現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第七話「夏休み②」

第七話「夏休み②」

 

 朝。

 

 蝉の声で目が覚めた。

 知らない天井。

 畳の匂い。

 薄い布団。

 窓の外では、木々が揺れている。

 丈はしばらく、ぼんやり天井を見ていた。

 

「……どこだっけ」

 

 寝ぼけた頭で呟く。

 少しして思い出した。

 守矢神社。

 東風谷の家。

 夏休みのお泊まり。

 

 そして。

 昨夜のこと。

 御柱の奥。

 暗闇の向こう。

 土の下から立ち上ってきた、冷たい気配。

 蛇のような。

 縄のような。

 影のような。

 怖かった。

 

 でも。

 嫌ではなかった。

 丈は枕元を見る。

 白い御守りが置いてある。

 手に取ると、少しだけ温かかった。

 

「……」

 

 山のもの。

 赤い目。

 猿みたいな影。

 それはまだ、消えていない。

 そう思う。

 

 けれど。

 昨夜から少しだけ、何かが変わった気がした。

 遠くなった。

 そんな感じがする。

 

 障子の向こうから、足音が聞こえた。

 

 たたたた。

 

 軽い足音。

 嫌な予感がした。

 

「丈くーん!」

 

 襖が少しだけ開く。

 

「起きてますか!」

 

「起きてる」

 

「おはようございます!」

 

「朝から声でけぇ……」

 

「健康ですから!」

 

「便利だな、それ」

 

 早苗が顔を出した。

 寝癖はない。

 もう着替えている。

 朝からやたら元気だった。

 

「丈くん、ちゃんと眠れました?」

 

「まあ」

 

「本当に?」

 

「お前、毎朝それ聞くな」

 

「毎朝心配してるんです」

 

「母親か」

 

「違います!」

 

 早苗はむぅ、と頬を膨らませる。

 それから、部屋の中をちらりと見た。

 

「夜中、外に出ませんでした?」

 

「出てねぇよ」

 

「本当に?」

 

「約束しただろ」

 

「……はい」

 

 少しだけ安心したような顔。

 

 昨日の夜。

 行かないでください。

 そう言った早苗の声を、丈は思い出す。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「朝ごはんできてます」

 

「おう」

 

「あと、神社の朝は早いです」

 

「嫌な予感しかしねぇ」

 

「掃除があります!」

 

「やっぱり」

 

「健康的ですよ!」

 

「お前の健康、労働と直結してない?」

 

「神社ですから!」

 

「意味わからん」

 

 早苗は楽しそうに笑った。

 その顔を見て、丈は少しだけ目を逸らした。

 

 泊まりに来てくれて、ありがとうございます。

 

 昨夜の言葉が、まだ妙に残っていた。

 

   ◇

 

 朝の境内は、白かった。

 霧が薄く残っていた。

 木々の間から差す光が、まだ柔らかい。

 昼間の暑さが嘘みたいに、空気は涼しかった。

 早苗の父親はすでに境内を掃いていた。

 

「おはよう、丈くん」

 

「おはようございます」

 

「よく眠れた?」

 

「まあ、はい」

 

「それはよかった」

 

 穏やかな声。

 だが、丈を見る目はどこか静かだった。

 昨日のことを知っている。

 

 たぶん。

 丈が何かを拒まなかったことも。

 何かが遠ざかったことも。

 全部ではなくても、わかっている。

 そんな気がした。

 

「じゃあ、朝の掃除をしようか」

 

「はい」

 

「丈くん、こっちです!」

 

 早苗が竹箒を渡してくる。

 

「昨日もやったぞ」

 

「今日もやります!」

 

「神社って大変だな」

 

「大変ですよ?」

 

「なんで嬉しそうなんだよ」

 

「丈くんと一緒なので!」

 

「……」

 

 また、普通に言う。

 困る。

 

「何ですか?」

 

「いや」

 

