神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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原作、映画と設定が異なる部分があります。ご容赦ください。


第19話 泣かなかった日

七年前。

 

その日の萩原千速は、朝から最悪だった。

 

第三交通機動隊の一隊員として白バイに乗っていた千速は、まだ小隊長でもなければ、警部補でもなかった。

 

階級は巡査長。

 

白バイ隊員としての腕には自信があった。

だが、その自信が時々、上司の胃を痛める原因にもなっていた。

 

その日もそうだった。

 

交差点で危険な割り込みをした車両を追い、千速は白バイでかなり強引な追跡をした。

 

結果として違反車両は止めた。

事故も起きなかった。

 

だが、経路上で別のパトカーが急ブレーキを踏み、交通課の上司が真っ赤な顔で千速を怒鳴った。

 

「萩原! お前は白バイを何だと思ってる!」

 

千速は背筋を伸ばして立っていた。

 

「すみません」

 

「すみませんじゃない! お前な、腕があるのは分かってる。だが、腕がある奴ほど無茶をするな!」

 

「はい」

 

「関係各所に謝ってこい。特に今朝の件で巻き込んだ地域課と、交通管制だ」

 

「はい」

 

「それから、今日はもう目立つな」

 

千速は少しだけ眉を動かした。

 

「目立つつもりはありません」

 

「目立ってるんだよ、存在が!」

 

上司の怒鳴り声が、廊下に響いた。

 

千速は反論を飲み込み、頭を下げた。

 

「申し訳ありませんでした」

 

それから数時間。

 

千速は白バイ隊員の制服のまま、関係部署を回っていた。

 

地域課。

交通管制。

当直責任者。

現場近くにいたパトカーの警察官。

 

頭を下げて、事情を説明して、また頭を下げる。

 

白バイに乗っている方がずっと楽だった。

 

廊下を歩きながら、千速は小さく息を吐いた。

 

「ったく……今日は厄日かよ」

 

スマホを見る。

 

弟の萩原研二から、少し前にメッセージが入っていた。

 

研二:姉ちゃん、今日帰り遅い?

 

千速は歩きながら返信する。

 

千速:たぶん遅い。上司に怒られて謝罪巡り中。

 

すぐに既読がついた。

 

研二:うわ、姉ちゃんまた白バイで無茶した?

 

千速は眉をひそめた。

 

千速:またって何だ。

 

研二:いやー、姉ちゃんだからさ。

 

千速:帰ったら一発な。

 

研二:暴力反対〜。今日ハンバーグで許して。

 

千速は思わず口元を緩めた。

 

同居している弟。

 

二つ下の研二は、昔から妙に人懐っこく、軽い口調で人の懐に入るのがうまかった。

 

警視庁の爆発物処理班に入ってからも、それは変わらなかった。

 

危険な仕事をしているくせに、電話越しではいつも笑っている。

 

「姉ちゃん、今日も機嫌悪い?」

 

「悪くねぇよ」

 

「いや、悪い声してる」

 

そんなやり取りが、千速の日常だった。

 

千速はスマホをしまい、次の部署へ向かった。

 

その時だった。

 

廊下の向こうが、急にざわついた。

 

刑事部の方から、数人の刑事が早足で出てくる。

 

顔つきが違った。

 

千速は一瞬だけ足を止めた。

 

警察官なら分かる。

何か大きな事件が起きた時の空気だ。

 

「爆発?」

 

「警視庁の処理班が――」

 

「殉職者が出たらしい」

 

断片的な言葉が耳に入る。

 

千速の体が、ぴたりと止まった。

 

爆発。

警視庁。

処理班。

 

その三つだけで、胸の奥が冷たくなった。

 

だが、まだ何も分からない。

 

研二とは限らない。

 

そう思った。

 

そう思おうとした。

 

「萩原」

 

背後から声がした。

 

振り返ると、押村奏斗が立っていた。

 

捜査一課に配属されたばかりの巡査長。

警察学校時代からの同期。

 

いつもより顔が硬かった。

 

「奏斗」

 

千速はすぐに違和感を覚えた。

 

押村の横には、坊主頭で目つきの鋭い刑事がいた。

 

千速より少し年上だろう。

刑事らしい荒っぽい空気をまとっている。

 

その男が千速を見る。

 

「萩原千速巡査長か」

 

「そうですけど」

 

押村が一歩前に出た。

 

「萩原」

 

その声が、いつもより低かった。

 

千速の喉が、乾いた。

 

「何だよ」

 

押村はすぐに言わなかった。

 

それが答えみたいだった。

 

千速は眉を寄せる。

 

「奏斗。何だ」

 

隣の男が、短く息を吐いた。

 

「俺は捜査一課の横溝重悟だ」

 

「……萩原です」

 

「突然で悪い」

 

横溝の声は荒い。

だが、どこか言葉を選んでいた。

 

「警視庁から連絡が入った。爆発物処理中に殉職者が出た」

 

