神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第14話 夜明けの白線

白バイのサイレンが、港へ続く道を切り裂いた。

 

萩原千速は前だけを見ていた。

 

本牧ふ頭へ向かう道路。

三年前、黒いセダンが逃げた道。

証拠を消し、少年の命を置き去りにし、警察の闇へと消えていった道。

 

その道を、今度は追う側として走っている。

 

後ろには押村奏斗がいた。

 

右肩の傷は開いている。

本来なら病院へ戻るべき状態だ。

 

だが、押村は何も言わなかった。

 

千速も、止めなかった。

 

ここで止めなければ、この事件は終わらない。

 

「奏斗!」

 

千速が風の中で叫ぶ。

 

「久我の車両情報は!」

 

押村は片手で千速の腰を支えながら、スマホを確認していた。

 

「本部から共有が来た。護送車襲撃後、久我誠一郎は黒のセダンに乗り換えた可能性が高い」

 

「また黒いセダンかよ」

 

千速の声に怒りが混じる。

 

「三年前と同じ型です」

 

「最後まで亡霊気取りか」

 

「逃走方向は本牧ふ頭方面。横溝警部が後方から追跡中」

 

「了解」

 

千速はアクセルを開けた。

 

港湾道路に入ると、風の匂いが変わった。

 

潮と油。

鉄と排気ガス。

三年前の記憶が、千速の胸を刺す。

 

あの夜も、この匂いの中を走った。

無線が混乱し、検問が遅れ、黒いセダンの影を追いきれなかった。

 

あと少しだった。

 

あと少しで、止められたかもしれなかった。

 

千速は歯を食いしばる。

 

「今度は逃がさねぇ」

 

押村の声が後ろから届く。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「無茶はするな」

 

千速は一瞬だけ笑った。

 

「お前がそれ言うか」

 

「だからこそ言っている」

 

「分かったよ」

 

千速は前方を睨む。

 

「でも、止めるぞ」

 

「ああ」

 

押村の声は静かだった。

 

「二人で」

 

その言葉に、千速の胸がわずかに熱くなった。

 

だが、今は振り返らない。

 

前方に、赤色灯が見えた。

 

第三交機の隊員たちが、距離を取りながら道路を絞っている。

完全封鎖ではない。

逃げ道を残して、久我を特定のルートへ誘導している。

 

その先にあるのは、本牧ふ頭の旧コンテナヤード。

 

三年前、黒いセダンが一時隠された場所だった。

 

押村が言う。

 

「新井巡査長から連絡。対象車両、旧コンテナヤードへ入りました」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「追い込んだな」

 

「はい」

 

「重悟は?」

 

「後方二分」

 

「なら、先に行く」

 

千速は白バイを大きく倒し、コンテナヤードへ続く道へ入った。

 

旧コンテナヤードは、朝の薄い光に沈んでいた。

 

積み上げられたコンテナ。

錆びたフェンス。

使われなくなったクレーン。

 

その中央に、黒いセダンが停まっていた。

 

古い型の車。

黒いボディ。

左後部には、白い擦り傷。

 

三年前から何度も押村たちの前に現れた、あの特徴。

 

だが今、その車はもう逃げ道を失っていた。

 

白バイが少し離れた場所で停止する。

 

千速と押村が降りた。

 

押村の肩から血が滲んでいるのを見て、千速が眉をひそめる。

 

「立てるか」

 

「問題ない」

 

「それは禁止ワードにする」

 

「では、立てる」

 

「よし」

 

二人はゆっくりと黒いセダンへ近づいた。

 

運転席の扉が開く。

 

久我誠一郎が降りてきた。

 

かつて県警幹部として人を従えていた男。

その背広は乱れ、顔には疲労が滲んでいた。

 

だが、目だけはまだ冷たかった。

 

「押村奏斗」

 

久我は低く言った。

 

「しつこい男だ」

 

押村は静かに答える。

 

「三年前から逃げ続けたあなたほどではありません」

 

久我の目が細くなる。

 

