第八話「丈くん」
丈くんが諏訪に来てから、少し経った。
最初は、転校生だった。
東京から来た子。
少し眠そうで。
少し口が悪くて。
あまり笑わなくて。
でも、変なことを言っても笑わない子。
それが、早苗の最初の印象だった。
それから。
旧校舎へ行った。
こっくりさんをした。
山のものを見た。
神社に泊まりに来た。
いろいろあった。
本当に、いろいろあった。
けれど。
夏休みが半分ほど過ぎる頃には。
丈くんが隣にいることは、少しずつ普通になっていた。
◇
朝。
蝉が鳴いている。
窓の外では、山が青く霞んでいた。
早苗は布団から起き上がる。
「……暑いです」
誰に言うでもなく呟く。
夏の神社は、朝が早い。
そして。
意外と忙しい。
掃除。
水やり。
社務所の片付け。
お札の整理。
氏子さんへの挨拶。
神社の子供は、夏休みだからといって、だらだら寝ていられない。
……寝ていたいけれど。
「早苗ー、起きてるかい?」
「起きてますー」
父の声に返事をする。
着替えて、顔を洗って、髪を整える。
鏡を見る。
いつもの自分。
東風谷早苗。
神社の子。
風祝。
学校では、少し変な子。
そう思われていることは、知っている。
知っているけれど。
どうすればいいのか、まだよくわからない。
神様の話をしないようにすればいいのか。
見えるものを、見えないふりすればいいのか。
怖いものを、気のせいにすればいいのか。
でも。
それは、嘘になる。
だから困る。
「……丈くんは」
そこで、早苗は口を閉じた。
何を言おうとしたのか、自分でもよくわからなかった。
丈くんは。
笑わない。
自分が神様の話をしても。
旧校舎で女の子を見ても。
山のものを見ても。
怖がりはする。
文句も言う。
でも。
笑わない。
それが、少し嬉しい。
少しだけ。
いや。
かなり。
「早苗ー?」
「あ、はい!」
早苗は慌てて部屋を出た。
◇
朝の境内は、涼しかった。
石段に落ちた葉を掃く。
さっ。
さっ。
箒の音が響く。
御柱は朝の光を受けて、静かに立っている。
怖い。
けれど、嫌ではない。
丈くんは、そう言った。
あの時。
ミジャグジ様かもしれない何かを感じても、逃げなかった。
怖いと言った。
でも、嫌ではないと言った。
早苗には、それが不思議だった。
普通、怖いものは嫌だ。
早苗だって怖いものは嫌だ。
旧校舎も嫌だった。
こっくりさんも嫌だった。
山のものなんて、今でも思い出すと背中が寒くなる。
でも。
神社の怖さは、少し違う。
その違いを、丈くんは何となくわかっている気がした。
まだ、よくわかっていない顔をしながら。
何となく、わかっている。
それが少し、ずるい。
「早苗、そこ残ってる」
ふいに声がした。
振り返ると、縁側に諏訪子さまが座っていた。
帽子を少し傾けて、足をぶらぶらさせている。
朝から当たり前のような顔をしている。
もちろん、当たり前だ。
早苗にとっては。
「あ、本当です」
早苗は石段の隅を見る。
葉っぱが数枚、残っていた。
「ありがとうございます、諏訪子さま」
「はいはい」
諏訪子さまは退屈そうにあくびをした。
「朝から元気だねぇ、早苗は」
「健康ですから!」
「最近それ、あの子にうつってない?」
「丈くんですか?」
「他に誰がいるのさ」
諏訪子さまは頬杖をつく。
その顔は、いつものように面白がっているようで。
少しだけ、そうでもないようにも見えた。
「丈くんは健康じゃないです。顔色悪いですし」
「毎日見てるみたいな言い方」
「見てます!」
言ってから、早苗は固まった。
諏訪子さまが、にやっと笑う。
「へぇ」
「あ、いえ、その、登校の時とか! 席も近いですし!」
「ふーん」
「違いますから!」
「何も言ってないじゃん」
「言いそうでした!」
「言おうとはした」
「やっぱり!」
諏訪子さまはけらけら笑った。
早苗は頬を膨らませる。
その時。
拝殿の方から、低い声がした。
「掃除中に騒ぐな」
神奈子さまだった。
腕を組み、少し呆れたようにこちらを見ている。
背が高くて、朝の光を受けると、いつもよりさらに大きく見える。
「神奈子さま、おはようございます」
「ああ」
「おはよー、神奈子」
