第九話「御柱祭①」
それから、少し時間が流れた。
夏休みが終わった。
秋が来た。
冬が来た。
また春が来て。
丈は、小学六年生になっていた。
諏訪に来たばかりの頃。
丈にとっての暮らす街は東京だった。
前の学校。
前の家。
前の道。
駅の音。
人の多さ。
夜でも明るい街。
そういうものだった。
けれど。
今は、あまり思い出さない。
朝、山に霧がかかっていること。
学校までの坂道。
用水路の水の音。
田んぼの匂い。
春先、畦道に小さな花が咲くこと。
梅雨前になると、山の色が急に濃くなること。
冬の朝、諏訪湖の向こうが白く霞むこと。
そういうものの方が、もう日常だった。
道の角にある古い商店の婆さんが、朝は必ず店先を掃いていること。
豆腐屋の親父が、早苗を見ると「お、風祝さん」と冗談めかして言うこと。
学校の帰り道、犬を連れたおじいさんが、丈にも普通に挨拶してくること。
そういうものも。
いつの間にか、丈の中に入っていた。
東京の記憶は、遠い。
嫌いになったわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ。
今、自分がいる場所は、ここだった。
諏訪だった。
◇
春の終わり。
学校の空気が、いつもと違った。
新学期の浮つきではない。
運動会前とも違う。
もっと大きい。
町全体が、少しずつ熱を持っているような感じだった。
「今年、御柱だぞ!」
朝の教室で、男子が叫んだ。
「知ってる!」
「うちの父ちゃん、準備行ってる!」
「俺んちも!」
「うち、じいちゃんが朝からそれしか言わない」
女子が少し呆れたように言った。
「六年に一度だからって、毎日張り切りすぎ」
「違うぞ」
別の男子が、妙に得意げに言う。
「数えだと七年に一度だ!」
「そこ大事?」
「じいちゃんが大事って言ってた!」
「じいちゃん情報多いな」
丈が言うと、教室が笑った。
「六年って、小学校終わるくらいだぞ!」
「人生の大イベントだぞ!」
「小学生が人生語るな」
丈がそう言うと、また笑いが起きる。
早苗も笑っていた。
その笑い方は、昔からあまり変わらない。
変わらないのに。
少しずつ変わっている。
髪が伸びた。
背も伸びた。
けれど、朝から元気で、神様の話になると止まらなくて、妙に距離が近いところは変わらない。
「丈、お前も見に行くよな?」
男子が言った。
「まあ」
「まあって何だよ!」
「行くだろ、普通」
「今年の御柱だぞ?」
「わかってるって」
丈は少し面倒臭そうに答えた。
けれど。
本当は、少し楽しみだった。
御柱祭。
六年に一度。
数えで七年に一度。
諏訪大社の大きな祭り。
山から大きな木を曳き、里へ運び、社へ建てる。
大人たちはずっとその話をしている。
先生たちも少し浮ついている。
町内会も、役場も、商店街も、ほかの神社も。
みんなが、その祭りへ向かって動いている。
守矢神社も、協力するらしい。
早苗の家も、最近ずっと忙しそうだった。
「丈くん」
早苗がこちらを見る。
「楽しみですか?」
「……まあ」
「また“まあ”です」
「便利なんだよ」
「便利禁止です」
「まだ続いてんのかそれ」
「続いてます!」
早苗は胸を張った。
女子が笑う。
「早苗ちゃんの禁止、長いよね」
「はい!」
「威張ることじゃないでしょ」
教室は騒がしい。
けれど、その騒がしさも、いつもと少し違う。
御柱。
その言葉が出るだけで、空気が熱くなる。
男子たちは木落しの話をしている。
別の男子は屋台の話をしている。
女子たちは親戚が来るとか、家の手伝いが大変だとか話している。
先生も、やっぱりどこか嬉しそうだった。
「お前ら、浮かれるのはいいけど授業は受けろよー」
「先生も浮かれてます!」
「ばれたか」
笑いが起きる。
その笑いの向こうで。
窓の外の山が、いつもより近く見えた。
◇
放課後。
丈と早苗は、いつもの道を歩いていた。
山から風が吹く。
春の終わりの風。
少し湿っていて、少し青い匂いがする。
坂を下りると、町の掲示板に大きな紙が貼ってあった。
御柱祭の予定。
交通規制。
協力者名簿。
集合場所。
子供だけでは近づいてはいけない場所。
