翌朝。
神奈川県警本部の空気は、昨日までとは違っていた。
重い。
鋭い。
そして、どこか落ち着かない。
三年前の港北区ひき逃げ死亡事件。
村瀬浩一殺害事件。
三浦亮介への殺人未遂。
佐伯慎吾銃撃。
萩原千速拉致。
監察官室地下保管庫放火。
別々に見えていた事件は、すべて一本の線で繋がった。
その線の先にいたのは、警察幹部たちだった。
久我誠一郎。
戸倉警視正。
宮永怜司。
そして、三年前の夜、黒いセダンに乗っていた若者たち。
久我悠真。
戸倉圭吾。
もう一人の同乗者。
県警本部は表向き、通常業務を続けていた。
だが、内部では激震が走っていた。
捜査一課の執務室で、横溝重悟は腕を組んで立っていた。
「押村ァ」
その声に、机で資料を確認していた押村奏斗が顔を上げる。
右肩には包帯。
動きは少しぎこちない。
それでも、本人はいつも通りのつもりでいる。
「はい、横溝警部」
「お前、何で出勤してんだ」
「必要があるからです」
「医者は安静って言ったんだよな?」
「はい」
「じゃあ帰れ」
「事件が終わっていません」
横溝のこめかみがぴくりと動いた。
「お前なあ……」
その時、執務室の扉が開いた。
「やっぱりいた」
萩原千速だった。
交通部の制服姿で、片手に紙袋を持っている。
額には小さな絆創膏。
昨日の拉致の傷跡がまだ残っているが、立ち姿はいつも通り力強い。
押村は少し目を見開いた。
「千速」
その呼び方に、近くにいた若い刑事が小さく反応した。
横溝はにやりとする。
千速は一瞬だけ顔を赤くしたが、すぐに押村を睨んだ。
「お前、何で出勤してんだよ」
押村は真面目に答える。
「横溝警部にも同じことを聞かれた」
「同じ答えなら怒るぞ」
「事件が終わっていないからだ」
千速は紙袋を机に置いた。
「よし、怒る」
「萩原」
「千速」
「……千速」
千速は少しだけ満足そうにしたあと、紙袋を指さした。
「朝飯。食え」
押村は袋を見る。
「すでに食べた」
「何を」
「ゼリー飲料を」
横溝が天井を仰いだ。
千速は無言で紙袋からおにぎりとサンドイッチを取り出す。
「今すぐ食え」
「勤務中だ」
「食いながら聞け。いつものことだろ」
横溝が鼻で笑った。
「千速、もう嫁みてぇだな」
執務室の空気が止まった。
千速が横溝を睨む。
「重悟」
「何だ」
「一回殴っていいか」
「警部への暴行だぞ」
「同期のよしみで軽めにする」
「やめろ」
押村はおにぎりを手に取りながら、真面目に言った。
「横溝警部、今の発言は職場内で誤解を招く可能性があります」
横溝は押村を見る。
「お前も大概だぞ」
「何がでしょうか」
千速は顔を赤くしたまま、押村の机の端に腰を預けた。
「で、状況は?」
横溝の表情が一気に刑事のものへ戻る。
「戸倉圭吾が正式に証言を始めた。三年前、黒いセダンには三人。運転は久我悠真。助手席に証言者の男。後部座席に戸倉圭吾」
押村はおにぎりを置き、資料をめくった。
「事故後、久我悠真が久我誠一郎へ連絡。戸倉圭吾も父親である戸倉警視正へ連絡。その後、二人の幹部が宮永怜司へ対応を指示した」
千速が低く言う。
「対応って言葉、便利だな。人殺しを隠すことも対応かよ」
横溝が続けた。
「宮永は交通部と警らの配置を確認し、逃走経路を確保。佐伯は後日、車両照会から該当車両を除外」
「その後、車は三浦亮介が勤めていた整備工場へ持ち込まれた」
押村が言う。
「三浦さんは車両の隠蔽に関与させられた。しかし、最近になって罪悪感から村瀬浩一さんに相談した」
千速が拳を握った。
「それで村瀬は殺された」
横溝の声が低くなる。
「久我悠真の関与は濃厚だ。自宅ガレージから凶器が出た。戸倉圭吾の証言もある。車内からの証拠も押さえた」
「久我誠一郎と戸倉警視正は?」
千速が聞く。
押村は静かに答えた。
「犯人隠避、証拠隠滅、職権乱用。宮永警視については、証拠隠滅および放火未遂、襲撃事件への関与を詰めています」
