現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第五話「山のもの」

第五話「山のもの」

 

 七月になった。

 梅雨はまだ、完全には明けていなかった。

 朝は晴れる。

 昼には曇る。

 夕方には、山の方から湿った風が降りてくる。

 

 諏訪の空は、相変わらず忙しい。

 けれど。

 教室の空気だけは、もう夏だった。

 

「あと少しで夏休みだぞー!」

 

「自由だー!」

 

「宿題もあるけどな!」

 

「黙れ!」

 

 朝から騒がしい。

 男子たちは予定の話をしている。

 女子たちはプールや祭りの話をしている。

 先生だけが、黒板の前でため息をついていた。

 

「お前らなぁ、まだ夏休みじゃないぞー」

 

「気持ちはもう夏休みです!」

 

「戻ってこーい」

 

 教室に笑い声が広がる。

 丈は窓際の席で、頬杖をついていた。

 山が見える。

 青いというより、濃い緑。

 雨を吸った木々が、妙に重たそうに揺れている。

 

 その奥。

 霧の残る場所。

 そこに。

 何かがいる。

 

「……」

 

 最近、その感覚は消えなかった。

 旧校舎のあと。

 こっくりさんのあと。

 山からの視線は、むしろ近くなっている。

 見られている。

 探されている。

 そういう感じ。

 

「丈くん!」

 

 ぽむ、と肩を叩かれた。

 

「うお」

 

「おはようございます!」

 

「教室でおはようも何もあるかよ。朝から会ってんだろ」

 

「二回目のおはようです!」

 

「いらねぇ……」

 

 早苗はえへへ、と笑った。

 今日も元気だった。

 

 いや。

 元気に見える。

 たぶん。

 旧校舎やこっくりさんの後から、早苗も少し気にしている。

 

 だけど。

 気にしていないように振る舞っている。

 そういうところがある。

 

「丈くん、また外見てましたね」

 

「見てた」

 

「山ですか?」

 

「まあ」

 

「好きになりました?」

 

「急だな」

 

「諏訪の山を!」

 

「別に」

 

「えぇー……」

 

 早苗は露骨に残念そうな顔をした。

 

「いい山ですよ?」

 

「山に良い悪いあんのか」

 

「ありますよ!」

 

「基準は?」

 

「神様がいるかどうかです!」

 

「お前らしいな……」

 

 早苗は胸を張る。

 

「あと、空気が綺麗です!」

 

「それはまあ、わかる」

 

「でしょう?」

 

「でも虫多い」

 

「それはそうです」

 

「認めるのかよ」

 

「虫も命ですから!」

 

「お前、急に神社っぽいこと言うな」

 

「いつも神社っぽいです!」

 

 ぷんすかしている。

 その反応が少し面白くて、丈は笑った。

 すると早苗がじっと見てきた。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「最近、ちゃんと寝てます?」

 

「またそれか」

 

「だって顔色悪いです」

 

「お前、毎朝それ言ってんな」

 

「毎朝悪いんです!」

 

「嫌な健康観察だな」

 

 早苗は机に手をついて、さらに身を乗り出す。

 近い。

 

「目の下、ちょっと黒いです」

 

「近ぇ」

 

「あっ」

 

 慌てて下がる。

 

「すみません!」

 

「毎回やってんなそれ」

 

「心配してるんです!」

 

「わかったわかった」

 

「軽いです!」

 

 早苗は頬を膨らませた。

 その頬の膨らみ方が、いつもより少し長い。

 丈は首を傾げる。

 

「……なんか怒ってる?」

 

「怒ってません」

 

「怒ってるやつの言い方じゃん」

 

「怒ってません」

 

「二回言うと余計怪しいぞ」

 

「怒ってませんってば!」

 

 ぽむ。

 

 今度は手に持っていた折り畳み傘で、軽く肩を叩かれた。

 

「痛ってぇ」

 

「痛くしてません!」

 

「いや痛いというより、なんで叩いた」

 

「……なんとなくです」

 

「なんとなくで人を叩くな」

 

 早苗はぷい、と顔を背ける。

 でも、すぐにちらりと丈を見る。

 何か言いたそうな顔。

 

 けれど言わない。

 丈には、少しだけわかった。

 早苗はたぶん、気付いている。

 自分が何か隠していることに。

 山を見る回数が増えたこと。

 時々、何もないところで反応すること。

 

 あの声のこと。

 全部はわかっていなくても。

 何かあるとは思っている。

 それで不満なのだ。

 

 だが。

 丈には説明できない。

 自分でもよくわかっていないからだ。

 だから。

 

「……傘、武器にすんなよ」

 

