第二十一話 洩矢の神
三時間目は、社会だった。
黒板には、先生の字で大きく「地域のくらしと水」と書かれている。
なんというか、嫌な題名だった。
丈は頬杖をつきながら、窓の外を見た。
校庭の向こうに、山が見える。
夏が近づいて、木々の緑は濃くなっていた。
風が吹くたびに、枝先がざわざわと揺れる。
先生は、諏訪湖の周辺では昔から水が暮らしに深く関わってきた、という話をしていた。
田に水を引くこと。
水を分けること。
水害を避けること。
そういう話だ。
普通の授業なら、普通に聞き流せた。
けれど、今の丈には普通ではなかった。
水路。
石。
縄。
祀り。
そういう言葉が出るたびに、頭の奥が少し重くなる。
黒板の白いチョークの線が、湖の霧に見える。
先生の声が、遠くの水音みたいに揺れる。
「昔の人々は、水をただの資源としてではなく――」
資源。
その言葉に、丈は少し眉を寄せた。
違う。
いや、授業としては間違っていないのだろう。
でも、そうじゃない。
水はただ流れるだけではない。
石はただ置かれているだけではない。
縄はただ結んであるだけではない。
そんなことを思った自分に、丈はうんざりした。
何を真面目に考えているのか。
ただの授業だ。
先生が教科書を読み、みんながノートを取り、昼休みまであと少し我慢するだけの時間だ。
なのに。
机の下。
床板のさらに下。
学校の基礎のさらに下。
土の奥で、何かが動いた。
蛇のようなもの。
縄のようなもの。
石の列のようなもの。
ミジャグジ。
そう呼んでいいのか分からない。
だが、その気配があった。
守矢神社ではない。
自分の家でもない。
学校だ。
それなのに届く。
神奈子の風より、ずっと深く、広く、しつこく。
諏訪子は、諏訪の土地そのものに結び付いている。
丈がどこにいても、諏訪にいる限り、逃げられない。
「……まじかよ」
小さく呟く。
隣の席の早苗が、ちらりとこちらを見た。
丈は慌てて前を向く。
だが、もう遅かった。
眠気が来た。
授業中の眠気に似ている。
でも、違う。
退屈だから眠いのではない。
引っ張られている。
頭の奥を、冷たい水が満たしていく。
先生の声が遠のく。
黒板の文字が滲む。
ノートの罫線が、水路のように曲がる。
丈は目を開けていようとした。
だが、瞼が落ちた。
最後に聞こえたのは、先生の声だった。
「――このように、土地の信仰と水の管理は、切り離せない面があり……」
そこで、教室が消えた。
◇
湖に霧が浮いていた。
山の影が水面に落ち、空はまだ薄い。
朝の冷たさが、草の先に白く残っている。
丈は、湖から少し離れた小高い場所に立っていた。
いや、立っているというより、そこに置かれているようだった。
目の前に村がある。
今よりずっと古い諏訪。
神奈子が来るより前の諏訪。
人々は朝から動いていた。
水を汲む女。
田の水口を見る男。
縄を綯う老人。
泥の上を走って転び、母親に叱られる子供。
木の根元に供え物を置く少女。
そのすべてが、土地と近かった。
水を汲む前に、女は水面へ一礼する。
子供が石に足をかけようとすると、母親がすぐに襟を掴む。
「そこは駄目だと言ったろ!」
「ちょっとだけ!」
「ちょっとで腹を壊しても知らないよ!」
「石に怒られるの?」
「石だけじゃない!」
子供は頬を膨らませる。
母親はその頭を押さえ、石へ向かって下げさせた。
「ごめんなさいは」
「……ごめんなさい」
「聞こえない」
「ごめんなさい!」
石は何も答えない。
だが、丈には分かった。
聞いている。
石そのものか。
石に寄るものか。
土の下のものか。
分からない。
だが、聞いている。
その気配があった。
そして、その気配の奥に、諏訪子がいた。
姿はまだ見えない。
けれど、土地のあちこちに彼女の気配がある。
水の冷たさに。
縄のざらつきに。
石の影に。
子供が泣く手前の、息を呑む一瞬に。
怖いものとして。
近いものとして。
忘れてはいけないものとして。
丈は息を吸った。
土の匂いが濃い。
そこへ、ひとりの男が来た。
若い。
今まで神奈子のそばにいた男より、少しだけ若い。