「また“いや”です」

 

「便利だからな」

 

「便利禁止です!」

 

 ぽん、と早苗が肩を叩く。

 

「痛くないけど、もう癖になってるだろ」

 

「あっ」

 

 早苗が自分の手を見る。

 

「……確認です」

 

「何の」

 

「丈くんがちゃんといるかの」

 

「昨日もいたろ」

 

「今日も確認です」

 

「毎日更新制なのかよ」

 

「はい!」

 

 早苗は真面目に頷いた。

 丈はため息を吐く。

 

 けれど。

 嫌ではなかった。

 

 境内を掃く。

 落ち葉を集める。

 石段の端に溜まった土を払う。

 早朝の神社は静かだった。

 静かすぎて、自分の箒の音がよく聞こえる。

 

 さっ。

 

 さっ。

 

 さっ。

 

 風が吹く。

 御柱が少し軋む。

 

 ぎし。

 

 丈は思わずそちらを見る。

 

「丈くん?」

 

「……いや」

 

 御柱の奥。

 昨夜、何かがいた場所。

 今は明るい。

 ただの木々。

 ただの土。

 なのに。

 そこに何かがいることだけは、わかった。

 怖い。

 

 でも。

 昨日ほど近くはない。

 

 遠くから、ただ見ている。

 そんな感じ。

 

『おはよ』

 

 頭の奥で声がした。

 軽い声。

 いつもの声。

 

『ちゃんと寝たんだ。えらいえらい』

 

「……」

 

 丈は無視した。

 

『無視? ひどいなぁ』

 

「……」

 

『ま、いいけど』

 

 声はすぐに途切れた。

 昨日の夜みたいな沈黙はなかった。

 いつも通り。

 からかうだけからかって、勝手に消える。

 丈はそれを、普通に流した。

 

   ◇

 

 朝飯は、焼き魚と味噌汁だった。

 白いご飯。

 漬物。

 卵焼き。

 縁側ではなく、今日は座敷で食べた。

 

「丈くん、ご飯おかわりします?」

 

「まだ食ってる途中だろ」

 

「先に聞いておこうと思って」

 

「食わせる気満々だな」

 

「育ち盛りですから!」

 

「お前も同い年だろ」

 

「私はもうおかわりしました!」

 

「早ぇよ」

 

 見ると、早苗の茶碗はもう空だった。

 

「朝からよく食うな」

 

「健康ですから!」

 

「全部それで押すな」

 

 早苗の父親が笑う。

 

「丈くんも、遠慮しなくていいからね」

 

「ありがとうございます」

 

「昨日より顔色がいい」

 

「そうですか?」

 

「はい! 私もそう思います!」

 

 早苗が即座に言う。

 

「丈くん、昨日よりちゃんとしています」

 

「俺は昨日なんだったんだよ」

 

「ぼんやりしてました」

 

「いつもだろ」

 

「いつもよりです!」

 

「失礼なやつだな」

 

 早苗は笑う。

 丈も少しだけ笑った。

 昨日より、空気が軽い。

 山の視線はある。

 気配もある。

 

 でも。

 追われている感じは薄くなっていた。

 早苗の父親が味噌汁を置く。

 

「今日は、少し奥の方の掃除をしようか」

 

「奥?」

 

 丈が聞く。

 

「神楽殿の裏あたりまでだよ」

 

「御柱の奥は?」

 

 思わず聞いた。

 早苗が少し固まる。

 父親は静かに首を振った。

 

「今日はまだ行かない」

 

「まだ?」

 

「そういう場所もある」

 

「……」

 

「近づく日と、近づかない日がある。人の都合だけでは決めない」

 

 丈は黙る。

 早苗も黙っていた。

 

「山のものも、そうだ」

 

 父親は続ける。

 

「追い払えば済むというものではない。こちらが近づきすぎれば、向こうも近づく」

 

「でも、向こうから来ました」

 

