神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第16話 捜査一課、騒然

押村奏斗は、神奈川県警捜査一課の中でも、特に私生活が見えない刑事だった。

 

仕事は早い。

資料の読み込みも深い。

現場では冷静。

取調べでは粘り強い。

 

だが、雑談になると極端に口数が減る。

 

休日に何をしているのか。

誰と会っているのか。

好きな食べ物は何なのか。

 

そういう話題になると、押村は決まってこう答える。

 

「特にありません」

 

「必要ありません」

 

「問題ありません」

 

そのため捜査一課では、押村奏斗という男について、いくつかの噂があった。

 

「押村警部補は家でも資料読んでそう」

 

「寝る前に六法読むタイプだろ」

 

「恋愛とか興味あるんですかね」

 

「そもそも人間に興味あるんですかね」

 

そのたびに、横溝重悟は鼻で笑っていた。

 

「お前ら、あいつのこと何も分かってねぇな」

 

そう言いつつ、横溝も詳しくは語らなかった。

 

いや、語れなかった。

 

なぜなら。

 

押村奏斗が、第三交通機動隊の萩原千速と付き合っていることを知っているのは、捜査一課ではほぼ横溝だけだったからだ。

 

そして横溝は、その事実を黙っていた。

 

黙っていたが。

 

限界は近かった。

 

その日の朝。

 

捜査一課の執務室は、いつも通り慌ただしかった。

 

電話の音。

キーボードを叩く音。

資料をめくる音。

誰かの怒鳴り声。

 

その中で、押村は自分の席に座り、黙々と調書を確認していた。

 

右肩の傷はほぼ治っている。

とはいえ、まだ無理は禁物だった。

 

そのせいで、千速からは毎朝のように確認の連絡が来る。

 

『肩は?』

 

『飯は?』

 

『無茶してないか?』

 

押村はそれに、毎回律儀に返信していた。

 

『問題ない』

 

『食べた』

 

『していない』

 

ただし、「問題ない」と返信した日には必ず電話が来るようになった。

 

千速曰く。

 

「お前の“問題ない”は信用できねぇ」

 

とのことだった。

 

押村はその評価に少し納得していた。

 

その朝も、スマホが震えた。

 

画面を見る。

 

萩原千速。

 

押村は自然にメッセージを開いた。

 

千速:朝飯食ったか?

 

押村はすぐに返信する。

 

押村:食べた。

 

数秒後。

 

千速:何を?

 

押村は一瞬だけ手を止めた。

 

隣の若い刑事、村上が書類を持って近づいてきた。

 

「押村警部補、この件なんですが――」

 

「少し待ってください」

 

押村はスマホに向かって返信する。

 

押村:ゼリー飲料。

 

即座に既読がついた。

 

次の瞬間、スマホが震えた。

 

着信。

 

萩原千速。

 

押村は周囲を気にせず、普通に電話に出た。

 

「押村です」

 

電話の向こうから、千速の声が聞こえる。

 

『奏斗』

 

捜査一課の空気が、ほんの少しだけ止まった。

 

村上が書類を持ったまま固まる。

 

近くにいた刑事が、電話の声に反応して顔を上げた。

 

押村は気づかない。

 

「何だ、千速」

 

今度は、はっきりと止まった。

 

キーボードの音が一つ減り、二つ減り、やがて周囲の数名が完全に沈黙した。

 

電話の向こうで、千速が呆れた声を出す。

 

『ゼリー飲料は朝飯じゃねぇ』

 

「栄養補給としては成立している」

 

『成立してねぇ』

 

「必要な栄養素は――」

 

『今すぐ何か食え』

 

「勤務中だ」

 

『勤務中でも食えるものを買え』

 

「分かった」

 

『本当だな?』

 

「本当だ」

 

『重悟に見張らせるぞ』

 

押村は横溝の方を見た。

 

横溝は自席でコーヒーを飲んでいたが、明らかに会話を聞いている顔だった。

 

「横溝警部はすでにこちらを見ています」

 

横溝がむせた。

 

周囲の刑事たちが、さらに固まる。

 

電話の向こうで千速が言う。

 

『ちょうどいい。重悟に代われ』

 

「分かった」

 

横溝の目が一気に鋭くなる。

 

「待て押村、俺に振るな」

 

