現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第八話「丈くん」

第八話「丈くん」

 

 丈くんが諏訪に来てから、少し経った。

 

 最初は、転校生だった。

 東京から来た子。

 少し眠そうで。

 少し口が悪くて。

 あまり笑わなくて。

 でも、変なことを言っても笑わない子。

 それが、早苗の最初の印象だった。

 

 それから。

 旧校舎へ行った。

 こっくりさんをした。

 山のものを見た。

 神社に泊まりに来た。

 いろいろあった。

 

 本当に、いろいろあった。

 

 けれど。

 夏休みが半分ほど過ぎる頃には。

 丈くんが隣にいることは、少しずつ普通になっていた。

 

   ◇

 

 朝。

 

 蝉が鳴いている。

 窓の外では、山が青く霞んでいた。

 早苗は布団から起き上がる。

 

「……暑いです」

 

 誰に言うでもなく呟く。

 夏の神社は、朝が早い。

 そして。

 意外と忙しい。

 掃除。

 水やり。

 社務所の片付け。

 お札の整理。

 氏子さんへの挨拶。

 神社の子供は、夏休みだからといって、だらだら寝ていられない。

 

 ……寝ていたいけれど。

 

「早苗ー、起きてるかい?」

 

「起きてますー」

 

 父の声に返事をする。

 着替えて、顔を洗って、髪を整える。

 鏡を見る。

 いつもの自分。

 

 東風谷早苗。

 神社の子。

 風祝。

 学校では、少し変な子。

 そう思われていることは、知っている。

 

 知っているけれど。

 どうすればいいのか、まだよくわからない。

 

 神様の話をしないようにすればいいのか。

 見えるものを、見えないふりすればいいのか。

 怖いものを、気のせいにすればいいのか。

 

 でも。

 それは、嘘になる。

 だから困る。

 

「……丈くんは」

 

 そこで、早苗は口を閉じた。

 何を言おうとしたのか、自分でもよくわからなかった。

 

 丈くんは。

 笑わない。

 自分が神様の話をしても。

 旧校舎で女の子を見ても。

 山のものを見ても。

 怖がりはする。

 文句も言う。

 

 でも。

 笑わない。

 それが、少し嬉しい。

 

 少しだけ。

 いや。

 かなり。

 

「早苗ー?」

 

「あ、はい!」

 

 早苗は慌てて部屋を出た。

 

   ◇

 

 朝の境内は、涼しかった。

 石段に落ちた葉を掃く。

 さっ。

 さっ。

 

 箒の音が響く。

 

 御柱は朝の光を受けて、静かに立っている。

 

 怖い。

 けれど、嫌ではない。

 丈くんは、そう言った。

 

 あの時。

 ミジャグジ様かもしれない何かを感じても、逃げなかった。

 

 怖いと言った。

 でも、嫌ではないと言った。

 

 早苗には、それが不思議だった。

 普通、怖いものは嫌だ。

 

 早苗だって怖いものは嫌だ。

 旧校舎も嫌だった。

 こっくりさんも嫌だった。

 山のものなんて、今でも思い出すと背中が寒くなる。

 

 でも。

 神社の怖さは、少し違う。

 

 その違いを、丈くんは何となくわかっている気がした。

 

 まだ、よくわかっていない顔をしながら。

 何となく、わかっている。

 それが少し、ずるい。

 

「早苗、そこ残ってる」

 

 ふいに声がした。

 振り返ると、縁側に諏訪子さまが座っていた。

 帽子を少し傾けて、足をぶらぶらさせている。

 

 朝から当たり前のような顔をしている。

 もちろん、当たり前だ。

 早苗にとっては。

 

「あ、本当です」

 

 早苗は石段の隅を見る。

 葉っぱが数枚、残っていた。

 

「ありがとうございます、諏訪子さま」

 

「はいはい」

 

 諏訪子さまは退屈そうにあくびをした。

 

「朝から元気だねぇ、早苗は」

 

「健康ですから!」

 

「最近それ、あの子にうつってない?」

 

「丈くんですか?」

 

「他に誰がいるのさ」

 

 諏訪子さまは頬杖をつく。

 その顔は、いつものように面白がっているようで。

 少しだけ、そうでもないようにも見えた。

 

「丈くんは健康じゃないです。顔色悪いですし」

 

「毎日見てるみたいな言い方」

 

「見てます!」

 

 言ってから、早苗は固まった。

 諏訪子さまが、にやっと笑う。

 

「へぇ」

 

