第二十四話 「戦中の諏訪」
風の消えた場所を、男は見ていた。
さきほどまで八坂神奈子が立っていた場所には、薄く濡れた草が伏せている。
洩矢諏訪子の足元だった土は、もう閉じていた。
大きな石。
張られた縄。
木々の根を避ける細い水。
洩矢の奥には、それだけが残っていた。
二柱は湿原へ向かった。
人家も田もない、湖寄りの土地だった。
丈は、男の後ろに立っていた。
夢の中では誰にも見えない。
男が下ろした手を見ていた。
二柱へ伸ばしたまま、宙に残っていた手だった。
指には泥がついている。
乾きかけた泥だった。
男が振り返る。
縄の外には、洩矢の奥で暮らす者たちがいた。
水を汲みに来ていた女。
森の見回りをしていた若者。
土に供え物を置いていた老人。
子を背負った母親。
その後ろに、杖を持った村長がいる。
白い髪を後ろで束ねた、小柄な男だった。
男は縄の切れ目まで歩いた。
縄を跨がない。
人が通るために残された細い隙間から外へ出た。
村長の前で足を止める。
「すまない」
男が頭を下げた。
村長は男を見た。
すぐには声を返さない。
男の背後にある石と縄を見てから、杖の先を土へ置いた。
「顔を上げろ」
「話をまとめられなかった」
「上げて話せ」
男は顔を上げた。
「八坂様をここへ案内した」
「洩矢様がお通しになった」
「俺が間に立った」
「二柱がお前に命じたのか」
「いや」
「なら、お前がそうしたかったのだな」
「ああ」
「それで、どうなった」
周囲にいた者たちが近寄る。
村長は追い払わなかった。
「聞かせろ」
男は一度、湿原の方角を見た。
木々の向こうでは、まだ何も聞こえない。
「八坂様は、天津が諏訪へ来る前に、外へ向ける形を作らなければならないと言われた」
「外へ向ける形とは」
「祭りと祈りの表を一つにする。水と風と雨の順を整える。外から諏訪を見た者が、誰へ話せばよいか分かるようにする」
「八坂様が、その表に立たれる」
「ああ」
縄を預かる老婆が、杖の柄を撫でた。
「洩矢様は、何と」
「天津の相手は、ご自分でしてもよいと」
誰かが、小さく息を吐いた。
「八坂様の者たちは、洩矢の分社へ置けばよいと言われた。水路や祭りを整えたことには礼をする、とも」
若い男が、口元を緩めた。
「洩矢様らしい」
隣の老人が肘で小突く。
「笑うところではない」
「笑ってねえよ」
男は続けた。
「八坂様は、それでは諏訪を残せないと言われた」
「なぜだ」
「外から来る秩序は、名前だけ変えれば済むものではない。祈りも、人の動きも、境も作り直す必要があると」
「洩矢様はお認めにならなかった」
「ああ」
「それだけか」
男は黙った。
村長が待つ。
誰も急かさない。
「互いに、言わなくてもいいことまで言った」
「お前もか」
「ああ」
「何を言った」
男の口が一度閉じる。
丈は、その横顔を見た。
「どちらも諏訪を思っているのに、なぜ争うのかと」
村長の目が少し細くなる。
「それで?」
「八坂様は、洩矢様が主神として弱すぎるから、ご自分が表に立つと言われた」
何人かが顔を上げる。
縄役の老婆が杖を握り直した。
「洩矢様は」
「腹も括らず、きれいな言葉でごまかす負けた女へ、土地も男も渡さないと」
若者たちの視線が男へ集まった。
男は動かなかった。
「それから、二柱で湿原へ向かった」
「お前は止めなかったのか」
若者のひとりが聞いた。
「止めた」
「止まらなかった」
「ああ」
「八坂様にも、洩矢様にも、言葉が届くんじゃなかったのか」
村長が杖を少し持ち上げる。
男が先に答えた。
「届くことと、従っていただくことは違う」
「でも、あんたなら何とかすると思ってた」
若者は男をまっすぐ見ていた。
責め立てる声ではない。
逃がさない声だった。
「洩矢様は、あんたの話なら聞く。八坂様も、あんたを連れて歩く。俺たちは、そう見てた」
「俺も、そう思っていた」
「それで駄目だったのか」
「ああ」
若者の顎が動いた。
「そうかよ」
地面の小石を蹴る。
小石は縄の手前で止まった。
村長が男へ言う。
「頭を下げるのは、それで終わりにしろ」
「だが」
「二柱を座らせ、互いの話を聞かせた」
「決裂した」
「話す前から争われるよりはよい」
「俺が余計なことを言わなければ、違ったかもしれない」
「違ったかもしれん」
村長はあっさりと言った。
男が顔を上げる。
「お前の言葉がなければ、二柱はもう少し穏やかに別れたかもしれん。あるいは、何も言わずに同じ結論へ至ったかもしれん」
「……ああ」
「分からぬことを、分かった顔で慰めても仕方がない」