押村はすでにスマホを差し出していた。

 

「萩原が代わってほしいそうです」

 

「てめぇ……」

 

横溝は仕方なくスマホを受け取る。

 

「何だ、千速」

 

『重悟、奏斗がまたゼリーで朝飯済ませた』

 

「知ってる。今聞いた」

 

『ちゃんと食わせて』

 

「俺は保護者か」

 

『似たようなもんだろ』

 

「ふざけんな」

 

『頼んだぞ』

 

「ああ、分かったよ」

 

横溝は通話を切り、スマホを押村に返した。

 

そして、低く言う。

 

「押村」

 

「はい」

 

「今すぐ何か食え」

 

「しかし――」

 

「命令だ」

 

「はい」

 

押村は素直に立ち上がった。

 

そのまま売店へ向かおうとする。

 

だが、捜査一課の全員の視線が突き刺さっていることに、ようやく気づいた。

 

押村は足を止める。

 

「何か?」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

やがて、若い刑事の村上が恐る恐る口を開く。

 

「あの、押村警部補」

 

「何でしょう」

 

「今の電話って……萩原千速警部補ですか?」

 

「はい」

 

「交通機動隊の?」

 

「はい」

 

「白バイ隊員の?」

 

「はい」

 

「めちゃくちゃ美人で有名な?」

 

押村は少し考えた。

 

「本人にそう伝えると怒るかもしれませんが、事実としてはそうです」

 

周囲がざわついた。

 

横溝が額を押さえた。

 

村上はさらに勇気を出す。

 

「えっと……押村警部補、萩原警部補のこと、今」

 

「何でしょう」

 

「千速って呼んでませんでした?」

 

押村は数秒黙った。

 

それから、平然と答えた。

 

「呼びました」

 

捜査一課が揺れた。

 

「呼びました!?」

 

「え、名前呼び!?」

 

「押村警部補が!?」

 

「人のこと基本苗字で呼ぶ押村さんが!?」

 

「しかも萩原さんも“奏斗”って!」

 

「え、何ですかこれ!」

 

横溝が机を叩いた。

 

「騒ぐな!」

 

一瞬静まる。

 

だが、好奇心は止まらなかった。

 

村上が小声で聞く。

 

「もしかして……お二人って」

 

押村は売店へ行こうとしていた足を止めた。

 

そして、あまりにも普通に答えた。

 

「付き合っています」

 

完全な沈黙。

 

一秒。

 

二秒。

 

三秒。

 

次の瞬間、捜査一課が爆発した。

 

「ええええええええ!?」

 

「押村警部補が!?」

 

「萩原警部補と!?」

 

「いつからですか!?」

 

「え、待ってください、あの事件の時ですか!?」

 

「嘘だろ、押村さんに彼女!?」

 

「しかも萩原千速!?」

 

「横溝警部、知ってたんですか!?」

 

横溝は天井を仰いだ。

 

「……終わった」

 

押村は不思議そうに周囲を見る。

 

「隠していた方がよかったでしょうか」

 

横溝が怒鳴る。

 

「今さら聞くな!」

 

それから十分後。

 

押村は売店で買わされたサンドイッチを食べながら、捜査一課の刑事たちに囲まれていた。

 

完全に取調べの構図だった。

 

ただし、被疑者ではなく押村が中心にいる。

 

村上がメモ帳を構える。

 

「押村警部補、まず確認ですが、萩原警部補とは正式に交際されているということで間違いありませんか」

 

「はい」

 

「いつからですか」

 

「黒いセダン事件の解決後です」

 

「告白はどちらから?」

 

押村はサンドイッチを置いた。

 

「それは捜査に関係ありますか」

 

「大いにあります!」

 

「ありません」

 

横溝が横から言う。

 

「押村が言った」

 

捜査一課が再びどよめく。

 

「押村警部補から!?」

 

「信じられない!」

 

「どんな感じで!?」

 

「まさか報告書みたいに告白したんですか!?」

 

「“私は萩原警部補に対し恋愛感情を有しています”みたいな?」

 

押村は真面目に首を横に振る。

 

「そのような言い方はしていません」

 

村上が身を乗り出す。

 

「じゃあ何て言ったんですか!」

 

押村は少し考えた。

 

「君が特別だ、と」

 

一同が固まった。

 