「あ、いえ、その、登校の時とか! 席も近いですし!」

 

「ふーん」

 

「違いますから!」

 

「何も言ってないじゃん」

 

「言いそうでした!」

 

「言おうとはした」

 

「やっぱり!」

 

 諏訪子さまはけらけら笑った。

 早苗は頬を膨らませる。

 

 その時。

 拝殿の方から、低い声がした。

 

「掃除中に騒ぐな」

 

 神奈子さまだった。

 腕を組み、少し呆れたようにこちらを見ている。

 背が高くて、朝の光を受けると、いつもよりさらに大きく見える。

 

「神奈子さま、おはようございます」

 

「ああ」

 

「おはよー、神奈子」

 

「お前も少しは手伝え」

 

「私は監督役」

 

「邪魔役の間違いだろう」

 

「ひどいなぁ」

 

 諏訪子さまはまったく悪びれない。

 早苗はそのやり取りを見て、少し笑った。

 神様がいる。

 話しかけてくる。

 茶々を入れてくる。

 怒られる。

 それは、早苗の日常だった。

 

 学校では言わない。

 言っても信じてもらえないし、困らせるから。

 

 でも、ここでは普通。

 早苗にとっては、朝の掃除の一部みたいなものだった。

 

「早苗」

 

 神奈子さまが言う。

 

「今日、学校へ行くのか」

 

「はい。図書室に本を借りに行きます」

 

「宿題か」

 

「はい」

 

「進んでいるのか」

 

「……半分くらいです」

 

「少ないな」

 

「うっ」

 

 神奈子さまは容赦がない。

 諏訪子さまが横から笑う。

 

「丈も半分くらいじゃなかった?」

 

「なんで知ってるんですか」

 

「さあねぇ」

 

「またそれです」

 

「便利だからね」

 

 早苗はむぅ、とする。

 丈くんもよく「いや」と言う。

 諏訪子さまもよく「さあ」と言う。

 少し似ている。

 そう思った。

 

 言ったら、たぶん諏訪子さまは嫌な顔をする。

 だから、言わなかった。

 

   ◇

 

 夏休みでも、学校へ行く日がある。

 プール開放。

 図書室の貸し出し。

 宿題の相談。

 早苗はその日、図書室へ向かっていた。

 本を借りるため。

 

 というのは半分本当で。

 もう半分は。

 丈くんが来るかもしれないと思ったからだった。

 

「……別に、待ってるわけじゃないです」

 

 学校への坂道を歩きながら呟く。

 誰も聞いていない。

 だから、言ってもいい。

 

「宿題の本を借りるだけです」

 

 蝉が鳴いている。

 アスファルトが暑い。

 学校は夏休みなのに、いつもより静かだった。

 校庭には、数人の子供がいる。

 

 プールの方から、水の音と笑い声が聞こえる。

 図書室へ向かう途中。

 廊下の窓から、山が見えた。

 

 あの山。

 旧校舎の向こうにあった山。

 山のものがいた山。

 

 早苗は少しだけ足を止めた。

 あれから、山のものは近くまで来ていない。

 消えたわけではない。

 そう思う。

 

 でも、今は遠い。

 なぜ遠くなったのか、早苗にはよくわからない。

 丈くんが神社に来たから。

 御柱の奥の何かに会ったから。

 拒まなかったから。

 たぶん、そういうことなのだと思う。

 

 けれど。

 丈くんは、何も知らない。

 早苗も、全部は知らない。

 

 それでも。

 とりあえず今は、静かだった。

 

「東風谷?」

 

「ひゃっ」

 

 後ろから声をかけられて、早苗は跳ねた。

 振り返ると、丈くんが立っていた。

 半袖。

 短パン。

 手には図書室の本。

 相変わらず眠そうな顔。

 

「な、なんですか丈くん!」

 

「いや、こっちの台詞だろ」

 

「急に声かけないでください!」

 

「普通に呼んだだけだろ」

 

「びっくりしたんです!」

 

「お前、怪異より人間に驚いてないか?」

 

「どっちも驚きます!」

 

「忙しいな」

 

 丈くんは呆れた顔をした。

 けれど、少し笑っていた。

 

「丈くん、何しに来たんですか?」

 

「本返しに」

 

「宿題ですか?」

 

「読書感想文」

 

「えっ、もう読んだんですか?」

 

「読んだだけ」

 

「感想文は?」

 

「まだ」

 

「だめじゃないですか!」

 

「お前は?」

 

「私はこれから本を借ります」

 

「もっとだめじゃねぇか」

 