村長は縄の向こうを見る。
「だが、八坂様も洩矢様も、ご自分で湿原へ向かわれた。お前が背負えるのは、そこまでだ」
男は返さなかった。
村長が杖で男の足元を軽く叩く。
「まだ何かある顔だな」
「神の戦そのものより、人の方が危ない」
村長が男を見る。
男は周囲に集まった者たちへ視線を移した。
「八坂様も洩矢様も、諏訪の民を思っている」
若者が鼻を鳴らす。
「さっき、それを言って失敗したんだろ」
「そうだ」
「なら、また言うのか」
「それでも同じだ」
若者は黙った。
「どちらが勝っても、諏訪を滅ぼすつもりはない。民を追い払うための戦でもない」
「八坂様が勝てば、洩矢様はどうなる」
縄役の老婆が聞く。
「分からない」
「洩矢様が勝たれれば」
「八坂様が諏訪を去るかもしれない」
「それでも悪いことは起こらないと?」
「悪いことが起きないとは言っていない」
男は湿原へ続く道を見る。
「だが、二柱とも、民を殺すために力を使うわけじゃない」
「何が危ない」
村長が問う。
「人が、二柱の代わりに争い始めることだ」
水の音が聞こえた。
細く流れていた水が、石へ当たっている。
「八坂様に助けられた者は、八坂様が勝つべきだと言う。昔から洩矢様へ仕えてきた者は、洩矢様が主でなければならないと言う」
「それは、もうある」
若者が言った。
「下の田の連中は八坂様の話ばかりだ。上の方じゃ、洩矢様を差し置くなって言ってる」
「今は話だけだ」
「話が駄目なのか」
「話はいい」
男は答えた。
「水を止めるな。縄を切るな。杭を抜くな。相手の祭りを壊すな。神の不和を、人の戦へ変えるな」
村長は、しばらく男を見ていた。
「それを、我らに決めろと?」
「提案したい」
「お前が命じるのではなく」
「俺に命じる権利はない」
「では、村の長へ頼むのだな」
「ああ」
村長は杖を持ち替えた。
「分かった」
男が目を上げる。
「洩矢の奥では、わしが止める」
縄役の老婆も頷く。
「石や縄へ、八坂様の名を口実に触る者がいれば、こちらで叱る」
「こちらの若い者が、水路を壊そうとしたら?」
「杖で殴る」
若者が老婆を見る。
「今、俺を見ただろ」
「心当たりがあるのかい」
「ねえよ」
「なら黙ってな」
村長が続ける。
「湖沿いと山際、上の田へ使いを出す。神々の決着がつくまで、刃を抜かぬよう頼む」
「八坂様に祈る者を責めないことも」
「伝える」
「洩矢様へ頭を下げる者を、古いと笑わないことも」
「伝える」
村長は男の肩へ手を置いた。
「お前も動け」
「俺が?」
「言い出した者が、ここで終わりと思うな」
「俺は二柱の間から下がった方がいい」
「神々の間へ割って入れとは言わん」
「なら」
「湿原の様子を見ろ。土地に何か出れば、村へ伝えろ。八坂様のことを聞かれたら、見たままを話せ。洩矢様のことを聞かれても同じだ」
「俺の言葉が、また拗らせるかもしれない」
「黙れば、皆が勝手な話を作る」
男は口を閉じた。
村長の手が肩から離れる。
「二柱をまとめられなかったことと、これまでお前がやってきたことは別だ」
縄役の老婆が言う。
「水路を直した。奥へ入る前には必ず聞いた。八坂様にも、洩矢様にも、言うべき時は言った」
「言いすぎた」
「今さらだね」
周囲で、短い笑いが起こった。
男は笑わなかった。
それでも、もう一度は頭を下げなかった。
「湿原へ行く」
「その前に食べていけ」
「時間がない」
「神様二柱が飲まず食わず戦っても、お前は食わずには動けん」
村長が道の奥を見る。
「きっと長くなる」
遠くで、風が鳴った。
今度は、木々の葉まで届いた。
◇
湿原の周りには、石が置かれた。
大人の膝ほどの高さがある石を、村々から運んだ。
石と石の間へ木杭を立てる。
その杭へ縄を張った。
洩矢の神域を囲む縄とは違う。
縄に神の力はない。
踏み越えれば祟られるものでもない。
それでも、村の長たちは、古い境を作る時と同じように慎重に張った。
「これは、人が人を止めるための縄だ」
洩矢の奥の村長が言った。
「神の境ではない。だから、縄が切れても神罰はない」
集まった者たちが聞いている。
「だが、越えれば死ぬかもしれん」
誰かが喉を鳴らした。
「二柱が民を避けて、この湿原を選ばれた。その中へ自分から入る者は、誰にも救われぬと思え」
男は湿原の方を見た。
浅い水。
長い葦。
黒い土。
向こう側に、神奈子と諏訪子がいる。
まだ距離を取って立っていた。
人々も、二柱も、互いを見ている。
神奈子が言った。
「ここなら、民の家も田もないわ」
諏訪子は浅い水へ裸足で立っている。
