神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第12話 終わらせるために

翌朝。

 

神奈川県警本部の空気は、昨日までとは違っていた。

 

重い。

鋭い。

そして、どこか落ち着かない。

 

三年前の港北区ひき逃げ死亡事件。

村瀬浩一殺害事件。

三浦亮介への殺人未遂。

佐伯慎吾銃撃。

萩原千速拉致。

監察官室地下保管庫放火。

 

別々に見えていた事件は、すべて一本の線で繋がった。

 

その線の先にいたのは、警察幹部たちだった。

 

久我誠一郎。

戸倉警視正。

宮永怜司。

 

そして、三年前の夜、黒いセダンに乗っていた若者たち。

 

久我悠真。

戸倉圭吾。

もう一人の同乗者。

 

県警本部は表向き、通常業務を続けていた。

だが、内部では激震が走っていた。

 

捜査一課の執務室で、横溝重悟は腕を組んで立っていた。

 

「押村ァ」

 

その声に、机で資料を確認していた押村奏斗が顔を上げる。

 

右肩には包帯。

動きは少しぎこちない。

それでも、本人はいつも通りのつもりでいる。

 

「はい、横溝警部」

 

「お前、何で出勤してんだ」

 

「必要があるからです」

 

「医者は安静って言ったんだよな?」

 

「はい」

 

「じゃあ帰れ」

 

「事件が終わっていません」

 

横溝のこめかみがぴくりと動いた。

 

「お前なあ……」

 

その時、執務室の扉が開いた。

 

「やっぱりいた」

 

萩原千速だった。

 

交通部の制服姿で、片手に紙袋を持っている。

額には小さな絆創膏。

昨日の拉致の傷跡がまだ残っているが、立ち姿はいつも通り力強い。

 

押村は少し目を見開いた。

 

「千速」

 

その呼び方に、近くにいた若い刑事が小さく反応した。

 

横溝はにやりとする。

 

千速は一瞬だけ顔を赤くしたが、すぐに押村を睨んだ。

 

「お前、何で出勤してんだよ」

 

押村は真面目に答える。

 

「横溝警部にも同じことを聞かれた」

 

「同じ答えなら怒るぞ」

 

「事件が終わっていないからだ」

 

千速は紙袋を机に置いた。

 

「よし、怒る」

 

「萩原」

 

「千速」

 

「……千速」

 

千速は少しだけ満足そうにしたあと、紙袋を指さした。

 

「朝飯。食え」

 

押村は袋を見る。

 

「すでに食べた」

 

「何を」

 

「ゼリー飲料を」

 

横溝が天井を仰いだ。

 

千速は無言で紙袋からおにぎりとサンドイッチを取り出す。

 

「今すぐ食え」

 

「勤務中だ」

 

「食いながら聞け。いつものことだろ」

 

横溝が鼻で笑った。

 

「千速、もう嫁みてぇだな」

 

執務室の空気が止まった。

 

千速が横溝を睨む。

 

「重悟」

 

「何だ」

 

「一回殴っていいか」

 

「警部への暴行だぞ」

 

「同期のよしみで軽めにする」

 

「やめろ」

 

押村はおにぎりを手に取りながら、真面目に言った。

 

「横溝警部、今の発言は職場内で誤解を招く可能性があります」

 

横溝は押村を見る。

 

「お前も大概だぞ」

 

「何がでしょうか」

 

千速は顔を赤くしたまま、押村の机の端に腰を預けた。

 

「で、状況は?」

 

横溝の表情が一気に刑事のものへ戻る。

 

「戸倉圭吾が正式に証言を始めた。三年前、黒いセダンには三人。運転は久我悠真。助手席に証言者の男。後部座席に戸倉圭吾」

 

押村はおにぎりを置き、資料をめくった。

 

「事故後、久我悠真が久我誠一郎へ連絡。戸倉圭吾も父親である戸倉警視正へ連絡。その後、二人の幹部が宮永怜司へ対応を指示した」

 

千速が低く言う。

 

「対応って言葉、便利だな。人殺しを隠すことも対応かよ」

 

横溝が続けた。

 

「宮永は交通部と警らの配置を確認し、逃走経路を確保。佐伯は後日、車両照会から該当車両を除外」

 

「その後、車は三浦亮介が勤めていた整備工場へ持ち込まれた」

 

押村が言う。

 

「三浦さんは車両の隠蔽に関与させられた。しかし、最近になって罪悪感から村瀬浩一さんに相談した」

 

千速が拳を握った。

 

「それで村瀬は殺された」

 

横溝の声が低くなる。

 