「うっ」

 

 言い返せない。

 丈くんは少し笑った。

 

「で、何借りるんだよ」

 

「悩んでます」

 

「神様の本以外にしろよ」

 

「なぜ先に言うんですか!?」

 

「言いそうだから」

 

「言いません!」

 

「本当か?」

 

「……ちょっとだけ候補でした」

 

「ほら」

 

「うぅ……」

 

 早苗は唇を尖らせる。

 図書室へ入る。

 

 夏休みの図書室は、少しだけ埃っぽい。

 窓が開いていて、風がカーテンを揺らしている。

 数人の生徒が本を読んでいた。

 

「静かにしてくださいね」

 

「お前がな」

 

「私は静かです!」

 

「今、割と声でかかったぞ」

 

「あっ」

 

 早苗は慌てて口を押さえた。

 丈くんはまた少し笑う。

 そういう笑い方を、最近よく見る。

 

 最初の頃より。

 少しだけ増えた。

 

   ◇

 

 本棚の前で、早苗は悩んでいた。

 

「うーん……」

 

「長い」

 

「大事な選択なんです」

 

「感想文の本だろ」

 

「感想文は戦いです!」

 

「大げさ」

 

「丈くんは何で書くんですか?」

 

「これ」

 

 丈くんが本を見せる。

 冒険物だった。

 

「意外と普通ですね」

 

「普通でいいだろ」

 

「丈くんなら、もっと変な本を選ぶかと」

 

「俺の評価どうなってんだよ」

 

「ちょっと変な人です」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

「私は普通です!」

 

「どこが」

 

「巫女としては普通です!」

 

「範囲狭いな」

 

 早苗は本を手に取る。

 昔話の本。

 諏訪の伝承が少し載っている。

 

 でも、丈くんに言われた通り、これで感想文を書くのは先生が困るかもしれない。

 早苗は悩んだ。

 

「……丈くん」

 

「ん?」

 

「先生に怒られない本って何ですか?」

 

「そこからかよ」

 

「真剣です!」

 

「じゃあ、物語にしとけよ」

 

「物語」

 

「主人公がいて、事件が起きて、なんか頑張って終わるやつ」

 

「説明が雑です」

 

「読む方は楽だろ」

 

「たしかに」

 

 早苗は一冊の本を取る。

 少年と犬の話だった。

 

「これにします」

 

「早いな」

 

「丈くんの説明で決まりました」

 

「俺の説明、役に立ったのか」

 

「はい!」

 

「複雑だな」

 

 その時、由香ちゃんが図書室へ入ってきた。

 

「あ、早苗ちゃん。丈もいる」

 

「おう」

 

「こんにちは」

 

 由香ちゃんは二人を見て、にやっと笑う。

 

「夏休みも一緒なんだ」

 

「た、たまたまです!」

 

「へぇー」

 

「本当にたまたまです!」

 

「丈は?」

 

「たまたま」

 

「息ぴったりじゃん」

 

「違います!」

 

 早苗の声が少し大きくなる。

 図書室の先生に「静かに」と言われた。

 

「す、すみません……」

 

 早苗は小さくなる。

 丈くんは肩を震わせていた。

 

「笑いましたね」

 

「ちょっと」

 

「ひどいです」

 

「お前、反応がでかいんだよ」

 

「だって……」

 

 恥ずかしい。

 でも。

 嫌ではなかった。

 からかわれるのは困る。

 

 けれど。

 丈くんと一緒にいることを、みんなが自然に思っている。

 

 それは。

 少しだけ、嬉しい。

 

 由香ちゃんが本棚を見ながら言う。

 

「浩介たち、また川行くって言ってたよ」

 

「浩介くん、元気ですねぇ」

 

「健太も祐一も行くって」

 

「夏休みですね」

 

「早苗ちゃんは?」

 

「私は今日は本を借りて、宿題です」

 

「真面目」

 

「終わってないだけです……」

 

「丈は?」

 

「帰る」

 

「即答」

 

「暑いし」

 

「男子って雑だよね」

 

「一括りにすんな」

 

 丈くんはそう言ったけれど。

 たぶん、由香ちゃんの名前はまだ覚えていない。

 早苗はそれに、なんとなく気づいていた。

 丈くんは、早苗の名前は呼ぶ。

 

 けれど、他の子のことは大抵「男子」とか「女子」とか「あいつら」と言う。

 浩介くんのことも、健太くんのことも、祐一くんのことも。

 由香ちゃんや美咲ちゃんのことも。

 はっきり名前で呼んだところを、早苗はまだ見たことがなかった。

 

