第七話「夏休み②」
朝。
蝉の声で目が覚めた。
知らない天井。
畳の匂い。
薄い布団。
窓の外では、木々が揺れている。
丈はしばらく、ぼんやり天井を見ていた。
「……どこだっけ」
寝ぼけた頭で呟く。
少しして思い出した。
守矢神社。
東風谷の家。
夏休みのお泊まり。
そして。
昨夜のこと。
御柱の奥。
暗闇の向こう。
土の下から立ち上ってきた、冷たい気配。
蛇のような。
縄のような。
影のような。
怖かった。
でも。
嫌ではなかった。
丈は枕元を見る。
白い御守りが置いてある。
手に取ると、少しだけ温かかった。
「……」
山のもの。
赤い目。
猿みたいな影。
それはまだ、消えていない。
そう思う。
けれど。
昨夜から少しだけ、何かが変わった気がした。
遠くなった。
そんな感じがする。
障子の向こうから、足音が聞こえた。
たたたた。
軽い足音。
嫌な予感がした。
「丈くーん!」
襖が少しだけ開く。
「起きてますか!」
「起きてる」
「おはようございます!」
「朝から声でけぇ……」
「健康ですから!」
「便利だな、それ」
早苗が顔を出した。
寝癖はない。
もう着替えている。
朝からやたら元気だった。
「丈くん、ちゃんと眠れました?」
「まあ」
「本当に?」
「お前、毎朝それ聞くな」
「毎朝心配してるんです」
「母親か」
「違います!」
早苗はむぅ、と頬を膨らませる。
それから、部屋の中をちらりと見た。
「夜中、外に出ませんでした?」
「出てねぇよ」
「本当に?」
「約束しただろ」
「……はい」
少しだけ安心したような顔。
昨日の夜。
行かないでください。
そう言った早苗の声を、丈は思い出す。
「丈くん」
「ん?」
「朝ごはんできてます」
「おう」
「あと、神社の朝は早いです」
「嫌な予感しかしねぇ」
「掃除があります!」
「やっぱり」
「健康的ですよ!」
「お前の健康、労働と直結してない?」
「神社ですから!」
「意味わからん」
早苗は楽しそうに笑った。
その顔を見て、丈は少しだけ目を逸らした。
泊まりに来てくれて、ありがとうございます。
昨夜の言葉が、まだ妙に残っていた。
◇
朝の境内は、白かった。
霧が薄く残っていた。
木々の間から差す光が、まだ柔らかい。
昼間の暑さが嘘みたいに、空気は涼しかった。
早苗の父親はすでに境内を掃いていた。
「おはよう、丈くん」
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「まあ、はい」
「それはよかった」
穏やかな声。
だが、丈を見る目はどこか静かだった。
昨日のことを知っている。
たぶん。
丈が何かを拒まなかったことも。
何かが遠ざかったことも。
全部ではなくても、わかっている。
そんな気がした。
「じゃあ、朝の掃除をしようか」
「はい」
「丈くん、こっちです!」
早苗が竹箒を渡してくる。
「昨日もやったぞ」
「今日もやります!」
「神社って大変だな」
「大変ですよ?」
「なんで嬉しそうなんだよ」
「丈くんと一緒なので!」
「……」
また、普通に言う。
困る。
「何ですか?」
「いや」
「また“いや”です」
「便利だからな」
「便利禁止です!」
ぽん、と早苗が肩を叩く。
「痛くないけど、もう癖になってるだろ」
「あっ」
早苗が自分の手を見る。
「……確認です」
「何の」
「丈くんがちゃんといるかの」
「昨日もいたろ」
「今日も確認です」
「毎日更新制なのかよ」
「はい!」
早苗は真面目に頷いた。
丈はため息を吐く。
けれど。
嫌ではなかった。
境内を掃く。
落ち葉を集める。
石段の端に溜まった土を払う。
早朝の神社は静かだった。
静かすぎて、自分の箒の音がよく聞こえる。
さっ。
さっ。
さっ。
風が吹く。
御柱が少し軋む。
ぎし。
丈は思わずそちらを見る。
「丈くん?」
「……いや」
御柱の奥。
昨夜、何かがいた場所。
今は明るい。
ただの木々。
ただの土。
なのに。
そこに何かがいることだけは、わかった。
怖い。
でも。
昨日ほど近くはない。
遠くから、ただ見ている。
そんな感じ。
『おはよ』
