現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第二十二話 「一度目の浮気」

第二十二話 一度度目の浮気

 

 三時間目が終わったあと、丈は机に突っ伏したまま動けなかった。

 

 チャイムの音は聞こえていた。

 

 教室がざわつき、男子たちが席を立ち、誰かが廊下へ走っていく音も聞こえていた。

 

 早苗が隣で心配そうに覗き込んでいるのも分かった。

 

「丈くん、大丈夫ですか?」

 

「……大丈夫」

 

「大丈夫な人の声じゃないです」

 

「寝起きなんだ」

 

「三時間目の寝起きでそこまで疲れます?」

 

「夢見が悪かった」

 

 丈は顔を上げた。

 

 黒板には、まだ「地域のくらしと水」の文字が残っている。

 

 先生が消し忘れたのだろう。

 

 その字を見るだけで、頭の奥が重くなった。

 

 諏訪子。

 

 よそ者の男。

 

 石。

 

 縄。

 

 水。

 

 そして、遠くから近づいてくる知らない神の風。

 

 丈は、ノートの端に自分で書いた文字を見る。

 

 ――ろくなことにならない。

 

 自分で書いたくせに、嫌な予言みたいだった。

 

「丈くん?」

 

「何でもない」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

「ならいいですけど」

 

 早苗はまだ少し疑っている顔だったが、それ以上は追及しなかった。

 

 四時間目の準備を始める。

 

 次は国語だった。

 

 教科書を出す。

 

 ノートを出す。

 

 鉛筆を握る。

 

 普通の授業の準備。

 

 それだけのはずだった。

 

 けれど、丈はもう嫌な予感しかしなかった。

 

 四時間目が始まる。

 

 先生が教室へ入ってくる。

 

 号令。

 

 着席。

 

 教科書を開く音。

 

 すべてが普通だった。

 

 先生は黒板に題名を書いた。

 

 古い随筆の一節だった。

 

 山里の暮らし。

 

 季節の移ろい。

 

 人と自然。

 

 またかよ、と丈は思った。

 

 先生の声が、ゆっくり教室に広がる。

 

「昔の人々は、自然をただ利用するだけではなく、その中にあるものと共に暮らしていたわけです」

 

 共に暮らす。

 

 その言葉が、頭の奥に引っかかった。

 

 男は言っていた。

 

 怖いものでも、守ってくれるものはある。

 

 怖いのと嫌いは違う。

 

 諏訪子は、それを聞いて黙っていた。

 

 そして、遠くの風を見て言った。

 

 面倒なのが来る。

 

 丈は瞬きをした。

 

 眠い。

 

 まずい。

 

 さっき寝たばかりなのに、また眠い。

 

 自分の意思とは別に、瞼が重くなる。

 

 机の下。

 

 床の下。

 

 学校の基礎の下。

 

 土の奥で、何かがゆっくり身じろぎする。

 

 蛇のようなもの。

 

 縄のようなもの。

 

 石の列のようなもの。

 

 そこへ、今度は風が混じった。

 

 諏訪子の土。

 

 神奈子の風。

 

 まだぶつかってはいない。

 

 けれど、同じ場所へ向かっている。

 

 丈は鉛筆を握りしめた。

 

 寝るな。

 

 寝るな。

 

 四時間目にまで寝たら、さすがに早苗に怪しまれる。

 

 先生にも怒られる。

 

 何より、また見てしまう。

 

 だが、教科書の文字が歪んだ。

 

 行間が水路のように流れる。

 

 黒板の字が縄のように絡む。

 

 先生の声が、火の音みたいに遠くなる。

 

「――つまり、恐れや祈りもまた、共同体の秩序として……」

 

 丈は、机に突っ伏した。

 

     ◇

 

 諏訪子は、機嫌が悪かった。

 

 村の子供が禁じられた石へ腰かけようとした時、いつもなら木の枝を鳴らすくらいで済ませる。

 

 少し怖がらせる。

 

 少し泣かせる。

 

 それで覚えさせる。

 

 怖いものは、怖いまま覚えた方がいい。

 

 そういうものだからだ。

 

 けれど、その日は違った。

 

 子供が石へ手をついた瞬間、周りの草が一斉に伏せた。

 

 木の葉がざわりと鳴り、足元の土が沈んだ。

 

 子供は悲鳴を上げて転び、泣き出した。

 

