現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第六話「夏休み①」

第六話「夏休み①」

 

 夏休みが来た。

 朝から蝉が鳴いていた。

 耳が痛いくらいに。

 空は青い。

 雲は白い。

 山は濃い緑で、じっとこちらを見下ろしている。

 

 七月の諏訪は、やたらと眩しかった。

 そして。

 丈は、守矢神社へ向かっていた。

 

「……なんで俺、泊まりに行くことになってんだろ」

 

 ぽつりと呟く。

 手には小さな荷物。

 着替え。

 宿題。

 歯ブラシ。

 

 それから、早苗の父親にもらった御守り。

 ポケットの中で、白い布の感触がした。

 

 夏休みの間に一度、神社へ泊まりに来ないか。

 そう言われた時は、正直よくわからなかった。

 神社に泊まる。

 しかも東風谷の家に。

 普通なら、ちょっと楽しみなのかもしれない。

 

 けれど。

 丈には、どうしても山のことが引っかかっていた。

 猿みたいなもの

 黒い影。

 赤い目。

 廃寺。

 

 猿を祀る寺。

 そして。

 あの、頭の奥で聞こえる軽い声。

 

『行っとけば?』

 

 声は、あの時そう言った。

 

『少なくとも、外よりはマシだよ』

 

 外よりは。

 マシ。

 その言い方が、妙に嫌だった。

 

 石段の前まで来る。

 夏の朝なのに、そこだけ少し涼しかった。

 山の影が落ちている。

 鳥居の向こう。

 石段の上。

 緑の奥に、守矢神社がある。

 丈はしばらく見上げた。

 

 ここには、何かがいる。

 それはもう、なんとなくわかっていた。

 

 でも。

 まだ見えない。

 見えないのに、いる。

 そういうのが一番面倒臭い。

 

「丈くーん!」

 

 坂の上から声がした。

 顔を上げると、早苗が石段の上で大きく手を振っていた。

 白いシャツ。

 膝丈のスカート。

 髪が夏の風で揺れている。

 いつもの制服ではないからか、少しだけ雰囲気が違って見えた。

 

「早いですね!」

 

「約束の時間通りだろ」

 

「私が待ちきれなかったんです!」

 

「子供か」

 

「子供です!」

 

「開き直るな」

 

 早苗は嬉しそうに笑った。

 そして、石段をたたたっと降りてくる。

 

「荷物、それだけですか?」

 

「二泊だろ」

 

「もっと色々持ってくるかと思いました」

 

「何を」

 

「お菓子とか!」

 

「遠足かよ」

 

「違うんですか?」

 

「違うだろ」

 

 早苗は少し考えた。

 

「……神社遠足?」

 

「泊まりだろ」

 

「神社合宿?」

 

「嫌な響きだな」

 

「神社修行!」

 

「帰っていい?」

 

「だめです!」

 

 早苗が慌てて丈の袖を掴む。

 

「冗談だよ」

 

「丈くん、冗談に聞こえない時があります」

 

「それは悪かった」

 

「謝った!?」

 

「なんで驚く」

 

「珍しいので」

 

「お前の中の俺どうなってんだよ」

 

 そう言うと、早苗はえへへ、と笑った。

 その笑い方が。

 朝の教室と同じで。

 丈は少しだけ安心した。

 

 その時。

 

『楽しそうだねぇ』

 

 頭の奥で、声がした。

 

 いつもの軽い声。

 

 からかうような、いいかげんな声。

 

『朝から元気だこと』

 

「……」

 

 丈は眉をひそめる。

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

「また“いや”です」

 

「便利なんだよ」

 

「便利禁止って言いました!」

 

「いつ決まったんだよ」

 

「昨日です!」

 

「勝手に決めんな」

 

 早苗はむぅ、と頬を膨らませた。

 その顔を見て、丈は少し笑った。

 すると。

 

『ふーん』

 

 また声。

 

『まあ、いいんじゃない』

 

 それだけだった。

 いつもの調子。

 軽くて。

 適当で。

 少し退屈そうな声。

 丈はそれ以上、気にしなかった。

 

   ◇

 

 守矢神社は、夏の匂いがした。

 石段を登ると、境内に風が通っていた。

 蝉の声。

 木々のざわめき。

 古い木の匂い。

 どこかで水の流れる音。

 

 神社は、学校とも家とも違う。

 人がいるのに、静かだった。

 早苗の家族や近所の人が出入りしている。

 

 なのに。

 騒がしくない。

 山の音と、人の音が混ざっている。

 そんな感じ。

 