千速が一歩前に出た。

 

「久我誠一郎。もう終わりだ」

 

久我は千速を見た。

 

「萩原千速か。君もよく生きていたな」

 

千速の拳がわずかに握られる。

 

「おかげさまでな」

 

「息子も戸倉も宮永も、役に立たなかった」

 

「まだそんなこと言うのかよ」

 

千速の声が低くなる。

 

「あんたのせいで、人が死んだ。村瀬も、三年前の少年も。三浦も佐伯も死にかけた。なのに、役に立ったとか立たなかったとか――」

 

「黙れ」

 

久我の声が鋭くなった。

 

「警察組織を守るためだった」

 

押村はまっすぐ久我を見た。

 

「違います」

 

「何?」

 

「あなたが守ったのは組織ではない。息子と、自分の地位です」

 

久我の顔が歪む。

 

「若造が分かったような口を利くな」

 

「分かります」

 

押村の声は揺れなかった。

 

「あなたは警察官でありながら、被害者を見なかった。遺族を見なかった。真実を見なかった」

 

久我は笑った。

 

「真実だけで組織は動かない」

 

「嘘で動く組織なら、壊れるべきです」

 

その言葉に、久我の表情が凍った。

 

遠くから車の音が近づく。

 

横溝重悟の捜査車両だった。

 

数台のパトカーも続いている。

 

久我はそれを見て、静かに息を吐いた。

 

「ここまでか」

 

押村は一歩前へ出た。

 

「久我誠一郎。三年前のひき逃げ事件に関する犯人隠避、証拠隠滅、職権乱用、ならびに今回の護送中逃走について、あなたを――」

 

その瞬間、久我が上着の内側へ手を入れた。

 

千速が叫ぶ。

 

「奏斗!」

 

押村は動けなかった。

 

肩の痛みで反応が一瞬遅れる。

 

久我の手には拳銃があった。

 

銃口が押村へ向く。

 

「終わらせるのは、私だ」

 

乾いた銃声が響いた。

 

だが、押村は倒れなかった。

 

千速が押村を突き飛ばしていた。

 

弾は二人の横を抜け、背後のコンテナに当たって火花を散らす。

 

押村は地面に膝をつく。

 

「千速!」

 

千速はすぐに立ち上がり、久我へ向かって走った。

 

「ふざけんな!」

 

久我が再び銃を構えようとする。

 

千速は低い姿勢で踏み込み、銃を持つ腕を蹴り上げた。

 

拳銃が宙を舞う。

 

久我はよろめきながらも、千速の腕を掴む。

 

「小娘が!」

 

「誰が小娘だ!」

 

千速は力任せに久我の体勢を崩し、地面へ叩きつけた。

 

だが久我も必死だった。

 

倒れながら千速の足を掴み、引きずり倒そうとする。

 

そこへ横溝が飛び込んできた。

 

「久我ァ!」

 

横溝の膝が久我の腕を押さえつける。

 

押村も痛む肩を押さえながら立ち上がり、久我のもう片方の腕を拘束した。

 

三人がかりで、久我誠一郎を押さえ込む。

 

手錠の音が、朝のコンテナヤードに響いた。

 

横溝が低く告げる。

 

「久我誠一郎。公務執行妨害および殺人未遂の現行犯で逮捕する」

 

久我は地面に伏せたまま、荒い息をついていた。

 

「私は……組織を……」

 

横溝が遮った。

 

「黙れ」

 

その声は、怒鳴り声ではなかった。

 

低く、重く、決定的だった。

 

「お前が口にしていい言葉じゃねぇ」

 

久我はそれ以上、何も言えなかった。

 

刑事たちが駆け寄り、久我を連行していく。

 

黒いセダンだけが、朝日に照らされて残った。

 

三年前から走り続けた亡霊。

 

ようやく、完全に止まった。

 

その日の午後。

 

県警本部で正式発表が行われた。

 

三年前の港北区ひき逃げ死亡事件について、再捜査の開始。

久我悠真の逮捕。

久我誠一郎、戸倉警視正、宮永怜司らによる隠蔽工作。

村瀬浩一殺害事件との関連。

 