頭の奥で声がした。
軽い声。
いつもの声。
『ちゃんと寝たんだ。えらいえらい』
「……」
丈は無視した。
『無視? ひどいなぁ』
「……」
『ま、いいけど』
声はすぐに途切れた。
昨日の夜みたいな沈黙はなかった。
いつも通り。
からかうだけからかって、勝手に消える。
丈はそれを、普通に流した。
◇
朝飯は、焼き魚と味噌汁だった。
白いご飯。
漬物。
卵焼き。
縁側ではなく、今日は座敷で食べた。
「丈くん、ご飯おかわりします?」
「まだ食ってる途中だろ」
「先に聞いておこうと思って」
「食わせる気満々だな」
「育ち盛りですから!」
「お前も同い年だろ」
「私はもうおかわりしました!」
「早ぇよ」
見ると、早苗の茶碗はもう空だった。
「朝からよく食うな」
「健康ですから!」
「全部それで押すな」
早苗の父親が笑う。
「丈くんも、遠慮しなくていいからね」
「ありがとうございます」
「昨日より顔色がいい」
「そうですか?」
「はい! 私もそう思います!」
早苗が即座に言う。
「丈くん、昨日よりちゃんとしています」
「俺は昨日なんだったんだよ」
「ぼんやりしてました」
「いつもだろ」
「いつもよりです!」
「失礼なやつだな」
早苗は笑う。
丈も少しだけ笑った。
昨日より、空気が軽い。
山の視線はある。
気配もある。
でも。
追われている感じは薄くなっていた。
早苗の父親が味噌汁を置く。
「今日は、少し奥の方の掃除をしようか」
「奥?」
丈が聞く。
「神楽殿の裏あたりまでだよ」
「御柱の奥は?」
思わず聞いた。
早苗が少し固まる。
父親は静かに首を振った。
「今日はまだ行かない」
「まだ?」
「そういう場所もある」
「……」
「近づく日と、近づかない日がある。人の都合だけでは決めない」
丈は黙る。
早苗も黙っていた。
「山のものも、そうだ」
父親は続ける。
「追い払えば済むというものではない。こちらが近づきすぎれば、向こうも近づく」
「でも、向こうから来ました」
「そうだね」
「じゃあどうすれば」
「境目を思い出させる」
「境目……」
「ここまで。そこから先。入っていいところ。いけないところ」
父親は穏やかに言った。
「昨日、少しだけ、それが戻ったのかもしれない」
「昨日?」
「丈くんは、怖がりながらも逃げなかっただろう」
「……」
「拒まなかった」
その言葉に、丈は少しだけ胸がざわついた。
拒まなかった。
昨夜、頭の奥の声もそう言った。
ミジャグジ。
早苗がそう呼んだかもしれないもの。
姿の決まらないもの。
怖いけれど、悪いとは限らないもの。
「それがいいことなんですか?」
丈が聞く。
父親は少し考えた。
「少なくとも、悪いことではないと思う」
「はっきりしないですね」
「はっきりさせすぎると、間違えることもあるからね」
「またそれだ」
「大事なことだよ」
父親は少し笑った。
「名前も、形も、意味も。急いで決めない」
丈は頷いた。
わかったような。
わからないような。
そんな感じだった。
◇
午前中は、神楽殿の裏を掃除した。
普段はあまり人が入らないらしく、落ち葉が多い。
木の根が地面を盛り上げている。
日陰は涼しい。
けれど、湿っていた。
「うわ、蚊いる」
「丈くん、刺されてます?」
「たぶん」
「大変です!」
「大げさだな」
「かゆいのは大変ですよ!」
「そこかよ」
早苗は鞄から虫除けを取り出した。
「準備いいな」
「神社の子ですから!」
「便利な肩書き」
「はい、腕出してください」
「自分でやる」
「私がやります!」
「なんで」
「塗り残しがあると困るので!」
「お前ほんと世話焼くな」
「丈くんが抜けてるからです」
「ひでぇ」
早苗が虫除けを塗る。
真剣な顔。
妙に近い。
「……近ぇ」
「あっ」
慌てて離れる。
「す、すみません」
「もう慣れた」
「慣れないでください!」
「どっちだよ」
丈が呆れると、早苗は恥ずかしそうに笑った。
神楽殿の裏。
木々の間から、御柱の奥が少しだけ見えた。
昨日の夜と同じ場所。
明るいのに、そこだけ暗い。
丈は箒を止める。
「……」
何かがいる。
それはわかる。
でも。
怖さの質が違う。