「おー、丈くん来たか」

 

 社務所の前で、早苗の父親が笑っていた。

 

「お世話になります」

 

「堅いなぁ」

 

「そうです、丈くん堅いです!」

 

「お前は柔らかすぎるんだよ」

 

「柔らかい!?」

 

「頭が」

 

「褒めてます?」

 

「半分くらい」

 

「半分なんですか」

 

 早苗の父親がくすくす笑う。

 

「まあ、今日はゆっくりしていきなさい」

 

「手伝いって聞いたんですけど」

 

「もちろん手伝いもあるよ」

 

「やっぱり」

 

「いい経験になる」

 

「大人の言い方だ……」

 

 丈が小さく呟くと、早苗が得意げに胸を張った。

 

「神社の手伝いは大事なんですよ!」

 

「お前、昨日まで楽しみって言ってただろ」

 

「楽しみながら大事なことをするんです!」

 

「便利な言い方だな」

 

「便利です!」

 

 早苗はにこにこしていた。

 本当に楽しそうだった。

 丈が来ることが。

 そんなに嬉しいのか。

 そう思うと、なんとなく目を逸らしたくなる。

 

「じゃあまず、荷物を置いておいで」

 

 早苗の父親が言う。

 

「早苗、案内してあげなさい」

 

「はい!」

 

「走るなよ」

 

「走りません!」

 

 そう言った直後、早苗は駆け出した。

 

「走ってんじゃねぇか!」

 

「これは早歩きです!」

 

「どこがだよ!」

 

 丈はため息を吐きながら、その後を追った。

 その背中を。

 山のどこかで、何かが見ていた。

 ただ。

 丈は気づかなかった。

 

   ◇

 

 泊まる部屋は、社務所の奥だった。

 畳の部屋。

 低い机。

 古い扇風機

 窓の外には木々が見える。

 風が入ると、畳の匂いがした。

 

「ここ、丈くんの部屋です」

 

「おお……」

 

「どうですか?」

 

「なんか親戚の家みたいだな」

 

「親戚の家ですか」

 

「いや、知らんけど」

 

「知らないんですか!?」

 

「例えだよ」

 

 早苗は少し首を傾げた。

 

「丈くんって、たまに適当ですよね」

 

「お前に言われたくない」

 

「私は真面目です!」

 

「神社遠足とか言ってたやつが?」

 

「あれは比喩です!」

 

「便利だな比喩」

 

 荷物を置く。

 窓から見える山は、いつもより近かった。

 

 いや。

 神社が山の中にあるのだから、当たり前なのだが。

 

 近すぎる。

 そう思った。

 木々の奥。

 暗い緑。

 そこに何かがいる気がする。

 

「……」

 

 丈が窓の外を見る。

 すると。

 

 ぽん。

 

 肩を軽く叩かれた。

 

「痛い」

 

「痛くしてません」

 

「また傘かと思った」

 

「今日は傘じゃありません」

 

 早苗が手を見せる。

 

「素手です!」

 

「威張るな」

 

「丈くん、また山見てました」

 

「……見てた」

 

「何かいます?」

 

「さあ」

 

「また“さあ”です」

 

「便利だからな」

 

「便利にしないでください」

 

 早苗は少しだけ唇を尖らせる。

 怒っている。

 

 いや。

 拗ねている。

 たぶん。

 

「……悪い」

 

 丈が言うと、早苗は目を丸くした。

 

「今日、よく謝りますね」

 

「そんな珍しいか?」

 

「珍しいです」

 

「ひでぇな」

 

「でも、ちょっと安心します」

 

「何が」

 

「丈くんが、ちゃんとこっちにいる感じがするので」

 

「……」

 

 その言い方に、少し困った。

 隠し事をしているつもりはある。

 

 でも。

 どこかへ行くつもりはない。

 少なくとも、早苗を置いて。

 そういう気持ちはない。

 

「どっか行かねぇよ」

 

「本当ですか?」

 

「本当」

 

「山に呼ばれても?」

 

「呼ばれてねぇよ」

 

「……本当に?」

 

「しつこいな」

 

 早苗は少しだけ笑った。

 

「しつこいです」

 

「自覚あんのか」

 

「あります」

 

 そう言って、またぽん、と丈の肩を叩いた。

 

「おい」

 

「あっ」

 

「無意識だろ」

 

「……はい」

 

「なんなんだよそれ」

 

「確認です」

 

「確認多すぎる」

 

「丈くんが悪いです」

 

「俺かよ」

 

「隠し事するからです」

 

