神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第17話 アルバムの中の押村

押村奏斗の部屋は、相変わらず生活感が薄かった。

 

本棚には刑法、刑事訴訟法、判例集、捜査実務の本。

テーブルには整理された資料。

冷蔵庫には水とヨーグルトと、萩原千速が以前置いていった冷凍ご飯。

 

千速は玄関に入るなり、ため息をついた。

 

「お前の部屋、何回来ても独身刑事の仮眠室みたいだな」

 

「自宅だ」

 

「知ってる。だから言ってる」

 

押村奏斗は台所で湯を沸かしていた。

 

「コーヒーでいいか」

 

「おう。砂糖はいらねぇ」

 

「分かってる」

 

その返事に、千速は少しだけ口元を緩めた。

 

付き合う前の押村なら、毎回きっちり確認していただろう。

今でも不器用なのは変わらないが、少しずつ、千速のことを覚えている。

 

そういう小さな変化が、悪くなかった。

 

千速はコートを椅子にかけ、何気なく本棚の下段を見た。

 

そこに、一冊だけ他の本とは雰囲気の違うものがあった。

 

黒い表紙。

角が少し擦れている。

背表紙に、金色の文字。

 

神奈川県警察学校 第――期 卒業記念

 

千速の目が止まった。

 

「おい、奏斗」

 

「何だ」

 

「これ、警察学校のアルバムか?」

 

押村はカップを二つ持って戻ってきた。

 

「ああ」

 

「見ていいか?」

 

「いいよ」

 

以前より少し柔らかい返事だった。

 

千速はソファに座り、アルバムを膝に乗せた。

 

「懐かしいな」

 

表紙を開くと、若い顔が並んでいた。

 

まだ制服に着られているような同期たち。

緊張した顔。

妙に気合の入った顔。

ふざけているのを教官に見つかりそうな顔。

 

千速はページをめくりながら笑った。

 

「あー、こいついたな。座学中いつも寝そうになって怒られてたやつ」

 

「鈴木だな」

 

「そうそう。あとこいつ、柔道だけやたら強かった」

 

「石橋」

 

「よく覚えてんな」

 

「記憶に残ってる」

 

「お前の場合、全員の成績表まで覚えてそうで怖い」

 

押村は否定しなかった。

 

千速はさらにページをめくる。

 

そして、ある集合写真で手を止めた。

 

警察学校のグラウンド。

訓練後らしく、全員が少し疲れた顔をしている。

 

その端に、若い押村奏斗が写っていた。

 

今より少し顔つきが柔らかい。

だが、すでに姿勢はきっちりしていて、目だけは妙に落ち着いている。

 

千速は思わず笑った。

 

「うわ、若い」

 

「君も写ってる」

 

「私は今も若いだろ」

 

「否定はしない」

 

「そこは即答しろ」

 

押村はコーヒーを置き、千速の隣に腰を下ろした。

 

千速は写真を眺めながら、少しだけ懐かしそうに目を細める。

 

「最初に会った時のこと、覚えてるか?」

 

「覚えてる」

 

「即答かよ」

 

「入校初日の朝だ」

 

千速はアルバムに視線を落としたまま笑った。

 

「そうだったな」

 

押村も写真を見る。

 

若い二人が並んではいない。

けれど同じページの中にいる。

 

まだ、お互いのことを何も知らなかった頃。

 

千速が押村を「押村」と呼んでいた頃。

 

そして、押村がずっと「萩原」と呼んでいた頃。

 

警察学校の朝は、想像していたよりも慌ただしかった。

 

入校初日。

 

萩原千速は大きめの荷物を肩にかけ、校舎の前に立っていた。

 

「……広いな」

 

案内図はある。

だが、寮、講堂、教場、グラウンド、武道場、食堂、事務室。

 

似たような建物が並び、どこから行けばいいのか一瞬迷う。

 

千速は運動が特別得意というわけではなかった。

勉強も普通。

体力も普通。

 

ただ、負けず嫌いだった。

 

だから、入校初日に迷子になったなどという情けないことだけは避けたかった。

 

「受付……どこだよ」

 

そう呟いた時、隣から声がした。

 

「受付なら、あっちだと思います」

 

千速が振り向く。

 

そこに立っていたのは、同じく入校生らしい男だった。

 