山のものは、見てくる。
探してくる。
近づいてくる。
けれど、奥にいるものは違う。
動かない。
そこにある。
まるで、山そのものみたいに。
「丈くん」
早苗の声。
「行きませんよ」
「行かねぇよ」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ、確認です」
ぽん。
肩を叩かれる。
「確認って便利だな」
「便利です」
「使い方覚えたな」
「覚えました!」
得意げだった。
その時。
遠くの山で、何かが鳴いた。
猿のような声。
人のような声。
前より遠い。
けれど、まだいる。
早苗がびくっと肩を揺らす。
「今の……」
「ああ」
「遠いですね」
「そうだな」
「昨日より」
「……そうだな」
早苗は少し安心したように息を吐いた。
だが。
丈は山を見る。
遠い。
でも。
消えたわけではない。
そこにいる。
ただ、追ってこないだけ。
『まだいるよ』
頭の奥で声がした。
『でも、今日は来ないんじゃない?』
「……」
『たぶんね』
「たぶんかよ」
思わず小さく呟いた。
「丈くん?」
「いや」
「今、何か言いました?」
「何でもない」
「またです」
「便利だからな」
「便利禁止です!」
早苗がぷんすか怒る。
それを見て、丈は少しだけ笑った。
◇
昼前。
早苗の父親に頼まれて、古い水場まで行くことになった。
神社の裏手。
山へ少し入ったところにある、小さな湧き水。
ただし、御柱の奥とは別の道だと言われた。
「危なくないんですか?」
丈が聞く。
「今日は大丈夫だよ」
「今日は」
「山は毎日同じじゃないからね」
「怖い言い方するなぁ……」
早苗は水筒を持っていた。
「丈くん、滑らないでくださいね」
「お前がな」
「私は神社の子です!」
「昨日転びかけたろ」
「あれは段差が悪いです」
「今日は何が悪くなるんだ」
「石とか?」
「先に言うな」
山道を歩く。
木陰。
湿った土。
虫の声。
足元には、木の根が張っている。
鳥居の内側とは違う。
少しだけ空気が深い。
けれど。
怖くはなかった。
少なくとも、前みたいに追われる感じはない。
しばらく歩くと、水の音が聞こえてきた。
ちょろちょろと。
小さな音。
木々の間に、石で囲まれた水場があった。
水は澄んでいる。
冷たそうだった。
「ここです」
早苗が少し得意げに言う。
「へぇ」
「昔からあるんですよ」
「飲めるの?」
「たぶん」
「たぶん多いな」
「お父さんは飲んでます」
「なら大丈夫か」
「丈くん、疑い深いですね」
「命は大事だからな」
「私の台詞です!」
早苗が笑う。
丈はしゃがんで、水に触れた。
冷たい。
思ったよりずっと。
指先から腕へ、冷たさが上がってくる。
「うわ、冷てぇ」
「でしょう?」
「お前が作ったみたいに言うな」
「神社の水なので!」
「だから便利だなそれ」
丈は水を掬ってみる。
透明な水。
光を受けて、手の中で揺れる。
その時。
ふと。
水面に、何かが映った気がした。
細いもの。
蛇のような。
縄のような。
でも次の瞬間には、もう何もなかった。
「……」
「丈くん?」
「いや」
丈は水から手を離す。
怖くはなかった。
ただ。
見られた気がした。
遠くからではなく。
足元から。
土地そのものから。
「早苗」
「はい?」
「ミジャグジ様って、水にもいるのか?」
早苗は少し驚いた顔をした。
「どうでしょう」
「知らない?」
「はい。でも、石とか木とか土地とか……そういう場所にいるなら、水の近くにいても変じゃないと思います」
「ふーん」
「どうしました?」
「なんでもない」
「またです」
「今回は本当になんでもない」
「信じてません」
「ひでぇ」
早苗は水筒に水を汲む。
丈はもう一度、水場を見る。
冷たい。
静か。
底が見えるのに、深さがわからない。
そんな水だった。
その時。
山の奥から、また声がした。
遠く。
猿のような。
人のような。
だが。
水場の気配がふっと濃くなると、その声は途切れた。
「……」
丈は息を止める。
早苗は気付いていない。
いや。
気付いていないように見える。
水面が少し揺れた。