だが、同じ男だ。
背は高い。
肩はまだ今ほど厚くない。
腰に荷物を下げ、手には旅の杖を持っている。
衣には旅の埃がついていた。
よそ者だった。
村の空気が、少し変わる。
人々が男を見る。
警戒する者もいる。
子供は興味津々で近づこうとして、母親に襟を掴まれた。
「見るな」
「なんで」
「よそから来た人だ」
「悪い人?」
「知らないから見るな」
「知らないなら聞けばいいじゃん」
「その口を閉じな!」
男はそのやりとりを聞いて、少し困ったように笑った。
それから、村の入口にある石の前で足を止めた。
縄が掛けられている。
旅人なら、気づかずに通り過ぎてもおかしくない。
だが、男は止まった。
石を見る。
縄を見る。
周囲の人々が自分を見ていることに気づく。
そして、杖を少し下げ、頭を下げた。
深すぎない。
軽すぎない。
知らない場所へ入る者の礼だった。
村の空気が、わずかに緩む。
丈は、それを見ていた。
この男は、よそ者だ。
だが、知らないものを知らないまま踏まない。
分からないものを、分からないまま軽んじない。
そういう人間だった。
土の下で、何かが笑った気がした。
くすり、と。
子供の笑い声のように軽く。
けれど、その奥に湿ったものがある。
丈は振り返る。
そこに、諏訪子がいた。
今の諏訪子より、少し古い姿だった。
帽子はない。
髪は風に揺れ、衣は土地の色をしている。
少女のように見える。
しかし、足元の土が彼女を避けない。
水が彼女の影へ寄る。
石の沈黙が、彼女の息に合わせて深くなる。
洩矢の神。
諏訪子は、男を見ていた。
『へえ』
声は軽い。
『止まった』
彼女は面白そうに目を細めた。
『踏むかと思ったのに』
丈は何も言えない。
夢の中の諏訪子は、丈を見ていない。
これは記憶だ。
土地が覚えている、昔の諏訪子。
諏訪子は男の周りをゆっくり歩いた。
男には見えていない。
それでも、何かを感じたのか、男は少しだけ肩を動かした。
諏訪子がにやりと笑う。
『気づくんだ』
男は石の前を避けて、村へ入った。
その足取りを、諏訪子が追う。
『よそ者のくせに』
その声には、からかいがあった。
まだ好意ではない。
自分の土地へ入ってきた見慣れないものを、指先でつついてみたい。
そんな顔だった。
◇
男は、村にしばらく滞在することになった。
最初は旅の途中だったらしい。
だが、ちょうど水路の補修で手が足りず、男は日銭代わりに働いた。
よそ者に大事な場所を触らせるわけにはいかない。
村人たちはそう言って、最初は土運びや木材運びをさせた。
男は文句を言わなかった。
土を運ぶ。
木を運ぶ。
泥に足を取られる。
子供に笑われる。
笑われても怒らない。
だが、ふざけて禁じられた場所へ行こうとする子供には、手を伸ばして止めた。
「そこは駄目なんだろ」
「なんで知ってんの」
「大人がさっき怒ってた」
「聞いてたの?」
「聞こえた」
「よそ者なのに?」
「耳はある」
子供は妙な顔をした。
男は石の方を見る。
「怒られるなら、やめとけ」
「お母に?」
「お母にも」
「石にも?」
「たぶんな」
「石、怖い?」
「俺には分からん」
「分からないのに止めるの?」
「分からないから止める」
子供は不満そうに口を尖らせた。
だが、石へは行かなかった。
諏訪子は、近くの木の枝に座ってそれを見ていた。
足をぶらぶらさせる。
『分からないから止める、ね』
彼女はつぶやく。
『いいこと言うじゃん』
その顔は、少し楽しそうだった。
それから、ふっと指を動かした。
男の足元の泥が、少しだけ滑る。
男は踏ん張った。
転ばない。
諏訪子が眉を上げる。
『お』
もう一度、泥が滑る。
今度は男の足が取られた。
男は尻もちをついた。
子供が笑う。
「転んだ!」
「見りゃ分かる」
「よそ者、泥に負けた!」
「泥は強いな」
男は自分の泥だらけの手を見る。
それから、空へ向かって少しだけ眉を寄せた。
「……今のは、わざとだろ」
誰へ言ったのか。
村人には分からない。
子供も分からない。
だが、諏訪子は目を丸くした。
『へえ』
彼女は枝の上で笑った。
『やっぱり気づくんだ』
