現人神な幼馴染   作:全肯定逆張りおじさん

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第九話「御柱祭①」

第九話「御柱祭①」

 

 それから、少し時間が流れた。

 

 夏休みが終わった。

 秋が来た。

 冬が来た。

 また春が来て。

 

 丈は、小学六年生になっていた。

 

 諏訪に来たばかりの頃。

 丈にとっての暮らす街は東京だった。

 

 前の学校。

 前の家。

 前の道。

 駅の音。

 人の多さ。

 夜でも明るい街。

 そういうものだった。

 

 けれど。

 今は、あまり思い出さない。

 

 朝、山に霧がかかっていること。

 学校までの坂道。

 用水路の水の音。

 田んぼの匂い。

 

 春先、畦道に小さな花が咲くこと。

 梅雨前になると、山の色が急に濃くなること。

 冬の朝、諏訪湖の向こうが白く霞むこと。

 

 そういうものの方が、もう日常だった。

 道の角にある古い商店の婆さんが、朝は必ず店先を掃いていること。

 

 豆腐屋の親父が、早苗を見ると「お、風祝さん」と冗談めかして言うこと。

 学校の帰り道、犬を連れたおじいさんが、丈にも普通に挨拶してくること。

 

 そういうものも。

 いつの間にか、丈の中に入っていた。

 

 東京の記憶は、遠い。

 嫌いになったわけではない。

 忘れたわけでもない。

 

 ただ。

 今、自分がいる場所は、ここだった。

 諏訪だった。

 

     ◇

 

 春の終わり。

 学校の空気が、いつもと違った。

 新学期の浮つきではない。

 運動会前とも違う。

 もっと大きい。

 

 町全体が、少しずつ熱を持っているような感じだった。

 

「今年、御柱だぞ!」

 

 朝の教室で、男子が叫んだ。

 

「知ってる!」

 

「うちの父ちゃん、準備行ってる!」

 

「俺んちも!」

 

「うち、じいちゃんが朝からそれしか言わない」

 

 女子が少し呆れたように言った。

 

「六年に一度だからって、毎日張り切りすぎ」

 

「違うぞ」

 

 別の男子が、妙に得意げに言う。

 

「数えだと七年に一度だ!」

 

「そこ大事?」

 

「じいちゃんが大事って言ってた!」

 

「じいちゃん情報多いな」

 

 丈が言うと、教室が笑った。

 

「六年って、小学校終わるくらいだぞ!」

 

「人生の大イベントだぞ!」

 

「小学生が人生語るな」

 

 丈がそう言うと、また笑いが起きる。

 早苗も笑っていた。

 その笑い方は、昔からあまり変わらない。

 変わらないのに。

 少しずつ変わっている。

 髪が伸びた。

 背も伸びた。

 

 けれど、朝から元気で、神様の話になると止まらなくて、妙に距離が近いところは変わらない。

 

「丈、お前も見に行くよな?」

 

 男子が言った。

 

「まあ」

 

「まあって何だよ!」

 

「行くだろ、普通」

 

「今年の御柱だぞ?」

 

「わかってるって」

 

 丈は少し面倒臭そうに答えた。

 

 けれど。

 本当は、少し楽しみだった。

 御柱祭。

 

 六年に一度。

 

 数えで七年に一度。

 

 諏訪大社の大きな祭り。

 山から大きな木を曳き、里へ運び、社へ建てる。

 

 大人たちはずっとその話をしている。

 先生たちも少し浮ついている。

 

 町内会も、役場も、商店街も、ほかの神社も。

 みんなが、その祭りへ向かって動いている。

 守矢神社も、協力するらしい。

 早苗の家も、最近ずっと忙しそうだった。

 

「丈くん」

 

 早苗がこちらを見る。

 

「楽しみですか?」

 

「……まあ」

 

「また“まあ”です」

 

「便利なんだよ」

 

「便利禁止です」

 

「まだ続いてんのかそれ」

 

「続いてます!」

 

 早苗は胸を張った。

 女子が笑う。

 

「早苗ちゃんの禁止、長いよね」

 

「はい!」

 

「威張ることじゃないでしょ」

 

 教室は騒がしい。

 けれど、その騒がしさも、いつもと少し違う。

 

 御柱。

 その言葉が出るだけで、空気が熱くなる。

 男子たちは木落しの話をしている。

 

 別の男子は屋台の話をしている。

 女子たちは親戚が来るとか、家の手伝いが大変だとか話している。

 先生も、やっぱりどこか嬉しそうだった。

 