横溝が小さく咳払いする。

 

押村は続ける。

 

「それから、千速が好きだと伝えました」

 

若い刑事の一人が机に突っ伏した。

 

「直球だ……!」

 

「押村警部補、意外と強い……!」

 

「無表情でそれ言うの反則では?」

 

「萩原さん、よく耐えましたね……」

 

押村は眉を寄せる。

 

「耐える?」

 

横溝が割って入る。

 

「深掘りすんな。こいつ分かってねぇから」

 

別の刑事が手を挙げる。

 

「押村警部補、萩原警部補のどこが好きなんですか?」

 

押村は少し沈黙した。

 

「強いところです」

 

一同が静かになる。

 

押村は続けた。

 

「道路の上で迷わないところ。人の痛みに怒れるところ。俺が一人で抱え込もうとすると、無理やり引き戻してくれるところ」

 

横溝は少しだけ表情を緩めた。

 

捜査一課の刑事たちも、さっきまでの茶化す空気を少しだけ失った。

 

押村は最後に、静かに言った。

 

「隣にいると、安心します」

 

村上が小さく呟いた。

 

「……本気だ」

 

「いや、疑ってたわけじゃないけど」

 

「これは茶化しにくい」

 

「でも茶化したい」

 

横溝が睨む。

 

「茶化すな」

 

その時、押村のスマホがまた震えた。

 

今度はメッセージだった。

 

画面には、千速からの一文。

 

千速:ちゃんと食ってるか?

 

押村はすぐに返信する。

 

押村:食べている。

 

少し迷ってから、もう一文加えた。

 

押村:捜査一課に交際の件が知られた。

 

送信。

 

その場にいた全員が、なぜか固唾をのんで見守った。

 

数秒後。

 

押村のスマホが震えた。

 

着信。

 

萩原千速。

 

横溝がぼそっと言う。

 

「来たな」

 

押村は通話に出た。

 

「押村です」

 

『奏斗』

 

その声は低かった。

 

押村は少し姿勢を正した。

 

「はい」

 

『何でばれた』

 

「電話中に君を名前で呼んだからです」

 

『お前か』

 

「はい」

 

『で、正直に言ったのか』

 

「聞かれたので」

 

『お前なあ……!』

 

電話の向こうで、千速が頭を抱えているのが目に浮かぶようだった。

 

押村は少しだけ申し訳なさそうに言う。

 

「すまない」

 

『謝るくらいなら少しは隠せ!』

 

「隠すべきだったか」

 

『職場で騒がれるのが面倒なんだよ!』

 

押村は周囲を見た。

 

刑事たちは全員、聞こえないふりをしながら聞いている。

 

「確かに騒がれています」

 

『だろうな!』

 

横溝が手を伸ばした。

 

「押村、貸せ」

 

押村はスマホを渡す。

 

横溝が通話に出る。

 

「千速、俺だ」

 

『重悟! 何で止めなかった!』

 

「無理だ。こいつが真正面から“付き合っています”って言いやがった」

 

『馬鹿か!』

 

「馬鹿なんだよ」

 

押村が横から言う。

 

「否定したいです」

 

横溝は無視した。

 

「とにかく、こっちはもう祭りだ」

 

『最悪だ……』

 

「諦めろ。お前、第三交機でもばれたんだろ」

 

『それを言うな』

 

「お互い様だ」

 

千速は電話の向こうで深く息を吐いた。

 

『……奏斗に代われ』

 

横溝はにやりと笑って押村にスマホを返す。

 

押村が出る。

 

「代わりました」

 

『奏斗』

 

「何だ」

 

『あとで捜査一課に行く』

 

その場の全員が反応した。

 

「えっ」

 

「萩原警部補が来る!?」

 

「本物が!?」

 

「見たい!」

 

横溝が低く怒鳴る。

 

「見世物じゃねぇぞ!」

 

電話の向こうの千速は続ける。

 

『変なこと言われる前に釘刺しに行く』

 

押村は真面目に答える。

 

「すでに色々聞かれた」

 

『何を』

 

「告白の経緯と、君のどこが好きか」

 

電話の向こうが沈黙した。

 

長い沈黙。

 

そして。

 

『……何て答えた』

 

