第四話「こっくりさん」
旧校舎の一件から、一週間と少し。
梅雨は相変わらず続いていた。
朝は晴れていても、昼には曇る。
夕方になる頃には、山の方から重たい雲が降りてくる。
諏訪の空は忙しい。
そして最近、丈の周囲も妙に騒がしかった。
特に。
東風谷早苗という少女が。
「丈くーん!」
聞き慣れた声。
振り返ると、坂の下から早苗が走ってきていた。
白い傘。
制服。
湿った風で揺れる髪。
「おはようございます!」
「朝から元気だな……」
「健康ですから!」
「毎回それ言うな」
早苗はえへへ、と笑った。
石段の下からここまで、かなり距離がある。
しかも坂道だ。
なのに、こいつは毎朝息も切らさず現れる。
「丈くんこそ、ちゃんと朝ごはん食べました?」
「食った」
「本当に?」
「なんだその尋問」
「だって丈くん、放っておくと食べなさそうですし」
「お前の中の俺どうなってんだよ」
「不健康寄りです!」
「失礼すぎる」
ばん、と軽く傘で肩を叩かれる。
「むしろ丈くん、最近ちょっと痩せました?」
「知らん」
「顔色も悪いです」
「そうか?」
「そうです」
じーっと見てくる。
近い。
「……お前、たまに距離感おかしいよな」
「え?」
「近ぇ」
「あっ」
早苗が慌てて一歩下がる。
「す、すみません!」
「別に怒ってねぇよ」
「うぅ……」
最近わかったことがある。
東風谷早苗というやつは、変なところで妙に素直だった。
あと。
表情が全部顔に出る。
困ると眉が下がるし。
嬉しいとすぐ笑うし。
怒ると頬が膨れる。
見ていて飽きない。
……とは、言わないけれど。
山道を歩く。
雨上がりの匂い。
濡れた土。
風に揺れる木々。
空気は湿っていたが、朝の山は静かだった。
遠くでヒグラシが鳴いている。
まだ夏には早いが、山の季節は少しだけ早い。
石段の脇には、小さな水たまりがいくつもできていた。
そこへ落ちる雫が、ぽつ、ぽつ、と静かな音を立てている。
「諏訪って、ほんと雨多いですよねぇ」
早苗が空を見上げながら言った。
「そうなのか?」
「多いです! 洗濯物が乾きません!」
「生活感あるな……」
「死活問題ですよ?」
「神社って乾燥機とかないの?」
「ありますけど、なんか負けた気がするじゃないですか」
「何にだよ」
「自然にです!」
「意味わからん」
そう言った瞬間。
早苗が急に傘をくるん、と回した。
水滴がぱっと飛ぶ。
「うおっ」
「ふふーん」
「子供かお前」
「雨の日はテンション上がるんです!」
「犬みてぇだな」
「失礼ですね!?」
また傘をぶんぶん振る。
「やめろ危ねぇ」
「えいっ」
「当てんな」
「避けましたね!」
「当たったら痛ぇからな」
「丈くん、運動神経いいですよね」
「普通だろ」
「でも旧校舎の時、すごい勢いで走ってましたよ」
「あれは誰でも走る」
「私は途中で転びそうになりました」
「実際転びかけてたろ」
「……」
「図星か」
「だ、だって床滑ったんです!」
「はいはい」
すると。
早苗がまた傘を回し始める。
くるくる。
くるくる。
「お前それ好きだな」
「なんか巫女っぽくないですか?」
「どこが」
「こう、神楽的な!」
「雑すぎるだろ」
「えー」
ぶー、と頬を膨らませる。
その顔のまま、今度は丈の前へ傘を差し出した。
「相合傘します?」
「なんでだよ。どっちも傘あるだろ」
「確かに」
「自分で言っといて何だよ」
「でも漫画とかだともっとこう……距離近くないです?」
「何の分析だ」
「少女漫画研究です!」
「知らんがな」
でも。
そんな他愛もない会話が、最近は妙に心地よかった。
東京にいた頃は、朝に誰かと歩くことなんてなかった。
学校は近かったし。
人付き合いも、それなりだった。
でも。
こうして毎日迎えに来るようなやつはいなかった。
「丈くん?」
「ん?」
「聞いてます?」
「聞いてる」
「今、神奈子さまがですね――」
「聞いてなかった」
「ひどい!?」
早苗が抗議する。
「しかも結構いい話だったんですよ!?」
「神様が畑で転んだ話だろ」
「なんで知ってるんですか!?」
