現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第二十話 「タケミナカタ」

第二十話 「タケミナカタ」

 

 猿鬼の件が終わってから、数日が経った。

 

 学校では、旧校舎の騒ぎが少しずつ別の話になっていた。

 

 怖い話だったものが、笑い話になり、笑い話だったものが、誰かの武勇伝になり、武勇伝だったものが、最後には「東風谷が額に札を貼っていた」という一点に集まっていった。

 

「だから、忘れてください!」

 

 昼休み。

 

 早苗は机に両手をついて、男子たちに抗議していた。

 

「いや、無理だろ」

 

「無理じゃないです!」

 

「東風谷、あれ何だったんだよ。マジでキョンシー?」

 

「違います!」

 

「じゃあ何?」

 

「……お守りです」

 

「額に貼る?」

 

「貼る日もあります!」

 

「ねぇよ!」

 

 教室に笑い声が広がる。

 

 早苗は頬を膨らませた。

 

 丈はその横で、弁当の卵焼きを口に入れながら見ていた。

 

「丈くんも笑わないでください」

 

「笑ってない」

 

「口元が笑ってます」

 

「卵焼きがうまいだけだ」

 

「そんな逃げ方あります?」

 

「便利だろ」

 

「便利に使わないでください!」

 

 早苗が怒る。

 

 それも、もう日常の一部になっていた。

 

 慎二は、以前より少し大人しくなった。

 

 でも、ちゃんと笑う。

 

 影もある。

 

 雅人もいる。

 

 浩介たちも騒いでいる。

 

 旧校舎は、相変わらず校舎の裏で黙っていた。

 

 山も、何もなかったように青く見えた。

 

 けれど丈は、時々その山の方を見てしまう。

 

 あの奥に、手を合わせる猿がいる。

 

 名もなき廃寺は、猿寺になった。

 

 笑い話になっても、山の奥には残っている。

 

 そう思うと、胸の奥が少し重くなった。

 

     ◇

 

 放課後、早苗に誘われて守矢神社へ行った。

 

「今日は、ちゃんと普通のお参りです」

 

 坂道を上りながら、早苗が言った。

 

「普通じゃないお参りが多すぎるんだよ」

 

「それは否定しません」

 

「否定しろよ」

 

「嘘はよくないです」

 

「便利だな、正直」

 

「丈くんほどではありません」

 

「俺は正直じゃなくて、口が滑るだけだ」

 

「自覚があるなら直してください」

 

 風が吹く。

 

 夏が近い風だった。

 

 木々の葉が揺れ、石段の上から社の屋根が見える。

 

 守矢神社は、いつものように静かだった。

 

 静かだが、空っぽではない。

 

 神奈子の風。

 

 諏訪子の土。

 

 その両方が、今は少し遠くにある。

 

 丈は、あえて何も言わなかった。

 

 近ごろ、余計なことを言うとだいたい面倒になる。

 

 それくらいは学んだ。

 

 拝殿へ行く途中、早苗が「あ」と声を上げた。

 

「すみません、丈くん。社務所に忘れ物をしました」

 

「忘れ物?」

 

「お父さんに頼まれていた帳面です。少し待っていてください」

 

「分かった」

 

「変なところに行かないでくださいね」

 

「お前に言われたくない」

 

「私は必要があって行きます」

 

「俺もだいたい必要がある」

 

「だいたい、が怖いんです」

 

 早苗はそう言って、社務所の方へ走っていった。

 

 丈は拝殿の前に残された。

 

 夕方の境内は静かだった。

 

 参道の砂利は薄く光り、木々の影が長い。

 

 紙垂が揺れる。

 

 風が一度、丈の頬を撫でた。

 

 その風に、神奈子の気配はなかった。

 

 いや、なかったわけではない。

 

 遠い。

 

 見ているが、近づいてこない。

 

 そんな気配だった。

 

 丈は拝殿の縁に腰を下ろした。

 

「ちょっと待つだけだしな」

 

 そう呟いた瞬間。

 

 床下の奥で、何かが身じろぎした。

 

 蛇のようなもの。

 

 縄のようなもの。

 

 石の列のようなもの。

 

 ミジャグジ。

 

 そう呼べるのかどうかは分からない。

 

 ただ、その気配が、今日は妙に近かった。

 

 丈は眉を寄せる。

 

「……おい」

 

 眠気が来た。

 