 男が水路の向こうから走ってくる。

 

「やりすぎだ」

 

 諏訪子は石の上に座り、頬杖をついた。

 

「そう?」

 

「そうだ」

 

「石に座ろうとした」

 

「座る前に止めればいい」

 

「止めたよ」

 

「泣きすぎて息が詰まってる」

 

「それくらい覚えるでしょ」

 

 男は子供を抱き起こし、背中をさすった。

 

 子供は顔を真っ赤にして泣いている。

 

 村の女が慌てて駆け寄ってきた。

 

 男は子供を渡し、深く息を吐いた。

 

 諏訪子を見る。

 

「どうした」

 

「何が」

 

「最近、荒い」

 

「神様だからね」

 

「便利に使うな」

 

「便利だから使ってる」

 

 諏訪子は笑った。

 

 けれど、その笑いは少し固かった。

 

 男は眉を寄せる。

 

 諏訪子は視線を逸らした。

 

 遠く、湖の方を見る。

 

 そこには風が吹いている。

 

 この土地の風ではない。

 

 まだ完全には馴染んでいない。

 

 けれど、日に日に人の暮らしの中へ入り込んでくる風。

 

 水路。

 

 境の石。

 

 祭りの順。

 

 供え物の量。

 

 子供に教える決まり。

 

 女神の声が、少しずつそれらに触れていた。

 

 名無しだったはずの神が。

 

 よそから来た女神が。

 

 天津の名をまとい、夫婦神の形まで束ね、八坂神奈子などと呼ばれ始めている。

 

 諏訪子は、鼻で笑った。

 

「うまいことやってるよね」

 

 男は何も言わなかった。

 

「水の揉め事を減らした。境も分かりやすくした。祭りも続けやすくした。民は助かってる。いい神様だねえ」

 

 声は軽い。

 

 しかし、土の下が低く唸っている。

 

「お前もそう思ってるんでしょ」

 

 男はしばらく黙っていた。

 

 それから、答えた。

 

「助かっている者がいるのは事実だ」

 

 諏訪子は笑った。

 

「ほら」

 

「だが」

 

「だが?」

 

「それだけじゃないのも分かる」

 

「へえ」

 

「お前が苛立つのも分かる」

 

 諏訪子の目が細くなる。

 

「分かる?」

 

「全部ではない」

 

「便利な逃げ方」

 

「全部分かると言ったら怒るだろ」

 

「怒るね」

 

「だから、全部ではない」

 

 諏訪子は石の上で膝を抱えた。

 

 男は泣いていた子供の方を見る。

 

 子供は母親に抱かれて、まだしゃくり上げている。

 

 諏訪子は、少しだけ顔を伏せた。

 

 やりすぎたことは分かっている。

 

 分かっているから、余計に腹が立つ。

 

 あの女神のやり方なら、こういう時も「近づいてはいけない印を置きましょう」とでも言うのだろう。

 

 子供が泣きすぎないように。

 

 大人が間違えないように。

 

 恐れを、規律に変える。

 

 分かりやすくする。

 

 続けやすくする。

 

 それは間違っていない。

 

 間違っていないのが、腹立たしい。

 

     ◇

 

 八坂神奈子の名は、諏訪の周縁に広がっていた。

 

 洩矢の奥ではない。

 

 けれど、奥ではない場所は広い。

 

 湖の周りに田がある。

 

 水路がある。

 

 家がある。

 

 人の争いがある。

 

 そこへ、あの女神は入り込んだ。

 

 恐れではなく、相談で。

 

 祟りではなく、整理で。

 

 怖いものを怖いまま置きながら、その周りに規律を立てていく。

 

 諏訪子は何度か、その様子を遠くから見た。

 

 水路で揉めていた男たちが、女神の指示で石を動かす。

 

 境争いをしていた家同士が、新しい印を置く。

 

 祭りの供え物が多すぎて続かない家に、女神が言う。

 

「続かない祈りは、負担になるわ。毎年できる形にしなさい」

 

 それを聞いた老婆が、ほっとしたように笑う。

 

 諏訪子は、木の陰からそれを見ていた。

 

 口を尖らせながら。

 

 悪くない。

 

 むしろ、うまい。

 

 あの女神は、人が困る場所を見つけるのが早い。

 

 揉め事をほどくのも早い。

 

