第二十話 「タケミナカタ」
猿鬼の件が終わってから、数日が経った。
学校では、旧校舎の騒ぎが少しずつ別の話になっていた。
怖い話だったものが、笑い話になり、笑い話だったものが、誰かの武勇伝になり、武勇伝だったものが、最後には「東風谷が額に札を貼っていた」という一点に集まっていった。
「だから、忘れてください!」
昼休み。
早苗は机に両手をついて、男子たちに抗議していた。
「いや、無理だろ」
「無理じゃないです!」
「東風谷、あれ何だったんだよ。マジでキョンシー?」
「違います!」
「じゃあ何?」
「……お守りです」
「額に貼る?」
「貼る日もあります!」
「ねぇよ!」
教室に笑い声が広がる。
早苗は頬を膨らませた。
丈はその横で、弁当の卵焼きを口に入れながら見ていた。
「丈くんも笑わないでください」
「笑ってない」
「口元が笑ってます」
「卵焼きがうまいだけだ」
「そんな逃げ方あります?」
「便利だろ」
「便利に使わないでください!」
早苗が怒る。
それも、もう日常の一部になっていた。
慎二は、以前より少し大人しくなった。
でも、ちゃんと笑う。
影もある。
雅人もいる。
浩介たちも騒いでいる。
旧校舎は、相変わらず校舎の裏で黙っていた。
山も、何もなかったように青く見えた。
けれど丈は、時々その山の方を見てしまう。
あの奥に、手を合わせる猿がいる。
名もなき廃寺は、猿寺になった。
笑い話になっても、山の奥には残っている。
そう思うと、胸の奥が少し重くなった。
◇
放課後、早苗に誘われて守矢神社へ行った。
「今日は、ちゃんと普通のお参りです」
坂道を上りながら、早苗が言った。
「普通じゃないお参りが多すぎるんだよ」
「それは否定しません」
「否定しろよ」
「嘘はよくないです」
「便利だな、正直」
「丈くんほどではありません」
「俺は正直じゃなくて、口が滑るだけだ」
「自覚があるなら直してください」
風が吹く。
夏が近い風だった。
木々の葉が揺れ、石段の上から社の屋根が見える。
守矢神社は、いつものように静かだった。
静かだが、空っぽではない。
神奈子の風。
諏訪子の土。
その両方が、今は少し遠くにある。
丈は、あえて何も言わなかった。
近ごろ、余計なことを言うとだいたい面倒になる。
それくらいは学んだ。
拝殿へ行く途中、早苗が「あ」と声を上げた。
「すみません、丈くん。社務所に忘れ物をしました」
「忘れ物?」
「お父さんに頼まれていた帳面です。少し待っていてください」
「分かった」
「変なところに行かないでくださいね」
「お前に言われたくない」
「私は必要があって行きます」
「俺もだいたい必要がある」
「だいたい、が怖いんです」
早苗はそう言って、社務所の方へ走っていった。
丈は拝殿の前に残された。
夕方の境内は静かだった。
参道の砂利は薄く光り、木々の影が長い。
紙垂が揺れる。
風が一度、丈の頬を撫でた。
その風に、神奈子の気配はなかった。
いや、なかったわけではない。
遠い。
見ているが、近づいてこない。
そんな気配だった。
丈は拝殿の縁に腰を下ろした。
「ちょっと待つだけだしな」
そう呟いた瞬間。
床下の奥で、何かが身じろぎした。
蛇のようなもの。
縄のようなもの。
石の列のようなもの。
ミジャグジ。
そう呼べるのかどうかは分からない。
ただ、その気配が、今日は妙に近かった。
丈は眉を寄せる。
「……おい」
眠気が来た。
急だった。
山を走った後の疲れとも違う。
授業中の眠気とも違う。
頭の奥を、土の匂いが満たしていく。
目を開けているのに、瞼の裏へ湖の霧が広がる。
「待て、今は早苗が――」
言い終わる前に、視界が揺れた。
紙垂の白さが遠のく。
砂利の音が消える。
かわりに、水の匂いがした。
◇
湖のほとりに、女神が立っていた。
霧は薄い。
朝だった。
