三年前から止まっていた事件は、ようやく正式に動き出した。
県警本部に設置された合同捜査本部には、朝から緊張が走っていた。
久我誠一郎元方面本部長。
戸倉警視正。
宮永怜司警視。
久我悠真。
戸倉圭吾。
それぞれの供述、証拠、録音データ、車両記録、監察官室の地下保管庫から持ち出された資料。
すべてを照合すれば、三年前に何が起きたのかは、ほぼ明らかだった。
だが、まだ足りないものがあった。
最後の証拠。
三年前の夜、少年をはねた黒いセダンそのものに残る、決定的な痕跡。
本牧ふ頭で発見された一台目の黒いセダンは押収済みだった。
だが、鑑識の結果、車体の一部に不自然な修復痕があった。
左前部のフェンダー。
ボンネットの端。
そして、フロントガラス下部。
事故後に交換されている部品があった。
その交換前の部品が見つかれば、三年前のひき逃げを立証する物証になる。
問題は、その部品がどこにあるのかだった。
捜査本部の会議室で、押村奏斗はホワイトボードを見つめていた。
右肩にはまだ包帯が巻かれている。
横溝重悟に何度も「座れ」と言われたが、結局立っていた。
横溝は苛立ったように腕を組んでいる。
「押村、肩は」
「問題ありません」
「聞いた俺が馬鹿だった」
横溝はため息をついた。
そこへ、萩原千速が資料を持って入ってきた。
「奏斗、重悟」
「千速。交通部の方はどうだ」
横溝が尋ねる。
千速は資料を机に置いた。
「三年前の逃走経路を再確認した。久我悠真たちは港北区の現場から逃走後、環状二号を避けて、工業地帯の裏道を抜けてる」
押村が資料に目を落とす。
「当時、検問が薄くなっていたルートですね」
「ああ。宮永が交通部の配置を確認して、逃げ道を作ったんだろうな」
千速の声には怒りが滲んでいた。
「その先に、三浦亮介が勤めていた整備工場がある」
押村は地図に赤い線を引いた。
「事故車は一度、その工場へ運ばれた。その後、部品を交換し、車両本体は廃車業者名義で隠された」
横溝が唸る。
「交換した部品を処分したのは誰だ」
「三浦さんは、そこまでは知らないと言っています」
押村は資料をめくった。
「ただ、佐伯慎吾の携帯に残っていたメッセージに、気になる記述があります」
千速が眉を上げる。
「何だ?」
押村は一枚の印刷資料を机に置いた。
そこには、三年前の短いメッセージ履歴があった。
『古い部品は南の倉庫へ。表には出すな』
送信者は不明。
受信者は佐伯。
横溝の目が鋭くなる。
「南の倉庫?」
「はい」
押村は地図上の港湾エリアを指した。
「三浦さんの整備工場から南にある倉庫群。現在は多くが使われていませんが、当時は廃車業者や部品業者が借りていた記録があります」
千速が地図を覗き込む。
「大黒じゃない。本牧の南側か」
「はい」
横溝が押村を見る。
「探すか」
「探します」
押村は即答した。
「もし交換前の部品が残っていれば、三年前の被害者の血痕、繊維片、衝突痕が検出される可能性があります」
「三年経ってるぞ」
「完全ではなくても、残っている可能性はあります」
千速が静かに言った。
「行こう」
押村が千速を見る。
「千速は、今日は非番では?」
「だったら何だ」
「休むべきだ」
「お前にだけは言われたくねぇ」
横溝がすかさず言った。
「同感だ」
押村は二人を見る。
「俺は休まなくていいとは言っていません」
「肩撃たれた奴が言うな」
千速が睨む。
「今回は私も行く。道路と倉庫街の勘は交通部の方が利く」
押村は少しだけ沈黙した。
以前なら、ここで一人で行こうとしたかもしれない。
だが今は違う。
「分かった」
千速は意外そうに瞬きした。
「素直だな」
「頼りにしているからな」
千速の動きが止まった。
横溝が顔をしかめる。
「だからお前ら、捜査本部でそういう空気を出すな」
千速は赤くなりながら怒鳴った。
「出してねぇよ!」
押村は真面目に首を傾げた。
「今のは捜査上の発言です」
「余計にたちが悪いんだよ」
横溝は頭をかいた。
「とにかく行くぞ。南の倉庫だ」
本牧南側の倉庫群は、昼間でもどこか薄暗かった。
潮風で錆びたフェンス。
剥がれかけた看板。
使われなくなったフォークリフト。
ひび割れたアスファルト。
遠くでは大型船の汽笛が低く鳴っている。
三人は警戒しながら倉庫群へ入った。
横溝が先頭。
押村が資料を確認しながら続く。
千速は周囲の道路と逃走経路を見ていた。
「ここ、車で出入りするには面倒だな」
千速が言った。
「大型車は入りづらい。でも、普通車なら裏道から抜けられる」