 それだけ言った。

 早苗は一瞬きょとんとして。

 それから、ちょっとだけ笑った。

 

「武器じゃないです」

 

「じゃあ何だよ」

 

「巫女の棒です」

 

「雑すぎる」

 

「神聖です!」

 

「絶対違う」

 

 その時。

 窓の外。

 山の奥で、何かが動いた気がした。

 

「……」

 

 丈の視線が止まる。

 赤いもの。

 木々の間。

 目。

 

 一瞬だけ。

 次にはもう何もない。

 

 だが。

 確かに見えた。

 

『あー』

 

 頭の奥で、軽い声がした。

 

『また見てるねぇ』

 

 丈は小さく眉を寄せる。

 最近、時々聞こえる声。

 子供みたいに軽い。

 ふざけているようで、どこか古い。

 

 けれど。

 姿は見えない。

 誰なのかもわからない。

 こちらが話しかけても、返事がある時とない時がある。

 気まぐれだった。

 

『近づかなきゃいいのにねぇ』

 

「……」

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

 早苗が不思議そうに首を傾げる。

 その目が、少しだけ細くなる。

 まただ。

 そう言いたげだった。

 

「またぼーっとしてましたよ」

 

「してない」

 

「してました」

 

「してないって」

 

「しました!」

 

「お前は観察係か」

 

「はい!」

 

「はいなのかよ」

 

 早苗はまた、傘で丈の肩をつん、と突いた。

 

「だから武器にすんなって」

 

「武器じゃありません」

 

「今、明確に攻撃されたぞ」

 

「確認です!」

 

「何の」

 

「丈くんがちゃんとここにいるかの確認です」

 

「物騒な確認だな……」

 

 早苗は少しだけ目を伏せた。

 それはほんの一瞬だった。

 すぐにいつもの顔に戻る。

 

「ほら、ちゃんと授業受けないとだめですよ」

 

「お前に言われたくねぇ」

 

「私は真面目です!」

 

「神様の話で脱線するくせに」

 

「それは大事な話です!」

 

 そのやり取りで、少しだが気が抜けた。

 

 けれど。

 山からの視線だけは、まだ残っていた。

 

   ◇

 

 昼休み。

 教室は夏休みの話で持ちきりだった。

 

「川行こうぜ!」

 

「釣りしたい!」

 

「花火!」

 

「肝試し!」

 

「またそれ?」

 

 女子の一人が呆れたように言う。

 

「こないだので懲りてないの?」

 

「懲りたけどさー」

 

「懲りたならやめろよ」

 

 丈が言うと、男子が笑った。

 

「でも前回、大丈夫だったじゃん」

 

「何をもって大丈夫って言ってんだよ」

 

「生きてる!」

 

「基準が低い」

 

 早苗が本気で嫌そうな顔をした。

 

「もう本当にやめましょうよぉ……」

 

「東風谷は慎重派だからな」

 

「慎重派です!」

 

「怖がりとも言う」

 

「違います!」

 

 ぷんすか怒る。

 

 女子たちが笑った。

 

「でも早苗ちゃんいると、なんか安心感あるよね」

 

「わかる」

 

「怖いけど、なんとかなる感」

 

「なんとかしてるの私じゃないです!」

 

 早苗が慌てて手を振る。

 すると男子が丈を指差した。

 

「じゃあ丈?」

 

「俺でもねぇよ」

 

「でもこの前、“見るな”って言ったら止まったじゃん」

 

「偶然だろ」

 

「いや、あれは偶然じゃないって」

 

 教室が少しだけ静かになる。

 早苗も丈を見る。

 

「……丈くんの言葉、やっぱり変です」

 

「悪口?」

 

「違います!」

 

「じゃあ何だよ」

 

「えっと……響くんです」

 

「またそれか」

 

「祝詞みたいな」

 

「わかんねぇって」

 

「ですよねぇ……」

 

 しょんぼりする。

 

 その顔を見て、早苗の近くの女子がくすっと笑った。

 

「早苗ちゃん、丈のことめちゃくちゃ見てるよね」

 

「えっ!?」

 

「毎朝一緒に来るし」

 

「昼もだいたい喋ってるし」

 

「放課後も一緒だし」

 

「ち、違います!」

 

「違わないだろ」

 

 丈が言うと、早苗が真っ赤になった。

 

「丈くんまで!?」

 

「いや事実だし」

 

「そ、そうですけど!」

 

「ほら認めた」

 

「うぅ……!」

 