「湖には近いよ」
「あなたの土地でしょう」
「今から取る女が言う?」
「まだ決まっていないわ」
「今から決めるんでしょ」
諏訪子が足を上げる。
水面へ下ろした。
小さな音だった。
湿原全体の水が、同時に跳ねた。
「始めようか」
「ええ」
風が走った。
縄の外にいた人々が顔を覆う。
人へ向いた風ではない。
湿原の外側を避け、中央へ巻いていく。
諏訪子が片手を上げた。
「起きな」
地面が持ち上がった。
黒い土が裂ける。
泥を被った岩が押し上がる。
浅い水が左右へ割れた。
土の柱が、一本、二本と立つ。
途中で曲がる。
腕の形になる。
神奈子の手足へ伸びる。
神奈子の身体が空へ上がった。
風が衣を鳴らす。
土の手が、その下で閉じた。
「逃がすと思う?」
諏訪子が指を曲げる。
立ち上がった土が横へ折れる。
大きな顎となり、神奈子へ噛みつく。
神奈子が手を払った。
雨が落ちる。
細い雨ではない。
白い壁となって、土の顎を打った。
泥が流れる。
岩が露出する。
「それで崩したつもり?」
落ちる泥が途中で止まった。
長く伸びる。
縄のように神奈子の両腕へ巻きつく。
足にも絡む。
神奈子の身体が一段落ちた。
縄の外で、息を呑む声が重なった。
洩矢の奥から来た者たちの手が合わされる。
諏訪子が腕を引いた。
泥の縄が四方へ張る。
神奈子の身体が軋む。
風が細くなった。
激しく吹くのではない。
泥の縄の表面を撫でるように、細く速く流れる。
泥から水が浮いた。
水と土が分かれる。
縄が形を失った。
「水は土を溶かすわ」
神奈子の声が湿原を渡る。
諏訪子の頬を雨粒が打つ。
「知ってるよ」
諏訪子が水を踏む。
神奈子の背後で岩が立った。
風の通り道を塞ぐ。
神奈子の身体が傾いた。
足へ土が絡む。
雨が落ちる。
土が崩れる。
その中から細かな石が現れ、神奈子の足を挟んだ。
「水だけじゃ、石は溶けないよ」
神奈子の風が、石の隙間へ入る。
細い音が鳴った。
長く。
石の内側を削るように。
「なら、褪せるまで吹くわ」
石にひびが走った。
砕ける。
神奈子は空へ戻る。
諏訪子は次の土を起こす。
風が走る。
雨が落ちる。
地が盛り上がる。
水が流れる。
天と地が、湿原の中央で押し合った。
それは、まさに神話の姿だった。
縄の外で、人々は声を失っていた。
八坂神奈子が諏訪へ来てから、雨を呼ぶところを見た者はいる。
洩矢諏訪子が境のものを鎮めるところを見た者もいる。
だが、二柱が互いへ力を向ける姿を見た者はいなかった。
神奈子の風が土を削る。
諏訪子の岩が風を断つ。
雨が湿原を打つ。
泥が空へ舞い上がる。
初めは、誰も自分の隣を見なかった。
神だけを見ていた。
◇
神々の戦いを見に来る者は、日が傾くまで増え続けた。
湖の村から。
山際の集落から。
神奈子が水路を整えた下の田から。
洩矢の奥から。
人々は縄の外へ並んだ。
男は湿原の手前を歩いた。
「石より前へ出るな」
「八坂様は押しておられるのか」
「まだ分からない」
「洩矢様は?」
「まだ分からない」
「どちらが先に手を出した」
「同時だ」
「八坂様の雨が先に見えたぞ」
「その前に地が動いた」
「なら、洩矢様が先だ」
「そういう話をしに来たのか」
男が返すと、聞いた者は口を閉じた。
少し離れた場所で、別の声が上がる。
「洩矢様!」
土の手が神奈子の足を掴んだところだった。
洩矢の奥から来た若者が拳を握る。
その声へ重なるように、下の田の若者が叫んだ。
「八坂様!」
風が土を内側から破る。
今度は下の田の者たちが声を上げた。
二つの声が湿原の外でぶつかる。
「声を上げるなとは言わん」
村長が杖を地面へ打った。
「隣の声を睨むな」
若者たちは湿原へ向き直った。
視線だけが、何度か横へ動いた。
男は石の列を見て回る。
風に削られた土が湿原の外へ流れていた。
石の根元に泥が溜まる。
「水が来る」
水守へ声をかける。
「どこだ」
「東の端」
男たちが走る。
土を詰めた籠を運ぶ。
下の田の若者が一つを持ち上げる。
反対側を、洩矢の奥から来た男が持った。
「そっちが低い」
「分かってる」
「なら上げろ」
「お前が持ちすぎなんだよ」
「力がねえだけだろ」
「言ったな」
「今は籠を置け!」
水守が怒鳴る。
二人は同時に籠を下ろす。
泥水が石の手前で向きを変えた。
「次だ!」
二人はまた同じ籠を持った。
その日は、まだ一緒に働いた。
◇
一日目の夜になっても、戦いは止まらなかった。
風が土を削る音。
岩が水へ落ちる音。
雨が湿原を叩く音。
村から離れても聞こえた。
空は時々、白く明るくなった。