「強いところ。道路の上で迷わないところ。人の痛みに怒れるところ。俺を引き戻してくれるところ。隣にいると安心するところ」

 

周囲がまた静まり返った。

 

電話の向こうの千速も黙っている。

 

押村は不安になった。

 

「不適切だったか」

 

数秒後、千速の小さな声が返ってきた。

 

『……不適切じゃねぇ』

 

「そうか」

 

『でも、人前で言うな』

 

「もう言った」

 

『だから怒ってんだよ』

 

しかし声は、怒っているというより照れていた。

 

押村は少しだけ口元を緩めた。

 

「すまない」

 

『……あとで行く。ちゃんと飯食って待ってろ』

 

「分かった」

 

通話が切れた。

 

押村はスマホを置く。

 

捜査一課は、妙な空気に包まれていた。

 

にやにやしたい。

でも今のやり取りは少し本気すぎて茶化しづらい。

だが、やっぱり茶化したい。

 

その全員の顔を見て、横溝が言った。

 

「お前ら、言っとくが千速が来たら余計なこと言うなよ」

 

村上が小さく手を挙げる。

 

「横溝警部」

 

「何だ」

 

「それは無理です」

 

「正直だな」

 

午後。

 

萩原千速は、本当に捜査一課へやって来た。

 

交通部の制服姿。

背筋は真っ直ぐ。

目は鋭い。

 

執務室に入った瞬間、捜査一課の刑事たちが一斉に姿勢を正した。

 

「お疲れさまです!」

 

千速はその勢いに少し眉をひそめる。

 

「……何だ、この歓迎」

 

村上が緊張しながら頭を下げる。

 

「萩原警部補、お疲れさまです!」

 

「おう」

 

「押村警部補にはいつもお世話になっております!」

 

千速が押村を見る。

 

「お前、ここでどういう扱いされてんだ」

 

押村は少し考えた。

 

「分からない」

 

横溝が笑う。

 

「珍獣扱いだ」

 

「横溝警部、それは不本意です」

 

千速は押村の席へ近づいた。

 

そして、机の上を見た。

 

食べかけのサンドイッチ。

缶コーヒー。

資料の山。

 

千速は目を細める。

 

「サンドイッチ、半分残ってる」

 

押村は言った。

 

「食べている途中だ」

 

「いつから」

 

「三十分ほど前」

 

「途中って言わねぇ」

 

千速はサンドイッチを押村の前に置き直した。

 

「今食え」

 

「今ですか」

 

「今だ」

 

押村は素直にサンドイッチを手に取った。

 

その様子を、捜査一課の刑事たちは衝撃の表情で見ていた。

 

「押村警部補が……」

 

「素直に従ってる……」

 

「横溝警部の命令より効いてる……」

 

横溝が不満げに言う。

 

「聞こえてんぞ」

 

千速が周囲を睨む。

 

「お前ら」

 

全員が固まる。

 

「奏斗のこと、あんまりからかうなよ」

 

一同が一瞬で口を閉じた。

 

千速は続ける。

 

「こいつ、真面目に全部受け取るから面倒なんだよ」

 

押村が口を開く。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「面倒なのか」

 

「そういうところだよ」

 

捜査一課の一部から、抑えきれない笑いが漏れた。

 

千速がそちらを睨む。

 

「笑うな」

 

村上が勇気を出して言った。

 

「すみません。でも……萩原警部補」

 

「何だ」

 

「押村警部補のこと、本当に大切なんですね」

 

千速の顔が一気に赤くなった。

 

「なっ……」

 

押村が横から真面目に言う。

 

「俺も千速を大切にしています」

 

千速が即座に押村の口を手で塞いだ。

 

「お前は黙れ!」

 

捜査一課がついに爆笑した。

 

横溝もこらえきれず笑っている。

 

千速は真っ赤な顔で押村を睨む。

 

「人前で言うなってさっき言っただろ!」

 

押村は千速の手を外しながら答える。

 

「約束はしていない」

 

「そこは察しろ!」

 

「努力する」

 

「努力じゃ足りねぇ!」

 

村上が感動したように呟いた。

 

「すごい……萩原警部補、押村警部補を普通の人間にしてる……」

 

押村が聞き返す。

 

「俺は普通の人間ではなかったのか」

 

横溝が即答する。

 

「なかった」

 

「そうですか」

 