「お前も少しは手伝え」
「私は監督役」
「邪魔役の間違いだろう」
「ひどいなぁ」
諏訪子さまはまったく悪びれない。
早苗はそのやり取りを見て、少し笑った。
神様がいる。
話しかけてくる。
茶々を入れてくる。
怒られる。
それは、早苗の日常だった。
学校では言わない。
言っても信じてもらえないし、困らせるから。
でも、ここでは普通。
早苗にとっては、朝の掃除の一部みたいなものだった。
「早苗」
神奈子さまが言う。
「今日、学校へ行くのか」
「はい。図書室に本を借りに行きます」
「宿題か」
「はい」
「進んでいるのか」
「……半分くらいです」
「少ないな」
「うっ」
神奈子さまは容赦がない。
諏訪子さまが横から笑う。
「丈も半分くらいじゃなかった?」
「なんで知ってるんですか」
「さあねぇ」
「またそれです」
「便利だからね」
早苗はむぅ、とする。
丈くんもよく「いや」と言う。
諏訪子さまもよく「さあ」と言う。
少し似ている。
そう思った。
言ったら、たぶん諏訪子さまは嫌な顔をする。
だから、言わなかった。
◇
夏休みでも、学校へ行く日がある。
プール開放。
図書室の貸し出し。
宿題の相談。
早苗はその日、図書室へ向かっていた。
本を借りるため。
というのは半分本当で。
もう半分は。
丈くんが来るかもしれないと思ったからだった。
「……別に、待ってるわけじゃないです」
学校への坂道を歩きながら呟く。
誰も聞いていない。
だから、言ってもいい。
「宿題の本を借りるだけです」
蝉が鳴いている。
アスファルトが暑い。
学校は夏休みなのに、いつもより静かだった。
校庭には、数人の子供がいる。
プールの方から、水の音と笑い声が聞こえる。
図書室へ向かう途中。
廊下の窓から、山が見えた。
あの山。
旧校舎の向こうにあった山。
山のものがいた山。
早苗は少しだけ足を止めた。
あれから、山のものは近くまで来ていない。
消えたわけではない。
そう思う。
でも、今は遠い。
なぜ遠くなったのか、早苗にはよくわからない。
丈くんが神社に来たから。
御柱の奥の何かに会ったから。
拒まなかったから。
たぶん、そういうことなのだと思う。
けれど。
丈くんは、何も知らない。
早苗も、全部は知らない。
それでも。
とりあえず今は、静かだった。
「東風谷?」
「ひゃっ」
後ろから声をかけられて、早苗は跳ねた。
振り返ると、丈くんが立っていた。
半袖。
短パン。
手には図書室の本。
相変わらず眠そうな顔。
「な、なんですか丈くん!」
「いや、こっちの台詞だろ」
「急に声かけないでください!」
「普通に呼んだだけだろ」
「びっくりしたんです!」
「お前、怪異より人間に驚いてないか?」
「どっちも驚きます!」
「忙しいな」
丈くんは呆れた顔をした。
けれど、少し笑っていた。
「丈くん、何しに来たんですか?」
「本返しに」
「宿題ですか?」
「読書感想文」
「えっ、もう読んだんですか?」
「読んだだけ」
「感想文は?」
「まだ」
「だめじゃないですか!」
「お前は?」
「私はこれから本を借ります」
「もっとだめじゃねぇか」
「うっ」
言い返せない。
丈くんは少し笑った。
「で、何借りるんだよ」
「悩んでます」
「神様の本以外にしろよ」
「なぜ先に言うんですか!?」
「言いそうだから」
「言いません!」
「本当か?」
「……ちょっとだけ候補でした」
「ほら」
「うぅ……」
早苗は唇を尖らせる。
図書室へ入る。
夏休みの図書室は、少しだけ埃っぽい。
窓が開いていて、風がカーテンを揺らしている。
数人の生徒が本を読んでいた。
「静かにしてくださいね」
「お前がな」
「私は静かです!」
「今、割と声でかかったぞ」
「あっ」
早苗は慌てて口を押さえた。
丈くんはまた少し笑う。
そういう笑い方を、最近よく見る。
最初の頃より。
少しだけ増えた。
◇
本棚の前で、早苗は悩んでいた。
「うーん……」
「長い」
「大事な選択なんです」
「感想文の本だろ」
「感想文は戦いです!」
「大げさ」
「丈くんは何で書くんですか?」
「これ」
丈くんが本を見せる。
冒険物だった。
「意外と普通ですね」
