第二十三話 「表へ出なよ」
夢は、人の声から始まった。
水の音ではなかった。
風の音でもなかった。
石が鳴る音でも、縄が擦れる音でもなかった。
低く、押し殺した、人の声だった。
「八坂様の方では、水の順を決め直したらしい」
「それで下の田は助かったそうだ」
「うちは、昔からの通りでいい」
「昔からの通りで詰まったから、揉めてるんだろう」
「口を慎め。洩矢様の前だぞ」
丈は、古い諏訪の村に立っていた。
夕方だった。
空は鈍く曇り、湖の方から湿った風が上がっている。
水路の前で、男たちが言い合っていた。
激しい喧嘩ではない。
殴り合いでもない。
けれど、誰も声を張り上げきらない。
押さえた声ほど、泥に沈むように重かった。
水路には泥が溜まっている。
流れは止まっていない。
ただ、細い。
田へ行くには足りない。
男のひとりが、鍬の柄を地面へ突いた。
「八坂様の言う通りに、石を動かせばいいんじゃないのか」
「動かしていい石と、動かしてはいけない石がある」
「それを、誰が決める」
「昔から決まっている」
「昔から決まっていることが、今も全部分かるのか」
その言葉のあと、誰かが水路の泥を蹴った。
水が濁った。
泥の色が、ゆっくり流れに混じっていく。
誰もすぐには次の言葉を出さなかった。
洩矢。
八坂。
その二つの名を並べることに、人々はまだ慣れていない。
片方は、古くから土の下にあるもの。
水の底、石の影、縄の内側にいるもの。
片方は、新しく風と水の順を作るもの。
境を置き、祭りを軽くし、揉め事を言葉へ直すもの。
どちらかが悪い、という話ではなかった。
八坂神奈子が来てから、水の揉め事が減った場所はある。
境の置き方が分かりやすくなった家もある。
供え物や祭りの負担が軽くなった村もある。
誰も、その全部を嘘だとは言わない。
けれど、洩矢の奥には、八坂の言葉だけでは踏み込めないものがある。
動かしてはいけない石。
越えてはいけない縄。
名を口にしすぎてはいけないもの。
そこを軽んじれば、暮らしはもっと深く傷む。
それもまた、誰も嘘だとは言わなかった。
「上の田は、八坂様に従ったそうだ」
「それで助かった」
「助かったなら、いいじゃないか」
「でも、あそこは洩矢様の石を動かしていない」
「なら、うちもそうすればいい」
「どの石が、動かしていい石か分かるのか」
また、沈黙が落ちた。
空の雲が、湖の方へ低く垂れている。
女たちは水瓶を抱え、道の端を早足で歩いていた。
子供たちは、いつもより遠くへ行くなと叱られている。
老人は、境の石の前で長く頭を下げていた。
まだ派閥と呼べるほど、形は固まっていない。
だが、寄る先の違いは生まれ始めていた。
困った時、八坂の名を口にする者。
迷った時、洩矢の石へ頭を下げる者。
両方へ礼をしようとして、どちらにも失礼になるのではないかと黙る者。
人々は、まだ自分が何を選んでいるのか分かっていない。
分からないまま、少しずつ立つ位置がずれていく。
その間を、男が歩いていた。
男は、水路を見る。
石を見る。
縄を見る。
八坂神奈子の言葉を、人に通す。
洩矢諏訪子の恐れを、人に踏ませないようにする。
だから、助かる者はいた。
実際に、助かっていた。
「あの男がいれば、話は早い」
誰かが言った。
「八坂様にも洩矢様にも、顔が利く」
「それが怖いんだ」
別の誰かが、低く返した。
年配の男が眉をひそめる。
昔、男が縄の端を持つ時に、触っていいかと聞かれた老人だった。
「あいつは、知らぬものを勝手に踏まぬ男だ。触っていいか聞く。止まるべき場所で止まる。災いを持ち込むような者ではない」
「それは知ってる」
「なら」
「だから、なおさらだ」
若い男は、水路の泥を見た。
鍬の先で、泥を少し崩す。
濁った水が、またゆっくり流れた。
