第二十六話 「ミジャグジ」
鉄の輪が割れた。
黒い破片が、雨の中を回っていた。
一つは湿原の中央へ深く突き立ち、一つは泥の上を滑り、赤く濁った水へ沈んだ。
輪の内側へ閉じ込められていた風が、一度に外へ噴き出す。
葦が伏せた。
水面が裂けた。
二重に張られた縄が激しく鳴り、外にいた人々が石へしがみついた。
それでも、神奈子の風は鉄の破片を人の側へ飛ばさなかった。
大小の欠片は、すべて湿原の中へ落ちた。
最後の一つが泥へ刺さる。
低い音が、諏訪の山々へ渡っていった。
誰も声を上げなかった。
八坂様、と祈っていた者たちも。
洩矢様と勝利を願っていた者たちも。
割れた黒い輪を見ている。
青銅ではない。
石でもない。
人の槌では傷一つつけられそうにないものが、赤く褪せ、二つに裂けていた。
その破片の間に、諏訪子が立っている。
上げた両手は、そのままだった。
足元へ、黒い泥と赤い水が集まっている。
神奈子は、輪の内側だった場所へ降りた。
肩で息をしていた。
濡れた髪が頬へ張りつき、裂けた衣の隙間から血が流れている。
七日間、諏訪子に地へ叩き落とされ続けた。
ついには、時代の外の黒い輪へ閉じ込められた。
それでも、神奈子は立っている。
風の中に立っている。
雨が、神奈子の手へ集まり始めていた。
諏訪子が地を踏んだ。
土が隆起しかける。
しかし内側から水が溢れ、形を作る前に崩れた。
別の場所へ足を移す。
そこも沈んだ。
七日間、諏訪子が罠のために掘り返した土地。
神奈子が降らせ続けた雨。
湿原のどこへ足を置いても、土の中には神奈子の水があった。
神奈子が腕を上げる。
風が諏訪子の身体へ巻きついた。
足が泥から離れる。
諏訪子は地へ手を伸ばした。
届くより先に、風が身体を持ち上げる。
「放せ!」
「いいえ」
神奈子の声は掠れていた。
それでも、湿原の端まで届いた。
「もう、地には戻さないわ」
風が諏訪子の四肢を開く。
土へ触れさせない。
指先へも。
爪先へも。
神奈子の掌へ、雨が集まった。
水が圧縮される。
その周囲を風が幾重にも巡り、重さを増していく。
諏訪子を殺すためではない。
湿原へ叩き落とし、地の力を立ち上がれないほど崩す。
神々の戦いを終わらせるための一撃だった。
「これで終わりよ」
諏訪子は下を見た。
割れた鉄の輪。
泥。
縄の外へ並ぶ洩矢の民。
石の前に立つ男。
その右手が、ゆっくり下がった。
神奈子へ向けたものではない。
風を掴もうとしたのでもない。
地面へ。
届くはずのない泥へ向かって、手を伸ばす。
「諏訪子!」
男が叫んだ。
諏訪子は顔を上げない。
「そこへ触るな!」
神奈子の眉が寄る。
「何をしているの」
諏訪子の指先と地面の間には、まだ人の背丈よりも長い距離があった。
だが、諏訪子の影が伸びた。
指先から黒い筋が垂れる。
細く。
ゆっくりと。
泥の上へ降りる。
割れた鉄の輪の影へ触れた。
音が消えた。
雨は降っている。
水面へ落ち、波紋を作っている。
葦も風に押されている。
縄も揺れている。
何も聞こえなかった。
神奈子の手に集まっていた水が、形を失った。
風は消えていない。
諏訪子の身体を、いまだ空中へ留めている。
それなのに、神奈子は何を掴んでいるのか分からなくなった。
先ほどまで、確かに手応えがあった。
地へ戻ろうともがく諏訪子。
風へ抗う身体。
土地へ伸びる神威。
そのすべてが、一瞬でなくなった。
「……諏訪子?」
身体はある。
見慣れた帽子も。
泥に汚れた衣も。
細い手足も。
けれど、その中にいたはずの諏訪子が見つからない。
神奈子は風を通した。
雨を触れさせた。
神威を探った。
どこにもいない。
消えたのではなかった。
もっと大きなものの中へ沈み、見分けられなくなっていた。
山から一粒の土を探すように。
湖から一滴の水を探すように。
諏訪子であったものが、諏訪子でないものへ混ざっていく。
神奈子が一歩下がった。
諏訪子の顔が上がる。
その瞳から、黒いものが流れていた。
涙ではない。
血でもない。
細い糸のようなものが、幾本も瞳の奥からほどけている。
頬を伝う。
顎へ集まる。
雫にならない。
長く垂れたまま、空中で揺れている。
一筋が泥へ触れた。