赤い字が多い。
祭りなのに、注意書きも多い。
それが、妙に本気だった。
掲示板の前では、近所の爺さんたちが腕を組んで話していた。
「今年の木はいいらしいぞ」
「山出しの日、晴れりゃいいがな」
「いや、降ったら降ったで締まる」
「馬鹿言え、足元悪いのは怖いわ」
そう言いながら、全員少し楽しそうだった。
床屋の前では、店主が客の髪を切りながら、窓越しに祭りの話をしていた。
酒屋の前には、木箱が積まれている。
いつもは静かな店の奥から、笑い声が聞こえた。
役場の人らしき大人が、地図を持って商店街を歩いている。
黄色い腕章をした人が、電柱の横で何かを確認している。
町が、いつもより細かく見えた。
ただの道ではない。
ただの店ではない。
ただの大人ではない。
全部が、何かの役目を持っているように見えた。
「丈くん、御柱祭が何のお祭りか知ってますか?」
早苗が得意げに聞いてきた。
「諏訪大社の祭りだろ」
「おお」
「なんで驚く」
「丈くんがちゃんと知ってました」
「馬鹿にしてんのか」
「してません!」
「目がしてた」
「してません!」
早苗は慌てて手を振る。
それから、少し真面目な顔になった。
「御柱祭は、諏訪大社のお祭りです。守矢神社のお祭りではありません」
「それは知ってる」
「でも、守矢神社も協力します。ほかの神社も、役場も、市民会も、氏子さんたちも、町の人たちも」
「みんな動いてるよな」
「はい」
早苗は山を見る。
「諏訪の全部が、祭りへ向かってる感じがします」
「……」
丈は何も言わなかった。
でも、それは少しわかる。
最近の町は、本当にそうだった。
道に旗が立つ。
掲示板に予定が貼られる。
集会所に大人が集まる。
夕方になると、どこかから木遣りの練習が聞こえる。
「よいさー」
遠くで、低い声が響いた。
丈は思わず足を止める。
山へ向かって伸びていくような声。
人の声なのに、人だけのものではないみたいだった。
「木遣りです」
早苗が言う。
「知ってる」
「いつの間に」
「男子が言ってた」
「男子」
「……何だよ」
「丈くん、まだ名前で呼びませんよね」
早苗が少し不満そうに言った。
「誰を」
「みんなです」
「呼んでるだろ」
「呼んでません。男子とか女子とか、あいつとか、そっちのやつとか」
「……そうだっけ」
「そうです」
丈は気まずくなって目を逸らした。
確かに。
前から、そうだった気がする。
クラスメイトではある。
喋りもする。
一緒に帰ることもある。
けれど、どこかでひとまとめにしていた。
男子。女子。
あいつら。
名前を覚えていなかったわけではない。
たぶん。
けれど、ちゃんと名前で呼んでいなかった。
今さら名前で呼ぶのも、なんとなく変な気がした。
タイミングを逃した。
それだけだ。
たぶん。
「覚えてないわけじゃねぇよ」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶんですか」
「いや、覚えてる」
「じゃあ、今朝叫んでた男子は?」
「……」
丈は黙った。
早苗がじっと見る。
「丈くん」
「顔はわかる」
「名前は?」
「……出てくる時と出てこない時がある」
「それ覚えてないって言います」
「うるせぇ」
早苗は少し笑った。
「でも、いいんです」
「いいのかよ」
「たぶん、これからです」
「何が」
「丈くんが、ちゃんとみんなを見るの」
「……」
「今でも話してますけど、まだちょっと外から見てる感じがします」
早苗の言葉は、時々妙に鋭い。
丈は、言い返せなかった。
外から見ている。
そうかもしれない。
諏訪はもう日常だ。
東京のことは遠い。
けれど、どこかでまだ。
自分はここに来た人間だと思っていたのかもしれない。
早苗の隣にはいる。
でも。
クラスの中。
町の中。
祭りの中。
その全部に、自分が入っているとは、まだ言い切れていなかったのかもしれない。
「丈くん」
「ん?」
「御柱祭、すごいですよ」
「急だな」
「たぶん、いろいろ見えます」
「何が」
「わかりません」
「出た」
「でも、そういうお祭りだと思います」
山から風が吹く。