「神様に近い人間が、神様の間を歩いている。あいつがまとめているようにも見える。でも、それでいいのか」
老人は黙った。
若い男は続ける。
「八坂様の言葉も通す。洩矢様の恐れも分ける。そんなことを、人がしていいのか」
「誰かがしなければ、揉める」
「しても、揉めるかもしれない」
「言いがかりだ」
「言いがかりで済めばいい」
誰も笑わなかった。
神を責めるわけにはいかない。
洩矢様が悪いとは言えない。
八坂様が悪いとも言えない。
けれど、このままでは、いつか八坂に寄る者と洩矢に寄る者が分かれるのではないか。
その時、間に立つ男は何になるのか。
橋か。
楔か。
それとも、余計な境目か。
丈は、それを見ていた。
口の中が乾いた。
まだ争いは始まっていない。
誰も、神奈子と諏訪子が戦うなどと言っていない。
ただ、水路の泥がある。
動かしていい石と、いけない石がある。
八坂の名を出す者がいる。
洩矢の名に黙る者がいる。
その全部が、男の背中へ薄く張り付いていく。
◇
男は、その声を知らないわけではなかった。
水路の泥をさらっている時。
倒れた柵を立て直している時。
子供を縄の外へ戻している時。
背中に刺さるような視線がある。
あからさまに避ける者もいた。
逆に、わざと大きな声で礼を言う者もいた。
それもまた、かばう側と距離を置く側の間に角を立てた。
「助かった」
畑の男が言う。
その声は少し固い。
「礼を言われるほどじゃない」
男は答える。
杭を打ち直し、縄を張る。
力仕事は慣れている。
だが、人の視線には慣れない。
「……八坂様のところへ行くのか」
「呼ばれている」
「洩矢様のところへも?」
「行く」
「忙しいな」
「そうだな」
「神様二柱に呼ばれる人間なんて、そうそういない」
男は縄を結んだ。
最後に、結び目を一度引く。
強すぎない。
緩すぎない。
「俺は、呼ばれるから行くだけだ」
「そうか」
畑の男は、それ以上言わなかった。
男は道具を持ち上げる。
背中で、誰かが小さく言った。
「近すぎる」
男の足は止まらなかった。
聞こえなかったわけではない。
聞こえたうえで、止まらなかった。
そこへ、風が来た。
神奈子の風だった。
強くはない。
だが、まっすぐだった。
呼んでいる。
男は少しだけ目を閉じ、息を吐いた。
◇
神奈子は、村の外れで待っていた。
その姿を見た時、丈は少し驚いた。
いつものように堂々としている。
けれど、今日はどこか違った。
風が先に立っていない。
神奈子自身が、土地の様子を見ながら立っている。
知らない場所へ入る者の顔だった。
「来たわね」
「呼んだだろ」
「ええ」
神奈子は男の泥のついた袖を見る。
「水路?」
「少し詰まってた」
「また?」
「ああ」
神奈子の眉がわずかに寄る。
だが、すぐに表情を戻した。
「今日は、あなたに案内してもらうわ」
「諏訪子のところか」
「そう」
「ひとりで行けないのか」
「行けるわ」
神奈子は即答した。
それから、少し間を置く。
「でも、行き方を知らない」
男は神奈子を見る。
神奈子は視線を逸らさない。
「洩矢の奥は、私の道ではない。風で押し入ることはできる。でも、それでは話し合いにならないでしょう」
「……そうだな」
「あなたは、入り方を知っている」
「知っているというほどじゃない」
「それでも、私よりは知っているわ」
男はしばらく黙っていた。
それから歩き出す。
「余計なものには触るな」
「分かっているわ」
「分かってないから言ってる」
神奈子が少しだけ眉を上げる。
「ずいぶんね」
「洩矢の奥だぞ」
「ええ」
「お前の水路じゃない。お前の祭りでもない。知らないものは、知らないまま頭を下げろ」
神奈子は黙った。
風が止まる。
「覚えておくわ」
「忘れるな」
「ええ」
二人は歩き出した。