人々は交代で湿原へ向かった。
男は石と縄の間を歩き続けた。
「少し休め」
水守が言う。
「見張りが足りない」
「各村から出ている」
「神の力の動きが分かる者は少ない」
「お前ひとりではない」
「少しは分かる」
「少し分かる者が、眠くて見誤る方が困る」
男は湿原を見る。
諏訪子の土が、神奈子の雨を受けて崩れた。
崩れた土の中から石が飛び出す。
風が石を散らす。
「半刻だけだ」
水守が言う。
「石の横へ座れ」
「眠らない」
「座れ」
男は石へ背を預けた。
縄の向こうに湿原が見える。
下の田の若者が握り飯を投げた。
男が受け取る。
「食え」
「ああ」
「八坂様は勝つか」
「分からない」
「ずっと見てて、それかよ」
「ずっと見ているからだ」
若者は男の隣へ座った。
「俺は八坂様が勝つと思う」
「そうか」
「水を回してくれた」
「ああ」
「上の家だけが夜番を逃れることもなくなった」
「ああ」
「祭りの供え物も減った。母親が喜んでた」
男は握り飯を食べる。
「八坂様は、俺たちを見てくださった」
「洩矢様も見ている」
「分かってるよ」
若者は膝を立てた。
「洩矢様がいなきゃ、山にも湖にも近づけない。それくらい分かってる」
「ならいい」
「よくねえだろ」
男が若者を見る。
「どちらかが勝つんだ」
「二柱が決める」
「だから、勝った方へ従えばいいのか」
「俺に聞くな」
「あんたは、どっちにも話せるだろ」
「今は話しておられない」
「戦ってるからか」
「ああ」
「戦いが終わったら」
「終わってから考えろ」
若者は鼻を鳴らした。
「逃げたな」
「急ぐなと言っている」
「俺たちは待ってる間も、水を使って生きてる」
「分かってる」
「八坂様が勝つって言えば、俺たちは安心できる」
「言えない」
「洩矢様が勝つと思うのか」
「それも言えない」
若者は握り飯を大きく噛んだ。
「ほんと、役に立たねえな」
「ああ」
あまりに早く返され、若者の口が止まった。
「そこは怒れよ」
「疲れてる」
若者は男の横顔を見る。
少しして、自分の水筒を差し出した。
「飲め」
「お前のだろ」
「役に立たねえ奴が倒れたら、もっと役に立たねえ」
男は受け取った。
丈は、二人の少し後ろに座っていた。
男が水を飲む。
若者は湿原を見る。
遠くで神奈子の風が鳴った。
◇
二日目の朝、水路の一つから水が消えた。
完全に乾いたわけではない。
細い流れだけが、泥の底を走っていた。
男が呼ばれた時には、上流と下流の者が水路の中で言い合っていた。
「八坂様が雨を湿原へ持っていったからだ!」
上流側の男が叫ぶ。
「地を動かしたのは洩矢様だろう!」
下の田の若者が返す。
「洩矢様が水路をずらしたと言うのか!」
「俺は見たことを言ってる!」
「湿原からここまで地の下が見えるのか!」
「じゃあ、八坂様のせいだってのは見えたのかよ!」
「やめろ!」
男が水路へ下りる。
「上を見ろ。水が止まったなら、どこかに理由がある」
「神様が戦ってる。それが理由だろ」
「石が落ちただけかもしれない」
「そんな都合よく――」
「見てから言え」
男は水守と上流へ走った。
堰の手前で、大きな石が水路へ落ちていた。
地の揺れで、岸からずれたらしい。
縄役の老人が呼ばれた。
石についた泥を払い、刻みや供え物の跡を見る。
「触れてよい」
「本当か」
下の田の若者が聞く。
老人が睨む。
「わしの目を疑うなら、お前が見ろ」
「いや」
「なら縄を掛けろ」
上流側の者と下流側の者が、同じ縄を持った。
「引け!」
水守が声を上げる。
石は動かない。
「足を揃えろ!」
男も縄を掴む。
「もう一度!」
石が傾く。
隙間から水が噴き出した。
「来た!」
「まだ離すな!」
岸へ引き上げる。
水が太くなる。
下の田へ向かって流れていく。
若者が両手を上げた。
「八坂様!」
縄役の老人が、動かした石へ頭を下げる。
上流側の男も、洩矢様の名を口にした。
下の田の若者が老人を見る。
老人も若者を見る。
「何だ」
「八坂様が水を戻した」
「石を動かしたのは人だ」
「雨をくださったのは八坂様だ」
「水を通す地を守るのは洩矢様だ」
「またそれか」
「またとは何だ」
男が二人の間へ入る。
「泥をさらえ」
「今、話してる」
「水が戻ったのに、泥を残してまた止めるのか」
若者は舌を鳴らした。
老人は杖を水路へ置く。
二人とも泥を掻き始めた。
口は閉じた。
顔は合わせなかった。
◇
水が戻った頃、山から獣が下りてきた。
鹿だけではなかった。
猪がいた。
普段なら人家へ近づかない獣も、木々の間から姿を見せた。