「普通でいいだろ」
「丈くんなら、もっと変な本を選ぶかと」
「俺の評価どうなってんだよ」
「ちょっと変な人です」
「お前にだけは言われたくない」
「私は普通です!」
「どこが」
「巫女としては普通です!」
「範囲狭いな」
早苗は本を手に取る。
昔話の本。
諏訪の伝承が少し載っている。
でも、丈くんに言われた通り、これで感想文を書くのは先生が困るかもしれない。
早苗は悩んだ。
「……丈くん」
「ん?」
「先生に怒られない本って何ですか?」
「そこからかよ」
「真剣です!」
「じゃあ、物語にしとけよ」
「物語」
「主人公がいて、事件が起きて、なんか頑張って終わるやつ」
「説明が雑です」
「読む方は楽だろ」
「たしかに」
早苗は一冊の本を取る。
少年と犬の話だった。
「これにします」
「早いな」
「丈くんの説明で決まりました」
「俺の説明、役に立ったのか」
「はい!」
「複雑だな」
その時、由香ちゃんが図書室へ入ってきた。
「あ、早苗ちゃん。丈もいる」
「おう」
「こんにちは」
由香ちゃんは二人を見て、にやっと笑う。
「夏休みも一緒なんだ」
「た、たまたまです!」
「へぇー」
「本当にたまたまです!」
「丈は?」
「たまたま」
「息ぴったりじゃん」
「違います!」
早苗の声が少し大きくなる。
図書室の先生に「静かに」と言われた。
「す、すみません……」
早苗は小さくなる。
丈くんは肩を震わせていた。
「笑いましたね」
「ちょっと」
「ひどいです」
「お前、反応がでかいんだよ」
「だって……」
恥ずかしい。
でも。
嫌ではなかった。
からかわれるのは困る。
けれど。
丈くんと一緒にいることを、みんなが自然に思っている。
それは。
少しだけ、嬉しい。
由香ちゃんが本棚を見ながら言う。
「浩介たち、また川行くって言ってたよ」
「浩介くん、元気ですねぇ」
「健太も祐一も行くって」
「夏休みですね」
「早苗ちゃんは?」
「私は今日は本を借りて、宿題です」
「真面目」
「終わってないだけです……」
「丈は?」
「帰る」
「即答」
「暑いし」
「男子って雑だよね」
「一括りにすんな」
丈くんはそう言ったけれど。
たぶん、由香ちゃんの名前はまだ覚えていない。
早苗はそれに、なんとなく気づいていた。
丈くんは、早苗の名前は呼ぶ。
けれど、他の子のことは大抵「男子」とか「女子」とか「あいつら」と言う。
浩介くんのことも、健太くんのことも、祐一くんのことも。
由香ちゃんや美咲ちゃんのことも。
はっきり名前で呼んだところを、早苗はまだ見たことがなかった。
それが少し不思議だった。
まだ丈くんにとって、この町も、この学校も、どこか外側なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ寂しい。
でも。
その中で、自分の名前だけはちゃんと呼ぶ。
そう思うと。
少しだけ。
本当に少しだけ。
嬉しかった。
◇
図書室を出た後、二人で昇降口へ向かった。
「丈くん、この後どうします?」
「帰る」
「早い」
「暑いし」
「健康的じゃありません」
「暑い中うろうろする方が不健康だろ」
「それはそうです」
「認めるのかよ」
靴を履き替える。
外に出ると、夏の光が眩しかった。
校庭では、プール帰りの子たちが騒いでいる。
「東風谷ー!」
浩介くんの声。
「今日、川行かね?」
「今日は無理です!」
「なんで?」
「本を借りたので!」
「理由になってる?」
「なってます!」
浩介くんは丈くんを見る。
「丈は?」
「帰る」
「お前らほんと省エネだなー」
「お前が元気すぎるんだよ」
「夏休みだぞ?」
「夏休みでも暑いもんは暑い」
「じじいか」
「うるせぇ」
浩介くんは笑って走っていった。
その後ろ姿を見ながら、早苗は少し笑った。
「みんな元気ですねぇ」
「お前も大概だろ」
「私は健康ですから!」
「出た」
「便利です!」
二人で坂道を歩く。
夏の午後。
蝉の声。
遠くに山。
風はあまりない。
それなのに、丈くんと歩いていると、少しだけ暑さが気にならなかった。
「丈くん」
「ん?」
「夏休み、楽しいですか?」
「まあ」
「“まあ”ですか」