黒髪。

細身。

荷物は必要最低限。

姿勢が妙に真っ直ぐで、表情は落ち着いている。

 

若いのに、妙に冷静だった。

 

千速は少し警戒しながら言う。

 

「あんたも入校生?」

 

「はい」

 

「場所、分かんのか?」

 

「事前に地図を見てきたので」

 

「へぇ」

 

千速は案内図を見直した。

 

確かに、男が指した方向に受付らしき建物がある。

 

「助かった。えっと……」

 

男は少しだけ姿勢を正して名乗った。

 

「押村奏斗です」

 

「萩原千速」

 

「萩原さんですね」

 

千速は少しだけ眉を上げた。

 

初対面で、きっちり苗字呼び。

ただ、声は硬すぎるわけではなかった。

 

「押村って、真面目そうだな」

 

「よく言われます」

 

「否定しないんだ」

 

「まあ……たぶん、間違ってないので」

 

千速は一瞬黙ったあと、吹き出した。

 

「変なやつ」

 

押村は不思議そうに瞬きをした。

 

「そうですか?」

 

「そうだよ」

 

これが、萩原千速と押村奏斗の最初の会話だった。

 

入校してすぐの生活は、甘くなかった。

 

起床。

点呼。

清掃。

朝食。

座学。

術科。

ランニング。

礼式訓練。

また座学。

自習。

消灯。

 

一日が、やるべきことで埋め尽くされていた。

 

千速は最初の一週間で、警察学校という場所が「気合だけでどうにかなる場所ではない」と思い知った。

 

走れば息が切れる。

柔道では投げられる。

法律の条文はややこしい。

敬礼の角度一つで教官に注意される。

 

それでも、辞めようとは思わなかった。

 

周囲も同じように苦しんでいたからだ。

 

ただ一人。

 

押村奏斗だけは、座学に関しては妙に余裕があった。

 

「押村」

 

ある夜、自習室で千速は声をかけた。

 

押村はノートから顔を上げる。

 

「何ですか、萩原」

 

「ここ、意味分かるか?」

 

千速は刑法の教科書を押村の前に置いた。

 

押村は該当箇所を一瞥し、すぐに説明し始めた。

 

「これは構成要件の話です。まず、犯罪が成立するには――」

 

「待て待て待て」

 

千速は手を上げた。

 

「最初から難しい」

 

押村は少し考えた。

 

「じゃあ、例で話します」

 

「最初からそうしてくれ」

 

「分かった」

 

一瞬だけ、自然にため口が出た。

 

千速は少しだけ目を瞬かせたが、何も言わなかった。

 

そこからの説明は分かりやすかった。

 

教科書の堅苦しい言葉ではなく、実際の場面に置き換えて話す。

どこで違法性が問題になるのか。

故意とは何か。

過失とは何か。

 

千速は腕を組みながら聞いていたが、最後には素直に頷いた。

 

「なるほどな。押村、教えるの上手いじゃん」

 

「そうかな」

 

「少なくとも教官より分かりやすい」

 

「それはここでは言わない方がいいです」

 

「分かってるよ」

 

千速は笑った。

 

その頃の千速は、まだ押村を「押村」と呼んでいた。

 

周囲の同期もみんなそう呼んでいたし、本人も人を苗字で呼ぶ。

だから自然だった。

 

押村も千速をずっと「萩原」と呼んでいた。

 

「萩原、ここは覚えておいた方がいい」

 

「萩原、明日の小テストに出ると思う」

 

「萩原、先に条文を読んだ方が分かりやすいかもしれない」

 

最初は少し堅苦しいと思った。

だが、何度も呼ばれるうちに、それが押村らしいのだと分かってきた。

 

一方で、押村にも苦手なものはあった。

 

運動だ。

 

特別にできないわけではない。

走れる。

腕立てもできる。

柔道も剣道も、最低限はこなす。

 

だが、目立って速いわけでも、強いわけでもなかった。

 

千速も運動神経は普通だったが、負けず嫌いだけは強かった。

 

ある日の持久走訓練。

 

グラウンドを何周も走らされ、同期たちが次々に息を切らしていく。

 

千速も苦しかった。

 

足は重い。

喉は乾く。

汗が目に入る。

 

それでも前を向いていた。

 

その少し後ろに、押村がいた。

 