水面には白い光が広がり、山の輪郭がはっきり見える。
村はすでに動き出していた。
水を汲む女。
田へ向かう男。
縄を張り直す老人。
泥に足を取られて転び、母親に怒鳴られる子供。
その中を、女神が歩いていた。
タケミナカタ。
その名をまとった女神。
昨日までほどけかけていた輪郭は、もうない。
風が彼女の足元へ寄る。
水面が彼女の姿を少し強く映す。
しかし、その姿にはどこか噛み合わなさがあった。
名が体に合っていない。
大きすぎる鎧を着ているようだった。
歩くたびに、どこかが軋む。
だが、女神はその痛みを表に出さない。
背筋を伸ばし、湖畔を歩く。
自分がそうであると、周囲へ先に示すように。
男が小屋から出てくる。
腰に道具を差し、縄を肩に掛け、木桶を持っている。
今日も洩矢の奥へ行くのだろう。
女神は、その道具を見る。
それから、木立の方を見る。
洩矢の領域。
湿った土。
石。
縄。
土の下に伏せるもの。
女神の足は、今日もそちらへ向かなかった。
男は気づいている。
気づいていながら、何も言わない。
それが、女神の目元を少しだけ硬くした。
「今日は奥へ行くのね」
女神が言った。
その声に、丈は少しだけ胸の奥を引かれた。
現代の神奈子に近い。
落ち着いていて、低すぎず、高すぎず、相手を自然に自分の話の中へ引き込む声。
ただし、今より少し鋭い。
言葉の端に、まだ隠しきれない若さと焦りがある。
「口調が…」
「必要ならば、変わる」
余計な詮索はするなと、暗に言っていた。
「…昨日の雨で崩れたところを見る」
男が答える。
「水路?」
「水路と、石」
「また石なの」
「石は動かないようで、よく動く」
「人が動かすのでしょう」
「人も、水も、土もな」
女神は少し頷いた。
「なら、今日はそっちじゃないわ」
「そっちじゃない?」
「湖の向こうの集落へ行く」
「あっちは洩矢の奥じゃない」
「だからよ」
女神は微笑んだ。
その笑みは柔らかい。
けれど、退く気はない。
「奥には、まだ入らない。けれど、困っている人間はいるでしょう」
「俺は奥へ行くつもりだった」
「予定は変えられるわ」
「俺の予定だぞ」
「ええ。だから、あなたが変えなさい」
「強引だな」
「必要なら強引にもなるわ」
「珍しく、じゃないな。だいぶ強引だ」
「慣れなさい」
「俺が?」
「あなたが」
女神は当然のように言った。
男はため息を吐く。
「俺を連れていく理由は?」
「私はまだ、この土地の人間との間に立つ者が要る」
「それを最初に言え」
「今言ったわ」
「命令の後だ」
「順序が少し違っただけでしょう」
「少し?」
「多めに見なさい」
「神様って便利だな」
「便利でなければ、残りにくいのよ」
女神は歩き出す。
その横に、男が並ぶ。
丈は後ろをついていった。
不思議だった。
女神と男が並んで歩く。
それだけで、人々の視線が集まる。
神だけではない。
男だけでもない。
二人が並んでいるから、話しかけやすい。
女神はそれに気づいていた。
気づいていて、何も言わなかった。
◇
最初に向かったのは、水路だった。
湖から引いた水が、幾つかの田へ流れている。
上の田と下の田で揉めていた。
上の者が水を取りすぎる。
下の者は田が乾く。
しかし上の者も、今年は泥が硬くて水が要ると言う。
話は平行線だった。
男たちが声を荒げ、女たちは少し離れて見ている。
子供は泥を蹴って遊び、大人に怒られている。
そこへ、女神と男が来た。
最初に気づいたのは、年寄りだった。
年寄りは男を見る。
次に、女神を見る。
「……そちらの方は」
男が答えようとした。
しかし女神が一歩前へ出た。
「水を見に来たわ」
静かで、よく通る声だった。
「上と下で揉めているのでしょう。言い合う前に、まず流れを見せなさい」
人々が顔を見合わせる。
「神様かい」
誰かが呟いた。
女神の指が、わずかに動いた。