「お前ら、浮かれるのはいいけど授業は受けろよー」

 

「先生も浮かれてます!」

 

「ばれたか」

 

 笑いが起きる。

 その笑いの向こうで。

 窓の外の山が、いつもより近く見えた。

 

     ◇

 

 放課後。

 

 丈と早苗は、いつもの道を歩いていた。

 山から風が吹く。

 春の終わりの風。

 少し湿っていて、少し青い匂いがする。

 

 坂を下りると、町の掲示板に大きな紙が貼ってあった。

 

 御柱祭の予定。

 交通規制。

 協力者名簿。

 集合場所。

 子供だけでは近づいてはいけない場所。

 赤い字が多い。

 祭りなのに、注意書きも多い。

 それが、妙に本気だった。

 

 掲示板の前では、近所の爺さんたちが腕を組んで話していた。

 

「今年の木はいいらしいぞ」

 

「山出しの日、晴れりゃいいがな」

 

「いや、降ったら降ったで締まる」

 

「馬鹿言え、足元悪いのは怖いわ」

 

 そう言いながら、全員少し楽しそうだった。

 床屋の前では、店主が客の髪を切りながら、窓越しに祭りの話をしていた。

 酒屋の前には、木箱が積まれている。

 いつもは静かな店の奥から、笑い声が聞こえた。

 役場の人らしき大人が、地図を持って商店街を歩いている。

 黄色い腕章をした人が、電柱の横で何かを確認している。

 

 町が、いつもより細かく見えた。

 ただの道ではない。

 ただの店ではない。

 ただの大人ではない。

 全部が、何かの役目を持っているように見えた。

 

「丈くん、御柱祭が何のお祭りか知ってますか?」

 

 早苗が得意げに聞いてきた。

 

「諏訪大社の祭りだろ」

 

「おお」

 

「なんで驚く」

 

「丈くんがちゃんと知ってました」

 

「馬鹿にしてんのか」

 

「してません!」

 

「目がしてた」

 

「してません!」

 

 早苗は慌てて手を振る。

 

 それから、少し真面目な顔になった。

 

「御柱祭は、諏訪大社のお祭りです。守矢神社のお祭りではありません」

 

「それは知ってる」

 

「でも、守矢神社も協力します。ほかの神社も、役場も、市民会も、氏子さんたちも、町の人たちも」

 

「みんな動いてるよな」

 

「はい」

 

 早苗は山を見る。

 

「諏訪の全部が、祭りへ向かってる感じがします」

 

「……」

 

 丈は何も言わなかった。

 

 でも、それは少しわかる。

 最近の町は、本当にそうだった。

 道に旗が立つ。

 掲示板に予定が貼られる。

 集会所に大人が集まる。

 夕方になると、どこかから木遣りの練習が聞こえる。

 

「よいさー」

 

 遠くで、低い声が響いた。

 丈は思わず足を止める。

 山へ向かって伸びていくような声。

 人の声なのに、人だけのものではないみたいだった。

 

「木遣りです」

 

 早苗が言う。

 

「知ってる」

 

「いつの間に」

 

「男子が言ってた」

 

「男子」

 

「……何だよ」

 

「丈くん、まだ名前で呼びませんよね」

 

 早苗が少し不満そうに言った。

 

「誰を」

 

「みんなです」

 

「呼んでるだろ」

 

「呼んでません。男子とか女子とか、あいつとか、そっちのやつとか」

 

「……そうだっけ」

 

「そうです」

 

 丈は気まずくなって目を逸らした。

 確かに。

 前から、そうだった気がする。

 クラスメイトではある。

 喋りもする。

 一緒に帰ることもある。

 

 けれど、どこかでひとまとめにしていた。

 男子。女子。

 あいつら。

 名前を覚えていなかったわけではない。

 たぶん。

 

 けれど、ちゃんと名前で呼んでいなかった。

 今さら名前で呼ぶのも、なんとなく変な気がした。

 タイミングを逃した。

 それだけだ。

 たぶん。

 

「覚えてないわけじゃねぇよ」

 

「本当ですか?」

 

「たぶん」

 

「たぶんですか」

 

「いや、覚えてる」

 

「じゃあ、今朝叫んでた男子は?」

 

「……」

 

 丈は黙った。

 早苗がじっと見る。

 

「丈くん」

 

「顔はわかる」

 

「名前は?」

 