 早苗はそう言って、ふいっと顔を背けた。

 

 言葉は軽い。

 

 でも。

 少しだけ本音が混じっていた。

 

 丈は何も言えなかった。

 

『隠し事ねぇ』

 

 頭の奥で、声がした。

 

『まあ、子供には難しいよねぇ』

 

「……」

 

 からかう声。

 いつもの声。

 丈は少しだけむっとした。

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

「また」

 

「便利なんだよ」

 

「禁止です!」

 

 早苗がまた叩こうとして、途中で手を止めた。

 そして、少しだけ恥ずかしそうに手を引っ込める。

 

「……今のは、我慢しました」

 

「えらいな」

 

「子供扱いしましたね?」

 

「してない」

 

「しました」

 

「してない」

 

「しました!」

 

 そのやり取りで、少しだけ空気が戻った。

 

   ◇

 

 昼前。

 神社の手伝いが始まった。

 まずは境内の掃除。

 落ち葉を集める。

 

 石段を掃く。

 手水舎の周りを拭く。

 夏なのに、山の木々からは葉や枝がよく落ちていた。

 

「これ、毎日やってんのか?」

 

「だいたいです!」

 

「大変だな」

 

「大変ですよー」

 

 早苗は竹箒を持って、さっさっと落ち葉を掃いている。

 意外と手慣れていた。

 

「お前、ちゃんと巫女なんだな」

 

「今さらですか!?」

 

「いや、学校だと変なやつだから」

 

「ひどいです!」

 

「褒めてる」

 

「絶対褒めてません!」

 

 早苗はむぅ、と頬を膨らませる。

 そのまま箒を振り上げる。

 

「やめろ。それで叩かれたら普通に痛い」

 

「叩きません!」

 

「目が叩く目だった」

 

「どんな目ですか!」

 

 そのやり取りを、早苗の父親が少し離れたところで笑いながら見ていた。

 

「仲がいいねぇ」

 

「違います!」

 

「違わないだろ」

 

「丈くんまで!?」

 

 早苗が真っ赤になる。

 丈は箒を動かしながら、少しだけ笑った。

 

 こうしていると。

 普通だった。

 夏休み。

 神社。

 手伝い。

 友達の家に泊まりに来ている。

 

 それだけのことみたいだった。

 山のものも。

 赤い目も。

 頭の奥の声も。

 全部、気のせいだったら楽だろうか。

 

 そう思った。

 

 だが。

 境内の端。

 木々の奥。

 そこだけが、少し暗く見えた。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「そっちは後でいいです」

 

「なんで」

 

「なんとなくです」

 

 早苗はそう言った。

 いつもの調子に聞こえた。

 けれど、目だけは真面目だった。

 

「……わかった」

 

 丈はそちらを見るのをやめた。

 

 すると。

 

『お、えらい』

 

 頭の奥で声がした。

 

『近づかないのは大事だよねぇ』

 

「……」

 

 無視した。

 最近、この声に返事をすると、負けな気がしていた。

 

   ◇

 

 昼飯はそうめんだった。

 縁側に座って食べた。

 風鈴が鳴っている。

 

 ちりん。

 

 ちりん。

 

 山から吹く風は、町より少し涼しい。

 庭では、光が葉っぱの間で揺れていた。

 

「丈くん、薬味入れます?」

 

「入れる」

 

「ねぎ大丈夫ですか?」

 

「大丈夫」

 

「みょうがは?」

 

「普通」

 

「しょうがは?」

 

「入れすぎるなよ」

 

「任せてください!」

 

「不安だな」

 

 早苗は楽しそうに薬味を入れる。

 そして、丈の器を差し出した。

 

「はい!」

 

「……多くね?」

 

「健康にいいです!」

 

「そういう問題か?」

 

「健康は大事です!」

 

「またそれか」

 

 食べてみる。

 辛い。

 

「入れすぎだろ」

 

「えっ、そうですか?」

 

「自分の食ってみろ」

 

 早苗は自分のそうめんを食べた。

 数秒後。

 

「……ちょっと多いですね」

 

「だろ」

 

「でもおいしいです!」

 

「負けず嫌いか」

 

 早苗の父親が笑う。

 

「丈くん、早苗に付き合うのも大変だろう」

 

「まあ」

 

「丈くん!?」

 

「でも慣れました」

 

「それはそれでひどいです!」

 

 早苗が騒ぐ。

 縁側の向こうでは、山が静かに揺れていた。

 早苗の父親は、湯呑みを置いて、ふと山を見る。

 

「諏訪の信仰はね」

 

