神奈川県警察学校を卒業してから、三年が経っていた。
あの頃、同じ教場で机を並べていた同期たちは、それぞれの場所で警察官として歩き始めていた。
交番勤務。
地域課。
機動隊。
交通課。
刑事課。
最初の配属先で現場を知り、失敗し、怒られ、少しずつ警察官らしい顔つきになっていく。
押村奏斗も、その一人だった。
警察学校時代、座学ではよく名前が上がった。
成績は優秀。
ただし運動は特別秀でていたわけではない。
何より印象的だったのは、妙に落ち着いているところだった。
人のことは基本、苗字で呼ぶ。
萩原千速のことも、ずっと「萩原」と呼んでいた。
一方で、千速は警察学校の途中から押村を「奏斗」と呼ぶようになっていた。
最初は周囲も驚いた。
だが、押村本人が特に訂正しなかったため、いつの間にかそれは二人の間では当たり前になった。
「奏斗、ここ教えろ」
「萩原、先に条文を読んだ方がいい」
「奏斗、走るぞ」
「萩原もペース落ちてる」
「奏斗、飯行くぞ」
「萩原、先に日誌を書いた方がいい」
何度呼ばれても、押村は「萩原」だった。
千速も、最初こそ少し不満げだったが、だんだんそれに慣れていった。
押村にとっては、それが自然なのだろう。
そう思っていた。
だから。
まさか三年後、自分の名前を押村が呼ぶ日が来るなんて、千速は思ってもいなかった。
その日、神奈川県警本部には春の匂いがしていた。
新年度の辞令交付の日。
慌ただしく行き交う職員たちの中で、押村奏斗は一枚の辞令を手にしていた。
神奈川県警察本部 刑事部 捜査第一課勤務を命ずる
捜査一課。
殺人、強盗、重大事件を扱う部署。
警察学校時代から、周囲に「押村はいつか刑事になるだろう」と言われていた。
本人はそれを否定も肯定もしなかった。
ただ、目の前の仕事を正確にこなし、交番勤務でも現場の記録や聞き込みの丁寧さで評価されてきた。
そして今日、正式に捜査一課へ配属された。
「押村」
背後から荒っぽい声がした。
振り返ると、坊主頭で目つきの鋭い男が立っていた。
横溝重悟。
すでに捜査一課で頭角を現している刑事で、押村より三歳年上。
警察学校の期は違うが、同じ神奈川県警内では名前をよく聞く存在だった。
「横溝警部補」
当時の横溝はまだ警部補だった。
横溝は押村の辞令をちらりと見た。
「今日から一課か」
「はい」
「堅そうな顔してるな」
「いつも通りです」
「それが堅ぇって言ってんだよ」
横溝は鼻で笑った。
「まあいい。使える奴が来るのは歓迎だ」
「期待に応えられるよう努めます」
「そういう返しがもう堅ぇ」
押村は少しだけ困ったように黙った。
横溝はそれを見て、面白そうに笑う。
「お前、噂通りだな。仕事はできるが、面白味がねぇ」
「面白味は業務上必要でしょうか」
「お前、本気で言ってんだろ」
「はい」
横溝は声を上げて笑った。
押村は笑われた理由が分からず、少しだけ首を傾げた。
その時だった。
本部庁舎の外から、低く力強いエンジン音が聞こえた。
押村の視線が、自然と窓の外へ向く。
白バイだった。
春の光を受けて、白い車体が眩しく光っている。
その横に、一人の女性隊員が立っていた。
ヘルメットを小脇に抱え、背筋を伸ばし、先輩隊員から何か説明を受けている。
遠目でも分かった。
萩原千速だった。
押村は一瞬だけ、動きを止めた。
横溝がそれに気づく。
「何だ、知り合いか?」
押村は窓の外を見たまま答えた。
「同期です」
「へぇ。交通機動隊か」
「はい」
横溝も外を見た。
「女で白バイ隊員か。根性あるな」
「萩原は、昔から諦めない人です」
横溝の眉が少し上がる。
「珍しいな」
「何がですか」
「お前が他人をそういうふうに言うのが」
押村は少しだけ考えた。
「事実です」
「そうかよ」
横溝はにやりとした。
「挨拶してこいよ。同期だろ」
「勤務前です」
「だからだ。今日からお前は一課、向こうは白バイ。忙しくなりゃ、なかなか会えねぇぞ」
押村は少し黙った。
それから、静かに頷いた。
「少しだけ行ってきます」
庁舎の外は、春の風が強かった。
駐車場の一角に、交通部の白バイが並んでいる。
その中で、萩原千速は新しい制服に身を包んでいた。
白バイ隊員の制服は、以前の地域課時代の制服とは雰囲気が違った。
凛としている。
ただ立っているだけで、道路の上に出る人間の緊張感があった。
千速は先輩隊員に頭を下げたあと、ふとこちらを向いた。
目が合う。
