現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第二十五話 「洩矢の鉄の輪」

第二十五話 「洩矢の鉄の輪」

 

 四日目の朝、男は水の音で目を覚ました。

 

 雨ではない。

 

 家の裏を流れる細い水路が、いつもとは違う場所を擦っていた。

 

 戸を開ける。

 

 夜は明けている。

 

 空は暗いままだった。

 

 神奈子の雨雲は湿原の上へ集まり、村の空には薄い灰色だけが残っている。

 

 家の裏へ回ると、水路の流れが片側へ寄っていた。

 

 石が動いたわけではない。

 

 土手も崩れていない。

 

 水だけが、何かを避けている。

 

 男はしゃがみ、指を入れた。

 

 冷たい。

 

 流れは弱い。

 

 水底へ触れる。

 

 泥の下から、細かな震えが指へ伝わった。

 

 地の揺れではなかった。

 

 もっと遅い。

 

 遠くで大きなものが身じろぎし、その動きだけが水の底を通ってきたような震えだった。

 

「何だ」

 

 背後から声がした。

 

 村長が立っている。

 

 杖を持ち、眠そうな顔もせず、男の手元を見ていた。

 

「分からない」

 

「洩矢様か」

 

 男は水から手を抜かなかった。

 

「違う」

 

 村長の杖が止まる。

 

「何が違う」

 

「分からない」

 

「洩矢様の力ではないと?」

 

「そうは言ってない」

 

「では何だ」

 

 男は指先へ伝わる震えを待った。

 

 もう来ない。

 

 水は何もなかったように流れている。

 

「昨日まで、土地が動けば、諏訪子様がどこにいるか何となく分かった」

 

「姿が見えずともか」

 

「ああ」

 

 男は濡れた手を衣へ擦った。

 

「今のは、違った」

 

「八坂様では」

 

「風でも雨でもない」

 

「ならば」

 

「分からない」

 

 村長は湿原の方角を見た。

 

 村からは戦場が見えない。

 

 雨雲だけが低く垂れている。

 

「分からぬことが増えたな」

 

「ああ」

 

「お前の口から聞くと、余計に不安になる」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

 村長は杖の先で水路の土を突いた。

 

「分からぬものを分かったと言われる方が困る」

 

 道の方から足音がした。

 

 下の田の若者たちが来る。

 

 一人ではない。

 

 昨日、八坂様の杭へ布を結んでいた男。

 

 その兄。

 

 水番をしている少年に近い青年。

 

 三人とも、男の家を目指して歩いていた。

 

「朝から何だ」

 

 男が立つ。

 

「堰の話だ」

 

「水守へ行け」

 

「行った。上の連中と話せって言われた」

 

「なら話せ」

 

「話した。まとまらねえから来た」

 

 若者が水路を見る。

 

「ここも細いな」

 

「ああ」

 

「八坂様の雨は、全部湿原へ行ってる」

 

 村長が若者を見る。

 

「決めつけるな」

 

「空を見りゃ分かるだろ」

 

「八坂様が村の水を奪っていると言うのか」

 

「そんなこと言ってねえ」

 

「今の口は、そう聞こえた」

 

「違う。戦が終われば戻るって話だ」

 

 若者は男へ顔を向ける。

 

「今日、八坂様が勝つか」

 

「分からない」

 

「またそれかよ」

 

「見ていない」

 

「今から行くんだろ」

 

「ああ」

 

「なら、戻ったら先に教えてくれ」

 

「村長たちへ話す」

 

「そのあと俺たちにも?」

 

「同じ場で聞け」

 

 若者が舌を鳴らす。

 

「俺たちは、お前が八坂様と水路を回ってた頃から一緒だった」

 

「そうだな」

 

「だったら、少しくらい先に聞いてもいいだろ」

 

「なぜだ」

 

「こっちへ来ると思ってたからだ」

 

 男は若者を見る。

 

「どこへ」

 

「八坂様の方へだよ」

 

 後ろの二人が黙っている。

 

 誰も若者を止めない。

 

「お前だって、八坂様のやり方で水が回るって言った。祭りの重さも減らせるって言った。村の連中へ説明したのもお前だ」

 

「ああ」

 

「洩矢様を捨てろなんて言ってねえ。でも最後には、八坂様が表へ立つ方がいいって言うと思ってた」

 

「そうか」

 

「そうか、じゃねえよ」

 

 村長が杖を一度鳴らした。

 

「男は、誰につくかを決めるために湿原を見るのではない」

 

「村長だって、洩矢様の村長だろ」

 

「わしはこの村の長だ」

 

「同じだろ」

 

「同じではない」

 

「じゃあ、洩矢様が負けても平気なのか」

 

 村長は若者を見る。

 

 長い間があった。

 

「平気であるはずがない」

 

 若者の肩が少し下がる。

 

「それでも、わしが先に守るのは村だ」

 

「俺たちだって同じだ」

 

「ならば堰の話へ戻れ」

 

 若者は口を閉じた。

 

 男が問う。

 

「上にどれだけ残ってる」

 

「二日分」

 

「下は」

 

「今日までだ」

 

「半分開けろ」

 

「半分じゃ足りねえ」

 

「全部開ければ上が明日から足りない」

 

「八坂様が勝てば雨は戻る」

 

「勝たなければ」

 

「勝つ」

 

「お前が決めることじゃない」

 

「だから見てこいって言ってる!」

 

 若者の声が水路へ響いた。

 

 村長は止めなかった。

 

 男も目を逸らさない。

 

「半分だ」

 

「……八坂様なら、もっと流す」

 

「今、八坂様は堰の前におられない」

 

「お前は何のためにいる」

 

「八坂様の代わりになるためじゃない」

 

 若者は唇を噛んだ。

 

「半分開ける。昼までに流れを見ろ。それでも足りなければ、また水守と話せ」

 

「また話すのか」

 

「人だからな」

 

 若者は男の顔を睨んだ。

 

 やがて背を向ける。

 

「湿原から戻ったら、話せよ」

 

「見たことは話す」

 

「八坂様が勝ちそうなら」

 

「それも見えれば話す」

 

「先に俺たちへ」

 

「皆へだ」

 

 若者は振り返らなかった。

 

 三人で道を戻っていく。

 

 村長は、その背中が見えなくなるまで黙っていた。

 

「お前はこちらにつくと思っていた、と」

 

「ああ」

 

「洩矢の奥の者も、同じ顔をしている」

 

「知ってる」

 

「嫌われるぞ」

 

「もう嫌われてる」

 

「まだだ」

 

 村長は湿原の空を見る。

 

「まだ、腹を立てながら、お前のところへ来る」

 

 男は答えなかった。

 

 水路へ手を入れる。

 

 さきほどの震えは戻らない。

 

     ◇

 

 湿原の手前には、石が二列に置かれていた。

 

 石の間に木杭を立て、縄を張っている。

 

 洩矢の神域を囲う縄とは違う。

 

 神の力はない。

 

 人が、人を止めるために置いたものだった。

 

 それでも、四日目の朝には、縄の外へ大勢の人が集まっていた。

 

 湖沿いの村から。

 

 山際から。

 

 上の田から。

 

 神奈子が水路を整えた下の村々から。

 

 洩矢の奥から。

 

 誰も、神々の争いを見ないではいられなかった。

 

 湿原では、雨が降っている。

 

 その中央に神奈子がいた。

 

 空へ立ち、風をまとっている。

 

 対する諏訪子は、浅い水の上へ裸足で立っていた。

 

 三日目までの戦いで、湿原は姿を変えている。

 

 土が盛り上がった場所。

 

 雨に削られた斜面。

 

 岩が砕けた跡。

 

 湖から濁流が走った溝。

 

 水の深さも、昨日とは違った。

 

 神奈子が上空から諏訪子を見る。

 

「今日は静かなのね」

 

 諏訪子は水面へ指を入れた。

 

「三日も同じことしてたら飽きるでしょ」

 

「ようやく力比べでは勝てないと分かった?」

 

「そう思うなら、下りてきなよ」

 

「嫌よ」

 

「怖い?」

 

 神奈子の周囲で風が鳴る。

 

「誘い方が下手ね」

 

「男には、あれで通じたんだけどな」

 

 風が落ちた。

 

 諏訪子の足元の水面が、一瞬でへこんだ。

 

 その周囲だけ、巨大な手で押さえつけられたように沈む。

 