 急だった。

 

 山を走った後の疲れとも違う。

 

 授業中の眠気とも違う。

 

 頭の奥を、土の匂いが満たしていく。

 

 目を開けているのに、瞼の裏へ湖の霧が広がる。

 

「待て、今は早苗が――」

 

 言い終わる前に、視界が揺れた。

 

 紙垂の白さが遠のく。

 

 砂利の音が消える。

 

 かわりに、水の匂いがした。

 

     ◇

 

 湖のほとりに、女神が立っていた。

 

 霧は薄い。

 

 朝だった。

 

 水面には白い光が広がり、山の輪郭がはっきり見える。

 

 村はすでに動き出していた。

 

 水を汲む女。

 

 田へ向かう男。

 

 縄を張り直す老人。

 

 泥に足を取られて転び、母親に怒鳴られる子供。

 

 その中を、女神が歩いていた。

 

 タケミナカタ。

 

 その名をまとった女神。

 

 昨日までほどけかけていた輪郭は、もうない。

 

 風が彼女の足元へ寄る。

 

 水面が彼女の姿を少し強く映す。

 

 しかし、その姿にはどこか噛み合わなさがあった。

 

 名が体に合っていない。

 

 大きすぎる鎧を着ているようだった。

 

 歩くたびに、どこかが軋む。

 

 だが、女神はその痛みを表に出さない。

 

 背筋を伸ばし、湖畔を歩く。

 

 自分がそうであると、周囲へ先に示すように。

 

 男が小屋から出てくる。

 

 腰に道具を差し、縄を肩に掛け、木桶を持っている。

 

 今日も洩矢の奥へ行くのだろう。

 

 女神は、その道具を見る。

 

 それから、木立の方を見る。

 

 洩矢の領域。

 

 湿った土。

 

 石。

 

 縄。

 

 土の下に伏せるもの。

 

 女神の足は、今日もそちらへ向かなかった。

 

 男は気づいている。

 

 気づいていながら、何も言わない。

 

 それが、女神の目元を少しだけ硬くした。

 

「今日は奥へ行くのね」

 

 女神が言った。

 

 その声に、丈は少しだけ胸の奥を引かれた。

 

 現代の神奈子に近い。

 

 落ち着いていて、低すぎず、高すぎず、相手を自然に自分の話の中へ引き込む声。

 

 ただし、今より少し鋭い。

 

 言葉の端に、まだ隠しきれない若さと焦りがある。

 

「口調が…」

 

「必要ならば、変わる」

 

 余計な詮索はするなと、暗に言っていた。

 

「…昨日の雨で崩れたところを見る」

 

 男が答える。

 

「水路?」

 

「水路と、石」

 

「また石なの」

 

「石は動かないようで、よく動く」

 

「人が動かすのでしょう」

 

「人も、水も、土もな」

 

 女神は少し頷いた。

 

「なら、今日はそっちじゃないわ」

 

「そっちじゃない?」

 

「湖の向こうの集落へ行く」

 

「あっちは洩矢の奥じゃない」

 

「だからよ」

 

 女神は微笑んだ。

 

 その笑みは柔らかい。

 

 けれど、退く気はない。

 

「奥には、まだ入らない。けれど、困っている人間はいるでしょう」

 

「俺は奥へ行くつもりだった」

 

「予定は変えられるわ」

 

「俺の予定だぞ」

 

「ええ。だから、あなたが変えなさい」

 

「強引だな」

 

「必要なら強引にもなるわ」

 

「珍しく、じゃないな。だいぶ強引だ」

 

「慣れなさい」

 

「俺が?」

 

「あなたが」

 

 女神は当然のように言った。

 

 男はため息を吐く。

 

「俺を連れていく理由は?」

 

「私はまだ、この土地の人間との間に立つ者が要る」

 

「それを最初に言え」

 

「今言ったわ」

 

「命令の後だ」

 

「順序が少し違っただけでしょう」

 

「少し?」

 

「多めに見なさい」

 

「神様って便利だな」

 

「便利でなければ、残りにくいのよ」

 

 女神は歩き出す。

 

 その横に、男が並ぶ。

 

 丈は後ろをついていった。

 

 不思議だった。

 

 女神と男が並んで歩く。

 

 それだけで、人々の視線が集まる。

 

 神だけではない。

 

 男だけでもない。

 

