第五話「山のもの」
七月になった。
梅雨はまだ、完全には明けていなかった。
朝は晴れる。
昼には曇る。
夕方には、山の方から湿った風が降りてくる。
諏訪の空は、相変わらず忙しい。
けれど。
教室の空気だけは、もう夏だった。
「あと少しで夏休みだぞー!」
「自由だー!」
「宿題もあるけどな!」
「黙れ!」
朝から騒がしい。
男子たちは予定の話をしている。
女子たちはプールや祭りの話をしている。
先生だけが、黒板の前でため息をついていた。
「お前らなぁ、まだ夏休みじゃないぞー」
「気持ちはもう夏休みです!」
「戻ってこーい」
教室に笑い声が広がる。
丈は窓際の席で、頬杖をついていた。
山が見える。
青いというより、濃い緑。
雨を吸った木々が、妙に重たそうに揺れている。
その奥。
霧の残る場所。
そこに。
何かがいる。
「……」
最近、その感覚は消えなかった。
旧校舎のあと。
こっくりさんのあと。
山からの視線は、むしろ近くなっている。
見られている。
探されている。
そういう感じ。
「丈くん!」
ぽむ、と肩を叩かれた。
「うお」
「おはようございます!」
「教室でおはようも何もあるかよ。朝から会ってんだろ」
「二回目のおはようです!」
「いらねぇ……」
早苗はえへへ、と笑った。
今日も元気だった。
いや。
元気に見える。
たぶん。
旧校舎やこっくりさんの後から、早苗も少し気にしている。
だけど。
気にしていないように振る舞っている。
そういうところがある。
「丈くん、また外見てましたね」
「見てた」
「山ですか?」
「まあ」
「好きになりました?」
「急だな」
「諏訪の山を!」
「別に」
「えぇー……」
早苗は露骨に残念そうな顔をした。
「いい山ですよ?」
「山に良い悪いあんのか」
「ありますよ!」
「基準は?」
「神様がいるかどうかです!」
「お前らしいな……」
早苗は胸を張る。
「あと、空気が綺麗です!」
「それはまあ、わかる」
「でしょう?」
「でも虫多い」
「それはそうです」
「認めるのかよ」
「虫も命ですから!」
「お前、急に神社っぽいこと言うな」
「いつも神社っぽいです!」
ぷんすかしている。
その反応が少し面白くて、丈は笑った。
すると早苗がじっと見てきた。
「丈くん」
「ん?」
「最近、ちゃんと寝てます?」
「またそれか」
「だって顔色悪いです」
「お前、毎朝それ言ってんな」
「毎朝悪いんです!」
「嫌な健康観察だな」
早苗は机に手をついて、さらに身を乗り出す。
近い。
「目の下、ちょっと黒いです」
「近ぇ」
「あっ」
慌てて下がる。
「すみません!」
「毎回やってんなそれ」
「心配してるんです!」
「わかったわかった」
「軽いです!」
早苗は頬を膨らませた。
その頬の膨らみ方が、いつもより少し長い。
丈は首を傾げる。
「……なんか怒ってる?」
「怒ってません」
「怒ってるやつの言い方じゃん」
「怒ってません」
「二回言うと余計怪しいぞ」
「怒ってませんってば!」
ぽむ。
今度は手に持っていた折り畳み傘で、軽く肩を叩かれた。
「痛ってぇ」
「痛くしてません!」
「いや痛いというより、なんで叩いた」
「……なんとなくです」
「なんとなくで人を叩くな」
早苗はぷい、と顔を背ける。
でも、すぐにちらりと丈を見る。
何か言いたそうな顔。
けれど言わない。
丈には、少しだけわかった。
早苗はたぶん、気付いている。
自分が何か隠していることに。
山を見る回数が増えたこと。
時々、何もないところで反応すること。
あの声のこと。
全部はわかっていなくても。
何かあるとは思っている。
それで不満なのだ。
だが。
丈には説明できない。
