

「わかりません!」

 

「おい」

 

 だが。

 その時。

 ふわり、と。

 風が吹いた。

 丈の髪を撫でる。

 

 そして。

 耳元で。

 

『似てる』

 

 女の声がした。

 

「っ!?」

 

 丈が勢いよく振り返る。

 

 だが。

 そこには夕暮れしかなかった。

 

「丈くん?」

 

「……また声した」

 

 その瞬間。

 早苗の顔から笑みが消えた。

 

「……本当に?」

 

「おう」

 

「なんて?」

 

「似てる、って」

 

 早苗は黙った。

 

 そして。

 ゆっくり御柱を見る。

 風が吹く。

 山が鳴る。

 どこか遠くで、誰かが笑っている気がした。

 

「……丈くん」

 

「ん?」

 

「たぶんですけど」

 

「おう」

 

「かなり気に入られてます」

 

「嫌だよ」

 

「私も最初そう思いました」

 

「最初?」

 

「慣れます!」

 

「慣れたくねぇ……」

 

 そう言いながらも。

 丈は、少しだけ笑っていた。

 怖い。

 

 でも。

 どこか嫌ではない。

 守矢神社は、そんな場所だった。

 

  ◇

 

 放課後の守矢神社は、昼間とはまた違う顔をしていた。

 

 夕陽が山へ沈み始める時間。

 境内全体が、赤く染まっている。

 

 長い石段。

 風に揺れる注連縄。

 巨大な御柱。

 どこか古い木の匂い。

 

 町から少し離れているせいか、人の気配も少ない。

 静かだった。

 

 けれど。

 ただ静かなだけではない。

 見えない何かが、ずっとそこにいる。

 そんな空気があった。

 丈は最近、その感覚に少しずつ慣れ始めていた。

 

「丈くん、こっちです!」

 

「おう」

 

 先を歩く早苗の後ろを追いながら、境内を進む。

 

 白いスニーカー。

 緑色の髪。

 夕陽を受けると、その色は少しだけ柔らかく見えた。

 

 学校にいる時より。

 神社にいる時の早苗の方が、自然だった。

 

 いや。

 安心している、のかもしれない。

 学校では、どこか気を張っている。

 笑われても平気な顔をして。

 変わり者扱いされても気にしていないふりをして。

 

 でも。

 神社に戻ると、表情が少し幼くなる。

 好きな場所へ帰ってきた子供の顔になる。

 

「今日はですね、境内案内します!」

 

「前もしてなかったか?」

 

「今日はもっと細かくです!」

 

「そんな見るとこあるのか……?」

 

「あります!」

 

 やたら自信満々だった。

 まず案内されたのは、小さな祠だった。

 

 境内の隅。

 杉の木の影に隠れるように置かれた、小さな石の社。

 

 苔が生えている。

 かなり古い。

 

「これは?」

 

「摂社です!」

 

「せっしゃ?」

 

「本殿とは別の神様を祀る場所ですね!」

 

 早苗は、説明している時だけ妙に先生っぽくなる。

 

「ここには何いるんだ?」

 

「土地神様だったと思います!」

 

「思います?」

 

「昔すぎて曖昧なんです!」

 

「雑だなぁ……」

 

 だが。

 丈は、祠を見た瞬間に少しだけ背筋が寒くなった。

 

 いる。

 何か。

 見えない。

 

 でも。

 確かに。

 そこに。

 

「……なんかいる気がする」

 

 ぽつり、と。

 そう呟いた瞬間。

 早苗の顔が変わった。

 

「え?」

 

「いや、なんとなく」

 

「……本当に?」

 

 その声は、少しだけ震えていた。

 

「なんだよ」

 

「丈くん、それ結構すごいです」

 

「そうなのか?」

 

「普通は何も感じませんよ?」

 

 そう言いながら、早苗は祠へ向き直る。

 

 そして。

 

 ぺこり、と小さく頭を下げた。

 

「こんにちは。お邪魔してます」

 

 まるで。

 

 本当に誰かへ挨拶するみたいだった。

 丈はその様子を見ながら、妙な気分になる。

 

 変なやつだ。

 

 でも。

 馬鹿にできない。

 

 たぶん。

 早苗には本当に見えている。

 それが、最近少しずつわかってきていた。

 

 風が吹く。

 杉の葉が揺れる。

 

 そして。

 からん。

 小さく鈴が鳴った。

 

「っ!?」

 

 丈が目を見開く。

 風は吹いていない。

 