 教室に笑い声が広がった。

 その空気は、いつもの学校だった。

 小学生らしい。

 うるさくて。

 単純で。

 すぐ怖がるくせに、すぐ忘れる。

 丈はその騒ぎを見ながら、少しだけ息を吐いた。

 

「そういえばさ」

 

 丈の隣の男子が急に言った。

 

「山の奥に、廃寺あるって知ってる?」

 

「廃寺?」

 

 女子が眉をひそめる。

 

「何それ」

 

「じいちゃんが言ってた。昔、寺があったんだって。今はもう誰も行かないやつ」

 

「え、怖」

 

「肝試しにちょうどよくね?」

 

「やめろ」

 

 丈が即座に言った。

 

「即答!」

 

「お前ら旧校舎とこっくりさんでも懲りてないのかよ」

 

「でも廃寺だぞ?」

 

「だからだろ」

 

 早苗も真面目な顔になる。

 

「山の奥はだめです」

 

「東風谷、またそれー?」

 

「本当にだめです」

 

 その声が少し低くて、教室が一瞬静かになる。

 だが、話題を出した男子はすぐに笑った。

 

「まあ、場所知らないけどな」

 

「知らないのに話すなよ」

 

「でもさ、なんか猿の寺だったとか聞いた」

 

「猿?」

 

 丈が反応した。

 

「うん。猿を祀ってたとか、猿の神様がいたとか。じいちゃんの話だからよく知らんけど」

 

「猿の神様……」

 

 早苗が小さく呟く。

 

「え、何それ本当にありそう」

 

「諏訪ってそういうの多そうだよね」

 

「神様多いし」

 

「東風谷ん家に聞けばわかるんじゃね?」

 

 皆の視線が早苗に集まる。

 

 早苗は困ったように瞬きした。

 

「え、えっと……山の信仰は色々ありますけど、全部知ってるわけでは……」

 

「巫女なのに?」

 

「巫女にも限界があります!」

 

「便利だな限界」

 

「あります!」

 

 早苗が怒る。

 だが。

 丈は、さっきの言葉が妙に引っかかっていた。

 猿を祀る寺。

 廃寺。

 山の奥。

 何気ない噂話。

 けれど、耳に残る。

 

 すると。

 窓際の男子が外を見て言った。

 

「あれ?」

 

「ん?」

 

「今、山になんかいなかった?」

 

 空気が止まる。

 

「そりゃ狸とか猪ぐらいならいるだろ?」

 

「この辺いるっけ?」

 

「いるんじゃね?」

 

「畑荒らすって聞いたことある」

 

 何気ない会話。

 だが。

 丈の背筋が冷えた。

 山を見る。

 

 木々。

 霧。

 影。

 その中に。

 

 赤い目があった。

 

「……」

 

 次の瞬間には、消える。

 だが。

 今度は丈だけではなかった。

 

「……私も、今見えたかも」

 

 委員長の女子が小さく言った。

 

「え?」

 

「黒いやつ」

 

「やめろよー」

 

「猿じゃないかな。あれ」

 

 男子たちは笑っている。

 

 でも。

 その笑いは少し弱かった。

 早苗が、丈の横へ来る。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「今日、山道じゃなくて、大きい道で帰りません?」

 

「遠回りだろ」

 

「遠回りでもいいです」

 

 その声は真面目だった。

 丈は少し黙る。

 

「……わかった」

 

 そう言うと、早苗は少し安心したように息を吐いた。

 

 だが。

 すぐに眉を寄せる。

 

「……丈くん」

 

「今度は何だよ」

 

「何か、思い出しました?」

 

「別に」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

「……」

 

 早苗は黙った。

 怒ってはいない。

 

 でも。

 機嫌はよくない。

 

 それは丈にもわかった。

 早苗は口では何も言わない。

 けれど。

 机の上の折り畳み傘を、こつこつと指で叩いている。

 こつ。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

「……なんだよ」

 

「なんでもありません」

 

「傘、かわいそうだろ」

 

「傘は強いです」

 

「そういう問題か?」

 

「そういう問題です」

 

 早苗はぷい、と顔を背けた。

 丈は困った。

 何を言えばいいのかわからない。

 隠し事をしている自覚はある。

 

 でも、話せるほど整理できていない。

 だから、どうにもできない。

 その時。

 

『それでも来ると思うけどねぇ』

 

 頭の奥で、声がした。

 

『無駄にしつこいから』

 

 丈は窓の外を見る。

 山は黙っている。

 ただ。

 何かが、こちらを探していた。

 

   ◇

 

 放課後。

 空は重たかった。

 雨は降っていない。

 けれど、湿った風が吹いている。

 丈と早苗は、いつもの山道ではなく、町側の少し広い道を歩いていた。

 