自分でもよくわかっていないからだ。
だから。
「……傘、武器にすんなよ」
それだけ言った。
早苗は一瞬きょとんとして。
それから、ちょっとだけ笑った。
「武器じゃないです」
「じゃあ何だよ」
「巫女の棒です」
「雑すぎる」
「神聖です!」
「絶対違う」
その時。
窓の外。
山の奥で、何かが動いた気がした。
「……」
丈の視線が止まる。
赤いもの。
木々の間。
目。
一瞬だけ。
次にはもう何もない。
だが。
確かに見えた。
『あー』
頭の奥で、軽い声がした。
『また見てるねぇ』
丈は小さく眉を寄せる。
最近、時々聞こえる声。
子供みたいに軽い。
ふざけているようで、どこか古い。
けれど。
姿は見えない。
誰なのかもわからない。
こちらが話しかけても、返事がある時とない時がある。
気まぐれだった。
『近づかなきゃいいのにねぇ』
「……」
「丈くん?」
「いや」
早苗が不思議そうに首を傾げる。
その目が、少しだけ細くなる。
まただ。
そう言いたげだった。
「またぼーっとしてましたよ」
「してない」
「してました」
「してないって」
「しました!」
「お前は観察係か」
「はい!」
「はいなのかよ」
早苗はまた、傘で丈の肩をつん、と突いた。
「だから武器にすんなって」
「武器じゃありません」
「今、明確に攻撃されたぞ」
「確認です!」
「何の」
「丈くんがちゃんとここにいるかの確認です」
「物騒な確認だな……」
早苗は少しだけ目を伏せた。
それはほんの一瞬だった。
すぐにいつもの顔に戻る。
「ほら、ちゃんと授業受けないとだめですよ」
「お前に言われたくねぇ」
「私は真面目です!」
「神様の話で脱線するくせに」
「それは大事な話です!」
そのやり取りで、少しだが気が抜けた。
けれど。
山からの視線だけは、まだ残っていた。
◇
昼休み。
教室は夏休みの話で持ちきりだった。
「川行こうぜ!」
「釣りしたい!」
「花火!」
「肝試し!」
「またそれ?」
女子の一人が呆れたように言う。
「こないだので懲りてないの?」
「懲りたけどさー」
「懲りたならやめろよ」
丈が言うと、男子が笑った。
「でも前回、大丈夫だったじゃん」
「何をもって大丈夫って言ってんだよ」
「生きてる!」
「基準が低い」
早苗が本気で嫌そうな顔をした。
「もう本当にやめましょうよぉ……」
「東風谷は慎重派だからな」
「慎重派です!」
「怖がりとも言う」
「違います!」
ぷんすか怒る。
女子たちが笑った。
「でも早苗ちゃんいると、なんか安心感あるよね」
「わかる」
「怖いけど、なんとかなる感」
「なんとかしてるの私じゃないです!」
早苗が慌てて手を振る。
すると男子が丈を指差した。
「じゃあ丈?」
「俺でもねぇよ」
「でもこの前、“見るな”って言ったら止まったじゃん」
「偶然だろ」
「いや、あれは偶然じゃないって」
教室が少しだけ静かになる。
早苗も丈を見る。
「……丈くんの言葉、やっぱり変です」
「悪口?」
「違います!」
「じゃあ何だよ」
「えっと……響くんです」
「またそれか」
「祝詞みたいな」
「わかんねぇって」
「ですよねぇ……」
しょんぼりする。
その顔を見て、早苗の近くの女子がくすっと笑った。
「早苗ちゃん、丈のことめちゃくちゃ見てるよね」
「えっ!?」
「毎朝一緒に来るし」
「昼もだいたい喋ってるし」
「放課後も一緒だし」
「ち、違います!」
「違わないだろ」
丈が言うと、早苗が真っ赤になった。
「丈くんまで!?」
「いや事実だし」
「そ、そうですけど!」
「ほら認めた」
「うぅ……!」
教室に笑い声が広がった。
その空気は、いつもの学校だった。
小学生らしい。