「お前の話、だいたいそんな感じじゃん」
「違います!」
「じゃあ何の話だよ」
「……昨日、きゅうりを盗み食いして怒られてました」
「やっぱそんな感じじゃねぇか」
丈が笑うと、早苗は不満そうに口を尖らせた。
「でも本当に大変なんですよ?」
「神様の世話って?」
「はい。諏訪子さまは気付くとどこか行ってますし」
「子供か」
「神奈子さまは突然“やる気”を出しますし」
「それは良いことじゃねぇの?」
「巻き込まれる側は大変なんです!」
「苦労人だなぁ」
「わかってくれます?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとなんだ……」
その反応がおかしくて、丈は少し笑った。
すると。
ふと。
山を見る。
霧の奥。
木々の隙間。
――いる。
そんな感覚がした。
「……」
視線。
誰かが見ているような気配。
だが、姿はない。
それでも。
確かに、いる。
見られている。
木々の奥。
霧の向こう。
暗い山の中。
そこから、じっと。
「丈くん?」
「……なんでもない」
丈は目を逸らした。
あの日からだ。
旧校舎の帰り。
山の向こうに見えた、赤い目。
あれ以来。
時々、山から視線を感じる。
誰かが探しているみたいに。
けれど。
それを早苗には言わなかった。
なんとなく。
言わない方がいい気がした。
すると。
『あー』
頭の奥で、軽い声。
『また見られてるねぇ』
「っ」
丈がぴくりと反応する。
「丈くん?」
「……いや」
まただ。
最近、ときどき聞こえる声。
子供みたいに軽い。
ふざけた感じの声。
けれど。
どこか人間じゃない。
『かわいそー』
「……」
丈は眉をひそめる。
返事をしても、返ってくる時と来ない時がある。
気まぐれだ。
だから最近は、あまり気にしないようにしていた。
「丈くん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だって」
「熱とかありません?」
「ない」
「でも顔色――」
「お前、母親か」
「違います!」
ばん、とまた傘で叩かれる。
「心配してるんです!」
「はいはい」
「軽い!」
そのやり取りに、丈は少し笑った。
すると。
早苗もつられて笑う。
朝の山道。
湿った風。
鳥の声。
少し前までは、ここまで普通に話す相手じゃなかった。
なのに今では。
気付けば毎朝一緒に学校へ行っている。
不思議なもんだ、と丈は思った。
◇
「でさー!」
昼休み。
教室の後ろで、男子たちが騒いでいた。
「今度は“こっくりさん”やろうぜ!」
「いいなそれ!」
「えーやだぁ……」
女子の一人が露骨に顔をしかめる。
「絶対なんか出るって」
「そういうの言うやつが一番ノリノリなんだよなー」
「違うし!」
「東風谷いるし大丈夫だろ!」
「なんでそこで私なんですか!?」
早苗が嫌そうな顔をする。
だが男子たちは気にしない。
「前の旧校舎もなんだかんだ面白かったしな!」
「超怖かったけど!」
「でも無事だったじゃん!」
「丈がいたし!」
「なんで俺」
丈は呆れる。
旧校舎であれだけ怖がっていたくせに。
もう半分くらいイベント扱いだった。
人間、慣れるのが早すぎる。
「でも旧校舎のあれ、マジでなんだったんだろうね」
女子の一人が言う。
「白いの見たって言ってたじゃん」
「見た見た!」
「俺マジで泣きそうだったもん」
「泣いてたじゃん」
「うるせぇ!」
教室に笑い声が広がる。
「でもさー」
「今考えると、あれちょっと青春っぽくない?」
「どこがだよ」
軽い口調の女子に丈が返す。
「え。放課後、雨の旧校舎、怪談、男女で探検!」
「あー……言われるとちょっとそれっぽいか?」
「でしょ!?」
「いや全然楽しくなかったけど」
丈が言うと、また笑いが起きた。
「丈ってリアクション薄いよなー」
「でも旧校舎で“いる”とか言った時、めちゃくちゃ怖かった」
「あれマジでビビった……」
「東風谷も泣きそうだったし」
「泣いてません!」
「えー?」
「泣いてたよねぇ?」