水へ溶けることなく、そのまま地面の中へ沈んだ。
次の一筋が流れる。
丈の目の前で、湿原の景色が揺れた。
古い石へ、穀物を置く手。
その手には指が一本なかった。
縄を張る女。
背には幼い子供がいる。
山へ入っていく男。
帰ってくる姿はない。
湖へ器を沈める老人。
水面へ頭を下げる一族。
火の中で崩れる家。
病に倒れた子供を抱き、名を知らぬ何かへ祈る母親。
笑う子供。
土へ伏せる人々。
生まれた神。
忘れられた神。
人の口から名が消えても、石の下へ残り続けたもの。
次の黒い糸が落ちる。
今度は、祈りではなかった。
恨み。
恐れ。
帰らなかった者を待ち続けた時間。
供えたものが足りなかったのではないかという悔い。
神に救われたという喜び。
救われなかった者の沈黙。
人が神へ渡し、渡したことさえ忘れたもの。
神が人から受け取り、返すことも捨てることもできなかったもの。
神の名が擦り切れた後に残る滓。
祈りを吸い尽くしたあとの出涸らし。
どちらのものとも言えなくなった記憶が、黒い糸となって諏訪子の瞳から溢れている。
諏訪子の中にあったのではない。
諏訪の深い場所へ溜まっていた。
水よりも下。
石よりも下。
人がこの土地へ名をつけるより前からある場所。
そこに沈んでいたものが、諏訪子の身体を通って地表まで登ってきている。
諏訪子という神を、細い出口にして。
神奈子が息を呑む。
「あなたは」
目の前には諏訪子がいる。
それでも、諏訪子へ問いかけている気がしない。
「何なの」
諏訪子の口が開いた。
「かえれ」
一人の声ではなかった。
少女。
老人。
男。
女。
子供。
石が割れる音。
根が地中を擦る音。
水の底から上がる泡。
人の声になったものと、声になる前に消えたもの。
それらが、諏訪子の口から同時に出た。
「かえれ」
縄の外で、一人の膝が落ちた。
次に、その隣。
八坂様へ祈っていた若者。
洩矢様の石を守っていた老人。
水守。
狩人。
子供を抱いた母親。
村長の杖が地へ倒れた。
誰かに命じられたわけではない。
足から力が抜ける。
肩が落ちる。
顔を上げていられなくなる。
一人ずつ、土へ膝をつく。
恐れだけが、全員へ同じ形で届いた。
八坂か。
洩矢か。
神奈子が勝ったか。
諏訪子が負けたか。
七日間、人々を二つへ分けてきたものが消えた。
恐れる。
それだけが残った。
逃げるという考えもない。
声を上げる者もいない。
土へ伏せる。
目を閉じる。
口をつぐむ。
それが、初めから諏訪にあった唯一の決まりのようだった。
恐れだけが共通の感情だった。
恐れだけが共通の律だった。
丈の足も崩れた。
夢の中にいる。
この時代の誰にも見えていない。
それでも両手を地へついた。
頭を下げろ。
見てはならない。
声を出してはならない。
触れてはならない。
越えてはならない。
言葉になる前の命令が、骨の内側へ入ってくる。
人が決めた戒めではない。
神が後から作った掟でもない。
石へ触れる前から石の中にあり、縄を越える前から人の足を止めるものだった。
その中で、二人だけが動いていた。
諏訪子。
そして、男。
男は石の前へ立ったまま、湿原を見ている。
膝は震えていた。
肩も上下している。
それでも土へ伏せなかった。
諏訪子の左手が、ゆっくり持ち上がる。
右手首を掴んだ。
黒い糸が、瞳から絶えず流れている。
「……黙れ」
諏訪子の声だった。
少女一人の声。
その下から、いくつもの声が押し返す。
「かえれ」
「黙れ」
「そとは、かえれ」
「ここは私の土地だ」
「われらの」
「私のだよ」
「われらの」
「私が決める」
「われらが」
「黙れ!」
諏訪子の身体が大きく揺れた。
左手で右手を引き上げる。
右の影は地へ張りついたまま離れない。
黒い糸が頬から首へ流れ、衣の内側へ入る。
足元から再び影となって地面へ落ちていく。
諏訪子が歯を食いしばった。
爪が右手首へ食い込む。
「神奈子!」
神奈子の肩が動く。
黒い糸の奥で、諏訪子の瞳が一瞬だけ神奈子を見た。
「今すぐ」
重なった声が、諏訪子の喉を押し広げる。
「なを」
諏訪子が自分の舌を噛んだ。
口の端から血が流れる。
赤い血は、黒い糸と混ざらなかった。
「黙れ!」