「そうだね」

 

「じゃあどうすれば」

 

「境目を思い出させる」

 

「境目……」

 

「ここまで。そこから先。入っていいところ。いけないところ」

 

 父親は穏やかに言った。

 

「昨日、少しだけ、それが戻ったのかもしれない」

 

「昨日?」

 

「丈くんは、怖がりながらも逃げなかっただろう」

 

「……」

 

「拒まなかった」

 

 その言葉に、丈は少しだけ胸がざわついた。

 

 拒まなかった。

 昨夜、頭の奥の声もそう言った。

 

 ミジャグジ。

 早苗がそう呼んだかもしれないもの。

 姿の決まらないもの。

 怖いけれど、悪いとは限らないもの。

 

「それがいいことなんですか?」

 

 丈が聞く。

 父親は少し考えた。

 

「少なくとも、悪いことではないと思う」

 

「はっきりしないですね」

 

「はっきりさせすぎると、間違えることもあるからね」

 

「またそれだ」

 

「大事なことだよ」

 

 父親は少し笑った。

 

「名前も、形も、意味も。急いで決めない」

 

 丈は頷いた。

 わかったような。

 わからないような。

 そんな感じだった。

 

   ◇

 

 午前中は、神楽殿の裏を掃除した。

 普段はあまり人が入らないらしく、落ち葉が多い。

 木の根が地面を盛り上げている。

 日陰は涼しい。

 けれど、湿っていた。

 

「うわ、蚊いる」

 

「丈くん、刺されてます?」

 

「たぶん」

 

「大変です!」

 

「大げさだな」

 

「かゆいのは大変ですよ!」

 

「そこかよ」

 

 早苗は鞄から虫除けを取り出した。

 

「準備いいな」

 

「神社の子ですから!」

 

「便利な肩書き」

 

「はい、腕出してください」

 

「自分でやる」

 

「私がやります!」

 

「なんで」

 

「塗り残しがあると困るので!」

 

「お前ほんと世話焼くな」

 

「丈くんが抜けてるからです」

 

「ひでぇ」

 

 早苗が虫除けを塗る。

 真剣な顔。

 妙に近い。

 

「……近ぇ」

 

「あっ」

 

 慌てて離れる。

 

「す、すみません」

 

「もう慣れた」

 

「慣れないでください!」

 

「どっちだよ」

 

 丈が呆れると、早苗は恥ずかしそうに笑った。

 神楽殿の裏。

 木々の間から、御柱の奥が少しだけ見えた。

 昨日の夜と同じ場所。

 明るいのに、そこだけ暗い。

 丈は箒を止める。

 

「……」

 

 何かがいる。

 それはわかる。

 

 でも。

 怖さの質が違う。

 山のものは、見てくる。

 探してくる。

 近づいてくる。

 けれど、奥にいるものは違う。

 動かない。

 そこにある。

 

 まるで、山そのものみたいに。

 

「丈くん」

 

 早苗の声。

 

「行きませんよ」

 

「行かねぇよ」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

「じゃあ、確認です」

 

 ぽん。

 

 肩を叩かれる。

 

「確認って便利だな」

 

「便利です」

 

「使い方覚えたな」

 

「覚えました!」

 

 得意げだった。

 

 その時。

 遠くの山で、何かが鳴いた。

 猿のような声。

 人のような声。

 前より遠い。

 

 けれど、まだいる。

 早苗がびくっと肩を揺らす。

 

「今の……」

 

「ああ」

 

「遠いですね」

 

「そうだな」

 

「昨日より」

 

「……そうだな」

 

 早苗は少し安心したように息を吐いた。

 

 だが。

 丈は山を見る。

 遠い。

 

 でも。

 消えたわけではない。

 そこにいる。

 ただ、追ってこないだけ。

 

『まだいるよ』

 

 頭の奥で声がした。

 

『でも、今日は来ないんじゃない?』

 

