大黒ふ頭第七倉庫での確保劇から、三時間が経った。
県警本部は、騒然としていた。
久我誠一郎。
久我悠真。
戸倉警視正。
戸倉圭吾。
宮永怜司。
佐伯慎吾。
三年前のひき逃げ事件を隠蔽した関係者たちの名前が、次々と捜査資料に並んでいく。
捜査一課だけでは処理しきれない。
警務部も、監察官室も、刑事部も巻き込む大事件になった。
だが、押村奏斗はその中心にいなかった。
病院の処置室にいた。
「だから、かすっただけです」
押村がそう言うと、包帯を巻いていた医師が呆れた顔をした。
「かすっただけで、こんなに出血しません」
「銃創としては軽傷です」
「比較対象が物騒すぎます」
横に立っていた萩原千速が、腕を組んで深く頷いた。
「先生、もっと言ってやってください」
押村は千速を見る。
「萩原、君も念のため診察を受けた方がいい」
「私は受けた。額の傷も大したことねぇってさ」
「ならよかった」
「よくねぇよ。お前の方が撃たれてんだよ」
押村は少し考えた。
「正確には銃弾が肩をかすめた」
「撃たれたんだよ、それは」
「そうか」
「そうだよ」
千速は苛立ったように言ったが、その声には疲れが滲んでいた。
無理もない。
拉致され、縛られ、銃を突きつけられ、目の前で押村が撃たれた。
それでも彼女は強がっている。
押村はそれに気づいていた。
医師が処置を終える。
「数日は安静にしてください。激しい動きは避けること。傷が開いたらすぐ来てください」
「分かりました」
押村は素直に頷いた。
千速が目を細める。
「本当に分かってるか?」
「分かっている」
「じゃあ、今日はもう帰れ」
「まだ取調べが――」
千速の目が一気に鋭くなった。
「奏斗」
押村は黙った。
名前を呼ばれただけなのに、反論の余地が消えた。
千速は低く言う。
「帰れ」
「……はい」
医師が小さく笑った。
「いい上司ですね」
千速はすぐに言い返した。
「上司じゃありません。同期です」
押村は静かに付け加えた。
「特別な同期です」
千速が固まった。
処置室の空気が、妙な沈黙に包まれる。
医師が気まずそうにカルテへ視線を落とした。
千速は押村を睨む。
「お前、急に何言ってんだ」
押村は不思議そうに答えた。
「事実を言った」
「そういうところだぞ」
「どういうところだ」
「分かってねぇならいい」
千速は顔を背けた。
その耳が少し赤いことに、押村は気づいた。
気づいたが、どう触れるべきか分からなかったので、黙った。
病院を出た頃には、外は夕方になっていた。
空は薄い紫に染まり、街灯が一つずつ灯り始めている。
横溝重悟は病院の玄関前で待っていた。
片手に缶コーヒー。
もう片方の手には、押村の上着。
「よう、負傷者」
「横溝警部」
「医者は何て?」
「数日は安静に、と」
横溝は押村をじっと見た。
「で、お前は守る気あんのか」
「あります」
「信用できねぇな」
千速が隣で頷く。
「同感だ」
押村は二人を見る。
「そこまで信用がないとは思いませんでした」
横溝が鼻で笑う。
「お前の自己認識はいつもズレてんだよ」
そして横溝は、押村の上着を渡した。
「事件の方は動いてる。お前がいなくても回る」
「ですが――」
「押村」
横溝の声が少し低くなる。
「戸倉圭吾が証言を始めた」
押村の表情が変わる。
「内容は」
「三年前、久我悠真が運転していたこと。自分ともう一人が同乗していたこと。事故後、久我が父親へ連絡し、戸倉警視正にも話が回ったこと。宮永が逃走経路を整理し、佐伯が車両照会を止めたこと」
千速が静かに息を吐いた。
「ようやく喋ったか」
横溝は頷いた。
「ああ。録音データとも一致する。これで三年前の事件は再捜査に入る」
押村は小さく目を伏せた。
三年前、何度も足を運んだ被害者宅。
母親の泣き顔。
渡されるはずだった誕生日プレゼント。
ようやく、そこに答えを持っていける。
だが、喜びとは違った。
遅すぎた。