「なを、かえせ」
「神奈子!」
諏訪子の声が裂れた。
「今すぐ、私を殺せ!」
神奈子の顔が固まった。
「何を言っているの」
「私ごと止めろ!」
「諏訪子」
「早く!」
右腕が、少しずつ地へ近づく。
実際に身体が動いているのではない。
地面の方が、諏訪子の指へ近づいている。
「こいつが、私の口を全部取る前に!」
神奈子は動かなかった。
「殺せ!」
諏訪子の瞳から、黒い糸が一気に溢れた。
頬の半分を覆う。
神奈子が一歩踏み出す。
止まる。
「あなたを殺せば、それが引くの」
「知るもんか!」
「だったら」
「私を残して全部出すよりましだ!」
諏訪子の口から、低い声が漏れる。
「まもる」
「黙れ!」
諏訪子は右手首を捻った。
自分の骨を折ろうとするような動きだった。
影は離れない。
「神奈子!」
黒い糸の隙間から、諏訪子が神奈子を睨んだ。
「戦では、私を殺す気だっただろ!」
神奈子の指が動く。
「それは、貴方が」
「今さら、いい神様みたいな顔をするな!」
諏訪子が笑おうとした。
口元が歪むだけだった。
「最期くらい、勝った神の顔をしろ!」
雨が一筋、神奈子の頬を流れた。
神奈子は目を閉じる。
七日間の戦。
互いに向けた言葉。
諏訪子を地から引き剥がした時、確かに決着をつけようとした。
今なら殺せる。
殺さなければ、諏訪子ではない何かが地上へ出る。
縄の外では、人々が土へ伏せている。
神奈子は目を開いた。
「……分かったわ」
手を上げる。
風が集まる。
初めは動かなかった。
諏訪を覆う恐れが、空気そのものを縛っている。
神奈子は指を握る。
風の一筋が、神奈子の掌へ戻った。
次に雨。
雲の奥で、光が走る。
タケミナカタの荒々しい神威が、神奈子の背後へ立ち上がる。
大地を踏み、腕を広げる男神。
その隣に、八坂刀売の影が現れる。
水辺に立つ女神。
土地と人を結び、実りと暮らしを抱く神威。
その二柱をまとい、中央に八坂神奈子が立つ。
神奈子は持つものを隠さなかった。
すべてを前へ出した。
風。
雨。
雷。
山。
蛇。
タケミナカタ。
八坂刀売。
八坂神奈子。
一柱の神を確実に殺すため、己を形作るすべてを一撃へ集める。
諏訪子は抵抗しない。
左手で右手首を掴み、自分の身体を止めている。
黒い糸の奥に、一瞬だけ諏訪子の瞳が見えた。
「外さないでよ」
「誰に言っているの」
「負けた女に」
神奈子の口元がわずかに動く。
「最後まで、本当に腹の立つ神ね」
「早くしろ!」
「言われなくても!」
神奈子が腕を振り下ろした。
雷が落ちる。
白い光が湿原を呑み込んだ。
風が諏訪子を中心へ押し潰す。
雨が一本の槍となり、胸へ向かう。
タケミナカタの腕が振り下ろされる。
八坂刀売の水が逃げ道を塞ぐ。
八坂神奈子の神威が、諏訪子の核を貫こうとする。
その時。
黒い糸が動いた。
雷を受け止めない。
風にも触れない。
諏訪子を守ろうともしない。
細い糸が幾重にも集まり、神奈子の背後へ伸びた。
タケミナカタの肩へ触れる。
ただ、それだけだった。
神奈子の身体から、男神の影が剥がれた。
「――え」
神奈子の口から、音が漏れた。
タケミナカタの神威が、黒い糸の先へ吊り下げられる。
大地を踏みしめていた巨体が小さくなる。
人形ほどの大きさになり、黒い糸の先で揺れた。
神奈子の風が半分消える。
「待ちなさい」
別の黒い糸が伸びた。
八坂刀売の髪へ触れる。
女神の影が、神奈子の身体から剥がれた。
水が落ちる。
雨槍が途中で崩れる。
八坂刀売も小さく丸められ、タケミナカタの隣へ吊るされた。
「返しなさい」
神奈子が手を伸ばす。
黒い糸は、二つの神威を左右へ振った。
遊び道具を手にした子供のように。
欲しがってはいない。
憎んでもいない。
何の価値も見ていない。
ただ、触れたから取った。
取れたから揺らしている。
「それは、私の」
神奈子の胸へ、さらに一本が触れた。
深くはない。
衣の端から、小さな飾りを取るような触れ方だった。
八坂神奈子という名が剥がれた。
光はなかった。
音もしなかった。
神奈子の輪郭から、薄い一枚が取れた。
それだけだった。
風が消えた。
雨が止まった。
雷雲がほどける。
山の影も。
蛇の気配も。
