昔々、ある海辺の村に、浦島太郎という若者がおりました。
浦島太郎は、毎日海へ出て魚を捕り、母親を助けて暮らしていました。気立てがよく、困っているものを見ると放っておけない性分でした。
ある日のことです。
浦島太郎が浜辺を歩いていると、子どもたちが何やら騒いでいました。
「こいつ、のろまだぞ」
「ひっくり返してやれ」
「海まで逃げられるかな」
見ると、子どもたちが一匹の亀をいじめていました。亀は砂浜の上で手足をばたつかせ、何とか海へ戻ろうとしていましたが、子どもたちに囲まれて動けません。
浦島太郎は、すぐに駆け寄りました。
「やめなさい。弱いものをいじめてはいけないよ」
子どもたちは、少し気まずそうな顔をしました。
「だって、亀だもん」
「のろいから遊んでただけだよ」
「のろいからって、いじめていい理由にはならない」
浦島太郎が静かにそう言うと、子どもたちは顔を見合わせ、やがて走って逃げていきました。
浦島太郎は、砂だらけになった亀をそっと抱き上げました。
「大丈夫かい」
亀は、ぱちぱちと目を瞬かせました。
「助けてくださり、ありがとうございます」
浦島太郎は驚きました。
「亀がしゃべった」
「亀も、礼くらいは言います」
亀はまじめな顔で言いました。
「このご恩は忘れません。お礼に、竜宮城へご案内いたしましょう」
「竜宮城?」
「はい。海の底にある、とても美しい御殿です。乙姫様も、きっとあなたを歓迎してくださるでしょう」
浦島太郎は少し迷いました。
「それはありがたいけど、帰りは大丈夫なのかい。母が心配するし、あまり長くは家を空けられない」
「ご安心ください」
亀は胸を張りました。
「私が責任を持って送り迎えいたします」
浦島太郎は、亀の背中を見ました。
確かに大きい亀でした。人ひとりくらいなら乗れそうです。
「では、少しだけなら」
「はい。少しだけです」
浦島太郎は亀の背中に乗りました。
「では参ります」
亀は海へ入りました。
ざぶん。
涼しい波が浦島太郎の足を包みました。海の中へ潜るのかと思いましたが、亀は水面をゆっくり進みました。
ゆっくり。
とてもゆっくり。
浦島太郎は、しばらく待ちました。
浜辺がまだ近くに見えていました。
「あの」
「はい」
「竜宮城までは、どのくらいかかるのかな」
亀は少し考えました。
「そうですね。急げば三十年ほどで着きます」
「三十年?」
浦島太郎は聞き返しました。
「今、三十年と言ったかい」
「はい。急げば」
「急いで三十年?」
「はい。亀ですので」
浦島太郎は青ざめました。
「それは先に言ってほしかったな」
「申し訳ありません。私たち亀にとっては、三十年は少し遠出くらいの感覚でして」
「人間にとっては人生の大部分だよ」
「では、なるべく急ぎます」
亀は少しだけ速く泳ぎました。
しかし、浦島太郎から見ると、やはりゆっくりでした。
一年が過ぎました。
浜辺はもう見えませんでした。
浦島太郎は亀の背中で魚を釣り、海藻を食べ、星を見ながら眠りました。
二年が過ぎました。
浦島太郎は、波の音で季節を感じるようになりました。
三年が過ぎました。
亀は言いました。
「もう少しです」
「その“もう少し”は、人間のもう少しではなさそうだね」
「亀のもう少しです」
十年が過ぎました。
浦島太郎は、亀の甲羅の上でかなり上手に暮らせるようになっていました。
二十年が過ぎました。
浦島太郎は、海鳥と顔見知りになりました。
三十年が過ぎました。
ようやく、海の底に美しい光が見えてきました。
「浦島様、着きました」
「長かった……」
浦島太郎は、若者ではなく、すっかり年を重ねた男になっていました。
竜宮城は、それはそれは美しい場所でした。
珊瑚の柱は七色に光り、魚たちは列をなして泳ぎ、鯛やヒラメが舞い踊っていました。
乙姫様は浦島太郎を出迎えました。
