神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第10話 交換条件

黒いワンボックスカーは、県警本部の敷地を抜け、朝の横浜市街へ消えていった。

 

その後ろ姿を、押村奏斗は一瞬だけ見失った。

 

目では追っていた。

頭でも理解していた。

 

萩原千速が連れ去られた。

犯人は資料との交換を要求している。

指定は、押村奏斗一人。

 

すべて分かっている。

 

それなのに、足が動かなかった。

 

地面には、千速の無線機が落ちている。

ついさっきまで彼女が持っていたものだ。

 

「奏斗」

 

そう呼ぶ声が、まだ耳に残っていた。

 

横溝重悟が押村の肩を強く掴んだ。

 

「押村!」

 

その声で、押村はようやく息を吸った。

 

「……追跡を」

 

「もう手配してる!」

 

横溝は怒鳴るように言った。

 

「だが、相手はこっちの配置を読んでる。普通に追っても逃げられるぞ」

 

押村は千速の無線機を握りしめたまま、顔を上げた。

 

「車両の特徴は黒のワンボックス。ナンバーは確認できませんでした」

 

「防犯カメラを洗う」

 

「県警内のシステムは使わない方がいいです」

 

横溝が一瞬だけ黙る。

 

押村の声は低かった。

 

「相手は県警内部に情報網を持っています。こちらが正規の手順で照会すれば、動きが筒抜けになる」

 

「じゃあ、どうする」

 

「交通部の外部連絡網を使います」

 

押村は顔を上げ、すぐに周囲の交通部隊員へ視線を向けた。

 

「萩原小隊長の部下はどこですか」

 

一人の若い白バイ隊員が前に出た。

 

「第三交通機動隊の新井です」

 

以前、黒いセダンを目撃した隊員だった。

 

押村は彼を見た。

 

「新井巡査長。萩原小隊長の指揮下で、信用できる隊員だけを動かしてください」

 

「はい」

 

「無線は通常回線を使わないでください。個別連絡で、主要道路の目撃情報だけを集める。追跡はしない。発見しても距離を取る」

 

新井は一瞬、悔しそうに唇を噛んだ。

 

「追わないんですか」

 

「相手は萩原警部補を人質にしています。追い詰めれば危険が増します」

 

「……分かりました」

 

押村は続ける。

 

「県警の照会端末は使わない。民間の防犯カメラ提供は、横溝警部の判断で限定的に依頼します」

 

横溝が頷いた。

 

「俺が信用できる所に当たる」

 

押村はようやく動き出した。

 

その姿は冷静に見えた。

 

だが、横溝には分かっていた。

 

押村は今、必死に感情を押し殺している。

 

冷静でいなければ、千速を助けられない。

そう自分に言い聞かせているだけだ。

 

横溝は押村の前に立った。

 

「押村」

 

「はい」

 

「一つだけ言っておく」

 

「何でしょうか」

 

「千速を助けたいなら、今のお前は絶対に一人で動くな」

 

押村は黙った。

 

横溝はさらに低い声で言った。

 

「相手の狙いは、資料だけじゃねぇ。お前だ」

 

押村は視線を落とす。

 

スマホには、犯人からのメールが残っていた。

 

『三年前の資料と交換だ。押村奏斗、一人で来い』

 

一人で来い。

 

分かりやすい罠だった。

 

だが、千速がそこにいる。

 

押村は静かに言った。

 

「それでも、行く必要があります」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「一人では行かせねぇ」

 

「分かっています」

 

その答えに、横溝は少しだけ目を細めた。

 

押村はゆっくりと続けた。

 

「一人で行くように見せます」

 

午前九時二十分。

 

県警本部の一室に、臨時の捜査拠点が作られた。

 

ただし、公式なものではない。

 

横溝が信用できる刑事二名。

千速の部下である第三交機の隊員三名。

そして押村。

 

人数は少ない。

 

だが、今はそれが必要だった。

 

机の上には、地下保管庫から持ち出した資料箱が置かれている。

 

焦げた段ボール。

煤のついたファイル。

焼け残った写真。

 

その中には、三年前の夜の決定的な証拠があった。

 

黒いセダンには、三人が乗っていた。

 

運転席、久我悠真。

助手席、証言者の男。

後部座席、戸倉圭吾。

 

監察官室次席、戸倉警視正の息子。

 

横溝が写真を睨んだ。

 