人々の祈りへ応える声も。
八坂神奈子だったものから離れていった。
「私は」
女神の口が開く。
続く名がなかった。
「私は……」
タケミナカタが、黒い糸の先で揺れる。
八坂刀売も揺れる。
八坂神奈子という名は、小さな玉のようになり、二つの神威の間を転がっていた。
「返して」
声が小さくなった。
「かえしなさい」
黒い糸が、奪ったものを少し高く持ち上げる。
手を伸ばしても届かない。
女神だったものが一歩踏み出そうとする。
足を置く場所がなかった。
湿原はある。
泥も水もある。
だが、自分がどこに立っていたのか分からない。
何によって立っていたのか。
誰として立っていたのか。
すべて黒い糸の先にある。
「私は」
また口にする。
名前が出ない。
景色が変わった。
雨の湿原ではない。
炎が上がる。
社が崩れている。
柱が倒れる。
自分を呼んでいた者たちが逃げていく。
名を奪われた。
土地を奪われた。
祈りを失った。
残ったものを抱え、振り返らずに走った。
後ろから誰かが呼んでいる。
返事をしなかった。
戻れば、残ったものまで取られる。
そう思って山を越えた。
川を渡った。
知らない土地へ入った。
何者かと聞かれた。
別の名を名乗った。
その名も、やがて剥がれた。
また別の名をまとった。
強い顔を作った。
笑われない声を覚えた。
見下されない立ち方を覚えた。
誰にも奪われないように、他者より先に物を決めた。
逃げた女神が、誰にも追いつかれないように歩き続けた。
それが神奈子だった。
その名が、今は黒い糸の先で転がっている。
残ったのは、あの日逃げたものだけだった。
名のない神。
土地を持たない神。
誰にも呼ばれない神。
奪われたものを取り戻すこともできず、強い神の姿を遠くから見ていたもの。
名もなき神は、自分の腕を抱いた。
指が二の腕へ食い込む。
身体を小さくする。
肩が震えている。
目の前では、巨大な何かが、奪った神威を揺らしていた。
タケミナカタ。
八坂刀売。
八坂神奈子。
一つずつ目の前へ出す。
すぐに引く。
取ってみろと見せているのか。
届かないと知って遊んでいるのか。
それすら分からない。
諏訪子の身体から、力が抜けた。
右手首を押さえていた左手が落ちる。
黒い糸の奥で、諏訪子の瞳が揺れた。
自分を殺させることさえできなかった。
止めようとした神から、すべてを奪った。
その光景を見た瞬間、諏訪子の口から息が漏れた。
「……ごめん」
誰へ向けた言葉か。
神奈子へか。
民へか。
男へか。
それとも、自分が守れなかった諏訪へか。
左手が泥へ落ちた。
黒い糸の奥にあった諏訪子の瞳が、沈んだ。
諏訪子の気配が完全に消える。
少女の声も。
抵抗する意思も。
残らなかった。
諏訪子の姿をしたものが、ゆっくりと地へ降りた。
風はもうない。
それでも落ちなかった。
黒い糸に吊られるように、泥の上へ立つ。
「かえれ」
名もなき神の肩が跳ねた。
言霊が身体へ入る。
諏訪から出ていけ、というだけではない。
名を得る前へ帰れ。
神になる前へ帰れ。
誰かに呼ばれる前へ帰れ。
何者でもなかったものへ戻れ。
「かえれ」
名もなき神は一歩下がった。
泥が足へ触れる。
大きく身体を震わせる。
何かに掴まれたように足を引く。
周囲を見る。
誰も助けない。
人々は土へ伏せている。
諏訪子はいない。
目の前には、自分の名を玩具にするものがいる。
「いや」
小さな声が出た。
「かえれ」
「いや」
名もなき神が背を向けた。
逃げようとする。
足がもつれる。
泥へ膝をつく。
すぐに立つ。
腕で自分の身体を抱いたまま、湿原の外へ向かう。
どこへ行くのかは分からない。
ただ、ここにいられない。
また逃げる。
名前を奪われた土地から。
呼ぶ者のいない場所から。
何者でもない自分を見られる前に。
「待て!」
男の声がした。
名もなき神の身体が跳ねた。
振り返る。
男が縄の前にいる。
人々は動かない。
村長も地へ伏せている。
男だけが立っている。
膝は震えていた。
顔は恐れに歪んでいる。
それでも、縄へ手を掛けた。
「来ないで」
名もなき神が言った。
神奈子の口調ではなかった。
尊大さも。
苛立ちも。
相手を押し切る強さもない。