あまりにも遅すぎた。
横溝はそれを見抜いたように言った。
「押村」
「はい」
「お前のせいじゃねぇ」
押村は答えない。
横溝は続けた。
「俺たち全員が悔やむべき事件だ。だが、一人で背負う事件じゃねぇ」
千速も横から言った。
「そうだぞ。私も重悟もいる」
押村はゆっくり顔を上げた。
横溝は缶コーヒーを押村の胸に軽く当てた。
「だから今日は帰れ。千速、こいつ送ってやれ」
千速が少し驚く。
「私が?」
「放っといたら本部に戻るぞ」
「それはそうだな」
「俺は戻って取調べを見てくる。お前らは今日は休め」
押村が口を開く。
「横溝警部、私は――」
横溝の鋭い目が飛ぶ。
「命令だ」
押村は黙った。
「はい」
横溝は満足そうに頷く。
そして千速を見た。
「千速」
「何だ」
「押村が本部に戻ろうとしたら、殴ってでも止めろ」
千速はにやりと笑う。
「任せろ」
「殴るのは困る」
押村が言うと、二人は同時に返した。
「なら大人しく帰れ」
押村の自宅は、県警本部から少し離れた古いマンションだった。
派手さはない。
必要最低限のものしか置かれていない。
部屋の中は整っていたが、生活感が薄い。
千速は玄関に入るなり眉をひそめた。
「相変わらず、刑事資料の仮置き場みたいな部屋だな」
「自宅だ」
「知ってる。だから問題なんだよ」
リビングのテーブルには、事件資料ではなく、読みかけの法医学関係の本と未開封の栄養補助食品が置かれていた。
千速はそれを見てため息をつく。
「飯は?」
「病院で軽く食べた」
「何を」
「ゼリー飲料を」
「飯じゃねぇ」
千速はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
数秒後、振り返った。
「奏斗」
「何だ」
「この冷蔵庫、やる気あるのか?」
「冷却機能は正常だ」
「そういう意味じゃねぇよ」
中には水、缶コーヒー、ヨーグルト、調味料が少し。
食材らしい食材はほとんどなかった。
千速は頭を抱えた。
「よく生きてるな、お前」
「問題なく生活している」
「問題しかねぇ」
千速は持ってきていた紙袋をテーブルに置いた。
「一応、差し入れ持ってきた」
「差し入れ?」
「病院から出る時、コンビニで買った。おにぎりと味噌汁と、あと惣菜」
押村は紙袋を見る。
「助かる」
「素直だな」
「今日は、素直に受け取るべきだと思った」
千速は少しだけ目を丸くした。
それから、照れ隠しのように乱暴に袋を開ける。
「じゃあ座ってろ。肩、動かすな」
「自分でできる」
「座れ」
「はい」
押村はソファに座った。
千速は手早く味噌汁を温め、おにぎりを皿に並べ、惣菜を小鉢に移した。
その手つきは意外と慣れていた。
押村はその様子を見ていた。
白バイに乗る時の千速とは違う。
取調室で怒る時の千速とも違う。
当たり前のように自分の部屋で動いている千速が、少し不思議だった。
そして、悪くなかった。
千速が皿をテーブルに置く。
「ほら、食え」
「ありがとう、千速」
千速の手が止まった。
「……今、自然に呼んだな」
押村も一瞬だけ黙る。
「そうだな」
「前は少しぎこちなかったのに」
「慣れてきたのかもしれない」
千速は顔を逸らした。
「変なところで慣れるな」
「嫌か」
「嫌じゃねぇよ」
その答えは、以前と同じだった。
だが、今は少しだけ重みが違った。
押村は箸を手に取り、ゆっくり食べ始めた。
千速は向かいに座り、その様子を見ている。
「見張られている気分だ」
「見張ってるんだよ」
「そうか」
「残したら怒る」
「分かっている」
しばらく、二人は静かに過ごした。
外では車の音が遠く聞こえる。
部屋の中には味噌汁の湯気が立っている。
事件の喧騒から切り離されたような時間だった。
押村は食事を終えると、箸を置いた。
「ごちそうさま」
千速は皿を見て、満足そうに笑った。
「全部食ったな」