 諏訪子は横へ跳ぶ。

 

 水が爆ぜる。

 

 風圧が湿原を走り、縄の外まで泥の匂いが届いた。

 

「すぐそれだ」

 

 諏訪子が笑う。

 

 着地した足で水を蹴る。

 

 細い飛沫が神奈子へ上がった。

 

 神奈子は腕を払う。

 

 風が飛沫を消す。

 

 何も起こらない。

 

 神奈子の眉が動く。

 

 諏訪子はすでに走っていた。

 

 神奈子へ近づくのではない。

 

 湿原の縁に沿って、大きく円を描く。

 

「何を――」

 

 水面の下で、石が動いた。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 水底から頭を出す。

 

 諏訪子が走った跡に沿って、黒く濡れた石が並んだ。

 

 神奈子の風が石へ当たる。

 

 石が回る。

 

 土台ごと向きを変え、風を横へ流す。

 

 次の石が、その風を受ける。

 

 また曲げる。

 

 風が湿原を一周した。

 

 神奈子の髪が、背後から吹いた自分の風に持ち上げられる。

 

 諏訪子が指を鳴らした。

 

「回れ」

 

 石の列が、次々と角度を変えた。

 

 神奈子の風路が閉じる。

 

 外へ抜けるはずの風が、円の内側を巡り始める。

 

 速く。

 

 さらに速く。

 

 水面が持ち上がる。

 

 泥が風へ吸い込まれる。

 

 黒い壁が神奈子の周囲へ立った。

 

「自分の風に囲まれる気分はどう?」

 

 諏訪子の声が、泥の壁の向こうから聞こえた。

 

 神奈子が両手を開く。

 

 内側から風を押し返す。

 

 壁が膨らむ。

 

 石の列が軋む。

 

 諏訪子が地へ掌をついた。

 

 石の間から根が伸びた。

 

 細い根ではない。

 

 雨水を吸って膨らみ、泥と岩を抱え込んだ根だった。

 

 神奈子の両足へ絡む。

 

 風が根を切る。

 

 切られた先から、泥が噴き出す。

 

 別の根が腕へ巻きつく。

 

 神奈子は雨を落とした。

 

 白い柱のような雨だった。

 

 根を打つ。

 

 泥を剥がす。

 

 だが、剥がれた泥は、巡る風へ巻き上げられる。

 

 壁が厚くなる。

 

 諏訪子の笑い声が響いた。

 

「水は土を溶かすんだっけ」

 

「ええ」

 

 神奈子の声は近かった。

 

 泥の壁の中で、風の音が一度消える。

 

「なら、流してあげる」

 

 次の瞬間、壁の一か所が内側から吹き飛んだ。

 

 泥。

 

 石。

 

 根。

 

 圧縮された風が、すべてを一直線に貫いた。

 

 神奈子が穴から飛び出す。

 

 その先に諏訪子がいた。

 

「そこ」

 

 諏訪子が踵を落とした。

 

 神奈子の真下で、岩盤が斜めに起き上がる。

 

 壁ではない。

 

 空へ向かう急な坂。

 

 神奈子の風が斜面へ当たった。

 

 上へ跳ねる。

 

 神奈子自身の身体を、さらに高く弾き上げる。

 

 その先で、二つの岩が閉じた。

 

 山の顎だった。

 

 神奈子の腰から下を挟み込む。

 

「――っ」

 

 初めて、神奈子の声が短く漏れた。

 

 諏訪子は両腕を引く。

 

 岩の顎が空から落ちる。

 

 神奈子ごと。

 

 湿原の中央へ叩きつけられた。

 

 衝撃で、水が円形に吹き上がる。

 

 地面が揺れた。

 

 縄の外にいた人々がよろめく。

 

「洩矢様!」

 

 洩矢の奥から声が上がった。

 

 それに重なるように、下の田の若者が叫ぶ。

 

「八坂様!」

 

「地へ落ちたぞ!」

 

「まだだ!」

 

「見ただろう!」

 

「八坂様は戻られる!」

 

 声が互いへ向きかける。

 

 村長たちの杖が石を打つ。

 

「湿原を見ろ!」

 

 男も声を上げた。

 

「隣を見るな!」

 

 人々の顔が湿原へ戻る。

 

 岩の顎に、一本の亀裂が走った。

 

 雨が入る。

 

 風が漏れる。

 

 亀裂が増える。

 

 岩が内側から砕けた。

 

 神奈子が風とともに飛び出す。

 

 肩から血が流れている。

 

 髪も衣も泥に濡れていた。

 

 諏訪子は水面へ立ち、笑っている。

 

「どうしたの。空の神様」

 

 神奈子は肩へ手を触れた。

 

 指についた血を見る。

 

 雨で流す。

 

「なるほど」

 

「何が?」

 

「三日間、土をぶつけ続けたのは、私に地面ばかり見せるためだったのね」

 

 諏訪子の笑みが少し細くなる。

 

「さあ」

 

「水路も、石の並びも、昨日までに作っていた」

 

「気づくのが遅いよ」

 

「ええ」

 

 神奈子は濡れた髪を後ろへ払った。

 

「少し、見直したわ」

 

 空気が一瞬止まる。

 

 諏訪子の目が細くなる。

 

「少し?」

 

「全部と言ってほしい?」

 

「別に」

 

 神奈子の周囲へ風が集まる。

 

 雲が渦を巻く。

 

「では、続きをしましょう」

 

 雨が横へ走った。

 

 無数の細い線となって、諏訪子へ迫る。

 

 諏訪子が水面を蹴る。

 

 雨の線が背後の岩を切った。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 石の列が砕ける。

 

 風の輪が崩れる。

 

 諏訪子は砕けた石を踏む。

 

 破片が空へ上がる。

 

 神奈子へ向けて放たれる。

 

 神奈子の風が、石の群れを受け止めた。

 

 止めない。

 

 回す。

 

 石の群れが神奈子の周囲を一周し、速度を増す。

 

 諏訪子へ返る。

 

「返すわ」

 

「いらない!」

 

 諏訪子が地面を持ち上げる。

 

 土の壁が石を呑み込む。

 

 その土壁へ神奈子の雨が落ちる。

 

 泥へ変わる前に、風が横から押した。

 

 巨大な泥の塊が諏訪子へ倒れる。

 

 諏訪子は両手を地へついた。

 

 倒れかけた泥が二つへ割れる。

 

 その間を駆け抜ける。

 

 神奈子の直下へ。

 

 地面から土の槍が乱立した。

 

 神奈子は身体を捻る。

 

 一本を避ける。

 

 二本目を風で折る。

 

 三本目が衣を裂く。

 

 四本目が頬を掠める。

 

 神奈子の指が空をなぞった。

 

 雲の奥で光が走る。

 

 轟音が湿原を揺らした。

 

 白い閃光が土の槍へ落ちる。

 

 泥と石が蒸気になって爆ぜた。

 

 諏訪子の身体も吹き飛ぶ。

 

 水面を何度も跳ね、遠くの泥へ転がった。

 

 縄の外から声が上がる。

 

 今度は八坂側だった。

 

「八坂様!」

 

「今のを見たか!」

 

「洩矢様は立たれる!」

 

「立てるものか!」

 

 村長の杖が鳴る。

 

「声は神へ向けろ!」

 

 諏訪子の指が動いた。

 

 水底から土が盛り上がり、その身体を受け止める。

 

 立ち上がる。

 

 頬についた泥を拭う。

 

「雷まで使うんだ」

 

「雨雲があるもの」

 

「空は何でもありだね」

 

「土地を全部使っているあなたに言われたくないわ」

 

 諏訪子が笑った。

 

 神奈子は笑わなかった。

 

 風が低く唸る。

 

 四日目の戦いは、日が沈んでも続いた。

 

 諏訪子は同じ罠を二度使わなかった。

 

 神奈子も、同じ場所では二度捕まらなかった。

 

 土が空へ届く。

 

 空が地へ落ちる。

 

 雨が泥を作り、泥が雨を捕らえる。

 

 風が岩を削り、削られた岩が次の刃となる。

 

 湿原の形は、刻ごとに変わった。

 

     ◇

 

 四日目の夜。

 

 男の家には人が入りきらなかった。

 

 戸口から道まで、松明を持った者が立っている。

 

 男は土間へ座り、同じ話を何度も繰り返した。

 

「今日は洩矢様が押された」

 

「ああ」

 