押村は頷いた。
「隠すには適した場所です」
横溝が古い倉庫の前で足を止めた。
錆びたシャッターには、かすかに塗装の跡が残っている。
「ここか」
押村は書類と照合する。
「当時、廃車部品の一時保管場所として登録されています。所有会社はすでに倒産していますが、三年前に久我悠真の車両を処理した廃車業者と取引がありました」
千速がシャッターの隙間を覗く。
「中、見えねぇな」
横溝が周囲の刑事に指示を出す。
「開錠班を呼べ。鑑識も待機させろ」
その時、倉庫の奥から小さな音がした。
金属が倒れるような音。
千速の目が一瞬で変わった。
「誰かいる」
横溝が拳銃に手をかける。
押村も周囲を確認した。
「裏口があります」
「回るぞ」
三人は倉庫の裏手へ向かった。
古い鉄扉が半開きになっている。
押村は低く声をかけた。
「警察です。中にいる方、出てきてください」
返答はない。
横溝が目配せする。
三人はゆっくり中へ入った。
倉庫の中は埃と油の匂いで満ちていた。
積み上げられた廃材。
古いタイヤ。
シートを被せられた車の部品。
奥には、錆びたコンテナがいくつも置かれている。
千速が小声で言った。
「最近、人が入った跡がある」
床の埃に、足跡が残っていた。
押村はしゃがみ込み、足跡を確認する。
「新しい」
その瞬間、奥のコンテナの影が動いた。
横溝が叫ぶ。
「動くな!」
影は走り出した。
「逃げた!」
千速が即座に追う。
「千速!」
押村も追いかけようとするが、肩に痛みが走って一瞬遅れた。
横溝が怒鳴る。
「押村、お前は無理すんな!」
「ですが――」
「俺が行く!」
横溝が千速の後を追った。
押村は歯を食いしばりながら、倉庫内を見回した。
逃げた人物は、何かをしていた。
その何かが重要だ。
押村は奥のコンテナへ向かう。
扉には新しい傷。
南京錠は切断されている。
中を覗いた瞬間、押村の目が鋭くなった。
そこには、車の部品があった。
古いボンネット。
フロントバンパー。
左前部のフェンダー。
割れたヘッドライト。
黒い塗装。
そして、フェンダーの一部に、赤黒い染みが残っていた。
押村は息を呑む。
「……見つけた」
三年前の黒いセダンの交換前部品。
事件を終わらせるための、最後の物証。
押村はすぐに無線を取った。
「横溝警部、部品を発見しました。黒いセダンの交換前部品と思われます」
無線の向こうで横溝の声が返る。
『了解! こっちは逃走者を追ってる! 千速が前に回った!』
「萩原は?」
『元気すぎるくらいだ!』
押村はわずかに息を吐いた。
その時、背後で足音がした。
押村が振り向くより早く、冷たい金属が首筋に当たった。
「動くな」
低い声。
押村は静かに息を整えた。
「あなたは?」
相手は押村の背後に立ったまま言った。
「その部品は渡してもらう」
押村は動かなかった。
「戸倉の関係者ですか」
「黙れ」
首筋の金属が強く押しつけられる。
刃物だ。
押村は声だけで相手を測った。
若くはない。
だが老いてもいない。
呼吸が荒い。
焦っている。
「ここへ来た目的は証拠隠滅ですね」
「黙れと言った」
「火をつけるつもりでしたか」
沈黙。
その沈黙が答えだった。
押村は続けた。
「今からそれをしても無駄です。周囲は警察が押さえています。鑑識も到着します」
「まだ燃やせる」
「あなたも巻き込まれます」
「構わない」
刃物を持つ手に力が入る。
押村は目だけで周囲を見た。
出口は遠い。
拳銃には手が届かない。
肩の負傷で無理に動けば、相手に刺される可能性がある。
その時、倉庫の外から千速の声が聞こえた。
「奏斗!」
相手の体がわずかに揺れた。
押村は一瞬の隙を逃さなかった。
体を沈め、相手の腕を払う。
肩に激痛が走った。
「っ……!」
刃物がかすめ、床に落ちる。
押村は相手の手首を押さえ込もうとしたが、負傷した肩がうまく動かない。
相手が押村を突き飛ばす。
押村はコンテナに背中を打ちつけた。
その瞬間、千速が飛び込んできた。
「奏斗!」
相手が刃物を拾おうとする。
千速の蹴りが、その手を弾いた。
「触んな!」
次の瞬間、彼女は相手の襟を掴み、勢いよく床へ叩きつけた。
男は呻き声を上げ、動きを止める。
横溝も駆け込んできて、即座に男を押さえた。
「確保!」
千速は押村の前に膝をついた。
「奏斗、大丈夫か!」
押村は肩を押さえながら頷いた。
「問題ない」
「問題ある顔してんだよ!」
「少し痛むだけだ」
「だからそれが問題だって言ってんだ!」