丈も、その後を追う。
村を抜け、田の端を通り、境の石を越える。
そこから先は、空気が変わった。
神奈子の風が、少し重くなる。
道はある。
だが、道らしくはない。
人が歩くから踏まれた場所。
水が避ける場所。
石が見ている場所。
縄が、あるいは縄だったものが、木々の間に残っている場所。
神奈子は、それらをひとつずつ見た。
初めて見る顔だった。
ただの恐ろしい奥地ではない。
そこには、人が暮らしていた。
女が水を汲む前に、石へ頭を下げる。
子供が草むらへ入ろうとして、年寄りに袖を掴まれる。
小さな祠ではない。
名のある社でもない。
それでも、土の盛り上がりに供え物が置かれている。
家々は少ない。
だが、ある。
人が暮らしている。
恐れに囲まれて、暮らしている。
神奈子は足を止めた。
「こんなにも」
男が振り返る。
「何だ」
「人がいるのね」
「いる」
「奥だと思っていたわ」
「奥にも人は住む」
神奈子は黙った。
風がわずかに揺れる。
小さな子供が、神奈子を見て母親の後ろに隠れた。
神奈子は、反射的に笑みを作ろうとして、やめた。
笑えばいい場所ではない。
頭を下げすぎても違う。
軽んじてもいけない。
男が低く言う。
「見るな」
「え?」
「見定めるみたいに見るな。怖がる」
神奈子は、少しだけ息を呑んだ。
それから、視線を落とす。
「……そうね」
男はそれ以上言わなかった。
神奈子も言い返さなかった。
ただ、歩いた。
知らない土地へ入るように。
途中、男は何度か足を止めた。
石の横を通る前に、ほんの少し頭を下げる。
水の細い流れを跨ぐ時、足を置く場所を選ぶ。
枝に掛かった古い縄を見つけると、触らずに迂回する。
神奈子は、それを見ていた。
真似はしない。
まだ、どこまで真似してよいか分からない。
ただ、男の足跡の少し後ろを歩く。
「ここから先は、声を落とせ」
男が言った。
「なぜ」
「声が近くなる」
「何に」
男は答えない。
神奈子は、答えを待った。
男は振り返らずに言う。
「聞かない方がいい」
神奈子は一度だけ、奥の暗がりを見た。
そこには何も見えない。
見えないから、余計に何かがいるようだった。
「分かったわ」
二人はさらに奥へ入った。
◇
洩矢の奥。
大きな石がある。
縄が張られている。
水が近い。
木々は、その場所を避けるように立っている。
土の下には、無数のものが伏せている。
そこに、諏訪子がいた。
石の上に座っていない。
立っていた。
いつものように足をぶらつかせ、からかう顔で待っているのではない。
背筋を伸ばし、土の上に裸足で立っていた。
衣は軽い。
姿は少女に見える。
けれど、そこにいるのは、村で子供をからかう神ではなかった。
水と石と縄と恐れを抱え、その中で暮らす民の前に立つものだった。
男が、少しだけ目を見開いた。
諏訪子は、男を一度見た。
それから神奈子を見る。
「来たね」
声は軽くない。
神奈子は足を止める。
さっき男に言われた通り、まず石を見る。
縄を見る。
水を見る。
その奥の土を見る。
そして、深すぎず、軽すぎず、頭を下げた。
「場を設けてくれたこと、礼を言うわ」
諏訪子は頷いた。
「礼は受けるよ」
男がわずかに目を動かした。
諏訪子は続ける。
「一回だけ。話は聞く」
「十分よ」
「十分かどうかは、聞いてから決める」
「ええ」
神奈子は顔を上げた。
二柱の間に、まだ風は立たない。
土も唸らない。
ただ、静かだった。
男は、二柱の間から少し横へずれた。
完全には離れない。
だが、前にも出ない。
話し合いが始まった。
◇
神奈子は、まず天津の話をした。
勝者の秩序。
名を置くもの。
役目を切り分けるもの。
曖昧な恐れを、祟りとして奥へ退けるもの。
ただ乱暴なだけではない。
水路を作り、境を定め、祈りを広げ、争いを減らすもの。