次の瞬間、千速の表情が少しだけ明るくなった。
「奏斗!」
昔と変わらない呼び方。
押村は近づき、軽く頭を下げた。
「萩原」
千速は少し不満そうに口を尖らせた。
「相変わらず萩原か」
「相変わらずです」
「三年経っても変わらねぇな、お前」
「君もあまり変わっていない」
「どこがだよ。見ろ、この白バイ隊員姿」
千速は少し胸を張った。
押村は真面目に見た。
「似合っている」
千速の表情が固まった。
「……そういうの、急に言うな」
「事実だ」
「お前の事実はたまに心臓に悪いんだよ」
千速は照れ隠しのようにヘルメットを持ち直した。
押村は白バイを見る。
「配属、おめでとう」
「おう。そっちもな。捜査一課だろ?」
「はい」
「やっぱりな」
千速は得意げに笑った。
「奏斗は刑事になると思ってた」
「なぜ?」
「細かいとこ見てるし、変に諦め悪いし、黙って考え込むの得意だろ」
「褒めているのか?」
「褒めてる」
「そうか」
押村は少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
千速は白バイに寄りかかりそうになって、先輩の目があることを思い出し、慌てて姿勢を正した。
「まあ、でも無理すんなよ」
「それは萩原もだ」
「私は大丈夫だ」
「君の“大丈夫”も信用できない時がある」
千速は目を丸くする。
「お前に言われたくねぇよ」
押村は少しだけ口元を緩めた。
二人の間に、懐かしい空気が流れた。
警察学校の自習室。
グラウンド。
寮の外のベンチ。
あの頃から三年。
毎日顔を合わせていた同期は、それぞれ別の現場で働く警察官になっていた。
千速は白バイ隊員。
押村は捜査一課刑事。
道は分かれた。
それでも、こうして会えば、すぐにあの頃の距離に戻れる。
千速は白バイのハンドルに視線を落とした。
「なあ、奏斗」
「何だ」
「私さ、警察学校の頃から白バイに乗りたいって思ってたんだ」
「知っている」
「言ったっけ?」
「何度か」
「そうか」
千速は少し照れくさそうに笑った。
「でも、正直不安だった。運動神経が特別いいわけでもねぇし、勉強も普通だったし、白バイなんて無理かなって思ったこともあった」
押村は黙って聞いていた。
千速は続ける。
「交番勤務の時もさ、交通事故の現場に行くたびに思ったんだ。もっと早く止められたら、もっと早く着けたらって」
春の風が、二人の間を抜けていく。
「だから、白バイに乗る。道路の上で、人を守る」
その声はまっすぐだった。
男勝りで、照れ隠しが多くて、言葉は少し乱暴。
けれど、その奥にあるものは警察学校時代から変わらない。
逃げない。
諦めない。
押村は、そんな萩原千速をずっと見てきた。
「萩原なら、できる」
千速は押村を見る。
「簡単に言うな」
「簡単には言っていない」
押村は静かに答えた。
「君が努力してきたのを知っているから言っている」
千速は少しだけ言葉に詰まった。
「……相変わらずだな」
「何が?」
「そういうところ」
押村は首を傾げた。
千速は笑って誤魔化すようにヘルメットを被ろうとした。
その時だった。
駐車場の反対側で、慌ただしい声が上がった。
「危ない!」
振り向くと、業者の搬入車がバックしていた。
その後方に、書類を抱えた若い職員が立っている。
車両の死角に入っていて、運転手は気づいていない。
千速が反射的に動いた。
「おい、止まれ!」
同時に、押村も走り出していた。
千速は若い職員へ駆け寄り、腕を掴んで引き寄せる。
押村は運転席側へ回り込み、車体を叩いた。
「止まってください!」
搬入車が急停止した。
若い職員は尻餅をつき、青ざめている。
千速がしゃがみ込む。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です……」
「周り見ろ。車両の後ろに立つな」
「すみません……」
千速の声はきつい。
だが、その手は職員の肩を支えていた。
押村は運転手に状況を確認し、すぐに周囲の安全を確保する。
大事にはならなかった。
だが、一歩遅れれば事故になっていた。
千速は若い職員を立たせたあと、大きく息を吐いた。
「初日からこれかよ」
押村は隣に戻ってきた。
「素早かったな」
「体が動いただけだ」
「それが大事だと思う」
「お前もな。車止めるの早かった」
「君が先に人を引いたから、運転手へ回れた」