横溝が床の男に手錠をかけながら怒鳴る。
「押村! お前また説教追加だ!」
「承知しました」
「素直に承知すんな!」
千速は押村の肩を見て、顔をしかめた。
「傷、開いてる」
押村は自分の肩を見る。
包帯に血が滲んでいた。
「少しだけだ」
「黙れ」
「はい」
千速は小さく息を吐いた。
その目には怒りと心配が混じっている。
「ほんとに……心臓に悪い男だな、お前」
押村は千速を見た。
「すまない」
「謝るくらいなら無茶するな」
「努力する」
「だから断言しろって言ってんだろ」
押村は少し考えた。
「無茶はしない」
千速は疑わしそうに見た。
「本当だな?」
「君がそばにいる時は」
千速の顔が一瞬で赤くなった。
「そういう言い方をするな!」
横溝が背後で低く呟く。
「お前ら、ここ証拠品の前だぞ」
押村は視線をコンテナの中へ戻した。
「横溝警部」
「ああ」
横溝も表情を引き締める。
「これが最後のピースだな」
コンテナの中の黒い部品。
三年前の夜、少年をはねた車の一部。
千速はその部品を見つめ、静かに拳を握った。
「やっと……」
声が震えていた。
「やっと見つけたな」
押村は頷いた。
「はい」
横溝は鑑識班へ指示を飛ばした。
「全部丁寧に運べ! 触るな、動かすな、記録を残せ! これで三年前の亡霊を終わらせる!」
鑑識員たちが慎重に動き始める。
押村はその様子を見ながら、深く息を吐いた。
終わりが見えた。
だが、その瞬間だった。
確保された男が、床に伏せたまま笑った。
「終わらない」
横溝が男を睨む。
「何だと?」
男は顔を上げた。
その顔に、焦りは消えていた。
むしろ、どこか諦めたような笑みが浮かんでいる。
「もう遅い。あの人は逃げる」
押村の目が鋭くなる。
「あの人とは誰ですか」
男は笑うだけだった。
千速が一歩近づく。
「答えろ」
男はかすれた声で言った。
「久我誠一郎だ」
横溝の表情が変わる。
「久我は身柄を押さえてるはずだ」
男は笑った。
「本当に?」
押村はすぐに無線を取った。
「本部、久我誠一郎の所在を確認してください」
数秒の沈黙。
そして、無線の向こうから焦った声が返ってきた。
『こちら本部。久我誠一郎の移送中、車両が襲撃されました!』
横溝が怒鳴る。
「何だと!?」
『護送車が事故を起こし、久我の身柄が消えています! 現在、逃走中!』
千速の顔が険しくなる。
「最後の最後で逃げやがったか」
押村は立ち上がった。
肩に痛みが走る。
千速がすぐに支える。
「奏斗」
押村は静かに言った。
「久我誠一郎が逃げたなら、向かう場所は限られます」
横溝が振り向く。
「どこだ」
押村は倉庫の外、港の方を見た。
「海外逃亡を図るなら、港湾ルート。ですが、彼は元県警幹部です。通常の港では足がつく」
千速が続ける。
「密航ルートか」
「はい」
横溝が低く唸る。
「本牧、川崎、横須賀……候補が多すぎる」
押村は首を横に振った。
「いいえ。久我誠一郎は、おそらく黒いセダンの最初の隠蔽に使ったルートを使います」
千速の目が鋭くなる。
「三年前と同じ道」
「はい」
押村は地図を開いた。
「三年前、事故車は港北から裏道を抜け、この倉庫群へ。そして最終的に本牧ふ頭近くで廃車業者名義に移された」
横溝が気づく。
「本牧ふ頭か」
押村は頷く。
「三年前の始末をつけた場所へ戻る可能性が高い」
千速はヘルメットを手に取った。
「行くぞ」
押村が千速を見る。
「俺も行く」
千速は一瞬だけ迷った。
肩の傷を見て、唇を噛む。
「本当は置いていきたい」
「分かっている」
「でも、止めても来るだろ」
「はい」
千速は大きく息を吐いた。
「だったら、私の後ろに乗れ。勝手に動くな」
押村は頷いた。
「分かった」
横溝が車の鍵を取り出す。
「俺は捜査車両で追う。押村、千速。先に行け」
千速は白バイへ向かって走った。
押村もその後を追う。
白バイにまたがる千速の背中は、迷いがなかった。
押村は後ろに乗る。
千速が振り返らずに言った。
「奏斗」
「何だ」
「今度こそ終わらせるぞ」
「ああ」
押村は静かに答えた。
「三年前から走り続けた黒いセダンを、ここで止める」
千速は小さく笑った。
「いい返事だ」
エンジンが唸る。
白バイは倉庫街を飛び出した。
潮風を切り、サイレンが鳴り響く。
本牧ふ頭へ。
三年前の夜から始まった逃走劇の、終着点へ。
黒いセダンの亡霊は、もうすぐ本当に止まる。
そしてその先で、押村奏斗と萩原千速は、それぞれが抱えてきたものに最後の決着をつけることになる