 二人が並んでいるから、話しかけやすい。

 

 女神はそれに気づいていた。

 

 気づいていて、何も言わなかった。

 

     ◇

 

 最初に向かったのは、水路だった。

 

 湖から引いた水が、幾つかの田へ流れている。

 

 上の田と下の田で揉めていた。

 

 上の者が水を取りすぎる。

 

 下の者は田が乾く。

 

 しかし上の者も、今年は泥が硬くて水が要ると言う。

 

 話は平行線だった。

 

 男たちが声を荒げ、女たちは少し離れて見ている。

 

 子供は泥を蹴って遊び、大人に怒られている。

 

 そこへ、女神と男が来た。

 

 最初に気づいたのは、年寄りだった。

 

 年寄りは男を見る。

 

 次に、女神を見る。

 

「……そちらの方は」

 

 男が答えようとした。

 

 しかし女神が一歩前へ出た。

 

「水を見に来たわ」

 

 静かで、よく通る声だった。

 

「上と下で揉めているのでしょう。言い合う前に、まず流れを見せなさい」

 

 人々が顔を見合わせる。

 

「神様かい」

 

 誰かが呟いた。

 

 女神の指が、わずかに動いた。

 

 その言葉に反応したのが、丈には分かった。

 

 神様。

 

 名ではない。

 

 信仰でもない。

 

 ただの驚き混じりの呼び方。

 

 それでも、彼女の周りの風が少しだけ強くなる。

 

 男が横から言う。

 

「頼むだけ頼んでみればいい。駄目なら俺が泥を掘る」

 

「結局あなたも掘るのね」

 

「必要ならな」

 

 女神は水路へ近づいた。

 

 足元の泥を気にしない。

 

 水の流れに手をかざす。

 

 水面が震える。

 

 詰まっていた落ち葉が、ひとつ浮く。

 

 それをきっかけに、流れが少し変わった。

 

 女神は眉を寄せる。

 

「上が取りすぎね」

 

 上の田の男が声を上げる。

 

「こっちも乾くんだ!」

 

「ただ、下も受ける支度ができていない。どちらか一方だけの話ではないわ」

 

「下も?」

 

「泥の受け方が悪い。流れてきた水が入る前に逃げている」

 

 下の田の男が口を開きかける。

 

 女神はそちらを見る。

 

「あなたたちも同じよ。上が悪いと言う前に、自分の田の口を整えなさい」

 

 男たちが黙る。

 

 女神は、水路の脇へ立つ男を指した。

 

「そこの石を少しずらしなさい」

 

「石?」

 

「半歩分よ。全部ではない」

 

「動かしていい石か?」

 

 その場が少し静かになる。

 

 女神は、男を見る。

 

 男は石を見た。

 

 それから、周囲の老人を見る。

 

 老人は少し考え、頷いた。

 

「その石はよい。奥の石は触るな」

 

 女神はそのやりとりを見ていた。

 

 奥の石。

 

 触ってよい石。

 

 触ってはいけない石。

 

 人々は、きちんと分けている。

 

 理由を全部知らなくても、分けている。

 

 女神は、ほんのわずか唇を引き結ぶ。

 

「なら、その石を動かしなさい」

 

 男たちが石を動かす。

 

 水が流れる。

 

 下の田へ細い水筋が伸びる。

 

 女神はさらに、枝を払う場所、水を止める時間、上と下で交代する順を決めた。

 

「朝は上。日が中ほどへ行ったら下。夕方前に一度、全体へ流す」

 

「全体へ?」

 

「水路の泥を動かすのよ。溜めるから、次にまた揉める」

 

「誰が見る」

 

「交代で見なさい」

 

「また揉める」

 

「なら、順を残す」

 

「残す?」

 

「石でも木でもいい。見れば分かる印を置きなさい。言葉だけでは揉める。形にしておけば、次に言い逃れできないでしょう」

 

 人々がざわついた。

 

 水の流れを、神の機嫌だけでなく、順番と印で整える。

 

 それは、彼らには少し新しかった。

 

 女神は続ける。

 

「水は祈れば流れるものではないわ。道を作れば流れる」

 

 男が横でぼそっと言う。

 

「神様らしくないな」

 

 女神は睨む。

 

「神だから道を作るのよ」

 

 老人が、女神へ深く頭を下げた。

 

「助かる」

 

 その言葉に、周りの者たちも頭を下げる。

 