「久我だけじゃねぇ。戸倉も自分の息子を守った」

 

押村は頷いた。

 

「はい。三年前の事件は、複数の警察幹部が関与した隠蔽事件です」

 

「で、戸倉は今逃げてる」

 

「おそらく」

 

新井が地図を広げた。

 

「黒いワンボックスの目撃情報が入りました。県警本部を出た後、国道を避けて港湾方面へ向かっています」

 

押村の目が動く。

 

「港湾方面」

 

「はい。複数の隊員が距離を取って確認しています。最終目撃は大黒ふ頭方面です」

 

横溝が舌打ちする。

 

「また港かよ」

 

押村は地図上に指を置いた。

 

「港湾エリアなら、人気のない倉庫が多い。人質交換には向いています」

 

その時、押村のスマホが震えた。

 

室内の空気が一気に張り詰める。

 

差出人不明。

 

本文には、場所と時刻が記されていた。

 

『午前十一時。大黒ふ頭第七倉庫。資料を持って来い。警察を連れてくれば萩原千速は死ぬ』

 

添付画像が一枚。

 

押村は画面を開いた。

 

そこに写っていたのは、椅子に縛られた千速だった。

 

口元には布が巻かれている。

額に小さな傷。

だが、目は生きていた。

 

強い目だった。

 

カメラを睨みつけている。

 

押村の指が震えた。

 

横溝が画面を覗き込み、奥歯を噛んだ。

 

「千速……」

 

押村は画像を拡大した。

 

千速の背後に、鉄骨。

古い壁。

窓から差し込む光。

床に積まれた木箱。

 

「大黒ふ頭第七倉庫で間違いなさそうです」

 

横溝が言う。

 

「罠だ」

 

「はい」

 

「でも行くんだな」

 

「はい」

 

押村は即答した。

 

横溝は短く息を吐く。

 

「作戦は」

 

押村は地図を見た。

 

「私が資料を持って正面から入ります。横溝警部は裏手の搬入口から待機。第三交機は周辺道路を封鎖せず、離れた位置で退路を監視してください」

 

新井が驚いたように顔を上げる。

 

「封鎖しないんですか」

 

「相手に包囲を悟らせないためです。逃げ道を完全に塞ぐと、人質に危害が及ぶ可能性がある」

 

横溝が低く言う。

 

「逃がすのか」

 

「逃げると思わせます」

 

押村は地図上の一本道を指した。

 

「大黒ふ頭から出る主要ルートは限られています。相手が千速を連れて逃げるなら車を使う。逃走ルート上でタイヤを止める準備だけしてください。ただし、合図があるまで動かない」

 

新井は頷いた。

 

「了解しました」

 

横溝が押村を見る。

 

「お前はどうする」

 

押村は資料箱から一部のファイルを取り出した。

 

「本物の資料は持っていきません」

 

「偽物か」

 

「一部は本物にします。相手が確認しても即座には見破れないように」

 

横溝は眉をひそめた。

 

「資料を渡さずに、千速を助ける。簡単じゃねぇぞ」

 

「簡単ではありません」

 

押村は静かに言った。

 

「ですが、千速も資料も渡しません」

 

その声に、室内の誰も口を挟まなかった。

 

そこには、押村奏斗の決意があった。

 

普段のような冷静さだけではない。

怒りも、恐怖も、愛情に近い感情も、すべて抱えたまま、それでも前に進もうとする声だった。

 

横溝は押村をじっと見た。

 

「押村」

 

「はい」

 

「千速を助けたら、ちゃんと言え」

 

押村は一瞬、意味が分からず横溝を見た。

 

「何をですか」

 

横溝は呆れたように眉を寄せた。

 

「そこから説明しねぇと分かんねぇのか、お前は」

 

新井たちは気まずそうに視線を逸らす。

 

押村はわずかに考え込む。

 

横溝は大きくため息をついた。

 

「まあいい。今は千速を助けるのが先だ」

 

「はい」

 

「だが忘れるなよ。無事に戻ったらだ」

 

押村は静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

本当に分かっているのか怪しかったが、横溝はそれ以上言わなかった。

 

大黒ふ頭第七倉庫。

 

午前十時五十五分。

 

海風が鉄骨を鳴らしていた。

 

古びた倉庫の周囲に人影はない。

遠くでコンテナを運ぶクレーンの音が聞こえるだけだ。

 