「こっち、遠いですねぇ」

 

「お前が言ったんだろ」

 

「言いましたけど」

 

「文句言うな」

 

「でも遠いものは遠いです」

 

「理不尽」

 

 早苗は折り畳み傘を持っていた。

 雨は降っていないのに。

 

「また傘持ってんのか」

 

「諏訪の天気は信用できませんから!」

 

「使い方が武器っぽいんだよな」

 

「武器じゃないです!」

 

 そう言いながら、くるくる回す。

 

「危ねぇ」

 

「大丈夫です!」

 

「この前木にぶつけてただろ」

 

「あれは木が悪いです」

 

「木は動かない」

 

「むぅ……」

 

 頬を膨らませる。

 その顔を見て、丈は少し笑った。

 

「笑いましたね」

 

「ちょっと」

 

「ひどいです!」

 

「お前が面白いんだよ」

 

「えぇ……」

 

 早苗は不満そうに言う。

 そして。

 また傘で、丈の肩を軽く叩いた。

 ぽん。

 

「だから叩くなって」

 

「あっ」

 

 早苗が自分の手元を見る。

 本当に、無意識だったらしい。

 

「す、すみません」

 

「最近多くね?」

 

「……そうですか?」

 

「多い」

 

「そう……かもしれません」

 

「なんで」

 

「わかりません」

 

「わかんねぇのかよ」

 

 早苗は少しだけ俯いた。

 

「たぶん」

 

「ん?」

 

「丈くんが、なんか隠してる感じがするからです」

 

「……」

 

 丈は黙った。

 早苗は慌てて顔を上げる。

 

「あ、言いたくないならいいんですけど!」

 

「……」

 

「でも、なんか、こう……」

 

 言葉を探す。

 

「旧校舎のあとから、丈くん、時々どこかを見てるんです」

 

「……」

 

「こっくりさんの時も」

 

「……」

 

「今日も」

 

 早苗は小さく笑った。

 笑ったけれど、少しだけ寂しそうだった。

 

「聞いても、“いや”って言うじゃないですか」

 

「便利だからな」

 

「便利にしすぎです」

 

「……悪い」

 

 ぽつりと、丈が言った。

 早苗が目を丸くする。

 

「謝るんですね」

 

「お前の中の俺どうなってんだよ」

 

「ちょっと意地っ張りです」

 

「否定できねぇ」

 

 早苗がくすっと笑う。

 少しだけ空気が戻る。

 

「じゃあ、今は許します」

 

「偉そうだな」

 

「巫女ですから!」

 

「関係あんのかそれ」

 

「あります!」

 

 早苗は傘をくるりと回した。

 その瞬間。

 ぴたり、と足を止めた。

 

「……」

 

「早苗?」

 

「……なんか」

 

 早苗の声が小さくなる。

 

「嫌な感じ、します」

 

 丈も足を止める。

 空気が変わっていた。

 町側の道のはずなのに。

 

 山の匂いがする。

 湿った土。

 腐った葉。

 獣の匂い。

 

 そして。

 古い何か。

 

「……」

 

 丈は周囲を見る。

 道の横。

 斜面。

 木々。

 そこは、いつもより暗く見えた。

 遠回りしたはずだった。

 山から離れたはずだった。

 

 なのに。

 

 山が近い。

 そんな気がした。

 

 ざざっ。

 草が揺れる。

 

「っ!」

 

 早苗が丈の袖を掴む。

 

 次の瞬間。

 黒い影が飛び出した。

 猿。

 いや。

 猿みたいなもの。

 四つ足で地面を掴み、長い腕を引きずる。

 身体は泥をかぶったように黒い。

 顔は歪んでいる。

 猿にも見える。

 人にも見える。

 

 でも、どちらでもない。

 赤い目が、丈を見ていた。

 

「……っ」

 

 丈は息を呑む。

 影は、真っ直ぐ丈へ向かってきた。

 

「丈くん!」

 

 早苗が前へ出ようとする。

 

「下がってろ!」

 

 丈は反射的に早苗の腕を掴んだ。

 

 しかし。

 黒い影は、早苗が動いた瞬間だけ、ぴたりと止まった。

 

 赤い目が揺れる。

 丈を見る。

 早苗を見る。

 また丈を見る。

 

 何かを探している。

 何かを思い出そうとしている。

 そんな動きだった。

 

 廃寺。

 猿を祀る寺。

 

 昼休みの言葉が、丈の頭をよぎる。

 まさか。

 あれなのか。

 そう思った瞬間。

 

『あーあ』

 

 頭の奥で、軽い声。

 