木遣りが、もう一度響く。
よいさー。
丈は、その声をしばらく聞いていた。
その時。
道端の古い石が、ほんの少しだけ光った気がした。
「……」
「丈くん?」
「今、なんか」
「え?」
石の上。
小さな影が、跳ねたように見えた。
子供のような。
獣のような。
何か。
それは木遣りの声に合わせて、手を振っているようにも見えた。
次の瞬間には消えていた。
「……いや」
「また“いや”です」
「便利なんだよ」
「便利禁止です」
早苗はそう言いながらも、少しだけ山を見た。
たぶん。
早苗にも何か見えていた。
祭りが近づいている。
人だけではないものも、浮き立っている。
そんな感じがした。
◇
御柱祭の準備は、学校にも入り込んできた。
総合の時間。
先生が黒板に「御柱祭」と大きく書いた。
「今年は、みんな六年生で御柱を見られるな」
「はい!」
教室全体が返事をする。
先生は笑った。
「じゃあ今日は、御柱祭について調べたことを発表してもらう」
「えー!」
「宿題だっただろ」
「忘れてました!」
「堂々と言うな」
笑いが起きる。
丈はノートを開いた。
一応、調べてある。
諏訪大社の祭り。
山出。
里曳き。
木落し。
川越し。
御柱を社殿の四隅に建てる。
六年に一度。
数えで七年に一度。
調べれば、そういうことは出てくる。
けれど。
それだけでは、足りない気がした。
何が足りないのかは、まだわからない。
いや。
最近、少しだけわかってきた。
祭りは、紙の上にあるものではない。
掲示板の赤い文字。
店先の会話。
夜の集会所の灯り。
早苗の父親が何度も電話している声。
学校で妙に落ち着かない先生。
そういうもの全部が、祭りを作っている。
「じゃあ、浩介」
「はい!」
朝から叫んでいた男子が立ち上がる。
先生に名前を呼ばれて、丈は少しだけそちらを見た。
浩介。
そうだ。
浩介だ。
頭の中では言える。
でも、口には出ない。
今さら急に名前で呼んだら変だろ。
そう思ってしまう。
「御柱は、でかい木です!」
「ざっくりだな」
丈が呟く。
「でも合ってる!」
浩介が返す。
「山から曳いてきます! めちゃくちゃ危ないです! でもめちゃくちゃかっこいいです!」
「感想が強いな」
「木落しは、男の見せ場です!」
「お前は見るだけだろ」
「心は乗ってる!」
「乗るな」
教室が笑う。
次は由香だった。
落ち着いていて、よく早苗をからかう女子。
由香は、御柱祭の日程や地区の役割について話した。
次は健太。
屋台の話ばかりして先生に注意された。
次は祐一。
祖父から聞いた昔の木落しの話をして、途中で話が怖くなりすぎて女子に怒られた。
美咲は、家族が親戚を迎える準備をしている話をした。
名前。
顔。
声。
いつも教室にあったものが、急に輪郭を持つ。
丈は少し変な感じがした。
覚えていなかったわけではない。
でも、ちゃんと見ていなかったのかもしれない。
そして、早苗の番になった。
「東風谷」
「はい」
早苗が立ち上がる。
少し緊張している。
けれど。
神社のことや、諏訪のことを話す時の早苗は、声が通る。
「御柱祭は、諏訪大社のお祭りです」
早苗は言った。
「山から大きな木を曳いてきて、神様の柱として建てます。木はただの木ではなくて、山から里へ降りてくるものです」
教室が少し静かになる。
「六年に一度、数えで七年に一度の大きなお祭りです。諏訪大社のお祭りですが、町の人や他の神社、役場や市民会の人たちも協力しています」
早苗は一度、窓の外の山を見た。
「だから御柱祭は、諏訪全体のお祭りでもあると思います」
少し間が空いた。
誰も笑わなかった。
先生が頷く。
「いい発表だ」
浩介が「すげー」と言う。
健太が「東風谷っぽい」と言う。
由香と美咲が頷いている。
丈は、早苗を見ていた。
昔なら。
変なことを言うな、と思ったかもしれない。
神様とか。
山から里へ降りるとか。
そういう言い方は、普通なら少し大げさだ。
でも。
今は、そう思わなかった。
むしろ。
ああ、そういうことなのかもしれない。
そう思った。
御柱祭は、ただの祭りではない。
山が動く。
町が動く。
人が動く。
神社が動く。