「……」

 

『たぶんね』

 

「たぶんかよ」

 

 思わず小さく呟いた。

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

「今、何か言いました?」

 

「何でもない」

 

「またです」

 

「便利だからな」

 

「便利禁止です!」

 

 早苗がぷんすか怒る。

 それを見て、丈は少しだけ笑った。

 

   ◇

 

 昼前。

 

 早苗の父親に頼まれて、古い水場まで行くことになった。

 神社の裏手。

 山へ少し入ったところにある、小さな湧き水。

 

 ただし、御柱の奥とは別の道だと言われた。

 

「危なくないんですか?」

 

 丈が聞く。

 

「今日は大丈夫だよ」

 

「今日は」

 

「山は毎日同じじゃないからね」

 

「怖い言い方するなぁ……」

 

 早苗は水筒を持っていた。

 

「丈くん、滑らないでくださいね」

 

「お前がな」

 

「私は神社の子です!」

 

「昨日転びかけたろ」

 

「あれは段差が悪いです」

 

「今日は何が悪くなるんだ」

 

「石とか?」

 

「先に言うな」

 

 山道を歩く。

 木陰。

 湿った土。

 虫の声。

 

 足元には、木の根が張っている。

 鳥居の内側とは違う。

 少しだけ空気が深い。

 

 けれど。

 怖くはなかった。

 

 少なくとも、前みたいに追われる感じはない。

 しばらく歩くと、水の音が聞こえてきた。

 ちょろちょろと。

 小さな音。

 

 木々の間に、石で囲まれた水場があった。

 水は澄んでいる。

 冷たそうだった。

 

「ここです」

 

 早苗が少し得意げに言う。

 

「へぇ」

 

「昔からあるんですよ」

 

「飲めるの?」

 

「たぶん」

 

「たぶん多いな」

 

「お父さんは飲んでます」

 

「なら大丈夫か」

 

「丈くん、疑い深いですね」

 

「命は大事だからな」

 

「私の台詞です!」

 

 早苗が笑う。

 丈はしゃがんで、水に触れた。

 冷たい。

 思ったよりずっと。

 指先から腕へ、冷たさが上がってくる。

 

「うわ、冷てぇ」

 

「でしょう?」

 

「お前が作ったみたいに言うな」

 

「神社の水なので!」

 

「だから便利だなそれ」

 

 丈は水を掬ってみる。

 透明な水。

 光を受けて、手の中で揺れる。

 その時。

 

 ふと。

 水面に、何かが映った気がした。

 

 細いもの。

 蛇のような。

 縄のような。

 

 でも次の瞬間には、もう何もなかった。

 

「……」

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

 丈は水から手を離す。

 怖くはなかった。

 

 ただ。

 見られた気がした。

 

 遠くからではなく。

 足元から。

 土地そのものから。

 

「早苗」

 

「はい?」

 

「ミジャグジ様って、水にもいるのか?」

 

 早苗は少し驚いた顔をした。

 

「どうでしょう」

 

「知らない?」

 

「はい。でも、石とか木とか土地とか……そういう場所にいるなら、水の近くにいても変じゃないと思います」

 

「ふーん」

 

「どうしました?」

 

「なんでもない」

 

「またです」

 

「今回は本当になんでもない」

 

「信じてません」

 

「ひでぇ」

 

 早苗は水筒に水を汲む。

 丈はもう一度、水場を見る。

 

 冷たい。

 静か。

 底が見えるのに、深さがわからない。

 そんな水だった。

 

 その時。

 山の奥から、また声がした。

 遠く。

 猿のような。

 人のような。

 

 だが。

 水場の気配がふっと濃くなると、その声は途切れた。

 

「……」

 

 丈は息を止める。

 早苗は気付いていない。

 

 いや。

 気付いていないように見える。

 水面が少し揺れた。

 風もないのに。

 それはまるで。

 