うるさくて。
単純で。
すぐ怖がるくせに、すぐ忘れる。
丈はその騒ぎを見ながら、少しだけ息を吐いた。
「そういえばさ」
丈の隣の男子が急に言った。
「山の奥に、廃寺あるって知ってる?」
「廃寺?」
女子が眉をひそめる。
「何それ」
「じいちゃんが言ってた。昔、寺があったんだって。今はもう誰も行かないやつ」
「え、怖」
「肝試しにちょうどよくね?」
「やめろ」
丈が即座に言った。
「即答!」
「お前ら旧校舎とこっくりさんでも懲りてないのかよ」
「でも廃寺だぞ?」
「だからだろ」
早苗も真面目な顔になる。
「山の奥はだめです」
「東風谷、またそれー?」
「本当にだめです」
その声が少し低くて、教室が一瞬静かになる。
だが、話題を出した男子はすぐに笑った。
「まあ、場所知らないけどな」
「知らないのに話すなよ」
「でもさ、なんか猿の寺だったとか聞いた」
「猿?」
丈が反応した。
「うん。猿を祀ってたとか、猿の神様がいたとか。じいちゃんの話だからよく知らんけど」
「猿の神様……」
早苗が小さく呟く。
「え、何それ本当にありそう」
「諏訪ってそういうの多そうだよね」
「神様多いし」
「東風谷ん家に聞けばわかるんじゃね?」
皆の視線が早苗に集まる。
早苗は困ったように瞬きした。
「え、えっと……山の信仰は色々ありますけど、全部知ってるわけでは……」
「巫女なのに?」
「巫女にも限界があります!」
「便利だな限界」
「あります!」
早苗が怒る。
だが。
丈は、さっきの言葉が妙に引っかかっていた。
猿を祀る寺。
廃寺。
山の奥。
何気ない噂話。
けれど、耳に残る。
すると。
窓際の男子が外を見て言った。
「あれ?」
「ん?」
「今、山になんかいなかった?」
空気が止まる。
「そりゃ狸とか猪ぐらいならいるだろ?」
「この辺いるっけ?」
「いるんじゃね?」
「畑荒らすって聞いたことある」
何気ない会話。
だが。
丈の背筋が冷えた。
山を見る。
木々。
霧。
影。
その中に。
赤い目があった。
「……」
次の瞬間には、消える。
だが。
今度は丈だけではなかった。
「……私も、今見えたかも」
委員長の女子が小さく言った。
「え?」
「黒いやつ」
「やめろよー」
「猿じゃないかな。あれ」
男子たちは笑っている。
でも。
その笑いは少し弱かった。
早苗が、丈の横へ来る。
「丈くん」
「ん?」
「今日、山道じゃなくて、大きい道で帰りません?」
「遠回りだろ」
「遠回りでもいいです」
その声は真面目だった。
丈は少し黙る。
「……わかった」
そう言うと、早苗は少し安心したように息を吐いた。
だが。
すぐに眉を寄せる。
「……丈くん」
「今度は何だよ」
「何か、思い出しました?」
「別に」
「本当に?」
「本当」
「……」
早苗は黙った。
怒ってはいない。
でも。
機嫌はよくない。
それは丈にもわかった。
早苗は口では何も言わない。
けれど。
机の上の折り畳み傘を、こつこつと指で叩いている。
こつ。
こつ。
こつ。
「……なんだよ」
「なんでもありません」
「傘、かわいそうだろ」
「傘は強いです」
「そういう問題か?」
「そういう問題です」
早苗はぷい、と顔を背けた。
丈は困った。
何を言えばいいのかわからない。
隠し事をしている自覚はある。
でも、話せるほど整理できていない。
だから、どうにもできない。
その時。
『それでも来ると思うけどねぇ』
頭の奥で、声がした。
『無駄にしつこいから』
丈は窓の外を見る。
山は黙っている。
ただ。
何かが、こちらを探していた。
◇
放課後。
空は重たかった。
雨は降っていない。
けれど、湿った風が吹いている。