「……出てくる時と出てこない時がある」

 

「それ覚えてないって言います」

 

「うるせぇ」

 

 早苗は少し笑った。

 

「でも、いいんです」

 

「いいのかよ」

 

「たぶん、これからです」

 

「何が」

 

「丈くんが、ちゃんとみんなを見るの」

 

「……」

 

「今でも話してますけど、まだちょっと外から見てる感じがします」

 

 早苗の言葉は、時々妙に鋭い。

 丈は、言い返せなかった。

 

 外から見ている。

 そうかもしれない。

 

 諏訪はもう日常だ。

 東京のことは遠い。

 

 けれど、どこかでまだ。

 自分はここに来た人間だと思っていたのかもしれない。

 早苗の隣にはいる。

 

 でも。

 クラスの中。

 町の中。

 祭りの中。

 その全部に、自分が入っているとは、まだ言い切れていなかったのかもしれない。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「御柱祭、すごいですよ」

 

「急だな」

 

「たぶん、いろいろ見えます」

 

「何が」

 

「わかりません」

 

「出た」

 

「でも、そういうお祭りだと思います」

 

 山から風が吹く。

 木遣りが、もう一度響く。

 よいさー。

 丈は、その声をしばらく聞いていた。

 

 その時。

 道端の古い石が、ほんの少しだけ光った気がした。

 

「……」

 

「丈くん?」

 

「今、なんか」

 

「え?」

 

 石の上。

 小さな影が、跳ねたように見えた。

 子供のような。

 獣のような。

 何か。

 

 それは木遣りの声に合わせて、手を振っているようにも見えた。

 次の瞬間には消えていた。

 

「……いや」

 

「また“いや”です」

 

「便利なんだよ」

 

「便利禁止です」

 

 早苗はそう言いながらも、少しだけ山を見た。

 たぶん。

 早苗にも何か見えていた。

 

 祭りが近づいている。

 人だけではないものも、浮き立っている。

 そんな感じがした。

 

     ◇

 

 御柱祭の準備は、学校にも入り込んできた。

 

 総合の時間。

 先生が黒板に「御柱祭」と大きく書いた。

 

「今年は、みんな六年生で御柱を見られるな」

 

「はい!」

 

 教室全体が返事をする。

 先生は笑った。

 

「じゃあ今日は、御柱祭について調べたことを発表してもらう」

 

「えー!」

 

「宿題だっただろ」

 

「忘れてました!」

 

「堂々と言うな」

 

 笑いが起きる。

 

 丈はノートを開いた。

 

 一応、調べてある。

 

 諏訪大社の祭り。

 

 山出。

 里曳き。

 木落し。

 川越し。

 

 御柱を社殿の四隅に建てる。

 六年に一度。

 数えで七年に一度。

 

 調べれば、そういうことは出てくる。

 

 けれど。

 それだけでは、足りない気がした。

 何が足りないのかは、まだわからない。

 

 いや。

 最近、少しだけわかってきた。

 祭りは、紙の上にあるものではない。

 

 掲示板の赤い文字。

 店先の会話。

 夜の集会所の灯り。

 早苗の父親が何度も電話している声。

 学校で妙に落ち着かない先生。

 そういうもの全部が、祭りを作っている。

 

「じゃあ、浩介」

 

「はい!」

 

 朝から叫んでいた男子が立ち上がる。

 先生に名前を呼ばれて、丈は少しだけそちらを見た。

 

 浩介。

 そうだ。

 浩介だ。

 

 頭の中では言える。

 でも、口には出ない。

 今さら急に名前で呼んだら変だろ。

 そう思ってしまう。

 

「御柱は、でかい木です!」

 

「ざっくりだな」

 

 丈が呟く。

 

「でも合ってる!」

 

 浩介が返す。

 

「山から曳いてきます! めちゃくちゃ危ないです! でもめちゃくちゃかっこいいです!」

 

「感想が強いな」

 

「木落しは、男の見せ場です!」

 

「お前は見るだけだろ」

 

「心は乗ってる!」

 

「乗るな」

 

 教室が笑う。

 

 次は由香だった。

 落ち着いていて、よく早苗をからかう女子。

 由香は、御柱祭の日程や地区の役割について話した。

 

 次は健太。

 屋台の話ばかりして先生に注意された。

 

 次は祐一。

 祖父から聞いた昔の木落しの話をして、途中で話が怖くなりすぎて女子に怒られた。

 