その言葉に反応したのが、丈には分かった。
神様。
名ではない。
信仰でもない。
ただの驚き混じりの呼び方。
それでも、彼女の周りの風が少しだけ強くなる。
男が横から言う。
「頼むだけ頼んでみればいい。駄目なら俺が泥を掘る」
「結局あなたも掘るのね」
「必要ならな」
女神は水路へ近づいた。
足元の泥を気にしない。
水の流れに手をかざす。
水面が震える。
詰まっていた落ち葉が、ひとつ浮く。
それをきっかけに、流れが少し変わった。
女神は眉を寄せる。
「上が取りすぎね」
上の田の男が声を上げる。
「こっちも乾くんだ!」
「ただ、下も受ける支度ができていない。どちらか一方だけの話ではないわ」
「下も?」
「泥の受け方が悪い。流れてきた水が入る前に逃げている」
下の田の男が口を開きかける。
女神はそちらを見る。
「あなたたちも同じよ。上が悪いと言う前に、自分の田の口を整えなさい」
男たちが黙る。
女神は、水路の脇へ立つ男を指した。
「そこの石を少しずらしなさい」
「石?」
「半歩分よ。全部ではない」
「動かしていい石か?」
その場が少し静かになる。
女神は、男を見る。
男は石を見た。
それから、周囲の老人を見る。
老人は少し考え、頷いた。
「その石はよい。奥の石は触るな」
女神はそのやりとりを見ていた。
奥の石。
触ってよい石。
触ってはいけない石。
人々は、きちんと分けている。
理由を全部知らなくても、分けている。
女神は、ほんのわずか唇を引き結ぶ。
「なら、その石を動かしなさい」
男たちが石を動かす。
水が流れる。
下の田へ細い水筋が伸びる。
女神はさらに、枝を払う場所、水を止める時間、上と下で交代する順を決めた。
「朝は上。日が中ほどへ行ったら下。夕方前に一度、全体へ流す」
「全体へ?」
「水路の泥を動かすのよ。溜めるから、次にまた揉める」
「誰が見る」
「交代で見なさい」
「また揉める」
「なら、順を残す」
「残す?」
「石でも木でもいい。見れば分かる印を置きなさい。言葉だけでは揉める。形にしておけば、次に言い逃れできないでしょう」
人々がざわついた。
水の流れを、神の機嫌だけでなく、順番と印で整える。
それは、彼らには少し新しかった。
女神は続ける。
「水は祈れば流れるものではないわ。道を作れば流れる」
男が横でぼそっと言う。
「神様らしくないな」
女神は睨む。
「神だから道を作るのよ」
老人が、女神へ深く頭を下げた。
「助かる」
その言葉に、周りの者たちも頭を下げる。
女神の周囲の風が、また少し変わった。
彼女は、すぐに表情を整えた。
当然だという顔をした。
けれど、丈には見えた。
彼女の指先が、ほんの少し震えている。
呼ばれたわけではない。
祀られたわけでもない。
でも、助かったと言われた。
それが彼女の中で、小さな火になった。
◇
次に向かったのは、集落の端の家だった。
家同士で揉めていた。
新しく建てる小屋の場所を巡って、境が曖昧になっていたのだ。
「ここから先はうちの畑だ」
「いや、昔からこの木まではこっちだ」
「その木は去年倒れただろ!」
「倒れても根はある!」
「根で境を決めるな!」
女神は、その言い争いをしばらく聞いた。
男は隣で腕を組んでいる。
「あなたはどう見る?」
女神が聞く。
「俺に聞くのか」
「土地のことは、あなたの方がよく知っているでしょう」
「ここは洩矢の奥じゃない」
「だから聞いているのよ」
男は少しだけ口元を緩めた。
「珍しく素直だな」
「今のうちに味わいなさい」
「ありがたいな」
「からかわない」
女神の声が少しだけ低くなる。
男は木の根元を見た。
倒れた木の古い根。
少し離れた石。
水が流れた跡。
人が踏み固めた道。
「昔は、この水筋だったんじゃないか」
「水筋?」
「今は埋まってるが、雨の後にここを流れたはずだ」
女神はしゃがみ、水の跡を見る。
指先で土に触れた。