 それが少し不思議だった。

 まだ丈くんにとって、この町も、この学校も、どこか外側なのかもしれない。

 そう思うと、少しだけ寂しい。

 

 でも。

 その中で、自分の名前だけはちゃんと呼ぶ。

 そう思うと。

 少しだけ。

 

 本当に少しだけ。

 嬉しかった。

 

   ◇

 

 図書室を出た後、二人で昇降口へ向かった。

 

「丈くん、この後どうします?」

 

「帰る」

 

「早い」

 

「暑いし」

 

「健康的じゃありません」

 

「暑い中うろうろする方が不健康だろ」

 

「それはそうです」

 

「認めるのかよ」

 

 靴を履き替える。

 外に出ると、夏の光が眩しかった。

 校庭では、プール帰りの子たちが騒いでいる。

 

「東風谷ー!」

 

 浩介くんの声。

 

「今日、川行かね?」

 

「今日は無理です!」

 

「なんで?」

 

「本を借りたので!」

 

「理由になってる?」

 

「なってます!」

 

 浩介くんは丈くんを見る。

 

「丈は?」

 

「帰る」

 

「お前らほんと省エネだなー」

 

「お前が元気すぎるんだよ」

 

「夏休みだぞ?」

 

「夏休みでも暑いもんは暑い」

 

「じじいか」

 

「うるせぇ」

 

 浩介くんは笑って走っていった。

 その後ろ姿を見ながら、早苗は少し笑った。

 

「みんな元気ですねぇ」

 

「お前も大概だろ」

 

「私は健康ですから!」

 

「出た」

 

「便利です!」

 

 二人で坂道を歩く。

 夏の午後。

 蝉の声。

 遠くに山。

 風はあまりない。

 それなのに、丈くんと歩いていると、少しだけ暑さが気にならなかった。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「夏休み、楽しいですか?」

 

「まあ」

 

「“まあ”ですか」

 

「じゃあ、そこそこ」

 

「変わってません」

 

「お前は?」

 

「楽しいです」

 

「即答」

 

「はい」

 

 早苗は頷く。

 

「丈くんが来てから、なんか色々ありますし」

 

「色々ありすぎだろ」

 

「大変ですけど」

 

「大変だよな」

 

「でも、退屈ではないです」

 

「それはそう」

 

 二人で笑う。

 

 山の方から、風が吹いた。

 少しだけ涼しい。

 早苗は山を見た。

 今日は赤い目は見えない。

 山のものの気配も、遠い。

 

 静かだった。

 

「……平和ですね」

 

「急だな」

 

「いえ、なんとなく」

 

「平和が一番だろ」

 

「そうですね」

 

 本当に。

 平和が一番だ。

 

 でも。

 早苗は知っている。

 平和は、何もしなくても続くものではない。

 怖いものは、消えたわけではない。

 

 ただ、今は遠くにいる。

 神様も、妖怪も、山のものも。

 ずっとそこにいる。

 

 それでも。

 今日みたいな日がある。

 

 丈くんと本を借りて。

 同級生にからかわれて。

 坂道を一緒に帰る。

 そういう日が。

 

 早苗は、それが嬉しかった。

 

   ◇

 

 その日の夕方。

 

 早苗は守矢神社に戻った。

 境内では、神奈子さまが御柱の方を見ていた。

 諏訪子さまは、その近くの石に座っている。

 

 二人とも、早苗には普通に見える。

 夕方の神社に、当たり前のようにいる。

 

 蝉の声。

 風の音。

 神様の気配。

 それが、早苗の日常だった。

 

「ただいま戻りました」

 

「おかえり」

 

 神奈子さまが言う。

 

「本は借りられたか」

 

「はい。少年と犬の本です」

 

「神の本ではないのか」

 

「丈くんに止められました」

 

「賢明だな」

 

「神奈子さままで!」

 

 諏訪子さまが笑う。

 

「丈、たまには役に立つじゃん」

 

「たまにはって、ひどくないですか?」

 

「ひどくないひどくない」

 

「絶対ひどいです」

 

 早苗はむぅ、とする。

 諏訪子さまはいつものように笑っていた。

 でも、丈くんの名前を出す時だけ、少しだけ声が軽すぎる。

 早苗には、それが少し不思議だった。

 

「早苗」

 

 神奈子さまが言う。

 

「山はどうだった」

 

「静かでした」

 

「そうか」

 

「赤い目も見えませんでした」

 

「ならいい」

 