 女神の周囲の風が、また少し変わった。

 

 彼女は、すぐに表情を整えた。

 

 当然だという顔をした。

 

 けれど、丈には見えた。

 

 彼女の指先が、ほんの少し震えている。

 

 呼ばれたわけではない。

 

 祀られたわけでもない。

 

 でも、助かったと言われた。

 

 それが彼女の中で、小さな火になった。

 

     ◇

 

 次に向かったのは、集落の端の家だった。

 

 家同士で揉めていた。

 

 新しく建てる小屋の場所を巡って、境が曖昧になっていたのだ。

 

「ここから先はうちの畑だ」

 

「いや、昔からこの木まではこっちだ」

 

「その木は去年倒れただろ!」

 

「倒れても根はある!」

 

「根で境を決めるな!」

 

 女神は、その言い争いをしばらく聞いた。

 

 男は隣で腕を組んでいる。

 

「あなたはどう見る?」

 

 女神が聞く。

 

「俺に聞くのか」

 

「土地のことは、あなたの方がよく知っているでしょう」

 

「ここは洩矢の奥じゃない」

 

「だから聞いているのよ」

 

 男は少しだけ口元を緩めた。

 

「珍しく素直だな」

 

「今のうちに味わいなさい」

 

「ありがたいな」

 

「からかわない」

 

 女神の声が少しだけ低くなる。

 

 男は木の根元を見た。

 

 倒れた木の古い根。

 

 少し離れた石。

 

 水が流れた跡。

 

 人が踏み固めた道。

 

「昔は、この水筋だったんじゃないか」

 

「水筋?」

 

「今は埋まってるが、雨の後にここを流れたはずだ」

 

 女神はしゃがみ、水の跡を見る。

 

 指先で土に触れた。

 

「確かに、低い」

 

 男たちが顔を見合わせる。

 

 女神は立ち上がった。

 

「境を木だけで決めるのはやめなさい。木は倒れる。根は腐る。水筋と石を合わせる方がいいわ」

 

「石?」

 

「新しく置くのよ。動かしにくいものを置き、そこに印を刻む」

 

「印?」

 

「どちらの家のものでもない印。争うためではなく、争わないための印よ」

 

 女神は、男を見る。

 

「刻めるでしょう」

 

「俺が?」

 

「あなたなら両方に怒られにくい」

 

「便利に使うな」

 

「便利だから頼んでいるの」

 

「言い切ったな」

 

 男はため息を吐いたが、断らなかった。

 

 石を選び、低い場所へ据える。

 

 そこに簡単な印を刻む。

 

 上でも下でもない。

 

 どちらの家のものでもない。

 

 ただ、境を示す印。

 

 女神は人々へ言う。

 

「揉める前に見なさい。忘れるなら、祭りのたびに確認する。そう決めてしまえばいい」

 

 男が横で呟く。

 

「今日はずいぶん神様っぽい」

 

「いつも神よ」

 

「濡れてた神様」

 

「それは忘れなさい」

 

「無理だな」

 

 女神は睨む。

 

 周囲の者たちは、少しだけ笑った。

 

 神の前で笑った。

 

 女神は一瞬、驚いたように目を動かした。

 

 畏れだけではない。

 

 相談し、助けられ、少し笑う。

 

 そういう距離。

 

 洩矢の奥の恐れとは違う。

 

 もっと明るく、もっと分かりやすい。

 

 女神は、そこに入り込んでいる。

 

 自分でも分かっていた。

 

 だからこそ、背筋を伸ばした。

 

     ◇

 

 その日から、女神は動いた。

 

 洩矢の奥ではない。

 

 その周縁。

 

 諏訪の中でも、古い恐れへ深く繋がっているわけではない人々。

 

 けれど、湖に生き、田を作り、水を引き、祭りをし、石に礼をする人々。

 

 そこへ、女神は入っていった。

 

 水の相談。

 

 境の相談。

 

 祭りの順序。

 

 供え物の分け方。

 

 水路を掃除する日。

 

 誰がどの田へ先に水を入れるか。

 

 子供が踏んではいけない場所を、どう伝えるか。

 

 彼女は、ひとつひとつに口を出した。

 

 いや、口を出すというより、整えた。

 

「順を決めなさい」

 

「印を置きなさい」

 

「忘れるなら刻めばいい」

 