丈と早苗は、いつもの山道ではなく、町側の少し広い道を歩いていた。
「こっち、遠いですねぇ」
「お前が言ったんだろ」
「言いましたけど」
「文句言うな」
「でも遠いものは遠いです」
「理不尽」
早苗は折り畳み傘を持っていた。
雨は降っていないのに。
「また傘持ってんのか」
「諏訪の天気は信用できませんから!」
「使い方が武器っぽいんだよな」
「武器じゃないです!」
そう言いながら、くるくる回す。
「危ねぇ」
「大丈夫です!」
「この前木にぶつけてただろ」
「あれは木が悪いです」
「木は動かない」
「むぅ……」
頬を膨らませる。
その顔を見て、丈は少し笑った。
「笑いましたね」
「ちょっと」
「ひどいです!」
「お前が面白いんだよ」
「えぇ……」
早苗は不満そうに言う。
そして。
また傘で、丈の肩を軽く叩いた。
ぽん。
「だから叩くなって」
「あっ」
早苗が自分の手元を見る。
本当に、無意識だったらしい。
「す、すみません」
「最近多くね?」
「……そうですか?」
「多い」
「そう……かもしれません」
「なんで」
「わかりません」
「わかんねぇのかよ」
早苗は少しだけ俯いた。
「たぶん」
「ん?」
「丈くんが、なんか隠してる感じがするからです」
「……」
丈は黙った。
早苗は慌てて顔を上げる。
「あ、言いたくないならいいんですけど!」
「……」
「でも、なんか、こう……」
言葉を探す。
「旧校舎のあとから、丈くん、時々どこかを見てるんです」
「……」
「こっくりさんの時も」
「……」
「今日も」
早苗は小さく笑った。
笑ったけれど、少しだけ寂しそうだった。
「聞いても、“いや”って言うじゃないですか」
「便利だからな」
「便利にしすぎです」
「……悪い」
ぽつりと、丈が言った。
早苗が目を丸くする。
「謝るんですね」
「お前の中の俺どうなってんだよ」
「ちょっと意地っ張りです」
「否定できねぇ」
早苗がくすっと笑う。
少しだけ空気が戻る。
「じゃあ、今は許します」
「偉そうだな」
「巫女ですから!」
「関係あんのかそれ」
「あります!」
早苗は傘をくるりと回した。
その瞬間。
ぴたり、と足を止めた。
「……」
「早苗?」
「……なんか」
早苗の声が小さくなる。
「嫌な感じ、します」
丈も足を止める。
空気が変わっていた。
町側の道のはずなのに。
山の匂いがする。
湿った土。
腐った葉。
獣の匂い。
そして。
古い何か。
「……」
丈は周囲を見る。
道の横。
斜面。
木々。
そこは、いつもより暗く見えた。
遠回りしたはずだった。
山から離れたはずだった。
なのに。
山が近い。
そんな気がした。
ざざっ。
草が揺れる。
「っ!」
早苗が丈の袖を掴む。
次の瞬間。
黒い影が飛び出した。
猿。
いや。
猿みたいなもの。
四つ足で地面を掴み、長い腕を引きずる。
身体は泥をかぶったように黒い。
顔は歪んでいる。
猿にも見える。
人にも見える。
でも、どちらでもない。
赤い目が、丈を見ていた。
「……っ」
丈は息を呑む。
影は、真っ直ぐ丈へ向かってきた。
「丈くん!」
早苗が前へ出ようとする。
「下がってろ!」
丈は反射的に早苗の腕を掴んだ。
しかし。
黒い影は、早苗が動いた瞬間だけ、ぴたりと止まった。
赤い目が揺れる。
丈を見る。
早苗を見る。
また丈を見る。
何かを探している。
何かを思い出そうとしている。
そんな動きだった。
廃寺。
猿を祀る寺。
昼休みの言葉が、丈の頭をよぎる。
まさか。
あれなのか。
そう思った瞬間。
『あーあ』
頭の奥で、軽い声。
『そっち見ちゃだめだってば』
「……」
『近づかなきゃいーなーって思ってたんだけどなぁ』