「でも、いなくなったわけではないですよね」

 

 神奈子さまは頷く。

 

「山にあるものは、山にある」

 

「はい」

 

「近づかないなら、それでいい」

 

 諏訪子さまは石の上で足を揺らしている。

 

「早苗、まだ怖い?」

 

「怖いです」

 

「正直だねぇ」

 

「怖いものは怖いです」

 

「丈と同じこと言う」

 

「えっ」

 

 早苗は少し驚く。

 

「そうでしたっけ」

 

「言ってたじゃん」

 

「……そうですね」

 

 思い出す。

 丈くんは、怖いものは怖いと言った。

 でも、嫌ではないとも言った。

 

「丈くん、変ですよね」

 

「変だねぇ」

 

 諏訪子さまは即答した。

 

「でも」

 

 早苗は言う。

 

「悪い人じゃないです」

 

「……」

 

 諏訪子さまは少しだけ黙った。

 ほんの少し。

 早苗が気づくか気づかないかくらい。

 

 それから、いつもの調子に戻る。

 

「そりゃそうでしょ。早苗が連れてくるんだし」

 

「私、そんな人を見る目ありますか?」

 

「あるんじゃない?」

 

「本当ですか?」

 

「たぶん」

 

「たぶんですか」

 

 早苗は困ったように笑う。

 神奈子さまは、何も言わずに山を見ていた。

 

   ◇

 

 数日後。

 

 学校の登校日があった。

 宿題の進み具合の確認。

 夏休み中なのに、なぜか教室に集められる日。

 みんな、少し日に焼けていた。

 

「宿題やった?」

 

「やってない!」

 

「俺も!」

 

「終わったやついる?」

 

「東風谷は終わってそう」

 

「終わってません!」

 

「えっ」

 

「早苗ちゃんでも?」

 

「終わってません!」

 

 なぜか少し胸を張る。

 丈くんが横で呆れた顔をした。

 

「威張ることじゃないだろ」

 

「まだ半分あります!」

 

「多いな」

 

「丈くんは?」

 

「半分くらい」

 

「同じじゃないですか!」

 

「俺は威張ってない」

 

「むぅ」

 

 教室が笑う。

 先生が入ってきて、みんなが席に着く。

 早苗は自分の席から、ちらりと丈くんを見る。

 

 丈くんは窓際で、ぼんやり外を見ていた。

 また山を見ている。

 そう思った。

 少しだけ、胸がもやっとする。

 前ほどではない。

 

 でも、まだ。

 丈くんは時々、自分の知らない方を見ている。

 神社に泊まってから、少しだけ安心した。

 山のものも遠くなった。

 

 でも。

 丈くんの中に何かが増えたような気がする。

 何かを見た。

 何かを知った。

 

 でも言わない。

 それが少しだけ、不満だった。

 

 だから。

 

 休み時間。

 

 早苗は丈くんの席へ行った。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「肩、出してください」

 

「なんで」

 

「確認です」

 

「またか」

 

「はい」

 

「学校でもやるのかよ」

 

「やります」

 

「何を確認するんだ」

 

「丈くんがこっちにいるかです」

 

「いるだろ」

 

「確認です」

 

 ぽん。

 

 軽く肩を叩く。

 丈くんはため息を吐いた。

 

「お前、それ癖になってるだろ」

 

「なってません」

 

「なってる」

 

「なってません」

 

「今もやっただろ」

 

「確認です!」

 

 教室の女子たちがこちらを見て、にやにやしている。

 

「またやってる」

 

 美咲ちゃんが笑った。

 

「早苗ちゃんの確認」

 

 由香ちゃんも笑う。

 

「丈、叩かれ慣れてる」

 

「慣れてねぇよ」

 

 丈くんが言う。

 でも、たぶん慣れている。

 早苗はそれが少し面白かった。

 

「丈くん」

 

「今度は何」

 

「嫌ですか?」

 

「何が」

 

「確認」

 

 丈くんは少し考えた。

 

「痛くなければ別に」

 

「じゃあ、します」

 

「宣言すんな」

 

「はい」

 

 ぽん。

 

「今するな」

 

「確認です」

 

「もういいよそれ」

 

 丈くんは呆れている。

 でも、本気で嫌がってはいない。

 それがわかる。

 だから、早苗は少し安心する。

 

 たぶん。

 これも、日常になっていく。

 

   ◇

 

 登校日の帰り。

 

 何人かで途中まで一緒に帰った。

 浩介くん。

 由香ちゃん。

 健太くん。

 祐一くん。

 それから早苗と丈くん。

 