「曖昧にするから揉めるのよ」

 

「怖い場所は怖いままでいい。ただ、近づいてはいけないと分かる形にしなさい」

 

「祈りは祈り。作業は作業。混ざってもよいけれど、順は分けること」

 

 人々は最初、戸惑った。

 

 神は祟りを避けるもの。

 

 水を願うもの。

 

 畏れるもの。

 

 それだけではなかったのか。

 

 だが、女神は違った。

 

 相談に乗る。

 

 道筋をつける。

 

 揉め事を整理する。

 

 誰が何をするか決める。

 

 できないなら、できる形へ変える。

 

 分かりやすかった。

 

 ありがたかった。

 

 少し怖かったが、洩矢の奥ほど近寄りがたくはなかった。

 

 しかも、女神の横にはいつも男がいた。

 

 男は泥を掘る。

 

 石を運ぶ。

 

 印を刻む。

 

 人々の間に入り、女神の言葉を、少しだけ人間の言葉へ直す。

 

「つまり、朝に上の田、昼から下の田ってことだ」

 

「つまり、その石は動かすなってことだ」

 

「つまり、次の祭りまでに縄を替えろってことだ」

 

 女神が言う。

 

「私はそう言ったわ」

 

 男が返す。

 

「長かった」

 

「必要な長さよ」

 

「人間には短い方が伝わる」

 

「人間は怠惰ね」

 

「そういう言い方をするから怖がられる」

 

「神は怖がられてよいでしょう」

 

「相談に来てほしいんじゃないのか」

 

 女神は黙る。

 

 それから、少しだけ顔をそらす。

 

「……短くするわ」

 

「そうしろ」

 

 人々は、そのやりとりを見ていた。

 

 神と男。

 

 どちらか片方ではない。

 

 女神が言い、男が直し、また女神が決める。

 

 その形が、少しずつ人々の中に入っていった。

 

 あの神様に相談すれば、話が早い。

 

 あの男と一緒に来る神様なら、水のことを見てくれる。

 

 境も決めてくれる。

 

 祭りの順も整えてくれる。

 

 恐ろしい奥の神とは違う。

 

 もっと手前にいて、こちらの揉め事へ手を入れてくれる神。

 

 丈はそれを見て、思った。

 

 うまい。

 

 すごくうまい。

 

 神奈子は、ただ強引に名乗っているのではない。

 

 信仰の入り口を作っている。

 

 洩矢の中核ではなく、周縁から。

 

 恐れではなく、便利さと相談から。

 

 分かりやすさで。

 

 管理で。

 

 整理で。

 

 人々の暮らしの中へ、手を入れている。

 

 やり手だった。

 

 怖いくらいに。

 

     ◇

 

 しばらくすると、噂が広がり始めた。

 

 最初は、水路の話だった。

 

「湖の方の水を見てくれた神様、知ってるか?」

 

「ああ、あの男と一緒に来た神様だろ」

 

「あの人が来てから、水の揉め事が減った」

 

「順番を決めたんだってな」

 

「石に印を刻んだらしい」

 

「神様が?」

 

「いや、男が」

 

「じゃあ男がすごいのか?」

 

「神様が決めて、男が刻んだんだよ」

 

「夫婦か?」

 

「知らん。でも、いつも一緒にいる」

 

「夫婦神とか言ってなかったか?」

 

「言ってたか?」

 

「タケミナカタ様と、その奥方の……」

 

「八坂……なんとか」

 

「八坂神奈子様だろ」

 

「そうそう、その神様」

 

 噂は、少しずつ形を変えた。

 

 女神は、嘘を伝えてはいない。

 

 タケミナカタとして。

 

 そして、その妻である八坂刀売神として。

 

 その二つの働きを束ねる形で、人々を助ける。

 

 夫婦神をそれぞれ祈るのが難しいなら、八坂神奈子へ祈ればよい。

 

 彼女はそう言っただけだった。

 

 けれど、人々の側では、もっと雑に、もっと暮らしに近い形へ変わった。

 

「夫婦神の……八坂神奈子様?」

 

「その神様が、あの男と来るんだよ」

 

「じゃあ、あの男は旦那か?」

 

「いや、人間だろ」

 

「でも、夫婦神って言ってたし」

 

「違うんじゃないか?」

 

「でも、あの男と一緒の時は話を聞いてくれるってよ」

 