男は空を見上げたまま、ため息を吐いた。
「怒るところだったなら、悪かった」
諏訪子の笑いが止まる。
男は続けた。
「ただ、子供が行くのを止めただけだ」
枝の上で、諏訪子は頬杖をついた。
『へえ』
さっきより小さい声。
『言い訳するんだ』
男は立ち上がり、泥を払った。
その後ろで、子供がまだ笑っている。
諏訪子は、その笑い声と男の背中を交互に見た。
ちょっかいをかけたのは自分だ。
転ばせたのも自分だ。
なのに、男は怒鳴らない。
見えない相手に、まず謝った。
諏訪子は面白くなった。
面白くて、少しだけむかついた。
◇
男は働いた。
朝は水を見た。
昼は土を運んだ。
夕方には老人の話を聞いた。
夜は、村の端にある小屋で寝た。
よそ者だから、中心には入れない。
洩矢の奥にも入れない。
けれど、外から見ていた。
人がどこで頭を下げるか。
どの石を避けるか。
どの水を汲み、どの水に触れないか。
どの縄の前で子供が静かになるか。
男は、それを覚えた。
誰かが教えたわけではない。
ただ見て、覚えた。
ある日、老人が古い縄を替えようとして、足を滑らせた。
男はすぐに駆け寄る。
老人を支えた。
だが、縄には触れなかった。
「触っていいか」
老人へ聞く。
老人は息を整えながら、男を見る。
「……端だけなら」
「端だな」
「真ん中は触るな」
「分かった」
男は言われた通り、端だけを持った。
縄を支え、老人が結び直すのを待つ。
村の者たちがそれを見る。
よそ者なのに、勝手に触らない。
勝手に直さない。
触っていいか聞く。
聞いた範囲しか触らない。
当たり前のようで、なかなかできないことだった。
諏訪子は、石の上に座って見ていた。
膝に頬杖をついている。
『つまんないなあ』
彼女は言った。
『そこは触って怒られなよ』
男は縄の端を持ったまま、ふと石の方を見た。
見えていないはずだ。
だが、視線が合った気がした。
諏訪子は、思わず笑った。
『見えてないくせに』
男はすぐに視線を戻した。
縄は無事に結び直された。
老人が言う。
「助かった」
「俺は端を持ってただけだ」
「それでいい」
「そうか」
「余計なことをしない者は助かる」
老人の言葉に、男は少しだけ笑った。
「覚えておく」
諏訪子はその笑みを見た。
よそ者。
洩矢の外にいる男。
だが、外にいながら、洩矢の恐れを守る。
踏み込まないことで守る。
聞くことで守る。
知らないと言うことで守る。
それが、少しだけ気に入った。
気に入ったことに、諏訪子はまだ気づかないふりをした。
◇
からかうのは、簡単だった。
諏訪子にとって、人間を少し驚かせるくらいは息をするようなものだ。
男の桶を少し重くする。
置いたはずの杖を、半歩だけずらす。
踏もうとした木の根を、ほんの少しだけ持ち上げる。
夜、寝ようとした小屋の戸を、かたりと鳴らす。
男は毎回、反応した。
桶が重くなれば、持ち上げたまま眉を寄せる。
「増えたか?」
杖がずれていれば、拾い上げて周囲を見る。
「誰だ」
木の根でつまずきかければ、地面を見る。
「今のは性格が悪いな」
夜、小屋の戸が鳴れば、布団の中で目を開ける。
「風か」
諏訪子がもう一度鳴らす。
かたり。
「風じゃないな」
かたり。
「寝かせろ」
かたり。
「分かった。起きる」
男は起き上がり、戸を開ける。
外には誰もいない。
月明かりの下で、諏訪子は屋根の上に座っていた。
見えていない男を見下ろして、くすくす笑う。
男はしばらく外を見ていた。
それから、戸の横に小さな椀を置いた。
水だ。
「誰か知らないが、喉が渇いたなら飲め」
諏訪子の笑いが止まった。
男は欠伸をしながら言う。
「戸は鳴らすな。明日も仕事だ」
戸を閉める。
屋根の上で、諏訪子は椀を見下ろした。
水。
供え物ではない。
正式な祈りでもない。
ただ、誰かいるなら喉が渇いたのかもしれない、という水。
諏訪子は、しばらく動かなかった。
それから、屋根から降りる。
椀の前にしゃがむ。
『……何これ』
水面に月が映っている。
諏訪子は指先で水面をつついた。
月が揺れた。
『変なやつ』
彼女は水を飲まなかった。