「問題は上だ」
横溝が吐き捨てる。
「この件をどこまで公にするかで、上層部が割れてる」
千速が眉をひそめる。
「まだ隠す気の奴がいるってことか」
「いるだろうな」
横溝は鋭く言った。
「県警の信用が吹っ飛ぶ。幹部連中は自分の椅子が大事だ」
押村は資料を閉じた。
「ですが、もう隠せません」
「なぜだ」
「こちらには戸倉圭吾の証言、録音データ、地下保管庫の資料、車両証拠、凶器、宮永警視の関与記録がある。これだけの証拠が複数部署に分散している以上、完全に握り潰すことは不可能です」
千速が押村を見る。
「でも、抵抗はある」
「はい」
押村は静かに頷いた。
「だから、今日中に被害者遺族へ報告したい」
室内が静かになった。
横溝の表情が少し変わる。
千速も言葉を失った。
「三年前の少年の母親か」
横溝が言う。
「はい」
押村の声は低い。
「事件の全容が固まる前に、すべてを話すことはできません。ですが、再捜査に入ること、犯人が判明したこと、隠蔽があったことは、正式に伝えるべきです」
横溝はしばらく黙った。
そして、静かに頷いた。
「行くぞ」
「横溝警部」
「俺も行く。当時の現場責任者の一人だ」
千速が言う。
「私も行く」
押村は彼女を見る。
「千速も?」
「あの夜、私も探した。逃がしたことを、ずっと忘れてない」
千速は真っ直ぐに押村を見た。
「それに、お前一人で行かせたら、また全部背負うだろ」
押村は一瞬黙る。
それから、小さく頷いた。
「ありがとう」
横溝が咳払いした。
「だから甘い空気出すなっつってんだろ」
千速が睨む。
「今のどこが甘いんだよ」
「押村の“ありがとう”が甘かった」
「意味分かんねぇ」
押村は真面目に言った。
「礼を述べただけです」
横溝は大きくため息をついた。
「お前ら、事件終わったら一回ちゃんと話し合え」
千速の顔が赤くなる。
「今言うな!」
午後。
三人は港北区の住宅街を訪れていた。
細い坂道の上にある、小さな一軒家。
三年前、被害者の少年が暮らしていた家だった。
押村は門の前で立ち止まる。
右肩の痛みよりも、胸の奥の重さの方が強かった。
インターホンを押す。
しばらくして、扉が開いた。
出てきたのは、五十代ほどの女性だった。
少し痩せていて、髪には白いものが混じっている。
だが、目ははっきりしていた。
押村を見ると、女性は息を呑んだ。
「押村さん……?」
「ご無沙汰しております」
押村は深く頭を下げた。
「神奈川県警捜査一課、押村です」
女性の視線が横溝へ、そして千速へ移る。
横溝も頭を下げた。
「横溝です」
千速も深く頭を下げる。
「交通部の萩原です。三年前、捜索に加わっていました」
女性はしばらく三人を見ていた。
そして、小さく言った。
「中へどうぞ」
居間には、少年の写真が飾られていた。
制服姿で笑っている。
どこにでもいる、普通の高校生。
その写真の横には、小さな青いイルカのキーホルダーが置かれていた。
三年前、現場からなくなっていたものと同じ形。
押村はそれを見て、胸が詰まった。
女性がお茶を出そうとすると、横溝が止めた。
「お気遣いなく」
女性は向かいに座った。
「息子のことで、何か分かったんですね」
押村は静かに頷いた。
「はい」
女性の手が膝の上で震えた。
千速はそれを見て、唇を噛む。
押村は言葉を選びながら話し始めた。
「三年前、息子さんをはねた車両が特定されました。運転していた人物も判明しています」
女性は目を閉じた。
長い沈黙。
「……生きているんですか」
「はい」
「普通に、暮らしていたんですか」
押村は答える前に、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
女性の目から涙が落ちた。
「そうですか」
声は静かだった。
怒鳴らなかった。
泣き崩れもしなかった。
その静けさが、かえって重かった。
押村は続けた。
