第三話「旧校舎」
朝から、空が重かった。
山の上へ灰色の雲が張りつき、風まで湿っている。
まるで空全体が、水を飲み込んでいるみたいだった。
遠くで、低く雷が鳴る。
まだ降ってはいない。
けれど。
空気そのものが、「もうすぐ降る」と言っていた。
「絶対降りますねこれ……」
家の前。
ランドセルを背負った早苗が、空を見上げながら呟く。
白いブラウスの袖を押さえながら、前髪を風に揺らしている。
朝から元気そうに見えて、その実かなり天気を気にしている顔だった。
「降るだろうな」
丈も同じように空を見る。
諏訪へ来てから、天気の変化がわかりやすくなった気がした。
山が近いせいか。
空気の匂いが変わるのだ。
湿った土。
草。
木。
水。
東京にいた頃は、雨の匂いなんてアスファルトくらいだった気がする。
「丈くん、傘持ちました?」
「持った」
「本当にですか?」
「持ったって」
「昨日忘れてたじゃないですか」
「……」
「図星ですね?」
早苗が少し得意げに笑う。
丈は顔をしかめた。
「お前さぁ」
「はい?」
「なんで毎朝いるんだよ」
「迎えに来てるからです!」
「律儀だなぁ……」
「嫌ですか?」
「…別に」
そう答えると、早苗は少し嬉しそうに笑った。
最近。
このやり取りが普通になってきていた。
最初は変なやつだと思った。
今でも思っている。
神様がどうとか。
見えるとか。
聞こえるとか。
でも。
東風谷早苗という少女は、たぶん嘘をつけない。
だから。
変でも。
なんとなく、一緒にいて疲れなかった。
山道を歩く。
朝の風。
湿った土の匂い。
遠くで鳥が鳴いている。
石段を下り、細い坂道へ出る。
早苗は丈の半歩前を歩いていた。
くるり、と振り返る。
「そういえば丈くん」
「ん?」
「昨日の宿題やりました?」
「やった」
「本当ですか?」
「なんで疑うんだよ」
「昨日ゲームしてたじゃないですか」
「ちょっとだけな」
「二時間くらいやってましたよね?」
「見てたのかよ」
「神社静かですから丸聞こえなんです!」
「……」
「あと“うおっ負けた!”って三回言ってました」
「言うな」
早苗がけらけら笑う。
その笑い声を聞きながら、丈は少しだけ肩の力を抜いた。
最近。
こういう時間が嫌いじゃなくなっている自分がいる。
その時だった。
「……丈くん」
「ん?」
「今日、旧校舎には近づかないでくださいね?」
「旧校舎?」
丈は首を傾げた。
学校の裏側。
今は使われていない、古い木造校舎がある。
以前、ちらっと見たことはあった。
窓は板で塞がれ、一部は立入禁止。
かなり古い建物だ。
昼間でも薄暗くて。
妙に存在感がある。
「なんで?」
すると。
早苗は少しだけ黙った。
さっきまで笑っていた顔が、少し曇る。
「……出るんです」
「また神か?」
「今回は違います!」
即答だった。
しかも珍しく、笑っていない。
「雨の日、二階に女の子が立ってるんです」
「怖っ」
「あと音楽室から足音します」
「やめろ朝から」
「あと夜になると――」
「盛るな盛るな」
「盛ってません!」
だが。
早苗は本気で嫌そうだった。
いつもの「神様です!」みたいな勢いがない。
「本当に近づいちゃダメですよ?」
「お前、そういうの信じるタイプだもんな」
「違います」
早苗は、小さく首を横に振った。
「“嫌な感じ”がするんです」
その言葉だけ。
妙に真剣だった。
丈は少しだけ黙る。
最近。
自分も変なものを感じ始めていた。
神社。
山。
風。
誰もいない場所の気配。
誰かが見ている感じ。
だから。