「八坂様は地へ落ちた」

 

「ああ」

 

「なら、洩矢様が勝つ」

 

「まだだ」

 

「なぜ」

 

「八坂様は戻られた」

 

「戻っただけだ」

 

 下の田の若者が割り込む。

 

「罠を破った!」

 

「破るまでに血を流した」

 

「大した傷じゃない!」

 

「お前が決めるな!」

 

「お前こそ!」

 

「やめろ」

 

 男が言う。

 

 二人とも男を見る。

 

「見たままを聞きに来たのか。聞きたい話を言わせに来たのか」

 

 若者の拳が膝へ沈む。

 

「八坂様は、まだ戦えるんだな」

 

「ああ」

 

「勝てるか」

 

「分からない」

 

 若者の手がさらに強く握られる。

 

「何で分からねえんだ」

 

「諏訪子様は策を変えた。神奈子様も、もう同じ策には掛からない」

 

「どっちが上だ」

 

「今日だけなら諏訪子様だ」

 

 家の奥から息が漏れた。

 

 若者が立ち上がる。

 

「今日だけって、つける必要あるか」

 

「明日は分からない」

 

「八坂様が負けてほしいのか」

 

「そうは言っていない」

 

「洩矢様の奥から戻ってきてから、ずっとそうだ」

 

 男は若者を見上げる。

 

「何が」

 

「どっちにもつかない顔してる」

 

「前からだ」

 

「前は、八坂様のやり方を村へ話した」

 

「今も、水路については正しいと思っている」

 

「なら――」

 

「諏訪子様が守ってきたものも必要だ」

 

「そればっかりだ!」

 

 若者の声が家の梁へ当たる。

 

「どっちも必要だ。どっちも諏訪を思ってる。だから争うな。お前はずっと、それしか言わねえ!」

 

 男は返さなかった。

 

「それで四日だ! 水は減る。獣は下りる。井戸は濁る。いつまで、どっちも大事だって言ってればいい!」

 

「八坂様か洩矢様か、俺に決めさせたいのか」

 

「お前なら分かると思ってる!」

 

「分からない」

 

「じゃあ、何のために――」

 

「井戸を見る!」

 

 男の声が若者の言葉を切った。

 

 外まで静かになる。

 

「山際の縄を見る。崩れた水路を直す。湿原の様子を話す。それ以上はできない」

 

「それで足りねえから、皆ここへ来てるんだろ」

 

「ああ」

 

「なら」

 

「足りないものを、ないところから出せと言うな」

 

 若者は男を見下ろした。

 

 やがて、顔を逸らす。

 

 家の外から別の声がした。

 

「山の獣が戻らん」

 

 狩人だった。

 

「火も縄も置いた。それでも奥へ行かない」

 

「何かいるか」

 

「見えん。だが、犬が山へ向かって吠えない」

 

「吠えない?」

 

「尾を巻いて、地面を見ている」

 

 男の指が動いた。

 

 朝の水路を思い出す。

 

「地面か」

 

「何だ」

 

「分からない」

 

 人々の間から、低いざわめきが起きる。

 

 洩矢の奥の村長が、男を見る。

 

「朝のものか」

 

「ああ」

 

「洩矢様ではないと?」

 

「違う気がする」

 

「八坂様でもない」

 

「ああ」

 

「では、何が動いている」

 

 男は答えなかった。

 

 家の床へ掌を置く。

 

 何も感じない。

 

「分からない」

 

 村長は目を閉じた。

 

「お前がそう言うなら、皆へはまだ話さぬ方がよいか」

 

「いや」

 

 男は手を上げる。

 

「隠せば、別の話ができる」

 

「なら、どう言う」

 

「土地の治まりが悪くなっている。二柱の力だけでは説明できないものを感じた。だが、何かは分からない」

 

「それで人が安心すると思うか」

 

「思わない」

 

「正直だな」

 

「嘘をついても、地面は止まらない」

 

 村長は杖を持ち上げた。

 

「山際の見回りを増やす。犬は連れていくな」

 

「井戸も、底だけでなく周りの地を見る」

 

 水守が続く。

 

「湿原の縄は?」

 

「二重のままだ」

 

 男は立ち上がる。

 

「俺は山へ行く」

 

 下の田の若者が振り返る。

 

「湿原は」

 

「見張りがいる」

 

「八坂様の様子は」

 

「朝に見る」

 

「今夜、何かあったら」

 

「走らせろ」

 

 若者は何かを言いかけ、飲み込んだ。

 

 戸口に置いてあった松明を取る。

 

 男へ投げる。

 

「持ってけ」

 

「お前のだろ」

 

「湿ってるけど、火はつく」

 

「ありがとう」

 

「礼はいらねえ」

 

 若者は男を見ない。

 

     ◇

 

 五日目。

 

 諏訪子は湿原から水を消した。

 

 朝まで水を湛えていた場所が、黒い土へ変わっている。

 

 魚が跳ねることもない。

 

 蛙の声もない。

 

 神奈子は上空から地面を見下ろした。

 

「今度は何をするつもり?」

 

 諏訪子は、ひび割れた泥の上を歩く。

 

「昨日、空から見れば何でも分かるって顔してたから」

 

「していないわ」

 

「してたよ」

 

 神奈子が手を下ろす。

 

 雨が一本の線となって諏訪子へ落ちる。

 

 諏訪子は避けない。

 

 雨が身体を打つ。

 

 地面へ流れる。

 

「避けないの?」

 

「雨でしょ」

 

 雨脚が強くなる。

 

 諏訪子の足元が泥へ変わる。

 

 それでも歩く。

 

「自分の土地で溺れるつもり?」

 

「溺れるのは、そっちだよ」

 

 諏訪子が足を踏み下ろした。

 

 遠く、湖の底から音がした。

 

 神奈子が顔を向ける。

 

 乾いていた湿原の中央が、内側から膨らんだ。

 

 割れる。

 

 水柱が空へ上がる。

 

 神奈子の身体を呑み込んだ。

 

 風が水を左右へ切る。

 

 切れた場所へ、さらに水が入る。

 

 雨が水柱へ加わる。

 

 神奈子自身の雨だった。

 

「水は土を溶かす」

 

 諏訪子が両手を広げる。

 

「水だけならね」

 

 水柱の中へ、細かな砂が噴き上がった。

 

 神奈子の周囲で濁流になる。

 

 風が砂を巻く。

 

 砂が神奈子の目と口へ打ちつける。

 

 神奈子が顔を背けた。

 

 諏訪子が走る。

 

 乾いていた地面の上を、一直線に。

 

 水柱へ飛び込む。

 

 神奈子の腰へ腕を回した。

 

「捕まえた!」

 

 神奈子が風を爆ぜさせる。

 

 水柱が横へ広がる。

 

 諏訪子は離れない。

 

 二柱がそのまま湖へ落ちた。

 

 水面が大きく沈む。

 

 次の瞬間、湖の中央が盛り上がる。

 

 風が水の下で回っている。

 

 巨大な渦が生まれる。

 

 水が天へ巻き上がる。

 

 神奈子と諏訪子が渦の中心へ見えた。

 

 諏訪子は神奈子の足を掴んでいる。

 

 神奈子は片手で諏訪子の肩を押さえていた。

 

 空と地の神が、水の柱の中で互いを引き剥がそうとしている。

 

「放しなさい!」

 

「嫌だよ!」

 

「子供みたいなことを!」

 

「そっちが逃げるからでしょ!」

 

 神奈子の周囲で風が細く尖る。

 

 水の中へ、無数の刃が走った。

 

 諏訪子の衣が裂ける。

 

 頬へ傷が入る。

 

 それでも手を離さない。

 

 諏訪子の足元から、泥の塊が伸びた。

 

 水中で蛇のように曲がり、神奈子の腕へ絡みつく。

 

 神奈子が雨を集める。

 

 水の中で、さらに水が圧縮される。

 

 透明な槍となり、泥の蛇を貫いた。

 

 湖面が爆発した。

 

 二柱が別々の方向へ吹き飛ぶ。

 

 諏訪子は泥の岸へ落ちる。

 

 神奈子は空へ押し上げられる。

 

 互いに、すぐ立った。

 

 神奈子の呼吸が乱れている。

 

 濡れた髪が頬へ張りついていた。

 

 諏訪子は口へ入った水を吐く。

 

「今のは痛い」

 

「離さないからよ」

 