だからこそ厄介なのだと、神奈子は言った。
「外は、あなたの土地をそのままには見ないわ」
諏訪子は黙って聞いている。
「洩矢の恐れは古い。強い。人の暮らしに近い。けれど、外から見れば、それは説明できないものよ」
「説明できないものは、消される?」
「名を与えられる。役目を与えられる。あるいは、退けられる」
「同じことだね」
「近いわ」
「ずいぶん素直だ」
「取り繕いに来たわけではないから」
神奈子の声は硬かった。
諏訪子は腕を組む。
「で、あんたはそれを先にやると」
「諏訪を残すためよ」
「諏訪を差し出すためじゃなくて?」
「差し出すのではない。結び直すの」
「便利な言葉だね」
「必要な言葉よ」
諏訪子はすぐに笑わなかった。
神奈子を見ていた。
「天津が来れば、どうなる」
諏訪子が問う。
男が、少しだけ目を上げた。
諏訪子は見ていない。
神奈子は答えた。
「外の神話へ接続されるでしょうね。あなたの名は残るかもしれない。でも、今の形ではない。ミジャグジも、石も、水も、縄も、それぞれ別の役目へ分けられる」
「民は」
「暮らしは続くかもしれない」
「かもしれない?」
「私には断言できない」
諏訪子は顎を引く。
「断言できない話で、私に土地を譲れと?」
「譲れとは言っていないわ」
「でも、表は欲しいんでしょ」
神奈子は黙った。
諏訪子は小さく息を吐く。
「そこは隠さない方がいいよ」
「表の祭祀は必要になる」
「誰に」
「人に」
「神には?」
「諏訪にも」
諏訪子は、少しだけ男を見た。
男は何も言わない。
諏訪子は神奈子へ視線を戻す。
「続けて」
神奈子は話した。
表の神として、外へ説明できる形がいる。
水と風と雨の順を立てるものがいる。
祭りを続けられる重さに整えるものがいる。
境を置き、人が迷わず動けるようにするものがいる。
恐れをなくすのではなく、人を潰さない形で残すものがいる。
諏訪子は聞いていた。
時折、問い返す。
「その境は誰が置く」
「人と神が決める」
「どの神」
「私と、あなた」
「私が拒んだら」
「争うことになる」
「正直だね」
「嘘をついても意味がないわ」
「そうだね」
その声には、まだ土の鳴る音はなかった。
男は、少しだけ息を吐いた。
丈も、同じように息を吐きかけた。
話し合えている。
今はまだ。
◇
男が口を開いたのは、しばらくしてからだった。
「神奈子の言うことにも、理はある」
諏訪子は男を見る。
表情は変えない。
いつものように「浮気?」とは言わない。
今は、聞いている。
男は続けた。
「水の揉め事は減った。境で迷う者も減った。供え物や祭りも、続けやすくなったところがある」
神奈子は黙っている。
男は神奈子を見る。
「でも、諏訪子の領分も必要だ」
神奈子の目が動く。
「ここから先は触るな。ここでは頭を下げろ。これは知らないまま通れ。そういう場所がなければ、人は踏み越える」
諏訪子は、男を見ている。
「恐れは、ただ怖がらせるためにあるんじゃない。人を止めるためにある。水を粗末にしないため。石を動かさないため。奥へ入りすぎないため。そういう恐れは、暮らしの一部だ」
神奈子は、少しだけ眉を寄せた。
だが、反論しない。
男は、二柱を交互に見た。
「だから、どちらかだけでは駄目なんだと思う」
木の葉が一枚落ちた。
風は吹いていない。
男は続ける。
「神奈子は、表を整えられる。諏訪子は、奥を守れる。なら、表と奥を分けて――」
「分けるのは、誰?」
諏訪子が遮った。
声は静かだった。
男は言葉を止める。
「誰が表で、誰が奥。誰が人の前で、誰が石の影。誰が祈られて、誰が怖がられる。誰がそれを決めるの」
男は答えられなかった。
神奈子が言う。
「決めなければ、外に決められるわ」
諏訪子は神奈子を見る。