顔色は変えないが、ペースが落ちている。

 

千速は振り返って声を飛ばした。

 

「押村! 遅れてんぞ!」

 

押村は息を整えながら答える。

 

「分かってます」

 

「分かってる場合か! 来い!」

 

「萩原も、余裕あるようには見えないけど」

 

「ないよ!」

 

「なら、何で声出せるんだ」

 

「意地だ!」

 

押村は一瞬だけ目を丸くした。

 

そして、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。

 

千速は前を向き直る。

 

「ほら、あと一周!」

 

「分かった」

 

二人は並んで走った。

 

速くはない。

余裕もない。

だが、最後まで走った。

 

ゴール後、千速は膝に手をついて荒い息を吐いた。

 

押村も隣で静かに息を整えている。

 

千速が横目で見る。

 

「押村、勉強はできるのに走るの普通だな」

 

「萩原も普通だと思う」

 

「言い返すな」

 

「事実だから」

 

千速は疲れているのに、なぜか笑ってしまった。

 

「ほんと変なやつだな」

 

「前にも言われた」

 

「何回でも言う」

 

この時点では、まだ「押村」だった。

 

でも、千速の中で押村は、ただの同期ではなくなりつつあった。

 

勉強を教えてくれる真面目なやつ。

走るのは普通なのに、絶対に途中で諦めないやつ。

変だけど、嫌なやつではない。

 

むしろ、気づけば隣にいると少し安心するやつ。

 

転機は、入校から二か月ほど経った頃だった。

 

その日、千速は珍しく落ち込んでいた。

 

礼式訓練で何度も注意され、柔道では投げられ、午後の小テストも散々だった。

 

運動も勉強も普通。

 

普通であること自体が悪いわけではない。

けれど、警察学校では普通のままでは置いていかれる気がした。

 

夜、自習室に行く気にもなれず、千速は寮の外のベンチに座っていた。

 

空は暗い。

校舎の明かりだけが白く光っている。

 

「何やってんだろうな、私」

 

ぽつりと呟いた。

 

白バイ隊員になりたい。

 

そういう思いは、まだはっきりした形ではなかった。

ただ、道路の上で人を守る仕事に憧れがあった。

 

でも、今の自分は何も特別ではない。

 

成績が抜群にいいわけでもない。

体力が圧倒的にあるわけでもない。

要領もよくない。

 

自分は本当に警察官になれるのか。

 

そんなことを考えていると、足音が近づいた。

 

「萩原」

 

顔を上げると、押村が立っていた。

 

手にはノートと教科書。

 

「自習室にいなかったから」

 

千速は少し苦笑した。

 

「探しに来たのか?」

 

「明日の小テスト範囲を確認する約束だったので」

 

「真面目か」

 

「約束だから」

 

押村は隣に座った。

 

少し距離を空けて。

近すぎず、遠すぎず。

 

千速は膝に肘をついた。

 

「押村はいいよな」

 

「何が?」

 

「勉強できるだろ」

 

「運動は普通です」

 

「私も普通だよ。勉強も運動も」

 

「そうだな」

 

千速は眉を寄せた。

 

「そこは否定しろよ」

 

押村は少し困ったように視線を落とした。

 

「でも、嘘は言えない」

 

「お前、本当に変なやつだな」

 

押村は少し黙ったあと、静かに言った。

 

「ただ、萩原は諦めないだろ」

 

千速は顔を上げた。

 

押村は前を向いたまま続ける。

 

「走るのが速いわけじゃない。柔道が特別強いわけでもない。座学でいつも上位ってわけでもない」

 

「追い打ちか?」

 

「違う」

 

押村は千速を見る。

 

「でも、最後までやる。分からなかったら聞く。できなかったら繰り返す。悔しい時は顔に出るけど、逃げない」

 

千速は言葉を失った。

 

押村の声は落ち着いている。

 

けれど、その言葉は不思議とまっすぐ届いた。

 

「それは、普通じゃないと思う」

 

千速は押村を見つめた。

 

「……押村」

 

「何?」

 

「お前、そういうこと言えるんだな」

 

「どういう意味だ?」

 

「褒めてんのか、分析してんのか分かんねぇけど」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「でも、ありがとな」

 

押村は小さく頷いた。

 

「少しでも役に立ったなら、よかった」

 