諏訪全体が、一つの方向へ向かっている。
その感じを、早苗はちゃんと言葉にしていた。
丈は少しだけ悔しかった。
自分がうまく言えないものを、早苗は先に言ってしまう。
昔から、時々そうだ。
◇
放課後。
丈は早苗に言った。
「お前の発表、よかったな」
「えっ」
「御柱祭のやつ」
「本当ですか?」
「本当」
「神様っぽすぎませんでした?」
「お前はだいたい神様っぽいだろ」
「褒めてます?」
「半分くらい」
「半分なんですか」
早苗は少し笑った。
「でも、笑われなくてよかったです」
「誰が笑うんだよ」
「前は、ちょっと浮いてましたし」
「……」
丈は黙る。
前は。
確かに、早苗は少し浮いていた。
神様の話を急にする。
怖いことを真面目に言う。
嘘をつかない。
隠すのが下手。
それで周りから少し距離を置かれていた。
丈も最初は、変なやつだと思っていた。
今でも変なやつだとは思っている。
でも。
それだけではない。
「今は、別に浮いてねぇだろ」
丈は言った。
「そうでしょうか」
「そうだろ」
「丈くんが言うなら、そうかもしれません」
「俺基準かよ」
「はい」
「信用されてんのか雑に使われてんのかわかんねぇな」
「信用してます!」
「そりゃどうも」
丈は少し照れて、目を逸らした。
「丈くん」
「ん?」
「御柱祭、楽しみですね」
「ああ」
「今、“まあ”じゃなかったです」
「……そうだっけ」
「はい」
「聞き逃せよ」
「嫌です」
「なんで」
「嬉しいので」
「またそれか」
早苗は笑った。
山から風が吹く。
木遣りの声が、また遠くから聞こえた。
丈はその声を聞きながら、ぽつりと言った。
「なんかさ」
「はい」
「町ごと、祭りに向かってる感じする」
「はい」
「学校も、大人も、神社も、道も、山も」
「……はい」
「変だよな」
「変ですか?」
「変だけど」
丈は少し笑った。
「悪くない」
言ってから、少し止まる。
悪くない。
昔から、自分はよくそう言っていた。
諏訪に来たばかりの頃。
早苗と話すようになった頃。
神社に行くようになった頃。
変だ。
でも、悪くない。
そうやって誤魔化していた。
けれど。
今は、少し違う気がした。
悪くない、だけでは足りない。
でも、まだうまく言えない。
丈は黙った。
早苗はそれ以上、急かさなかった。
ただ隣で、同じ木遣りを聞いていた。
よいさー。
遠くの声に合わせて、山の方で何かが揺れる。
木々の中。
葉の影。
そこに、小さな影がいくつも見えた気がした。
人ではない。
獣でもない。
でも、楽しそうだった。
跳ねている。
揺れている。
祭りを待っている。
「……お前にも見えるか?」
丈が小さく聞く。
「はい」
早苗は小さく頷いた。
「嬉しそうですね」
「……あれ、嬉しいのか」
「たぶん」
「怖くないのか?」
「ちょっと怖いです」
「だよな」
「でも、悪い感じじゃありません」
早苗は山を見ていた。
「祭りが近いから、喜んでるのかもしれません」
丈も山を見る。
人ならざるもの。
よくわからないもの。
昔なら、見た瞬間に逃げていたかもしれない。
今でも怖くないわけではない。
でも。
それがこの土地にいるのなら。
祭りを楽しみにしているのなら。
少しくらい、見ていてもいい気がした。
◇
その夜。
守矢神社には、町内の人たちが集まっていた。
諏訪大社の御柱祭に向けた協力の打ち合わせ。
役場の人。
市民会の人。
近くの神社の人。
氏子。
商店街の人。
いろいろな人が来ていた。
丈も、なぜか早苗に連れてこられていた。
「なんで俺まで」
「人手は多い方がいいです!」
「俺、小学生なんだけど」
「私もです!」
「そういう問題か?」
社務所の中は慌ただしかった。
予定表。
地図。
通行止めの確認。
当日の人の流れ。
お茶。
紙コップ。
資料。
大人たちは皆、真剣だった。
祭りの話になると笑う。
でも、安全の話になると顔が変わる。
危ない祭りなのだ。
それが、子供の丈にもわかった。
早苗の父親は、いつもの穏やかな顔でいろいろな人と話していた。
でも、声には少し力が入っている。
役場の人が地図を指さす。
「ここは子供が入らないように」