 ここから先へ来るな。

 そう言っているようだった。

 

   ◇

 

 昼飯の後。

 丈と早苗は宿題をすることになった。

 

 座敷。

 低い机。

 扇風機。

 外では蝉。

 夏休みらしい光景だった。

 

「なんで神社に来てまで宿題……」

 

「普通が一番強いんです!」

 

「昨日の話を都合よく使うな」

 

「使えるものは使います!」

 

「たくましいな」

 

 算数のドリルを開く。

 国語のプリント。

 漢字練習。

 あまり楽しくない。

 だが、早苗は妙にやる気だった。

 

「丈くん、そこ違います」

 

「え?」

 

「計算」

 

「マジか」

 

「ここで繰り上がり忘れてます」

 

「うわ本当だ」

 

「ふふん」

 

「なんで得意げなんだよ」

 

「教えられました!」

 

「嬉しいのか」

 

「嬉しいです!」

 

 早苗は本当に嬉しそうだった。

 教えるのが楽しいらしい。

 丈は少しだけ呆れる。

 

 けれど。

 悪くない。

 

「丈くん、国語は得意ですか?」

 

「普通」

 

「感想文とか」

 

「嫌い」

 

「私もです」

 

「お前は好きそうなのに」

 

「思ったことを書けって言われると、何を書いたらいいかわからなくなります」

 

「あー」

 

「神様の話を書いたら怒られますし」

 

「そりゃな」

 

「納得された!?」

 

「いや、読書感想文で神奈子さまの感想書かれても先生困るだろ」

 

「たしかに……」

 

 早苗は真剣に納得していた。

 

「お前、本当に書こうとしたことあるのか?」

 

「あります」

 

「あるのかよ」

 

「一年生の時に」

 

「先生なんて言った?」

 

「本の感想を書きましょうって」

 

「正論だな」

 

 早苗は少し恥ずかしそうに笑った。

 丈も笑う。

 

 扇風機が首を振る。

 畳の匂い。

 鉛筆の音。

 外の蝉。

 

 普通。

 本当に普通だった。

 昨日、早苗の父親が言っていた。

 普通が一番強い。

 その意味が、少しだけわかった気がした。

 

 山のものは遠い。

 ミシャグジの気配も、今は静か。

 そして早苗は、隣で漢字を書いている。

 それだけで、世界はずいぶんこちら側に戻る。

 

   ◇

 

 夕方。

 

 早苗の父親が、少し出かけると言った。

 氏子の家に用事があるらしい。

 

「境内から出なければ大丈夫だよ」

 

「山には行くなってことですね」

 

 丈が言う。

 

「そういうこと」

 

「俺、そんな信用ないですか」

 

「あるよ」

 

 父親は笑う。

 

「だから、早苗を頼む」

 

「えっ」

 

 丈と早苗の声が重なった。

 

「お父さん!?」

 

「いや、俺に頼まれても」

 

「二人とも、危ないことはしないように」

 

「雑にまとめられた……」

 

 父親は笑って出ていった。

 夕方の境内。

 丈と早苗だけ。

 

 いや。

 正確には、他にも何かはいる。

 いるのだろう。

 

 でも、見えない。

 だから二人だけみたいだった。

 

「……頼まれましたね」

 

 早苗が言う。

 

「頼まれても困る」

 

「丈くん、私を守ってくれるんですか?」

 

「言い方」

 

「どうなんです?」

 

「危なかったらな」

 

「危なくなかったら?」

 

「自分で歩け」

 

「ひどい!」

 

「普通だろ」

 

 早苗は笑う。

 それから、少しだけ真面目な顔になった。

 

「でも昨日、止まってくれてありがとうございました」

 

「何が」

 

「夜です。御柱の奥に行きかけた時」

 

「ああ」

 

「行っちゃうかと思いました」

 

「行かねぇよ」

 

「……丈くん、たまに行っちゃいそうなんです」

 