声は軽い。
でも。
いつもより少しだけ、近かった。
黒い影が、低く唸る。
猿の声にも聞こえる。
人の泣き声にも聞こえる。
喉の奥に泥が詰まったような、嫌な音。
「……猿、なのか」
丈が小さく呟く。
早苗がぎゅっと袖を掴む。
「丈くん、名前を呼んじゃだめです」
「え?」
「わかりません。でも、だめな気がします」
早苗の声は震えていた。
けれど、真剣だった。
丈は口を噤む。
その時。
空が、ごろりと鳴った。
雷。
雨は降っていない。
ただ、遠くで低く鳴っただけ。
けれど。
黒い影はびくりと震えた。
斜面の上。
神社の方角。
そこから、風が降りてくる。
姿は見えない。
誰もいない。
でも。
空気が一瞬だけ、張り詰めた。
黒い影は、赤い目を細めるようにして、山の方を見た。
そして。
ずるり、と後退る。
草むらへ沈むように。
消えた。
静寂。
蝉の声が戻ってくる。
「……はぁっ」
早苗が息を吐いた。
「な、なんですか今の……」
「俺が知りてぇよ」
「猿……?」
「猿にしては、でかすぎるだろ」
「じゃあ、妖怪?」
「俺に聞くな」
「丈くん、最近そういうの詳しくなってません?」
「なってねぇよ」
「でも、さっき何か言おうとしてました」
「……」
「廃寺の話、気になってます?」
早苗の声は静かだった。
責めているわけではない。
けれど、見逃していない。
「……少し」
「やっぱり」
「言ったら怒るかと思って」
「怒りません」
「傘で叩くだろ」
「……少しだけ」
「怒ってんじゃねぇか」
「怒ってません。不満です」
「正直だな」
早苗は少しだけ笑った。
「名前を呼ぶのは、危ないと思います」
「なんで」
「わかりません」
「またか」
「でも、何かが名前をもらうと、強くなることがあります」
早苗は山を見た。
「神様も、妖怪も、名前を呼ばれると近くなります」
「……」
「だから、さっきのはまだ、猿って決めない方がいいです」
丈は黙った。
山を見る。
斜面の奥。
まだ気配がある。
逃げたわけじゃない。
ただ、遠ざかっただけ。
「……帰るぞ」
「はい……」
早苗は小さく頷いた。
だが。
その手はまだ、丈の袖を掴んでいた。
◇
その夜。
守矢神社は静かだった。
雨は降っていない。
けれど、空気は湿っている。
山の上を、低い雲が流れていた。
境内の奥。
御柱が、風もないのに微かに軋む。
ぎし。
ぎし。
社務所の灯りはまだついている。
早苗は奥で、明日の準備をしていた。
その外。
誰もいない境内で。
風が吹いた。
『近すぎるねぇ』
声がした。
軽い。
だが、いつものふざけた響きだけではなかった。
御柱の方から、低い気配が返る。
『あれは、ただの獣ではない』
『まあねぇ』
風が揺れる。
『猿みたいだったね』
『猿ではない』
『知ってるよ』
短い沈黙。
山が鳴る。
『混ざってる』
ぽつりと、軽い声。
『古いのも、忘れられたのも、捨てられたのも』
御柱が、ぎし、と軋んだ。
『それに、あの子らが形を与えた』
『早苗か』
『早苗も。丈も』
また沈黙。
境内に、虫の声だけが響く。
『信徒でもない』
低い気配が言う。
『まだ、こちらを見てもいない』
『だから面倒なんだよねぇ』
『姿を見せる理由はない』
『わかってるって』
風が小さく笑ったように揺れる。
『でも、このままだと早苗の近くに来るよ』
『……』
『あの子たち、ずっと一緒だし』
また、沈黙。
神楽殿の鈴が、小さく鳴った。
風もないのに。
からん。
『直接触れるな』
低い気配。
『器を揺らす』
『わかってる』
『なら、外側からだ』
『だよねぇ』
木々がざわりと鳴る。
山の向こう。
暗い森の奥で。
何かが低く唸った。
猿のように。