千速はしばらく黙っていた。

 

それから、ふいに言った。

 

「押村って呼ぶの、堅いな」

 

押村は瞬きをする。

 

「そうか?」

 

「堅い。お前、真面目すぎるから余計に堅い」

 

「苗字で呼ぶのは普通だと思うけど」

 

「そうだけどさ」

 

千速は夜空を見る。

 

少しだけ照れくさかった。

 

でも、この時の自分は何となく、押村との距離を一つ変えたくなったのだ。

 

「奏斗」

 

押村は明らかに反応した。

 

ほんの少しだけ、目を見開いた。

 

「……俺のこと?」

 

千速は吹き出した。

 

「他に誰がいるんだよ」

 

「急だったから」

 

「嫌か?」

 

押村は少し考えた。

 

「嫌じゃない」

 

「なら決まりだ」

 

千速は立ち上がった。

 

「これから私は、お前のこと奏斗って呼ぶ」

 

押村は見上げる。

 

「何で?」

 

千速は少し迷った。

 

本当の理由を言葉にするには、まだ早かった。

 

ただ、苗字で呼ぶには少し遠いと思った。

押村と呼ぶたびに、他の同期と同じ距離に戻ってしまう気がした。

 

だから、千速はいつものように雑に笑った。

 

「呼びやすいから」

 

「どっちも同じだと思うが」

 

「細かいこと言うな」

 

「……分かった」

 

押村は素直に頷いた。

 

「萩原がそう呼びたいなら、それでいい」

 

千速は少しだけ不満そうに眉を寄せた。

 

「お前は萩原のままなんだな」

 

「うん」

 

「まあいいけど」

 

「何か問題あるか?」

 

「今はない」

 

千速は歩き出す。

 

「ほら、奏斗。小テストの範囲、教えろ」

 

押村は一拍遅れて立ち上がった。

 

「分かった、萩原」

 

その呼び方に、千速は少しだけ笑った。

 

まだ押村は、自分を名前では呼ばない。

 

それは少し悔しいような、でも押村らしくて納得できるような、不思議な感覚だった。

 

その夜から、千速だけが押村を「奏斗」と呼ぶようになった。

 

周囲の同期たちは最初こそ驚いた。

 

「萩原、押村のこと名前で呼ぶの?」

 

「え、何で?」

 

「仲良かったっけ?」

 

千速はそのたびに平然と言った。

 

「呼びやすいから」

 

押村は特に訂正しなかった。

 

「萩原がそう呼ぶって決めたので」

 

その淡々とした答えに、同期たちは余計に不思議がった。

 

けれど、二人にとってはそれでよかった。

 

それから警察学校での日々は続いた。

 

千速は相変わらず運動も勉強も普通だった。

けれど、負けず嫌いで、最後までやった。

 

奏斗は相変わらず勉強ができた。

運動は普通だった。

それでも、苦手な訓練から逃げなかった。

 

座学では、千速が奏斗に聞いた。

 

「奏斗、ここ分からん」

 

「萩原、ここは前提から整理した方がいい」

 

「また難しい言い方してる」

 

「じゃあ、例で話す」

 

走る時は、千速が奏斗を急かした。

 

「奏斗、ペース落ちてる!」

 

「萩原も落ちてる」

 

「私はいいんだよ!」

 

「よくはないだろ」

 

「口答えする体力あるなら走れ!」

 

柔道で投げられた後は、二人で畳の端に座り込んだ。

 

「痛ってぇ……」

 

「受け身が少し遅れてた」

 

「分析すんな」

 

「次は直せる」

 

「前向きだな、奏斗」

 

「改善点がある方が分かりやすい」

 

「ほんと変なやつ」

 

「もう慣れた」

 

「慣れんな」

 

警察学校の生活は厳しかった。

 

けれど、千速にとって、その日々はいつの間にか少しだけ楽になっていた。

 

隣に奏斗がいたからだ。

 

奏斗は派手ではなかった。

仲間の中心にいるタイプでもなかった。

冗談も得意ではなかった。

 

でも、千速が悩んでいる時、必ず気づいた。

千速が分からないと言えば、面倒がらずに教えた。

千速が走ると言えば、自分も最後まで走った。

 

そして、どれだけ千速が「奏斗」と呼んでも、押村はずっと「萩原」と呼んだ。

 