「確かに、低い」
男たちが顔を見合わせる。
女神は立ち上がった。
「境を木だけで決めるのはやめなさい。木は倒れる。根は腐る。水筋と石を合わせる方がいいわ」
「石?」
「新しく置くのよ。動かしにくいものを置き、そこに印を刻む」
「印?」
「どちらの家のものでもない印。争うためではなく、争わないための印よ」
女神は、男を見る。
「刻めるでしょう」
「俺が?」
「あなたなら両方に怒られにくい」
「便利に使うな」
「便利だから頼んでいるの」
「言い切ったな」
男はため息を吐いたが、断らなかった。
石を選び、低い場所へ据える。
そこに簡単な印を刻む。
上でも下でもない。
どちらの家のものでもない。
ただ、境を示す印。
女神は人々へ言う。
「揉める前に見なさい。忘れるなら、祭りのたびに確認する。そう決めてしまえばいい」
男が横で呟く。
「今日はずいぶん神様っぽい」
「いつも神よ」
「濡れてた神様」
「それは忘れなさい」
「無理だな」
女神は睨む。
周囲の者たちは、少しだけ笑った。
神の前で笑った。
女神は一瞬、驚いたように目を動かした。
畏れだけではない。
相談し、助けられ、少し笑う。
そういう距離。
洩矢の奥の恐れとは違う。
もっと明るく、もっと分かりやすい。
女神は、そこに入り込んでいる。
自分でも分かっていた。
だからこそ、背筋を伸ばした。
◇
その日から、女神は動いた。
洩矢の奥ではない。
その周縁。
諏訪の中でも、古い恐れへ深く繋がっているわけではない人々。
けれど、湖に生き、田を作り、水を引き、祭りをし、石に礼をする人々。
そこへ、女神は入っていった。
水の相談。
境の相談。
祭りの順序。
供え物の分け方。
水路を掃除する日。
誰がどの田へ先に水を入れるか。
子供が踏んではいけない場所を、どう伝えるか。
彼女は、ひとつひとつに口を出した。
いや、口を出すというより、整えた。
「順を決めなさい」
「印を置きなさい」
「忘れるなら刻めばいい」
「曖昧にするから揉めるのよ」
「怖い場所は怖いままでいい。ただ、近づいてはいけないと分かる形にしなさい」
「祈りは祈り。作業は作業。混ざってもよいけれど、順は分けること」
人々は最初、戸惑った。
神は祟りを避けるもの。
水を願うもの。
畏れるもの。
それだけではなかったのか。
だが、女神は違った。
相談に乗る。
道筋をつける。
揉め事を整理する。
誰が何をするか決める。
できないなら、できる形へ変える。
分かりやすかった。
ありがたかった。
少し怖かったが、洩矢の奥ほど近寄りがたくはなかった。
しかも、女神の横にはいつも男がいた。
男は泥を掘る。
石を運ぶ。
印を刻む。
人々の間に入り、女神の言葉を、少しだけ人間の言葉へ直す。
「つまり、朝に上の田、昼から下の田ってことだ」
「つまり、その石は動かすなってことだ」
「つまり、次の祭りまでに縄を替えろってことだ」
女神が言う。
「私はそう言ったわ」
男が返す。
「長かった」
「必要な長さよ」
「人間には短い方が伝わる」
「人間は怠惰ね」
「そういう言い方をするから怖がられる」
「神は怖がられてよいでしょう」
「相談に来てほしいんじゃないのか」
女神は黙る。
それから、少しだけ顔をそらす。
「……短くするわ」
「そうしろ」
人々は、そのやりとりを見ていた。
神と男。
どちらか片方ではない。
女神が言い、男が直し、また女神が決める。
その形が、少しずつ人々の中に入っていった。
あの神様に相談すれば、話が早い。
あの男と一緒に来る神様なら、水のことを見てくれる。
境も決めてくれる。
祭りの順も整えてくれる。
恐ろしい奥の神とは違う。
もっと手前にいて、こちらの揉め事へ手を入れてくれる神。
丈はそれを見て、思った。
うまい。
すごくうまい。
神奈子は、ただ強引に名乗っているのではない。
信仰の入り口を作っている。