「どこに」

 

「わかりません」

 

「またか」

 

「でも、そう見えるんです」

 

 早苗は境内の奥を見る。

 

「山とか、神様とか、そういう方に」

 

「……」

 

「私は、そっちも大事だと思います」

 

 風が吹く。

 早苗の髪が揺れる。

 

「でも、丈くんには、こっちにもいてほしいです」

 

「こっち?」

 

「私がいる方です」

 

「……」

 

 また。

 そういうことを普通に言う。

 丈は本当に困る。

 

「お前なぁ」

 

「はい?」

 

「……いや」

 

「また!」

 

「便利なんだよ」

 

「便利禁止です!」

 

 ぽん。

 

 叩かれる。

 

「はいはい」

 

「軽い!」

 

 その時。

 遠くの山で、低い声がした。

 昨日より遠い。

 昼よりも遠い。

 けれど、まだ聞こえる。

 

 早苗が少しだけ肩を震わせた。

 

「まだいますね」

 

「ああ」

 

「でも、来ませんね」

 

「そうだな」

 

「……なんででしょう」

 

 丈は答えられなかった。

 

 ただ。

 ポケットの御守りが、少しだけ温かくなった気がした。

 

『理由がなくなったんじゃない?』

 

 頭の奥で声がする。

 

『少なくとも、今はね』

 

「……理由」

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

「また」

 

「なんでもない」

 

 早苗はじっと見た。

 だが、それ以上は聞かなかった。

 

   ◇

 

 日が沈む頃。

 神楽殿の方から、鈴の音がした。

 からん。

 風もないのに。

 丈と早苗は顔を見合わせる。

 

「今の」

 

「聞こえました」

 

「行くなって言われてる?」

 

「わかりません」

 

「見に行く?」

 

「だめです」

 

「即答」

 

「昨日、お父さんが行くなって言いました」

 

「真面目だな」

 

「怖いので!」

 

「正直」

 

 しかし。

 鈴の音はもう一度鳴った。

 

 からん。

 

 からん。

 

 誘うように。

 いや。

 

 呼んでいるわけではない。

 ただ、そこにある。

 そんな音。

 

 丈は立ち上がる。

 

「丈くん」

 

「近くまでは行かねぇよ」

 

「本当ですか?」

 

「本当」

 

「じゃあ、私も行きます」

 

「怖いんだろ」

 

「怖いです」

 

「じゃあ待ってろよ」

 

「嫌です」

 

「なんで」

 

「丈くんを一人にしたくないので」

 

「……」

 

 困る。

 本当に。

 でも。

 

「じゃあ、そこまでな」

 

「はい」

 

 二人で境内を歩く。

 神楽殿の前。

 夕闇の中。

 鈴は揺れていない。

 

 けれど、音だけが残っている気がした。

 御柱の奥は暗い。

 その暗さが、昨日より少し柔らかい。

 そう感じた。

 

 丈は足を止める。

 早苗も止まる。

 

 何も起きない。

 ただ、風が吹く。

 草が揺れる。

 御柱が、ぎし、と鳴る。

 丈の足元に、また冷たい気配が触れた。

 

 昨日と同じ。

 土の下から。

 石の奥から。

 木の根の間から。

 何かが上がってくる。

 

 けれど。

 昨日よりも静かだった。

 問われているような感じもない。

 ただ。

 いる。

 

「……」

 

 丈は逃げなかった。

 早苗が袖を掴む。

 

 でも、止めなかった。

 彼女もただ、そこにいた。

 冷たい気配が、丈の足元を通り過ぎる。

 

 そして、山の方へ流れていった。

 

 その瞬間。

 遠くで、あの声がした。

 

 猿のような。

 人のような。

 名もない声。

 

 だが。

 今回は、こちらへ向かってこなかった。

 むしろ。

 何かに引かれるように、遠ざかっていく。

 

 山の奥へ。

 さらに奥へ。

 