ただ、その椀を朝までそのままにした。
翌朝、男は戸を開け、椀の水が減っていないことを確認した。
「飲まなかったか」
そう言って、水を地面へ撒いた。
「じゃあ、土に」
水が土へ染み込む。
諏訪子は木の上から見ていた。
胸の奥が、少しだけくすぐったかった。
からかったのは自分だ。
なのに、返された。
しかも、怒りでも恐れでもなく、水で。
不公平だ、と諏訪子は思った。
私は神なのに。
私の方が強いのに。
向こうは見えていないのに。
なのに、ちょっと面白い。
ちょっと、むかつく。
◇
男は、村に馴染んでいった。
完全にではない。
よそ者であることは変わらない。
だが、よそ者のまま、必要とされるようになった。
力仕事ができる。
口が軽すぎない。
知らないことを知ったふりしない。
子供を叱る時に、怒鳴りすぎない。
老人の話を途中で遮らない。
そして、洩矢の恐れを笑わない。
それだけで、村では十分だった。
ある日、子供が泣いていた。
村の外れ、縄の近く。
小さな男の子が、膝を擦りむいて座り込んでいる。
近くには、立ち入りを禁じる縄があった。
少し緩んでいる。
子供は泣きながら言った。
「ぼく、入ってない」
母親が困った顔をしている。
周りの大人たちも、不安そうに縄を見ている。
「でも、転んだところが悪い」
「縄に触れたか?」
「分からん」
「祟りがあるかもしれない」
子供はますます泣く。
男はそれを見て、近づいた。
「どこで転んだ」
子供は泣きながら指を差す。
縄の手前。
本当にぎりぎりだった。
男は地面を見る。
足跡。
滑った跡。
縄は揺れていない。
「入ってない」
男は言った。
大人たちが男を見る。
「分かるのか」
「足跡が手前で止まってる。縄にも泥がない」
「でも」
「謝るなら謝ればいい。怖いなら礼をすればいい。でも、やってないことで泣かせるな」
空気が止まった。
母親が息を呑む。
男は子供の前にしゃがむ。
「怖かったな」
子供は泣きながら頷く。
「なら、頭を下げろ。入ってないが、騒がせた。ここを怖がる気持ちは忘れない。そう言えばいい」
「……言えばいい?」
「言えるか」
子供はしゃくり上げながら、縄の方へ頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。入ってないけど、ころんで、こわかったです」
妙な謝罪だった。
大人たちは困った顔をした。
だが、誰も止めなかった。
男も一緒に頭を下げた。
「こいつは入ってない。だが、怖がっている。許してやってくれ」
縄が、ほんの少し揺れた。
風ではない。
諏訪子だ。
彼女は木の陰から見ていた。
子供を泣かせて覚えさせることはできる。
恐れは大事だ。
怖いから近づかない。
怖いから越えない。
怖いから守る。
でも。
男は、怖がらせながらも、潰さない。
入っていない子供を、入ったことにはしない。
怖いものを軽んじない。
同時に、人間の子供も軽んじない。
諏訪子は、少し口を尖らせた。
『何それ』
面白くない。
いや、面白い。
どちらか分からない。
男は子供の膝を洗い、布を巻いた。
「次から走るな」
「うん」
「縄の近くで遊ぶな」
「うん」
「怖かったら、大人を呼べ」
「おじさんでもいい?」
「おじさんじゃない」
「じゃあ、にいちゃん」
「それならいい」
子供が少し笑った。
諏訪子は、その笑顔を見た。
胸の奥がまた、変にくすぐったくなる。
『……私でもいいじゃん』
小さく呟く。
だが、子供には聞こえない。
男にも聞こえない。
諏訪子はむっとした。
聞こえないくせに。
私の土地なのに。
私の恐れなのに。
なんで、あいつに笑うんだ。
不公平だ。
私の方が強いのに。
でも。
まあいいか。
子供は、縄を越えなかった。
男は、恐れを壊さなかった。
それなら、まあ。
いいだろう。
諏訪子は、そう思った。
思ったことにしておいた。
◇
男が諏訪子を初めてはっきり見たのは、雨の日だった。
夕方。
湖から霧が上がり、村の道が白く煙っていた。
男は水路の様子を見に行っていた。
雨で水が増え、子供が近づかないように縄を直していたのだ。