『そっち見ちゃだめだってば』

 

「……」

 

『近づかなきゃいーなーって思ってたんだけどなぁ』

 

 声は軽い。

 でも。

 いつもより少しだけ、近かった。

 黒い影が、低く唸る。

 猿の声にも聞こえる。

 人の泣き声にも聞こえる。

 喉の奥に泥が詰まったような、嫌な音。

 

「……猿、なのか」

 

 丈が小さく呟く。

 早苗がぎゅっと袖を掴む。

 

「丈くん、名前を呼んじゃだめです」

 

「え?」

 

「わかりません。でも、だめな気がします」

 

 早苗の声は震えていた。

 けれど、真剣だった。

 丈は口を噤む。

 

 その時。

 空が、ごろりと鳴った。

 

 雷。

 

 雨は降っていない。

 

 ただ、遠くで低く鳴っただけ。

 けれど。

 黒い影はびくりと震えた。

 

 斜面の上。

 神社の方角。

 そこから、風が降りてくる。

 姿は見えない。

 誰もいない。

 

 でも。

 空気が一瞬だけ、張り詰めた。

 黒い影は、赤い目を細めるようにして、山の方を見た。

 

 そして。

 ずるり、と後退る。

 草むらへ沈むように。

 消えた。

 静寂。

 蝉の声が戻ってくる。

 

「……はぁっ」

 

 早苗が息を吐いた。

 

「な、なんですか今の……」

 

「俺が知りてぇよ」

 

「猿……?」

 

「猿にしては、でかすぎるだろ」

 

「じゃあ、妖怪?」

 

「俺に聞くな」

 

「丈くん、最近そういうの詳しくなってません?」

 

「なってねぇよ」

 

「でも、さっき何か言おうとしてました」

 

「……」

 

「廃寺の話、気になってます?」

 

 早苗の声は静かだった。

 責めているわけではない。

 けれど、見逃していない。

 

「……少し」

 

「やっぱり」

 

「言ったら怒るかと思って」

 

「怒りません」

 

「傘で叩くだろ」

 

「……少しだけ」

 

「怒ってんじゃねぇか」

 

「怒ってません。不満です」

 

「正直だな」

 

 早苗は少しだけ笑った。

 

「名前を呼ぶのは、危ないと思います」

 

「なんで」

 

「わかりません」

 

「またか」

 

「でも、何かが名前をもらうと、強くなることがあります」

 

 早苗は山を見た。

 

「神様も、妖怪も、名前を呼ばれると近くなります」

 

「……」

 

「だから、さっきのはまだ、猿って決めない方がいいです」

 

 丈は黙った。

 山を見る。

 斜面の奥。

 まだ気配がある。

 逃げたわけじゃない。

 ただ、遠ざかっただけ。

 

「……帰るぞ」

 

「はい……」

 

 早苗は小さく頷いた。

 

 だが。

 その手はまだ、丈の袖を掴んでいた。

 

   ◇

 

 その夜。

 守矢神社は静かだった。

 雨は降っていない。

 

 けれど、空気は湿っている。

 山の上を、低い雲が流れていた。

 

 境内の奥。

 御柱が、風もないのに微かに軋む。

 

 ぎし。

 

 ぎし。

 

 社務所の灯りはまだついている。

 早苗は奥で、明日の準備をしていた。

 

 その外。

 誰もいない境内で。

 風が吹いた。

 

『近すぎるねぇ』

 

 声がした。

 軽い。

 だが、いつものふざけた響きだけではなかった。

 

 御柱の方から、低い気配が返る。

 

『あれは、ただの獣ではない』

 

『まあねぇ』

 

 風が揺れる。

 

『猿みたいだったね』

 

『猿ではない』

 

『知ってるよ』

 

 短い沈黙。

 山が鳴る。

 

『混ざってる』

 

 ぽつりと、軽い声。

 

『古いのも、忘れられたのも、捨てられたのも』

 

 御柱が、ぎし、と軋んだ。

 

『それに、あの子らが形を与えた』

 

『早苗か』

 

『早苗も。丈も』

 

 また沈黙。

 境内に、虫の声だけが響く。

 

『信徒でもない』

 

 低い気配が言う。

 

『まだ、こちらを見てもいない』

 

『だから面倒なんだよねぇ』

 

『姿を見せる理由はない』

 

『わかってるって』

 

 風が小さく笑ったように揺れる。

 

『でも、このままだと早苗の近くに来るよ』

 

『……』

 

『あの子たち、ずっと一緒だし』

 

 また、沈黙。

 神楽殿の鈴が、小さく鳴った。

 風もないのに。

 からん。

 