「ちょっとだけです!」
「泣いてんじゃん」
「うぅ……」
顔を赤くして抗議する。
その様子が面白くて、女子たちがくすくす笑っていた。
丈はその騒ぎを眺めながら、机に頬杖をつく。
すると。
早苗がいつの間にか、隣の席まで来ていた。
「丈くん」
「なんだよ」
「助けてください」
「無茶振りだな」
「だってみんな全然聞いてくれません!」
「そりゃ怪談イベント扱いしてるしな」
「イベントじゃないんですってぇ……」
机へ突っ伏す。
「お前そんな嫌なのか」
「嫌です」
「即答だな」
「だって絶対来ますもん」
「来るって何が」
「変なのです!」
「雑だな」
「だって説明しづらいんですよ!」
すると後ろの男子が笑う。
「東風谷、今度は何見えるんだよー」
「見えたくないです!」
「じゃあ見えないように頑張れ!」
「どうやってですか!」
「気合い?」
「無茶言わないでください!」
また笑い声。
その空気に紛れて、丈も少し笑った。
すると早苗がむっとする。
「丈くんまで笑いましたね?」
「ちょっと」
「ひどいです!」
「でもお前、反応が面白いんだよ」
「えぇ……」
しょんぼりする。
だが次の瞬間には。
「……あ」
「ん?」
「丈くん、お弁当それだけですか?」
「それだけって?」
「おにぎり二個しかないじゃないですか!」
「足りるし」
「足りません!」
「なんでお前が決めるんだよ」
「育ち盛りですよ!?」
「お前も同い年だろ」
「私はちゃんと食べてます!」
どん、と弁当箱を見せてくる。
確かに多い。
「……朝から健康健康言うだけあるな」
「でしょう!」
「ちょっと誇らしげなの腹立つな」
「なんでですか!?」
ぷんすか怒る。
そのやり取りを見ていた女子たちが、にやにやし始めた。
「なんか二人、夫婦みたいじゃない?」
「わかるー」
「朝からずっとこんな感じだよね」
「ちげーよ」
「違います!!」
丈と早苗の声が重なった。
一瞬、教室が静まる。
そして。
「息ぴったりじゃん!」
「うるせぇ!」
「違いますぅ!!」
教室に爆笑が起きた。
早苗は真っ赤になって机へ突っ伏す。
「もうやですこのクラスぅ……」
「お前の反応がよすぎるからだろ」
「丈くんは平気なんですか!?」
「慣れた」
「大人……!」
「そうでもねぇよ」
その時。
窓の外。
山の方で、雷が鳴った。
ごろごろ、と低い音。
教室が少し静かになる。
そして。
丈だけが感じた。
――見ている。
山の向こう。
霧の奥。
何かが、こちらを見ている。
『しつこーい』
また、あの声。
『ほんと暇なんだねぇ、あれ』
「……」
「丈くん?」
「いや」
早苗が不思議そうに首を傾げる。
丈は誤魔化すように窓を見る。
山しかない。
だが。
なんとなく。
目を離したくなかった。
◇
五時間目。
雨はさらに強くなっていた。
窓ガラスを叩く音が、教室いっぱいに響いている。
先生の声も少し聞き取りづらいくらいだった。
「はい、じゃあここテスト出るぞー」
「えぇー……」
だるそうな声。
だが丈は、授業どころじゃなかった。
時々。
窓の外。
山の奥。
そこから、妙な気配が流れてくる。
獣みたいな。
湿った。
古い気配。
そして。
視線。
ずっと。
こちらを探している。
「……」
丈は窓を見る。
雨。
霧。
木々。
それだけ。
なのに。
時々、本当に赤い目が見える気がした。
『まだ探してる』
頭の奥の軽い声。
『執念深いなぁ』
「……」
丈は小さく眉を寄せる。
最近、この声に慣れてきている自分が嫌だった。
普通ならもっと驚くべきなのに。
人間、慣れって怖い。
すると隣の席の男子が、こっそり耳打ちしてくる。
「なぁ丈」
「ん?」
「今日マジでやる?」
「知らん」
「え、なんだよその反応」
「好きにしろって」
「でもお前がいると安心感あるんだよなー」
「俺お守りじゃねぇぞ」
「東風谷より頼りになるし」
「どういう意味ですか!?」
前の方から早苗が振り返る。
「東風谷はなんか……叫ぶじゃん」
「人は怖いと叫ぶんです!」
「丈は静かだから強そう」
「褒めてんのか?」
「微妙」