千速は少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「連携できてんじゃねぇか、私たち」
「警察学校以来だな」
「そうだな」
そこへ、千速の先輩隊員が駆け寄ってきた。
「萩原、大丈夫か」
「はい。怪我人なしです」
「初日からよく動いたな」
「ありがとうございます」
先輩隊員は押村にも視線を向けた。
「君は?」
「捜査一課の押村です」
「助かった」
「いえ」
先輩隊員は千速に向き直った。
「萩原、そろそろ出るぞ。初日から遅れるな」
「はい!」
千速は白バイへ向かった。
ヘルメットを被り、グローブを締める。
その姿を見て、押村はふと胸の奥がざわついた。
千速が遠くへ行くような気がした。
警察学校では隣にいた。
交番勤務の頃も、たまに連絡を取り、同期会で顔を合わせていた。
けれど今日から、彼女は白バイ隊員として道路へ出る。
自分は捜査一課で事件を追う。
互いの現場は、もう違う。
だからこそ、今、呼ぶべきだと思った。
理由は分からなかった。
ただ、「萩原」では少し遠い気がした。
千速が白バイにまたがる。
エンジンがかかる。
先輩隊員に続いて、走り出そうとした瞬間。
押村は一歩前へ出た。
「千速」
その声は、大きくはなかった。
けれど、確かに届いた。
白バイのエンジン音の中で、千速が振り向いた。
ヘルメットのシールド越しでも分かるほど、目を見開いていた。
「……今」
押村は自分でも少し驚いていた。
けれど、取り消さなかった。
「気をつけて」
千速はしばらく押村を見ていた。
そして、ゆっくりシールドを上げる。
「もう一回」
「何を?」
「今の」
押村は一瞬だけ黙った。
千速は口元をにやりと上げる。
「聞こえなかったかもしれねぇ」
「聞こえていただろう」
「いいから」
押村は少しだけ視線を落とし、それからもう一度言った。
「千速」
千速の顔が、ぱっと赤くなった。
だが、すぐにいつもの勝気な笑みに変える。
「やっとかよ、奏斗」
押村は静かに答える。
「遅かったか」
「三年遅ぇ」
「すまない」
「謝るな。今ので許してやる」
千速はシールドを下ろした。
それから、白バイの上で軽く敬礼する。
「行ってくる」
押村も自然に背筋を伸ばした。
「ああ。行ってこい」
その返事に、千速は一瞬だけ嬉しそうに目を細めた。
白バイが走り出す。
春の光の中、白い車体が本部の敷地を出ていく。
押村はその背中を見送っていた。
横溝がいつの間にか隣に来ていた。
「名前で呼んだな」
押村は横溝を見る。
「聞いていたんですか」
「聞こえたんだよ」
横溝はにやにやしている。
「千速、嬉しそうだったぞ」
押村は少しだけ黙った。
「そう見えましたか」
「ああ」
「なら、よかった」
横溝は一瞬だけ目を丸くした。
それから、面白そうに笑う。
「お前、分かりにくい顔してるが、案外分かりやすいな」
「どういう意味ですか」
「そのうち分かる」
押村は白バイが消えた方向を見た。
千速。
初めて口にした名前は、不思議と違和感がなかった。
むしろ、ずっと前からそう呼ぶべきだったような気がした。
けれど、それを認めるには、まだ少し時間がかかった。
その日の夕方。
押村は捜査一課の自席に座り、初日から渡された資料に目を通していた。
横溝は隣で缶コーヒーを飲みながら、押村を観察している。
「押村」
「はい」
「さっきから同じページ読んでねぇか」
押村は手元を見る。
確かに、同じ資料を何度も読み返していた。
「確認していました」
「嘘つけ」
「……少し考え事を」
「千速のことか」
押村は黙った。
横溝は声を上げて笑った。
「図星かよ」
「仕事に戻ります」
「戻れてねぇから言ってんだ」
押村は資料を閉じた。
その時、スマホが震えた。
画面にはメッセージ。
萩原千速:初日終了。事故なし。無事。
押村はその文字を見て、少しだけ表情を緩めた。
横溝が覗き込もうとする。
「おい、何だ」
「私用です」
「隠すなよ」
押村は少し考えてから返信した。
押村:お疲れ。無事でよかった。
送信してから、もう一文を打つ。
指が少し止まった。
それでも、送った。
押村:千速。
すぐに既読がついた。
しばらく返信はなかった。
押村は少し不安になった。
呼び方を変えるのは早かっただろうか。
いや、先ほど本人は許すと言っていた。
しかし、文面で改めて見ると違和感があるかもしれない。
そんなことを考えていると、返信が来た。
萩原千速:何だよ、急に慣れようとしてんのか?
