神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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初投稿になります。


第1話 白線の向こう側

神奈川県警本部、捜査一課。

 

午前七時を少し回ったばかりの執務室には、すでに何人もの刑事が出入りしていた。夜通しの捜査で戻ってきた者、これから現場へ向かう者、机に突っ伏して仮眠を取る者。張り詰めた空気と、冷めきった缶コーヒーの匂いが混ざっている。

 

その中で、押村奏斗は一人、ホワイトボードの前に立っていた。

 

身長は決して高くない。むしろ刑事たちの中に入れば小柄な方だった。だが、背筋はまっすぐ伸びている。細い黒縁の眼鏡の奥で、眠気を押し殺した目が事件の相関図を追っていた。

 

「被害者は会社員、三十二歳。帰宅途中に襲われた。財布もスマホも残っている。物取りじゃない」

 

押村は小さく呟きながら、赤いペンで線を引いた。

 

「怨恨……いや、でも接点が薄すぎる」

 

その背後から、低く荒い声が飛んだ。

 

「押村ァ」

 

振り返ると、横溝重悟が腕を組んで立っていた。

 

坊主頭に鋭い目付き。黙っていても威圧感がある男だった。階級は警部。押村より三歳上だが、現場叩き上げの空気を全身にまとっている。

 

「また一人で全部抱え込んでんのか」

 

「いえ、横溝警部。整理していただけです」

 

「整理ぃ?」

 

横溝は鼻で笑い、押村の隣に立った。

 

「お前の“整理”はな、だいたい一人で勝手に深掘りして、気づいたら飯も食わずに倒れるやつだろうが」

 

押村は返事に困り、視線をホワイトボードに戻した。

 

「……現場周辺の防犯カメラ、確認します」

 

「話を逸らすな」

 

横溝の声が少し低くなる。

 

「いいか、押村。お前が仕事できるのは認めてる。だが、事件は一人で解くもんじゃねぇ」

 

「分かっています」

 

「分かってねぇ顔だ、それは」

 

押村は何も言わなかった。

 

分かっていないわけではない。むしろ、嫌というほど分かっている。

 

それでも、誰かに任せるということが苦手だった。

 

見落としがあったらどうする。

自分が確認していれば防げたことだったらどうする。

その迷いが、いつも彼の足を止める。

 

その時、執務室の入り口が勢いよく開いた。

 

「おーい、重悟。朝っぱらから怒鳴ってんじゃねぇよ。廊下まで響いてたぞ」

 

明るく、よく通る声。

 

押村が振り向くと、そこには白バイ隊員の制服姿の女性が立っていた。

 

萩原千速。

 

神奈川県警交通部、第三交通機動隊小隊長。階級は押村と同じ警部補。すらりとした長身に、凛とした目元。整った顔立ちをしているが、本人はそれを鼻にかけるような性格ではない。

 

むしろ、歩き方も口調も男勝りだった。

 

「千速。交通部の小隊長様が、捜査一課に何の用だ」

 

横溝が眉をひそめる。

 

千速はにやりと笑った。

 

「お前らが探してる不審車両、うちの隊員が似たやつを見てる」

 

押村の目が変わった。

 

「萩原、それはどこで?」

 

「奏斗、開口一番それかよ。久しぶりに会った同期に“元気か”くらい言えねぇのか」

 

「……元気か、萩原」

 

「遅い」

 

千速は呆れたように笑いながら、手に持っていた資料を押村に差し出した。

 

「昨日の夜、国道一号の側道。赤信号無視で逃げた黒いセダンがいた。ナンバーは一部だけだが、被害現場付近のカメラに映ってた車種と一致するかもしれない」

 

押村は資料を受け取ると、すぐに目を走らせた。

 

「……時間帯が合う」

 

「だろ?」

 

千速は得意げに顎を上げた。

 

「うちの若いやつが追おうとしたんだが、かなり危ない走りをしたらしい。逃げ慣れてる。普通の素人じゃねぇな」

 

横溝が低く唸る。

 

「事件の関係者か」

 

「可能性はあります」

 

押村は資料を見つめたまま言った。

 

「萩原、その隊員に直接話を聞きたい」

 

「いいぞ。けど、その前に」

 

千速は押村の顔をじっと見た。

 

「奏斗、お前寝てねぇだろ」

 

押村の手がわずかに止まる。

 

横溝がすかさず口を挟んだ。

 

「ほら見ろ。千速にもバレてんじゃねぇか」

 

「寝ています」

 

「何時間?」

 

千速が畳みかける。

 

「……二時間ほど」

 

「それは仮眠って言うんだよ、馬鹿」

 

千速は遠慮なく言った。

 

押村は少しだけ眉を寄せる。

 

「萩原、今は事件が――」

 

「事件だから言ってんだよ」

 

千速の声が、少し低くなった。

 

「お前が倒れたら、誰が被害者の無念を拾うんだ。誰が犯人を追うんだ。自分だけで背負ってるつもりかもしれねぇけどな、それ、周りを信用してねぇのと同じだぞ」

 

押村は言葉を失った。

 

その言葉は、横溝の叱責よりも深く刺さった。

 

同期だからこそ、千速は遠慮しない。

そして、遠慮しない言葉の中に、押村を気遣う温度がある。

 

横溝が腕を組んだまま、ふんと鼻を鳴らした。

 

「千速の言う通りだ。押村、三十分でいい。飯食え」

 

「しかし――」

 

「命令だ」

 

横溝の声が鋭く飛ぶ。

 

押村はしばらく沈黙したあと、静かに頷いた。

 

「……分かりました」

 

千速は満足そうに笑った。

 

「よし。じゃあ私が付き合ってやる」

 

「萩原は勤務中だろう」

 

「私も飯くらい食うわ。白バイ隊員を何だと思ってんだ」

 

「そういう意味では――」

 

「細かいな、相変わらず」

 

千速は押村の背中を軽く叩いた。

 

押村の身体が少し前に揺れる。

 

「行くぞ、奏斗。重悟、あとで隊員の報告書送っとく」

 

「ああ。頼む」

 

横溝は頷き、すぐに押村を睨んだ。

 

「押村。飯食ったら戻れ。サボったら承知しねぇぞ」

 

「はい」

 

「あと、千速」

 

「何だよ」

 

「こいつが飯残したら、無理やり食わせろ」

 

千速はにやりと笑った。

 

「任せろ。口こじ開けてでも食わせる」

 

「萩原、それは暴力だ」

 

「心配すんな。同期愛だ」

 

「なお悪い」

 

押村が淡々と返すと、千速は声を上げて笑った。

 

その笑い声に、張り詰めていた捜査一課の空気がわずかに緩む。

 

だが、押村の手元にある資料の中で、黒いセダンの一部ナンバーだけが不気味に浮かび上がっていた。

 

事件はまだ始まったばかりだった。

 

そして押村はまだ知らない。

 

この一台の車が、数年前に自分たち三人が関わった未解決事件へと繋がっていくことを。

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