白バイのサイレンが、港へ続く道を切り裂いた。
萩原千速は前だけを見ていた。
本牧ふ頭へ向かう道路。
三年前、黒いセダンが逃げた道。
証拠を消し、少年の命を置き去りにし、警察の闇へと消えていった道。
その道を、今度は追う側として走っている。
後ろには押村奏斗がいた。
右肩の傷は開いている。
本来なら病院へ戻るべき状態だ。
だが、押村は何も言わなかった。
千速も、止めなかった。
ここで止めなければ、この事件は終わらない。
「奏斗!」
千速が風の中で叫ぶ。
「久我の車両情報は!」
押村は片手で千速の腰を支えながら、スマホを確認していた。
「本部から共有が来た。護送車襲撃後、久我誠一郎は黒のセダンに乗り換えた可能性が高い」
「また黒いセダンかよ」
千速の声に怒りが混じる。
「三年前と同じ型です」
「最後まで亡霊気取りか」
「逃走方向は本牧ふ頭方面。横溝警部が後方から追跡中」
「了解」
千速はアクセルを開けた。
港湾道路に入ると、風の匂いが変わった。
潮と油。
鉄と排気ガス。
三年前の記憶が、千速の胸を刺す。
あの夜も、この匂いの中を走った。
無線が混乱し、検問が遅れ、黒いセダンの影を追いきれなかった。
あと少しだった。
あと少しで、止められたかもしれなかった。
千速は歯を食いしばる。
「今度は逃がさねぇ」
押村の声が後ろから届く。
「千速」
「何だ」
「無茶はするな」
千速は一瞬だけ笑った。
「お前がそれ言うか」
「だからこそ言っている」
「分かったよ」
千速は前方を睨む。
「でも、止めるぞ」
「ああ」
押村の声は静かだった。
「二人で」
その言葉に、千速の胸がわずかに熱くなった。
だが、今は振り返らない。
前方に、赤色灯が見えた。
第三交機の隊員たちが、距離を取りながら道路を絞っている。
完全封鎖ではない。
逃げ道を残して、久我を特定のルートへ誘導している。
その先にあるのは、本牧ふ頭の旧コンテナヤード。
三年前、黒いセダンが一時隠された場所だった。
押村が言う。
「新井巡査長から連絡。対象車両、旧コンテナヤードへ入りました」
千速の目が鋭くなる。
「追い込んだな」
「はい」
「重悟は?」
「後方二分」
「なら、先に行く」
千速は白バイを大きく倒し、コンテナヤードへ続く道へ入った。
旧コンテナヤードは、朝の薄い光に沈んでいた。
積み上げられたコンテナ。
錆びたフェンス。
使われなくなったクレーン。
その中央に、黒いセダンが停まっていた。
古い型の車。
黒いボディ。
左後部には、白い擦り傷。
三年前から何度も押村たちの前に現れた、あの特徴。
だが今、その車はもう逃げ道を失っていた。
白バイが少し離れた場所で停止する。
千速と押村が降りた。
押村の肩から血が滲んでいるのを見て、千速が眉をひそめる。
「立てるか」
「問題ない」
「それは禁止ワードにする」
「では、立てる」
「よし」
二人はゆっくりと黒いセダンへ近づいた。
運転席の扉が開く。
久我誠一郎が降りてきた。
かつて県警幹部として人を従えていた男。
その背広は乱れ、顔には疲労が滲んでいた。
だが、目だけはまだ冷たかった。
「押村奏斗」
久我は低く言った。
「しつこい男だ」
押村は静かに答える。
「三年前から逃げ続けたあなたほどではありません」
久我の目が細くなる。
千速が一歩前に出た。
「久我誠一郎。もう終わりだ」
久我は千速を見た。
「萩原千速か。君もよく生きていたな」
千速の拳がわずかに握られる。
「おかげさまでな」
「息子も戸倉も宮永も、役に立たなかった」
「まだそんなこと言うのかよ」
千速の声が低くなる。
「あんたのせいで、人が死んだ。村瀬も、三年前の少年も。三浦も佐伯も死にかけた。なのに、役に立ったとか立たなかったとか――」
「黙れ」
久我の声が鋭くなった。
「警察組織を守るためだった」
押村はまっすぐ久我を見た。
「違います」
「何?」
「あなたが守ったのは組織ではない。息子と、自分の地位です」
久我の顔が歪む。
「若造が分かったような口を利くな」
「分かります」
押村の声は揺れなかった。
「あなたは警察官でありながら、被害者を見なかった。遺族を見なかった。真実を見なかった」
久我は笑った。
「真実だけで組織は動かない」
「嘘で動く組織なら、壊れるべきです」
その言葉に、久我の表情が凍った。
遠くから車の音が近づく。
横溝重悟の捜査車両だった。
数台のパトカーも続いている。
久我はそれを見て、静かに息を吐いた。
「ここまでか」
押村は一歩前へ出た。