完全には笑えなかった。
「……なんだよ嫌な感じって」
「うーん……」
早苗が困ったように唸る。
「神様って、“いる”感じなんです」
「それ前も言ってたな」
「はい。でも旧校舎は違うんです」
「どう違う」
「えっと……」
しばらく考えてから、早苗は小さく言った。
「見つからない方がいい感じです」
「……怖ぇこと言うなよ」
「だから近づかないでくださいね?」
「わかったわかった」
「絶対ですよ?」
「しつこいな」
「丈くん、絶対行くタイプですもん」
「行かねぇよ」
そう言った瞬間。
早苗がじーっとこちらを見た。
「……なんだよ」
「今、“フラグ立ったなぁ”って顔しました」
「してねぇよ」
「しました」
「してない」
「しました!」
朝から元気だな、と丈は思った。
◇
昼前には、空がさらに暗くなっていた。
窓の外。
山が、薄い霧に包まれている。
授業中なのに、教室の中まで薄暗かった。
チョークの音。
ページをめくる音。
雨の前の静けさ。
その全部が、どこか重たい。
丈は頬杖をつきながら窓の外を眺めた。
すると。
校舎裏。
遠くに見える旧校舎の二階窓。
一瞬だけ。
白いものが見えた気がした。
「……」
目を細める。
だが次の瞬間には、何もなかった。
「丈くん」
前の席から、小声。
早苗だった。
「聞いてます?」
「何を」
「先生の話です!」
「聞いてない」
「でしょうね!」
小さく呆れた声。
だが。
その直後。
早苗もちらりと旧校舎を見る。
そして。
ほんの少しだけ、顔をしかめた。
◇
昼休み。
「旧校舎探検しようぜ!」
教室の後ろで、男子たちが騒いでいた。
「今日雨だし絶対雰囲気あるって!」
「東風谷、幽霊見えるんだろー?」
「案内しろよー!」
げらげら笑う声。
その瞬間。
早苗の肩が、ぴくりと揺れた。
「やめた方がいいですよ」
教室が少し静かになる。
「えーなんで?」
「危ないですし……」
「怖いのかー?」
「……怖いですよ」
その返事は、思ったより小さかった。
丈はちらりと早苗を見る。
本当に嫌そうな顔をしていた。
すると男子の一人が笑う。
「東風谷、神様に守ってもらえばいいじゃん!」
「そうだぞー!」
「神様いるんだろ?」
また笑い声。
早苗は困ったように視線を逸らした。
「だから、神様は便利屋じゃないんですって……」
「えー」
「そもそも、ああいう場所は……」
言いかけて。
早苗は口を閉じた。
「ん?」
「……なんでもないです」
その時。
「別に行かなくていいだろ」
ぽつり、と。
丈が言った。
「え?」
「危ねぇならやめとけよ」
男子たちは顔を見合わせる。
「なんだよ丈、怖ぇの?」
「別に」
「じゃあ来いよ!」
「……」
面倒臭い流れだった。
だが。
ここで逃げるのも、なんとなく癪だった。
それに。
さっき窓に見えたものが、少し気になっていた。
「……放課後な」
「おっ、決まり!」
男子たちが騒ぎ出す。
その横で。
早苗だけが、本当に嫌そうな顔をしていた。
昼休みの後。
早苗は机に突っ伏していた。
表情は見えないのに嫌そうなオーラがひしひしと丈に伝わってくる。
「おい」
「……なんですか」
「死にそうな声出すなよ」
「だってぇ……」
ぐでーっと顔を上げる。
「ぜぇーったい嫌な予感するんですよぉ……」
「行かなきゃいいだろ」
「丈くん行くじゃないですか!」
「まぁ」
「“まぁ”じゃないです!」
ばん、と机を叩く。
前の席の女子がびくっとして振り返った。
「あっすみません!」
慌てて頭を下げる早苗。
丈は吹き出しそうになる。
「笑わないでくださいよぉ……」