「放したら空へ戻るじゃん」

 

「それを逃げるとは言わないわ」

 

「地に足もつけられないくせに」

 

 諏訪子の足元で地面が波打つ。

 

 無数の土柱が神奈子へ伸びる。

 

 神奈子は風を纏い、一気に降下した。

 

 避けない。

 

 土柱の間を縫う。

 

 一本が肩を掠める。

 

 別の一本を手で払う。

 

 風が柱を根元から折る。

 

 神奈子は諏訪子の正面へ降りた。

 

 拳ではない。

 

 掌を突き出す。

 

 圧縮された風が諏訪子の胸へ当たった。

 

 諏訪子の身体が地面を削りながら後退する。

 

 だが倒れない。

 

 両足を土へ沈め、踏みとどまる。

 

「下りてこられるじゃん」

 

 神奈子の目の前で、諏訪子が笑った。

 

「あなたを黙らせるためならね」

 

 諏訪子の拳が神奈子の頬へ入った。

 

 神奈子の顔が横へ向く。

 

 縄の外から声が上がる。

 

 神奈子は倒れない。

 

 ゆっくり顔を戻す。

 

 頬へ赤い跡が残っている。

 

「今」

 

 風が止まった。

 

「殴ったわね」

 

「戦ってるんだけど?」

 

 神奈子の髪が逆立つ。

 

 雲の奥が白く光る。

 

 諏訪子が顔を上げる。

 

「まず――」

 

 雷鳴が落ちた。

 

 諏訪子の立つ地面が白く弾ける。

 

 土と水が蒸気になって吹き上がった。

 

 諏訪子の身体が空へ投げ出される。

 

 神奈子は風で追う。

 

 空中の諏訪子へ追いつく。

 

 腕を掴み、振り回す。

 

 地面へ投げる。

 

 諏訪子が落ちる直前、地が盛り上がった。

 

 柔らかな土が身体を受け止める。

 

 諏訪子はそのまま土の斜面を走る。

 

 神奈子へ跳ぶ。

 

 二柱の身体が空中でぶつかった。

 

 風と泥が爆ぜる。

 

 神奈子が諏訪子の腕を捻る。

 

 諏訪子が神奈子の足を払う。

 

 共に落ちる。

 

 落下の途中で、神奈子が風を起こす。

 

 諏訪子が土の槍を下から伸ばす。

 

 風が槍を砕く。

 

 破片が二柱の周囲を舞う。

 

 雨が石を打つ。

 

 石が泥になる。

 

 泥が諏訪子の腕へ集まる。

 

 巨大な拳となる。

 

 神奈子の風が一本の柱になる。

 

 二つの力が正面からぶつかった。

 

 轟音。

 

 湿原の水がすべて外へ押し出される。

 

 縄が激しく鳴った。

 

 人々が石へしがみつく。

 

 丈は、夢の中で顔を覆った。

 

 それでも目を閉じられなかった。

 

 空と地が、神の姿を借りて殴り合っていた。

 

     ◇

 

 五日目の午後。

 

 男は湿原の縁でしゃがんだ。

 

 泥を手に取る。

 

 握る。

 

 指の間から水が落ちた。

 

 表面だけではない。

 

 下まで水を含んでいる。

 

 石の根元を少し掘る。

 

 さらに水が滲んだ。

 

 水守が横へ来る。

 

「雨が五日も降れば、そうなる」

 

「諏訪子様が水の道を増やした」

 

「八坂様の雨を使うためだろう」

 

「ああ」

 

 男は泥を捨てる。

 

「使った水が、戻っていない」

 

「湿原へ溜まっている」

 

「もっと下だ」

 

 水守が眉を寄せる。

 

 男は地面へ掌を置いた。

 

 また、あの震えが来る。

 

 遠い。

 

 重い。

 

 諏訪子が土を起こした時の揺れとは違う。

 

 神奈子の風が地を叩いた響きとも違う。

 

 自分の掌の下だけではない。

 

 湿原。

 

 湖。

 

 村の水路。

 

 山際。

 

 全部の下を、一つの長いものが通ったような気配だった。

 

 男が手を離す。

 

「またか」

 

 水守が聞く。

 

「ああ」

 

「洩矢様ではない」

 

「分からない」

 

「昨日は違うと言った」

 

「諏訪子様だと思っていた恐れとは、違う」

 

 水守は湿原を見る。

 

 諏訪子は神奈子へ石を投げている。

 

 神奈子が風で砕く。

 

 見える場所では、二柱しか戦っていない。

 

「恐れに、違いがあるのか」

 

「ある」

 

「どう違う」

 

 男は答えようとした。

 

 言葉が出ない。

 

 諏訪子を前にした時の恐れは、足を止める。

 

 縄の内へ入るなと告げる。

 

 石へ触れるなと告げる。

 

 近づけば、近づいた分だけ濃くなる。

 

 今、地の下にあるものは違う。

 

 近いとも遠いとも言えない。

 

 湿原の底だけにいるのではない。

 

 自分が立つ地面そのものが、こちらを見るために向きを変えたような気配だった。

 

「分からない」

 

 男は言った。

 

 水守の顔が強張る。

 

「村長へ話す」

 

「ああ」

 

「人々へは」

 

「隠すな」

 

「不安が増える」

 

「もう増えてる」

 

 男は立ち上がる。

 

「分からないものを、八坂様か洩矢様の仕業にされる方が悪い」

 

 水守は何も言わなかった。

 

     ◇

 

 六日目の朝。

 

 八坂派と洩矢派という言葉が、村の中で使われていた。

 

 誰が最初に言ったのかは分からない。

 

 昨日まで、水路の若者と呼ばれていた者。

 

 洩矢の縄を守る者と呼ばれていた者。

 

 下の田。

 

 上の田。

 

 奥の村。

 

 それぞれ別の名があった。

 

 今は、二つだった。

 

「八坂派が夜のうちに堰を開けた」

 

「洩矢派が上へ石を置いたからだ」

 

 男が着いた時には、堰の前で人々が向かい合っていた。

 

 上の田の者は鍬を持っている。

 

 下の田の者は堰へ手を掛けている。

 

 水は下へ多く流れていた。

 

「誰が開けた」

 

 男が聞く。

 

「俺たちじゃない」

 

 下の田の若者が答える。

 

「だが、開ける必要はあった」

 

「誰が開けた」

 

「知らねえ」

 

「夜番は」

 

「途中で交代した」

 

「誰と」

 

「上の村の奴だ」

 

 名を呼ばれた男が前へ出る。

 

「俺が来た時には開いていた」

 

「嘘をつけ!」

 

「何で俺が嘘を!」

 

 鍬が持ち上がる。

 

 男が間へ入る。

 

「下ろせ」

 

「どけ」

 

「人へ向ける道具じゃない」

 

「水を盗られたんだぞ!」

 

「誰が盗ったか分かっていない」

 

「下へ流れてる!」

 

「流れた水に派閥はない」

 

「綺麗なこと言うな!」

 

 鍬の柄が男の肩へ当たる。

 

 押し退けようとしただけだった。

 

 男は退かない。

 

「下ろせ」

 

 鍬を持つ男の息が荒い。

 

 手が震えている。

 

 ゆっくり下ろす。

 

「半分閉める」

 

 男が堰へ手を掛ける。

 

 下の田の若者が腕を掴む。

 

「下が持たねえ」

 

「村長と水守が来るまでだ」

 

「八坂様なら流す!」

 

「今ここにおられない」

 

「だからお前へ聞いてる!」

 

「俺は八坂様ではない」

 

「知ってるよ!」

 

 若者が男の腕を放す。

 

「知ってるから、腹が立つんだ!」

 

 上の田から声が上がる。

 

「洩矢様なら、勝手に地を変えるなと言われる!」

 

「お前が洩矢様の言葉を決めるな!」

 

「お前こそ八坂様の名を使うな!」

 

 肩がぶつかる。

 

 胸ぐらを掴む。

 

 掴まれた腕を払う。

 

 誰かの拳が男の頬へ当たった。

 

 顔が横へ向く。

 

 唇が切れる。

 

 その場の声が消えた。

 

 男は血を拭う。

 

「村長を呼べ」

 

「俺は……」

 

 拳を振ったらしい若者が、自分の手を見ている。

 

「呼べ」

 

 若者は走った。

 

 誰も追わない。

 

 水だけが流れていた。

 