 美咲は、家族が親戚を迎える準備をしている話をした。

 

 名前。

 顔。

 声。

 

 いつも教室にあったものが、急に輪郭を持つ。

 丈は少し変な感じがした。

 覚えていなかったわけではない。

 

 でも、ちゃんと見ていなかったのかもしれない。

 そして、早苗の番になった。

 

「東風谷」

 

「はい」

 

 早苗が立ち上がる。

 少し緊張している。

 

 けれど。

 神社のことや、諏訪のことを話す時の早苗は、声が通る。

 

「御柱祭は、諏訪大社のお祭りです」

 

 早苗は言った。

 

「山から大きな木を曳いてきて、神様の柱として建てます。木はただの木ではなくて、山から里へ降りてくるものです」

 

 教室が少し静かになる。

 

「六年に一度、数えで七年に一度の大きなお祭りです。諏訪大社のお祭りですが、町の人や他の神社、役場や市民会の人たちも協力しています」

 

 早苗は一度、窓の外の山を見た。

 

「だから御柱祭は、諏訪全体のお祭りでもあると思います」

 

 少し間が空いた。

 誰も笑わなかった。

 

 先生が頷く。

 

「いい発表だ」

 

 浩介が「すげー」と言う。

 健太が「東風谷っぽい」と言う。

 由香と美咲が頷いている。

 丈は、早苗を見ていた。

 

 昔なら。

 変なことを言うな、と思ったかもしれない。

 神様とか。

 山から里へ降りるとか。

 そういう言い方は、普通なら少し大げさだ。

 

 でも。

 今は、そう思わなかった。

 

 むしろ。

 ああ、そういうことなのかもしれない。

 そう思った。

 

 御柱祭は、ただの祭りではない。

 

 山が動く。

 町が動く。

 人が動く。

 神社が動く。

 

 諏訪全体が、一つの方向へ向かっている。

 その感じを、早苗はちゃんと言葉にしていた。

 丈は少しだけ悔しかった。

 自分がうまく言えないものを、早苗は先に言ってしまう。

 

 昔から、時々そうだ。

 

     ◇

 

 放課後。

 丈は早苗に言った。

 

「お前の発表、よかったな」

 

「えっ」

 

「御柱祭のやつ」

 

「本当ですか?」

 

「本当」

 

「神様っぽすぎませんでした?」

 

「お前はだいたい神様っぽいだろ」

 

「褒めてます?」

 

「半分くらい」

 

「半分なんですか」

 

 早苗は少し笑った。

 

「でも、笑われなくてよかったです」

 

「誰が笑うんだよ」

 

「前は、ちょっと浮いてましたし」

 

「……」

 

 丈は黙る。

 

 前は。

 確かに、早苗は少し浮いていた。

 

 神様の話を急にする。

 怖いことを真面目に言う。

 嘘をつかない。

 隠すのが下手。

 

 それで周りから少し距離を置かれていた。

 丈も最初は、変なやつだと思っていた。

 今でも変なやつだとは思っている。

 

 でも。

 それだけではない。

 

「今は、別に浮いてねぇだろ」

 

 丈は言った。

 

「そうでしょうか」

 

「そうだろ」

 

「丈くんが言うなら、そうかもしれません」

 

「俺基準かよ」

 

「はい」

 

「信用されてんのか雑に使われてんのかわかんねぇな」

 

「信用してます!」

 

「そりゃどうも」

 

 丈は少し照れて、目を逸らした。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「御柱祭、楽しみですね」

 

「ああ」

 

「今、“まあ”じゃなかったです」

 

「……そうだっけ」

 

「はい」

 

「聞き逃せよ」

 

「嫌です」

 

「なんで」

 

「嬉しいので」

 

「またそれか」

 

 早苗は笑った。

 山から風が吹く。

 木遣りの声が、また遠くから聞こえた。

 丈はその声を聞きながら、ぽつりと言った。

 

「なんかさ」

 

「はい」

 

「町ごと、祭りに向かってる感じする」

 

「はい」

 

「学校も、大人も、神社も、道も、山も」

 

「……はい」

 

「変だよな」

 

「変ですか?」

 

「変だけど」

 

 丈は少し笑った。

 

「悪くない」

 

 言ってから、少し止まる。

 

 悪くない。

 昔から、自分はよくそう言っていた。

 諏訪に来たばかりの頃。

 早苗と話すようになった頃。

 神社に行くようになった頃。

 変だ。

 