「いや、反応おもしろくて」
「ひどいです!」
ぷくっと頬を膨らませる。
だが。
その表情もすぐ曇った。
「……でも本当に、変なんです」
「旧校舎?」
「はい」
「何があるんだよ」
「わからないです」
早苗は小さく首を振る。
「でも、あそこだけ空気が違うんです」
「空気?」
「山の空気とも違うし……神社とも違うし……」
窓の外を見る。
旧校舎の方角。
「何か、混ざってる感じがするんです」
「混ざってる?」
「……うまく言えません」
珍しく。
本当に困った顔だった。
そのまま午後の授業が始まる。
だが。
丈は何度か旧校舎の方を見てしまった。
気になる。
見たくないのに、気になる。
そして。
その度に。
窓の奥で、誰かが動いた気がした。
◇
「なんで行くんですかぁ……」
放課後。
昇降口。
早苗が半泣きみたいな顔で言った。
「流れ」
「断ってくださいよぉ……」
「お前こそ来んなよ」
「丈くん一人で行きそうですし!」
「行くだろ」
「ほらぁ!」
ばん、と下駄箱を叩く。
その反応がちょっと面白くて、丈は少し笑った。
「笑い事じゃないですってば!」
「そんな怖ぇの?」
すると。
早苗は少しだけ黙る。
そして。
「……神様と違うんです」
小さく言った。
「違う?」
「神様って、もっと……ちゃんといる感じなんです」
「ちゃんと?」
「えっと……」
早苗は困ったように言葉を探す。
「怖い神様もいます。でも、“嫌な感じ”じゃないんです」
「……」
「でも旧校舎は違います」
その言葉だけ。
妙に重かった。
その時だった。
ごろごろ、と。
遠くで雷が鳴る。
同時に、雨が降り始めた。
「うわ、降ってきた」
「だから言ったじゃないですかぁ……」
そして。
その雨の向こう側。
校舎裏。
旧校舎の窓が、一瞬だけ見えた。
二階。
割れた窓。
暗い教室。
そこに。
誰か立っている気がした。
「……」
丈は目を細める。
だが次の瞬間には、もう何もいなかった。
「丈くん?」
「……いや」
言いかけてやめる。
なんとなく。
口にしたくなかった。
男子たちはすでに盛り上がっていた。
「懐中電灯持ってきたぞ!」
「うわ本気じゃん」
「写真撮ろうぜ写真!」
「あとで絶対話題になるって!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ声。
だが。
旧校舎へ近づくにつれ、その声は少しずつ小さくなっていった。
◇
旧校舎は、思っていたより古かった。
「うわぁ……」
男子の一人が声を漏らす。
木造。
黒ずんだ壁。
雨で濡れた窓。
風が吹くたび、ぎしぎしと建物が鳴る。
しかも暗い。
曇り空と雨のせいで、夕方なのに夜みたいだった。
校舎の周囲には雑草が伸び放題で、誰も近づいていないのがすぐわかる。
濡れた土の匂い。
腐った木の匂い。
カビ。
それが全部混ざって、妙に息苦しい。
「やっぱやめね?」
「今さらかよー!」
「お前さっきまでノリノリだったろ!」
「いやでもこれ普通に怖ぇって……」
騒ぎながら、男子たちは玄関を押し開ける。
ぎぃ……。
嫌な音。
湿った空気が流れ出てきた。
「うわ、カビくせぇ……」
「丈くん……」
隣で、早苗が袖を掴いてくる。
「なんだよ」
「帰りません?」
「今さら無理だろ」
「うぅ……」
完全に怯えていた。
それでも帰らない。
丈を一人にしたくないからだ。
たぶん。
「お前さ」
「はい……」
「怖いなら外で待ってろよ」
「嫌です」
「なんで」
「丈くん置いてけません」
「……」
「あと、一人で外いる方が怖いです」