人のように。
まだ、名前のない声で。
◇
翌朝。
「丈くーん!」
いつもの声。
いつもの坂道。
いつもの早苗。
だが。
今日の早苗は、少しだけ落ち着かなかった。
「おはようございます!」
「おう」
「昨日、眠れました?」
「まあ」
「本当に?」
「お前、毎朝それだな」
「だって心配ですし」
早苗は真面目な顔をしていた。
「昨日の、見ましたよね」
「見た」
「猿……みたいな」
「みたいな、な」
「うぅ……」
早苗は少し震えた。
「私、昨日夢に出ました」
「マジか」
「はい。猿がいっぱい出てきました」
「嫌すぎる」
「しかも全員、丈くんの顔でした」
「もっと嫌だな!?」
「怖かったです!」
「俺も怖ぇよそんな夢」
早苗はくすっと笑った。
少しだけ、空気が軽くなる。
それから。
ぽん。
また、傘で丈の肩を軽く叩いた。
「おい」
「あっ」
「無意識か」
「……はい」
「なんなんだよ最近」
早苗は少し困ったように笑った。
「たぶん、確認です」
「またそれか」
「丈くんが、どっか行かないかの」
「行かねぇよ」
「……本当ですか?」
「行かねぇって」
「じゃあ、いいです」
早苗は前を向いた。
だが、その声は少しだけ安心していた。
「でも」
早苗が山を見る。
「昨日の、ただの妖怪じゃない気がします」
「違いわかるのか?」
「わかりません」
「おい」
「でも、変なんです」
早苗は言葉を探すように黙った。
「怖いんですけど、ただ怖いだけじゃなくて」
「……」
「何か、探してるみたいでした」
丈は黙る。
同じことを思っていた。
あれは襲ってきた。
でも。
ただ食おうとしている感じではない。
探している。
思い出そうとしている。
そんな感じ。
『そうそう』
頭の奥で、声。
『探してるんだよねぇ』
丈の足が止まりかける。
「丈くん?」
「……いや」
声は続く。
『でも、見つけたら困るんだよねぇ』
「……」
『特に早苗はね』
その言葉だけ。
少し引っかかった。
丈は早苗を見る。
早苗はまだ山を見ている。
その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「どうしたんですか?」
「いや」
「また“いや”です」
「便利なんだよ」
「便利にしないでください!」
ぷんすか怒る。
だが。
その声に救われた気がした。
◇
その日の放課後。
早苗は妙にそわそわしていた。
「丈くん」
「ん?」
「今日、神社来ません?」
「またか」
「今日は本当にです」
「いつも本当だろ」
「今日はもっと本当です!」
「差がわからん」
早苗は真剣な顔をしていた。
「お父さんが、丈くんに渡したいものがあるって」
「俺に?」
「はい」
「なんで」
「わかりません」
「お前、わからないこと多いな」
「仕方ないじゃないですかぁ」
放課後の道。
空は曇っていた。
昨日のことがあったからか、早苗は今日は自然に丈の横を歩いていた。
いつもより近い。
「近くね?」
「えっ」
「いや、別にいいけど」
「……怖いので」
小さな声。
丈は少し黙った。
「そっか」
「はい」
それ以上、何も言わなかった。
石段を登る。
守矢神社。
夕方の境内は、湿った空気に包まれていた。
御柱。
注連縄。
神楽殿。
いつもの場所なのに、今日は少し違って見えた。
見えない何かが、ずっとこちらを見ている。
そんな感じ。
「丈くん、こっちです」
社務所の中。
早苗の父親が待っていた。
温和な顔。
だが、今日は少し真面目だった。
「丈くん、最近妙なものに遭っているそうだね」
「……まあ」
「早苗から聞いたよ」
「すみません、言っちゃいました」
「別にいいけど」