「久我悠真の関与は濃厚だ。自宅ガレージから凶器が出た。戸倉圭吾の証言もある。車内からの証拠も押さえた」

 

「久我誠一郎と戸倉警視正は?」

 

千速が聞く。

 

押村は静かに答えた。

 

「犯人隠避、証拠隠滅、職権乱用。宮永警視については、証拠隠滅および放火未遂、襲撃事件への関与を詰めています」

 

「問題は上だ」

 

横溝が吐き捨てる。

 

「この件をどこまで公にするかで、上層部が割れてる」

 

千速が眉をひそめる。

 

「まだ隠す気の奴がいるってことか」

 

「いるだろうな」

 

横溝は鋭く言った。

 

「県警の信用が吹っ飛ぶ。幹部連中は自分の椅子が大事だ」

 

押村は資料を閉じた。

 

「ですが、もう隠せません」

 

「なぜだ」

 

「こちらには戸倉圭吾の証言、録音データ、地下保管庫の資料、車両証拠、凶器、宮永警視の関与記録がある。これだけの証拠が複数部署に分散している以上、完全に握り潰すことは不可能です」

 

千速が押村を見る。

 

「でも、抵抗はある」

 

「はい」

 

押村は静かに頷いた。

 

「だから、今日中に被害者遺族へ報告したい」

 

室内が静かになった。

 

横溝の表情が少し変わる。

 

千速も言葉を失った。

 

「三年前の少年の母親か」

 

横溝が言う。

 

「はい」

 

押村の声は低い。

 

「事件の全容が固まる前に、すべてを話すことはできません。ですが、再捜査に入ること、犯人が判明したこと、隠蔽があったことは、正式に伝えるべきです」

 

横溝はしばらく黙った。

 

そして、静かに頷いた。

 

「行くぞ」

 

「横溝警部」

 

「俺も行く。当時の現場責任者の一人だ」

 

千速が言う。

 

「私も行く」

 

押村は彼女を見る。

 

「千速も?」

 

「あの夜、私も探した。逃がしたことを、ずっと忘れてない」

 

千速は真っ直ぐに押村を見た。

 

「それに、お前一人で行かせたら、また全部背負うだろ」

 

押村は一瞬黙る。

 

それから、小さく頷いた。

 

「ありがとう」

 

横溝が咳払いした。

 

「だから甘い空気出すなっつってんだろ」

 

千速が睨む。

 

「今のどこが甘いんだよ」

 

「押村の“ありがとう”が甘かった」

 

「意味分かんねぇ」

 

押村は真面目に言った。

 

「礼を述べただけです」

 

横溝は大きくため息をついた。

 

「お前ら、事件終わったら一回ちゃんと話し合え」

 

千速の顔が赤くなる。

 

「今言うな!」

 

午後。

 

三人は港北区の住宅街を訪れていた。

 

細い坂道の上にある、小さな一軒家。

 

三年前、被害者の少年が暮らしていた家だった。

 

押村は門の前で立ち止まる。

 

右肩の痛みよりも、胸の奥の重さの方が強かった。

 

インターホンを押す。

 

しばらくして、扉が開いた。

 

出てきたのは、五十代ほどの女性だった。

 

少し痩せていて、髪には白いものが混じっている。

だが、目ははっきりしていた。

 

押村を見ると、女性は息を呑んだ。

 

「押村さん……?」

 

「ご無沙汰しております」

 

押村は深く頭を下げた。

 

「神奈川県警捜査一課、押村です」

 

女性の視線が横溝へ、そして千速へ移る。

 

横溝も頭を下げた。

 

「横溝です」

 

千速も深く頭を下げる。

 

「交通部の萩原です。三年前、捜索に加わっていました」

 

女性はしばらく三人を見ていた。

 

そして、小さく言った。

 

「中へどうぞ」

 

居間には、少年の写真が飾られていた。

 

制服姿で笑っている。

どこにでもいる、普通の高校生。

 

その写真の横には、小さな青いイルカのキーホルダーが置かれていた。

 

三年前、現場からなくなっていたものと同じ形。

 

押村はそれを見て、胸が詰まった。

 

女性がお茶を出そうとすると、横溝が止めた。

 

「お気遣いなく」

 

女性は向かいに座った。

 

「息子のことで、何か分かったんですね」

 

押村は静かに頷いた。

 

「はい」

 

女性の手が膝の上で震えた。

 

千速はそれを見て、唇を噛む。

 

押村は言葉を選びながら話し始めた。

 

「三年前、息子さんをはねた車両が特定されました。運転していた人物も判明しています」

 