『直接触れるな』

 

 低い気配。

 

『器を揺らす』

 

『わかってる』

 

『なら、外側からだ』

 

『だよねぇ』

 

 木々がざわりと鳴る。

 山の向こう。

 暗い森の奥で。

 何かが低く唸った。

 

 猿のように。

 

 人のように。

 まだ、名前のない声で。

 

   ◇

 

 翌朝。

 

「丈くーん!」

 

 いつもの声。

 いつもの坂道。

 いつもの早苗。

 

 だが。

 今日の早苗は、少しだけ落ち着かなかった。

 

「おはようございます!」

 

「おう」

 

「昨日、眠れました?」

 

「まあ」

 

「本当に?」

 

「お前、毎朝それだな」

 

「だって心配ですし」

 

 早苗は真面目な顔をしていた。

 

「昨日の、見ましたよね」

 

「見た」

 

「猿……みたいな」

 

「みたいな、な」

 

「うぅ……」

 

 早苗は少し震えた。

 

「私、昨日夢に出ました」

 

「マジか」

 

「はい。猿がいっぱい出てきました」

 

「嫌すぎる」

 

「しかも全員、丈くんの顔でした」

 

「もっと嫌だな!?」

 

「怖かったです!」

 

「俺も怖ぇよそんな夢」

 

 早苗はくすっと笑った。

 少しだけ、空気が軽くなる。

 それから。

 

 ぽん。

 また、傘で丈の肩を軽く叩いた。

 

「おい」

 

「あっ」

 

「無意識か」

 

「……はい」

 

「なんなんだよ最近」

 

 早苗は少し困ったように笑った。

 

「たぶん、確認です」

 

「またそれか」

 

「丈くんが、どっか行かないかの」

 

「行かねぇよ」

 

「……本当ですか?」

 

「行かねぇって」

 

「じゃあ、いいです」

 

 早苗は前を向いた。

 だが、その声は少しだけ安心していた。

 

「でも」

 

 早苗が山を見る。

 

「昨日の、ただの妖怪じゃない気がします」

 

「違いわかるのか?」

 

「わかりません」

 

「おい」

 

「でも、変なんです」

 

 早苗は言葉を探すように黙った。

 

「怖いんですけど、ただ怖いだけじゃなくて」

 

「……」

 

「何か、探してるみたいでした」

 

 丈は黙る。

 同じことを思っていた。

 あれは襲ってきた。

 

 でも。

 ただ食おうとしている感じではない。

 

 探している。

 思い出そうとしている。

 そんな感じ。

 

『そうそう』

 

 頭の奥で、声。

 

『探してるんだよねぇ』

 

 丈の足が止まりかける。

 

「丈くん?」

 

「……いや」

 

 声は続く。

 

『でも、見つけたら困るんだよねぇ』

 

「……」

 

『特に早苗はね』

 

 その言葉だけ。

 少し引っかかった。

 丈は早苗を見る。

 

 早苗はまだ山を見ている。

 その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。

 

「どうしたんですか?」

 

「いや」

 

「また“いや”です」

 

「便利なんだよ」

 

「便利にしないでください!」

 

 ぷんすか怒る。

 だが。

 その声に救われた気がした。

 

   ◇

 

 その日の放課後。

 早苗は妙にそわそわしていた。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「今日、神社来ません?」

 

「またか」

 

「今日は本当にです」

 

「いつも本当だろ」

 

「今日はもっと本当です!」

 

「差がわからん」

 

 早苗は真剣な顔をしていた。

 

「お父さんが、丈くんに渡したいものがあるって」

 

「俺に?」

 

「はい」

 

「なんで」

 

「わかりません」

 

「お前、わからないこと多いな」

 

「仕方ないじゃないですかぁ」

 

 放課後の道。

 空は曇っていた。

 昨日のことがあったからか、早苗は今日は自然に丈の横を歩いていた。

 いつもより近い。

 

「近くね?」

 

「えっ」

 

「いや、別にいいけど」

 

「……怖いので」

 

 小さな声。

 丈は少し黙った。

 

「そっか」

 

「はい」

 

 それ以上、何も言わなかった。

 石段を登る。

 守矢神社。

 夕方の境内は、湿った空気に包まれていた。

 

 御柱。

 注連縄。

 神楽殿。

 

 いつもの場所なのに、今日は少し違って見えた。

 見えない何かが、ずっとこちらを見ている。

 そんな感じ。

 

「丈くん、こっちです」

 

 社務所の中。

 早苗の父親が待っていた。

 温和な顔。

 

 だが、今日は少し真面目だった。

 