「今回、新たな証拠と証言により、事件の隠蔽があったことも判明しました。警察内部の人間が関与しています」
女性は押村を見た。
「警察が、隠したんですか」
押村は逃げなかった。
「はい」
横溝が拳を握りしめる。
千速は目を伏せた。
女性はしばらく言葉を発しなかった。
やがて、震える声で言った。
「何度も聞きました」
三人は黙っていた。
「まだですかって。犯人は捕まりませんかって。息子は、ただ帰ってくる途中だったんですって」
女性の声が少しずつ崩れていく。
「その時、警察の方は言いました。全力で捜査していますって」
押村は頭を下げたまま動けなかった。
女性は涙を拭わなかった。
「その間に、警察は犯人を知っていたんですか」
「すべての警察官が知っていたわけではありません」
押村は静かに言った。
「ですが、警察組織の中に、知っていながら隠した者がいました」
「同じことです」
その言葉は、鋭かった。
押村は何も言えなかった。
女性は少年の写真を見た。
「この三年、私はずっと、息子に申し訳なかった。犯人を見つけられなくてごめんねって、毎日思っていました」
千速の目に涙が滲んだ。
女性は続けた。
「でも、本当に謝らなければならないのは、警察だったんですね」
横溝が深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
その声は、いつもの荒々しさを失っていた。
千速も頭を下げた。
「申し訳ありません」
押村もさらに深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
長い沈黙。
やがて女性が言った。
「顔を上げてください」
三人はゆっくり顔を上げる。
女性は涙を流しながらも、まっすぐ押村を見ていた。
「押村さん」
「はい」
「犯人を、きちんと裁いてください」
「はい」
「隠した人たちも、です」
「必ず」
押村ははっきりと言った。
「必ず、すべて明らかにします」
女性は小さく頷いた。
「息子の名前を、忘れないでください」
押村の目が揺れた。
「忘れたことはありません」
女性は初めて、わずかに表情を崩した。
「それだけは、信じます」
その言葉に、押村は胸の奥が締めつけられた。
許されたわけではない。
警察への怒りが消えたわけでもない。
それでも、彼女は押村個人の言葉だけは受け取ってくれた。
千速は横で、静かに拳を握っていた。
この人のためにも、終わらせなければならない。
家を出ると、空は曇っていた。
三人はしばらく誰も話さなかった。
坂道の途中で、横溝が足を止める。
「押村」
「はい」
「きつかったか」
押村は少しだけ沈黙した。
「はい」
正直な答えだった。
横溝は頷いた。
「そうか」
千速が押村の隣に立つ。
「奏斗」
押村は彼女を見る。
千速は静かに言った。
「背負うなとは言わねぇ」
押村は少し驚いた。
千速は続けた。
「背負わなきゃいけないものもある。忘れちゃいけないものもある。でも、一人で持つな」
押村は黙っていた。
千速は自分の胸を軽く叩いた。
「私も持つ」
横溝が後ろで言った。
「俺もな」
押村は二人を見た。
胸の奥にあった重さは、消えない。
だが、ほんの少しだけ、形を変えた。
「ありがとうございます」
横溝が鼻で笑う。
「礼は終わってから言え」
千速は押村の無事な方の肩を軽く叩いた。
「帰ったら飯食えよ」
「さっき食べた」
「昼飯はな。夜も食え」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
千速は疑わしそうに見たが、それ以上は言わなかった。
その夜。
県警本部では、緊急会議が開かれた。
会議室には、刑事部、警務部、監察官室、そして上層部の幹部たちが集められていた。
空気は重く、険しい。
テーブルの中央には、押村たちが集めた証拠が並んでいる。
録音データ。
三年前の写真。