 赤い目の気配が、すっと薄くなった。

 

「……あ」

 

 早苗が小さく声を漏らす。

 

「丈くん」

 

「ああ」

 

「遠くなりました」

 

「……そうだな」

 

 消えたわけではない。

 それはわかる。

 まだ山にいる。

 どこかにいる。

 

 けれど。

 もう、こちらを追ってはいない。

 少なくとも今は。

 丈は息を吐いた。

 体から、力が抜ける。

 

 その時。

 

『よかったじゃん』

 

 頭の奥で、声がした。

 

 いつもの軽い声。

 

『一件落着、ってやつ?』

 

「……」

 

『まあ、消えたわけじゃないけどね』

 

「……」

 

『名前、つけなかったのは正解だったかもね』

 

 丈は目を細める。

 

 名前。

 猿。

 猿の神。

 廃寺。

 

 あの時、早苗が止めてくれた言葉。

 丈はその意味を、まだよくわかっていない。

 

 でも。

 たぶん、大事だった。

 

「丈くん?」

 

「いや」

 

「また“いや”です」

 

「便利だからな」

 

「便利禁止です」

 

 早苗は言った。

 でも、声は少し柔らかかった。

 

「……終わったんでしょうか」

 

「さあ」

 

「さあ、ですか」

 

「わかんねぇよ」

 

「でも、少し楽になりました」

 

「俺も」

 

「丈くんも?」

 

「ああ」

 

 早苗はほっとしたように笑った。

 

「よかったです」

 

「お前、ずっと怖がってたしな」

 

「丈くんもです」

 

「俺もか」

 

「はい。顔に出てました」

 

「出てねぇよ」

 

「出てました」

 

「出てない」

 

「出てました!」

 

 いつものやり取り。

 それができるだけで、少しだけ普通に戻った気がした。

 

   ◇

 

 夜。

 

 早苗の父親が戻ってきた。

 境内の空気を見て、少しだけ頷いた。

 何かを聞くことはなかった。

 ただ。

 

「今日はよく眠れるかもしれないね」

 

 そう言った。

 

 晩飯はカレーだった。

 なぜか大量にあった。

 

「神社でカレーって、普通なのか?」

 

「普通です!」

 

「本当か?」

 

「おいしいので普通です!」

 

「基準が雑」

 

 早苗は大盛りを食べていた。

 

「お前、よく食うな」

 

「健康ですから!」

 

「見事なまでにそれだな」

 

「丈くんも食べてください!」

 

「食ってる」

 

「もっと!」

 

「育てる気か」

 

「育ち盛りです!」

 

「お前もな」

 

 早苗の父親が笑う。

 

「二人とも、今日は頑張ったからね」

 

「俺、そんな頑張りました?」

 

「頑張ったよ」

 

「何を」

 

「逃げなかった」

 

 その言葉に、丈は少し黙る。

 早苗も黙った。

 

「でも、無理もしなかった」

 

 父親は続ける。

 

「それでいい」

 

「……」

 

「山のものは、山へ戻った。今はそれでいい」

 

「消えたわけじゃないんですね」

 

「山にあるものは、簡単には消えないよ」

 

「怖いですね」

 

「怖いね」

 

 父親は素直に頷いた。

 

「でも、怖いものと、悪いものは違う」

 

 早苗が小さく笑う。

 

「私もそう言いました」

 

「そうだったね」

 

 丈はカレーを食べる。

 少し辛い。

 

 でも、うまい。

 普通の味。

 普通の夜。

 普通が一番強い。

 

 それを、少しだけ信じてもいい気がした。

 

   ◇

 

 その夜。

 丈は布団に入っても、なかなか眠れなかった。

 昨日よりは静かだった。

 山の声も遠い。

 赤い目の気配もない。

 

 けれど。

 神社の夜は、やっぱり深い。

 風鈴が鳴る。

 

 ちりん。

 