「久我誠一郎。三年前のひき逃げ事件に関する犯人隠避、証拠隠滅、職権乱用、ならびに今回の護送中逃走について、あなたを――」
その瞬間、久我が上着の内側へ手を入れた。
千速が叫ぶ。
「奏斗!」
押村は動けなかった。
肩の痛みで反応が一瞬遅れる。
久我の手には拳銃があった。
銃口が押村へ向く。
「終わらせるのは、私だ」
乾いた銃声が響いた。
だが、押村は倒れなかった。
千速が押村を突き飛ばしていた。
弾は二人の横を抜け、背後のコンテナに当たって火花を散らす。
押村は地面に膝をつく。
「千速!」
千速はすぐに立ち上がり、久我へ向かって走った。
「ふざけんな!」
久我が再び銃を構えようとする。
千速は低い姿勢で踏み込み、銃を持つ腕を蹴り上げた。
拳銃が宙を舞う。
久我はよろめきながらも、千速の腕を掴む。
「小娘が!」
「誰が小娘だ!」
千速は力任せに久我の体勢を崩し、地面へ叩きつけた。
だが久我も必死だった。
倒れながら千速の足を掴み、引きずり倒そうとする。
そこへ横溝が飛び込んできた。
「久我ァ!」
横溝の膝が久我の腕を押さえつける。
押村も痛む肩を押さえながら立ち上がり、久我のもう片方の腕を拘束した。
三人がかりで、久我誠一郎を押さえ込む。
手錠の音が、朝のコンテナヤードに響いた。
横溝が低く告げる。
「久我誠一郎。公務執行妨害および殺人未遂の現行犯で逮捕する」
久我は地面に伏せたまま、荒い息をついていた。
「私は……組織を……」
横溝が遮った。
「黙れ」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
低く、重く、決定的だった。
「お前が口にしていい言葉じゃねぇ」
久我はそれ以上、何も言えなかった。
刑事たちが駆け寄り、久我を連行していく。
黒いセダンだけが、朝日に照らされて残った。
三年前から走り続けた亡霊。
ようやく、完全に止まった。
その日の午後。
県警本部で正式発表が行われた。
三年前の港北区ひき逃げ死亡事件について、再捜査の開始。
久我悠真の逮捕。
久我誠一郎、戸倉警視正、宮永怜司らによる隠蔽工作。
村瀬浩一殺害事件との関連。
発表は県警を大きく揺るがした。
報道陣は詰めかけ、幹部たちは対応に追われた。
警察への批判は避けられない。
だが、もう隠すことはなかった。
すべてを明るみに出すことからしか、信頼は戻らない。
押村は会見場の後ろで、その様子を見ていた。
肩には新しい包帯が巻かれている。
医師と千速と横溝から、三方向に説教を受けたばかりだった。
横溝が隣に立つ。
「押村」
「はい」
「終わったな」
押村は少しだけ沈黙した。
「捜査はまだ続きます。供述調書、裏付け、送検――」
「そういう話じゃねぇ」
横溝は窓の外を見る。
「黒いセダンの件だ」
押村は視線を落とした。
「はい」
横溝は静かに言った。
「三年前のガキの母親に、ちゃんと報告しろ」
「はい」
「俺も行く」
「お願いします」
「千速も連れてけ」
押村は少しだけ驚いて横溝を見た。
横溝は鼻で笑う。
「お前一人だと、また全部背負うからな」
押村は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
夕方。
押村、千速、横溝の三人は、再び港北区の住宅街を訪れた。
少年の母親は、玄関先で三人を迎えた。
押村は深く頭を下げた。
「逮捕しました」
女性の手が震えた。
「……そうですか」
「三年前、息子さんをはねた運転者、そして事件を隠蔽した者たちを、正式に捜査対象として扱います」
女性は目を閉じた。
涙が一筋、頬を流れた。
「やっと……」
その声は、あまりにも小さかった。
千速は唇を噛んだ。
横溝は拳を握りしめた。
押村は頭を下げたまま言った。
「遅くなりました。本当に、申し訳ありませんでした」
女性はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「息子は戻ってきません」
「はい」
「でも……あの子が忘れられていなかったことだけは、分かりました」
押村は顔を上げた。
女性は涙を拭いながら、少年の写真を胸に抱いた。
「ありがとうございました」
その言葉は、許しではなかった。
警察への怒りが消えたわけでもない。
それでも、三年前から止まっていた時間が、わずかに動いた音がした。
夜。
県警本部の屋上に、押村奏斗は立っていた。
肩の痛みはまだある。
だが、胸の奥にあった重い石のようなものは、少しだけ軽くなっていた。