それが少しだけ悔しくて。

 

でも、その距離がいつか変わるかもしれないと、千速はまだ知らなかった。

 

「懐かしいな」

 

現在の千速は、アルバムを閉じながら呟いた。

 

押村の部屋。

 

テーブルには冷めかけたコーヒー。

膝の上には警察学校のアルバム。

 

隣には、今の押村奏斗がいる。

 

あの頃より大人になった。

顔つきも、背負っているものも変わった。

けれど、根っこの部分はあまり変わっていない。

 

真面目で、不器用で、人のことをよく見ている。

 

千速は横を見る。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「お前、あの時から変わらないな」

 

「そうかな」

 

「変わったところもあるけどな」

 

「例えば?」

 

千速は少し考え、にやりと笑った。

 

「今は私のこと、たまに千速って呼ぶ」

 

押村は少しだけ目を伏せた。

 

「そうだな」

 

「あの頃はずっと萩原だった」

 

「その方が自然だった」

 

「私が名前で呼んでたのに?」

 

「君がそう呼びたいなら、それでいいと思ってた」

 

千速は呆れたように笑った。

 

「ほんと、お前らしいな」

 

押村はアルバムに視線を落とした。

 

「君が最初に奏斗と呼んだ日のことは覚えてる」

 

千速は少し驚いた。

 

「覚えてるのか」

 

「ああ」

 

「何で?」

 

押村は静かに言った。

 

「嫌じゃなかったから」

 

千速は一瞬黙った。

 

その言葉は、警察学校の夜にも聞いた言葉だった。

 

嫌ではありません。

 

あの頃の押村は、まだ自分の気持ちに名前をつけることを知らなかったのかもしれない。

 

千速も同じだった。

 

ただ、押村と呼ぶより奏斗と呼びたかった。

 

それだけだった。

 

千速はアルバムを閉じて、そっと表紙を撫でた。

 

「なあ、奏斗」

 

「何だ」

 

「今思うとさ」

 

少し照れくさくて、声が小さくなる。

 

「私、あの頃からお前のこと、特別だったのかもな」

 

押村は千速を見る。

 

千速はすぐに顔を逸らした。

 

「……かも、だからな」

 

押村はほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「俺も、そうだったのかもしれない」

 

千速は驚いて振り向く。

 

「お前も?」

 

「ああ」

 

「じゃあ何でずっと萩原呼びだったんだよ」

 

「その時は、それが自然だった」

 

「自然って便利な言葉だな」

 

「今は違う」

 

押村は静かに言った。

 

「今は、千速って呼ぶ方が自然な時がある」

 

千速の顔が熱くなる。

 

「……そういうことを急に言うな」

 

「思ったから」

 

「それが困るんだよ」

 

千速はアルバムを本棚に戻した。

 

だが、手を離す前にもう一度だけ表紙を見る。

 

警察学校。

出会い。

押村。

奏斗。

 

あの日、名前の呼び方が変わった。

 

それは小さなことだった。

 

でも、その小さな変化が、長い時間をかけて今につながっている。

 

千速は押村の隣に戻り、ソファに腰を下ろした。

 

「次は、お前が私を千速って呼ぶようになった話も聞かせろよ」

 

押村は少しだけ考えた。

 

「君も覚えてるだろ」

 

「覚えてる。でも、お前の口から聞きたい」

 

押村は千速を見た。

 

「分かった」

 

「今日は?」

 

「今日は、もう遅い」

 

「逃げたな」

 

「逃げてない。次に話す」

 

千速は笑った。

 

「約束だぞ」

 

「約束する」

 

千速は満足そうに頷き、押村の肩にもたれた。

 

押村は少しだけ驚いたが、動かなかった。

 

窓の外では、夜の街が静かに光っている。

 

アルバムの中の若い二人は、まだ何も知らない。

 

いつか事件を共に追うことも。

互いを守るために無茶をすることも。

名前の呼び方ひとつに、こんなにも意味が宿ることも。

 

けれど、確かに始まりはあの日だった。

 

警察学校の朝。

 

迷っていた千速に、押村奏斗が静かに道を示した日。

 

そして、少しずつ、萩原千速が押村奏斗を「奏斗」と呼ぶようになった日々。

 

そこから、二人の長い物語は始まっていた。

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