「よそ者なのに、よくやるね」
声がした。
男は振り返る。
霧の中に、少女が立っていた。
諏訪子だった。
丈は、息を呑んだ。
今の諏訪子に似ている。
けれど違う。
もっと湿っている。
もっと土に近い。
笑っているのに、足元の水が笑っていない。
男は、しばらく彼女を見た。
そして、少しだけ目を細める。
「やっと見えた」
諏訪子が笑う。
「やっと?」
「前からいたろ」
「さあ?」
「泥を滑らせた」
「泥は滑るものだよ」
「戸も鳴らした」
「風じゃない?」
「風にしては性格が悪かった」
諏訪子は声を上げて笑った。
「言うねえ」
「怒るか」
「怒ってほしい?」
「怒らないなら助かる」
「じゃあ、怒らない」
諏訪子は水路の石に腰かけた。
男は少しだけ顔をしかめる。
「そこ、座っていいのか」
「私の石だよ」
「そうか」
「止めないんだ」
「持ち主が座るならいいだろ」
「分かってるじゃん」
諏訪子は足をぶらつかせる。
「よそ者のくせに」
「よく言われる」
「誰に?」
「いろんな奴に」
「私にも?」
「今、言われた」
諏訪子はまた笑った。
雨が降っているのに、男は立ったままだ。
諏訪子は首を傾げる。
「怖くないの?」
「怖い」
男は即答した。
諏訪子の笑みが少し止まる。
「へえ」
「怖いだろ。ここは」
「じゃあ、逃げれば?」
「仕事が残ってる」
「仕事と神様、どっちが大事?」
「比べるものか?」
「比べてよ」
「なら、今は水路」
諏訪子は目を丸くした。
それから、腹を抱えて笑った。
「神様より水路!」
「水路が壊れたら、人が困る」
「神様が怒ったら?」
「それも困る」
「じゃあ、私も困らせようかな」
「やめてくれ」
「素直だ」
「困るものは困る」
男は縄を結び直す。
諏訪子は、その手元を見る。
「ねえ」
「何だ」
「私が誰か、分かってる?」
「洩矢の神」
「誰に聞いたの」
「聞いてない」
「じゃあ何で」
「そういう顔をしてる」
諏訪子は目を細めた。
「顔?」
「土地の顔だ」
「何それ」
「分からん」
「分からないのに言うの」
「分からないけど、そう見える」
諏訪子は黙った。
雨が水路を叩く。
男は縄を結び終えた。
立ち上がる。
諏訪子は、石の上でまだ彼を見ていた。
「怖いんだよね」
「ああ」
「嫌い?」
男は少し考えた。
すぐに答えなかった。
諏訪子は笑ったまま待った。
待ったが、胸の奥が少しだけ硬くなる。
怖いなら、嫌いでもおかしくない。
恐れられるのが神だ。
嫌われることもある。
それでいい。
それでいいはずだった。
男は言った。
「嫌いじゃない」
諏訪子の足が止まる。
「怖いのに?」
「怖いのと嫌いは違う」
「違うかな」
「違うだろ」
「何で」
「怖いものでも、守ってくれるものはある」
「私が守ってるって?」
「この土地は、そう見える」
諏訪子は黙った。
雨音が大きくなる。
男は続ける。
「怖いから、人が近づかない。怖いから、石を動かさない。怖いから、水を粗末にしない。そういうのは、嫌いじゃない」
諏訪子は、男を見ていた。
男は少し困ったように頭を掻く。
「うまく言えんが」
「……うまく言わなくていい」
諏訪子は小さく言った。
「それ以上言うと、たぶん腹立つ」
「もう腹立ってるのか」
「少し」
「何で」
「私にも分からない」
諏訪子は石から降りた。
男の近くへ歩く。
雨の中なのに、彼女の髪は濡れているようで濡れていない。
土の匂いが強くなる。
男は少し身構えた。
諏訪子はそれを見て笑う。
「怖い?」
「怖い」
「でも嫌いじゃない?」
「今のところは」
「今のところ?」
「今後、戸を鳴らしすぎたら嫌いになるかもしれない」
諏訪子は、思わず笑った。
軽く。
年相応の少女のように。
「じゃあ、少しにしとく」
「頼む」
「でも、やめない」
「だろうな」
雨の中、二人はしばらく向かい合っていた。
丈は、その光景を見ていた。
諏訪子が、惚れた瞬間。
そう言い切るには、たぶん早い。
だが、何かが変わったのは分かった。
恐れられている神が。
怖いと言われた神が。
それでも嫌いじゃないと言われた。
好き、とは違う。