押村は一人、正面入口へ歩いていた。

 

手には資料が入った鞄。

 

上着の内側には拳銃。

だが、それを抜くつもりはない。

 

今は千速の命が最優先だった。

 

倉庫の扉は半分開いていた。

 

押村は中へ入る。

 

薄暗い空間。

高い天井。

積み上げられた木箱とコンテナ。

床には埃と油染み。

 

そして中央に、千速がいた。

 

椅子に縛られている。

口元の布は外されていた。

 

押村の姿を見ると、千速は目を見開いた。

 

「奏斗!」

 

押村は足を止めた。

 

「萩原」

 

「来るなって言いたいところだけど、来ると思ってた」

 

「怪我は」

 

「額を少し切っただけだ。大したことねぇ」

 

千速はいつものように強がって笑った。

 

だが、手首には縄の跡があり、頬にも赤い痕があった。

 

押村の奥で、怒りが静かに燃え上がる。

 

「よくも――」

 

「奏斗」

 

千速が遮った。

 

「冷静でいろ」

 

押村は一瞬、息を止めた。

 

人質にされている千速に、冷静さを諭される。

 

いつもなら皮肉の一つも返すところだが、今はただ頷いた。

 

「分かっている」

 

倉庫の奥から拍手の音が聞こえた。

 

ゆっくりと、男が現れる。

 

戸倉警視正だった。

 

その後ろには、銃を持った男が二人。

 

さらに奥の影には、もう一人の若い男が立っていた。

 

戸倉圭吾。

 

三年前、黒いセダンの後部座席に乗っていた男。

 

押村は彼を見た。

 

「戸倉圭吾さんですね」

 

若い男は怯えたように父親の背後へ下がった。

 

戸倉警視正が静かに笑う。

 

「よくここまで辿り着きましたね、押村警部補」

 

「萩原を解放してください」

 

「資料が先です」

 

「彼女の無事が先です」

 

戸倉の目が冷たくなる。

 

「立場を理解していないようだ」

 

男の一人が千速のこめかみに銃を向けた。

 

押村の目が鋭くなる。

 

千速は歯を食いしばった。

 

「奏斗、渡すな」

 

戸倉が笑う。

 

「勇ましいですね、萩原警部補」

 

千速は戸倉を睨みつけた。

 

「あんた、自分の息子を守るために、三年前の少年を見殺しにしたんだな」

 

戸倉の表情が少しだけ歪んだ。

 

「言葉を選びなさい」

 

「図星かよ」

 

「黙らせろ」

 

銃を持った男が千速の髪を掴む。

 

押村の足が一歩動いた。

 

「やめろ」

 

戸倉が押村を見る。

 

「資料を」

 

押村は鞄をゆっくりと床に置いた。

 

「ここにあります」

 

「開けなさい」

 

押村は鞄を開ける。

 

中には焦げたファイルと写真のコピー、一部の原本が入っている。

 

戸倉の目が動いた。

 

「本物ですか」

 

「一部は」

 

戸倉が眉を寄せる。

 

「正直ですね」

 

「嘘をついても、あなたは確認するでしょう」

 

「では全部渡しなさい」

 

「萩原を解放したら」

 

戸倉は小さく笑った。

 

「交渉できる立場だと?」

 

押村は静かに言った。

 

「できます」

 

「なぜ?」

 

「あなたは資料を燃やし損ねた。私を殺しても、資料がすべて消えた保証はない。萩原を殺せば、あなたは交渉材料を失う」

 

戸倉の表情が冷える。

 

押村は続けた。

 

「あなたは今、私を脅しているのではない。焦っている」

 

千速は押村を見た。

 

この状況でも、押村は相手を観察している。

恐怖を押し殺し、怒りを抑え、言葉で追い詰めている。

 

だが、その指先がわずかに震えていることに、千速だけが気づいた。

 

「押村奏斗」

 

戸倉は静かに言った。

 

「君は優秀だ。だから惜しい」

 

「何がですか」

 

「組織に逆らう者は、組織に潰される」

 

「組織とは、あなたのことですか」

 

「秩序のことです」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「あなたの言う秩序は、罪を隠すための言葉です」

 

「違う」

 

初めて、戸倉の声が強くなった。

 

「警察が揺らげば、市民の信頼が失われる。幹部の息子が死亡事故を起こし、監察がそれを知りながら隠したなどと公になれば、県警全体が崩れる」

 