 でも、悪くない。

 そうやって誤魔化していた。

 

 けれど。

 今は、少し違う気がした。

 悪くない、だけでは足りない。

 

 でも、まだうまく言えない。

 丈は黙った。

 

 早苗はそれ以上、急かさなかった。

 ただ隣で、同じ木遣りを聞いていた。

 よいさー。

 遠くの声に合わせて、山の方で何かが揺れる。

 

 木々の中。

 葉の影。

 そこに、小さな影がいくつも見えた気がした。

 

 人ではない。

 獣でもない。

 

 でも、楽しそうだった。

 跳ねている。

 揺れている。

 祭りを待っている。

 

「……お前にも見えるか?」

 

 丈が小さく聞く。

 

「はい」

 

 早苗は小さく頷いた。

 

「嬉しそうですね」

 

「……あれ、嬉しいのか」

 

「たぶん」

 

「怖くないのか?」

 

「ちょっと怖いです」

 

「だよな」

 

「でも、悪い感じじゃありません」

 

 早苗は山を見ていた。

 

「祭りが近いから、喜んでるのかもしれません」

 

 丈も山を見る。

 人ならざるもの。

 よくわからないもの。

 

 昔なら、見た瞬間に逃げていたかもしれない。

 今でも怖くないわけではない。

 

 でも。

 それがこの土地にいるのなら。

 祭りを楽しみにしているのなら。

 少しくらい、見ていてもいい気がした。

 

     ◇

 

 その夜。

 守矢神社には、町内の人たちが集まっていた。

 諏訪大社の御柱祭に向けた協力の打ち合わせ。

 

 役場の人。

 市民会の人。

 近くの神社の人。

 氏子。

 商店街の人。

 いろいろな人が来ていた。

 丈も、なぜか早苗に連れてこられていた。

 

「なんで俺まで」

 

「人手は多い方がいいです!」

 

「俺、小学生なんだけど」

 

「私もです!」

 

「そういう問題か?」

 

 社務所の中は慌ただしかった。

 

 予定表。

 地図。

 通行止めの確認。

 当日の人の流れ。

 お茶。

 紙コップ。

 資料。

 大人たちは皆、真剣だった。

 祭りの話になると笑う。

 

 でも、安全の話になると顔が変わる。

 危ない祭りなのだ。

 それが、子供の丈にもわかった。

 早苗の父親は、いつもの穏やかな顔でいろいろな人と話していた。

 

 でも、声には少し力が入っている。

 役場の人が地図を指さす。

 

「ここは子供が入らないように」

 

「この辺りは道が狭いから、誘導を二人増やした方がいい」

 

「諏訪大社の方と時間を合わせないと」

 

「市民会の方で看板を出します」

 

「うちは湯茶の準備を」

 

「近くの神社にも連絡済みです」

 

 言葉が飛び交う。

 丈には全部はわからない。

 

 でも、わかることもあった。

 誰も、自分だけの祭りだとは思っていない。

 全部が繋がっている。

 

 道。

 人。

 神社。

 山。

 

 社務所の古い畳の匂い。

 紙コップの安っぽい匂い。

 大人たちの汗の匂い。

 外から流れてくる夜の木の匂い。

 全部が混ざっている。

 

「丈くん、これ運んでください」

 

「はいはい」

 

「はいは一回です!」

 

「先生かよ」

 

「巫女です!」

 

「関係ある?」

 

「あります!」

 

 丈は段ボールを運ぶ。

 中には案内用の紙が入っていた。

 思ったより重い。

 

「うわ、重っ」

 

「頑張ってください!」

 

「お前も持て」

 

「持ってます!」

 

「ほぼ俺じゃねぇか!」

 

 昔と同じやり取り。

 

 でも、少し違う。

 神社の空気も。

 早苗の声も。

 そこに集まる大人たちの熱も。

 全部が、祭りへ向かっていた。

 ふと、境内の方を見る。

 

 御柱が立っている。

 夜の中で、黒い影のように。

 その奥。

 風が吹いた。

 

『忙しそうだねぇ』

 

 頭の奥で、声がした。

 久しぶりだった。

 軽い声。

 だるそうな声。

 

「……」

 

『お祭り前って、みんな浮かれるからね』

 

「……」

 

 丈は返事をしなかった。

 

 けれど、以前ほど驚かなかった。

 最近は声が聞こえても、まあそういうものか、と思うようになっていた。

 良いことなのかはわからない。

 境内の奥。

 御柱のそば。

 見えないはずの場所に、何かの気配が集まっている。

 