「夏休み後半、何する?」

 

 浩介くんが言う。

 

「花火!」

 

 健太くんが言う。

 

「川!」

 

 祐一くんが言う。

 

「宿題」

 

 由香ちゃんが言う。

 

「現実やめろって!」

 

 いつもの会話。

 いつもの騒がしさ。

 

 けれど。

 以前と少し違うことがある。

 早苗の隣に、丈くんがいることを、誰も不思議がらなくなった。

 

 最初は、からかわれた。

 また東風谷といる。

 転校生、東風谷に捕まった。

 そんな感じだった。

 

 でも今は。

 丈くんが早苗の隣にいても。

 早苗が丈くんに話しかけても。

 みんな、普通に受け取る。

 

「丈、そっち持って」

 

 浩介くんが言う。

 

「何を」

 

「俺の荷物」

 

「持つか」

 

「ケチ!」

 

「自分で持て」

 

「東風谷ー、丈が冷たい!」

 

「丈くんはだいたい冷たいです」

 

「おい」

 

「でも本当は優しいです」

 

「おい」

 

 みんなが笑う。

 丈くんは少し嫌そうな顔をする。

 でも、否定しきれていない。

 早苗はそれを見て、少し嬉しくなる。

 丈くんの優しさは、わかりにくい。

 言葉ではあまり言わない。

 むしろ、言葉は雑だ。

 

 でも。

 怖い時には前に出る。

 

 転びそうになったら手を掴む。

 無理に聞かない。

 笑わない。

 そういうところに、ちゃんとある。

 

 早苗は、それを知っている。

 みんなは、たぶんまだ半分くらいしか知らない。

 少しだけ、得意な気分になる。

 

「早苗ちゃん、なんか嬉しそう」

 

 由香ちゃんが言った。

 

「えっ」

 

「今、にやってしてた」

 

「してません!」

 

「してたよね?」

 

「してた」

 

 丈くんまで言う。

 

「丈くん!?」

 

「いや事実だし」

 

「うぅ……」

 

 早苗は顔が熱くなる。

 

「なんで嬉しそうだったの?」

 

「べ、別に」

 

「丈のこと考えてた?」

 

「違います!」

 

 声が大きくなる。

 みんなが笑う。

 丈くんは、少し目を逸らしていた。

 

「違いますから!」

 

「はいはい」

 

「本当です!」

 

「早苗ちゃん、反応がわかりやすい」

 

「うぅ……」

 

 恥ずかしい。

 でも。

 やっぱり嫌ではなかった。

 

   ◇

 

 途中でみんなと別れて、いつもの道になった。

 早苗と丈くんだけ。

 

 山へ続く道。

 蝉の声。

 夏の匂い。

 遠くの空に、白い雲。

 山のものの気配は遠い。

 最近、少しずつそう感じるようになった。

 

 いないわけではない。

 

 でも

 追ってこない。

 それだけで、道はずいぶん明るく見えた。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「みんな、普通になりましたね」

 

「何が」

 

「私たちが一緒にいることです」

 

「……そうか?」

 

「そうです」

 

「まあ、よくいるからな」

 

「はい」

 

「……」

 

「……」

 

 少しだけ沈黙。

 風が吹く。

 早苗は、少し勇気を出して聞いた。

 

「丈くんは、嫌ですか?」

 

「何が」

 

「私と一緒にいるの」

 

 言ってから、少し後悔した。

 変な質問だ。

 重いかもしれない。

 丈くんは困るかもしれない。

 

 でも。

 聞いてしまった。

 丈くんは少しだけ考えた。

 そして。

 

「嫌だったら、いないだろ」

 

 いつもの調子で言った。

 

「……」

 

 早苗は黙る。

 心臓が、少しだけ跳ねた。

 

「どうした?」

 

「いえ」

 

「変な顔」

 

「変な顔してません!」

 

「してる」

 

「してません!」

 

 早苗は慌てて前を向く。

 顔が熱い。

 たぶん赤い。

 見られたくない。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「そういうこと、さらっと言うの、ずるいです」

 

「何が」

 

「わからないならいいです!」

 

「なんで怒ってんだよ」

 

「怒ってません!」

 

「怒ってるだろ」

 

「怒ってません!」

 

 ぽん。

 

 肩を叩く。

 

「また確認か」

 

「違います」

 

「じゃあ何」

 

「……照れ隠しです」

 

「言うのかよ」

 

「言いました!」

 