続けてもう一通。
萩原千速:でも、悪くねぇ。
押村はその文面をじっと見た。
そして、ほんの少しだけ笑った。
横溝が目ざとくそれに気づく。
「笑ったな」
「そうでしょうか」
「笑った」
「気のせいです」
「気のせいじゃねぇ」
横溝は机に肘をつき、にやにやする。
「押村、お前、千速のこと好きなのか?」
押村は即答できなかった。
好き。
その言葉は、まだ自分の中で形になっていなかった。
信頼している。
気になる。
無事でいてほしい。
名前を呼んだら、少し胸が落ち着いた。
それが何なのか、当時の押村にはまだ分からなかった。
だから、正直に答えた。
「分かりません」
横溝は少しだけ意外そうに押村を見た。
それから、ふっと笑った。
「そうか」
「はい」
「まあ、そのうち分かるだろ」
押村はスマホを伏せ、資料へ目を戻した。
だが、今度はちゃんと読めた。
不思議と、胸の奥が静かだった。
一方その頃。
第三交通機動隊の更衣室で、萩原千速はスマホを見つめていた。
押村:千速。
たった二文字。
それなのに、何度見ても落ち着かない。
「何だよ……」
千速はロッカーに背中を預ける。
顔が熱い。
警察学校の頃から、自分はずっと奏斗と呼んでいた。
なのに、押村はずっと萩原だった。
別に嫌ではなかった。
押村らしいと思っていた。
けれど、どこかで少しだけ待っていたのかもしれない。
いつか、自分だけ他の人とは違う呼び方をされる日を。
「三年遅ぇよ、本当」
そう呟きながらも、口元は緩んでいた。
先輩隊員が更衣室に入ってくる。
「萩原、何にやけてるんだ」
千速は慌ててスマホを伏せた。
「にやけてません!」
「初日からいいことでもあったか?」
「別に!」
「そうか」
先輩隊員は笑いながらロッカーへ向かう。
千速はもう一度スマホを見た。
そして、小さく返信を打った。
萩原千速:明日も無事に帰る。そっちも無茶すんなよ、奏斗。
送信。
それから、ロッカーの扉を閉める。
鏡に映る自分の顔は、少し赤かった。
「……よし」
千速は両頬を軽く叩いた。
白バイ隊員としての初日。
道路の上で人を守る仕事が始まった日。
そして、押村奏斗が初めて自分を「千速」と呼んだ日。
どちらも、きっと忘れない。
それから二人は、それぞれの現場へ向かった。
押村奏斗は捜査一課で、事件と向き合う刑事になった。
萩原千速は交通機動隊で、道路の命を守る白バイ隊員になった。
会う回数は減った。
連絡も毎日ではなかった。
それでも、時折届く短いメッセージの中で、押村は少しずつ「千速」と呼ぶようになった。
最初はぎこちなかった。
押村:千速、明日の同期会は来るか。
千速:来る。何だよ、まだ慣れてねぇな。
押村:慣れる努力をしている。
千速:努力するもんなのか、それ。
やがて、少し自然になった。
押村:千速、現場で交通規制の件を聞きたい。
千速:仕事の時は萩原でいいだろ。
押村:では萩原。
千速:いや、急に戻すな。
それでも職場では、押村は基本的に「萩原」と呼んだ。
周囲がいる時。
仕事の場。
正式な場面。
そこでは、二人は警察官同士だった。
けれど、ふとした時。
人目がなくなった廊下。
事件終わりの夜。
短い電話の最後。
押村は、少し低い声で呼ぶようになった。
「千速」
そのたびに、千速は少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。
そして、何でもない顔をして答える。
「何だ、奏斗」
その呼び方は、恋人になるよりずっと前から、二人の間に静かに根を張っていった。
警察学校で、千速が先に一歩近づいた。
三年後、白バイ隊員と捜査一課刑事になった日に、奏斗がようやく一歩近づいた。
それは告白ではなかった。
恋の始まりと呼ぶには、本人たちもまだ気づいていなかった。
けれど、確かにその日から。
「押村」と「萩原」だった二人の距離は、少しだけ変わった。
白バイのエンジン音が春の空へ消えていったあの日。
押村奏斗は初めて、萩原千速を「千速」と呼んだ。