千速はため息をついた。

 

「否定しろよ」

 

それから、捜査一課の質問攻めが始まった。

 

もちろん仕事中なので節度はある。

 

……はずだった。

 

「萩原警部補、押村警部補と初デートはどこですか?」

 

「答えねぇ」

 

「押村警部補、萩原警部補の手料理を食べたことは?」

 

「あります」

 

「奏斗!」

 

「味噌汁とおにぎりと惣菜です」

 

「それは買ったやつだ!」

 

「温めてくれた」

 

「言わなくていい!」

 

「萩原警部補、押村警部補の寝不足をどう管理してるんですか?」

 

「管理って言うな」

 

「でも毎朝確認してますよね?」

 

「……してるけど」

 

「おお……」

 

「感心するな!」

 

横溝はその様子を腕組みして見ていた。

 

最初は呆れていたが、次第に表情が柔らかくなった。

 

押村が笑っている。

 

いや、本人は笑っているつもりはないかもしれない。

だが、横溝には分かった。

 

以前の押村なら、こんな場からすぐに離れていた。

 

自分の話をされることを避け、必要最低限の言葉だけ残して、資料室に逃げていただろう。

 

だが今は違う。

 

千速が隣にいることで、押村はそこに留まっている。

 

不器用ながら、周囲のからかいを受け止めている。

 

それは、悪いことではなかった。

 

横溝は小さく呟く。

 

「変わったな、押村」

 

千速がそれに気づき、横溝を見る。

 

「何だよ」

 

「何でもねぇ」

 

「嘘つけ」

 

「お前のおかげだって言ったんだよ」

 

千速は一瞬黙った。

 

それから、少し照れたように顔を逸らした。

 

「……私は何もしてねぇよ」

 

横溝は鼻で笑う。

 

「してるさ」

 

押村が千速を見る。

 

「俺もそう思う」

 

千速は顔を赤くして怒鳴った。

 

「お前まで乗るな!」

 

また笑いが起こる。

 

その時、捜査一課長が部屋に入ってきた。

 

一瞬で全員が仕事の顔に戻る。

 

遅かったが。

 

課長は室内を見回し、千速に視線を向ける。

 

「萩原警部補」

 

「はい」

 

「押村の面倒を見てくれているそうだな」

 

千速は固まった。

 

押村が真面目に言う。

 

「課長、その表現は――」

 

千速がまた押村の口を塞ぐ。

 

課長は小さく笑った。

 

「押村は仕事はできるが、自分の管理は下手だ。助かっている」

 

千速は少しだけ姿勢を正した。

 

「いえ。私も、押村には助けられています」

 

押村は千速を見る。

 

千速は少し照れながらも、逃げずに言った。

 

「仕事でも、それ以外でも」

 

捜査一課の空気が、また少しだけ温かくなる。

 

課長は頷いた。

 

「なら、互いに支え合え。ただし、職場では節度を持つように」

 

千速は即答した。

 

「はい」

 

押村も頷く。

 

「承知しました」

 

横溝がぼそっと言う。

 

「まあ無理だろうな」

 

千速が睨む。

 

「重悟」

 

「何だ」

 

「あとで殴る」

 

「職場では節度を持てって言われたばっかだろ」

 

「外で殴る」

 

「そういう意味じゃねぇ」

 

その日の夕方。

 

捜査一課では、押村と千速の交際が正式に周知された。

 

正式に、というのも変な話だが、少なくとも誰も隠さなくなった。

 

刑事たちは早速、押村をからかい始めた。

 

「押村警部補、今日は萩原警部補と帰るんですか?」

 

「はい」

 

「即答!」

 

「捜査一課の押村さんが即答!」

 

「もう駄目だ、にやける」

 

押村は資料を片づけながら淡々と答えた。

 

「一緒に食事をする予定です」

 

周囲がまた騒ぐ。

 

「デートだ!」

 

「それはデートです!」

 

「押村警部補、何食べるんですか?」

 

「千速が肉を食べたいと言っていました」

 

「萩原さんらしい!」

 

「押村警部補、ちゃんと食べてくださいね!」

 

「はい」

 

横溝が呆れたように言う。

 

「お前ら、完全に親戚のおばちゃんだな」

 

村上が真面目に答える。

 

「押村警部補の恋愛、見守りたくなるんです」

 