戸倉圭吾の供述調書。
宮永の照会記録。
佐伯の供述。
久我悠真の逃走車両に関する資料。
村瀬浩一殺害の凶器。
押村は、横溝と共に前に立った。
千速は本来出席する立場ではなかったが、交通部関係者として後方にいた。
その視線が、押村の背中を支えていた。
上層部の一人が低く言った。
「押村警部補。この資料は、県警全体に重大な影響を与える」
押村は頷いた。
「承知しています」
「公表すれば、県警への信頼は大きく損なわれる」
押村は静かに答えた。
「隠せば、完全に失われます」
会議室が静まり返った。
別の幹部が眉をひそめる。
「君は立場を分かっているのか」
押村は迷わなかった。
「はい」
「警察組織を敵に回すつもりか」
その言葉に、横溝が一歩前に出ようとした。
だが、押村が先に口を開いた。
「違います」
静かな声だった。
「私は、警察組織を守るために、隠蔽した者たちを明らかにするべきだと考えています」
幹部たちは黙る。
押村は続けた。
「被害者を見捨て、証拠を消し、遺族に嘘をつき、さらに新たな殺人を生んだ。それを守ることは、警察を守ることではありません」
千速は後方で、まっすぐ押村を見ていた。
「警察が守るべきものは、組織の面子ではないはずです」
押村の声は、少しだけ強くなった。
「市民の命と、真実です」
横溝が横で小さく笑った。
「よく言った」
会議室の空気が揺れた。
しばらくの沈黙のあと、最上席にいた刑事部長が重く口を開いた。
「……久我誠一郎、戸倉警視正、宮永怜司を正式に被疑者として扱う」
誰も声を発しなかった。
「三年前の事件は再捜査。村瀬浩一殺害事件、三浦亮介殺人未遂、佐伯慎吾銃撃、萩原警部補拉致事件も統合して捜査本部を設置する」
押村は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
刑事部長は厳しい顔で言った。
「これは本来、もっと早く我々がやるべきことだった」
その言葉に、押村は何も言わなかった。
だが、ようやく一歩進んだ。
事件が、正式に動き出した。
会議が終わった後。
押村は人気のない廊下に出た。
窓の外には、夜の横浜が広がっている。
街の明かりが遠く瞬いていた。
右肩が鈍く痛む。
だが、不思議と足元は重くなかった。
「奏斗」
背後から声がした。
振り返ると、千速が立っていた。
「お疲れ」
「君も」
千速は隣に並び、窓の外を見る。
「言ったな」
「何を」
「市民の命と、真実」
押村は少しだけ視線を落とした。
「少し大げさだったかもしれない」
「いや」
千速は首を横に振った。
「かっこよかった」
押村は一瞬固まった。
千速も言ってから少し照れたのか、窓の外を向いたまま続ける。
「まあ、ちょっとだけな」
「ちょっとだけか」
「調子に乗るな」
「乗らない」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。
本編の事件は、まだ終わっていない。
だが、最大の壁は越えた。
千速が小さく言う。
「もう少しだな」
「ああ」
「終わったら、約束覚えてるか」
押村は千速を見る。
「続きのことか」
千速の耳が赤くなる。
「……覚えてるならいい」
押村は静かに頷いた。
「忘れていない」
千速は少しだけ笑った。
その時、廊下の向こうから横溝の声が響いた。
「おい! 押村、千速! また二人で甘い空気出してんじゃねぇだろうな!」
千速が即座に怒鳴り返す。
「出してねぇよ、重悟!」
押村は小さく息を吐いた。
「横溝警部は勘が鋭いな」
「感心するな!」
千速はそう言いながらも、少しだけ笑っていた。
押村も、ほんのわずかに口元を緩める。
夜の県警本部。
三年前から止まっていた時間が、ようやく前へ進み始めた。
クライマックスは近い。
あとは、すべてを法の前に引きずり出すだけだった。
そしてその先に、押村と千速が向き合うべき「続き」が待っている