「だから、少年一人の命をなかったことにした」

 

「必要な犠牲だった」

 

その瞬間、千速が椅子の上で身を乗り出した。

 

「ふざけんな!」

 

倉庫に声が響く。

 

「必要な犠牲? あの子は母親にプレゼントを持って帰る途中だったんだぞ! あんたらの面子のために死んだんじゃねぇ!」

 

戸倉は千速を睨んだ。

 

「黙れ」

 

「黙らねぇよ」

 

千速の目は燃えていた。

 

「警察の信頼を壊したのは、事件を起こした息子じゃねぇ。隠したあんたらだ」

 

押村は千速を見た。

 

その言葉は、押村が言いたかったことでもあった。

 

戸倉の顔に明確な怒りが浮かぶ。

 

「もういい」

 

彼は部下に視線を向けた。

 

「資料を回収しろ。押村は処分する。萩原もだ」

 

千速の顔が険しくなる。

 

押村はゆっくり息を吸った。

 

その瞬間。

 

倉庫の外から、車のブレーキ音が響いた。

 

戸倉が振り返る。

 

同時に、搬入口側のシャッターが激しく開いた。

 

「神奈川県警だ! 動くな!」

 

横溝重悟の怒鳴り声だった。

 

彼を先頭に、刑事たちがなだれ込む。

 

戸倉の部下が銃を向ける。

 

だが、その背後から白バイ隊員たちが突入した。

 

新井たち第三交機の隊員だった。

 

「萩原小隊長を離せ!」

 

現場は一瞬で混乱した。

 

押村はその隙を逃さなかった。

 

床に置いた鞄を蹴り飛ばし、戸倉の部下の視界を遮る。

 

同時に、千速へ走った。

 

「萩原!」

 

銃を持った男が押村に向けて腕を上げる。

 

横溝が叫ぶ。

 

「押村、伏せろ!」

 

銃声。

 

弾は押村の肩をかすめた。

 

痛みが走る。

 

だが、押村は止まらなかった。

 

千速の前に飛び込み、椅子ごと彼女を倒すようにして射線から外した。

 

「奏斗!」

 

「無事か」

 

「お前が撃たれただろ!」

 

「かすっただけだ」

 

「嘘つけ!」

 

押村はナイフで縄を切ろうとする。

 

手がうまく動かない。

 

千速が低く言う。

 

「落ち着け。お前、手ぇ震えてる」

 

押村は息を呑んだ。

 

千速は真っ直ぐに押村を見た。

 

「私はここにいる。だから焦るな」

 

その言葉で、押村の呼吸が少しだけ整った。

 

縄が切れる。

 

千速の手が自由になった瞬間、彼女は立ち上がった。

 

「借りは返す」

 

「萩原、無理は――」

 

「うるせぇ!」

 

千速は近くにいた男の腕を掴み、鮮やかな動きで投げ飛ばした。

 

男は床に叩きつけられ、拳銃が滑る。

 

横溝がそれを蹴り飛ばし、部下を取り押さえた。

 

「千速! 無事か!」

 

「無事だ! 奏斗がちょっと撃たれた!」

 

「何だと押村ァ!」

 

「かすっただけです」

 

「それ後で説教だ!」

 

倉庫の奥では、戸倉が息子の圭吾を連れて逃げようとしていた。

 

押村が立ち上がる。

 

「戸倉!」

 

戸倉は振り返り、銃を手にしていた。

 

自分で持っていたのか、部下のものを拾ったのか。

 

銃口は押村に向けられている。

 

「来るな」

 

押村は足を止めた。

 

千速が横に並ぶ。

 

横溝も銃を構える。

 

戸倉の背後で、圭吾が震えていた。

 

「父さん、もうやめよう……」

 

戸倉が怒鳴る。

 

「黙れ!」

 

圭吾は涙を浮かべた。

 

「三年前からずっと怖かったんだ……悠真が人を轢いて、父さんたちが全部隠して……俺、何度も言おうとした。でも父さんが……」

 

「黙れと言っている!」

 

押村は静かに言った。

 

「戸倉警視正。もう終わりです」

 

「終わらない」

 

戸倉の声は震えていた。

 

「こんなことで、私の築いてきたものを終わらせるわけにはいかない」

 

千速が低く言う。

 