洩矢の中核ではなく、周縁から。
恐れではなく、便利さと相談から。
分かりやすさで。
管理で。
整理で。
人々の暮らしの中へ、手を入れている。
やり手だった。
怖いくらいに。
◇
しばらくすると、噂が広がり始めた。
最初は、水路の話だった。
「湖の方の水を見てくれた神様、知ってるか?」
「ああ、あの男と一緒に来た神様だろ」
「あの人が来てから、水の揉め事が減った」
「順番を決めたんだってな」
「石に印を刻んだらしい」
「神様が?」
「いや、男が」
「じゃあ男がすごいのか?」
「神様が決めて、男が刻んだんだよ」
「夫婦か?」
「知らん。でも、いつも一緒にいる」
「夫婦神とか言ってなかったか?」
「言ってたか?」
「タケミナカタ様と、その奥方の……」
「八坂……なんとか」
「八坂神奈子様だろ」
「そうそう、その神様」
噂は、少しずつ形を変えた。
女神は、嘘を伝えてはいない。
タケミナカタとして。
そして、その妻である八坂刀売神として。
その二つの働きを束ねる形で、人々を助ける。
夫婦神をそれぞれ祈るのが難しいなら、八坂神奈子へ祈ればよい。
彼女はそう言っただけだった。
けれど、人々の側では、もっと雑に、もっと暮らしに近い形へ変わった。
「夫婦神の……八坂神奈子様?」
「その神様が、あの男と来るんだよ」
「じゃあ、あの男は旦那か?」
「いや、人間だろ」
「でも、夫婦神って言ってたし」
「違うんじゃないか?」
「でも、あの男と一緒の時は話を聞いてくれるってよ」
「水のことも、境のことも、分かりやすくしてくれるらしい」
「それは助かるな」
「暮らしやすくなるなら、いい神様だ」
丈は、その噂を聞いて頭を抱えたくなった。
誤解が育っている。
しかし、育ち方が絶妙だった。
人々は神話を正確に理解しているわけではない。
タケミナカタと八坂刀売神の関係も、女神の意図も、細かくは分かっていない。
ただ、覚えやすい形だけが残る。
八坂神奈子様。
あの男と一緒に来る神様。
夫婦神らしい。
相談すると暮らしが楽になる。
その噂は、信仰に近かった。
そして女神は、その誤解を明確には否定しなかった。
◇
ある日、村の女が遠慮がちに聞いた。
「あの、八坂神奈子様」
女神が穏やかに目を向ける。
「何かしら」
「タケミナカタ様と、八坂刀売様と、それから神奈子様は……」
女は途中で混乱したらしく、男の方を見た。
男も困ったように女神を見る。
女神は少し考える仕草をした。
それから、落ち着いて言った。
「厳密に分けなくてもいいわ」
「よろしいのですか」
「信心は、暮らしの中で続かなければ意味がないもの」
女たちは黙って聞いている。
「タケミナカタと八坂刀売神。二柱を別々に祈るのが難しいなら、八坂神奈子に祈ればいい」
女神はゆっくりと言葉を置いた。
「その祈りは、夫婦神の働きへ届く。そういう形にしましょう」
男が小さく咳払いをした。
女神は横目で見る。
「何か?」
「いや」
「言いたいことがある顔ね」
「あるが、後で言う」
「今言いなさい」
「今はやめておく」
「賢明ね」
女神は人々へ向き直る。
「私はそこまで厳格な信心でなくても大丈夫よ。大切なのは、忘れず、続けること。水を大事にし、境を乱さず、祭りの順を守ること」
女たちはほっとした顔をした。
「ありがたい」
「分かりやすい」
「うちの子にも教えやすい」
誰かが笑う。
「八坂神奈子様は、話が早いね」
女神はにこやかに頷いた。
「困った時は、相談しなさい」
男は少し離れたところで、額に手を当てていた。
後で、二人きりになった時、男は言った。
「外堀を埋めてないか」
女神は涼しい顔で答えた。
「何のことかしら」
「俺と夫婦みたいに見られてる」
「おおむね間違っていないでしょう」
「間違ってる」
「あなたは私の橋渡しをしている。民の前にも一緒に出ている」
「それはそうだが」