     ◇

 

 村長たちは堰を半分閉じた。

 

 水番を増やす。

 

 上と下から一人ずつ出す。

 

 片方だけで見張らせない。

 

「信用されてねえってことか」

 

 下の田の若者が言う。

 

「互いにな」

 

 水守が答える。

 

「俺たちは開けてない」

 

「なら見られて困らんだろ」

 

「そっちが開けたかもしれねえ」

 

「だから両方で見る」

 

 村長は男の口元を見る。

 

「誰に殴られた」

 

「見ていなかった」

 

「殴った者は」

 

 誰も名乗らない。

 

 男は首を振る。

 

「今はいい」

 

「よくはない」

 

「探せば、また二つに割れる」

 

 村長は周囲を見る。

 

「次に人へ手を出した者は、水番から外す」

 

「水を止めるのか」

 

「水は止めん。役から外す」

 

「祭具へ手を出した者も同じだ」

 

 洩矢の奥の村長が言う。

 

「どちらへ祈るかではなく、何をしたかで裁く」

 

 若者が鼻を鳴らす。

 

「決まりばっかり増える」

 

「馬鹿が増えるからだ」

 

 縄役の老婆が返す。

 

「誰が馬鹿だ」

 

「今、返事をした奴だよ」

 

 笑う者はいなかった。

 

 男は地面を見る。

 

 水路の底。

 

 土手。

 

 石。

 

 また、気配がある。

 

 昨日より近い。

 

 いや、近いという言葉も違う。

 

 地面の下から上がってきたのではない。

 

 土地の方が、そこにある何かへ近づいている。

 

「どうした」

 

 村長が聞く。

 

「まただ」

 

「何がいる」

 

「分からない」

 

「洩矢様か」

 

「違う」

 

 今度は迷わなかった。

 

 周囲の者たちが男を見る。

 

「八坂様では」

 

「違う」

 

「なら、何だ」

 

「分からない」

 

 誰かが舌打ちした。

 

「またそれか」

 

 村長がその声の方を見る。

 

「分からぬものを、お前は知っているのか」

 

 返事はない。

 

 男は土へ触れない。

 

 触れなくても感じた。

 

 胸の奥。

 

 歯の根。

 

 目の裏。

 

 身体のどこで受け取っているのかも分からない。

 

 ただ、いる。

 

 昨日まで諏訪子だと思っていた、土地の恐れ。

 

 その奥に、別のものがいる。

 

 諏訪子が恐れを生み出していたのではない。

 

 恐れの上へ、諏訪子が立っていた。

 

 男は湿原の方角を見る。

 

「戦が、土地を変えてる」

 

「それで起きたのか」

 

「分からない」

 

「止められるか」

 

「分からない」

 

 村長の手が杖を強く握る。

 

「湿原へ行け」

 

「ああ」

 

「見たものを戻って話せ」

 

「ああ」

 

「一人で入るな」

 

「縄は越えない」

 

「違う」

 

 村長は男の目を見る。

 

「一人で抱えるなと言っている」

 

 男は返事をしなかった。

 

「返事をしろ」

 

「分かった」

 

     ◇

 

 六日目の戦いは、空まで地になった。

 

 諏訪子が両腕を広げる。

 

 湿原の土が、一斉に空へ浮かび上がった。

 

 岩。

 

 泥。

 

 根。

 

 水を吸った土塊。

 

 数えきれない塊が、神奈子の周囲へ集まる。

 

 小さな島々だった。

 

 空中へ浮かぶ大地。

 

 神奈子が風を放つ。

 

 土の島が砕ける。

 

 砕けた破片が、さらに小さな島になる。

 

 諏訪子が指を動かす。

 

 無数の破片が神奈子へ殺到した。

 

 神奈子の周囲で風が渦を巻く。

 

 土塊を受け止める。

 

 回す。

 

 だが、諏訪子は土だけを操っていない。

 

 破片の中に含まれた水が、一斉に外へ噴き出した。

 

 神奈子の風へ混じる。

 

 渦が重くなる。

 

 泥が神奈子の身体へまとわりつく。

 

「空まで私の土地にすればいい」

 

 諏訪子が笑う。

 

 神奈子は泥の中で腕を広げた。

 

「随分と大きく出たわね」

 

 雲が回る。

 

 湿原の上空に、巨大な漏斗が生まれた。

 

 天から地へ降りる風の柱。

 

 浮かんでいた土の島々が、すべて巻き込まれる。

 

 諏訪子が手を握る。

 

 土塊同士が結びつく。

 

 巨大な塊になる。

 

 風の柱の中で、山が形を作る。

 

 逆さに浮かぶ山だった。

 

 頂が地面を向いている。

 

 諏訪子が腕を振り下ろす。

 

 逆さの山が神奈子へ落ちた。

 

 神奈子は逃げない。

 

 両手を上げる。

 

 風の柱が細くなる。

 

 圧縮される。

 

 青白い筋となって、逆さの山の中心を貫いた。

 

 一瞬、山が止まる。

 

 次の瞬間、内側から爆発した。

 

 空が土で黒く染まる。

 

 岩の雨が湿原へ降る。

 

 人々が縄から離れる。

 

「下がれ!」

 

 男と村長たちが叫ぶ。

 

 神奈子は土煙の中へ消えていた。

 

 諏訪子が地へ耳をつける。

 

 目では探さない。

 

 神奈子の風が地面へ触れた場所を読む。

 

「そこ!」

 

 諏訪子の足元から、一本の土柱が斜めに伸びる。

 

 土煙の中で何かに当たる。

 

 神奈子の身体が押し出された。

 

 諏訪子は地面を蹴る。

 

 空へ上がる。

 

 神奈子へ追いつく。

 

 拳を振るう。

 

 神奈子が腕で受ける。

 

 衝撃で雲が割れた。

 

 諏訪子が二撃目を放つ。

 

 神奈子が身体を捻って避ける。

 

 風が諏訪子の脇腹へ当たる。

 

 諏訪子の身体が横へ飛ぶ。

 

 空中の土塊を踏み台にして戻る。

 

 神奈子の足を掴む。

 

 回す。

 

 空から地へ投げる。

 

 神奈子が落ちながら風を起こす。

 

 落下の向きを横へ変える。

 

 水面を滑る。

 

 諏訪子が追う。

 

 神奈子が振り返る。

 

 指先に、雨が集まっていた。

 

 細く伸びる。

 

 水の刃。

 

 諏訪子が首を傾ける。

 

 刃が頬を掠める。

 

 二本目。

 

 三本目。

 

 雨粒が無数の刃となり、諏訪子へ降り注ぐ。

 

 諏訪子は地面へ両手をついた。

 

 岩の花が咲いた。

 

 何枚もの石板が重なり、水の刃を弾く。

 

 音が連続する。

 

 石板の一枚が割れる。

 

 二枚目も割れる。

 

 三枚目の前で、水の刃が止まった。

 

 神奈子の手が下りる。

 

「硬いわね」

 

「土地だからね」

 

「なら、土地ごと流すわ」

 

 雨が一斉に落ちた。

 

 湿原の水位が上がる。

 

 岩の花の根元へ水が入る。

 

 諏訪子が足を踏む。

 

 土地を持ち上げる。

 

 神奈子の雨が、その下へさらに流れ込む。

 

 土が軋む。

 

 諏訪子が眉を寄せた。

 

 神奈子は見逃さない。

 

 風が岩の花を横から打つ。

 

 水を含んだ土台が崩れる。

 

 諏訪子ごと岩が傾いた。

 

 神奈子の周囲で雲が白く光る。

 

 諏訪子が顔を上げる。

 

「またそれ?」

 

「嫌なら避けなさい」

 

 雷が落ちた。

 

 岩の花が白く爆ぜる。

 

 諏訪子の身体が湿原の端まで吹き飛んだ。

 

 地面へ落ちる。

 

 立ち上がろうとする。

 

 神奈子の風が上から押さえつける。

 

 諏訪子の膝が泥へ沈む。

 

「地にいる方が強いのでしょう」

 

 神奈子が空から言う。

 

「立ちなさい」

 

 諏訪子が泥へ手を入れる。

 

「言われなくても」

 

 地面が大きく盛り上がった。

 

 諏訪子を乗せたまま、山の峰のように空へ迫る。

 

 神奈子の風と衝突する。

 

 峰が削れる。

 

 土が舞う。

 