また教室に笑いが広がった。
その空気だけは、いつもの学校だった。
だから余計に。
山から向けられる視線が、不気味だった。
◇
放課後。
雨。
窓を叩く音が、教室に響いていた。
「よーし準備!」
「十円玉持ってきた!」
「紙はこれでいい?」
「ろうそく使う?」
「やめろ雰囲気出すな」
完全にイベント前のテンションだった。
机を囲む数人。
白い紙。
鳥居。
五十音。
典型的なこっくりさん。
女子も混ざっているせいで、余計に騒がしい。
「なんかこういうの、めっちゃひさしぶりかも」
「わかるー」
「え、私初めて」
「マジ?」
「でも怖いぃ……」
「絶対叫ぶタイプじゃん」
「叫ぶ自信ある!」
「威張るな」
丈が呆れて言うと、女子たちが笑った。
一方。
早苗だけが、ずっと落ち着かなかった。
「やめません?」
「まだ言ってるー」
「だって嫌な感じするんです!」
「東風谷そればっかだな」
「本当なんですってぇ……」
半泣きみたいな声。
丈はちらりと早苗を見る。
旧校舎の時と同じ顔だった。
本気で怖がっている。
指先も、少し震えていた。
「……帰るか?」
ぽつりと丈が言う。
すると早苗が、ぱっと顔を上げた。
「帰ります!」
「えっ」
「裏切るな丈!」
「いや別にやりたきゃ勝手にやれよ」
「なんだよ怖いのかー?」
「面倒臭ぇだけ」
「絶対ちょっと怖がってるじゃん」
「怖がってねぇよ」
「じゃあ参加!」
「うわ面倒臭ぇ……」
「丈くん、まだ間に合います!」
「お前は俺をなんだと思ってんだ」
「巻き込まれ体質の人です!」
「否定できねぇ……」
その時。
ぴしっ。
教室の蛍光灯が、一瞬だけ明滅した。
全員が黙る。
「……」
「……今の、停電?」
「いやまだついてるし」
だが。
空気が変わった。
急に寒い。
六月なのに。
妙に冷たい風が、教室の中を撫でていく。
「……来ました」
早苗が小さく呟く。
「だから嫌だったんです……」
「東風谷そういうのやめろよー……」
さっきまで笑っていた男子も、少し声が弱くなる。
女子たちも、顔を見合わせていた。
「な、なんか普通に怖いんだけど」
「帰らない?」
「いやでもここで帰ったら負けじゃん」
「何にだよ」
誰かが乾いた笑いを漏らす。
けれど。
誰も本気では笑えていなかった。
その時。
こん。
教室の窓が鳴った。
全員が振り向く。
雨粒。
灰色の空。
誰もいない校庭。
だが。
一瞬だけ。
窓に、白い顔が映った気がした。
「っ……」
丈が目を細める。
次の瞬間には消えていた。
「……丈くん?」
「……なんでもない」
言いながら。
嫌な汗が流れる。
旧校舎の時と似ていた。
ああいうのは。
気付いた時点で、もう近くにいる。
◇
「じゃあ始めるぞ」
教室の電気を消す。
薄暗い空間。
雨音。
遠くの雷。
十円玉へ指を置く。
丈は露骨に嫌そうな顔をしていた。
「なんで俺まで」
「人数合わせ!」
「雑」
「丈くん、逃げません?」
「今さら無理だろ」
「まだ間に合います!」
「お前もう帰る気満々だな」
「当然です!」
「潔いな」
「命は大事です!」
女子の一人が吹き出す。
「早苗ちゃんブレないなぁ」
「ブレません!」
「でも指置いてるじゃん」
「人数足りないって言われたのでぇ……!」
半泣きだった。
その時。
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください」
静寂。
雨音だけ。
そして。
かた。
十円玉が揺れた。
「おっ!?」
「動いた!」
「誰押した!?」
「押してねぇって!」
十円玉が、ゆっくり動く。
――はい。
「うわぁ……」
「マジじゃん……」
「無理無理無理」
「ちょ、指離すなって!」
空気が変わる。
ひやり、と冷たい。
そして。
くす。
誰かが笑った。
「……!」
丈が振り向く。
教室の後ろ。
誰もいない。
だが。
確かに今、女の子の声がした。
早苗も気付いていた。
「……います」
「だろうな」
「帰りましょう」
「今すぐ?」
「今すぐです!」
だが。
その瞬間。
ばんっ!!