そのさらに奥に、白いものが立っていた。
顔は見えない。
腕と胴の境も曖昧だった。
古い縄の向こうに留まるものだった。
女たちが子供を家へ入れる。
狩人が弓を持つ。
「射るな」
男が言う。
「こっちへ来るぞ」
「まだ縄を越えてない」
「縄が緩んでる!」
風が湿原へ引かれていた。
いつもなら鳴る縄が鳴らない。
男と縄役の老人が張り直す。
近くにあった神奈子の杭へ、古い縄の端を掛けた。
老人の手が止まる。
「八坂様の杭へ結ぶのか」
「他に立っているものがない」
「……結べ」
男が縄を引く。
低い音が鳴った。
白い影が止まる。
男は火を置いた。
「ここまでだ」
影へ声を向ける。
「今は戻れ」
影は首を傾けた。
男は動かない。
狩人たちも弓を下ろさない。
やがて白い影が木の後ろへ消えた。
獣も少しずつ山へ戻った。
「洩矢様が、奥を見ておられない」
狩人が言った。
下の田の若者が湿原の空を見る。
「八坂様もだ」
縄役の老人が振り返る。
「二柱とも戦っておられる」
「分かってる」
「なら、今は人で守れ」
男が縄を確かめる。
「八坂様の杭も、洩矢様の縄も使える。どちらのものかで、手を止めるな」
誰も返さなかった。
だが、杭を抜く者はいなかった。
◇
二日目の午後、湿原へ来る人はさらに増えた。
戦況を知りたい者。
自分の村の水が乱れた理由を確かめたい者。
どちらの神へ祈るべきか、答えを探しに来た者。
石の列の前で、男は何度も同じことを聞かれた。
「八坂様は押しておられるのか」
「まだ決まっていない」
「洩矢様は負けておられないな」
「負けてはいない」
「なら洩矢様が勝つ」
「そうは言っていない」
「八坂様の雨が土を崩している」
「ああ」
「八坂様が上だ」
「諏訪子様は、その雨を土へ吸わせている」
「どちらなんだ」
「見たままを話している」
「お前なら分かるだろう」
「分からない」
男が答えるたび、聞いた者の口が固くなった。
別の村の者がやって来る。
「うちの井戸が浅くなった」
「地の動きかもしれない」
「洩矢様へ願えばよいか」
「井戸の底を先に見ろ」
「八坂様ではなく?」
「神へ願う前に、崩れていないか確かめろ」
「お前は、どちらへ祈らせたくないんだ」
「そういう話をしていない」
「では、どちらへ祈ればいい」
「自分で決めろ」
「それを聞きに来た!」
声が大きくなる。
周囲の者が男を見る。
男は石の前から動かない。
「俺が決めれば、俺が選んだ神へ祈るのか」
「お前は二柱に近い」
「お前の祈りだ」
聞いた男は、返事をせずに離れた。
八坂様の名を呼ぶ者たちの方へ歩いていく。
少し離れたところには、洩矢様の石を置いた者たちが集まっていた。
まだ、派閥と呼ぶ者はいない。
だが、座る場所が分かれていた。
話す相手が分かれていた。
湿原で神奈子が押し返せば、片方から声が上がる。
諏訪子が岩を立てれば、反対側から声が上がる。
村長たちは、そのたびに杖を地へ打った。
「隣を見るな!」
「神の戦を、人の戦にするな!」
声が上がっている間は、人々も前へ出なかった。
それでも、二つの集まりの間は、少しずつ広くなっていった。
◇
二日目の戦いは、神奈子が少しずつ空を広げていた。
諏訪子が土の壁を立てる。
神奈子は正面から吹き飛ばさない。
壁の横を雨で削る。
根元へ水を入れる。
土が重くなる。
傾く。
諏訪子は倒れる前に壁を崩し、泥へ変えた。
泥が水面を走る。
神奈子の真下へ集まる。
地面が盛り上がる。
神奈子が上へ逃れる。
その先に石が待っている。
神奈子の風が石を逸らす。
諏訪子は、逸らされた石を次の壁の礎へ変える。
「よく回すね」
諏訪子が言った。
「あなたが閉じすぎるのよ」
「閉じなきゃ、入ってくる」
「閉じれば、中にあるものまで動けないわ」
「動かなくていいものもあるんだよ」
土が立つ。
雨が崩す。
崩れた土を諏訪子が次の手へ変える。
神奈子は、その形を二度目には受けない。
同じ岩が来れば、先に風を回す。
同じ泥が集まれば、水路を作って逃がす。
諏訪子の足元へ、神奈子の雨が染み込んでいく。
丈は、雨が土の表面だけに落ちていないことに気づいた。
細い水が割れ目へ入る。
岩の隙間へ入る。
さらに下へ消える。
諏訪子は上を見ていた。
神奈子も諏訪子を見ている。
雨だけが、二柱の間から外れた場所にも落ち続けていた。
◇
二日目の夜、男の袖は泥で重くなっていた。
水路から湿原へ。
湿原から山際へ。
山際から湖の村へ。
戻れば、また誰かが待っている。
「下の田が、水を多く取った」
「水守へ言え」