 それでも止まらない。

 

 諏訪子は隆起の先端を走った。

 

 神奈子へ跳ぶ。

 

 二柱の拳が同時に入った。

 

 神奈子の頬。

 

 諏訪子の頬。

 

 互いの顔が反対へ向く。

 

 そのまま、二柱は笑った。

 

 諏訪子が額をぶつける。

 

 神奈子が風で押し返す。

 

 諏訪子が神奈子の髪を掴む。

 

「放しなさい!」

 

「嫌だって言ってるでしょ!」

 

 神奈子が諏訪子の頬を掴む。

 

「あなた、本当に品がないわね!」

 

「戦で品を気にするの、あんたくらいだよ!」

 

 神奈子の膝が諏訪子の腹へ入る。

 

 諏訪子が息を吐く。

 

 それでも髪を放さない。

 

 二柱がもつれたまま地へ落ちる。

 

 風と土が同時に爆ぜた。

 

 湿原の中央へ大きな穴が開いた。

 

 縄の外で、誰も声を出せなかった。

 

 穴の底から、神奈子の風が上がる。

 

 諏訪子の土が覆い被さる。

 

 風が破る。

 

 土が塞ぐ。

 

 何度も。

 

 やがて、神奈子が穴から飛び出した。

 

 諏訪子も別の場所から地を割って現れる。

 

 二柱は離れて立つ。

 

 肩を上下させている。

 

 衣は裂れ、泥と血がついている。

 

「六日」

 

 諏訪子が言う。

 

「ええ」

 

「しつこいね」

 

「あなたにだけは言われたくないわ」

 

 神奈子の雨が、また静かに落ち始める。

 

 戦いの激しさとは合わない、細い雨だった。

 

 土の穴へ入る。

 

 割れ目へ入る。

 

 諏訪子が掘り返した地の奥へ、消えていく。

 

 男は石の前から、その雨を見ていた。

 

 地の底の気配が、また向きを変えた。

 

     ◇

 

 六日目の夜。

 

 各村の長たちは、男の家の前へ集まった。

 

 家の中には入りきらない。

 

 道の分かれ目まで松明が続いている。

 

「明日で決まる」

 

 洩矢の奥の村長が言った。

 

「なぜ分かる」

 

 湖沿いの村長が問う。

 

「洩矢様が、奥の神秘へ触れようとしておられる」

 

「何を出される」

 

「分からぬ」

 

 下の田の若者が顔を上げる。

 

「あんたたちも知らないのか」

 

「見た者はいない」

 

「言い伝えは」

 

「黒い輪」

 

 縄役の老婆が低く言った。

 

 人々が老婆を見る。

 

「地の底へ沈んでいる。外から来るものを閉じる輪。洩矢様が、必要な時に起こされる」

 

「何で今まで黙ってた」

 

 若者が立つ。

 

「言ってどうなる」

 

「八坂様へ伝えられた!」

 

「それで、お前は何をした」

 

「八坂様が備えられる!」

 

「洩矢様の神秘を、敵へ売れと言うのか」

 

「敵じゃねえ!」

 

 若者の声が響く。

 

 すぐに自分の言葉で止まる。

 

 老婆が若者を見る。

 

「では何だい」

 

「八坂様だ」

 

「答えになっていない」

 

「諏訪を良くしてくださった神様だ!」

 

「洩矢様もだ」

 

「分かってる!」

 

「分かっている者は、秘密を渡せとは言わない」

 

「秘密のせいで、八坂様が死んだらどうする!」

 

 周囲が静まった。

 

 若者の息が荒い。

 

「戦だよ」

 

 老婆は言った。

 

「二柱は、それを承知で湿原へ出られた」

 

「俺たちは承知してねえ」

 

「だから、縄の外にいる」

 

 若者は男を見る。

 

「あんたは知ってたのか」

 

「黒い輪の話だけは聞いたことがある」

 

「どんなものだ」

 

「知らない」

 

「八坂様には」

 

「話していない」

 

「何で!」

 

「見たこともない、何をするかも分からない話を、どう伝える」

 

「洩矢様の切り札だって言えばいい!」

 

「それで神奈子様が先に諏訪子様を討てば、お前は納得するのか」

 

 若者が口を閉じる。

 

 男は続ける。

 

「二柱の戦へ、俺が勝ち方を渡すつもりはない」

 

「橋渡し役だろ」

 

「武器を渡す役じゃない」

 

 若者は男を睨んだ。

 

 それ以上は言わない。

 

 村長が手を上げる。

 

「明日は湿原の縄を二重にする」

 

「見に行くなというのか」

 

「行くなとは言わん。だが、子供を連れていくな。酒も刃物も持ち込むな」

 

「神様が勝ったら喜ぶなって言うのか」

 

「喜ぶなら神へ向かって喜べ」

 

 村長は人々を見回す。

 

「隣の顔を見るな」

 

 男が言葉を継ぐ。

 

「決着の瞬間が一番危ない」

 

「六日、誰も死んでない」

 

「今日、人へ拳が向いた」

 

 若者たちの視線が落ちる。

 

「勝った側は声を上げる。負けた側は、その声を自分へ向けられたと思う」

 

「そんなつもりはなくてもか」

 

「ああ」

 

「なら、どうすればいい」

 

「神を見ろ」

 

 男は言った。

 

「隣を見るな」

 

 村長が繰り返す。

 

「神を見ろ。隣を見るな」

 

 別の村長も同じ言葉を口にする。

 

 松明の間を、言葉がゆっくり渡っていく。

 

 それでも、人々の視線は左右へ動いた。

 

 誰が八坂様へ祈っているか。

 

 誰が洩矢様の勝利を待っているか。

 

 もう、顔を見れば分かった。

 

 集まりが終わったあと、村長が男を呼び止めた。

 

「地の下のものは」

 

「近くなってる」

 

「黒い輪か」

 

 男は首を横へ振る。

 

「違う」

 

「なぜ分かる」

 

「黒い輪のことは知らない」

 

「なら」

 

「それでも違う」

 

 村長は男の目を見る。

 

「洩矢様より古いものか」

 

「分からない」

 

「大きいのか」

 

「大きさがない」

 

「近いのか」

 

「距離がない」

 

 村長の手が杖へ沈む。

 

「形は」

 

「ない」

 

「何が分かる」

 

 男は、暗い地面を見る。

 

「こっちを向こうとしてる」

 

 村長はしばらく動かなかった。

 

「明日、何があっても縄を越えるな」

 

「諏訪子様が危なければ」

 

「越えるな」

 

「神奈子様が」

 

「越えるな」

 

「民に何か来たら」

 

「その時は、民の側に立て」

 

 男は返事をしなかった。

 

「お前は神ではない」

 

「ああ」

 

「忘れるな」

 

     ◇

 

 七日目。

 

 風はなかった。

 

 村の木々は動かない。

 

 湖の外側も静かだった。

 

 神奈子の風が消えたのではない。

 

 すべてが湿原へ集められている。

 

 縄は二重に張られていた。

 

 石も昨日より増えている。

 

 その外へ、人々が並んだ。

 

 八坂様へ祈る者。

 

 洩矢様へ祈る者。

 

 村長と水守たちは、二つの間へ立っていた。

 

 男は最も湿原に近い石の前にいる。

 

 右に下の田の若者。

 

 左に洩矢の奥の青年。

 

 二人は互いを見なかった。

 

 湿原の中央で、神奈子と諏訪子が向かい合う。

 

 神奈子の肩には乾ききらない血がある。

 

 諏訪子の頬にも傷が残っていた。

 

 七日間、雨に打たれた。

 

 七日間、地を動かした。

 

 それでも、どちらも立っている。

 

「長かったね」

 

 諏訪子が言った。

 

「あなたが諦めないからでしょう」

 

「そっちが帰れば終わるよ」

 

「あなたが奥へ下がれば終わるわ」

 

「じゃあ、終わらないね」

 

「そうね」

 

 諏訪子が笑った。

 

 水面が静まる。

 

 雨粒が落ちても、波紋が広がらない。

 

 神奈子が周囲を見る。

 

「昨日から、中央へ集めていたわね」

 

「気づいてた?」

 

「気づかないと思った?」

 

「気づいてても、来るしかないよ」

 

 諏訪子が腕を上げた。

 

 湿原の東から、土の龍が立ち上がった。

 

 頭だけでも家ほどある。

 

 泥の鱗。

 