「来ないで」
もう一度。
男が縄を越えた。
名もなき神は二歩下がった。
「来るな!」
声が裏返る。
男の足が一度止まる。
名もなき神は腕を強く抱きしめた。
爪が皮膚へ食い込んでいる。
「何もない」
男は答えない。
「もう、何も持っていない」
一歩近づく。
名もなき神は、男の足音だけで肩を震わせた。
「来ないで」
男が手を上げかける。
名もなき神は顔を庇った。
腕を交差させ、目を閉じる。
男の手が止まった。
神奈子なら、手を払った。
何のつもりだと睨んだ。
触れる前に、言葉で男を下がらせた。
今、目の前にいるものは、男が腕を動かしただけで身を縮めている。
男は手を下ろした。
「俺だ」
「知らない」
「知ってるだろ」
「知らない!」
名もなき神は首を横へ振った。
「私は知らない」
男は動かない。
「自分が、誰かも」
黒い糸の先で、八坂神奈子という名が揺れる。
名もなき神は見なかった。
「私は神ではない」
背を向ける。
「何もない」
一歩進む。
「誰も、いない」
男は追わなかった。
名もなき神が二歩進む。
三歩目で、男の声がした。
「どうか」
名もなき神の足が止まる。
男は、その場へ膝をついていた。
泥へ両手を置く。
頭を下げる。
名もなき神は振り返った。
男の背中を見る。
「何を」
男は頭を上げない。
「どうか、神よ」
名もなき神の腕が緩んだ。
ほんの少しだけ。
「やめて」
「お救いください」
「やめろ」
「お助けください」
「私は神じゃない!」
男は頭を下げたままだった。
「名がない!」
「はい」
「力もない!」
「はい」
「何もできない!」
「分かりません」
名もなき神の唇が震える。
「なら、なぜ」
「あなたに頼んでいます」
男が顔を上げた。
名もなき神は身を強張らせた。
男は立たない。
近づかない。
泥へ膝をついたまま見ている。
「諏訪子様を、お救いください」
黒い糸が諏訪子の瞳から流れている。
「皆を、お助けください」
縄の外では、人々が土へ伏せている。
「俺を、助けてください」
名もなき神は男を見る。
自分が助けを求める側だった。
奪われた。
何もない。
逃げようとしている。
その自分へ、男が助けを求めている。
「私に」
声が震えた。
「私に、何ができる」
「分かりません」
「また、それか」
「分からないものは、分からない」
男の返事は変わらなかった。
「でも」
泥へついた手を握る。
「あなたに頼んでいます」
「なぜだ」
「あなたが、ここにいるからです」
「何もない」
「俺がいます」
名もなき神の目が開く。
「あなたへ希っている人間が、ここにいます」
男はもう一度、頭を下げた。
「どうか、神よ」
黒い糸が、奪った神威を高く持ち上げる。
タケミナカタ。
八坂刀売。
八坂神奈子。
どれも名もなき神の外にある。
男は、そのどれにも頭を下げていない。
目の前にいるものへ。
何も持たないものへ。
震えているものへ。
逃げようとしていたものへ祈っている。
「お救いください」
名もなき神の腕が、ゆっくり下がった。
自分の身体を抱いていた手が離れる。
指先が震えている。
「お助けください」
その手が、男へ伸びた。
途中で止まる。
触れることを怖がるように。
男は動かない。
手を取りに行かない。
ただ待っている。
名もなき神の指が、もう少し伸びた。
湿原には風がなかった。
神奈子の風は、名前とともに奪われている。
葦も動かない。
縄も垂れている。
それでも、男の前髪がわずかに揺れた。
男が目を上げる。
名もなき神も、自分の手を見る。
ほんの小さな風だった。
山を動かせない。
雨を呼べない。
鉄の輪を砕くこともできない。
人ひとりの髪を揺らしただけ。
それでも、その風は誰の名前も借りていなかった。
タケミナカタのものではない。
八坂刀売のものでもない。
八坂神奈子のものでもない。
目の前の男が願い。
名もなき神が、それへ応えようとした。
ただ、それだけで生まれた風だった。
名もなき神の瞳から、一筋の雫が落ちた。
男の手が、ゆっくり差し出される。
今度は、名もなき神も拒まなかった。
震える指が、男の指先へ触れた。
その日。
名をなくした神は、初めて、誰かの神様になった。