「だから先に決める」
「ええ」
「私の居場所を」
「あなたの残り方を」
「同じだよ」
「違うわ」
「同じだよ」
男がまた口を開く。
「諏訪子」
「今は黙って」
諏訪子の声が鋭くなった。
男が止まる。
神奈子も、わずかに彼を見る。
その視線を、諏訪子が拾った。
ほんの一瞬。
神奈子と男の視線が合った。
それだけだった。
諏訪子の足元で、小さな水泡がひとつ弾けた。
◇
それでも、諏訪子はまだ抑えた。
肩を少し回し、息を吐く。
それから、また神奈子を見る。
「いいよ」
諏訪子は言った。
「仮に、あんたの言う危機が本当だとして」
「本当よ」
「それは今はいい。私は聞いてる」
神奈子は口を閉じる。
諏訪子は続ける。
「天津が来る。外の神話へ接続される。名を置かれ、役目を分けられ、説明できないものは退けられる。そこまでは分かった」
「ええ」
「なら、私が相手をしてもいい」
神奈子の眉が動いた。
男も顔を上げる。
諏訪子は、淡々と言った。
「別に、外と話す役があんたでなければいけない理由はないでしょ」
「あなたが?」
「私が」
「天津と?」
「そう」
諏訪子は軽く首を傾げる。
「私が諏訪の主神だよ」
その言葉は、静かだった。
石の前に置かれた水が、わずかに揺れる。
「私が外に向けて名を整える。祭祀も見直す。必要なら、あんたの派閥……八坂だっけ」
神奈子の目が冷える。
諏訪子は続けた。
「それをうちの分社に置いてもいい。あんたはそこで風と雨の順を見ればいい。水路の手腕は認めてるし、祭りを軽くするやり方も悪くない。善意の協力者ってことで、礼ぐらいはしてあげるよ」
男の顔が強張った。
言葉だけを聞けば、妥協案に聞こえなくもなかった。
神奈子の貢献を認めている。
役割も与えると言っている。
民のため、土地のために、力を借りるとも言っている。
だが、男の指がわずかに曲がった。
神奈子は答えなかった。
ほんの一瞬、男を見た。
本当に、一瞬だった。
男もそれに気づいた。
諏訪子も、当然気づいた。
神奈子は視線を戻し、静かに言った。
「それでは諏訪は残せないわ」
諏訪子の目が細くなる。
「へえ」
「外へ向ける形は、ただ名を整えればいいわけではない。祈りの流れ、人の動き、祭祀の重さ、境の置き方。それらをまとめて組み直す必要がある」
「だから、あんたがやる」
「ええ」
「何で?」
「私にできるから」
「私にはできない?」
「今のままでは難しいわ」
「難しい」
諏訪子が繰り返した。
「便利な言葉だね」
「事実よ」
「それで、あんたは何が欲しいの」
神奈子は黙った。
諏訪子は一歩近づく。
「諏訪を残したい。民を守りたい。外の秩序に呑まれない形を作りたい。うん、分かった。綺麗だね」
声が少しずつ軽くなる。
「で、あんたは?」
「私は」
「何が欲しいの」
神奈子の風が止まる。
男が、わずかに動いた。
諏訪子は見逃さない。
「答えなよ」
「諏訪を」
「違う」
「民を」
「違う」
「土地を」
「違う」
諏訪子は笑った。
「誰かの神様になりたいんでしょ」
神奈子の手が、袖の内側で止まった。
「名をなくして、逃げて、呼ばれなくなる怖さを知って。それで、ここへ来た。民に呼ばれて、役に立って、必要だと言われて、嬉しかった」
「諏訪子」
男が低く言う。
その声が、さらに場を細くした。
諏訪子は男を見ない。
「いいじゃん。そう言えば」
「……」
「私は諏訪を守るために表へ出たい。でも、それだけじゃない。私だって、誰かの神になりたい。そう言えばいい」
神奈子の手が、わずかに握られる。
けれど、彼女は言わなかった。
代わりに、また整った声で言った。
「私情で、諏訪の行く末を決めるつもりはないわ」
諏訪子の口元が動いた。
「ああ」
短い声だった。
「そっか」
土が、低く鳴った。