「水のことも、境のことも、分かりやすくしてくれるらしい」

 

「それは助かるな」

 

「暮らしやすくなるなら、いい神様だ」

 

 丈は、その噂を聞いて頭を抱えたくなった。

 

 誤解が育っている。

 

 しかし、育ち方が絶妙だった。

 

 人々は神話を正確に理解しているわけではない。

 

 タケミナカタと八坂刀売神の関係も、女神の意図も、細かくは分かっていない。

 

 ただ、覚えやすい形だけが残る。

 

 八坂神奈子様。

 

 あの男と一緒に来る神様。

 

 夫婦神らしい。

 

 相談すると暮らしが楽になる。

 

 その噂は、信仰に近かった。

 

 そして女神は、その誤解を明確には否定しなかった。

 

     ◇

 

 ある日、村の女が遠慮がちに聞いた。

 

「あの、八坂神奈子様」

 

 女神が穏やかに目を向ける。

 

「何かしら」

 

「タケミナカタ様と、八坂刀売様と、それから神奈子様は……」

 

 女は途中で混乱したらしく、男の方を見た。

 

 男も困ったように女神を見る。

 

 女神は少し考える仕草をした。

 

 それから、落ち着いて言った。

 

「厳密に分けなくてもいいわ」

 

「よろしいのですか」

 

「信心は、暮らしの中で続かなければ意味がないもの」

 

 女たちは黙って聞いている。

 

「タケミナカタと八坂刀売神。二柱を別々に祈るのが難しいなら、八坂神奈子に祈ればいい」

 

 女神はゆっくりと言葉を置いた。

 

「その祈りは、夫婦神の働きへ届く。そういう形にしましょう」

 

 男が小さく咳払いをした。

 

 女神は横目で見る。

 

「何か?」

 

「いや」

 

「言いたいことがある顔ね」

 

「あるが、後で言う」

 

「今言いなさい」

 

「今はやめておく」

 

「賢明ね」

 

 女神は人々へ向き直る。

 

「私はそこまで厳格な信心でなくても大丈夫よ。大切なのは、忘れず、続けること。水を大事にし、境を乱さず、祭りの順を守ること」

 

 女たちはほっとした顔をした。

 

「ありがたい」

 

「分かりやすい」

 

「うちの子にも教えやすい」

 

 誰かが笑う。

 

「八坂神奈子様は、話が早いね」

 

 女神はにこやかに頷いた。

 

「困った時は、相談しなさい」

 

 男は少し離れたところで、額に手を当てていた。

 

 後で、二人きりになった時、男は言った。

 

「外堀を埋めてないか」

 

 女神は涼しい顔で答えた。

 

「何のことかしら」

 

「俺と夫婦みたいに見られてる」

 

「おおむね間違っていないでしょう」

 

「間違ってる」

 

「あなたは私の橋渡しをしている。民の前にも一緒に出ている」

 

「それはそうだが」

 

「祈りの形としては、おおむね間違っていないわ」

 

「その“おおむね”で人は誤解する」

 

「誤解ではなく、受け取り方の問題よ」

 

「ずるいな」

 

「ええ」

 

 女神は微笑んだ。

 

「ずるくない神など、そう長くは残れないわ」

 

 男は何も言えなくなった。

 

 丈は横で見ていて、思った。

 

 この神様、強い。

 

 そして、だいぶ面倒くさい。

 

     ◇

 

 季節が巡った。

 

 夢の中で、時間は不思議に流れた。

 

 春の水路。

 

 夏の祭り。

 

 秋の境決め。

 

 冬の供え物。

 

 女神は、いつも男と並んで現れた。

 

 いつもではない。

 

 けれど、人々の記憶の中では、いつも一緒だった。

 

 水の相談には、二人で来る。

 

 境の相談にも、二人で来る。

 

 祭りの順を整える時も、二人で来る。

 

 女神が決め、男が人へ伝える。

 

 男が土地の癖を言い、女神が形にする。

 

 その繰り返しだった。

 

 男が否定しても、噂は止まらない。

 

「いや、夫婦ではない」

 

「でも夫婦神って」

 

「それは神の話で」

 

「じゃあ、あんたは何だ」

 

「橋渡しだ」

 

「旦那みたいなもんか」

 

「違う」

 

「照れるな」

 

「照れてない」

 

 女神は横で聞いていた。

 

 否定しない。

 