風もないのに。
それはまるで。
ここから先へ来るな。
そう言っているようだった。
◇
昼飯の後。
丈と早苗は宿題をすることになった。
座敷。
低い机。
扇風機。
外では蝉。
夏休みらしい光景だった。
「なんで神社に来てまで宿題……」
「普通が一番強いんです!」
「昨日の話を都合よく使うな」
「使えるものは使います!」
「たくましいな」
算数のドリルを開く。
国語のプリント。
漢字練習。
あまり楽しくない。
だが、早苗は妙にやる気だった。
「丈くん、そこ違います」
「え?」
「計算」
「マジか」
「ここで繰り上がり忘れてます」
「うわ本当だ」
「ふふん」
「なんで得意げなんだよ」
「教えられました!」
「嬉しいのか」
「嬉しいです!」
早苗は本当に嬉しそうだった。
教えるのが楽しいらしい。
丈は少しだけ呆れる。
けれど。
悪くない。
「丈くん、国語は得意ですか?」
「普通」
「感想文とか」
「嫌い」
「私もです」
「お前は好きそうなのに」
「思ったことを書けって言われると、何を書いたらいいかわからなくなります」
「あー」
「神様の話を書いたら怒られますし」
「そりゃな」
「納得された!?」
「いや、読書感想文で神奈子さまの感想書かれても先生困るだろ」
「たしかに……」
早苗は真剣に納得していた。
「お前、本当に書こうとしたことあるのか?」
「あります」
「あるのかよ」
「一年生の時に」
「先生なんて言った?」
「本の感想を書きましょうって」
「正論だな」
早苗は少し恥ずかしそうに笑った。
丈も笑う。
扇風機が首を振る。
畳の匂い。
鉛筆の音。
外の蝉。
普通。
本当に普通だった。
昨日、早苗の父親が言っていた。
普通が一番強い。
その意味が、少しだけわかった気がした。
山のものは遠い。
ミシャグジの気配も、今は静か。
そして早苗は、隣で漢字を書いている。
それだけで、世界はずいぶんこちら側に戻る。
◇
夕方。
早苗の父親が、少し出かけると言った。
氏子の家に用事があるらしい。
「境内から出なければ大丈夫だよ」
「山には行くなってことですね」
丈が言う。
「そういうこと」
「俺、そんな信用ないですか」
「あるよ」
父親は笑う。
「だから、早苗を頼む」
「えっ」
丈と早苗の声が重なった。
「お父さん!?」
「いや、俺に頼まれても」
「二人とも、危ないことはしないように」
「雑にまとめられた……」
父親は笑って出ていった。
夕方の境内。
丈と早苗だけ。
いや。
正確には、他にも何かはいる。
いるのだろう。
でも、見えない。
だから二人だけみたいだった。
「……頼まれましたね」
早苗が言う。
「頼まれても困る」
「丈くん、私を守ってくれるんですか?」
「言い方」
「どうなんです?」
「危なかったらな」
「危なくなかったら?」
「自分で歩け」
「ひどい!」
「普通だろ」
早苗は笑う。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「でも昨日、止まってくれてありがとうございました」
「何が」
「夜です。御柱の奥に行きかけた時」
「ああ」
「行っちゃうかと思いました」
「行かねぇよ」
「……丈くん、たまに行っちゃいそうなんです」
「どこに」
「わかりません」
「またか」
「でも、そう見えるんです」
早苗は境内の奥を見る。
「山とか、神様とか、そういう方に」
「……」
「私は、そっちも大事だと思います」
風が吹く。
早苗の髪が揺れる。
「でも、丈くんには、こっちにもいてほしいです」
「こっち?」
「私がいる方です」
「……」
また。
そういうことを普通に言う。
丈は本当に困る。
「お前なぁ」
「はい?」
「……いや」
「また!」
「便利なんだよ」
「便利禁止です!」
ぽん。
叩かれる。
「はいはい」
「軽い!」
その時。
遠くの山で、低い声がした。
昨日より遠い。
昼よりも遠い。
けれど、まだ聞こえる。
早苗が少しだけ肩を震わせた。
「まだいますね」
「ああ」
「でも、来ませんね」
「そうだな」
「……なんででしょう」
丈は答えられなかった。
ただ。