「まだ、そうやって逃げるんだ」
◇
そこからは、早かった。
諏訪子の声は、最初よりずっと軽くなった。
軽いぶん、言葉はよく通った。
「すごいね。諏訪のため。民のため。土地のため。外の秩序に対抗するため」
彼女は指を折る。
「綺麗な言葉がたくさんある」
神奈子の風が冷える。
「あなたこそ、私を欲で語らせたいだけでしょう」
「そうだよ」
諏訪子はあっさり認めた。
「腹を割りたいんだよ。私は土地も民も恐れも抱えてる。好きな男もいる。欲がある。腹が立つこともある。だから聞いてる。あんたは何が欲しいのって」
「私は諏訪を残したい」
「逃げた」
「逃げていないわ」
「逃げてるよ」
「あなたが求めているのは、ただの告白でしょう」
「違うね」
諏訪子の目が細くなる。
「覚悟だよ」
神奈子は黙る。
「欲も言えない女が、私の土地の表を取る? 腹も括らず、綺麗な言葉だけ並べて、私に奥へ下がれって?」
「"まっとうな"言葉でなければ、人はまとまらないわ」
「"まっとう"な言葉だけじゃ、土地は渡さない」
「渡せとは言っていない」
「言ってるよ」
諏訪子は神奈子の胸を指す。
「目が言ってる。態度が言ってる。そいつを見る時の顔が言ってる」
神奈子の風が、一瞬だけ乱れた。
男が顔を上げる。
「もういい」
彼は、間に入った。
丈は、その背中を見た。
嫌な予感がした。
男は息を吸う。
「お互い、諏訪を思ってるんだろ」
丈の喉が詰まった。
知っている。
その言い方を、知っている。
現代で、自分も似たようなことを言った。
神奈子と諏訪子が言い争った時。
どちらも諏訪を思ってるんだろ、と。
だったら、そんな言い方しなくてもいいだろ、と。
あの時は、それしか言葉がなかった。
たぶん、この男もそうだった。
男は続けてしまう。
「神奈子は、諏訪を残したい。諏訪子は、諏訪を守りたい。なら、なぜ争う」
正しい。
それは、たぶん正しい。
けれど、神奈子は男を見た。
諏訪子も男を見た。
ほんの短い沈黙のあと、二柱は互いへ視線を戻した。
丈は、夢の中で拳を握った。
ああ。
違う。
今のは、そう聞こえない。
男は、まだ気づいていない。
自分がどちらにも同じことを言ったつもりで、その言葉がどちらにも違う形で届いたことに。
神奈子の頬に、赤みが差した。
風が、彼女の髪を持ち上げる。
「争わずに済むなら、そうしたかったわ」
神奈子の声は揺れていた。
けれど、前へ出た。
「でも、それでは残らない」
「神奈子」
「あなたは、まだ分かっていない」
神奈子は男を見ず、諏訪子を見た。
「今のままでは、諏訪は生き残れない」
諏訪子は笑わない。
神奈子は一歩前へ出る。
「洩矢の主神として、あなたは弱すぎる」
木の葉が一斉に止まった。
「神奈子!」
男が叫ぶ。
神奈子は止まらない。
「恐れは強い。土地は古い。けれど、表へ向ける形がない。外へ示す名がない。人が継続して祈れる順がない。あなたの強さは奥へ沈む強さよ」
風が彼女の周囲で鳴る。
「だから、私が表を取る」
諏訪子の目が、静かに開いた。
笑っていた。
笑っていたが、声は出ない。
男が諏訪子へ向く。
「諏訪子、待て」
その言葉で、諏訪子は男を見た。
「待て?」
男は固まる。
諏訪子は神奈子へ顔を戻した。
「いいよ。じゃあ私も言う」
土が鳴った。
「負けた女が」
神奈子の風が途切れる。
「負かした男と同じ匂いのする人間に褒められて、調子に乗るな」
男が顔色を変える。
諏訪子は止まらない。
「あんた、名をなくして転がってきたんでしょ。水をもらって、飯をもらって、呼ぶ名がないと困るって言われて、少し優しくされた」
「諏訪子」
「黙って」
諏訪子の声が低く響いた。
男は動けない。
「あんたは、それが嬉しかったんだ。自分を負かした男と同じ匂いのする奴に、役に立つと言われて、必要だと言われて、諏訪に残れると言われて」