女性は目を閉じた。

 

長い沈黙。

 

「……生きているんですか」

 

「はい」

 

「普通に、暮らしていたんですか」

 

押村は答える前に、深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

女性の目から涙が落ちた。

 

「そうですか」

 

声は静かだった。

 

怒鳴らなかった。

泣き崩れもしなかった。

 

その静けさが、かえって重かった。

 

押村は続けた。

 

「今回、新たな証拠と証言により、事件の隠蔽があったことも判明しました。警察内部の人間が関与しています」

 

女性は押村を見た。

 

「警察が、隠したんですか」

 

押村は逃げなかった。

 

「はい」

 

横溝が拳を握りしめる。

 

千速は目を伏せた。

 

女性はしばらく言葉を発しなかった。

 

やがて、震える声で言った。

 

「何度も聞きました」

 

三人は黙っていた。

 

「まだですかって。犯人は捕まりませんかって。息子は、ただ帰ってくる途中だったんですって」

 

女性の声が少しずつ崩れていく。

 

「その時、警察の方は言いました。全力で捜査していますって」

 

押村は頭を下げたまま動けなかった。

 

女性は涙を拭わなかった。

 

「その間に、警察は犯人を知っていたんですか」

 

「すべての警察官が知っていたわけではありません」

 

押村は静かに言った。

 

「ですが、警察組織の中に、知っていながら隠した者がいました」

 

「同じことです」

 

その言葉は、鋭かった。

 

押村は何も言えなかった。

 

女性は少年の写真を見た。

 

「この三年、私はずっと、息子に申し訳なかった。犯人を見つけられなくてごめんねって、毎日思っていました」

 

千速の目に涙が滲んだ。

 

女性は続けた。

 

「でも、本当に謝らなければならないのは、警察だったんですね」

 

横溝が深く頭を下げた。

 

「申し訳ありませんでした」

 

その声は、いつもの荒々しさを失っていた。

 

千速も頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

押村もさらに深く頭を下げた。

 

「本当に、申し訳ありませんでした」

 

長い沈黙。

 

やがて女性が言った。

 

「顔を上げてください」

 

三人はゆっくり顔を上げる。

 

女性は涙を流しながらも、まっすぐ押村を見ていた。

 

「押村さん」

 

「はい」

 

「犯人を、きちんと裁いてください」

 

「はい」

 

「隠した人たちも、です」

 

「必ず」

 

押村ははっきりと言った。

 

「必ず、すべて明らかにします」

 

女性は小さく頷いた。

 

「息子の名前を、忘れないでください」

 

押村の目が揺れた。

 

「忘れたことはありません」

 

女性は初めて、わずかに表情を崩した。

 

「それだけは、信じます」

 

その言葉に、押村は胸の奥が締めつけられた。

 

許されたわけではない。

警察への怒りが消えたわけでもない。

 

それでも、彼女は押村個人の言葉だけは受け取ってくれた。

 

千速は横で、静かに拳を握っていた。

 

この人のためにも、終わらせなければならない。

 

家を出ると、空は曇っていた。

 

三人はしばらく誰も話さなかった。

 

坂道の途中で、横溝が足を止める。

 

「押村」

 

「はい」

 

「きつかったか」

 

押村は少しだけ沈黙した。

 

「はい」

 

正直な答えだった。

 

横溝は頷いた。

 

「そうか」

 

千速が押村の隣に立つ。

 

「奏斗」

 

押村は彼女を見る。

 

千速は静かに言った。

 

「背負うなとは言わねぇ」

 

押村は少し驚いた。

 

千速は続けた。

 

「背負わなきゃいけないものもある。忘れちゃいけないものもある。でも、一人で持つな」

 

押村は黙っていた。

 

千速は自分の胸を軽く叩いた。

 

「私も持つ」

 

横溝が後ろで言った。

 

「俺もな」

 

押村は二人を見た。

 

胸の奥にあった重さは、消えない。

 

だが、ほんの少しだけ、形を変えた。

 

「ありがとうございます」

 

横溝が鼻で笑う。

 

「礼は終わってから言え」

 

千速は押村の無事な方の肩を軽く叩いた。

 

「帰ったら飯食えよ」

 

「さっき食べた」

 

「昼飯はな。夜も食え」

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

千速は疑わしそうに見たが、それ以上は言わなかった。

 

その夜。

 

県警本部では、緊急会議が開かれた。

 

会議室には、刑事部、警務部、監察官室、そして上層部の幹部たちが集められていた。

 

空気は重く、険しい。

 