 人の声につられて。

 木遣りにつられて。

 祭りの熱につられて。

 小さな影たちが、石の陰や木の根元でざわめいている。

 早苗がお茶を運びながら、ちらりとそちらを見た。

 

 目が合う。

 見えている。

 やっぱり、早苗にも見えている。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「怖いですか?」

 

「少し」

 

「私もです」

 

「でも、嫌じゃないんだろ」

 

「はい」

 

「……俺も」

 

 言ってから、自分で少し驚いた。

 怖い。

 

 でも、嫌ではない。

 それは、前にも言った気がする。

 

 神社の夜。

 御柱の奥。

 土の下から立ち上る気配。

 あの時と似ている。

 

 でも、今日はもっと明るい。

 人がいる。

 声がある。

 祭りが近い。

 それだけで、怖いものも少し違って見える。

 

     ◇

 

 数日後。

 

 丈たちは、町内の準備を見に行った。

 男子たち。

 女子たち。

 それから早苗。

 広場では、大人たちが綱を確認していた。

 

 太い。

 子供の腕よりずっと太い。

 麻の匂い。

 木の匂い。

 土の匂い。

 祭りの道具が並んでいる。

 

 広場の端には、仮設の看板が立てられていた。

 通行の矢印。

 立入禁止の線。

 救護所の場所。

 屋台の区画。

 普段はただの空き地みたいな場所が、祭りの場所に変わっていく。

 

 ロープを張る大人。

 杭を打つ大人。

 軽トラックから荷物を下ろす人。

 小さな子供を連れた母親。

 それを見て笑っている爺さん。

 誰もが何かをしていた。

 

 何もしていないように見える人でさえ、誰かの話を聞いて頷いている。

 この町には、こんなに人がいたのか。

 丈は、今さらそんなことを思った。

 

「すげー!」

 

 朝から騒がしい男子が叫ぶ。

 

「綱でっか!」

 

 別の男子が触ろうとして、大人に止められる。

 

「勝手に触るなよー」

 

「すみません!」

 

 真面目な男子は横で頷いている。

 

「これで御柱を曳くんだよな」

 

 丈が言った。

 

「そうです」

 

 早苗が答える。

 

「大勢で」

 

「これ、人が曳くのか」

 

「はい」

 

「機械じゃなくて?」

 

「人です」

 

「……すげぇな」

 

 丈は、綱を見ていた。

 真剣な顔になっている自覚があった。

 大人たちが綱を扱う手つきは、遊びではない。

 誰もふざけていない。

 祭りなのに。

 楽しいはずなのに。

 その奥に、怖さがある。

 危険がある。

 それでもやる。

 それが、妙に胸に残った。

 

「丈、祭り見たら絶対びびるぞ」

 

 朝から騒がしい男子が言う。

 

「もうちょい言い方あるだろ」

 

「いや、びびるって!」

 

「浩介、木落しの映像見て叫んでたじゃん」

 

 女子が言う。

 浩介。

 そうだ。

 浩介だ。

 丈は、その名前を頭の中で繰り返す。

 

 でも、言わない。

 言えない。

 今さら急に呼んだら、変だろ。

 そう思ってしまう。

 

「叫んでねぇ!」

 

「叫んでたよ」

 

 もう一人の女子も笑う。

 

「うわー!って」

 

「それは歓声!」

 

「悲鳴だったぞ」

 

 丈が言った。

 

「丈まで!?」

 

 男子が叫ぶ。

 みんなが笑う。

 丈も少し笑う。

 名前は呼ばない。

 

 でも、顔は見ている。

 声も。

 癖も。

 誰が何を言いそうかも。

 前よりずっと、わかる。

 それに気づいて、丈は少し変な気持ちになった。

 

 広場の端。

 綱の近く。

 地面の低いところで、何かがぴょんと跳ねた。

 小さな影。

 子供みたいなもの。

 古い獣みたいなもの。

 それが、みんなの笑い声に合わせて踊るように跳ねていた。

 

「……」

 

 丈が見ていると、早苗が横に来た。

 

「見えました?」

 

「ああ」

 

「嬉しそうです」

 

「そう見えるな」

 

「名前を呼んだら、もっと喜ぶかもしれませんね」

 

「何でそこでそれなんだよ」

 

「なんとなくです」

 

「怖いこと言うな」

 

「怖いですか?」

 