窓が開いた。
「うわあっ!?」
風が吹き込む。
カーテンが暴れる。
プリントが舞う。
女子の悲鳴。
雨の匂い。
そして。
その奥。
山の匂い。
湿った土。
獣。
森。
丈の顔色が変わる。
「……っ」
来た。
あれだ。
その時。
廊下。
どん。
重い音。
全員が凍る。
どん。
どん。
何かが歩いてくる。
人間じゃない。
重い。
鈍い。
獣みたいな足音。
「な、なんだよ……」
誰かが震える。
早苗がぎゅっと丈の袖を掴む。
「丈くん……」
「……ああ」
丈は廊下側の扉を見る。
閉まってる。
何も見えない。
だが。
いる。
確実に。
その時。
『うわ、来てる』
頭の奥で、軽い声。
『ほんとしつこいなぁ』
丈がぴくりと反応する。
だが。
返事をする暇はなかった。
ぴたり。
足音が止まる。
教室の前。
扉の向こう。
静寂。
そして。
こんこん。
扉が鳴った。
「っ……!」
誰かが悲鳴を飲み込む。
こんこん。
また。
まるで。
“入れて”と言っているみたいに。
その瞬間。
丈の背筋に、ぞわりと寒気が走った。
駄目だ。
開けちゃいけない。
理由はわからない。
でも。
絶対に。
「開けるな」
低く言う。
教室が静まる。
「丈……?」
「絶対開けんな」
その声は、自分でも驚くほど強かった。
その時。
教室の隅。
白い影。
女の子。
旧校舎で見たのと同じ。
だが。
その子は、廊下の方を見て怯えていた。
震えている。
まるで。
扉の向こうの何かを怖がるみたいに。
「……」
丈が息を呑む。
すると少女が、ゆっくり口を動かした。
『だめ』
次の瞬間。
ばんっ!!!!
扉が激しく揺れた。
「ひっ!!」
悲鳴。
机が揺れる。
窓が震える。
女子が泣きそうな声を漏らす。
「や、やだやだやだ……!」
「せ、先生呼べって!」
「誰が行くんだよ!」
そして。
扉のふち。
隙間。
そこに。
長い黒い指が見えた。
「っ……!」
丈の全身が凍る。
人間じゃない。
長すぎる。
黒い。
濡れている。
その奥。
赤い目。
それが。
扉の向こうから覗いていた。
「う、うわあああっ!!」
誰かが泣き叫ぶ。
教室が混乱する。
「に、逃げ――」
その瞬間。
丈の中で、何かが熱を持った。
喉。
言葉。
自然に出る。
「見るな」
空気が震えた。
一瞬。
教室が静まり返る。
そして。
扉の向こうの気配が、止まった。
赤い目が揺れる。
何かを探すように、ゆっくり視線が動く。
だが。
早苗を見ることはなかった。
そして。
ずるり、と。
気配が離れていく。
重い足音。
どん。
どん。
遠ざかる。
やがて。
完全に消えた。
静寂。
雨音だけ。
「……い、いなくなった?」
「な、なんだったんだ今の……」
誰も動けない。
女子の一人は本気で泣いていた。
「もうやだぁ……帰りたいぃ……」
「だから言ったじゃないですかぁ……!」
早苗も半泣きだった。
その時。
ぱっ、と電気が戻った。
明るい教室。
机。
紙。
十円玉。
そこにはもう、何もいなかった。
ただ。
こっくりさんの紙だけが、雨みたいに濡れていた。
◇
帰り道。
雨は少し弱くなっていた。
山道。
霧。
夕暮れ。
早苗はずっと丈の少し後ろを歩いていた。
「……怖かったです」
「だろうな」
「寿命縮みました……」
「お前いつも縮んでんな」
「今回のは本当にです!」
振り返ると、早苗はまだ顔が青かった。
それでも。
丈の後ろをちゃんとついてくる。
「丈くんは?」
「怖かった」
正直に言う。
旧校舎とは違った。
あれはもっと。
直接的に危なかった。
「……でも」
早苗が小さく言う。
「また、助けてくれましたね」
「別に助けたわけじゃねぇよ」
「“見るな”って言った瞬間、いなくなりました」
「偶然だろ」
「違います」
早苗は妙にはっきり言った。
「丈くんの言葉、時々変です」
「悪口?」
「そうじゃなくて!」
ぷんすか怒る。
「なんていうか……響く感じがします」
「響く?」
「うまく言えないですけど……」
早苗は少し考えて。
「神事の祝詞に近い感じ、というか……」
「余計わかんねぇよ」
「ですよねぇ……」
しょんぼりする。
その反応が少し面白くて、丈は笑った。
すると早苗が、むっとする。
「笑いましたね?」
「ちょっと」
「ひどいです!」
「お前の顔が面白かった」
「えぇっ!?」
騒ぎながら歩く。
少し前まで、あれだけ怖かった空気が、少しだけ軽くなる。
だが。
笑いながらも。
丈は山を見る。
霧の奥。
木々の隙間。
そこに。
まだ“いる”。
探している。
そんな気配。
『しつこいなぁ』
また、あの軽い声。
『でもまぁ』
少しだけ笑って。
『今はまだ、見つかってないからいっか』
丈は眉をひそめる。
意味はわからない。
だが。
なんとなく。
聞かない方がいい気がした。
風が吹く。
山が鳴る。
そして。
霧の向こうで。
あの赤い目がこちらを探しているような気がした。
もうじき、夏が、来る。