「じゃあ、そこそこ」
「変わってません」
「お前は?」
「楽しいです」
「即答」
「はい」
早苗は頷く。
「丈くんが来てから、なんか色々ありますし」
「色々ありすぎだろ」
「大変ですけど」
「大変だよな」
「でも、退屈ではないです」
「それはそう」
二人で笑う。
山の方から、風が吹いた。
少しだけ涼しい。
早苗は山を見た。
今日は赤い目は見えない。
山のものの気配も、遠い。
静かだった。
「……平和ですね」
「急だな」
「いえ、なんとなく」
「平和が一番だろ」
「そうですね」
本当に。
平和が一番だ。
でも。
早苗は知っている。
平和は、何もしなくても続くものではない。
怖いものは、消えたわけではない。
ただ、今は遠くにいる。
神様も、妖怪も、山のものも。
ずっとそこにいる。
それでも。
今日みたいな日がある。
丈くんと本を借りて。
同級生にからかわれて。
坂道を一緒に帰る。
そういう日が。
早苗は、それが嬉しかった。
◇
その日の夕方。
早苗は守矢神社に戻った。
境内では、神奈子さまが御柱の方を見ていた。
諏訪子さまは、その近くの石に座っている。
二人とも、早苗には普通に見える。
夕方の神社に、当たり前のようにいる。
蝉の声。
風の音。
神様の気配。
それが、早苗の日常だった。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
神奈子さまが言う。
「本は借りられたか」
「はい。少年と犬の本です」
「神の本ではないのか」
「丈くんに止められました」
「賢明だな」
「神奈子さままで!」
諏訪子さまが笑う。
「丈、たまには役に立つじゃん」
「たまにはって、ひどくないですか?」
「ひどくないひどくない」
「絶対ひどいです」
早苗はむぅ、とする。
諏訪子さまはいつものように笑っていた。
でも、丈くんの名前を出す時だけ、少しだけ声が軽すぎる。
早苗には、それが少し不思議だった。
「早苗」
神奈子さまが言う。
「山はどうだった」
「静かでした」
「そうか」
「赤い目も見えませんでした」
「ならいい」
「でも、いなくなったわけではないですよね」
神奈子さまは頷く。
「山にあるものは、山にある」
「はい」
「近づかないなら、それでいい」
諏訪子さまは石の上で足を揺らしている。
「早苗、まだ怖い?」
「怖いです」
「正直だねぇ」
「怖いものは怖いです」
「丈と同じこと言う」
「えっ」
早苗は少し驚く。
「そうでしたっけ」
「言ってたじゃん」
「……そうですね」
思い出す。
丈くんは、怖いものは怖いと言った。
でも、嫌ではないとも言った。
「丈くん、変ですよね」
「変だねぇ」
諏訪子さまは即答した。
「でも」
早苗は言う。
「悪い人じゃないです」
「……」
諏訪子さまは少しだけ黙った。
ほんの少し。
早苗が気づくか気づかないかくらい。
それから、いつもの調子に戻る。
「そりゃそうでしょ。早苗が連れてくるんだし」
「私、そんな人を見る目ありますか?」
「あるんじゃない?」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶんですか」
早苗は困ったように笑う。
神奈子さまは、何も言わずに山を見ていた。
◇
数日後。
学校の登校日があった。
宿題の進み具合の確認。
夏休み中なのに、なぜか教室に集められる日。
みんな、少し日に焼けていた。
「宿題やった?」
「やってない!」
「俺も!」
「終わったやついる?」
「東風谷は終わってそう」
「終わってません!」
「えっ」
「早苗ちゃんでも?」
「終わってません!」
なぜか少し胸を張る。
丈くんが横で呆れた顔をした。
「威張ることじゃないだろ」
「まだ半分あります!」
「多いな」
「丈くんは?」
「半分くらい」
「同じじゃないですか!」
「俺は威張ってない」
「むぅ」
教室が笑う。
先生が入ってきて、みんなが席に着く。
早苗は自分の席から、ちらりと丈くんを見る。
丈くんは窓際で、ぼんやり外を見ていた。
また山を見ている。
そう思った。
少しだけ、胸がもやっとする。
前ほどではない。
でも、まだ。