「祈りの形としては、おおむね間違っていないわ」
「その“おおむね”で人は誤解する」
「誤解ではなく、受け取り方の問題よ」
「ずるいな」
「ええ」
女神は微笑んだ。
「ずるくない神など、そう長くは残れないわ」
男は何も言えなくなった。
丈は横で見ていて、思った。
この神様、強い。
そして、だいぶ面倒くさい。
◇
季節が巡った。
夢の中で、時間は不思議に流れた。
春の水路。
夏の祭り。
秋の境決め。
冬の供え物。
女神は、いつも男と並んで現れた。
いつもではない。
けれど、人々の記憶の中では、いつも一緒だった。
水の相談には、二人で来る。
境の相談にも、二人で来る。
祭りの順を整える時も、二人で来る。
女神が決め、男が人へ伝える。
男が土地の癖を言い、女神が形にする。
その繰り返しだった。
男が否定しても、噂は止まらない。
「いや、夫婦ではない」
「でも夫婦神って」
「それは神の話で」
「じゃあ、あんたは何だ」
「橋渡しだ」
「旦那みたいなもんか」
「違う」
「照れるな」
「照れてない」
女神は横で聞いていた。
否定しない。
ただ、薄く笑っている。
男が睨む。
「否定しろ」
「何を?」
「今の」
「民の理解としては、おおむね間違っていないわ」
「間違ってる」
「信仰とは、細部より続くことが重要なのよ」
「俺を巻き込むな」
「もう巻き込まれているでしょう」
「ひどい神様だ」
「今さらね」
人々は笑った。
笑いながら、祈る。
祈りながら、相談する。
八坂神奈子様。
タケミナカタ様。
八坂刀売様。
その名は混ざりながら広がった。
正確ではない。
だが、完全な嘘でもない。
暮らしに合う形へ、神の名が整えられていく。
女神はそれを許した。
むしろ、少しずつ導いた。
丈には、それが分かった。
神奈子は、民を騙しているわけではない。
嘘を与えているわけではない。
ただ、人が覚えやすい形へ、祈りやすい形へ、相談しやすい形へ整えている。
そして、その整えた形の中心に、自分を置いている。
八坂神奈子。
その名が、諏訪の周縁に根を張っていく。
◇
数年が過ぎた。
丈には、そう分かった。
男の髪が少し伸び、顔つきがわずかに大人びている。
女神の姿は変わらない。
だが、纏う風が違っていた。
もう、名に振り回されていない。
タケミナカタ。
八坂刀売。
八坂神奈子。
その束ねた名が、彼女の周りでひとつの神威になっている。
洩矢の奥には、まだ踏み込んでいない。
いや、踏み込まない。
だが、それ以外の土地には、彼女の気配が広がっていた。
水路に。
境の石に。
祭りの順に。
子供へ教える言葉に。
供え物の分け方に。
人々が困った時、まず相談する場所に。
八坂神奈子の名があった。
洩矢の神威は、なお大きい。
恐れとして、土地の奥にある。
しかし、日々の暮らしで人が手を伸ばす神は、少しずつ変わっていた。
恐れに頭を下げるだけではない。
相談できる神。
整えてくれる神。
分かりやすい神。
その名が、増えていた。
女神は丘の上から集落を見ていた。
隣に男がいる。
風が吹く。
「広がったな」
男が言う。
「ええ」
女神は静かに答える。
現代の神奈子に近い声だった。
落ち着いて、よく整った声。
だが、男に向ける時だけ、少しだけ素が混じる。
「あなたのおかげでもあるわ」
「巻き込まれただけだ」
「巻き込まれてくれたのでしょう」
「させたんだろ」
「結果として助かったわ」
「否定しないんだな」
「事実だもの」
男はため息を吐いた。
「このまま、奥へ行くのか」
女神は答えなかった。
丘の下に、湖が見える。
水路が伸びている。
田が並んでいる。
人々が動いている。
その向こう、木立の奥に、洩矢の領域がある。
湿った土。
石。
縄。
土の下に伏せるもの。
女神は、そこを見た。
もう、以前のように目を逸らさない。
「行くわ」
短く言った。