 ただ、薄く笑っている。

 

 男が睨む。

 

「否定しろ」

 

「何を?」

 

「今の」

 

「民の理解としては、おおむね間違っていないわ」

 

「間違ってる」

 

「信仰とは、細部より続くことが重要なのよ」

 

「俺を巻き込むな」

 

「もう巻き込まれているでしょう」

 

「ひどい神様だ」

 

「今さらね」

 

 人々は笑った。

 

 笑いながら、祈る。

 

 祈りながら、相談する。

 

 八坂神奈子様。

 

 タケミナカタ様。

 

 八坂刀売様。

 

 その名は混ざりながら広がった。

 

 正確ではない。

 

 だが、完全な嘘でもない。

 

 暮らしに合う形へ、神の名が整えられていく。

 

 女神はそれを許した。

 

 むしろ、少しずつ導いた。

 

 丈には、それが分かった。

 

 神奈子は、民を騙しているわけではない。

 

 嘘を与えているわけではない。

 

 ただ、人が覚えやすい形へ、祈りやすい形へ、相談しやすい形へ整えている。

 

 そして、その整えた形の中心に、自分を置いている。

 

 八坂神奈子。

 

 その名が、諏訪の周縁に根を張っていく。

 

     ◇

 

 数年が過ぎた。

 

 丈には、そう分かった。

 

 男の髪が少し伸び、顔つきがわずかに大人びている。

 

 女神の姿は変わらない。

 

 だが、纏う風が違っていた。

 

 もう、名に振り回されていない。

 

 タケミナカタ。

 

 八坂刀売。

 

 八坂神奈子。

 

 その束ねた名が、彼女の周りでひとつの神威になっている。

 

 洩矢の奥には、まだ踏み込んでいない。

 

 いや、踏み込まない。

 

 だが、それ以外の土地には、彼女の気配が広がっていた。

 

 水路に。

 

 境の石に。

 

 祭りの順に。

 

 子供へ教える言葉に。

 

 供え物の分け方に。

 

 人々が困った時、まず相談する場所に。

 

 八坂神奈子の名があった。

 

 洩矢の神威は、なお大きい。

 

 恐れとして、土地の奥にある。

 

 しかし、日々の暮らしで人が手を伸ばす神は、少しずつ変わっていた。

 

 恐れに頭を下げるだけではない。

 

 相談できる神。

 

 整えてくれる神。

 

 分かりやすい神。

 

 その名が、増えていた。

 

 女神は丘の上から集落を見ていた。

 

 隣に男がいる。

 

 風が吹く。

 

「広がったな」

 

 男が言う。

 

「ええ」

 

 女神は静かに答える。

 

 現代の神奈子に近い声だった。

 

 落ち着いて、よく整った声。

 

 だが、男に向ける時だけ、少しだけ素が混じる。

 

「あなたのおかげでもあるわ」

 

「巻き込まれただけだ」

 

「巻き込まれてくれたのでしょう」

 

「させたんだろ」

 

「結果として助かったわ」

 

「否定しないんだな」

 

「事実だもの」

 

 男はため息を吐いた。

 

「このまま、奥へ行くのか」

 

 女神は答えなかった。

 

 丘の下に、湖が見える。

 

 水路が伸びている。

 

 田が並んでいる。

 

 人々が動いている。

 

 その向こう、木立の奥に、洩矢の領域がある。

 

 湿った土。

 

 石。

 

 縄。

 

 土の下に伏せるもの。

 

 女神は、そこを見た。

 

 もう、以前のように目を逸らさない。

 

「行くわ」

 

 短く言った。

 

 男は目を伏せる。

 

「話すのか」

 

「まずは」

 

「その後は」

 

「相手次第よ」

 

「お前次第でもある」

 

「分かっているわ」

 

「本当に?」

 

 女神は、男を見た。

 

 その目は穏やかだった。

 

 だが、奥に固いものがある。

 

「くどいわね」

 

「言うさ」

 

「なら、聞いておくわ」

 

 男は少し驚いた顔をした。

 

 女神は湖を見下ろす。

 

「私は、ここまで来た」

 

 風が、彼女の髪を揺らす。

 

「水を整え、境を置き、祀りを続けやすくし、人々が呼べる名を作った」

 

 男は黙っている。

 

「諏訪は変わり始めている。けれど、壊れてはいない」

 

「そうだな」

 