丈くんは時々、自分の知らない方を見ている。
神社に泊まってから、少しだけ安心した。
山のものも遠くなった。
でも。
丈くんの中に何かが増えたような気がする。
何かを見た。
何かを知った。
でも言わない。
それが少しだけ、不満だった。
だから。
休み時間。
早苗は丈くんの席へ行った。
「丈くん」
「ん?」
「肩、出してください」
「なんで」
「確認です」
「またか」
「はい」
「学校でもやるのかよ」
「やります」
「何を確認するんだ」
「丈くんがこっちにいるかです」
「いるだろ」
「確認です」
ぽん。
軽く肩を叩く。
丈くんはため息を吐いた。
「お前、それ癖になってるだろ」
「なってません」
「なってる」
「なってません」
「今もやっただろ」
「確認です!」
教室の女子たちがこちらを見て、にやにやしている。
「またやってる」
美咲ちゃんが笑った。
「早苗ちゃんの確認」
由香ちゃんも笑う。
「丈、叩かれ慣れてる」
「慣れてねぇよ」
丈くんが言う。
でも、たぶん慣れている。
早苗はそれが少し面白かった。
「丈くん」
「今度は何」
「嫌ですか?」
「何が」
「確認」
丈くんは少し考えた。
「痛くなければ別に」
「じゃあ、します」
「宣言すんな」
「はい」
ぽん。
「今するな」
「確認です」
「もういいよそれ」
丈くんは呆れている。
でも、本気で嫌がってはいない。
それがわかる。
だから、早苗は少し安心する。
たぶん。
これも、日常になっていく。
◇
登校日の帰り。
何人かで途中まで一緒に帰った。
浩介くん。
由香ちゃん。
健太くん。
祐一くん。
それから早苗と丈くん。
「夏休み後半、何する?」
浩介くんが言う。
「花火!」
健太くんが言う。
「川!」
祐一くんが言う。
「宿題」
由香ちゃんが言う。
「現実やめろって!」
いつもの会話。
いつもの騒がしさ。
けれど。
以前と少し違うことがある。
早苗の隣に、丈くんがいることを、誰も不思議がらなくなった。
最初は、からかわれた。
また東風谷といる。
転校生、東風谷に捕まった。
そんな感じだった。
でも今は。
丈くんが早苗の隣にいても。
早苗が丈くんに話しかけても。
みんな、普通に受け取る。
「丈、そっち持って」
浩介くんが言う。
「何を」
「俺の荷物」
「持つか」
「ケチ!」
「自分で持て」
「東風谷ー、丈が冷たい!」
「丈くんはだいたい冷たいです」
「おい」
「でも本当は優しいです」
「おい」
みんなが笑う。
丈くんは少し嫌そうな顔をする。
でも、否定しきれていない。
早苗はそれを見て、少し嬉しくなる。
丈くんの優しさは、わかりにくい。
言葉ではあまり言わない。
むしろ、言葉は雑だ。
でも。
怖い時には前に出る。
転びそうになったら手を掴む。
無理に聞かない。
笑わない。
そういうところに、ちゃんとある。
早苗は、それを知っている。
みんなは、たぶんまだ半分くらいしか知らない。
少しだけ、得意な気分になる。
「早苗ちゃん、なんか嬉しそう」
由香ちゃんが言った。
「えっ」
「今、にやってしてた」
「してません!」
「してたよね?」
「してた」
丈くんまで言う。
「丈くん!?」
「いや事実だし」
「うぅ……」
早苗は顔が熱くなる。
「なんで嬉しそうだったの?」
「べ、別に」
「丈のこと考えてた?」
「違います!」
声が大きくなる。
みんなが笑う。
丈くんは、少し目を逸らしていた。
「違いますから!」
「はいはい」
「本当です!」
「早苗ちゃん、反応がわかりやすい」
「うぅ……」
恥ずかしい。
でも。
やっぱり嫌ではなかった。
◇
途中でみんなと別れて、いつもの道になった。
早苗と丈くんだけ。
山へ続く道。
蝉の声。
夏の匂い。
遠くの空に、白い雲。
山のものの気配は遠い。
最近、少しずつそう感じるようになった。
いないわけではない。
でも
追ってこない。
それだけで、道はずいぶん明るく見えた。
「丈くん」
「ん?」
「みんな、普通になりましたね」
「何が」
「私たちが一緒にいることです」
「……そうか?」
「そうです」
「まあ、よくいるからな」
「はい」
「……」
「……」
少しだけ沈黙。
風が吹く。