 しかも、ただ甘やかしているわけではない。

 

 決まりを作らせる。

 

 守らせる。

 

 続けさせる。

 

 恐れだけでは雑になっていた部分を、言葉と印で支えている。

 

 諏訪子は、それを認めていた。

 

 認めていることが、腹立たしかった。

 

「あー、やだやだ」

 

 誰もいない木の上で呟く。

 

「仕事できる女ってやつだ」

 

 風が吹く。

 

 その風の先に、男がいた。

 

 女神の横で石を運んでいる。

 

 女神が言い、男が人間の言葉へ直す。

 

 人々が頷く。

 

 女神は少しだけ満足そうにする。

 

 男は困った顔で、それでも手伝う。

 

 諏訪子は、枝を強く握った。

 

 めき、と音がした。

 

「……折れた」

 

 折ったのは自分だ。

 

 それでも、なんだか枝が悪い気がした。

 

     ◇

 

 男が戻ってきたのは、夕方だった。

 

 肩に泥がついている。

 

 手には石を運んだ跡が残っている。

 

 諏訪子は水路の石の上に座って待っていた。

 

 待っていない顔で。

 

「浮気は楽しい?」

 

 男は固まった。

 

 水を飲もうとしていた手が止まる。

 

 しばらくして、ゆっくり諏訪子を見る。

 

「何のことだ」

 

「私の土地だよ」

 

 諏訪子は足をぶらぶらさせた。

 

「よそ者は分かる」

 

「……あの神のことか」

 

「名無しだったくせに、今じゃずいぶん名乗ってるじゃない」

 

「名無しかどうかは、俺には分からない」

 

「分かるよ」

 

 諏訪子の声が少し低くなる。

 

「私の土地だもん」

 

 男は口を閉じた。

 

 諏訪子は続ける。

 

「あの女神、天津の名を着てる。タケミナカタ。八坂刀売。八坂神奈子。うまく包んで、分かりやすくして、人に呼ばせてる」

 

「嘘ではないんだろ」

 

「嘘じゃないね」

 

 諏訪子はあっさり認めた。

 

「嘘じゃない。だから腹立つ」

 

「腹立つのか」

 

「腹立つよ」

 

「なぜ」

 

「嘘なら潰せる」

 

 男の顔がわずかに強張る。

 

 諏訪子は笑った。

 

「でも、嘘じゃない。民は助かってる。水の揉め事は減った。境も分かりやすくなった。祭りも続けやすくなった。あの女神の手腕は認めるよ」

 

 言うたびに、声が冷えていく。

 

「でも、許せるかは別」

 

 男は水を置いた。

 

「俺が手伝っていることもか」

 

「うん」

 

「俺は、橋渡しをしているだけだ」

 

「便利な言葉」

 

「お前もよく使うだろ」

 

「私は神様だからいいの」

 

「ひどい理屈だな」

 

「神様だからね」

 

 諏訪子は笑った。

 

 けれど、すぐに笑いを消す。

 

「ねえ。あの女の目、知らないの?」

 

 男は眉を寄せる。

 

「目?」

 

「野心と恐怖がいっぱい。奪われるのが嫌な盗人の目」

 

「言い方が悪い」

 

「悪く言ってるんだもん」

 

 諏訪子は石から降りた。

 

 男の前へ立つ。

 

「私の土地を見てる。民を見てる。水を見てる。石を見てる。全部、整えられるものとして見てる」

 

「それで助かっている者もいる」

 

「知ってる」

 

「なら」

 

「だからむかつくって言ってるの」

 

 諏訪子の足元で、水が揺れた。

 

「暮らしはよくなってる。そこは認める。でも、あの女神は私を殺しに来るね」

 

 男の顔が変わった。

 

「殺す?」

 

「殺すよ」

 

「なぜ、そう言い切る」

 

「分かるから」

 

「土地だからか」

 

「うん」

 

 諏訪子は軽く頷いた。

 

「土地だから分かる。神だから分かる。あれは、私をそのままにはしておかない」

 

「話し合えないのか」

 

「話はするんじゃない?」

 

「なら」

 

「でも、あの女神が求めてるのは、私が奥に引っ込むことだよ」

 

 男は黙った。

 

 諏訪子は彼を見ていた。

 

「洩矢は奥に。恐れは残す。表の形は自分が整える。そんなところでしょ」

 

