神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第13話 黒いセダンの終着点

三年前から止まっていた事件は、ようやく正式に動き出した。

 

県警本部に設置された合同捜査本部には、朝から緊張が走っていた。

 

久我誠一郎元方面本部長。

戸倉警視正。

宮永怜司警視。

久我悠真。

戸倉圭吾。

 

それぞれの供述、証拠、録音データ、車両記録、監察官室の地下保管庫から持ち出された資料。

 

すべてを照合すれば、三年前に何が起きたのかは、ほぼ明らかだった。

 

だが、まだ足りないものがあった。

 

最後の証拠。

 

三年前の夜、少年をはねた黒いセダンそのものに残る、決定的な痕跡。

 

本牧ふ頭で発見された一台目の黒いセダンは押収済みだった。

だが、鑑識の結果、車体の一部に不自然な修復痕があった。

 

左前部のフェンダー。

ボンネットの端。

そして、フロントガラス下部。

 

事故後に交換されている部品があった。

 

その交換前の部品が見つかれば、三年前のひき逃げを立証する物証になる。

 

問題は、その部品がどこにあるのかだった。

 

捜査本部の会議室で、押村奏斗はホワイトボードを見つめていた。

 

右肩にはまだ包帯が巻かれている。

横溝重悟に何度も「座れ」と言われたが、結局立っていた。

 

横溝は苛立ったように腕を組んでいる。

 

「押村、肩は」

 

「問題ありません」

 

「聞いた俺が馬鹿だった」

 

横溝はため息をついた。

 

そこへ、萩原千速が資料を持って入ってきた。

 

「奏斗、重悟」

 

「千速。交通部の方はどうだ」

 

横溝が尋ねる。

 

千速は資料を机に置いた。

 

「三年前の逃走経路を再確認した。久我悠真たちは港北区の現場から逃走後、環状二号を避けて、工業地帯の裏道を抜けてる」

 

押村が資料に目を落とす。

 

「当時、検問が薄くなっていたルートですね」

 

「ああ。宮永が交通部の配置を確認して、逃げ道を作ったんだろうな」

 

千速の声には怒りが滲んでいた。

 

「その先に、三浦亮介が勤めていた整備工場がある」

 

押村は地図に赤い線を引いた。

 

「事故車は一度、その工場へ運ばれた。その後、部品を交換し、車両本体は廃車業者名義で隠された」

 

横溝が唸る。

 

「交換した部品を処分したのは誰だ」

 

「三浦さんは、そこまでは知らないと言っています」

 

押村は資料をめくった。

 

「ただ、佐伯慎吾の携帯に残っていたメッセージに、気になる記述があります」

 

千速が眉を上げる。

 

「何だ?」

 

押村は一枚の印刷資料を机に置いた。

 

そこには、三年前の短いメッセージ履歴があった。

 

『古い部品は南の倉庫へ。表には出すな』

 

送信者は不明。

受信者は佐伯。

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「南の倉庫?」

 

「はい」

 

押村は地図上の港湾エリアを指した。

 

「三浦さんの整備工場から南にある倉庫群。現在は多くが使われていませんが、当時は廃車業者や部品業者が借りていた記録があります」

 

千速が地図を覗き込む。

 

「大黒じゃない。本牧の南側か」

 

「はい」

 

横溝が押村を見る。

 

「探すか」

 

「探します」

 

押村は即答した。

 

「もし交換前の部品が残っていれば、三年前の被害者の血痕、繊維片、衝突痕が検出される可能性があります」

 

「三年経ってるぞ」

 

「完全ではなくても、残っている可能性はあります」

 

千速が静かに言った。

 

「行こう」

 

押村が千速を見る。

 

「千速は、今日は非番では?」

 

「だったら何だ」

 

「休むべきだ」

 

「お前にだけは言われたくねぇ」

 

横溝がすかさず言った。

 

「同感だ」

 

押村は二人を見る。

 

「俺は休まなくていいとは言っていません」

 

「肩撃たれた奴が言うな」

 

千速が睨む。

 

「今回は私も行く。道路と倉庫街の勘は交通部の方が利く」

 

押村は少しだけ沈黙した。

 