「なら、次よ」

 

「洩矢か」

 

「ええ」

 

 男は深く息を吐いた。

 

「諏訪を守ると言うなら」

 

 女神の表情が、わずかに動く。

 

 男は続けた。

 

「諏訪を憎むな」

 

 女神はすぐには答えなかった。

 

 数年前にも同じことを言われた。

 

 その時、彼女は憎んでなどいないと言った。

 

 今も、そう言えるはずだった。

 

 だが、口に出すまで少し時間がかかった。

 

「……憎んでなどいないわ」

 

 男は彼女を見る。

 

 信じたのか、信じなかったのか。

 

 分からない顔だった。

 

 女神はその顔から目を逸らさない。

 

「私は、諏訪を守る」

 

「分かった」

 

「本当に分かったの?」

 

「多めに言って少し」

 

「少し?」

 

「多めに言って」

 

 女神は、ほんの少し笑った。

 

「あなたは、本当に面倒な人ね」

 

「お前ほどじゃない」

 

「それは違うわ」

 

「違わない」

 

 風が吹いた。

 

 湖の向こうで、鳥が飛ぶ。

 

 丘の下では、人々が田へ向かっている。

 

 八坂神奈子の名は、もうそこにあった。

 

 タケミナカタと八坂刀売の名を束ね、男と並び、人々の相談を受け、生活に入った神。

 

 だが、洩矢の奥はまだ残っている。

 

 そこへ、女神は向かう。

 

 夢の中で、丈はその背中を見ていた。

 

 かつて名をなくして倒れていた女神は、もういない。

 

 そこにいるのは、名を束ねた神だった。

 

 タケミナカタ。

 

 八坂刀売。

 

 八坂神奈子。

 

 その名をまとい、諏訪の周縁を自分の風で満たした神。

 

 そして、これから洩矢へ向かう神。

 

 夢の景色が、ゆっくり暗くなっていく。

 

 足元で、蛇のようなものが身じろぎした。

 

     ◇

 

 丈は目を覚ました。

 

 拝殿の縁に座ったままだった。

 

 夕方の光が、少し傾いている。

 

 体が重い。

 

 頭の奥に、湖の風が残っている。

 

「丈くん?」

 

 早苗の声がした。

 

 丈は顔を上げる。

 

 早苗が帳面を抱えて、少し離れたところに立っていた。

 

「寝てました?」

 

「……ちょっと」

 

「こんなところで?」

 

「眠くなった」

 

「疲れてるんですよ。やっぱり」

 

 早苗は心配そうに近づいてくる。

 

 丈は慌てて顔を整えた。

 

 今見た夢の話はできない。

 

 水路。

 

 境。

 

 八坂神奈子。

 

 男と夫婦に見られていた話。

 

 絶対に言えない。

 

 言ったら、神奈子がまた変な顔をする。

 

 早苗が首を傾げた。

 

「どうしました?」

 

「いや」

 

「何か見ました?」

 

 丈は黙った。

 

 早苗の目は、まっすぐだった。

 

 風祝の目だった。

 

 嘘は苦手だ。

 

 だが、全部は言えない。

 

「夢」

 

「夢?」

 

「水路の夢」

 

「水路?」

 

「あと、石」

 

「……丈くんの夢、渋いですね」

 

「俺もそう思う」

 

 早苗は不思議そうに笑った。

 

 その時、拝殿の奥から風が来た。

 

 神奈子の気配。

 

 丈は一瞬、背筋を伸ばした。

 

 風は、耳元で止まった。

 

『あとで話しましょう』

 

 声がした。

 

 静かだった。

 

 静かすぎた。

 

 丈は小さく頷いた。

 

 早苗が見る。

 

「今、神奈子様ですか?」

 

「……たぶん」

 

「何て?」

 

「あとで話すって」

 

「丈くん、何かしたんですか?」

 

「してない」

 

「本当に?」

 

「夢を見ただけだ」

 

 早苗はさらに首を傾げる。

 

「夢で何かしたんですか?」

 

 丈は、答えなかった。

 

 代わりに、拝殿の奥を見る。

 

 風はもう静かだった。

 

 けれど、神奈子がこちらを見ている気配だけは、はっきり残っていた。

 

 丈は心の中で呟いた。

 

 神様って、本当に面倒くさい。

 

 それは、もちろん口には出さなかった。

 

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