愛している、でもない。
けれど、諏訪子には十分だったのかもしれない。
十分すぎたのかもしれない。
彼女は神だから。
恐れられることには慣れている。
敬われることにも慣れている。
祈られることにも慣れている。
だが、怖いけれど嫌いじゃない、と正面から言われることには慣れていなかった。
◇
それから、諏訪子は男の前に姿を見せるようになった。
毎日ではない。
気まぐれに。
男が水路を見ている時。
石を戻している時。
子供を叱っている時。
夜、戸口に水を置く時。
諏訪子は、どこからともなく現れた。
「今日は何してるの」
「見れば分かるだろ」
「見ても分からないふりをしたい時もある」
「面倒だな」
「神様だからね」
「便利だな」
「便利だよ」
そんな会話が増えた。
諏訪子は男をからかった。
男は諏訪子に突っ込んだ。
時々、諏訪子は本当に怖いことをした。
子供が禁じられた石に座ろうとすると、周囲の木々を一斉に鳴らした。
子供は泣いた。
男は子供を抱えて戻しながら、諏訪子を睨んだ。
「泣かすな」
「泣かないと覚えないよ」
「覚えさせるのと泣かすのは違う」
「違わない時もある」
「今は違った」
「よそ者のくせに、私のやり方に口出すんだ」
「泣きすぎると、次から近づいただけで固まる」
「それでいいじゃん」
「よくない。怖がるのと、動けなくなるのは違う」
諏訪子はむっとした。
「人間を甘やかすね」
「子供だ」
「子供でも、土地の決まりは守らせる」
「守らせる。でも潰すな」
「潰してない」
「泣いて息できてなかったぞ」
「……少しやりすぎた?」
「だいぶ」
諏訪子は顔をそらす。
「じゃあ、次は少しにする」
「そうしてくれ」
「でも、あんたに言われたからじゃない」
「そうか」
「私がそう思ったから」
「そうか」
「ほんとに分かってる?」
「多めに言って少し」
「少し?」
「多めに言って」
諏訪子は男の足元の泥を跳ねさせた。
男の裾が汚れる。
「おい」
「多めにやった」
「そういう意味じゃない」
諏訪子は笑った。
男はため息を吐いた。
このやりとりを、村人が遠くから見ていた。
姿が見える者も、見えない者もいる。
ただ、男が洩矢の神と何かを話しているらしいことは、少しずつ知られていった。
よそ者の男。
洩矢様にからかわれる男。
でも、洩矢様の恐れを軽んじない男。
子供を守る男。
石と水に礼をする男。
諏訪子は、その噂を聞いて鼻を鳴らした。
『私がからかってやってるんだよ』
誰に聞かせるでもなく言う。
『あいつが特別なんじゃない』
そう言いながら、男のところへ行く。
行って、またちょっかいをかける。
自分から。
毎回。
不公平だ。
惚れているのは、たぶん自分の方なのに。
彼は、恐れている。
敬っている。
嫌いではないと言った。
それだけだ。
なのに、自分ばかりが、彼を見に行く。
不公平だ。
でも、私の方が強い。
神だし。
土地だし。
洩矢だし。
なら、まあいいだろう。
そう思う。
でも、やっぱりちょっとむかつく。
諏訪子は、そういう顔で男の横に座った。
「ねえ」
「何だ」
「あんた、私の男になる?」
男が持っていた木片を落とした。
「何だ急に」
「聞いただけ」
「ならない」
「早い」
「答えが決まってるからな」
「私の土地に住んでる男は、だいたい私のものだよ」
「じゃあ村の男全員か」
「そうだね」
「なら俺じゃなくてもいいだろ」
「あんたは別腹」
「腹に入れるな」
諏訪子は笑った。
男は木片を拾い直す。
「そういう冗談は、村の娘に聞かれると面倒だぞ」
「冗談だと思ってるんだ」
男の手が止まる。
諏訪子は、にこにこしている。
けれど、目は笑っていない。
男はしばらく彼女を見る。
それから、少し困った顔をした。
「……神様は、そういうことを軽く言うものか」
「軽くないよ」
「そうは見えない」
「重く言ったら逃げるでしょ」
「軽く言っても困る」
「じゃあ、困ってなよ」
諏訪子は立ち上がった。
背中を向ける。
「私は困ってないし」
嘘だった。
丈にも分かった。
男にも、少しは分かったのかもしれない。
だが、男は何も言わなかった。