「……そこまで聞いたのか」

 

「聞かなくても分かる」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

 諏訪子は、少しだけ口元を歪めた。

 

「ねえ。あんた、私を馬鹿だと思ってる?」

 

「思ってない」

 

「私は、変化が嫌いなわけじゃない」

 

「それは知ってる」

 

「知ってる?」

 

「この土地は、変わってる」

 

 男は言った。

 

「水路も、家も、祭りも。人も変わる。子供も大人になる。縄も張り替える。古い石の横に、新しい印を置くこともある」

 

 諏訪子は黙る。

 

「それを、お前は全部拒んできたわけじゃない」

 

「……」

 

「だから、排除しないのにも理由がある。違うか」

 

 諏訪子は、男を睨んだ。

 

「そういうところ」

 

「何が」

 

「ほんと、そういうところ」

 

「怒ってるのか」

 

「怒ってるよ」

 

「なぜ」

 

「私が自分の理屈で自分を殴る前に、あんたが言うから」

 

 男は困った顔をした。

 

 諏訪子は地面を軽く蹴った。

 

 小さく泥が跳ねる。

 

「そうだよ。諏訪は変わる。変わりながら残る。私だって知ってる」

 

 声が低くなる。

 

「あの女神のやり方が全部駄目なわけじゃない。民は助かってる。規律で済むところは、規律で済ませてもいい。恐れなくても守れるものはある」

 

 男は黙って聞いている。

 

「でも」

 

 諏訪子は男を見る。

 

「規律で賄いきれない場所がある」

 

「ああ」

 

「あんたは、そこを止めてる」

 

「俺は止めているだけだ」

 

「それが大事なんだよ」

 

 諏訪子は胸元に手を当てた。

 

「ここから先は駄目。ここは触るな。これは知らないまま頭を下げろ。そういう場所がある。あの女神は、それが分からない」

 

「分からないとは限らない」

 

「分かってないよ」

 

「なぜ」

 

「恐れが、あの女神には外にあるから」

 

 諏訪子は言った。

 

「私には中にある。民にも中にある。石にも、水にも、土にもある。でもあの女神は、それを外から見てる。どう置けばいいか、どう残せばいいか、どう役目を与えればいいかって」

 

 男は口を開きかけ、閉じた。

 

 諏訪子は笑う。

 

「ほら。否定できない」

 

「全部ではない」

 

「便利な言葉」

 

「本当に全部ではないんだ」

 

「分かってる」

 

「分かってるのか」

 

「分かってるから、むかつく」

 

     ◇

 

 夜になった。

 

 村の外れ、小さな火が焚かれている。

 

 祭りではない。

 

 ただ、男が濡れた道具を乾かすための火だった。

 

 諏訪子はその横の石に座っていた。

 

 男は火の番をしている。

 

 ふたりの間には、しばらく沈黙があった。

 

 諏訪子は、火を見ながら言う。

 

「あの女神は、私を殺しに来る」

 

「殺させない」

 

 男は即答した。

 

 諏訪子は彼を見る。

 

「へぇ。どうやって?」

 

 男はすぐには答えなかった。

 

 火に薪を足す。

 

 ぱち、と火が鳴る。

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「あの神は、恐れが分からない」

 

 諏訪子は少しだけ眉を上げる。

 

「私と同じこと言うじゃん」

 

「多分、少し違う」

 

「続けて」

 

「土地に残るものが分からない。名が変わっても、祀りが変わっても、勝っても負けても、それでも残るものがあることを知らない」

 

 諏訪子は黙った。

 

 男は火を見ている。

 

「あの神は、名を失う怖さを知ってるんだろう」

 

「知ってるだろうね」

 

「だから、名を置く。形を作る。人に呼ばせる」

 

「うん」

 

「でも、勝ってなお残るものがあることは知らない」

 

 諏訪子は、火から目を離さない。

 

「お前は知ってる」

 

「私は土地だからね」

 

「なら、それを見せればいい」

 

 諏訪子は笑った。

 

「私と共生するって?」

 

 男は頷いた。

 

「ああ」

 

「簡単に言うね」

 

「簡単ではないだろうな」

 

「絶対簡単じゃないよ」

 

「でも、俺は」

 

 男はそこで言葉を止めた。

 

 火が揺れる。

 