 岩の牙。

 

 根を角のように生やし、空の神奈子へ食らいつく。

 

 神奈子が風を放つ。

 

 龍の首が横へ曲がる。

 

 それでも止まらない。

 

 尾が地面から伸び、神奈子の背後へ回る。

 

 挟む。

 

 神奈子が雨を刃へ変える。

 

 龍の顎を切る。

 

 岩の牙が落ちる。

 

 諏訪子が指を動かす。

 

 落ちた牙が地面へ刺さり、土の柱へ変わった。

 

 神奈子の逃げ道を狭める。

 

 西の水面から、二頭目が現れる。

 

 水と泥でできた龍。

 

 風を受けても形を失わない。

 

 崩れた場所へ、湖の水がすぐ流れ込む。

 

 神奈子は上へ飛ぶ。

 

 空から無数の雨槍を落とした。

 

 一頭目の背を貫く。

 

 二頭目の頭を裂く。

 

 地面へ落ちた雨槍が、深く突き刺さる。

 

 諏訪子が笑った。

 

「もっと」

 

 神奈子の眉が動く。

 

「降らせなよ」

 

 三頭目が地の底から現れる。

 

 神奈子は雷を落とす。

 

 白い光が龍を縦に割った。

 

 土が爆ぜる。

 

 その影から、諏訪子が飛び出す。

 

 神奈子の腹へ拳を入れる。

 

 神奈子の身体が折れる。

 

 諏訪子が肩を掴み、地へ投げる。

 

 神奈子は風で落下を止める。

 

 諏訪子の足を掴み、逆に空へ放る。

 

 諏訪子が空中で身体を回す。

 

 地面から伸びた根を掴み、振り子のように戻る。

 

 踵が神奈子の肩へ入った。

 

 神奈子が横へ飛ぶ。

 

 土の龍が口を開けて待っている。

 

 神奈子の身体を呑み込む。

 

「八坂様!」

 

 縄の外から叫びが上がる。

 

 龍の腹が膨らむ。

 

 内側から光が漏れた。

 

 雷鳴。

 

 土の龍が爆発する。

 

 神奈子が空へ飛び出した。

 

 髪は乱れ、衣の一部が裂けている。

 

「随分と」

 

 息を整える。

 

「手の込んだことをするのね」

 

 諏訪子は龍の残骸の上へ立った。

 

「褒めてる?」

 

「少しだけ」

 

「今日も少しか」

 

「全部と言わせたいの?」

 

「もういいよ」

 

 諏訪子が手を下ろす。

 

 土の龍の残骸が崩れる。

 

 すべて湿原の中央へ流れていく。

 

 神奈子が視線で追う。

 

「やはり、そこね」

 

「来ない?」

 

「あなたが待っている場所へ?」

 

「怖いんだ」

 

 神奈子の口元がわずかに上がる。

 

「安い挑発ね」

 

 風が変わった。

 

 諏訪子の背後から吹く。

 

 身体を中央へ押す。

 

 諏訪子は地へ足を沈める。

 

 動かない。

 

 神奈子が両手を広げる。

 

 東西南北から風が集まる。

 

 諏訪子を四方から押す。

 

 地面が諏訪子の足元から剥がれていく。

 

 諏訪子は土ごと浮かび上がった。

 

 神奈子が腕を振る。

 

 諏訪子を乗せた土塊が、中央へ飛ぶ。

 

 諏訪子は空中で笑った。

 

「来た」

 

 神奈子の目が見開く。

 

 投げたはずの諏訪子が、土塊の中へ沈む。

 

 次の瞬間、神奈子の真下から現れた。

 

 足首を掴む。

 

 神奈子を中央へ引き落とす。

 

 風が抵抗する。

 

 諏訪子の背後から、土の龍の残骸が集まる。

 

 神奈子の風路を塞ぐ。

 

 神奈子が雨を落とす。

 

 泥が増える。

 

 泥の手が神奈子の腕を掴む。

 

 諏訪子がさらに引く。

 

「下りてこい!」

 

 神奈子の身体が地へ落ちた。

 

 中央。

 

 七日間、土と水が集められた場所。

 

 諏訪子はすぐに距離を取る。

 

 神奈子が地を蹴る。

 

 空へ戻ろうとする。

 

 石の柱が内向きに倒れた。

 

 風の道を塞ぐ。

 

 神奈子が雨で崩す。

 

 崩れた土の下から、黒い弧が覗いた。

 

 丈の息が止まった。

 

 青銅ではない。

 

 黒い。

 

 濡れているのに、鈍い光を返している。

 

 表面は滑らかだった。

 

 土の中で眠っていたとは思えない。

 

 丈は、それを知っていた。

 

 現代の道具。

 

 建物。

 

 橋。

 

 車。

 

 あらゆるところに使われているもの。

 

 青銅よりも硬い。

 

 強い。

 

 この時代には、まだあるはずのないもの。

 

 鉄だった。

 

 縄の外では、誰もその名を呼ばない。

 

「何だ、あれは」

 

 下の田の若者が呟く。

 

「青銅か」

 

 隣の男が首を横へ振る。

 

「色が違う」

 

「石ではない」

 

「何でできている」

 

 誰にも分からない。

 

 男も、黒い弧を見ていた。

 

 知っている顔ではなかった。

 

 神奈子だけが、動きを止めた。

 

「……鉄」

 

 その声は、風より小さかった。

 

 諏訪子が笑う。

 

「知ってるんだ」

 

 神奈子は黒い弧から目を離さない。

 

「どこで、それを」

 

「ここにあったよ」

 

「嘘をつきなさい」

 

「何で?」

 

「まだ、人が扱えるものではない」

 

「人に作らせたなんて言ってない」

 

 神奈子の周囲で風が乱れた。

 

 一定に回っていた流れが、初めて方向を失う。

 

「それを、あなたが持っているの」

 

「悪い?」

 

「青銅より硬く、石よりも形を保ち、火を通せば刃にも柱にもなる」

 

 神奈子の声が低くなる。

 

「まだ、この地上に満ちる前のものを」

 

「詳しいね」

 

「なぜ、あなたが」

 

 諏訪子は答えない。

 

 神奈子の指がわずかに震えた。

 

 風がその指先へ集まり、すぐ散る。

 

「土地も」

 

 諏訪子の笑みが消える。

 

「民も」

 

 神奈子の髪が雨へ張りつく。

 

「こんな神秘まで抱えていながら」

 

 諏訪子が神奈子を見る。

 

 神奈子は黒い弧から視線を上げた。

 

「ずるいわね」

 

 湿原が静まった。

 

 丈が知る神奈子の声ではなかった。

 

 諏訪子も、すぐには返さなかった。

 

「何が?」

 

「あなたは、最初から持っている」

 

「何を」

 

「呼ぶ民がいる。戻る土地がある。名を隠しても、恐れられるものがある。そのうえ、時代さえ越えた力まで」

 

 諏訪子の口元が少し動く。

 

「欲しいなら、そう言えばいいじゃん」

 

 神奈子の風が一気に膨らんだ。

 

「黙りなさい!」

 

 嵐が湿原を叩いた。

 

 石の柱が根元から折れる。

 

 泥が空へ巻き上がる。

 

 湖面が大きくへこむ。

 

 縄の外の人々が地へ伏せる。

 

 諏訪子は両腕で風を受ける。

 

 足元の土が剥がれていく。

 

 それでも笑った。

 

「やっと言った」

 

「何を!」

 

「欲しいって顔」

 

 神奈子の周囲で雷が連続して光る。

 

「私は諏訪を守るために――」

 

「またそれ?」

 

 諏訪子が足を踏み鳴らした。

 

 地の底から、黒い弧が完全に立ち上がる。

 

 一つ。

 

 巨大な輪。

 

 神奈子を囲む。

 

 さらに外側から、二つ目。

 

 三つ目。

 

 大きさの違う黒い輪が、泥を流しながら起き上がる。

 

 人々は声を失った。

 

 神奈子も、ほんの一瞬動かなかった。

 

 黒い輪が回転を始める。

 

 低い音。

 

 青銅の鐘とは違う。

 

 石の擦れる音とも違う。

 

 丈の胸の奥まで震わせる、硬い音だった。

 

 神奈子の風が輪へ触れる。

 

 切れた。

 

 輪の縁が、風の流れそのものを断つ。

 

 雨が当たる。

 