 早苗はさらに顔が熱くなった。

 でも。

 丈くんが少し笑ったので。

 まあいいか、と思った。

 

   ◇

 

 家に帰ると、父が社務所の前にいた。

 

「おかえり」

 

「ただいま戻りました」

 

「丈くんも一緒だったのかい」

 

「お邪魔します」

 

 丈くんが答える。

 

「宿題は進んでる?」

 

「半分くらいです」

 

「早苗も半分くらいらしいね」

 

「お父さん!」

 

「計画的にね」

 

「はい……」

 

 早苗は少し小さくなる。

 丈くんが横で笑っていた。

 

「笑いましたね」

 

「ちょっとな」

 

「ひどいです」

 

「お前、神社ではちゃんとしてるのに宿題は普通なんだな」

 

「普通が一番強いんです!」

 

「それ絶対使い方違うだろ」

 

 父が笑う。

 

「でも、普通の日が続くのはいいことだよ」

 

 その声は、少しだけ静かだった。

 早苗は父を見る。

 父は山を見ていた。

 山は、夏の光を受けて静かに揺れている。

 

 遠く。

 本当に遠く。

 何かが鳴いた気がした。

 早苗は、少しだけ肩を強張らせる。

 

 でも。

 それは近づいてこなかった。

 丈くんも山を見ている。

 けれど、表情は前ほど硬くない。

 

「……遠いですね」

 

 早苗が小さく言う。

 丈くんは頷いた。

 

「ああ」

 

 父は何も言わない。

 ただ、穏やかに笑っていた。

 

 丈くんが帰ったあと。

 境内の奥から、諏訪子さまがひょこっと顔を出した。

 

「相変わらずだねぇ」

 

「何がですか」

 

「確認」

 

「見てたんですか!?」

 

「見えるところにいたし」

 

「見ないでください!」

 

「無理でしょ、ここうちだし」

 

 諏訪子さまは笑う。

 

 その横に、いつの間にか神奈子さまもいた。

 

「早苗」

 

「はい」

 

「最近、楽しそうだな」

 

「えっ」

 

「いいことだ」

 

 神奈子さまはそれだけ言った。

 早苗は少し照れる。

 

「そう、でしょうか」

 

「そうだよ」

 

 諏訪子さまが言う。

 

「わかりやすいもん」

 

「うぅ……」

 

「でも、浮かれすぎると転ぶよ」

 

「もう転びかけました」

 

「知ってる」

 

「やっぱり見てたんですか!」

 

「神様だからねぇ」

 

「便利に使わないでください!」

 

 諏訪子さまは笑う。

 神奈子さまは山を見ていた。

 

「早苗」

 

「はい」

 

「あれはまだ山にいる」

 

「……はい」

 

「だが、今は遠い」

 

「はい」

 

「その遠さを、大事にしなさい」

 

 早苗は頷く。

 

「わかりました」

 

「怖いものを忘れるな。だが、怖いものだけを見るな」

 

 その言葉は、父の言葉に似ていた。

 普通が一番強い。

 

 今の生活。

 宿題。

 学校。

 同級生。

 丈くん。

 そういうもの。

 

「はい」

 

 早苗はもう一度頷いた。

 諏訪子さまが、軽く手を振る。

 

「ま、宿題も忘れないようにね」

 

「諏訪子さままで!」

 

「現実は強いから」

 

「うぅ……」

 

 神様たちの会話も。

 宿題の催促も。

 山の気配も。

 丈くんのことも。

 全部、早苗の日常だった。

 

   ◇

 

 その夜。

 

 早苗は部屋で日記を書いていた。

 夏休みの宿題。

 一日分くらい忘れてもいいのではないかと思うけれど。

 忘れると後で大変なので書く。

 

 机に向かう。

 鉛筆を持つ。

 日記帳を開く。

 

『今日は登校日でした。図書室で丈くんに会いました』

 

 そこまで書いて、手が止まる。

 丈くん。

 書いてから、少し恥ずかしくなる。

 でも、消さない。

 

『丈くんは読書感想文の本をもう読んでいました。でも感想文はまだ書いていませんでした。私もまだです』

 

 これは事実。

 

『由香ちゃんに、夏休みも一緒なんだと言われました』

 

 また手が止まる。

 どう書けばいいのかわからない。

 

 嬉しかった。

 恥ずかしかった。

 困った。

 

 でも、嫌ではなかった。

 全部を書いたら、日記が変になる。

 

 だから。

 

『少し恥ずかしかったです』

 

 そう書いた。

 しばらく考えて、もう一文足す。

 