 諏訪子は横目で彼を見る。

 

「俺は?」

 

「諏訪から、お前も消えてほしくない」

 

 諏訪子は黙った。

 

 火の音だけがした。

 

 男は続ける。

 

「あの神が来て、暮らしがよくなったところもある。それは事実だ。お前の恐れが、今も必要なことも事実だ」

 

「……」

 

「どちらかが消えるのは、違う気がする」

 

「都合がいいね」

 

「そうだな」

 

「私に譲れって?」

 

「話してみてほしい」

 

「話すだけ?」

 

「諏訪にとって必要だと……思う」

 

 最後の方だけ、少し声が弱かった。

 

 諏訪子はそれを聞いて、少しだけ笑った。

 

「思う、なんだ」

 

「断言できるほど神じゃない」

 

「人間だもんね」

 

「ああ」

 

「でも、神様たらし」

 

「何だそれ」

 

「自覚ないのが腹立つ」

 

 諏訪子は膝を抱えた。

 

 火の熱が頬に当たる。

 

 男の言うことは、分かる。

 

 分かってしまう。

 

 あの女神の力は、諏訪にとって不要ではない。

 

 人々の暮らしは、確かによくなっている。

 

 水路が整う。

 

 境が決まる。

 

 祈りが続けやすくなる。

 

 恐れに頼らなくても守れる決まりが増える。

 

 それは悪くない。

 

 悪くないから、腹立つ。

 

 そして男は言う。

 

 自分にも消えてほしくないと。

 

 諏訪から、お前も消えてほしくないと。

 

 そんなことを言われたら、怒りだけで押し切れない。

 

 ほんとうに、腹立つ。

 

「私はいい女だから」

 

 諏訪子は言った。

 

 男が顔を上げる。

 

「浮気も一回目までなら見逃すよ」

 

「浮気じゃない」

 

「一回だから」

 

「だから浮気じゃない」

 

「二度目はない」

 

「何の話だ」

 

「私が決めた話」

 

 諏訪子は石から降りた。

 

 火の向こう側へ回る。

 

 男と向かい合う。

 

「場は設ける」

 

 男の表情が変わる。

 

「本当に?」

 

「話し合いして、それで駄目なら出てってもらう」

 

「出ていかなかったら?」

 

「殺す」

 

 男は息を呑む。

 

 諏訪子は軽く笑った。

 

「怖い?」

 

「怖い」

 

「嫌い?」

 

「嫌いじゃない」

 

「好き?」

 

「そうだな」

 

 諏訪子は少しだけ顔を赤くして、すぐに目を逸らした。

 

「そういうのは今欲しくない」

 

「聞いたぞ」

 

「聞いてない」

 

「今」

 

「聞いてない!」

 

 火が大きく揺れた。

 

 男は少し笑った。

 

 諏訪子はむっとする。

 

「笑うな」

 

「悪い」

 

「謝るな」

 

「じゃあ謝らない」

 

「それも腹立つ」

 

「どうしろと」

 

「困ってなよ」

 

「困ってる」

 

「ならいい」

 

 いつものやりとりだった。

 

 けれど、いつもより少しだけ重かった。

 

 諏訪子は火を見た。

 

「話し合えないかもしれない」

 

「それでも?」

 

「場は設けるよ」

 

「ありがとう」

 

「礼を言うな」

 

「なぜ」

 

「私が譲ったみたいになる」

 

「違うのか」

 

「違う」

 

「じゃあ何だ」

 

「私がいい女だから」

 

 男は、今度は笑わなかった。

 

 まっすぐに諏訪子を見る。

 

「そうだな」

 

 諏訪子は、固まった。

 

「……そこで肯定する?」

 

「違ったか」

 

「違わないけど」

 

「ならいいだろ」

 

「よくない」

 

 諏訪子は顔を背ける。

 

 耳が熱い。

 

 まただ。

 

 この男はいつもこうだ。

 

 からかったつもりで、こっちが乱される。

 

 不公平だ。

 

 私の方が強いのに。

 

 まあいい。

 

 今回だけだ。

 

 浮気も一回目まで。

 

 話し合いも一回目まで。

 

 それで駄目なら、出ていってもらう。

 

 あるいは、殺す。

 

 それでいい。

 

 そう決めた。

 

 決めたはずなのに、胸の奥の苛立ちは消えなかった。

 