「八坂様の順に従ったと言っている」
「水守と一緒に確かめろ」
「洩矢様の縄を、若い連中が外そうとした」
「外したのか」
「止めた」
「村長へ知らせろ」
「お前からも言ってくれ」
「言う」
「井戸の水が濁った」
「底が崩れていないか見たか」
「まだだ」
「先に見ろ」
「獣がまた下りた」
「火を置け。弓は越えるまで射るな」
皆、男の言うことを聞いた。
皆、男が間を取り持とうとしていることも知っていた。
礼を言う者もいた。
「助かった」
「お前がいてよかった」
「まだ、話を聞く相手がいる」
そのすぐ後に、別の者が言った。
「でも、いつまでだ」
「何が」
「いつまで、人で持たせる」
男は答えられなかった。
土地は、少しずつ治まりを失っている。
水路を直せば、別の場所で井戸が濁る。
縄を張れば、さらに外から獣が下りる。
田の水を分ければ、今度は誰が多く働いたかで揉める。
二柱は民を巻き込まぬ場所で戦っている。
それでも、土地は一つだった。
湿原の地を動かせば、村の石も揺れる。
湿原へ雨を集めれば、別の空が薄くなる。
人々は分かっていた。
神々が、自分たちを傷つけようとしているわけではない。
男が怠けているわけでもない。
村長たちが、何もしていないわけでもない。
分かっている。
それでも、夜になると水が少ない。
子供は獣の声で眠れない。
いつもの縄が鳴らない。
明日どちらの神が立っているか分からない。
分かっていても、声は荒くなった。
◇
三日目の朝、二つの祈りが同じ時刻に始まった。
一つは、神奈子が水路の近くへ置いた杭の前。
布と水が供えられた。
下の田の若者たちが集まり、八坂様の名を呼ぶ。
もう一つは、古い石の前だった。
新しい縄を張り、土と穀物を置く。
洩矢様の名が、低い声で繰り返された。
昨日までは、両方へ顔を出す者もいた。
今日は少なかった。
水路へ行く者は水路へ。
石へ行く者は石へ。
同じ家から、別々の祈りへ向かう者もいた。
「俺は水路へ行く」
若い男が言った。
父親は縄を肩へ掛けている。
「わしは石へ行く」
「八坂様へ頭を下げないのか」
「洩矢様へ頭を下げぬお前に言われたくない」
「下げないとは言ってねえ」
「なら来い」
「先に水だ」
「地が鎮まらなければ、水も流れん」
母親が椀を二人の前へ置いた。
「朝飯を食べてから続きをしなさい」
父と息子は黙った。
「祈る先が違っても、腹は同じでしょう」
二人は椀を取った。
食べ終える。
家を出る。
道の分かれ目で、別々の方角へ歩いた。
◇
男は、朝から両方へ呼ばれた。
水路の若者たちが言う。
「八坂様へ伝えてくれ」
「今は戦っておられる」
「お前なら声が届くだろ」
「届かない」
「洩矢様には届くのに?」
「いつでも届くわけではない」
「なら何のためにいる」
若者の一人が、杭へ結ばれた布を握る。
「八坂様は俺たちを助けてくださった。お前だって知ってるだろ」
「知っている」
「だったら、八坂様が勝つ方がいい」
「それはお前が決めることだ」
「お前は違うのか」
「俺の話ではない」
「またそれか」
若者は布を強く引いた。
「どっちにもつかない顔をしていれば、どっちからも頼られると思ってんのか」
隣の男が肩を掴む。
「言いすぎだ」
「皆、思ってる」
「皆じゃない」
「じゃあ何で、あいつのところへ聞きに来る」
男は杭を見る。
布が強く結ばれすぎている。
「風が吹けば切れる」
「何が」
「その布だ。少し緩めろ」
「話を逸らすな」
「切れてもいいのか」
若者は男を見る。
布を見る。
結びを少し緩めた。
「……これでいいか」
「ああ」
「八坂様へは」
「声が届く時があれば、水を案じている者がいるとは伝える」
「勝ってほしいとも言ってくれ」
「それは自分で祈れ」
若者は返事をしなかった。
男は古い石の方へ向かった。
こちらでも待たれていた。
「八坂様のところから来たのか」
「水路から来た」
「同じことだろう」
「違う」
「八坂様の者と話した手で、洩矢様の縄へ触るのか」
縄役の老人が、発言した男を杖で叩いた。
「馬鹿を言うな」
「ですが」
「この男は昨日も縄を張った。お前より上手に」
周囲で小さな笑いが起きた。
男は縄を取る。
張りを確かめる。
「端が緩い」
「八坂様の杭を近くへ置いたからだ」
「杭のせいじゃない」
「分かるのか」
「結びが逆だ」
結び直す。
縄を引く。
低い音が鳴った。
「これで持つ」
「洩矢様へ、何とお伝えする」
「今は何も伝えられない」
「お前でもか」
「戦っておられる」
「いつまでだ」
「分からない」
「洩矢様が勝たれるな」