「君が持ってきてくれたものだから」
千速の表情がまた固まる。
「……お前、今日おかしいぞ」
「そうか?」
「怪我して変になったか?」
「頭は打っていない」
「なら余計に問題だ」
押村は千速を見た。
そして、少しだけ沈黙した。
言わなければならないことがある。
横溝にも言われた。
だが、それ以前に、自分でも分かっていた。
倉庫で千速が消えた時。
無線機だけが落ちていた時。
押村は初めて、事件よりも先に心が動いた。
真実よりも、千速の無事を願った。
それは刑事として正しい感情ではないのかもしれない。
だが、人としては、もう誤魔化せなかった。
「千速」
「何だ」
押村は静かに言った。
「今日、君が連れ去られた時、怖かった」
千速は何も言わなかった。
押村は続ける。
「三年前の事件も、今回の事件も、俺はずっと自分の責任だと思っていた。犯人を捕まえなければならない。真実を明らかにしなければならない。それだけを考えていた」
「奏斗」
「でも、君がいなくなった瞬間、何も考えられなくなった」
千速の目が揺れた。
押村は、視線を逸らさなかった。
「俺は、君を失うのが怖い」
静かな部屋に、その言葉が落ちた。
千速はしばらく動かなかった。
男勝りで、いつも強気で、誰よりも真っ直ぐな彼女が、今は何も言えずに押村を見ている。
押村は言葉を探した。
仕事の報告なら簡単だ。
事件の整理ならいくらでもできる。
だが、自分の気持ちを伝える言葉は、驚くほど不器用だった。
「これは、同期としてだけではないと思う」
千速の呼吸がわずかに止まる。
押村は少しだけ眉を寄せる。
「すまない。うまく言えない」
千速は小さく笑った。
「本当に下手だな」
「自覚はある」
「でも」
千速はゆっくり視線を落とした。
耳が赤い。
「……分かるよ」
押村は何も言わず、千速を見ていた。
千速は照れ隠しのように髪をかき上げる。
「私も、今日怖かった」
「拉致されたことがか」
「それもある。でも、それより」
千速は押村の包帯が巻かれた肩を見る。
「お前が撃たれた時の方が怖かった」
押村は言葉を失った。
千速は少し強引に笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「私はさ、白バイ乗ってるし、危ないことなんて慣れてるつもりだった。犯人追うのも、転ぶかもしれないのも、怪我するかもしれないのも、覚悟してる」
彼女は拳を握った。
「でも、お前が私を庇って血を流してるの見たら、そんな覚悟、全部どっかいった」
押村は静かに言った。
「すまなかった」
「謝るな」
千速は即座に言った。
「助けてくれたことは、感謝してる。でもな」
彼女は押村を真っ直ぐ見た。
「もう、私を守るために自分を捨てるな」
押村は黙った。
千速の声が震える。
「私は守られるだけの女じゃねぇ。お前の隣で戦う。そのためにいる」
押村の胸に、その言葉が深く入ってきた。
隣で戦う。
その言葉は、千速らしかった。
強くて、荒っぽくて、優しい。
押村は静かに頷いた。
「分かった」
千速は目を細める。
「本当か?」
「本当だ」
「信用していいんだな」
「努力する」
「そこは断言しろ」
押村は少しだけ考え直し、言った。
「信用していい」
千速はようやく小さく笑った。
そして、少しだけ身を乗り出した。
二人の距離が近くなる。
押村は動かなかった。
千速も、すぐには動かない。
沈黙が落ちる。
事件の話ではない。
捜査の話でもない。
ただ、押村奏斗と萩原千速だけがいる時間。
千速が小さく言った。
「奏斗」
「何だ」
「今から言うこと、笑うなよ」
「笑わない」
「絶対だぞ」
「約束する」
千速は少し目を伏せた。
「私も、お前が特別だ」
押村の目がわずかに見開かれた。
千速は恥ずかしそうに、でも逃げずに続ける。
「同期だからとか、同じ事件を追ってるからとか、それだけじゃない。お前が無茶すると腹が立つし、飯食わないと心配になるし、名前呼ばれると……変な気分になる」