以前なら、ここで一人で行こうとしたかもしれない。

だが今は違う。

 

「分かった」

 

千速は意外そうに瞬きした。

 

「素直だな」

 

「頼りにしているからな」

 

千速の動きが止まった。

 

横溝が顔をしかめる。

 

「だからお前ら、捜査本部でそういう空気を出すな」

 

千速は赤くなりながら怒鳴った。

 

「出してねぇよ!」

 

押村は真面目に首を傾げた。

 

「今のは捜査上の発言です」

 

「余計にたちが悪いんだよ」

 

横溝は頭をかいた。

 

「とにかく行くぞ。南の倉庫だ」

 

本牧南側の倉庫群は、昼間でもどこか薄暗かった。

 

潮風で錆びたフェンス。

剥がれかけた看板。

使われなくなったフォークリフト。

ひび割れたアスファルト。

 

遠くでは大型船の汽笛が低く鳴っている。

 

三人は警戒しながら倉庫群へ入った。

 

横溝が先頭。

押村が資料を確認しながら続く。

千速は周囲の道路と逃走経路を見ていた。

 

「ここ、車で出入りするには面倒だな」

 

千速が言った。

 

「大型車は入りづらい。でも、普通車なら裏道から抜けられる」

 

押村は頷いた。

 

「隠すには適した場所です」

 

横溝が古い倉庫の前で足を止めた。

 

錆びたシャッターには、かすかに塗装の跡が残っている。

 

「ここか」

 

押村は書類と照合する。

 

「当時、廃車部品の一時保管場所として登録されています。所有会社はすでに倒産していますが、三年前に久我悠真の車両を処理した廃車業者と取引がありました」

 

千速がシャッターの隙間を覗く。

 

「中、見えねぇな」

 

横溝が周囲の刑事に指示を出す。

 

「開錠班を呼べ。鑑識も待機させろ」

 

その時、倉庫の奥から小さな音がした。

 

金属が倒れるような音。

 

千速の目が一瞬で変わった。

 

「誰かいる」

 

横溝が拳銃に手をかける。

 

押村も周囲を確認した。

 

「裏口があります」

 

「回るぞ」

 

三人は倉庫の裏手へ向かった。

 

古い鉄扉が半開きになっている。

 

押村は低く声をかけた。

 

「警察です。中にいる方、出てきてください」

 

返答はない。

 

横溝が目配せする。

 

三人はゆっくり中へ入った。

 

倉庫の中は埃と油の匂いで満ちていた。

 

積み上げられた廃材。

古いタイヤ。

シートを被せられた車の部品。

奥には、錆びたコンテナがいくつも置かれている。

 

千速が小声で言った。

 

「最近、人が入った跡がある」

 

床の埃に、足跡が残っていた。

 

押村はしゃがみ込み、足跡を確認する。

 

「新しい」

 

その瞬間、奥のコンテナの影が動いた。

 

横溝が叫ぶ。

 

「動くな!」

 

影は走り出した。

 

「逃げた!」

 

千速が即座に追う。

 

「千速!」

 

押村も追いかけようとするが、肩に痛みが走って一瞬遅れた。

 

横溝が怒鳴る。

 

「押村、お前は無理すんな!」

 

「ですが――」

 

「俺が行く!」

 

横溝が千速の後を追った。

 

押村は歯を食いしばりながら、倉庫内を見回した。

 

逃げた人物は、何かをしていた。

 

その何かが重要だ。

 

押村は奥のコンテナへ向かう。

 

扉には新しい傷。

南京錠は切断されている。

 

中を覗いた瞬間、押村の目が鋭くなった。

 

そこには、車の部品があった。

 

古いボンネット。

フロントバンパー。

左前部のフェンダー。

割れたヘッドライト。

 

黒い塗装。

 

そして、フェンダーの一部に、赤黒い染みが残っていた。

 

押村は息を呑む。

 

「……見つけた」

 

三年前の黒いセダンの交換前部品。

 

事件を終わらせるための、最後の物証。

 

押村はすぐに無線を取った。

 

「横溝警部、部品を発見しました。黒いセダンの交換前部品と思われます」

 