「分からない」
「八坂様が押しているのか」
「分からない」
老人が男を見る。
「お前は何なら分かる」
男は縄から手を離した。
「この縄なら、しばらくは切れない」
何人かが笑った。
聞いた老人は笑わなかった。
「それだけか」
「今は」
「……なら、今はそれでよい」
◇
三日目の昼。
人々はまだ一緒に働いていた。
崩れた水路を直す。
山から下りた獣を追う。
湿原から流れ出た泥を掻く。
石を運ぶ。
縄を張る。
同じ籠を持つ。
同じ綱を引く。
だが、休む時には座る場所が分かれた。
八坂様へ祈った者たちは、水路に近い木陰へ集まった。
洩矢様へ祈った者たちは、古い石の近くへ座った。
誰かが命じたわけではない。
気づけば、間に人ひとり分の土が見えた。
そこが二人分になった。
三人分になった。
村長と水守たちは、間へ座った。
男も呼ばれた。
「こっちへ来い」
下の田の若者が言う。
「八坂様の様子を話してくれ」
反対からも声が飛ぶ。
「先に洩矢様のことを聞く」
「何でお前らが先なんだ」
「ここは洩矢様の土地だ」
「諏訪全部がそうだって言いたいのか」
「違うと?」
「やめろ」
村長の声が落ちた。
若者たちは口を閉じる。
「その男は、真ん中へ座らせよ」
「何でだ」
「両方から聞けるようにだ」
男は土の見える場所へ腰を下ろした。
右から水を渡される。
左から握り飯を渡される。
「どちらが押している」
「一進一退だ」
「八坂様の雨で、土が崩れている」
「ああ」
「なら八坂様が上だ」
「洩矢様は崩れた土を使っている」
「それなら洩矢様が上か」
「まだ分からない」
「何日見れば分かる」
「決着がつけば」
下の田の若者が握り飯を強く握った。
「決着がついてからなら、誰にでも分かる」
「そうだな」
「何のためにお前へ聞いてると思ってる」
「先のことは分からない」
若者の手の中で、飯が潰れた。
隣の女がその手を叩く。
「食べ物へ当たるんじゃないよ」
「分かってるよ」
「分かっている手とは違うね」
反対側の者が笑う。
若者が睨む。
「何がおかしい」
「飯に負けた顔だ」
「言ったな」
若者が立ち上がりかける。
村長の杖が横へ置かれた。
「神の戦を、人の戦にしない」
若者の足が止まる。
反対側の男も口を閉じる。
「座れ」
二人は座った。
間の土は埋まらなかった。
◇
三日目の夕方。
諏訪子の姿が湿原から消えた。
神奈子は空から地を見ている。
風が葦を倒す。
水面を撫でる。
黒い土の上を走る。
諏訪子は出てこない。
縄の外にいる者たちも声を止めていた。
「どこだ」
誰かが聞く。
男は答えない。
神奈子が少し高度を下げる。
風が湿原の底へ触れた。
その瞬間、湖の岸が割れた。
濁流が横から流れ込む。
泥。
石。
水草。
根。
重い水が神奈子へ押し寄せる。
神奈子は風で水面を切った。
濁流が左右へ割れる。
割れた水の下から、諏訪子が飛び出した。
「捕まえた」
諏訪子の手が神奈子の足首を掴む。
神奈子が風を起こす。
諏訪子は離さない。
地面から土の腕が伸びた。
神奈子の腰を掴む。
腕を掴む。
岩が首の横まで閉じる。
神奈子の雨が落ちた。
泥が水を吸う。
重くなる。
土の腕が太くなる。
神奈子の身体が、空から引きずり落とされた。
地へ叩きつけられる。
湿原が揺れた。
縄の外にいた者たちがよろめく。
石が一つ倒れる。
男と水守が起こす。
「下がれ!」
人々が縄から離れた。
湿原の中央では、神奈子が土へ半身を沈めている。
諏訪子がその上に立つ。
裸足の下で、地面がうねった。
「洩矢様!」
洩矢の奥から来た者たちが声を上げた。
「洩矢様が押しておられる!」
「やはり、この土地では――」
「まだだ!」
下の田の若者が叫んだ。
「八坂様は、まだ立っておられる!」
「地へ落ちたぞ!」
「落とされただけだ!」
「同じだろ!」
「違う!」
二つの側から、人が一歩ずつ前へ出た。
男が走る。
男より先に、村長の杖が地を打った。
「神の戦を、人の戦にするな!」
前へ出た者たちの足が止まる。
「縄を見るな!」
別の村長が叫ぶ。
「湿原を見ろ!」
その時、神奈子の風が爆ぜた。
神奈子を囲んでいた土が、内側から砕ける。
諏訪子が跳ぶ。
神奈子の風が空へ太い道を作る。
神奈子は再び上がった。
諏訪子は水面へ着地する。
二柱は距離を取る。
戦いは終わらない。
前へ出た人々は、まだ互いへ手を伸ばしていない。
それでも、元の場所へは戻らなかった。
◇
三日目の夜。
湿原の外には、二つの火があった。
一つは大きかった。
八坂様へ祈る若者たちが、薪を高く積んだ。