 ちりん。

 

 遠くで虫が鳴く。

 時々、木々がざわめく。

 丈は枕元の御守りを見る。

 白い布。

 今日は、それほど熱くない。

 落ち着いている。

 そんな感じ。

 

『寝ないの?』

 

 頭の奥で声がした。

 

「……出た」

 

『出たって何さ』

 

「急に喋るなよ」

 

『君が起きてるからでしょ』

 

「理不尽」

 

『理不尽なのはお互いさまじゃない?』

 

「意味わかんねぇ」

 

『わかんなくていいよ』

 

 いつもの声。

 軽い。

 だるそう。

 

 それでも、昨日より少しだけ穏やかに聞こえた。

 

「山のもの、もう来ないのか」

 

『さあねぇ』

 

「さあかよ」

 

『今は来ないんじゃない?』

 

「今は」

 

『ずっとなんて、誰にも言えないよ』

 

「不安になる言い方すんな」

 

『事実だし』

 

 丈は天井を見る。

 古い木目。

 暗い部屋。

 

「でも、遠くなった」

 

『うん』

 

「なんで」

 

 少し間。

 

『会ったからじゃない?』

 

「誰に」

 

『さあ』

 

「またそれ」

 

『名前は大事だからねぇ』

 

「便利だな、その言い方」

 

『君も“いや”ばっかり言うじゃん』

 

「それは便利だから」

 

『こっちも便利なの』

 

「真似すんな」

 

 声がくすっと笑った。

 丈はため息を吐く。

 

「……まあ」

 

『ん?』

 

「助かった、のかはわかんねぇけど」

 

『うん』

 

「ありがとな」

 

 また、少し間が空いた。

 

『……別に』

 

 声は短かった。

 いつもの軽さが戻りきっていない。

 

 けれど、丈は気づかない。

 眠くなってきていた。

 

「お前さ」

 

『何』

 

「結局、誰なんだよ」

 

『まだそれ聞く?』

 

「聞くだろ」

 

『まだ見えないでしょ』

 

「見えねぇな」

 

『じゃあ、まだいいよ』

 

「意味わかんねぇ」

 

『わかんなくていいって』

 

「そればっかだな」

 

『便利だから』

 

「俺の真似すんなって」

 

 丈は目を閉じる。

 声はしばらく黙っていた。

 

 その沈黙は、嫌ではなかった。

 

 むしろ。

 少し落ち着いた。

 

「……別に」

 

『ん?』

 

「お前のことも、嫌いじゃない」

 

 昨日と同じように。

 ふと、口から出た。

 別に深い意味はなかった。

 

 山のものとは違う。

 御柱の奥の気配とも違う。

 怖くないわけではない。

 でも、嫌ではない。

 

 ただ、それだけ。

 その瞬間。

 声が止まった。

 ぴたりと。

 

 風鈴だけが鳴る。

 

 ちりん。

 

 ちりん。

 

「……?」

 

 丈は薄く目を開ける。

 

「おい」

 

 返事はない。

 

「また黙った」

 

 返事はない。

 

「変なやつ」

 

 丈は小さく呟いた。

 けれど、眠気が勝った。

 それ以上考えられなかった。

 遠くの山で、何かが鳴いた。

 昨日より、さらに遠く。

 もうこちらを探してはいない声。

 

 丈は目を閉じた。

 夏休みの二日目。

 守矢神社の夜。

 山のものは、まだ山にいる。

 消えたわけではない。

 名前を得たわけでもない。

 

 ただ。

 今は、丈を追う理由をなくしていた。

 そして。

 早苗はまだ、見つかっていない。

 そのことを、丈は知らない。

 山の奥で何がほどけたのかも。

 何が残ったのかも。

 まだ、何も知らない。

 

 ただ。

 明日の朝もきっと、早苗が起こしに来るのだろうと思った。

 

 それだけは、悪くないと思った。

 

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