 静かな声だった。

 

 丈と早苗が顔を上げる。

 

「一つの社だけに収まるものではないんだ」

 

「……?」

 

 丈は首を傾げる。

 早苗は少し姿勢を正した。

 

「諏訪湖があり、山があり、川があり、里がある。諏訪大社もあり、古い守矢の信仰もある。分かれているようで、どこかでつながっている」

 

「……守矢神社と諏訪大社は、別ですよね?」

 

 丈が聞く。

 

「別だよ」

 

 父親は頷いた。

 

「けれど、諏訪という土地の中では、完全に切り離されているわけでもない」

 

「よくわかんないです」

 

「だろうね」

 

 父親は少し笑った。

 

「簡単に言えば、湖は湖の神を持ち、山は山の神を持ち、社は社の役目を持つ。人はそれを、それぞれの名前で呼ぶ。でも土地の側から見れば、それらは皆、諏訪の息遣いなんだ」

 

「息遣い……」

 

「だから、どれか一つだけを見て、これが全部だと思わない方がいい」

 

 丈は黙って聞いていた。

 お守りをもらったときに言われたことを思い出す。

 名前を早く決めすぎるな。

 見えるものを間違える。

 

「神様も妖怪も、昔話も噂話も、混ざり合うことがある」

 

 父親はそう言った。

 

「山のものは、特にね」

 

 風鈴が鳴る。

 

 ちりん。

 

 ちりん。

 

 早苗が少しだけ緊張した顔をした。

 

「お父さん」

 

「怖がらせるつもりはないよ」

 

 父親は穏やかに言う。

 

「ただ、丈くんは今、少しそちらに目が向きすぎているかもしれない」

 

「俺?」

 

「そう」

 

「でも、実際見たんですけど」

 

「見たものを否定する必要はない」

 

 父親は言った。

 

「ただ、それに引っ張られすぎると、足元を見失う」

 

「足元」

 

「今ここで食べているそうめんとか」

 

「そうめん」

 

「掃除とか」

 

「掃除」

 

「宿題とか」

 

「急に嫌な現実が来た」

 

 早苗がくすっと笑う。

 父親も笑った。

 

「そういう現実が、人をこちら側に繋ぎ止めるんだよ」

 

「こちら側……」

 

「だから今日は、ちゃんと食べて、ちゃんと手伝って、ちゃんと寝ること」

 

「普通ですね」

 

「普通が一番強い」

 

 その言葉は。

 妙に胸に残った。

 

『普通ねぇ』

 

 声が、ほんの少しだけ笑う。

 

『ま、そうだね』

 

 それだけだった。

 丈はそうめんを啜る。

 山は静かに揺れていた。

 

   ◇

 

 午後。

 

 丈は早苗と一緒に、社務所の奥の倉庫を片付けることになった。

 古い箱。

 紙袋。

 祭りの道具。

 縄。

 木札。

 

 よくわからないものがたくさんある。

 

「うわ、ほこりっぽいな」

 

「古いものも多いですから」

 

「これ何?」

 

「たぶん昔の幟です」

 

「これは?」

 

「えっと……縄です!」

 

「見ればわかる」

 

「御神事で使うやつです!」

 

「最初からそう言え」

 

 薄暗い倉庫の中。

 窓から入る光に、埃が舞っている。

 早苗は妙に楽しそうだった。

 

「こういうの、探検みたいで楽しくないですか?」

 

「旧校舎で懲りてねぇのかよ」

 

「これは神社内なので安全です!」

 

「その理屈、信用していいのか?」

 

「たぶん!」

 

「たぶんかよ」

 

 箱を動かす。

 中から古い冊子が出てきた。

 

「なんだこれ」

 

「あ、古い由緒書きですかね」

 

 早苗が覗き込む。

 文字は古く、丈にはあまり読めなかった。

 

 だが。

 挿絵があった。

 

 山。

 木。

 そして。

 細長いもの。

 蛇のような。

 縄のような。

 

 人の手のような。

 

「……これ」

 

「どうしました?」

 

「いや」

 

 丈は冊子を閉じようとする。

 すると早苗が眉を寄せた。

 

「また“いや”です」

 

「……変な絵だったから」

 

「見せてください」

 

「いいけど」

 

 早苗は冊子を見る。

 しばらく黙った。

 

「……ミジャグジ、かもしれません」

 

「ミジャ……?」

 

「ミジャグジ様」

 

「神様か?」

 

「たぶん」

 

「たぶん多いな」

 

「だって、はっきり言い切れるものじゃないんです」

 