「丈くん、最近妙なものに遭っているそうだね」

 

「……まあ」

 

「早苗から聞いたよ」

 

「すみません、言っちゃいました」

 

「別にいいけど」

 

 神主は小さな袋を差し出した。

 白い布の袋。

 紐で結ばれている。

 

「御守りだ」

 

「俺に?」

 

「そう」

 

 丈は受け取る。

 手にした瞬間。

 ほんの少しだけ、温かかった。

 

「……」

 

「怖がらなくていい」

 

 神主は穏やかに言う。

 

「ただ、持っておきなさい」

 

「これで、どうにかなるんですか?」

 

「全部は無理だろうね」

 

「正直ですね」

 

「嘘をついても仕方ないからね」

 

 神主は少し笑った。

 

「でも、境目にはなる」

 

「境目?」

 

「近づいていいものと、そうでないものの」

 

 丈は御守りを見る。

 白い布。

 小さな重み。

 その中に何かが入っている。

 

 札だろうか。

 石だろうか。

 わからない。

 

「それと」

 

 神主は続けた。

 

「早苗から聞いたけれど、最近、神様や妖怪のことを考えることが増えたそうだね」

 

「……まあ」

 

 丈は少し気まずくなる。

 

「変ですか」

 

「変ではないよ」

 

 神主は静かに言った。

 

「ただ、なんでも神様や妖怪のせいにしてはいけない」

 

「……」

 

「山で音がすれば、獣かもしれない。風かもしれない。木が倒れたのかもしれない。人の見間違いかもしれない」

 

 丈は黙って聞く。

 早苗も少し真面目な顔になっていた。

 

「怖いことに名前をつけると、少し安心する」

 

 神主は言った。

 

「でも、早く名前を決めすぎると、見えるものを間違える」

 

「名前を……」

 

 丈は昨日のことを思い出す。

 猿。

 猿みたいなもの。

 

 廃寺。

 

「たとえば、山の奥には昔の寺跡があると言われている」

 

「……廃寺ですか」

 

「聞いたのかい?」

 

「同級生が」

 

 神主は少し頷いた。

 

「古い話だよ。猿を祀っていたとも、山の守りを祀っていたとも言われる。だが、詳しいことはもうほとんど残っていない」

 

「猿を祀る寺……」

 

 丈が呟く。

 早苗がちらりと丈を見た。

 その視線に気づいて、丈は口を閉じる。

 神主は続ける。

 

「そういう話を聞くと、昨日見たものも猿の神様だと思いたくなるかもしれない」

 

「……」

 

「でも、それはまだ早い」

 

 静かな声だった。

 

「猿に見えたから、猿の神とは限らない。神様に見えたから、神様とも限らない。妖怪に見えたから、妖怪とも限らない」

 

「じゃあ、あれは何なんですか?」

 

 丈が聞く。

 神主は少しだけ困ったように笑った。

 

「わからない」

 

「わからないんですか」

 

「わからないものを、わからないまま置いておくことも大事なんだ」

 

「……」

 

「特に、山のものはね」

 

 山のもの。

 その言葉に、丈の胸が少しざわついた。

 早苗も黙っていた。

 

「名前を与えるのは、慎重にしなさい」

 

 神主はそう言った。

 

「名前は、境目を作る。近づけもするし、遠ざけもする」

 

「……」

 

「だから今は、これを持っておきなさい」

 

 神主は御守りを指差した。

 

「見えないものを追いかけるより、まず自分の足元を見た方がいい」

 

「足元」

 

「眠ること。食べること。学校へ行くこと。友達と帰ること」

 

 早苗が少し笑う。

 

「丈くん、ちゃんと食べてくださいね」

 

「今それ言う?」

 

「大事ですから」

 

 神主も笑った。

 

「そう。そういうことの方が、案外効く」

 

 丈は御守りを見る。

 白い布。

 小さな重み。

 その中身よりも。

 今言われたことの方が、少し重かった。

 怖いことに名前をつけると、安心する。

 

 でも。

 早く名前を決めすぎると、間違える。

 

 猿。

 

 神様。

 

 妖怪。

 

 廃寺。

 

 全部が頭の中で、まだ形にならないまま揺れていた。

 

「それと」

 

 神主は続けた。

 

「夏休み、何日かうちに泊まりに来ないかい?」

 

「は?」

 

 丈は思わず声を出した。

 隣で早苗がぱっと顔を上げる。

 

「えっ」

 

「早苗も、その方が安心だろう」

 

「え、あ、はい! それは!」

 

 嬉しそうにしかけて、慌てて咳払いする。

 

「い、いえ、神社的な意味で!」

 