『でも、少し嬉しかったです』

 

 書いてから、早苗は顔を伏せた。

 

「……何を書いてるんですか私は」

 

 誰も見ていない。

 それでも恥ずかしい。

 窓の外では、虫が鳴いている。

 山は暗い。

 でも、怖くはなかった。

 

 いや。

 少し怖い。

 

 でも。

 怖いものがいるから、ここが嫌いというわけではない。

 自分で言った言葉を思い出す。

 丈くんは、それを聞いていた。

 

 ちゃんと。

 多分。

 聞いていた。

 

 早苗は日記の最後に書く。

 

『最近、丈くんが隣にいるのが、普通になってきました』

 

 そして。

 少し迷ってから。

 

『普通なのが、嬉しいです』

 

 そう書いた。

 その時。

 窓の外から声がした。

 

「書けた?」

 

「ひゃっ!?」

 

 諏訪子さまだった。

 窓の外に、当たり前のように座っている。

 

「す、諏訪子さま! 日記を覗かないでください!」

 

「覗いてないよ。声かけただけ」

 

「本当ですか?」

 

「うん」

 

「本当に?」

 

「ちょっとだけね」

 

「覗いてるじゃないですか!」

 

 早苗は日記を抱える。

 諏訪子さまはけらけら笑った。

 

「いいじゃん。普通が嬉しいって」

 

「読んでる!」

 

「いい言葉だと思うよ」

 

「うぅ……」

 

 早苗は顔を赤くする。

 

「丈くんには絶対言わないでください」

 

「言わないよ」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「たぶんはだめです!」

 

「はいはい。言わない言わない」

 

 諏訪子さまは窓枠に頬杖をついた。

 

「早苗」

 

「はい?」

 

「普通、大事にしなよ」

 

「……はい」

 

「普通って、ある時は本当にあるけど、ない時は全然ないから」

 

 その言い方が、少しだけ静かだった。

 早苗は、日記を抱えたまま頷いた。

 

「はい。大事にします」

 

「うん」

 

 諏訪子さまは笑った。

 いつもの笑顔だった。

 

 でも。

 ほんの少しだけ、遠い顔をしていた。

 

   ◇

 

 夏休みは続く。

 宿題も続く。

 神社の手伝いも続く。

 

 丈くんとの日常も、続いていく。

 朝、学校へ行く日には、坂道で待つ。

 

「丈くーん!」

 

「朝から元気だな」

 

「健康ですから!」

 

「はいはい」

 

 そういう会話をする。

 昼には、みんなで宿題の進み具合を話す。

 

 由香ちゃんにからかわれる。

 浩介くんが無茶を言う。

 健太くんが乗る。

 祐一くんが変な話を足す。

 丈くんが突っ込む。

 早苗が怒る。

 美咲ちゃんが笑う。

 

 みんなが笑う。

 

 丈くんは、まだみんなの名前をあまり呼ばない。

 男子。女子。

 あいつら。

 そういう言い方をする。

 

 でも、みんなはもうそれを気にしない。

 丈くんも、前よりは教室に馴染んでいる。

 早苗には、そう見える。

 

 放課後には、二人で帰る。

 山を見る。

 時々、怖くなる。

 

 でも、前ほどではない。

 丈くんが隣にいる。

 それが普通になる。

 クラスの中でも。

 神社でも。

 早苗の中でも。

 

 丈くんは、少しずつ。

 転校生ではなくなっていく。

 東京から来た子ではなくなっていく。

 変なものに巻き込まれる子でもなくなっていく。

 

 ただ。

 隣にいる人になる。

 

 それが。

 早苗には、とても不思議だった。

 

 そして。

 少し怖かった。

 普通になったものは、なくなると痛い。

 

 たぶん。

 とても痛い。

 

 でも、今の早苗はまだ、それを知らない。

 

 だから。

 笑っていられる。

 

 丈くんの肩をぽんと叩いて。

 

「確認です!」

 

「またかよ」

 

 そう言われて。

 嬉しくなって。

 また、夏の道を歩いていく。

 山の向こうで、風が吹いた。

 

 守矢神社の鈴が、小さく鳴った気がした。

 

 からん。

 

 けれど。

 それは不吉な音ではなかった。

 少なくとも、今は。

 早苗はそう思った。

 

 夏休みは、まだ終わらない。

 日常は、まだ続いている。

 丈くんが来てからの日常は。

 

 少し不思議で。

 少し怖くて。

 

 でも。

 とても、あたたかかった。

 

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