無線の向こうで横溝の声が返る。

 

『了解! こっちは逃走者を追ってる! 千速が前に回った!』

 

「萩原は?」

 

『元気すぎるくらいだ!』

 

押村はわずかに息を吐いた。

 

その時、背後で足音がした。

 

押村が振り向くより早く、冷たい金属が首筋に当たった。

 

「動くな」

 

低い声。

 

押村は静かに息を整えた。

 

「あなたは?」

 

相手は押村の背後に立ったまま言った。

 

「その部品は渡してもらう」

 

押村は動かなかった。

 

「戸倉の関係者ですか」

 

「黙れ」

 

首筋の金属が強く押しつけられる。

刃物だ。

 

押村は声だけで相手を測った。

 

若くはない。

だが老いてもいない。

呼吸が荒い。

焦っている。

 

「ここへ来た目的は証拠隠滅ですね」

 

「黙れと言った」

 

「火をつけるつもりでしたか」

 

沈黙。

 

その沈黙が答えだった。

 

押村は続けた。

 

「今からそれをしても無駄です。周囲は警察が押さえています。鑑識も到着します」

 

「まだ燃やせる」

 

「あなたも巻き込まれます」

 

「構わない」

 

刃物を持つ手に力が入る。

 

押村は目だけで周囲を見た。

 

出口は遠い。

拳銃には手が届かない。

肩の負傷で無理に動けば、相手に刺される可能性がある。

 

その時、倉庫の外から千速の声が聞こえた。

 

「奏斗!」

 

相手の体がわずかに揺れた。

 

押村は一瞬の隙を逃さなかった。

 

体を沈め、相手の腕を払う。

 

肩に激痛が走った。

 

「っ……!」

 

刃物がかすめ、床に落ちる。

 

押村は相手の手首を押さえ込もうとしたが、負傷した肩がうまく動かない。

 

相手が押村を突き飛ばす。

 

押村はコンテナに背中を打ちつけた。

 

その瞬間、千速が飛び込んできた。

 

「奏斗!」

 

相手が刃物を拾おうとする。

 

千速の蹴りが、その手を弾いた。

 

「触んな!」

 

次の瞬間、彼女は相手の襟を掴み、勢いよく床へ叩きつけた。

 

男は呻き声を上げ、動きを止める。

 

横溝も駆け込んできて、即座に男を押さえた。

 

「確保!」

 

千速は押村の前に膝をついた。

 

「奏斗、大丈夫か!」

 

押村は肩を押さえながら頷いた。

 

「問題ない」

 

「問題ある顔してんだよ!」

 

「少し痛むだけだ」

 

「だからそれが問題だって言ってんだ!」

 

横溝が床の男に手錠をかけながら怒鳴る。

 

「押村! お前また説教追加だ!」

 

「承知しました」

 

「素直に承知すんな!」

 

千速は押村の肩を見て、顔をしかめた。

 

「傷、開いてる」

 

押村は自分の肩を見る。

 

包帯に血が滲んでいた。

 

「少しだけだ」

 

「黙れ」

 

「はい」

 

千速は小さく息を吐いた。

 

その目には怒りと心配が混じっている。

 

「ほんとに……心臓に悪い男だな、お前」

 

押村は千速を見た。

 

「すまない」

 

「謝るくらいなら無茶するな」

 

「努力する」

 

「だから断言しろって言ってんだろ」

 

押村は少し考えた。

 

「無茶はしない」

 

千速は疑わしそうに見た。

 

「本当だな?」

 

「君がそばにいる時は」

 

千速の顔が一瞬で赤くなった。

 

「そういう言い方をするな!」

 

横溝が背後で低く呟く。

 

「お前ら、ここ証拠品の前だぞ」

 

押村は視線をコンテナの中へ戻した。

 

「横溝警部」

 

「ああ」

 

横溝も表情を引き締める。

 

「これが最後のピースだな」

 

コンテナの中の黒い部品。

 

三年前の夜、少年をはねた車の一部。

 

千速はその部品を見つめ、静かに拳を握った。

 

「やっと……」

 

声が震えていた。

 

「やっと見つけたな」

 

押村は頷いた。

 