 早苗の声はいつもより静かだった。

 

「石とか、木とか、土地とか、そういうところにいるって言われたりします」

 

「姿は?」

 

「決まってないです」

 

「決まってない?」

 

「はい。蛇みたいだったり、棒みたいだったり、何かの気配だったり」

 

 丈は冊子を見る。

 決まっていない。

 名前はあるのに、姿はない。

 

 逆に。

 山のものは、姿があるのに、名前がない。

 

 そう思った。

 

「怖い神様なのか?」

 

 丈が聞く。

 早苗は少し考える。

 

「怖いです」

 

「即答」

 

「でも、悪い神様という意味じゃないです」

 

「違うのか」

 

「怖いものと、悪いものは違います」

 

 早苗は冊子をそっと閉じた。

 

「山も、湖も、風も。怖いですけど、悪いわけじゃないです」

 

「……」

 

「たぶん、神様もそうです」

 

 丈は返事をしなかった。

 ただ。

 冊子を持つ手が、少しだけ温かく感じた。

 

 いや。

 ポケットの御守りかもしれない。

 

 それとも。

 この場所そのものか。

 よくわからなかった。

 

『怖いものと、悪いものは違う、ね』

 

 声がした。

 

『うん。そうだね。良いこというじゃん。早苗』

 

 それだけ。

 いつもより、少し柔らかい。

 

 丈は気にしなかった。

 

「丈くん?」

 

「……いや」

 

「また?」

 

「今のは本当にいや」

 

「どういう意味ですか?」

 

「俺にもわからん」

 

 早苗は首を傾げた。

 

   ◇

 

 夕方。

 境内は少し涼しくなっていた。

 空は茜色。

 山の影が濃くなる。

 蝉の声の中に、ヒグラシの声が混じっていた。

 

 かなかなかな、と。

 どこか寂しい音。

 

「丈くん、そこ持ってください」

 

「これ?」

 

「はい、こっちに運びます」

 

「重っ」

 

「頑張ってください!」

 

「お前も持てよ」

 

「持ってます!」

 

「ほぼ俺じゃねぇか!」

 

 祭り用の木箱を運ぶ。

 大した距離ではない。

 けれど、意外と重い。

 早苗は真面目な顔で持っているが、力はあまり入っていない。

 

「お前、ちゃんと持ってる?」

 

「持ってます!」

 

「ほんとか?」

 

「巫女の力で支えてます!」

 

「物理で支えろ!」

 

 なんとか運び終える。

 丈は縁側に座り込んだ。

 

「疲れた……」

 

「丈くん、体力ないですね」

 

「お前が言うな」

 

「私は神社の子ですから!」

 

「神社の子って便利だな」

 

「便利です!」

 

 早苗は得意げだった。

 だが。

 その直後。

 

「あっ」

 

 段差に足を引っかけた。

 

「うわっ」

 

 丈が反射的に手を伸ばす。

 早苗の腕を掴む。

 ぎりぎりで転ばずに済んだ。

 

「……」

 

「……」

 

 少し近い

 早苗がぱちぱちと瞬きをする。

 

「大丈夫か」

 

「は、はい」

 

「神社の子」

 

「今のは段差が悪いです」

 

「木といい段差といい、周りが悪いな」

 

「そうです!」

 

「反省しろ」

 

 早苗が照れ隠しみたいに笑う。

 その笑顔を見て。

 

 丈は思った。

 山のものが早苗を見るのは、嫌だ。

 理由はよくわからない。

 

 でも。

 嫌だ。

 だから、前へ出た。

 

 昨日も。

 その前も。

 たぶん、これからも。

 

 すると。

 

『へぇ』

 

 頭の奥で声がした。

 

『危なっかしいねぇ』

 

「……」

 

 いつもの調子だった。

 軽くて。

 どこか呆れた声。

 丈は、特に気にしなかった。

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

「またです」

 

「便利なんだよ」

 

「便利禁止です」

 

「なんだその禁止」

 

「今日からです」

 

 早苗がじっと見てくる。

 

「何か聞こえました?」

 

「……」

 

 丈は黙った。

 

 早苗は、ほんの少しだけ目を伏せる。

 そして。

 

「言いたくないなら、今はいいです」

 

「……悪い」

 

「でも、いつか言ってください」

 

「話せるやつならな」

 

「それ、昨日も聞きました」

 

「便利なんだよ」

 

「便利禁止です!」

 

 ぽん。

 

 また叩かれた。

 

「いて」

 

「痛くしてません」

 

「確認か?」

 

「はい」

 