言わないことを選んだ。
それがまた、諏訪子をむかつかせた。
追いかけてこない。
否定もしない。
でも、受け取りもしない。
不公平だ。
神様たらしのあいつが悪い。
諏訪子はそう決めた。
◇
ある夜、村の外れで祭りがあった。
大きな祭りではない。
水が荒れないように。
子供が禁じられた場所へ入らないように。
石を動かさないように。
そういう小さな祀りだった。
人々は火を焚き、縄を張り替え、供え物を置いた。
諏訪子は少し離れた石の上でそれを見ていた。
人々は彼女を恐れている。
祈っている。
忘れていない。
それは心地よかった。
自分が土地であり、土地が自分であることを、人々が知っている。
怖がりながら、頼りながら、近づきすぎず、離れすぎず。
それでよかった。
そのはずだった。
男が来た。
手に小さな椀を持っている。
諏訪子の近くまで来て、少し離れた場所に置いた。
「水?」
諏訪子が聞く。
「酒はなかった」
「供え物?」
「そう言うと、怒るかと思って」
「何で」
「正式なやり方を知らん」
「知らないなら聞けば?」
「誰に」
「私に」
「じゃあ聞く。置いていいか」
諏訪子は椀を見る。
水面に火の明かりが映っている。
彼が初めて戸口に置いた水を思い出した。
喉が渇いたなら飲め、と言われた夜。
あれから、ずいぶん経った気がする。
「いいよ」
諏訪子は言った。
「でも、次は甘いものがいい」
「贅沢だな」
「神様だからね」
「便利だな」
「便利だよ」
男は諏訪子の横に座らず、少し離れたところに腰を下ろした。
距離を取る。
近すぎない。
遠すぎない。
いつもそうだ。
諏訪子は、その距離が気に入っていた。
気に入っていることが、気に入らなかった。
「ねえ」
「何だ」
「私、怖い?」
「ああ」
「まだ?」
「慣れるものじゃない」
「嫌い?」
「嫌いじゃない」
「好き?」
男が黙った。
火の音が聞こえる。
村人の歌が遠くで揺れている。
諏訪子は笑っていた。
いつもの軽い笑顔。
だが、指先は石の上で止まっていた。
男は、すぐに答えなかった。
その沈黙が長い。
長すぎる。
諏訪子は、胸の奥が少し冷たくなる。
聞かなければよかった。
軽く聞いたふりをしているのに、軽くなかった。
男はようやく言った。
「好きか嫌いかで言えば、好きだ」
諏訪子の笑みが消えた。
男は続ける。
「ただ、神様に言う好きが、どういうものかは分からん」
「……何それ」
「分からないものは、分からない」
「そこで正直になる?」
「嘘をつくところか?」
「もうちょっと、こう」
「こう?」
「あるでしょ」
「分からん」
諏訪子は、石の上で膝を抱えた。
「ほんと、腹立つ」
「悪い」
「謝るな」
「じゃあ、謝らない」
「それも腹立つ」
「どうしろと」
「困ってなよ」
「困ってる」
「ならいい」
火が揺れる。
諏訪子は顔を膝に埋めた。
耳が熱い。
神に耳が熱くなるのか、自分でも分からない。
でも、熱い。
好きと言わせた。
自分から聞いた。
なのに、言われたら困る。
不公平だ。
でも、悪くない。
怖い。
嫌いじゃない。
好き。
分からないけれど、好き。
それで十分なのかもしれない。
いや、十分じゃない。
もっと欲しい。
でも、今はこれでいい。
諏訪子は、膝に顔を埋めたまま小さく言った。
「私、悪くないよね」
男には聞こえなかったのかもしれない。
それでも、彼は少しだけこちらを見た。
「何か言ったか」
「何も」
「そうか」
「うん」
諏訪子は顔を上げない。
神様たらしのあいつが悪い。
恐れても、嫌いじゃないと言ったあいつが悪い。
好きか嫌いかなら好きだなんて、変な言い方をしたあいつが悪い。
だから、私は悪くない。
そう思うことにした。
◇
時間が流れた。
男は、洩矢の外にいながら、洩矢の恐れを守った。
よそ者でありながら、村の作法を覚えた。
触っていいものと、触ってはいけないものを分けた。
分からないものを、分からないまま大事にした。
諏訪子は、彼をからかった。
足元の泥を滑らせた。
戸を鳴らした。
隠した杖を半歩だけずらした。
子供に甘いと言って文句をつけた。
水の供え物に甘いものを要求した。