早苗は、少し勇気を出して聞いた。
「丈くんは、嫌ですか?」
「何が」
「私と一緒にいるの」
言ってから、少し後悔した。
変な質問だ。
重いかもしれない。
丈くんは困るかもしれない。
でも。
聞いてしまった。
丈くんは少しだけ考えた。
そして。
「嫌だったら、いないだろ」
いつもの調子で言った。
「……」
早苗は黙る。
心臓が、少しだけ跳ねた。
「どうした?」
「いえ」
「変な顔」
「変な顔してません!」
「してる」
「してません!」
早苗は慌てて前を向く。
顔が熱い。
たぶん赤い。
見られたくない。
「丈くん」
「ん?」
「そういうこと、さらっと言うの、ずるいです」
「何が」
「わからないならいいです!」
「なんで怒ってんだよ」
「怒ってません!」
「怒ってるだろ」
「怒ってません!」
ぽん。
肩を叩く。
「また確認か」
「違います」
「じゃあ何」
「……照れ隠しです」
「言うのかよ」
「言いました!」
早苗はさらに顔が熱くなった。
でも。
丈くんが少し笑ったので。
まあいいか、と思った。
◇
家に帰ると、父が社務所の前にいた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「丈くんも一緒だったのかい」
「お邪魔します」
丈くんが答える。
「宿題は進んでる?」
「半分くらいです」
「早苗も半分くらいらしいね」
「お父さん!」
「計画的にね」
「はい……」
早苗は少し小さくなる。
丈くんが横で笑っていた。
「笑いましたね」
「ちょっとな」
「ひどいです」
「お前、神社ではちゃんとしてるのに宿題は普通なんだな」
「普通が一番強いんです!」
「それ絶対使い方違うだろ」
父が笑う。
「でも、普通の日が続くのはいいことだよ」
その声は、少しだけ静かだった。
早苗は父を見る。
父は山を見ていた。
山は、夏の光を受けて静かに揺れている。
遠く。
本当に遠く。
何かが鳴いた気がした。
早苗は、少しだけ肩を強張らせる。
でも。
それは近づいてこなかった。
丈くんも山を見ている。
けれど、表情は前ほど硬くない。
「……遠いですね」
早苗が小さく言う。
丈くんは頷いた。
「ああ」
父は何も言わない。
ただ、穏やかに笑っていた。
丈くんが帰ったあと。
境内の奥から、諏訪子さまがひょこっと顔を出した。
「相変わらずだねぇ」
「何がですか」
「確認」
「見てたんですか!?」
「見えるところにいたし」
「見ないでください!」
「無理でしょ、ここうちだし」
諏訪子さまは笑う。
その横に、いつの間にか神奈子さまもいた。
「早苗」
「はい」
「最近、楽しそうだな」
「えっ」
「いいことだ」
神奈子さまはそれだけ言った。
早苗は少し照れる。
「そう、でしょうか」
「そうだよ」
諏訪子さまが言う。
「わかりやすいもん」
「うぅ……」
「でも、浮かれすぎると転ぶよ」
「もう転びかけました」
「知ってる」
「やっぱり見てたんですか!」
「神様だからねぇ」
「便利に使わないでください!」
諏訪子さまは笑う。
神奈子さまは山を見ていた。
「早苗」
「はい」
「あれはまだ山にいる」
「……はい」
「だが、今は遠い」
「はい」
「その遠さを、大事にしなさい」
早苗は頷く。
「わかりました」
「怖いものを忘れるな。だが、怖いものだけを見るな」
その言葉は、父の言葉に似ていた。
普通が一番強い。
今の生活。
宿題。
学校。
同級生。
丈くん。
そういうもの。
「はい」
早苗はもう一度頷いた。
諏訪子さまが、軽く手を振る。
「ま、宿題も忘れないようにね」
「諏訪子さままで!」
「現実は強いから」
「うぅ……」
神様たちの会話も。
宿題の催促も。
山の気配も。
丈くんのことも。
全部、早苗の日常だった。
◇
その夜。
早苗は部屋で日記を書いていた。
夏休みの宿題。
一日分くらい忘れてもいいのではないかと思うけれど。
忘れると後で大変なので書く。
机に向かう。
鉛筆を持つ。
日記帳を開く。
『今日は登校日でした。図書室で丈くんに会いました』
そこまで書いて、手が止まる。
丈くん。
書いてから、少し恥ずかしくなる。
でも、消さない。