「正直になったな」

 

「なりました」

 

 早苗は少しだけ笑った。

 夕方の風が、二人の間を通り抜けた。

 

   ◇

 

 夜。

 

 神社の夜は、学校の夜より深かった。

 電気はついている。

 人もいる。

 

 けれど。

 山の闇が近い。

 虫の声。

 木々のざわめき。

 遠くで何かが鳴く声。

 それらが、夜を厚くしている。

 

「丈くん、怖いですか?」

 

 縁側で、早苗が聞いた。

 風呂上がりだった。

 髪が少し濡れている。

 いつもと違う服。

 丈は視線を逸らした。

 

「別に」

 

「本当に?」

 

「ちょっと」

 

「正直ですね」

 

「怖ぇもんは怖ぇ」

 

 早苗は嬉しそうに笑った。

 

「私も怖いです」

 

「お前も?」

 

「はい」

 

 早苗は膝を抱える。

 

「神社の夜、怖いですよ」

 

「慣れてるんじゃねぇの?」

 

「慣れてても怖いです」

 

「そういうもんか」

 

「そういうものです」

 

 風鈴が鳴る。

 ちりん。

 

「でも」

 

 早苗が言う。

 

「怖いものがいるから、ここが嫌いってわけじゃないです」

 

「……」

 

「怖いものも、ずっとここにいるので」

 

 その言い方が、妙に静かだった。

 

 丈は山を見る。

 暗い。

 昼間よりずっと。

 木々の奥に、闇が溜まっている。

 そこに何かがいても、おかしくない。

 むしろ、いない方がおかしい。

 そう思えるくらいに。

 

「お前、小さい頃からこういうの見てたのか?」

 

「全部じゃないですよ」

 

「全部じゃないって」

 

「見える時と、見えない時があります」

 

「怖くなかったのか」

 

「怖かったです」

 

「なのに、なんで平気そうなんだよ」

 

 早苗は少し考えた。

 

「ひとりじゃないからです」

 

「神様がいるから?」

 

「それもあります」

 

 早苗は笑う。

 

「でも、今は丈くんもいますし」

 

「……」

 

 また、そういうことを普通に言う。

 困る。

 

『……』

 

 頭の奥で、一瞬だけ何かが動いた気がした。

 声ではない。

 言葉でもない。

 ただ、息を詰めるような。

 そんな気配。

 

 けれど。

 すぐに消えた。

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

「またそれです」

 

「なんでもない」

 

「なんでもなくない顔です」

 

「顔見るな」

 

「見ます」

 

「見るな」

 

「見ます!」

 

「強いな」

 

 すると早苗は、少しむっとした。

 

「また隠しました」

 

「違う」

 

「隠しました」

 

「これは……」

 

「これは?」

 

「……説明しにくい」

 

「じゃあ隠し事です」

 

「厳しいな」

 

「厳しいです」

 

 ぽん。

 腕を叩かれる。

 

「不満か」

 

「はい」

 

「即答」

 

「不満です」

 

 早苗はぷんすかしている。

 

 けれど。

 その顔が、少しだけ楽しそうだった。

 

 丈は、少しだけ笑った。

 

   ◇

 

 夜も更けた。

 早苗の父親は、寝る前に境内を見回ると言った。

 早苗は手伝うと言い出した。

 丈もなぜかついて行くことになった。

 

「なんで俺まで」

 

「泊まりですから!」

 

「理由になってない」

 

「神社体験です!」

 

「それ便利だな」

 

「便利です!」

 

 懐中電灯を持って、境内を歩く。

 夜の神社は、昼とまるで違った。

 

 鳥居。

 御柱。

 神楽殿。

 手水舎。

 全部が暗い。

 

 輪郭だけが、ぼんやり浮かんでいる。

 父親は慣れた足取りで進む。

 

「夜は、昼より境目が薄くなる」

 

 ぽつりと言った。

 

「境目?」

 

「人の場所と、そうでない場所の」

 

 丈は息を呑む。

 山の方を見る。

 暗い。

 何も見えない。

 だが、気配はある。

 

「でも、怖がりすぎなくていい」

 

 父親が続ける。

 

「ここは神社だからね」

 

「神社なら安全なんですか?」

 

「完全に安全な場所なんてないよ」

 

「正直ですね」

 

「嘘をついても仕方ないからね」

 

 父親は笑う。

 

「ただ、ここには決まりがある。入っていいものと、入ってはいけないものの境がある」

 

「境……」

 

 丈は御守りに触れる。

 ポケットの中。

 小さな熱。

 