テーブルの中央には、押村たちが集めた証拠が並んでいる。

 

録音データ。

三年前の写真。

戸倉圭吾の供述調書。

宮永の照会記録。

佐伯の供述。

久我悠真の逃走車両に関する資料。

村瀬浩一殺害の凶器。

 

押村は、横溝と共に前に立った。

 

千速は本来出席する立場ではなかったが、交通部関係者として後方にいた。

 

その視線が、押村の背中を支えていた。

 

上層部の一人が低く言った。

 

「押村警部補。この資料は、県警全体に重大な影響を与える」

 

押村は頷いた。

 

「承知しています」

 

「公表すれば、県警への信頼は大きく損なわれる」

 

押村は静かに答えた。

 

「隠せば、完全に失われます」

 

会議室が静まり返った。

 

別の幹部が眉をひそめる。

 

「君は立場を分かっているのか」

 

押村は迷わなかった。

 

「はい」

 

「警察組織を敵に回すつもりか」

 

その言葉に、横溝が一歩前に出ようとした。

 

だが、押村が先に口を開いた。

 

「違います」

 

静かな声だった。

 

「私は、警察組織を守るために、隠蔽した者たちを明らかにするべきだと考えています」

 

幹部たちは黙る。

 

押村は続けた。

 

「被害者を見捨て、証拠を消し、遺族に嘘をつき、さらに新たな殺人を生んだ。それを守ることは、警察を守ることではありません」

 

千速は後方で、まっすぐ押村を見ていた。

 

「警察が守るべきものは、組織の面子ではないはずです」

 

押村の声は、少しだけ強くなった。

 

「市民の命と、真実です」

 

横溝が横で小さく笑った。

 

「よく言った」

 

会議室の空気が揺れた。

 

しばらくの沈黙のあと、最上席にいた刑事部長が重く口を開いた。

 

「……久我誠一郎、戸倉警視正、宮永怜司を正式に被疑者として扱う」

 

誰も声を発しなかった。

 

「三年前の事件は再捜査。村瀬浩一殺害事件、三浦亮介殺人未遂、佐伯慎吾銃撃、萩原警部補拉致事件も統合して捜査本部を設置する」

 

押村は深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うことではない」

 

刑事部長は厳しい顔で言った。

 

「これは本来、もっと早く我々がやるべきことだった」

 

その言葉に、押村は何も言わなかった。

 

だが、ようやく一歩進んだ。

 

事件が、正式に動き出した。

 

会議が終わった後。

 

押村は人気のない廊下に出た。

 

窓の外には、夜の横浜が広がっている。

街の明かりが遠く瞬いていた。

 

右肩が鈍く痛む。

 

だが、不思議と足元は重くなかった。

 

「奏斗」

 

背後から声がした。

 

振り返ると、千速が立っていた。

 

「お疲れ」

 

「君も」

 

千速は隣に並び、窓の外を見る。

 

「言ったな」

 

「何を」

 

「市民の命と、真実」

 

押村は少しだけ視線を落とした。

 

「少し大げさだったかもしれない」

 

「いや」

 

千速は首を横に振った。

 

「かっこよかった」

 

押村は一瞬固まった。

 

千速も言ってから少し照れたのか、窓の外を向いたまま続ける。

 

「まあ、ちょっとだけな」

 

「ちょっとだけか」

 

「調子に乗るな」

 

「乗らない」

 

二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。

 

本編の事件は、まだ終わっていない。

だが、最大の壁は越えた。

 

千速が小さく言う。

 

「もう少しだな」

 

「ああ」

 

「終わったら、約束覚えてるか」

 

押村は千速を見る。

 

「続きのことか」

 

千速の耳が赤くなる。

 

「……覚えてるならいい」

 

押村は静かに頷いた。

 

「忘れていない」

 

千速は少しだけ笑った。

 

その時、廊下の向こうから横溝の声が響いた。

 

「おい! 押村、千速! また二人で甘い空気出してんじゃねぇだろうな!」

 

千速が即座に怒鳴り返す。

 

「出してねぇよ、重悟!」

 

押村は小さく息を吐いた。

 

「横溝警部は勘が鋭いな」

 

「感心するな!」

 

千速はそう言いながらも、少しだけ笑っていた。

 

押村も、ほんのわずかに口元を緩める。

 

夜の県警本部。

 

三年前から止まっていた時間が、ようやく前へ進み始めた。

 

クライマックスは近い。

 

あとは、すべてを法の前に引きずり出すだけだった。

 

そしてその先に、押村と千速が向き合うべき「続き」が待っている

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