「この辺りは道が狭いから、誘導を二人増やした方がいい」
「諏訪大社の方と時間を合わせないと」
「市民会の方で看板を出します」
「うちは湯茶の準備を」
「近くの神社にも連絡済みです」
言葉が飛び交う。
丈には全部はわからない。
でも、わかることもあった。
誰も、自分だけの祭りだとは思っていない。
全部が繋がっている。
道。
人。
神社。
山。
社務所の古い畳の匂い。
紙コップの安っぽい匂い。
大人たちの汗の匂い。
外から流れてくる夜の木の匂い。
全部が混ざっている。
「丈くん、これ運んでください」
「はいはい」
「はいは一回です!」
「先生かよ」
「巫女です!」
「関係ある?」
「あります!」
丈は段ボールを運ぶ。
中には案内用の紙が入っていた。
思ったより重い。
「うわ、重っ」
「頑張ってください!」
「お前も持て」
「持ってます!」
「ほぼ俺じゃねぇか!」
昔と同じやり取り。
でも、少し違う。
神社の空気も。
早苗の声も。
そこに集まる大人たちの熱も。
全部が、祭りへ向かっていた。
ふと、境内の方を見る。
御柱が立っている。
夜の中で、黒い影のように。
その奥。
風が吹いた。
『忙しそうだねぇ』
頭の奥で、声がした。
久しぶりだった。
軽い声。
だるそうな声。
「……」
『お祭り前って、みんな浮かれるからね』
「……」
丈は返事をしなかった。
けれど、以前ほど驚かなかった。
最近は声が聞こえても、まあそういうものか、と思うようになっていた。
良いことなのかはわからない。
境内の奥。
御柱のそば。
見えないはずの場所に、何かの気配が集まっている。
人の声につられて。
木遣りにつられて。
祭りの熱につられて。
小さな影たちが、石の陰や木の根元でざわめいている。
早苗がお茶を運びながら、ちらりとそちらを見た。
目が合う。
見えている。
やっぱり、早苗にも見えている。
「丈くん」
「ん?」
「怖いですか?」
「少し」
「私もです」
「でも、嫌じゃないんだろ」
「はい」
「……俺も」
言ってから、自分で少し驚いた。
怖い。
でも、嫌ではない。
それは、前にも言った気がする。
神社の夜。
御柱の奥。
土の下から立ち上る気配。
あの時と似ている。
でも、今日はもっと明るい。
人がいる。
声がある。
祭りが近い。
それだけで、怖いものも少し違って見える。
◇
数日後。
丈たちは、町内の準備を見に行った。
男子たち。
女子たち。
それから早苗。
広場では、大人たちが綱を確認していた。
太い。
子供の腕よりずっと太い。
麻の匂い。
木の匂い。
土の匂い。
祭りの道具が並んでいる。
広場の端には、仮設の看板が立てられていた。
通行の矢印。
立入禁止の線。
救護所の場所。
屋台の区画。
普段はただの空き地みたいな場所が、祭りの場所に変わっていく。
ロープを張る大人。
杭を打つ大人。
軽トラックから荷物を下ろす人。
小さな子供を連れた母親。
それを見て笑っている爺さん。
誰もが何かをしていた。
何もしていないように見える人でさえ、誰かの話を聞いて頷いている。
この町には、こんなに人がいたのか。
丈は、今さらそんなことを思った。
「すげー!」
朝から騒がしい男子が叫ぶ。
「綱でっか!」
別の男子が触ろうとして、大人に止められる。
「勝手に触るなよー」
「すみません!」
真面目な男子は横で頷いている。
「これで御柱を曳くんだよな」
丈が言った。
「そうです」
早苗が答える。
「大勢で」
「これ、人が曳くのか」
「はい」
「機械じゃなくて?」
「人です」
「……すげぇな」
丈は、綱を見ていた。
真剣な顔になっている自覚があった。
大人たちが綱を扱う手つきは、遊びではない。
誰もふざけていない。
祭りなのに。
楽しいはずなのに。
その奥に、怖さがある。
危険がある。
それでもやる。
それが、妙に胸に残った。
「丈、祭り見たら絶対びびるぞ」
朝から騒がしい男子が言う。
「もうちょい言い方あるだろ」
「いや、びびるって!」
「浩介、木落しの映像見て叫んでたじゃん」
女子が言う。
浩介。
そうだ。
浩介だ。
丈は、その名前を頭の中で繰り返す。