「山のものは?」

 

 思わず聞いていた。

 父親は少しだけ立ち止まる。

 

「山のものは、山にいる」

 

「でも、降りてきました」

 

「そうだね」

 

「なんで」

 

「わからない」

 

 父親はそう言った。

 

「ただ、何かに引かれているのかもしれない」

 

「何か」

 

「名前かもしれない。記憶かもしれない。人の目かもしれない」

 

「人の目?」

 

「見られることで、形になるものもある」

 

 丈は黙る。

 早苗も黙っていた。

 

「でも、形になったからといって、それが本当の姿とは限らない」

 

 父親の声は静かだった。

 

「だから、急がないことだ」

 

「……」

 

 丈は昼間の由緒書きを思い出す。

 

 ミジャグジ。

 姿のないもの。

 決まっていないもの。

 怖いけれど、悪いとは限らないもの。

 

 その時。

 御柱の方で、木が軋む音がした。

 

 ぎし。

 

「……」

 

 全員がそちらを見る。

 風はない。

 それなのに、御柱が少しだけ鳴っている。

 

 ぎし。

 

 ぎし。

 

 早苗が小さく息を呑む。

 

「お父さん」

 

「大丈夫」

 

 父親は静かに言った。

 

「ここから先は、今日は行かない」

 

「え?」

 

 丈は御柱の奥を見る。

 暗い。

 

 だが。

 その奥から。

 何かが呼んでいる気がした。

 赤い目ではない。

 獣でもない。

 もっと低い。

 もっと古い。

 土の下から。

 石の奥から。

 木の根の間から。

 何かが、じっとそこにいる。

 

『……来たねぇ』

 

 頭の奥で、声がした。

 いつもより小さい。

 いつもより遠い。

 ふざけた調子が、少しだけ薄い。

 

『そこまで』

 

「……」

 

 短い言葉。

 それだけだった。

 丈は一歩、前へ出そうになった。

 その瞬間。

 早苗が袖を掴んだ。

 

「丈くん」

 

「……」

 

「行かないでください」

 

 声は小さかった。

 でも、強かった。

 丈は足を止める。

 暗闇の奥。

 

 そこから。

 何かが、こちらを見ている。

 いや。

 見ているのとは違う。

 待っている。

 そんな感じ。

 

 丈は喉を鳴らした。

 怖い。

 

 でも。

 嫌ではなかった。

 不思議と。

 あの山のものとは違う。

 赤い目の気配とは違う。

 もっと重くて。

 もっと深くて。

 怖いのに、逃げ出したくなるほどではない。

 

「……行かねぇよ」

 

 丈が言う。

 早苗の手が、少しだけ緩む。

 

「本当ですか?」

 

「本当」

 

「……よかった」

 

 早苗は小さく呟いた。

 その時。

 御柱の奥で、何かが動いた気がした。

 蛇のような。

 縄のような。

 影のような。

 けれど、はっきりとは見えない。

 

 ただ。

 地面の下から、冷たいものが立ち上る。

 それが、丈の足元へ触れた気がした。

 

「っ……」

 

 丈は息を止める。

 逃げなかった。

 足も引かなかった。

 怖い。

 

 でも。

 拒まなかった。

 ただ、そこに立っていた。

 しばらくして。

 その気配は、すっと引いていった。

 

 同時に。

 遠くの山で、何かが低く鳴いた。

 猿のように。

 人のように。

 

 けれど。

 今までよりも、少し遠かった。

 

「……」

 

 父親が静かに息を吐く。

 

「戻ろう」

 

 それだけ言った。

 丈は頷く。

 早苗はまだ、丈の袖を掴んでいた。

 ぽん、と。

 今度は叩くのではなく、指で軽く握るように。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「今、何かいました?」

 

「……わからん」

 

「怖かったですか?」

 

「怖かった」

 

「嫌でした?」

 

 丈は少し黙った。

 そして。

 

「……嫌ではなかった」

 

 そう答えた。

 早苗は不思議そうに目を瞬かせる。

 

「そうですか」

 

「変か?」

 

「変です」

 

「おい」

 

「でも」

 

 早苗は少し笑った。

 

「丈くんらしいです」

 

「俺らしいってなんだよ」

 

「わかりません」

 

「またか」

 

「でも、そう思いました」

 

 夜の神社に、虫の声が響いていた。

 山の闇はまだ濃い。

 

 けれど。

 さっきより、少しだけ静かだった。

 

『……』

 

 頭の奥で、何かが黙っていた。

 丈はそれに気づかなかった。

 ただ、さっきの気配の余韻だけを感じていた。

 