「ようこそ、浦島太郎様。亀を助けてくださったお礼に、どうぞゆっくりしていってください」
浦島太郎は、深く頭を下げました。
「ありがとうございます。ただ、ここへ来るまでに三十年かかりました」
乙姫様は、亀を見ました。
「亀」
「はい」
「また説明しなかったのですね」
亀は気まずそうに目をそらしました。
「すみません」
乙姫様はため息をつきましたが、すぐに微笑みました。
「せめて、ここでは楽しくお過ごしください」
浦島太郎は、竜宮城でもてなしを受けました。
美しい舞を見ました。
珍しい料理を食べました。
鯛とヒラメの踊りを眺めました。
海の底の月のような光も見ました。
ただ、浦島太郎の心には、ひとつ心配がありました。
「帰りも、三十年かかるのだろうか」
その問いに、亀は静かに答えました。
「はい」
浦島太郎は、しばらく黙りました。
そして言いました。
「では、あまり長居はできない」
乙姫様は、申し訳なさそうに玉手箱を差し出しました。
「浦島太郎様。これはお土産です。ただし、決して開けてはなりません」
浦島太郎は箱を受け取りました。
「開けるとどうなるのですか」
乙姫様は少し困った顔をしました。
「いろいろと、大変なことになります」
「なるほど。説明がぼんやりしている」
「昔話ですので」
「それなら仕方ありませんね」
浦島太郎は玉手箱を懐にしまいました。
そして、ふたたび亀の背中に乗りました。
「では、帰ります」
「はい。参ります」
亀は泳ぎ出しました。
ゆっくり。
とてもゆっくり。
浦島太郎は、もう驚きませんでした。
一年が過ぎました。
竜宮城の光が遠ざかりました。
十年が過ぎました。
浦島太郎は、白髪が増えました。
二十年が過ぎました。
浦島太郎は、亀の甲羅に寄りかかりながら、昔の村を思い出しました。
三十年が過ぎました。
ようやく、懐かしい浜辺が見えてきました。
「浦島様、着きました」
「……そうか」
浦島太郎は亀の背中から降りました。
浜辺は、彼の記憶とは違っていました。
家は建て替わり、道は変わり、見知らぬ人々が歩いていました。浦島太郎を知る者は、誰もいませんでした。
浦島太郎は、ゆっくり村の方へ歩きました。
しかし、その足はすでに弱っていました。
亀で行きに三十年。
竜宮城で少し。
帰りに三十年。
人の一生には、少し長すぎる旅でした。
浦島太郎は浜辺に腰を下ろしました。
亀が心配そうに顔をのぞき込みました。
「浦島様」
浦島太郎は、玉手箱を見つめました。
「開ける暇もなかったな」
「申し訳ありません」
「いいんだ。亀を助けたことは、後悔していない」
浦島太郎は、遠い海を見ました。
「ただ、次からは」
「はい」
「竜宮城へ人を案内する時は、到着まで三十年かかると、最初に言っておくんだよ」
亀は深く頭を下げました。
「必ず」
浦島太郎は、少しだけ笑いました。
「それから、できれば速い魚を呼びなさい」
「はい」
「亀は、少し遅い」
「はい……」
浦島太郎は目を閉じました。
波の音が聞こえました。
竜宮城の音楽も、遠くで聞こえたような気がしました。
こうして浦島太郎は、村へ戻ったその日に、静かに息を引き取りました。
玉手箱は開けられませんでした。
ですから、煙も出ませんでした。
浦島太郎がおじいさんになる必要もありませんでした。
なぜなら、すでにおじいさんだったからです。
亀は、浜辺で長い間、浦島太郎に頭を下げていました。
その後、亀たちの間には新しい決まりができました。
一つ、人間を竜宮城へ連れていく前に、必ず所要時間を説明すること。
二つ、三十年以上かかる場合は、本人と家族の同意を取ること。
三つ、急ぎの用事がある人間には、イルカ便を使うこと。
そして浜辺には、小さな立て札が立てられました。
竜宮城行き
亀便:片道三十年
イルカ便:要予約
人間の寿命にご注意ください
めでたし、めでたし。
いいえ、あまりめでたくはありません。