『丈くんは読書感想文の本をもう読んでいました。でも感想文はまだ書いていませんでした。私もまだです』
これは事実。
『由香ちゃんに、夏休みも一緒なんだと言われました』
また手が止まる。
どう書けばいいのかわからない。
嬉しかった。
恥ずかしかった。
困った。
でも、嫌ではなかった。
全部を書いたら、日記が変になる。
だから。
『少し恥ずかしかったです』
そう書いた。
しばらく考えて、もう一文足す。
『でも、少し嬉しかったです』
書いてから、早苗は顔を伏せた。
「……何を書いてるんですか私は」
誰も見ていない。
それでも恥ずかしい。
窓の外では、虫が鳴いている。
山は暗い。
でも、怖くはなかった。
いや。
少し怖い。
でも。
怖いものがいるから、ここが嫌いというわけではない。
自分で言った言葉を思い出す。
丈くんは、それを聞いていた。
ちゃんと。
多分。
聞いていた。
早苗は日記の最後に書く。
『最近、丈くんが隣にいるのが、普通になってきました』
そして。
少し迷ってから。
『普通なのが、嬉しいです』
そう書いた。
その時。
窓の外から声がした。
「書けた?」
「ひゃっ!?」
諏訪子さまだった。
窓の外に、当たり前のように座っている。
「す、諏訪子さま! 日記を覗かないでください!」
「覗いてないよ。声かけただけ」
「本当ですか?」
「うん」
「本当に?」
「ちょっとだけね」
「覗いてるじゃないですか!」
早苗は日記を抱える。
諏訪子さまはけらけら笑った。
「いいじゃん。普通が嬉しいって」
「読んでる!」
「いい言葉だと思うよ」
「うぅ……」
早苗は顔を赤くする。
「丈くんには絶対言わないでください」
「言わないよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんはだめです!」
「はいはい。言わない言わない」
諏訪子さまは窓枠に頬杖をついた。
「早苗」
「はい?」
「普通、大事にしなよ」
「……はい」
「普通って、ある時は本当にあるけど、ない時は全然ないから」
その言い方が、少しだけ静かだった。
早苗は、日記を抱えたまま頷いた。
「はい。大事にします」
「うん」
諏訪子さまは笑った。
いつもの笑顔だった。
でも。
ほんの少しだけ、遠い顔をしていた。
◇
夏休みは続く。
宿題も続く。
神社の手伝いも続く。
丈くんとの日常も、続いていく。
朝、学校へ行く日には、坂道で待つ。
「丈くーん!」
「朝から元気だな」
「健康ですから!」
「はいはい」
そういう会話をする。
昼には、みんなで宿題の進み具合を話す。
由香ちゃんにからかわれる。
浩介くんが無茶を言う。
健太くんが乗る。
祐一くんが変な話を足す。
丈くんが突っ込む。
早苗が怒る。
美咲ちゃんが笑う。
みんなが笑う。
丈くんは、まだみんなの名前をあまり呼ばない。
男子。女子。
あいつら。
そういう言い方をする。
でも、みんなはもうそれを気にしない。
丈くんも、前よりは教室に馴染んでいる。
早苗には、そう見える。
放課後には、二人で帰る。
山を見る。
時々、怖くなる。
でも、前ほどではない。
丈くんが隣にいる。
それが普通になる。
クラスの中でも。
神社でも。
早苗の中でも。
丈くんは、少しずつ。
転校生ではなくなっていく。
東京から来た子ではなくなっていく。
変なものに巻き込まれる子でもなくなっていく。
ただ。
隣にいる人になる。
それが。
早苗には、とても不思議だった。
そして。
少し怖かった。
普通になったものは、なくなると痛い。
たぶん。
とても痛い。
でも、今の早苗はまだ、それを知らない。
だから。
笑っていられる。
丈くんの肩をぽんと叩いて。
「確認です!」
「またかよ」
そう言われて。
嬉しくなって。
また、夏の道を歩いていく。
山の向こうで、風が吹いた。
守矢神社の鈴が、小さく鳴った気がした。
からん。
けれど。
それは不吉な音ではなかった。
少なくとも、今は。
早苗はそう思った。
夏休みは、まだ終わらない。
日常は、まだ続いている。
丈くんが来てからの日常は。
少し不思議で。
少し怖くて。
でも。
とても、あたたかかった。