神奈子の唇が、わずかに開いた。
声は出なかった。
「貢献者気取り」
諏訪子は笑った。
「ただのコソ泥のくせに」
神奈子の風が、びり、と震えた。
「私の土地に入り込んで、水路を整えて、境を置いて、民に顔を覚えさせて。それを守るためって言うんだ」
諏訪子は一歩進む。
「私の土地は、私のものだ」
地面が沈む。
「腹も括らずごまかしてる負けた女なんかに、土地も男も渡さないよ」
しばらく、沈黙があった。
神奈子は諏訪子を見ている。
諏訪子も神奈子を見ている。
男は、その間で立っていた。
何かを言おうとしていた。
けれど、言えなかった。
もう、言葉の置き場所がなかった。
◇
やがて、神奈子が少し笑った。
短い笑いだった。
「そう」
諏訪子も笑った。
「うん」
二柱は、同じように笑った。
乾いた、似た笑い方だった。
神奈子が言った。
「表へ出なさい」
諏訪子が言った。
「表へ出なよ」
声が重なった。
男が叫ぶ。
「やめろ!」
二柱は振り返らない。
男はさらに叫んだ。
「争えば、人も土地も傷つく!」
その言葉に、神奈子と諏訪子は同時に止まった。
ほんの一瞬。
同じように、男を見る。
神奈子が言った。
「分かっているわ」
諏訪子が言った。
「分かってるよ」
神奈子の声は冷たかった。
諏訪子の声は軽かった。
どちらも、男を安心させる声ではなかった。
「だから、別の場所でやる」
「ここではやらない」
神奈子が続ける。
「洩矢の奥を壊すつもりはないわ」
諏訪子が続ける。
「民の前でやるほど、私も馬鹿じゃない」
「湿原へ出るわ」
「表でやるよ」
男は、二柱へ手を伸ばした。
「待て。まだ――」
「あなたは下がっていて」
神奈子が言った。
「下がってて」
諏訪子が言った。
同じ意味だった。
同じ拒絶だった。
男の手が、宙で止まる。
次の瞬間、風が巻いた。
土が沈んだ。
二柱の姿が揺らぐ。
神奈子の風が先に消え、諏訪子の影が土へ溶ける。
湿原へ向かったのだ。
ここではない場所へ。
人と土地を直接傷つけないために。
男だけが、洩矢の奥に残された。
そして。
森の外にいた人々も、残された。
◇
沈黙があった。
男は、二柱が消えた場所を見ていた。
動けなかった。
追いかけるべきだったのか。
止めるべきだったのか。
いや、止めようとした。
しかし止められなかった。
言葉は届いた。
届いたからこそ、風と土が離れていった。
丈は、その背中を見ていた。
喉の奥が詰まったままだった。
男の言葉は、自分が昔言った言葉に似ていた。
どちらも諏訪を思ってるんだろ。
なぜ争うんだ。
そういう、まっすぐで、正しくて、何も知らない言葉。
丈は、男の肩に泥がついているのを見た。
水路を直した時の泥だ。
縄を結んだ時の泥だ。
森の外から、人々の気配が近づいてくる。
誰も縄の内へは入らない。
けれど、見ている。
男を。
神奈子を連れてきた男。
諏訪子の前に立っていた男。
二柱を止められなかった男。
むしろ、二柱が消える前、最後に言葉を投げた男。
誰かが小さく呟いた。
「あの人でも、駄目だったのか」
別の誰かが言った。
「だから、近すぎるんだ」
老人が低く叱る。
「やめろ」
「でも」
「やめろと言っている」
母親が、子供の肩を抱いた。
子供は男を見ている。
怖がっているのか。
心配しているのか。
分からない。
男は、何も言わなかった。
ただ、そこに立っていた。
神々に下がっていろと言われ。
民草に見られ。
どこにも進めないまま。
丈は、夢の中で息を呑んだ。
まだ終わらない。
今日の夢は、ここで終わらない。
風の向こうで、雨の匂いが濃くなる。
土の奥で、鉄の輪が鳴る。
湖へ続く湿原の方から、低い音がした。
諏訪大戦が、始まろうとしていた。