「はい」

 

横溝は鑑識班へ指示を飛ばした。

 

「全部丁寧に運べ! 触るな、動かすな、記録を残せ! これで三年前の亡霊を終わらせる!」

 

鑑識員たちが慎重に動き始める。

 

押村はその様子を見ながら、深く息を吐いた。

 

終わりが見えた。

 

だが、その瞬間だった。

 

確保された男が、床に伏せたまま笑った。

 

「終わらない」

 

横溝が男を睨む。

 

「何だと?」

 

男は顔を上げた。

 

その顔に、焦りは消えていた。

 

むしろ、どこか諦めたような笑みが浮かんでいる。

 

「もう遅い。あの人は逃げる」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「あの人とは誰ですか」

 

男は笑うだけだった。

 

千速が一歩近づく。

 

「答えろ」

 

男はかすれた声で言った。

 

「久我誠一郎だ」

 

横溝の表情が変わる。

 

「久我は身柄を押さえてるはずだ」

 

男は笑った。

 

「本当に?」

 

押村はすぐに無線を取った。

 

「本部、久我誠一郎の所在を確認してください」

 

数秒の沈黙。

 

そして、無線の向こうから焦った声が返ってきた。

 

『こちら本部。久我誠一郎の移送中、車両が襲撃されました!』

 

横溝が怒鳴る。

 

「何だと!?」

 

『護送車が事故を起こし、久我の身柄が消えています! 現在、逃走中!』

 

千速の顔が険しくなる。

 

「最後の最後で逃げやがったか」

 

押村は立ち上がった。

 

肩に痛みが走る。

 

千速がすぐに支える。

 

「奏斗」

 

押村は静かに言った。

 

「久我誠一郎が逃げたなら、向かう場所は限られます」

 

横溝が振り向く。

 

「どこだ」

 

押村は倉庫の外、港の方を見た。

 

「海外逃亡を図るなら、港湾ルート。ですが、彼は元県警幹部です。通常の港では足がつく」

 

千速が続ける。

 

「密航ルートか」

 

「はい」

 

横溝が低く唸る。

 

「本牧、川崎、横須賀……候補が多すぎる」

 

押村は首を横に振った。

 

「いいえ。久我誠一郎は、おそらく黒いセダンの最初の隠蔽に使ったルートを使います」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「三年前と同じ道」

 

「はい」

 

押村は地図を開いた。

 

「三年前、事故車は港北から裏道を抜け、この倉庫群へ。そして最終的に本牧ふ頭近くで廃車業者名義に移された」

 

横溝が気づく。

 

「本牧ふ頭か」

 

押村は頷く。

 

「三年前の始末をつけた場所へ戻る可能性が高い」

 

千速はヘルメットを手に取った。

 

「行くぞ」

 

押村が千速を見る。

 

「俺も行く」

 

千速は一瞬だけ迷った。

 

肩の傷を見て、唇を噛む。

 

「本当は置いていきたい」

 

「分かっている」

 

「でも、止めても来るだろ」

 

「はい」

 

千速は大きく息を吐いた。

 

「だったら、私の後ろに乗れ。勝手に動くな」

 

押村は頷いた。

 

「分かった」

 

横溝が車の鍵を取り出す。

 

「俺は捜査車両で追う。押村、千速。先に行け」

 

千速は白バイへ向かって走った。

 

押村もその後を追う。

 

白バイにまたがる千速の背中は、迷いがなかった。

 

押村は後ろに乗る。

 

千速が振り返らずに言った。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今度こそ終わらせるぞ」

 

「ああ」

 

押村は静かに答えた。

 

「三年前から走り続けた黒いセダンを、ここで止める」

 

千速は小さく笑った。

 

「いい返事だ」

 

エンジンが唸る。

 

白バイは倉庫街を飛び出した。

 

潮風を切り、サイレンが鳴り響く。

 

本牧ふ頭へ。

 

三年前の夜から始まった逃走劇の、終着点へ。

 

黒いセダンの亡霊は、もうすぐ本当に止まる。

 

そしてその先で、押村奏斗と萩原千速は、それぞれが抱えてきたものに最後の決着をつけることになる

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