「ちょっとな」

 

 早苗は少し笑った。

 

「でも、いつか呼べますよ」

 

「……」

 

「たぶん」

 

「たぶんかよ」

 

「はい」

 

 早苗は山の方を見た。

 

「祭りの日なら、呼べるかもしれません」

 

「なんで」

 

「そういう日だからです」

 

「説明になってねぇ」

 

「でも、そんな気がします」

 

 丈は何も言えなかった。

 けれど、胸の奥で何かが小さく動いた。

 

 名前を呼ぶこと。

 見えるものに輪郭を与えること。

 怖いものに名前をつけるな。

 そう言われたことがある。

 

 でも。

 友達の名前は、呼んだ方がいい。

 そんな当たり前のことを。

 丈は、まだ口にできずにいた。

 

     ◇

 

 夕方。

 

 広場からの帰り道。

 みんなと別れたあと、丈と早苗は少し遠回りをした。

 諏訪湖の方へ。

 湖は夕日を受けて、赤く光っていた。

 水面が揺れている。

 風が吹く。

 遠くに山。

 その向こうに、これから御柱になる木がある。

 

 早苗が湖を見ながら言った。

 

「諏訪って、広いですね」

 

「急だな」

 

「いえ、なんとなく」

 

「まあ、広いな」

 

「神社だけじゃなくて、学校も、町も、湖も、山も、全部諏訪なんですね」

 

「当たり前だろ」

 

「当たり前なんですけど」

 

 早苗は少し笑った。

 

「最近、わかった気がします」

 

「俺は、今さらわかってきた」

 

 丈は言った。

 湖を見ながら。

 

「最初は、変な町だと思ってた」

 

「はい」

 

「神社あるし、山近いし、なんかみんな距離近いし」

 

「距離近いですか?」

 

「近いだろ」

 

「そうでしょうか」

 

「お前が一番近い」

 

「えっ」

 

 早苗が固まる。

 丈は自分で言ってから、少し気まずくなる。

 

「いや、物理的に」

 

「ぶ、物理的に」

 

「叩くし」

 

「確認です!」

 

「ほら近い」

 

「うぅ……」

 

 早苗は顔を赤くする。

 丈は少し笑った。

 

「でも」

 

「はい」

 

「それも、今は普通になった」

 

 早苗は黙る。

 普通。

 その言葉が、湖の上に落ちる。

 

「東京のこと、全然考えなくなった」

 

 丈は言った。

 

「たまに思い出すけど、なんか遠い」

 

「……寂しくないですか?」

 

「どうだろ」

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「無理してません?」

 

 丈は少し考えた。

 それから首を振った。

 

「してない」

 

「本当ですか?」

 

「本当」

 

「確認していいですか?」

 

「今の流れで叩くのかよ」

 

「確認です」

 

 ぽん。

 

「……まあ、いいけど」

 

 丈は呆れたように言った。

 

 でも、嫌ではなかった。

 湖の上を風が渡る。

 遠くで、木遣りの練習が聞こえた。

 よいさー。

 その声が、水面を滑るように響いてくる。

 丈はその声を聞きながら、ぽつりと言った。

 

「嫌いじゃない、じゃ足りなくなってきた」

 

「え?」

 

「諏訪」

 

 早苗が息を止めた。

 

「それって」

 

「まだ言わねぇ」

 

「えぇ!?」

 

「当日に取っとく」

 

「何をですか!」

 

「知らねぇけど」

 

「丈くん!」

 

 早苗が慌てる。

 丈は少し笑った。

 自分でも、よくわからなかった。

 

 でも。

 今ここで言ってしまうより。

 祭りの日。

 御柱を見て。

 町が動くのを見て。

 山が降りてくるのを見て。

 

 その時に、ちゃんと言いたい気がした。

 好きだ、と。

 たぶん。

 ちゃんと。

 

「確認です!」

 

「まだ何も言ってねぇだろ」

 

「今の確認です!」

 

 ぽん。

 

「痛くはないけどさ」

 

「確認です!」

 

「二回言うな」

 

 早苗は嬉しそうだった。

 湖が夕焼けで赤い。

 山が遠くにある。

 町の方から祭りの気配がする。

 隣に早苗がいる。

 

 丈は、その全部を見ていた。

 嫌いじゃない。

 悪くない。

 

 では、もう足りない。

 けれど。

 それが形になるのは、たぶん明日だ。

 そう思った。

 

     ◇

 