ポケットの御守りが、少しだけ温かくなった気がした。
『理由がなくなったんじゃない?』
頭の奥で声がする。
『少なくとも、今はね』
「……理由」
「丈くん?」
「いや」
「また」
「なんでもない」
早苗はじっと見た。
だが、それ以上は聞かなかった。
◇
日が沈む頃。
神楽殿の方から、鈴の音がした。
からん。
風もないのに。
丈と早苗は顔を見合わせる。
「今の」
「聞こえました」
「行くなって言われてる?」
「わかりません」
「見に行く?」
「だめです」
「即答」
「昨日、お父さんが行くなって言いました」
「真面目だな」
「怖いので!」
「正直」
しかし。
鈴の音はもう一度鳴った。
からん。
からん。
誘うように。
いや。
呼んでいるわけではない。
ただ、そこにある。
そんな音。
丈は立ち上がる。
「丈くん」
「近くまでは行かねぇよ」
「本当ですか?」
「本当」
「じゃあ、私も行きます」
「怖いんだろ」
「怖いです」
「じゃあ待ってろよ」
「嫌です」
「なんで」
「丈くんを一人にしたくないので」
「……」
困る。
本当に。
でも。
「じゃあ、そこまでな」
「はい」
二人で境内を歩く。
神楽殿の前。
夕闇の中。
鈴は揺れていない。
けれど、音だけが残っている気がした。
御柱の奥は暗い。
その暗さが、昨日より少し柔らかい。
そう感じた。
丈は足を止める。
早苗も止まる。
何も起きない。
ただ、風が吹く。
草が揺れる。
御柱が、ぎし、と鳴る。
丈の足元に、また冷たい気配が触れた。
昨日と同じ。
土の下から。
石の奥から。
木の根の間から。
何かが上がってくる。
けれど。
昨日よりも静かだった。
問われているような感じもない。
ただ。
いる。
「……」
丈は逃げなかった。
早苗が袖を掴む。
でも、止めなかった。
彼女もただ、そこにいた。
冷たい気配が、丈の足元を通り過ぎる。
そして、山の方へ流れていった。
その瞬間。
遠くで、あの声がした。
猿のような。
人のような。
名もない声。
だが。
今回は、こちらへ向かってこなかった。
むしろ。
何かに引かれるように、遠ざかっていく。
山の奥へ。
さらに奥へ。
赤い目の気配が、すっと薄くなった。
「……あ」
早苗が小さく声を漏らす。
「丈くん」
「ああ」
「遠くなりました」
「……そうだな」
消えたわけではない。
それはわかる。
まだ山にいる。
どこかにいる。
けれど。
もう、こちらを追ってはいない。
少なくとも今は。
丈は息を吐いた。
体から、力が抜ける。
その時。
『よかったじゃん』
頭の奥で、声がした。
いつもの軽い声。
『一件落着、ってやつ?』
「……」
『まあ、消えたわけじゃないけどね』
「……」
『名前、つけなかったのは正解だったかもね』
丈は目を細める。
名前。
猿。
猿の神。
廃寺。
あの時、早苗が止めてくれた言葉。
丈はその意味を、まだよくわかっていない。
でも。
たぶん、大事だった。
「丈くん?」
「いや」
「また“いや”です」
「便利だからな」
「便利禁止です」
早苗は言った。
でも、声は少し柔らかかった。
「……終わったんでしょうか」
「さあ」
「さあ、ですか」
「わかんねぇよ」
「でも、少し楽になりました」
「俺も」
「丈くんも?」
「ああ」
早苗はほっとしたように笑った。
「よかったです」
「お前、ずっと怖がってたしな」
「丈くんもです」
「俺もか」
「はい。顔に出てました」
「出てねぇよ」
「出てました」
「出てない」
「出てました!」
いつものやり取り。
それができるだけで、少しだけ普通に戻った気がした。
◇
夜。
早苗の父親が戻ってきた。
境内の空気を見て、少しだけ頷いた。
何かを聞くことはなかった。
ただ。
「今日はよく眠れるかもしれないね」
そう言った。
晩飯はカレーだった。
なぜか大量にあった。
「神社でカレーって、普通なのか?」
「普通です!」
「本当か?」
「おいしいので普通です!」
「基準が雑」
早苗は大盛りを食べていた。
「お前、よく食うな」
「健康ですから!」
「見事なまでにそれだな」
「丈くんも食べてください!」
「食ってる」