神主は小さな袋を差し出した。
白い布の袋。
紐で結ばれている。
「御守りだ」
「俺に?」
「そう」
丈は受け取る。
手にした瞬間。
ほんの少しだけ、温かかった。
「……」
「怖がらなくていい」
神主は穏やかに言う。
「ただ、持っておきなさい」
「これで、どうにかなるんですか?」
「全部は無理だろうね」
「正直ですね」
「嘘をついても仕方ないからね」
神主は少し笑った。
「でも、境目にはなる」
「境目?」
「近づいていいものと、そうでないものの」
丈は御守りを見る。
白い布。
小さな重み。
その中に何かが入っている。
札だろうか。
石だろうか。
わからない。
「それと」
神主は続けた。
「早苗から聞いたけれど、最近、神様や妖怪のことを考えることが増えたそうだね」
「……まあ」
丈は少し気まずくなる。
「変ですか」
「変ではないよ」
神主は静かに言った。
「ただ、なんでも神様や妖怪のせいにしてはいけない」
「……」
「山で音がすれば、獣かもしれない。風かもしれない。木が倒れたのかもしれない。人の見間違いかもしれない」
丈は黙って聞く。
早苗も少し真面目な顔になっていた。
「怖いことに名前をつけると、少し安心する」
神主は言った。
「でも、早く名前を決めすぎると、見えるものを間違える」
「名前を……」
丈は昨日のことを思い出す。
猿。
猿みたいなもの。
廃寺。
「たとえば、山の奥には昔の寺跡があると言われている」
「……廃寺ですか」
「聞いたのかい?」
「同級生が」
神主は少し頷いた。
「古い話だよ。猿を祀っていたとも、山の守りを祀っていたとも言われる。だが、詳しいことはもうほとんど残っていない」
「猿を祀る寺……」
丈が呟く。
早苗がちらりと丈を見た。
その視線に気づいて、丈は口を閉じる。
神主は続ける。
「そういう話を聞くと、昨日見たものも猿の神様だと思いたくなるかもしれない」
「……」
「でも、それはまだ早い」
静かな声だった。
「猿に見えたから、猿の神とは限らない。神様に見えたから、神様とも限らない。妖怪に見えたから、妖怪とも限らない」
「じゃあ、あれは何なんですか?」
丈が聞く。
神主は少しだけ困ったように笑った。
「わからない」
「わからないんですか」
「わからないものを、わからないまま置いておくことも大事なんだ」
「……」
「特に、山のものはね」
山のもの。
その言葉に、丈の胸が少しざわついた。
早苗も黙っていた。
「名前を与えるのは、慎重にしなさい」
神主はそう言った。
「名前は、境目を作る。近づけもするし、遠ざけもする」
「……」
「だから今は、これを持っておきなさい」
神主は御守りを指差した。
「見えないものを追いかけるより、まず自分の足元を見た方がいい」
「足元」
「眠ること。食べること。学校へ行くこと。友達と帰ること」
早苗が少し笑う。
「丈くん、ちゃんと食べてくださいね」
「今それ言う?」
「大事ですから」
神主も笑った。
「そう。そういうことの方が、案外効く」
丈は御守りを見る。
白い布。
小さな重み。
その中身よりも。
今言われたことの方が、少し重かった。
怖いことに名前をつけると、安心する。
でも。
早く名前を決めすぎると、間違える。
猿。
神様。
妖怪。
廃寺。
全部が頭の中で、まだ形にならないまま揺れていた。
「それと」
神主は続けた。
「夏休み、何日かうちに泊まりに来ないかい?」
「は?」
丈は思わず声を出した。
隣で早苗がぱっと顔を上げる。
「えっ」
「早苗も、その方が安心だろう」
「え、あ、はい! それは!」
嬉しそうにしかけて、慌てて咳払いする。
「い、いえ、神社的な意味で!」
「何言ってんだお前」