でも、言わない。
言えない。
今さら急に呼んだら、変だろ。
そう思ってしまう。
「叫んでねぇ!」
「叫んでたよ」
もう一人の女子も笑う。
「うわー!って」
「それは歓声!」
「悲鳴だったぞ」
丈が言った。
「丈まで!?」
男子が叫ぶ。
みんなが笑う。
丈も少し笑う。
名前は呼ばない。
でも、顔は見ている。
声も。
癖も。
誰が何を言いそうかも。
前よりずっと、わかる。
それに気づいて、丈は少し変な気持ちになった。
広場の端。
綱の近く。
地面の低いところで、何かがぴょんと跳ねた。
小さな影。
子供みたいなもの。
古い獣みたいなもの。
それが、みんなの笑い声に合わせて踊るように跳ねていた。
「……」
丈が見ていると、早苗が横に来た。
「見えました?」
「ああ」
「嬉しそうです」
「そう見えるな」
「名前を呼んだら、もっと喜ぶかもしれませんね」
「何でそこでそれなんだよ」
「なんとなくです」
「怖いこと言うな」
「怖いですか?」
「ちょっとな」
早苗は少し笑った。
「でも、いつか呼べますよ」
「……」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「はい」
早苗は山の方を見た。
「祭りの日なら、呼べるかもしれません」
「なんで」
「そういう日だからです」
「説明になってねぇ」
「でも、そんな気がします」
丈は何も言えなかった。
けれど、胸の奥で何かが小さく動いた。
名前を呼ぶこと。
見えるものに輪郭を与えること。
怖いものに名前をつけるな。
そう言われたことがある。
でも。
友達の名前は、呼んだ方がいい。
そんな当たり前のことを。
丈は、まだ口にできずにいた。
◇
夕方。
広場からの帰り道。
みんなと別れたあと、丈と早苗は少し遠回りをした。
諏訪湖の方へ。
湖は夕日を受けて、赤く光っていた。
水面が揺れている。
風が吹く。
遠くに山。
その向こうに、これから御柱になる木がある。
早苗が湖を見ながら言った。
「諏訪って、広いですね」
「急だな」
「いえ、なんとなく」
「まあ、広いな」
「神社だけじゃなくて、学校も、町も、湖も、山も、全部諏訪なんですね」
「当たり前だろ」
「当たり前なんですけど」
早苗は少し笑った。
「最近、わかった気がします」
「俺は、今さらわかってきた」
丈は言った。
湖を見ながら。
「最初は、変な町だと思ってた」
「はい」
「神社あるし、山近いし、なんかみんな距離近いし」
「距離近いですか?」
「近いだろ」
「そうでしょうか」
「お前が一番近い」
「えっ」
早苗が固まる。
丈は自分で言ってから、少し気まずくなる。
「いや、物理的に」
「ぶ、物理的に」
「叩くし」
「確認です!」
「ほら近い」
「うぅ……」
早苗は顔を赤くする。
丈は少し笑った。
「でも」
「はい」
「それも、今は普通になった」
早苗は黙る。
普通。
その言葉が、湖の上に落ちる。
「東京のこと、全然考えなくなった」
丈は言った。
「たまに思い出すけど、なんか遠い」
「……寂しくないですか?」
「どうだろ」
「丈くん」
「ん?」
「無理してません?」
丈は少し考えた。
それから首を振った。
「してない」
「本当ですか?」
「本当」
「確認していいですか?」
「今の流れで叩くのかよ」
「確認です」
ぽん。
「……まあ、いいけど」
丈は呆れたように言った。
でも、嫌ではなかった。
湖の上を風が渡る。
遠くで、木遣りの練習が聞こえた。
よいさー。
その声が、水面を滑るように響いてくる。
丈はその声を聞きながら、ぽつりと言った。
「嫌いじゃない、じゃ足りなくなってきた」
「え?」
「諏訪」
早苗が息を止めた。
「それって」
「まだ言わねぇ」
「えぇ!?」
「当日に取っとく」
「何をですか!」
「知らねぇけど」
「丈くん!」
早苗が慌てる。
丈は少し笑った。
自分でも、よくわからなかった。
でも。
今ここで言ってしまうより。
祭りの日。
御柱を見て。
町が動くのを見て。
山が降りてくるのを見て。
その時に、ちゃんと言いたい気がした。
好きだ、と。
たぶん。
ちゃんと。