発表は県警を大きく揺るがした。

 

報道陣は詰めかけ、幹部たちは対応に追われた。

警察への批判は避けられない。

 

だが、もう隠すことはなかった。

 

すべてを明るみに出すことからしか、信頼は戻らない。

 

押村は会見場の後ろで、その様子を見ていた。

 

肩には新しい包帯が巻かれている。

医師と千速と横溝から、三方向に説教を受けたばかりだった。

 

横溝が隣に立つ。

 

「押村」

 

「はい」

 

「終わったな」

 

押村は少しだけ沈黙した。

 

「捜査はまだ続きます。供述調書、裏付け、送検――」

 

「そういう話じゃねぇ」

 

横溝は窓の外を見る。

 

「黒いセダンの件だ」

 

押村は視線を落とした。

 

「はい」

 

横溝は静かに言った。

 

「三年前のガキの母親に、ちゃんと報告しろ」

 

「はい」

 

「俺も行く」

 

「お願いします」

 

「千速も連れてけ」

 

押村は少しだけ驚いて横溝を見た。

 

横溝は鼻で笑う。

 

「お前一人だと、また全部背負うからな」

 

押村は何も言わなかった。

 

ただ、小さく頷いた。

 

夕方。

 

押村、千速、横溝の三人は、再び港北区の住宅街を訪れた。

 

少年の母親は、玄関先で三人を迎えた。

 

押村は深く頭を下げた。

 

「逮捕しました」

 

女性の手が震えた。

 

「……そうですか」

 

「三年前、息子さんをはねた運転者、そして事件を隠蔽した者たちを、正式に捜査対象として扱います」

 

女性は目を閉じた。

 

涙が一筋、頬を流れた。

 

「やっと……」

 

その声は、あまりにも小さかった。

 

千速は唇を噛んだ。

 

横溝は拳を握りしめた。

 

押村は頭を下げたまま言った。

 

「遅くなりました。本当に、申し訳ありませんでした」

 

女性はしばらく黙っていた。

 

そして、静かに言った。

 

「息子は戻ってきません」

 

「はい」

 

「でも……あの子が忘れられていなかったことだけは、分かりました」

 

押村は顔を上げた。

 

女性は涙を拭いながら、少年の写真を胸に抱いた。

 

「ありがとうございました」

 

その言葉は、許しではなかった。

 

警察への怒りが消えたわけでもない。

 

それでも、三年前から止まっていた時間が、わずかに動いた音がした。

 

夜。

 

県警本部の屋上に、押村奏斗は立っていた。

 

肩の痛みはまだある。

だが、胸の奥にあった重い石のようなものは、少しだけ軽くなっていた。

 

扉が開く音がする。

 

振り返らなくても分かった。

 

萩原千速だった。

 

「ここにいると思った」

 

「なぜ分かった」

 

「奏斗は、考え事すると高いところか資料室に行く」

 

「よく見ているな」

 

「同期だからな」

 

千速は隣に並ぶ。

 

夜風が二人の間を抜けていく。

 

しばらく、二人は黙って横浜の街を見ていた。

 

千速が口を開く。

 

「終わったな」

 

「事件としては、まだ続く」

 

「そういう話じゃねぇ」

 

押村は少しだけ口元を緩めた。

 

「横溝警部にも同じことを言われた」

 

「似てきたか、私たち」

 

「少し」

 

「嫌だな」

 

「そうか」

 

「いや、まあ……嫌じゃねぇけど」

 

千速は照れ隠しのように視線を逸らした。

 

押村はそんな彼女を見て、静かに言った。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「約束を覚えているか」

 

千速の肩がわずかに跳ねた。

 

「続きの話か」

 

「ああ」

 

千速は頬をかき、少しだけ顔を赤くした。

 

「覚えてる」

 

押村は彼女をまっすぐ見た。

 

事件が終わったら。

 

そう言って、先延ばしにしていたもの。

 