「それはわかる」
「ですよねぇ!?」
少しだけ安心したように早苗が言う。
廊下を歩く。
ぎし。
ぎし。
木が軋む音。
誰もいない教室。
古い黒板。
割れたガラス。
古びた掲示物が壁に貼られたままになっている。
色褪せた習字。
破れたポスター。
昔の卒業写真。
どれも湿気で波打っていた。
そして。
妙に静かだった。
雨音しか聞こえない。
「なんもいねーじゃん」
「東風谷の神様どこー?」
「だから神様じゃ――」
その時だった。
ぎし。
二階。
誰もいないはずの上から、足音がした。
全員が止まる。
「……聞こえた?」
「お、おい……」
また。
ぎし。
ぎし。
ゆっくり歩く音。
空気が、一気に冷えた。
そして。
丈だけが見た。
二階の廊下。
階段の隙間。
白い服。
長い髪。
小さな、影。
「……いる」
「え?」
早苗が息を呑む。
次の瞬間。
影が、こちらを見た。
ぞわり、と。
背筋へ寒気が走る。
「うわあああっ!?」
男子の一人が悲鳴を上げた。
その瞬間、全員が一斉に逃げ出す。
「待てって!」
「無理無理無理!!」
「なんかいた!!」
「押すなって!!」
足音。
悲鳴。
雨音。
あっという間に、廊下から人が消える。
残ったのは。
丈と。
早苗だけだった。
「……」
「……」
沈黙。
「逃げ遅れたな」
「丈くんのせいです!」
「俺!?」
「“いる”とか言うからぁ!」
「いたんだから仕方ねぇだろ!」
「言わないでくださいよぉ!」
「見えたもんはしょうがねぇだろ!」
その時。
ぎし。
二階で、また足音が鳴った。
早苗がびくりと肩を震わせる。
「……帰るぞ」
「はい……!」
だが。
丈は動けなかった。
何か。
妙な感覚がある。
呼ばれている。
そんな感じ。
「……丈くん?」
「……二階」
「行きませんよ!?」
「いや、でも」
「でもじゃないです!」
必死だった。
袖を両手で掴んでいる。
だが。
丈にもわかっていた。
今のは。
諏訪子や神奈子の時と違う。
もっと冷たい。
でも。
それだけじゃない。
その奥。
もっと別の“何か”がいる。
山の匂い。
湿った土。
獣みたいな気配。
「……なんだこれ」
ぽつり、と。
丈が呟く。
その時だった。
ごろっ、と雷が鳴った。
同時に。
二階の奥で。
ぽろん。
ピアノの音がした。
「っ!!?」
早苗が完全に固まる。
「な、なんですか今のぉ……」
「音楽室か?」
「行きませんからね!?」
「いやでも」
「行きません!」
だが。
その直後。
また、音。
ぽぉん……。
古いピアノの、湿った音。
そして。
耳元で。
『きて』
女の子の声。
「っ!?」
丈が勢いよく振り返る。
誰もいない。
だが。
その瞬間。
階段の上に。
白い少女が立っていた。
濡れた髪。
青白い顔。
じっとこちらを見ている。
「……」
丈は息を呑む。
怖い。
なのに。
なぜか。
目を逸らせなかった。
「丈くん!」
早苗が袖を引く。
その瞬間。
少女が消えた。
代わりに。
山の方から。
ぞわり、と。
巨大な気配が流れ込んできた。
獣のにおい。
いや。
もっと古い。
もっと嫌なもの。
丈の背筋が凍る。
同時に。
早苗の顔色も変わった。
「……なに、これ」
声が震えていた。
「早苗?」
「違う……これ、違います……」
その時。
窓の外。
雨の向こう。
山の木々の間。
何かいた。
巨大な影。
猿みたいに長い腕。
だが。
人間みたいな形。
そして。
赤い目。
それが。
じっと校舎を見ていた。
「っ……!」
丈が息を呑んだ瞬間。
影が消える。
次の瞬間。
――ばん!!!