   ◇

 

 部屋に戻ると、布団が敷かれていた。

 早苗は隣の部屋へ行く前に、襖のところで振り返った。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「ちゃんと寝てくださいね」

 

「お前、母親か」

 

「違います!」

 

「毎回言ってるなこれ」

 

「心配してるんです」

 

「わかったよ」

 

「あと」

 

「まだあんのか」

 

「夜中に勝手に外へ出ないでください」

 

「出ねぇよ」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

「約束ですよ?」

 

「約束」

 

 早苗は少し安心したように頷いた。

 

「じゃあ、おやすみなさい」

 

「おう」

 

「……丈くん」

 

「今度は何だよ」

 

「泊まりに来てくれて、ありがとうございます」

 

「……」

 

 不意打ちだった。

 

 丈は布団の上で固まる。

 

「いや、別に」

 

「別にじゃないです」

 

 早苗は小さく笑った。

 

「嬉しいです」

 

「……そうかよ」

 

「はい」

 

 襖が閉まる。

 静かになる。

 虫の声。

 木々の音。

 遠くの山の気配。

 丈は布団に横になった。

 天井を見る。

 古い木の天井。

 見慣れない部屋。

 

 でも、不思議と落ち着く。

 ポケットから御守りを出して、枕元に置く。

 白い布。

 小さな熱。

 その奥に、さっきの気配がまだ少し残っている気がした。

 土の下のもの。

 蛇のようなもの。

 名前をまだ呼べないもの。

 怖いけれど、嫌ではなかったもの。

 

『……拒まなかったねぇ』

 

 頭の奥で、声がした。

 とても小さく。

 

『ま、今日はそれでいいか』

 

「……誰なんだよ」

 

 丈は小さく呟いた。

 返事はない。

 そう思った。

 だが。

 

『誰だろうねぇ』

 

 声が返ってきた。

 丈は息を止める。

 

『まだ見えないでしょ』

 

「……」

 

『見えないうちは、わからなくていいよ』

 

 風鈴が鳴る。

 ちりん。

 

「意味わかんねぇよ」

 

『わかんなくていいってば』

 

 声は笑う。

 いつもの軽い声だった。

 

『今の君は、まだ何も知らない子供なんだから』

 

「……」

 

『なのに、変なところで踏み込んでくるし』

 

「踏み込んでねぇよ」

 

『踏み込んでるよ』

 

「どこに」

 

『色々』

 

「説明雑だな」

 

『雑でいいの』

 

 声は相変わらず軽かった。

 適当で。

 からかうようで。

 時々、少しだけ親切で。

 よくわからない。

 

「……お前さ」

 

『んー?』

 

「俺のこと、嫌いなのか?」

 

 少し間が空いた。

 

『さあねぇ』

 

「さあって」

 

『嫌いっていうか、面倒?』

 

「ひでぇな」

 

『面倒だよ。すごく』

 

「俺、何もしてねぇだろ」

 

『してるよ』

 

「何を」

 

『色々』

 

「また雑だな」

 

『うん』

 

 丈は天井を見る。

 古い木目。

 暗い部屋。

 風鈴の音。

 遠くの山。

 

 そして、頭の奥の声。

 妙にうるさい声。

 面倒臭い声。

 でも。

 山のものとは違う。

 赤い目とは違う。

 怖いのに、嫌ではなかったもの。

 さっきの御柱の奥の気配にも、少しだけ似ていた。

 

 怖い。

 けれど。

 嫌いではない。

 

「……別に」

 

『ん?』

 

「お前のことも、嫌いじゃない」

 

 その瞬間。

 声が止まった。

 本当に。

 

 ぴたりと。

 風鈴だけが鳴る。

 ちりん。

 

 ちりん。

 

「……?」

 

 丈は眉をひそめる。

 

「おい」

 

 返事はない。

 

「聞こえてんだろ」

 

 返事はない。

 さっきまで、あんなに勝手に喋っていたのに。

 

 急に。

 完全に。

 黙った。

 

「……なんなんだよ」

 

 丈は小さく呟いた。

 遠くの山で、何かが鳴いた。

 

 けれど。

 その声は、昨夜よりも遠い。

 丈は布団に戻る。

 目を閉じる。

 

 夏休みの一日目。

 

 守矢神社の夜。

 山のものは、まだ消えていない。

 

 けれど。

 何かが少しだけ、変わり始めていた。

 それが良いことなのか、悪いことなのか。

 

 丈にはまだ、わからなかった。

 

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