扉が開く音がする。
振り返らなくても分かった。
萩原千速だった。
「ここにいると思った」
「なぜ分かった」
「奏斗は、考え事すると高いところか資料室に行く」
「よく見ているな」
「同期だからな」
千速は隣に並ぶ。
夜風が二人の間を抜けていく。
しばらく、二人は黙って横浜の街を見ていた。
千速が口を開く。
「終わったな」
「事件としては、まだ続く」
「そういう話じゃねぇ」
押村は少しだけ口元を緩めた。
「横溝警部にも同じことを言われた」
「似てきたか、私たち」
「少し」
「嫌だな」
「そうか」
「いや、まあ……嫌じゃねぇけど」
千速は照れ隠しのように視線を逸らした。
押村はそんな彼女を見て、静かに言った。
「千速」
「何だ」
「約束を覚えているか」
千速の肩がわずかに跳ねた。
「続きの話か」
「ああ」
千速は頬をかき、少しだけ顔を赤くした。
「覚えてる」
押村は彼女をまっすぐ見た。
事件が終わったら。
そう言って、先延ばしにしていたもの。
自分の気持ち。
千速への想い。
押村は言葉を探した。
やはり、うまくは言えない。
だが、今度は逃げなかった。
「俺は、君が特別だ」
千速は黙って聞いていた。
「同期としても、警察官としても、信頼している。だが、それだけではない」
押村は一度だけ息を吸った。
「君がいないと、怖い。君が隣にいると、安心する。君の名前を呼ぶことが、今は自然になっている」
千速の目が揺れる。
「奏斗」
「だから」
押村はゆっくりと言った。
「俺は、千速が好きだ」
風が止まったように感じた。
千速はしばらく何も言わなかった。
いつものように軽口を叩くことも、からかうこともしなかった。
ただ、押村を見つめていた。
やがて、彼女は小さく笑った。
「下手くそ」
「すまない」
「謝るな」
千速は一歩近づく。
「でも、ちゃんと伝わった」
押村は静かに彼女を見る。
千速は少し照れたように、でも逃げずに言った。
「私も、奏斗が好きだ」
押村の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
驚きと、安堵と、喜びが混じった顔。
千速はそれを見て、困ったように笑う。
「そんな顔すんなよ。こっちまで恥ずかしくなる」
「嬉しい」
「分かったから」
「本当に嬉しい」
「二回言うな」
千速は顔を赤くしながら、押村の無事な方の手を取った。
押村はその手を握り返す。
白バイのハンドルを握る、強くて温かい手。
二人の距離が近づく。
今度は、邪魔する電話は鳴らなかった。
千速が小さく言う。
「肩、痛むか?」
「少し」
「じゃあ、無理すんな」
「分かった」
「本当だな?」
「本当だ」
千速は満足そうに頷き、それから少しだけ背伸びをした。
唇が触れる。
短く、ぎこちなく、けれど確かなキスだった。
離れたあと、千速は真っ赤な顔で押村を睨む。
「何か言ったら殴る」
押村は静かに頷いた。
「何も言わない」
「よし」
しかし数秒後、押村は小さく言った。
「幸せだ」
千速は片手で顔を覆った。
「言うなって言っただろ……」
「すまない」
「でも」
千速は押村の手を握り直す。
「私もだよ」
屋上の扉の向こうで、何かがごそっと動いた。
千速の目が鋭くなる。
「……重悟」
扉の陰から、横溝重悟が気まずそうに顔を出した。
「いや、邪魔するつもりはなかった」
千速の声が低くなる。
「見てたのか」
「ちょっとだけだ」
「どこから」
「“俺は、千速が好きだ”あたりから」
千速が一瞬で真っ赤になる。
「ほぼ全部じゃねぇか!」
横溝は両手を上げた。
「悪かった! だがな、押村」
押村は少し気まずそうに横溝を見る。
「はい」
横溝は不器用に笑った。
「よく言った」
押村は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
千速はまだ顔を赤くしたまま怒鳴る。
「重悟! このこと誰かに言ったら本気で許さねぇ!」
横溝は鼻で笑った。
「言わねぇよ」
少し間を置いて、ぼそっと続けた。
「たぶん」
「重悟!」
屋上に、久しぶりに笑い声が響いた。
三年前の事件は終わった。
完全に消える傷ではない。
失われた命は戻らない。
警察の罪も、これから長い時間をかけて裁かれていく。
それでも、黒いセダンの亡霊は止まった。
そして、押村奏斗と萩原千速は、ようやく事件の向こう側で向き合うことができた。
夜明けはまだ遠い。
けれど、白線の向こうに続く道は、もう闇だけではなかった。