私の男になるかと聞いた。
好きかと聞いた。
そして、そのたびに自分の方が乱された。
彼は、神を恐れた。
それでも、逃げなかった。
神を敬った。
それでも、言うべきことは言った。
神を好きだと言った。
それでも、分からないものを分かったようには言わなかった。
諏訪子は、そこに惹かれた。
本人は、最後まで素直には認めなかった。
けれど、土地は覚えている。
水も。
石も。
縄も。
丈の足元の土が、静かに脈を打った。
これは、神奈子が来る前の話。
タケミナカタの風が吹く前の話。
洩矢の神が、よそ者の男を目で追うようになった頃の話。
その穏やかで、少し重く、少し若い時間。
だが、夢の中の空が変わる。
遠くから、別の風が近づいていた。
湖面が揺れる。
諏訪子が顔を上げる。
男も、何かに気づいたように山の向こうを見る。
風。
水。
名を得た神の気配。
まだ名は知らない。
だが、何かが来ることは分かった。
諏訪子は石の上に立つ。
目を細める。
「……ふうん」
声は軽い。
けれど、足元の土が低く唸っていた。
「あれが、来るんだ」
男が近くへ来る。
「何かあるのか」
「あるよ」
「何が」
「面倒なのが来る」
「お前が面倒と言うなら、相当だな」
「うるさい」
諏訪子は男を見る。
彼は、自分の土地の男だ。
よそ者だったはずなのに、今ではこの土地の作法を知っている。
自分を恐れ、嫌いじゃないと言い、好きだとも言った。
その男が、やがて来る神とも出会う。
それを諏訪子はまだ知らない。
いや、土地はもう知っているのかもしれない。
だから、胸の奥がざわつくのかもしれない。
諏訪子は、男の袖を軽く引いた。
「ねえ」
「何だ」
「あんたは私の男だからね」
「またそれか」
「今度は冗談じゃないよ」
「前も冗談じゃなかったんじゃないのか」
「そうだよ」
「面倒だな」
「神様だからね」
「便利だな」
「便利だよ」
諏訪子は笑った。
笑って、遠くの風を睨んだ。
夢の景色が薄れていく。
湖の霧。
火の明かり。
水の椀。
石の上の諏訪子。
よそ者の男。
そして、遠くから近づく知らない神の風。
◇
「――では、ここ、大事なので線を引いておくように」
先生の声で、丈は目を覚ました。
机に突っ伏していた。
右腕が痺れている。
頬に、ノートの端が当たっていた。
教室だった。
黒板には、まだ「地域のくらしと水」と書かれている。
チョークの粉。
窓から入る風。
隣の席でノートを取っている早苗。
全部、普通だった。
普通なのに、頭の奥にまだ湖の霧が残っている。
丈は、ゆっくり顔を上げた。
早苗が小声で言う。
「丈くん、寝てましたよ」
「……ああ」
「珍しいですね。三時間目で寝るなんて」
「そうか?」
「いつもは五時間目くらいです」
「分析するな」
「あと、寝ながらちょっと眉間に皺寄ってました」
「悪夢だったんだよ」
「どんな夢です?」
丈は口を開きかけた。
諏訪子。
昔の諏訪。
よそ者の男。
恐れを嫌いじゃないと言ったこと。
あれが来る、と遠くの風を睨んだこと。
言えるわけがない。
丈は黒板を見る。
先生は、水の管理と地域の決まりについて説明している。
あまりにも噛み合いすぎていて、逆に腹が立つ。
丈は小さく呟いた。
「これ、ろくなことにならなくねえか」
「え?」
早苗が聞き返す。
丈は首を振った。
「いや、授業の話」
「水の管理がですか?」
「まあ、広げると揉めそうだろ」
「急に真面目ですね」
「寝起きだからな」
「寝起きって便利ですね」
「便利だぞ」
早苗は少し笑って、またノートへ視線を戻した。
丈は、窓の外を見た。
山がある。
校庭がある。
風が吹いている。
その奥で、土がほんの少しだけ動いた気がした。
誰かが笑ったような気もした。
丈は鉛筆を持ち直す。
黒板の文字を写そうとして、手が止まった。
ノートの端に、小さく書いてしまった。
――ろくなことにならない。
自分でそれを見て、ため息を吐いた。
チャイムが鳴る。
三時間目が終わった。
だが、丈の眠気は完全には抜けていなかった。
四時間目が来る。
嫌な予感だけが、机の下に残っていた。