「変な気分?」
「そこ拾うな!」
千速は顔を赤くして怒鳴った。
押村は少しだけ口元を緩めた。
「すまない」
「笑ったな?」
「少し」
「約束違反だ」
「嬉しかったからだ」
千速は言葉に詰まった。
押村は静かに続けた。
「君にそう言ってもらえて、嬉しい」
千速の顔がさらに赤くなる。
「……ほんと、今日は調子狂うな」
「俺もだ」
「お前も?」
「ああ」
押村は千速を見つめた。
「君が目の前にいるだけで、安心している」
千速はもう何も言えなかった。
代わりに、そっと手を伸ばした。
押村の無事な方の手に、自分の手を重ねる。
押村はその手を見た。
千速の手は、白バイのハンドルを握る手だった。
強くて、少し硬くて、温かい。
押村はその手を握り返した。
千速が小さく息を呑む。
「……奏斗」
「千速」
二人の距離が、少しずつ近づいた。
キスをするには、まだ少しぎこちない。
けれど、離れるには近すぎる。
その時だった。
押村のスマホが鳴った。
二人は同時に固まった。
画面には、横溝重悟の名前。
千速は額に手を当てた。
「重悟……このタイミングで……」
押村はスマホを見る。
「出るべきだろうか」
「事件関係なら出ろ」
「そうでなければ?」
「切れ」
押村は一瞬考え、通話に出た。
「押村です」
電話の向こうから、横溝の大声が響いた。
『おい押村! ちゃんと帰ったか! 千速はいるか!』
押村は千速を見た。
千速は無言で首を横に振る。
押村は正直に答えた。
「います」
千速が頭を抱えた。
電話の向こうで横溝が一瞬黙った。
そして、妙に低い声になる。
『……ほう』
押村は嫌な予感がした。
「横溝警部?」
『いや、邪魔したかと思ってな』
千速が顔を真っ赤にして叫んだ。
「邪魔してんだよ、重悟!」
電話の向こうで横溝が大笑いした。
『元気そうで何よりだ、千速!』
「切れ! 奏斗、切れ!」
押村は少し迷ったが、横溝が何かを言う前に通話を切った。
部屋に沈黙が戻る。
千速はしばらく顔を覆っていた。
「最悪だ……」
押村は真面目に言った。
「横溝警部らしい」
「そうだけど!」
千速は大きく息を吐いた。
それから、押村を見る。
先ほどの空気は少し壊れてしまった。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、二人らしい気がした。
千速は立ち上がる。
「今日は帰る」
押村も立ち上がろうとした。
「送る」
「怪我人が何言ってんだ。座ってろ」
「しかし――」
「奏斗」
千速は玄関の前で振り返った。
「続きは、事件が終わってからな」
押村は一瞬だけ黙った。
「続き?」
千速は顔を赤くしながらも、はっきり言った。
「今の続きだよ」
押村はようやく意味を理解した。
「……分かった」
千速は少しだけ笑った。
「それまで、死ぬなよ」
「君も」
「私は死なねぇよ」
「知っている」
「ならいい」
千速はドアを開ける。
外へ出る直前、もう一度振り返った。
「奏斗」
「何だ」
「無事でいてくれて、よかった」
それだけ言って、千速は部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
押村はしばらく、その場に立っていた。
部屋には、千速が温めた味噌汁の匂いがまだ残っている。
テーブルには空になった皿。
手には、彼女の温もりの感覚。
事件はまだ終わっていない。
久我親子と戸倉親子の罪を正式に立証しなければならない。
県警内部の闇も、すべて明らかにしなければならない。
だが、押村は初めて思った。
事件が終わった後のことを。
その先に、千速がいる未来を。
押村は静かに呟いた。
「続きは、事件が終わってから」
それは約束だった。
夜明け前の、まだ不完全な告白。
だが、二人にとっては十分だった。