自分の気持ち。

千速への想い。

 

押村は言葉を探した。

 

やはり、うまくは言えない。

 

だが、今度は逃げなかった。

 

「俺は、君が特別だ」

 

千速は黙って聞いていた。

 

「同期としても、警察官としても、信頼している。だが、それだけではない」

 

押村は一度だけ息を吸った。

 

「君がいないと、怖い。君が隣にいると、安心する。君の名前を呼ぶことが、今は自然になっている」

 

千速の目が揺れる。

 

「奏斗」

 

「だから」

 

押村はゆっくりと言った。

 

「俺は、千速が好きだ」

 

風が止まったように感じた。

 

千速はしばらく何も言わなかった。

 

いつものように軽口を叩くことも、からかうこともしなかった。

 

ただ、押村を見つめていた。

 

やがて、彼女は小さく笑った。

 

「下手くそ」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

千速は一歩近づく。

 

「でも、ちゃんと伝わった」

 

押村は静かに彼女を見る。

 

千速は少し照れたように、でも逃げずに言った。

 

「私も、奏斗が好きだ」

 

押村の表情が、ほんの少しだけ崩れた。

 

驚きと、安堵と、喜びが混じった顔。

 

千速はそれを見て、困ったように笑う。

 

「そんな顔すんなよ。こっちまで恥ずかしくなる」

 

「嬉しい」

 

「分かったから」

 

「本当に嬉しい」

 

「二回言うな」

 

千速は顔を赤くしながら、押村の無事な方の手を取った。

 

押村はその手を握り返す。

 

白バイのハンドルを握る、強くて温かい手。

 

二人の距離が近づく。

 

今度は、邪魔する電話は鳴らなかった。

 

千速が小さく言う。

 

「肩、痛むか?」

 

「少し」

 

「じゃあ、無理すんな」

 

「分かった」

 

「本当だな?」

 

「本当だ」

 

千速は満足そうに頷き、それから少しだけ背伸びをした。

 

唇が触れる。

 

短く、ぎこちなく、けれど確かなキスだった。

 

離れたあと、千速は真っ赤な顔で押村を睨む。

 

「何か言ったら殴る」

 

押村は静かに頷いた。

 

「何も言わない」

 

「よし」

 

しかし数秒後、押村は小さく言った。

 

「幸せだ」

 

千速は片手で顔を覆った。

 

「言うなって言っただろ……」

 

「すまない」

 

「でも」

 

千速は押村の手を握り直す。

 

「私もだよ」

 

屋上の扉の向こうで、何かがごそっと動いた。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「……重悟」

 

扉の陰から、横溝重悟が気まずそうに顔を出した。

 

「いや、邪魔するつもりはなかった」

 

千速の声が低くなる。

 

「見てたのか」

 

「ちょっとだけだ」

 

「どこから」

 

「“俺は、千速が好きだ”あたりから」

 

千速が一瞬で真っ赤になる。

 

「ほぼ全部じゃねぇか!」

 

横溝は両手を上げた。

 

「悪かった! だがな、押村」

 

押村は少し気まずそうに横溝を見る。

 

「はい」

 

横溝は不器用に笑った。

 

「よく言った」

 

押村は小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

千速はまだ顔を赤くしたまま怒鳴る。

 

「重悟! このこと誰かに言ったら本気で許さねぇ!」

 

横溝は鼻で笑った。

 

「言わねぇよ」

 

少し間を置いて、ぼそっと続けた。

 

「たぶん」

 

「重悟!」

 

屋上に、久しぶりに笑い声が響いた。

 

三年前の事件は終わった。

 

完全に消える傷ではない。

失われた命は戻らない。

警察の罪も、これから長い時間をかけて裁かれていく。

 

それでも、黒いセダンの亡霊は止まった。

 

そして、押村奏斗と萩原千速は、ようやく事件の向こう側で向き合うことができた。

 

夜明けはまだ遠い。

 

けれど、白線の向こうに続く道は、もう闇だけではなかった。

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