「何言ってんだお前」

 

「うぅ……」

 

 父親は苦笑する。

 

「無理にとは言わないよ。ただ、夏休みの間に一度、神社の手伝いでもしながら泊まっていくといい」

 

「なんで俺が手伝いまで」

 

「いい経験になる」

 

「大人の言い方だ……」

 

 早苗がにこにこしている。

 

「丈くん、来ましょう!」

 

「お前は楽しそうだな」

 

「はい!」

 

「隠さねぇな」

 

「楽しみですから!」

 

 即答だった。

 丈は少しだけ困る。

 神社に泊まる。

 正直、面倒臭い。

 

 だが。

 昨日の影。

 山の視線。

 廃寺の話。

 猿を祀る寺。

 そして、今手の中にある御守り。

 全部が、関係している気がした。

 

『行っとけば?』

 

 頭の奥で、軽い声。

 

『少なくとも、外よりはマシだよ』

 

「……」

 

 丈は御守りを握る。

 

「……まあ、一日くらいなら」

 

「本当ですか!?」

 

 早苗の顔がぱっと明るくなった。

 

「声でけぇ」

 

「すみません!」

 

「でも、やること多いよ?」

 

 神主が笑う。

 

「掃除とか、荷物運びとか」

 

「えっ」

 

「丈くん、頑張りましょう!」

 

「お前、それが狙いだったな?」

 

「違います!」

 

「怪しいなぁ……」

 

 早苗はむぅ、と頬を膨らませた。

 その時。

 境内の外。

 山の奥で。

 低い声のようなものが聞こえた。

 獣の唸り。

 

 あるいは。

 何かの名残。

 丈は振り返る。

 

 鳥居の向こう。

 山。

 霧。

 木々。

 そこには何もいない。

 

 けれど。

 まだ見られている。

 探されている。

 そう感じた。

 

 手の中の御守りが、少しだけ熱くなる。

 その熱が。

 山からの視線を、ほんの少しだけ遠ざけた気がした。

 

   ◇

 

 帰り道。

 空は薄暗くなっていた。

 早苗は上機嫌だった。

 

「丈くん、夏休み楽しみですね!」

 

「お前はな」

 

「丈くんも楽しみでしょう?」

 

「いや別に」

 

「えぇー」

 

「掃除とか手伝いとか言ってたぞ」

 

「それも楽しいですよ?」

 

「嘘だろ」

 

「本当です!」

 

「お前の本当は信用ならない」

 

「ひどいです!」

 

 いつものやり取り。

 けれど。

 丈の手には御守りがある。

 ポケットの中。

 小さな熱。

 その存在が、妙に気になった。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「ちょっとだけ、安心しました」

 

「何が」

 

「お守り持ってくれたので」

 

「そんな効くのか?」

 

「わかりません」

 

「おい」

 

「でも、ないよりいいです!」

 

「雑だなぁ」

 

 早苗は少し笑った。

 そして。

 ぽん、と傘で丈の肩を叩く。

 

「またか」

 

「あっ」

 

「今日は何の確認だよ」

 

「……約束の確認です」

 

「約束?」

 

「夏休み、ちゃんと来てくださいね」

 

「わかったって」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

「隠し事しません?」

 

「それは内容による」

 

「むぅ」

 

 ぽん。

 

「叩くな」

 

「これは不満です」

 

「宣言すんな」

 

 早苗は少しだけ笑う。

 

「じゃあ、隠し事してもいいですけど」

 

「いいのか」

 

「あとでちゃんと話してください」

 

「……話せるやつならな」

 

「はい」

 

 早苗は頷いた。

 不満そうではあった。

 

 でも、それ以上は聞かなかった。

 丈は少しだけ胸が軽くなる。

 そして同時に。

 少し申し訳なくなる。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「山のあれ」

 

「……」

 

「猿って決めない方がいいですよ」

 

「わかってる」

 

「本当に?」

 

「しつこいな」

 

「丈くん、たまに勢いで変なこと言いますから」

 

「ひでぇな」

 

「心配してるんです」

 

 早苗は真面目な顔だった。

 

「名前って、怖いんですよ」

 

「……神様も?」

 

「神様もです」

 

 風が吹く。

 山が鳴る。

 霧の奥。

 赤い目は見えない。

 だが。

 何かがまだ、そこにいる。

 

 丈はそれを感じながら、ポケットの御守りを握った。

 廃寺。

 猿を祀る寺。

 山のもの。

 まだ、名前のない何か。

 夏休みまで、あと少し。

 そして。

 その夏が、普通では終わらないことだけは。

 なんとなく、わかっていた。

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