男は目を伏せる。
「話すのか」
「まずは」
「その後は」
「相手次第よ」
「お前次第でもある」
「分かっているわ」
「本当に?」
女神は、男を見た。
その目は穏やかだった。
だが、奥に固いものがある。
「くどいわね」
「言うさ」
「なら、聞いておくわ」
男は少し驚いた顔をした。
女神は湖を見下ろす。
「私は、ここまで来た」
風が、彼女の髪を揺らす。
「水を整え、境を置き、祀りを続けやすくし、人々が呼べる名を作った」
男は黙っている。
「諏訪は変わり始めている。けれど、壊れてはいない」
「そうだな」
「なら、次よ」
「洩矢か」
「ええ」
男は深く息を吐いた。
「諏訪を守ると言うなら」
女神の表情が、わずかに動く。
男は続けた。
「諏訪を憎むな」
女神はすぐには答えなかった。
数年前にも同じことを言われた。
その時、彼女は憎んでなどいないと言った。
今も、そう言えるはずだった。
だが、口に出すまで少し時間がかかった。
「……憎んでなどいないわ」
男は彼女を見る。
信じたのか、信じなかったのか。
分からない顔だった。
女神はその顔から目を逸らさない。
「私は、諏訪を守る」
「分かった」
「本当に分かったの?」
「多めに言って少し」
「少し?」
「多めに言って」
女神は、ほんの少し笑った。
「あなたは、本当に面倒な人ね」
「お前ほどじゃない」
「それは違うわ」
「違わない」
風が吹いた。
湖の向こうで、鳥が飛ぶ。
丘の下では、人々が田へ向かっている。
八坂神奈子の名は、もうそこにあった。
タケミナカタと八坂刀売の名を束ね、男と並び、人々の相談を受け、生活に入った神。
だが、洩矢の奥はまだ残っている。
そこへ、女神は向かう。
夢の中で、丈はその背中を見ていた。
かつて名をなくして倒れていた女神は、もういない。
そこにいるのは、名を束ねた神だった。
タケミナカタ。
八坂刀売。
八坂神奈子。
その名をまとい、諏訪の周縁を自分の風で満たした神。
そして、これから洩矢へ向かう神。
夢の景色が、ゆっくり暗くなっていく。
足元で、蛇のようなものが身じろぎした。
◇
丈は目を覚ました。
拝殿の縁に座ったままだった。
夕方の光が、少し傾いている。
体が重い。
頭の奥に、湖の風が残っている。
「丈くん?」
早苗の声がした。
丈は顔を上げる。
早苗が帳面を抱えて、少し離れたところに立っていた。
「寝てました?」
「……ちょっと」
「こんなところで?」
「眠くなった」
「疲れてるんですよ。やっぱり」
早苗は心配そうに近づいてくる。
丈は慌てて顔を整えた。
今見た夢の話はできない。
水路。
境。
八坂神奈子。
男と夫婦に見られていた話。
絶対に言えない。
言ったら、神奈子がまた変な顔をする。
早苗が首を傾げた。
「どうしました?」
「いや」
「何か見ました?」
丈は黙った。
早苗の目は、まっすぐだった。
風祝の目だった。
嘘は苦手だ。
だが、全部は言えない。
「夢」
「夢?」
「水路の夢」
「水路?」
「あと、石」
「……丈くんの夢、渋いですね」
「俺もそう思う」
早苗は不思議そうに笑った。
その時、拝殿の奥から風が来た。
神奈子の気配。
丈は一瞬、背筋を伸ばした。
風は、耳元で止まった。
『あとで話しましょう』
声がした。
静かだった。
静かすぎた。
丈は小さく頷いた。
早苗が見る。
「今、神奈子様ですか?」
「……たぶん」
「何て?」
「あとで話すって」
「丈くん、何かしたんですか?」
「してない」
「本当に?」
「夢を見ただけだ」
早苗はさらに首を傾げる。
「夢で何かしたんですか?」
丈は、答えなかった。
代わりに、拝殿の奥を見る。
風はもう静かだった。
けれど、神奈子がこちらを見ている気配だけは、はっきり残っていた。
丈は心の中で呟いた。
神様って、本当に面倒くさい。
それは、もちろん口には出さなかった。