「分からなくもねぇのが嫌だな」

 

押村はコートを手に取った。

 

ちょうどその時、入口に千速が現れた。

 

「奏斗、終わったか?」

 

全員が一斉に押村を見る。

 

押村は静かに頷く。

 

「ああ」

 

千速は周囲の視線に気づき、少し眉をひそめる。

 

「……何だよ」

 

村上が深々と頭を下げた。

 

「萩原警部補」

 

「何だ」

 

「押村警部補をよろしくお願いします」

 

千速の顔が赤くなる。

 

「またそれかよ!」

 

別の刑事も頭を下げる。

 

「ちゃんとご飯食べさせてください!」

 

「寝不足も注意してください!」

 

「無茶したら止めてください!」

 

千速は押村を見る。

 

「お前、捜査一課でどんだけ心配されてんだ」

 

押村は少し考えた。

 

「今日になって知った」

 

横溝が笑う。

 

「愛されてんだよ、押村」

 

押村は周囲を見た。

 

少しだけ、表情が柔らかくなる。

 

「ありがたいことです」

 

その素直な一言に、捜査一課の空気が一瞬和らいだ。

 

千速もその横顔を見て、小さく笑った。

 

「行くぞ、奏斗」

 

「ああ」

 

二人が並んで執務室を出ようとする。

 

その背中に、横溝が声をかけた。

 

「おい、押村」

 

押村が振り返る。

 

「はい」

 

横溝はにやりと笑った。

 

「千速を泣かせたら、第三交機より先に俺が殴るからな」

 

千速が顔を赤くして怒鳴る。

 

「重悟!」

 

捜査一課から笑いが起こる。

 

押村は真面目に横溝を見て、静かに答えた。

 

「泣かせません」

 

その一言で、また空気が止まった。

 

千速は完全に耳まで赤くなる。

 

横溝は一瞬だけ目を丸くし、それから苦笑した。

 

「……ほんと、お前はそういうところだぞ」

 

押村は少し首を傾げる。

 

「何か問題が?」

 

千速が押村の腕を掴んだ。

 

「行くぞ! もう行く!」

 

「分かった」

 

二人は捜査一課を出ていった。

 

扉が閉まる。

 

数秒後。

 

捜査一課の中で、誰かがぽつりと言った。

 

「……いいですね」

 

別の刑事が頷く。

 

「いいな」

 

「押村警部補、幸せそうだった」

 

「萩原警部補も、すごく照れてた」

 

「何か、事件続きだったから余計に沁みますね」

 

横溝はコーヒーを飲みながら、扉の方を見ていた。

 

「まったくだ」

 

そして、小さく笑う。

 

「やっと人間らしくなったな、押村」

 

県警本部を出ると、外はすっかり夜だった。

 

千速はしばらく無言で歩いていた。

 

押村は隣を歩きながら尋ねる。

 

「怒っているのか」

 

「怒ってる」

 

「すまない」

 

「でも、まあ」

 

千速は少しだけ視線を逸らした。

 

「嫌じゃなかった」

 

押村は静かに頷く。

 

「俺もだ」

 

「みんな、思ったより祝ってくれてたな」

 

「ああ」

 

「奏斗、捜査一課で大事にされてるんだな」

 

押村は少しだけ考えた。

 

「今日、知った」

 

千速は笑った。

 

「鈍いな」

 

「自覚はある」

 

「でも、よかった」

 

千速はそっと押村の手を取った。

 

「お前が一人じゃないって、分かって」

 

押村はその手を握り返す。

 

「君が教えてくれた」

 

千速は照れたように眉を寄せる。

 

「そういうのを外で言うな」

 

「今は二人だけだ」

 

「……ならいい」

 

夜の道を、二人は並んで歩いていく。

 

第三交通機動隊に続き、捜査一課にも二人の関係は知られてしまった。

 

これからしばらく、からかわれる日々が続くだろう。

 

だが、それでも。

 

押村奏斗は、隣にいる萩原千速の手を離さなかった。

 

千速もまた、離さなかった。

 

そして県警本部の窓から、横溝重悟がその背中を見送りながら、ひとり呟いた。

 

「……まあ、悪くねぇな」

 

捜査一課の夜は、少しだけ騒がしく、少しだけ温かかった。

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