「終わらせたのはあんただ」

 

戸倉の指が引き金にかかる。

 

押村は千速の前に出ようとした。

 

だが、その腕を千速が掴んだ。

 

「奏斗」

 

「萩原」

 

「また一人で前に出るな」

 

押村は動きを止めた。

 

その一瞬。

 

横溝が叫ぶ。

 

「戸倉ァ!」

 

戸倉の視線が横溝へ動いた。

 

押村と千速が同時に動く。

 

千速が戸倉の腕を蹴り上げ、押村が銃を持つ手首を押さえ込む。

 

銃声が天井へ抜けた。

 

横溝が飛び込み、戸倉を床へ叩きつける。

 

「確保ォ!」

 

刑事たちが一斉に戸倉を押さえた。

 

手錠がかかる。

 

戸倉は床に伏せたまま、それでも叫んでいた。

 

「私は間違っていない! 組織を守ったんだ!」

 

横溝が低く言った。

 

「違うな」

 

戸倉が顔を上げる。

 

横溝は怒りを噛み殺すように続けた。

 

「お前が守ったのは、組織じゃねぇ。てめぇの息子と自分の地位だ」

 

押村は膝をついた圭吾を見る。

 

「戸倉圭吾さん」

 

圭吾は震えながら顔を上げた。

 

「三年前のことを、証言してください」

 

圭吾は涙を流しながら頷いた。

 

「……はい」

 

その瞬間、押村はようやく息を吐いた。

 

終わったわけではない。

 

久我誠一郎。

久我悠真。

宮永怜司。

佐伯慎吾。

戸倉警視正。

戸倉圭吾。

 

まだ供述を固めなければならない。

証拠も整理しなければならない。

組織の中で抵抗もあるだろう。

 

だが、最大の扉は開いた。

 

三年前の夜に車に乗っていた者が、証言する。

 

それだけで、事件は大きく動く。

 

千速が押村の肩を見た。

 

「奏斗、血」

 

押村は自分の肩を見る。

 

上着が赤く染まっていた。

 

「問題ない」

 

「あるに決まってんだろ!」

 

千速は怒鳴った。

 

その声が、倉庫に響く。

 

押村は少しだけ目を丸くする。

 

千速はそのまま押村の胸ぐらを掴んだ。

 

「何で私を庇って撃たれてんだよ!」

 

「君を助けるためだ」

 

「そういうこと聞いてんじゃねぇ!」

 

「では、どう答えればいい」

 

「分かれよ、それくらい!」

 

千速の声が少し震えていた。

 

押村は、その震えに気づいた。

 

彼女は怒っている。

だが、それ以上に怖かったのだ。

 

自分が連れ去られたことではなく、押村が傷ついたことに。

 

押村はゆっくりと言った。

 

「千速」

 

千速の手が止まる。

 

横溝が近くで顔をしかめた。

 

「おい、今ここで始めるなよ」

 

押村は横溝の声を聞いていないようだった。

 

千速だけを見ていた。

 

「無事でよかった」

 

それだけだった。

 

けれど、その一言に、千速の怒りは行き場を失った。

 

彼女は唇を噛み、目を逸らす。

 

「……馬鹿」

 

押村は静かに頷いた。

 

「そうかもしれない」

 

「否定しろよ」

 

「否定できる材料が少ない」

 

千速は少しだけ笑ってしまった。

 

涙が出そうになるのを誤魔化すように、押村の無事な方の肩を軽く叩く。

 

「帰ったら説教だ」

 

「横溝警部にも同じことを言われた」

 

「じゃあ二倍だな」

 

横溝が遠くから怒鳴る。

 

「救急呼べ! 押村が撃たれてる!」

 

押村はすぐに言った。

 

「かすっただけです」

 

千速と横溝が同時に叫んだ。

 

「黙れ!」

 

押村は黙った。

 

倉庫の外には、朝の光が差し始めていた。

 

海風が、焦げた資料の匂いと火薬の匂いを少しずつ流していく。

 

三年前から走り続けた黒いセダンの亡霊は、ようやく止まりかけていた。

 

だが、本当の終わりはまだ先にある。

 

これから、警察組織の中に隠された罪を、正式に暴かなければならない。

 

そして、押村奏斗にはもう一つ、向き合わなければならないものがあった。

 

事件ではない。

 

萩原千速への、自分の気持ちだった。

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