 弾かれる。

 

 黒い輪の表面を、水滴が丸く転がった。

 

 神奈子が一歩下がる。

 

 諏訪子が見ている。

 

「怖い?」

 

 神奈子の唇が動く。

 

 すぐには声が出ない。

 

 背後の輪が回る。

 

 風路が閉じる。

 

 神奈子の髪が、自分の風に横から打たれた。

 

「……ええ」

 

 神奈子が答えた。

 

 縄の外で、誰かが顔を上げる。

 

 諏訪子の目も、少し見開かれた。

 

「怖いわ」

 

 神奈子は黒い輪を見上げる。

 

「時代の外にあるものを、平然と地から出す神が」

 

 諏訪子が笑う。

 

「今さら逃げてもいいよ」

 

「それ以上に」

 

 神奈子の風が、再びまとまる。

 

 乱れていた流れが一本ずつ揃う。

 

「腹が立つ」

 

「そっちが勝手に欲しがってるだけでしょ」

 

「だから腹が立つのよ!」

 

 神奈子が両手を振り下ろした。

 

 雷が黒い輪へ落ちる。

 

 白い閃光。

 

 轟音。

 

 泥が蒸発する。

 

 黒い輪は倒れない。

 

 表面に白い光を走らせながら、回り続ける。

 

 神奈子の顔が強張った。

 

 諏訪子が腕を閉じる。

 

「囲め」

 

 輪が狭まった。

 

 神奈子が風を外へ放つ。

 

 黒い輪が受け止める。

 

 風が内側へ跳ね返る。

 

 別の輪へ当たる。

 

 さらに返る。

 

 神奈子の身体が、自分の風で左右へ打たれる。

 

 足元から土の手が伸びる。

 

 神奈子の足を掴む。

 

 腕へ絡む。

 

 雨が土を崩す。

 

 黒い輪がさらに狭まる。

 

 神奈子が水を刃へ変える。

 

 輪へ叩きつける。

 

 水の刃が砕ける。

 

 無数の飛沫となって神奈子自身へ返る。

 

 諏訪子が手を握る。

 

 輪の回転が速くなる。

 

 神奈子の衣が裂けた。

 

 頬へ細い傷が走る。

 

 神奈子は風を一点へ集める。

 

 槍にする。

 

 黒い輪へ突き刺す。

 

 輪が甲高く鳴った。

 

 それでも割れない。

 

 風の槍が砕ける。

 

 神奈子の身体が地へ引かれる。

 

 土の腕が四肢を開く。

 

 黒い輪が、その外側から迫る。

 

「終わりだよ」

 

 諏訪子が言った。

 

 洩矢の奥の者たちが、額を地へ近づける。

 

 下の田の若者が石を掴む。

 

「八坂様」

 

 小さな声だった。

 

 誰も歓声を上げない。

 

 黒い輪の威容を前にして、勝敗を叫ぶ声が出なかった。

 

 神奈子は輪を見ていた。

 

 最も内側。

 

 黒い表面。

 

 雨水が細い筋となって流れている。

 

 その一部に、赤い色があった。

 

 丈には分かった。

 

 錆。

 

 だが、この場にいる人々は知らない。

 

 赤い筋が何を意味するのか。

 

 黒い金属がなぜ色を変えるのか。

 

 神奈子は指を伸ばした。

 

 黒い輪へ触れる。

 

 諏訪子の眉が動く。

 

「何をしてるの」

 

「硬いわ」

 

「知ってる」

 

「青銅よりも」

 

「知ってるよ」

 

「けれど」

 

 神奈子の指先へ雨が集まる。

 

 赤い筋へ入る。

 

「永遠ではない」

 

 諏訪子の手が止まった。

 

 神奈子は黒い輪の表面を撫でる。

 

「七日間」

 

 雨水が細かな傷へ染み込む。

 

「あなたは、自分の策のために地を開き続けた」

 

 風が水の後を追う。

 

「私の雨を、土の深くまで招き入れた」

 

「閉じろ!」

 

 諏訪子が叫ぶ。

 

 黒い輪が神奈子へ迫る。

 

 神奈子の風が内側から膨らむ。

 

 輪が止まった。

 

 諏訪子が両手を伸ばす。

 

 土が輪を支える。

 

 雨を含んだ土が崩れる。

 

 神奈子の風が、黒い輪の表面を撫で続ける。

 

 一日ではない。

 

 七日分の風。

 

 七日分の雨。

 

 石を褪せさせる年月。

 

 山を削る流れ。

 

 ほんの短い間へ押し込められた風化が、黒い輪の表面を走った。

 

 黒が剥がれる。

 

 赤い筋が広がる。

 

 諏訪子の顔から笑みが消えた。

 

「待て」

 

 神奈子は答えない。

 

「待て!」

 

 最も内側の輪に、ひびが入った。

 

 乾いた音。

 

 黒い輪が初めて悲鳴を上げる。

 

 諏訪子が地面を踏む。

 

 土が輪へ絡みつく。

 

 支える。

 

 神奈子の雨が土を泥へ変える。

 

 風が内側から押す。

 

「閉じたものは」

 

 神奈子の声が、輪の中から響く。

 

「中から押されることを忘れるのよ」

 

 ひびが走った。

 

 黒い輪が割れた。

 

 人々の頭上を越えるほどの破片が、湿原へ落ちる。

 

 泥水が爆ぜる。

 

 二つ目の輪へ、閉じ込められていた風がぶつかる。

 

 表面の赤い筋が一気に伸びる。

 

 諏訪子が両手を握る。

 

 輪が軋む。

 

「止まれ!」

 

 止まらない。

 

 二つ目が裂ける。

 

 洩矢の民から、声にならない音が漏れた。

 

 三つ目。

 

 最も大きな輪。

 

 諏訪子が両足を地へ沈める。

 

 湿原全体が輪を抱える。

 

 地面が大きく沈む。

 

 神奈子は両腕を広げた。

 

 空の風が、すべて中央へ落ちる。

 

 巨大な竜巻となり、最後の輪の内側で回った。

 

 雨が斜めに走る。

 

 雷が輪へ何度も落ちる。

 

 白い光。

 

 黒い輪。

 

 赤い筋。

 

 諏訪子の叫び。

 

「止まれえっ!」

 

 輪が割れた。

 

 轟音が諏訪全体へ広がった。

 

 黒い破片が空へ舞う。

 

 雨の中で回る。

 

 神奈子の風が破片を人々の方へ飛ばさない。

 

 湿原の中央へ落とす。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 何十もの破片が、泥へ突き立った。

 

 誰も声を出さない。

 

 洩矢の奥の村長は、地面へついていた手を見た。

 

 縄役の老婆の杖が震えている。

 

 洩矢の青年は、割れた黒い輪を見たまま動かない。

 

 下の田の若者も、八坂様の名を呼ばなかった。

 

 諏訪子は、破片の間へ立っていた。

 

 両手が上がったまま。

 

 足元へ赤い水が流れていく。

 

 神奈子は輪の内側だった場所へ立っていた。

 

 肩で息をしている。

 

 頬に血がある。

 

 それでも、諏訪子から目を逸らさない。

 

「それほどのものを持っていて」

 

 声が掠れている。

 

「あなたは」

 

 諏訪子の指がわずかに動く。

 

「何」

 

「なぜ、あの男ひとりに、あんな顔をするのよ」

 

 諏訪子の目が開く。

 

 神奈子自身も、言ったあとで口を閉じた。

 

 風が止まりかける。

 

 諏訪子の口元が、ゆっくり上がった。

 

「やっぱり欲しいんじゃん」

 

 神奈子の手が震えた。

 

「黙りなさい」

 

「土地も、民も、神秘も、男も?」

 

「黙れ!」

 

 神奈子の周囲で嵐が爆ぜた。

 

 諏訪子の身体が空へ持ち上がる。

 

 地へ足を戻そうとする。

 

 だが、その地には七日間の雨が入っている。

 

 土が崩れる。

 

 別の場所へ手を伸ばす。

 

 そこも水を含んでいる。

 

 神奈子の風が諏訪子の四肢を開く。

 

 地から引き剥がす。

 

 諏訪子がもがく。

 

「放せ!」

 

「これで終わりよ!」

 

 神奈子の風が、最後に一度だけ膨らんだ。

 

 そして、同時に鉄片の内側から。

 

 黒い、糸のような影が漏れ出ていた。

 

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