音楽室の扉が閉まった。
「きゃあっ!?」
早苗が悲鳴を上げる。
気付けば。
二人は音楽室の中にいた。
「な、なんだよ今の!」
扉を引く。
開かない。
「うそぉ!?」
早苗も一緒に引っ張る。
「開いてくださいよぉ!!」
がたがた、と扉が揺れる。
だが開かない。
そして。
ぽつ。
ぽつ。
ピアノに、水が落ちていた。
「雨漏り……?」
だが。
天井は壊れていない。
それなのに。
黒いピアノだけが、濡れている。
そして黒板。
そこに。
白い文字。
『かえれ』
「……っ」
早苗が震える。
「丈くん……帰りましょう……」
「帰りてぇよ!」
その時だった。
くすくす。
笑い声。
女の子の声。
音楽室の奥。
暗闇。
そこに。
白い少女が立っていた。
だが。
丈は気付く。
この子は。
笑っていない。
怯えている。
震えている。
そして少女は。
「……にげて」
小さく言った。
その瞬間
校舎全体が揺れた。
ぎしぎしぎしっ!!
天井が鳴る。
窓が震える。
まるで。
巨大な何かが、校舎の外を歩いているみたいだった。
「っ……!」
丈は反射的に早苗の手を掴む。
「走るぞ!」
「は、はいっ!」
扉へ体当たり。
ばんっ!!
開いた。
二人で廊下を駆ける。
雨。
足音。
木の軋み。
その背後。
ぎぃ……。
二階の窓に。
黒い巨大な影が立っていた。
赤い目。
長い腕。
それが。
じっと二人を見ている。
「見るな!!」
丈が叫ぶ。
早苗の手を引いて、階段を飛び降りる。
玄関。
外。
雨の中へ飛び出した瞬間。
空気が変わった。
重苦しい気配が、嘘みたいに消える。
「はぁっ……はぁっ……」
早苗が肩で息をしていた。
「……なんだったんだ、今の」
丈も息を切らしながら呟く。
すると。
早苗が、小さく震える声で言った。
「……山…」
「山?」
「いえ…わかりません……でも……」
早苗は、旧校舎を見る。
雨の向こう。
二階の窓。
もう何もいない。
だが。
「神様じゃない」
その声だけ。
本当に怖そうだった。
◇
帰り道。
雨は少し弱くなっていた。
山道。
霧。
夕暮れ。
二人とも、しばらく黙って歩いていた。
靴が濡れて気持ち悪い。
制服も湿っている。
それでも。
さっきまでの寒気は、少し遠のいていた。
「……怖かったです」
ぽつり、と。
早苗が言う。
「だろうな」
「丈くんは?」
「俺も怖かった」
正直だった。
今まで感じたものと違う。
あれは。
もっと古い。
もっと嫌な何かだった。
「でも……」
「ん?」
「丈くん、本当に見えてましたよね」
「……まぁ」
「やっぱり……」
早苗は少しだけ俯く。
「どうした」
「いえ……」
小さく首を振る。
「なんか、丈くんだけ巻き込まれてる気がして」
「お前もだろ」
「私は昔からですし……」
「慣れるもんなのか?」
「全然慣れません!」
即答だった。
丈は少し笑う。
「そこは慣れろよ」
「無理ですよぉ……」
その時。
「……でも」
早苗が、小さく笑った。
「ん?」
「手、離さなかったですね」
「……」
丈は少しだけ視線を逸らす。
「お前、泣きそうだったし」
「泣いてません!」
「泣いてたろ」
「ちょっとだけです!」
「泣いてんじゃねぇか」
「うぅ……」
そのやり取りで。
少しだけ空気が軽くなる。
雨音。
山の風。
石段。
いつもの帰り道。
なのに今日は、どこか違って見えた。
守矢神社の石段へ着いた時。
丈だけが、ふと振り返った。
山。
霧の向こう。
木々の奥。
そこに。
“いる”。
巨大な影。
赤い目。
じっと。
こちらを見ている。
その瞬間。
『あーあ』
耳元で声。
いつもの、軽い声。
でも今回は。
少しだけ真剣だった。
『見つかっちゃったねぇ』
丈の背筋が、ぞわりと冷えた。
「……諏訪子?」
思わず呟く。
「え?」
早苗が振り返る。
「今、諏訪子様いました?」
「……いや」
もう声はしない。
ただ。
山の奥から。
何かがこちらを見ている気配だけが、残っていた。
風が吹く。
山が鳴る。
そして。
どこか遠くで。
獣みたいな笑い声が、聞こえた気がした。