遠くからでも見える。
もう一つは低かった。
洩矢様へ祈る者たちは、火のそばへ小さな石を置いていた。
初めから二つだったわけではない。
一つの火を囲んでいた。
見張る場所が離れているからと、誰かが薪を持って移った。
そこへ一人が座った。
もう一人が座った。
反対側に残る者もいた。
気づけば、二つになっていた。
村長たちは、その間へ座った。
男も呼ばれた。
「八坂様の近くへ行ったのは、お前だ」
大きい火の側から言われる。
「こちらへ来い」
「洩矢様の奥へ入れるのも、お前だ」
低い火の側から声が飛ぶ。
「こちらで話せ」
男はどちらにも行かなかった。
二つの火の間にある石へ腰を下ろした。
「逃げるのか」
下の田の若者が聞く。
「ここなら、両方の声が聞こえる」
「俺たちの方につく気はないのか」
「俺たち?」
男が聞き返す。
若者が、自分の後ろを見る。
同じ水路で働く者。
神奈子の杭へ布を供えた者。
雨と水の順を神奈子へ願う者。
「……八坂様を信じる者だ」
低い火の側から笑う声がした。
「もう名乗ったぞ」
若者が立ち上がる。
「何だよ」
「八坂の者だと」
「悪いか」
「誰も悪いとは言ってない」
「言い方がそうだろ!」
村長が椀を置いた。
「続けるなら、二つとも火を消す」
声は大きくなかった。
若者たちは村長を見る。
「夜に火がなければ、獣が寄る。境のものも近づく」
村長は二つの火を順に見た。
「それでも口を止められぬなら、消せ」
誰も薪へ手を伸ばさなかった。
若者は座る。
低い火の者も目を逸らす。
女たちは、二つの火へ同じ鍋から汁を運んだ。
「こちらが少ない」
大きい火の若者が言う。
「人数が少ないからです」
「向こうの鍋の方が大きい」
「鍋の大きさで神様を決めるの?」
周囲で、少し笑いが起きた。
若者も口元を緩めた。
笑いは長く続かなかった。
遠くで土が鳴った。
全員が湿原を見る。
空が白く光る。
雨の音が大きくなる。
男のところへ、一人が来た。
「どちらが勝つ」
「まだ分からない」
「三日見ていてもか」
「三日見ているからだ」
「俺は八坂様が勝つと思う」
「そうか」
「八坂様が勝てば、水の順は残る。今の祭りも残る。俺たちは助かる」
低い火から声が飛ぶ。
「洩矢様がいなければ、その水の底から何が出るかも知らないくせに」
若者が振り返る。
「またそれか!」
「またとは何だ!」
男が立つ。
村長たちも立つ。
「やめろ」
男の声は、湿原の音に半分消えた。
「分かってるよ!」
若者が言う。
「分かってるけど、いつまでこれを続けるんだ!」
誰も返さない。
「水は止まる。獣は下りる。縄は鳴らねえ。毎日、どっちが勝つかも分からない!」
低い火の側から男が立った。
「お前らの八坂様が雨を持っていったからだ!」
「洩矢様が地を動かしてるからだろ!」
「それを言うな!」
男が二人の間へ入る。
「どちらも、民を巻き込まない場所で戦っておられる」
「巻き込まれてるじゃねえか!」
若者が湿原を指した。
「田も、山も、俺たちも!」
男は答えなかった。
答えられなかった。
若者は息を荒くする。
拳は握っている。
だが、反対側の男へは伸ばさない。
村長が二人の間へ杖を置いた。
「今夜は、まだ誰も殴っておらん」
若者が村長を見る。
「石も倒しておらん。縄も切っておらん。水も止めておらん」
「明日は?」
村長は二つの火を見る。
「明日のことは、明日止める」
二つの火は、夜が明けるまで一つには戻らなかった。
それでも、どちらも消されなかった。
片方の火が弱くなれば、反対から薪が運ばれた。
水が足りなくなれば、同じ桶から分けた。
見張りの番も、まだ一緒に組んだ。
人々は同じ湿原を見ていた。
同じ諏訪の夜にいた。
ただ、座る場所だけが違っていた。
丈は、二つの火の間に座る男を見ていた。
男は湿原へ顔を向けている。
右から八坂様のことを聞かれる。
左から洩矢様のことを聞かれる。
どちらも、男なら最後にはこちらへ来ると思っているようだった。
男はどちらにも、同じことを返していた。
まだ分からない。
神の戦を、人の戦にするな。
その声は、一日目よりも小さく聞こえた。
三日が過ぎた。
諏訪子は、正面から地をぶつけることをやめようとしていた。
神奈子は、雨を止めなかった。
湿原の土は、初日よりも黒く濡れている。
石の隙間へ。
地の割れ目へ。
さらに、その下へ。
雨水は静かに入り続けていた。
諏訪子は、水面の下から神奈子を見ている。
神奈子は、空から湿原全体を見ている。
二つの火の間で、男は眠らなかった。