 祭りの前日。

 空は晴れていた。

 山の輪郭がくっきり見える。

 

 放課後。

 

 丈と早苗は、いつもの坂道を歩いていた。

 町は、いつもより少し静かだった。

 嵐の前ではない。

 祭りの前の静けさ。

 みんなが息を整えているような。

 そんな静けさ。

 道沿いの家には、親戚を迎えるための布団が干されていた。

 玄関先では、婆さんが大きな鍋を洗っている。

 畑の横では、男たちが明日の集合時間を確認していた。

 商店のシャッターには、御柱祭の張り紙がある。

 酒屋の前のケースは、朝より増えていた。

 遠くの集会所には、まだ灯りがついている。

 

 まだ昼間なのに、明日の気配がした。

 

「明日ですね」

 

 早苗が言う。

 

「ああ」

 

「楽しみですか?」

 

「楽しみ」

 

 即答だった。

 早苗がぱっと笑う。

 

「丈くんが即答しました」

 

「悪いか」

 

「悪くないです!」

 

「また声でけぇ」

 

「すみません!」

 

 丈は山を見る。

 

「明日、すごいんだろうな」

 

「すごいです」

 

「お前、見たことあるのか?」

 

「小さい頃にあります。でも、あまり覚えていません」

 

「じゃあ、ほぼ初めてじゃん」

 

「はい」

 

「……そっか」

 

 丈は少し笑った。

 

「じゃあ、一緒だな」

 

「……はい」

 

 早苗は少し俯いた。

 耳が赤い。

 

「丈くん」

 

「ん?」

 

「明日も、ちゃんと隣にいてくださいね」

 

「混むからな」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

「わかってる」

 

「本当ですか?」

 

「本当」

 

「確認していいですか?」

 

「明日前に壊すなよ」

 

「壊しません!」

 

 ぽん。

 

 いつものように肩を叩かれる。

 丈は呆れたように笑った。

 

「はいはい」

 

「軽いです」

 

「重く言うことか?」

 

「大事です!」

 

「そうかよ」

 

 山から風が吹く。

 遠くで、最後の木遣りが聞こえた。

 よいさー。

 それは、いつもより低く。

 いつもより深く。

 明日へ向かって、諏訪の空に伸びていった。

 

 木々の間。

 道端の石。

 用水路の影。

 そこに、何かがいた。

 小さなもの。

 細いもの。

 丸いもの。

 形のはっきりしないもの。

 それらが、風に揺れるように集まっていた。

 

 楽しみにしている。

 丈には、そう見えた。

 

「……早苗」

 

「はい」

 

「あいつらも、楽しみなのか」

 

「たぶん」

 

「祭りって、人だけじゃないんだな」

 

「はい」

 

「……そっか」

 

 丈は山を見る。

 人も。

 神社も。

 町も。

 山も。

 

 よくわからないものたちも。

 全部が、明日を待っている。

 そう思うと、胸の奥がざわざわした。

 怖さではない。

 不安でもない。

 期待。

 たぶん、そういうものだった。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 丈はなかなか眠れなかった。

 布団の中で、天井を見ていた。

 明日。

 御柱祭が始まる。

 諏訪大社の祭り。

 

 けれど、それだけではない。

 守矢神社も動く。

 町も動く。

 学校も大人も子供も、みんな動く。

 山から木が降りてくる。

 人が曳く。

 声を合わせる。

 柱が建つ。

 それは、調べた知識だけではわからないものだった。

 丈は目を閉じる。

 

 木遣りの声が、まだ耳の奥に残っている気がした。

 よいさー。

 よいさー。

 

 山が呼吸している。

 町が息を合わせている。

 諏訪が、祭りを待っている。

 そして丈も。

 その中で、祭りを待っていた。

 東京のことは、思い出さなかった。

 

 明日のことだけを考えていた。

 諏訪のことだけを。

 早苗のことだけを。

 

 そして、眠りに落ちる直前。

 頭の奥で、あの軽い声がした。

 

『明日だねぇ』

 

 丈は目を開けかけた。

 けれど眠かった。

 

『ちゃんと見なよ』

 

 声は、いつも通り軽かった。

 でも、少しだけ遠い。

 

『人が山を呼ぶところ』

 

 何が。

 

 そう聞こうとした。

 けれど、声はもう消えていた。

 代わりに、遠くで風が鳴る。

 

 山が鳴る。

 明日。

 御柱祭が始まる。

 

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