 なのに。

 祠の鈴だけが揺れていた。

 

「……あ」

 

 早苗が小さく笑う。

 

「挨拶返してくれました」

 

「いやいやいや」

 

「歓迎されてますね」

 

「怖ぇよ!」

 

 だが。

 早苗は少し嬉しそうだった。

 

 まるで。

 自分の大切なものを認めてもらえたみたいに。

 その顔を見て。

 丈は、少しだけ言葉に詰まった。

 

  ◇

 

 境内の裏手。

 

 山道へ続く小道。

 夕暮れの光が木々の隙間から差し込んでいた。

 

「ここ、夜になると結構怖いですよ」

 

「お前は平気なのか」

 

「慣れてます!」

 

「強ぇな……」

 

 実際。

 丈は少し怖かった。

 

 暗い山。

 人気のない道。

 風で揺れる木々。

 

 だが。

 それ以上に。

 

 この場所には、“何か”がいる。

 そんな感覚が強かった。

 都会にはなかった空気。

 見えないものが、すぐ近くにいる感じ。

 

「昔ですね、この辺で天狗見たって話あるんですよ!」

 

「また始まった」

 

「本当ですってば!」

 

「お前の本当は信用ならねぇ」

 

「失礼ですね!?」

 

 早苗は頬を膨らませる。

 その表情が、少し子供っぽくて。

 丈は思わず笑った。

 

「な、なんですか」

 

「いや別に」

 

「笑いましたね?」

 

「お前、そういう顔すんだなって」

 

「どういう意味ですかそれ!」

 

 怒っている。

 

 だが。

 本気で怒っているわけではない。

 その空気が、なんとなく心地よかった。

 

 丈は最近、神社へ来るのが嫌ではなくなっていた。

 理由はわからない。

 神様なんて、まだよくわからない。

 変な気配も怖い。

 

 でも。

 早苗といる時間は、妙に落ち着いた。

 

 その時だった。

 ざわり。

 風が吹く。

 木々が一斉に揺れた。

 

 同時に。

 ぞわり、と。

 背筋へ寒気が走る。

 

「……丈くん?」

 

 早苗の声も、少し緊張していた。

 

 山の奥。

 

 暗くなり始めた木々の間。

 誰かいる。

 いや。

 

 “何か”。

 

 丈は息を呑んだ。

 見えない。

 

 だが。

 視線だけは、はっきり感じる。

 じっと。

 こちらを見ている。

 

「……帰りましょうか」

 

 早苗が、小さく言った。

 

「お、おう」

 

 いつもの明るい声ではなかった。

 

 その瞬間。

 丈は理解する。

 早苗だって。

 全部平気なわけじゃない。

 神様が好きでも。

 見えないものが怖くないわけではないのだ。

 

 ただ。

 怖くても向き合っている。

 それだけなのだ。

 

 山道を戻る。

 夕暮れが濃くなる。

 

 そして。

 境内へ戻った瞬間。

 さっきまでの重苦しい気配が、嘘みたいに消えた。

 

「……なんだったんだ今の」

 

「たぶん、山のものです」

 

「雑!」

 

「でも悪い感じではなかったですよ?」

 

「そうなのか?」

 

「はい」

 

 早苗は少し考える。

 

 そして。

 

「……見に来たのかもしれません」

 

「何を」

 

「丈くんを」

 

「なんでだよ……」

 

 本当に。

 最近。

 妙なものに絡まれている気がした。

 

  ◇

 

 夕暮れ。

 

 帰り道。

 

「ねぇ丈くん」

 

「んー?」

 

「明日も来ますか?」

 

「毎日誘うな、お前」

 

「嫌ですか?」

 

「……別に」

 

「やった!」

 

 本当に嬉しそうだった。

 その笑顔を見て。

 丈はなんとなく思った。

 

 たぶん。

 こいつ。

 ずっと、一人だったのかもしれない。

 

 神様はいる。

 

 でも。

 それを理解してくれる人間は、ほとんどいない。

 

 だから。

 丈が『笑わなかった』ことが、きっと。

 早苗には、すごく嬉しかったのだ。

 

 山の向こうへ、夕陽が沈んでいく。

 風が吹く。

 その風の中で。

 丈は一瞬だけ。

 誰かの笑い声を聞いた気がした。

 

 子供みたいな。

 

 でも。

 どこか古い声。

 

『今度はどうなるかなぁ』

 

 その囁きは。

 

 春の風の中に解けるように、静かに消えていった。

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