     ◇

 

 諏訪子は、待った。

 

 待つのは嫌いだった。

 

 神は待たせる側であって、待つ側ではない。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、待った。

 

 洩矢の奥。

 

 大きな石の前。

 

 縄が張られ、水が近く、土の下にミジャグジが集まる場所。

 

 そこで、諏訪子は女神が来るのを待った。

 

 石に腰かける。

 

 足をぶらぶらさせる。

 

 顔はいつものように軽い。

 

 けれど、土の下ではずっと低い音がしていた。

 

 怒り。

 

 苛立ち。

 

 警戒。

 

 そして、ほんの少しの迷い。

 

 あの名無しの神が来る。

 

 天津の名をまとい、八坂神奈子などと呼ばれ、人々の暮らしへ入り込んだ女神が来る。

 

 男も連れてくるだろう。

 

 自分の土地の男を。

 

 私の男を。

 

 それだけで腹が立つ。

 

 けれど、男が言った。

 

 諏訪から、お前も消えてほしくない。

 

 あれを言われたから、場は設ける。

 

 一回だけ。

 

 一回だけだ。

 

 諏訪子は石の上で頬杖をつく。

 

「神様たらしめ」

 

 小さく呟く。

 

 誰もいない。

 

 だが、土は聞いている。

 

 水も聞いている。

 

 縄も聞いている。

 

 全部、諏訪子の味方だった。

 

 だからこそ、彼女は自分の苛立ちを隠せない。

 

 遠くから、風が来た。

 

 諏訪子は顔を上げる。

 

 女神の風。

 

 タケミナカタの名をまとった風。

 

 八坂神奈子の名で人々に呼ばれ始めた風。

 

 そして、その隣に男の気配。

 

 諏訪子は笑った。

 

 軽く。

 

 軽く見えるように。

 

「さて」

 

 足元の土が、低く唸る。

 

「一回目だ」

 

 風が近づく。

 

 夢の景色が、そこで薄れていった。

 

     ◇

 

「――はい、じゃあここを読んでください」

 

 先生の声で、丈は目を覚ました。

 

 また机に突っ伏していた。

 

 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。

 

 湿った石。

 

 火。

 

 諏訪子の声。

 

 男の困った顔。

 

 それらが、教室の机と椅子に重なって見える。

 

 丈はゆっくり顔を上げた。

 

 四時間目。

 

 国語の授業中。

 

 黒板には、山里の暮らしについての文章が書かれていた。

 

 早苗が隣で固まっている。

 

 どうやら、今度は完全に見られていたらしい。

 

「丈くん」

 

「……はい」

 

「また寝てました」

 

「知ってる」

 

「しかも、先生に当てられてます」

 

「最悪だ」

 

 前を見ると、先生がこちらを見ていた。

 

「丈くん、読めるかな」

 

 教室中の視線が集まる。

 

 丈は慌てて教科書を見る。

 

 どこを読めばいいのか分からない。

 

 早苗が指でそっと場所を示してくれた。

 

 丈はそこから読み始めた。

 

「……昔の人々は、山や川を恐れながらも、それらを遠ざけるだけではなく、暮らしの中で――」

 

 読みながら、背筋が寒くなった。

 

 内容が妙に刺さる。

 

 恐れながらも、遠ざけるだけではなく、暮らしの中で。

 

 まさに今見た夢の話だった。

 

 丈は読み終えると、座った。

 

 先生は満足そうに頷いて、説明を続けた。

 

 早苗が小声で言う。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……神様こわ」

 

「え?」

 

「いや」

 

「今、神様って言いました?」

 

「言ってない」

 

「言いました」

 

「寝起き」

 

「寝起きって便利ですね」

 

「便利なんだよ」

 

 早苗はまだ怪しんでいた。

 

 丈は黒板を見る。

 

 文字がまだ少し揺れて見える。

 

 教室の床の下で、土がわずかに動いた気がした。

 

 今度は笑っていない。

 

 黙っている。

 

 その沈黙が、いちばん怖かった。

 

 丈は鉛筆を握り、ノートの端に小さく書いた。

 

 ――神様こわ。

 

 書いてから、すぐに消した。

 

 だが、消し跡は残った。

 

 四時間目のチャイムが鳴るまで、丈は一度も眠らなかった。

 

 眠れなかった。

 

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