「確認です!」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「今の確認です!」
ぽん。
「痛くはないけどさ」
「確認です!」
「二回言うな」
早苗は嬉しそうだった。
湖が夕焼けで赤い。
山が遠くにある。
町の方から祭りの気配がする。
隣に早苗がいる。
丈は、その全部を見ていた。
嫌いじゃない。
悪くない。
では、もう足りない。
けれど。
それが形になるのは、たぶん明日だ。
そう思った。
◇
祭りの前日。
空は晴れていた。
山の輪郭がくっきり見える。
放課後。
丈と早苗は、いつもの坂道を歩いていた。
町は、いつもより少し静かだった。
嵐の前ではない。
祭りの前の静けさ。
みんなが息を整えているような。
そんな静けさ。
道沿いの家には、親戚を迎えるための布団が干されていた。
玄関先では、婆さんが大きな鍋を洗っている。
畑の横では、男たちが明日の集合時間を確認していた。
商店のシャッターには、御柱祭の張り紙がある。
酒屋の前のケースは、朝より増えていた。
遠くの集会所には、まだ灯りがついている。
まだ昼間なのに、明日の気配がした。
「明日ですね」
早苗が言う。
「ああ」
「楽しみですか?」
「楽しみ」
即答だった。
早苗がぱっと笑う。
「丈くんが即答しました」
「悪いか」
「悪くないです!」
「また声でけぇ」
「すみません!」
丈は山を見る。
「明日、すごいんだろうな」
「すごいです」
「お前、見たことあるのか?」
「小さい頃にあります。でも、あまり覚えていません」
「じゃあ、ほぼ初めてじゃん」
「はい」
「……そっか」
丈は少し笑った。
「じゃあ、一緒だな」
「……はい」
早苗は少し俯いた。
耳が赤い。
「丈くん」
「ん?」
「明日も、ちゃんと隣にいてくださいね」
「混むからな」
「そういう意味じゃなくて」
「わかってる」
「本当ですか?」
「本当」
「確認していいですか?」
「明日前に壊すなよ」
「壊しません!」
ぽん。
いつものように肩を叩かれる。
丈は呆れたように笑った。
「はいはい」
「軽いです」
「重く言うことか?」
「大事です!」
「そうかよ」
山から風が吹く。
遠くで、最後の木遣りが聞こえた。
よいさー。
それは、いつもより低く。
いつもより深く。
明日へ向かって、諏訪の空に伸びていった。
木々の間。
道端の石。
用水路の影。
そこに、何かがいた。
小さなもの。
細いもの。
丸いもの。
形のはっきりしないもの。
それらが、風に揺れるように集まっていた。
楽しみにしている。
丈には、そう見えた。
「……早苗」
「はい」
「あいつらも、楽しみなのか」
「たぶん」
「祭りって、人だけじゃないんだな」
「はい」
「……そっか」
丈は山を見る。
人も。
神社も。
町も。
山も。
よくわからないものたちも。
全部が、明日を待っている。
そう思うと、胸の奥がざわざわした。
怖さではない。
不安でもない。
期待。
たぶん、そういうものだった。
◇
その夜。
丈はなかなか眠れなかった。
布団の中で、天井を見ていた。
明日。
御柱祭が始まる。
諏訪大社の祭り。
けれど、それだけではない。
守矢神社も動く。
町も動く。
学校も大人も子供も、みんな動く。
山から木が降りてくる。
人が曳く。
声を合わせる。
柱が建つ。
それは、調べた知識だけではわからないものだった。
丈は目を閉じる。
木遣りの声が、まだ耳の奥に残っている気がした。
よいさー。
よいさー。
山が呼吸している。
町が息を合わせている。
諏訪が、祭りを待っている。
そして丈も。
その中で、祭りを待っていた。
東京のことは、思い出さなかった。
明日のことだけを考えていた。
諏訪のことだけを。
早苗のことだけを。
そして、眠りに落ちる直前。
頭の奥で、あの軽い声がした。
『明日だねぇ』
丈は目を開けかけた。
けれど眠かった。
『ちゃんと見なよ』
声は、いつも通り軽かった。
でも、少しだけ遠い。
『人が山を呼ぶところ』
何が。
そう聞こうとした。
けれど、声はもう消えていた。
代わりに、遠くで風が鳴る。
山が鳴る。
明日。
御柱祭が始まる。