「うぅ……」
父親は苦笑する。
「無理にとは言わないよ。ただ、夏休みの間に一度、神社の手伝いでもしながら泊まっていくといい」
「なんで俺が手伝いまで」
「いい経験になる」
「大人の言い方だ……」
早苗がにこにこしている。
「丈くん、来ましょう!」
「お前は楽しそうだな」
「はい!」
「隠さねぇな」
「楽しみですから!」
即答だった。
丈は少しだけ困る。
神社に泊まる。
正直、面倒臭い。
だが。
昨日の影。
山の視線。
廃寺の話。
猿を祀る寺。
そして、今手の中にある御守り。
全部が、関係している気がした。
『行っとけば?』
頭の奥で、軽い声。
『少なくとも、外よりはマシだよ』
「……」
丈は御守りを握る。
「……まあ、一日くらいなら」
「本当ですか!?」
早苗の顔がぱっと明るくなった。
「声でけぇ」
「すみません!」
「でも、やること多いよ?」
神主が笑う。
「掃除とか、荷物運びとか」
「えっ」
「丈くん、頑張りましょう!」
「お前、それが狙いだったな?」
「違います!」
「怪しいなぁ……」
早苗はむぅ、と頬を膨らませた。
その時。
境内の外。
山の奥で。
低い声のようなものが聞こえた。
獣の唸り。
あるいは。
何かの名残。
丈は振り返る。
鳥居の向こう。
山。
霧。
木々。
そこには何もいない。
けれど。
まだ見られている。
探されている。
そう感じた。
手の中の御守りが、少しだけ熱くなる。
その熱が。
山からの視線を、ほんの少しだけ遠ざけた気がした。
◇
帰り道。
空は薄暗くなっていた。
早苗は上機嫌だった。
「丈くん、夏休み楽しみですね!」
「お前はな」
「丈くんも楽しみでしょう?」
「いや別に」
「えぇー」
「掃除とか手伝いとか言ってたぞ」
「それも楽しいですよ?」
「嘘だろ」
「本当です!」
「お前の本当は信用ならない」
「ひどいです!」
いつものやり取り。
けれど。
丈の手には御守りがある。
ポケットの中。
小さな熱。
その存在が、妙に気になった。
「丈くん」
「ん?」
「ちょっとだけ、安心しました」
「何が」
「お守り持ってくれたので」
「そんな効くのか?」
「わかりません」
「おい」
「でも、ないよりいいです!」
「雑だなぁ」
早苗は少し笑った。
そして。
ぽん、と傘で丈の肩を叩く。
「またか」
「あっ」
「今日は何の確認だよ」
「……約束の確認です」
「約束?」
「夏休み、ちゃんと来てくださいね」
「わかったって」
「本当に?」
「本当」
「隠し事しません?」
「それは内容による」
「むぅ」
ぽん。
「叩くな」
「これは不満です」
「宣言すんな」
早苗は少しだけ笑う。
「じゃあ、隠し事してもいいですけど」
「いいのか」
「あとでちゃんと話してください」
「……話せるやつならな」
「はい」
早苗は頷いた。
不満そうではあった。
でも、それ以上は聞かなかった。
丈は少しだけ胸が軽くなる。
そして同時に。
少し申し訳なくなる。
「丈くん」
「ん?」
「山のあれ」
「……」
「猿って決めない方がいいですよ」
「わかってる」
「本当に?」
「しつこいな」
「丈くん、たまに勢いで変なこと言いますから」
「ひでぇな」
「心配してるんです」
早苗は真面目な顔だった。
「名前って、怖いんですよ」
「……神様も?」
「神様もです」
風が吹く。
山が鳴る。
霧の奥。
赤い目は見えない。
だが。
何かがまだ、そこにいる。
丈はそれを感じながら、ポケットの御守りを握った。
廃寺。
猿を祀る寺。
山のもの。
まだ、名前のない何か。
夏休みまで、あと少し。
そして。
その夏が、普通では終わらないことだけは。
なんとなく、わかっていた。