「もっと!」
「育てる気か」
「育ち盛りです!」
「お前もな」
早苗の父親が笑う。
「二人とも、今日は頑張ったからね」
「俺、そんな頑張りました?」
「頑張ったよ」
「何を」
「逃げなかった」
その言葉に、丈は少し黙る。
早苗も黙った。
「でも、無理もしなかった」
父親は続ける。
「それでいい」
「……」
「山のものは、山へ戻った。今はそれでいい」
「消えたわけじゃないんですね」
「山にあるものは、簡単には消えないよ」
「怖いですね」
「怖いね」
父親は素直に頷いた。
「でも、怖いものと、悪いものは違う」
早苗が小さく笑う。
「私もそう言いました」
「そうだったね」
丈はカレーを食べる。
少し辛い。
でも、うまい。
普通の味。
普通の夜。
普通が一番強い。
それを、少しだけ信じてもいい気がした。
◇
その夜。
丈は布団に入っても、なかなか眠れなかった。
昨日よりは静かだった。
山の声も遠い。
赤い目の気配もない。
けれど。
神社の夜は、やっぱり深い。
風鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
遠くで虫が鳴く。
時々、木々がざわめく。
丈は枕元の御守りを見る。
白い布。
今日は、それほど熱くない。
落ち着いている。
そんな感じ。
『寝ないの?』
頭の奥で声がした。
「……出た」
『出たって何さ』
「急に喋るなよ」
『君が起きてるからでしょ』
「理不尽」
『理不尽なのはお互いさまじゃない?』
「意味わかんねぇ」
『わかんなくていいよ』
いつもの声。
軽い。
だるそう。
それでも、昨日より少しだけ穏やかに聞こえた。
「山のもの、もう来ないのか」
『さあねぇ』
「さあかよ」
『今は来ないんじゃない?』
「今は」
『ずっとなんて、誰にも言えないよ』
「不安になる言い方すんな」
『事実だし』
丈は天井を見る。
古い木目。
暗い部屋。
「でも、遠くなった」
『うん』
「なんで」
少し間。
『会ったからじゃない?』
「誰に」
『さあ』
「またそれ」
『名前は大事だからねぇ』
「便利だな、その言い方」
『君も“いや”ばっかり言うじゃん』
「それは便利だから」
『こっちも便利なの』
「真似すんな」
声がくすっと笑った。
丈はため息を吐く。
「……まあ」
『ん?』
「助かった、のかはわかんねぇけど」
『うん』
「ありがとな」
また、少し間が空いた。
『……別に』
声は短かった。
いつもの軽さが戻りきっていない。
けれど、丈は気づかない。
眠くなってきていた。
「お前さ」
『何』
「結局、誰なんだよ」
『まだそれ聞く?』
「聞くだろ」
『まだ見えないでしょ』
「見えねぇな」
『じゃあ、まだいいよ』
「意味わかんねぇ」
『わかんなくていいって』
「そればっかだな」
『便利だから』
「俺の真似すんなって」
丈は目を閉じる。
声はしばらく黙っていた。
その沈黙は、嫌ではなかった。
むしろ。
少し落ち着いた。
「……別に」
『ん?』
「お前のことも、嫌いじゃない」
昨日と同じように。
ふと、口から出た。
別に深い意味はなかった。
山のものとは違う。
御柱の奥の気配とも違う。
怖くないわけではない。
でも、嫌ではない。
ただ、それだけ。
その瞬間。
声が止まった。
ぴたりと。
風鈴だけが鳴る。
ちりん。
ちりん。
「……?」
丈は薄く目を開ける。
「おい」
返事はない。
「また黙った」
返事はない。
「変なやつ」
丈は小さく呟いた。
けれど、眠気が勝った。
それ以上考えられなかった。
遠くの山で、何かが鳴いた。
昨日より、さらに遠く。
もうこちらを探してはいない声。
丈は目を閉じた。
夏休みの二日目。
守矢神社の夜。
山のものは、まだ山にいる。
消えたわけではない。
名前を得たわけでもない。
ただ。
今は、丈を追う理由をなくしていた。
そして。
早苗はまだ、見つかっていない。
そのことを、丈は知らない。
山の奥で何がほどけたのかも。
何が残ったのかも。
まだ、何も知らない。
ただ。
明日の朝もきっと、早苗が起こしに来るのだろうと思った。
それだけは、悪くないと思った。