千速は動かなかった。

 

押村が静かに続ける。

 

「警備部機動隊、爆発物処理班所属」

 

千速は押村を見ていた。

 

呼吸がうまくできない。

 

押村の口が、ゆっくり動く。

 

「萩原研二巡査が、殉職した」

 

音が消えた。

 

廊下のざわめきも、足音も、遠くの電話の音も。

 

全部、遠くなった。

 

千速は押村を見ていた。

 

奏斗が何か言っている。

 

横溝も何か言おうとしている。

 

でも、言葉が届くのに少し時間がかかった。

 

「……研二?」

 

自分の声が、ひどく平坦に聞こえた。

 

押村は小さく頷いた。

 

「はい」

 

千速は視線を落とした。

 

白バイ隊員のブーツ。

廊下の床。

自分の手。

 

震えてはいなかった。

 

泣いてもいなかった。

 

ただ、現実だけが、体の中に入ってこない。

 

今朝、メッセージをした。

 

ハンバーグで許して、なんてふざけていた。

 

帰ったら一発な、と返した。

 

その研二が。

 

もう帰ってこない。

 

千速はゆっくり顔を上げた。

 

「場所は」

 

押村が答える。

 

「都内のマンションです。爆発物の解体中に爆発が発生したと」

 

「即死か」

 

押村の表情がわずかに歪んだ。

 

答えるのをためらった。

 

横溝が代わりに低く言う。

 

「詳しい状況はまだ入ってねぇ。ただ、現場で死亡確認された」

 

千速は横溝を見た。

 

初対面の刑事。

 

目つきは鋭い。

口調も荒い。

 

でも、嘘を言う顔ではなかった。

 

「そうですか」

 

それだけ言った。

 

押村が一歩近づく。

 

「萩原」

 

千速は首を横に振った。

 

「大丈夫だ」

 

押村は黙った。

 

横溝が眉をひそめる。

 

「大丈夫なわけねぇだろ」

 

千速は横溝を見る。

 

「初対面の人に言われたくない」

 

横溝は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 

「……悪い」

 

「いえ」

 

千速は姿勢を正した。

 

「連絡、ありがとうございました」

 

押村の顔が苦しそうになる。

 

「千速、無理を――」

 

「してない」

 

即答だった。

 

「私は今、勤務中です。上司に報告して、必要な手続きをします」

 

「千速」

 

「泣くと思ったか」

 

押村は答えなかった。

 

千速は少しだけ笑った。

 

笑えていたかは分からない。

 

「泣かねぇよ」

 

廊下の空気が重くなる。

 

千速は背を向けた。

 

「上司に報告してきます」

 

歩き出そうとした瞬間、足元が一瞬だけ揺れた。

 

押村が反射的に腕を伸ばす。

 

だが、千速は自分で踏みとどまった。

 

「触るな」

 

声が鋭かった。

 

押村の手が止まる。

 

千速は振り返らなかった。

 

「今触られたら、崩れる」

 

押村は静かに手を下ろした。

 

横溝も黙っていた。

 

千速はそのまま廊下を歩いていった。

 

背筋は伸びていた。

 

白バイ隊員の制服は乱れていない。

 

足取りも、見た目にはしっかりしていた。

 

ただ、握りしめた右手の爪が、掌に食い込んでいた。

 

上司に報告した後のことは、断片的にしか覚えていない。

 

誰かが何かを言った。

 

「すぐ帰れ」

 

「警視庁から連絡が来る」

 

「家族への説明がある」

 

「付き添いを――」

 

千速は全部に頷いた。

 

返事もした。

 

必要な手続きもした。

 

けれど、自分が何を話したのか、あとから思い出せなかった。

 

ただ一つ覚えているのは、上司が最後に言った言葉だった。

 

「萩原。今日は白バイに乗るな」

 

千速は少しだけ顔を上げた。

 

「分かっています」

 

「本当に分かってるな」

 

「はい」

 

「お前はこういう時ほど走ろうとする」

 

千速は何も言えなかった。

 

その通りだったからだ。

 

走っていれば、考えずに済む。

エンジン音の中にいれば、研二の声を思い出さずに済む。

風を切っていれば、泣かずに済む。

 

だが、それを上司は見抜いていた。

 

千速は静かに頭を下げた。

 

「今日は乗りません」

 

「帰れ」

 

「はい」

 

署を出た時、夕方の光が差していた。

 

空は妙に青かった。

 

こんな日に限って、天気がいい。

 

千速は駐車場の隅に立ち、スマホを開いた。

 

研二とのメッセージが残っている。

 

研二:暴力反対〜。今日ハンバーグで許して。

 

千速はその画面をじっと見た。

 

返信欄に指を置く。

 

でも、何も打てなかった。

 

もう既読はつかない。

 

そう思った瞬間、胃の奥がねじれるように痛んだ。

 

それでも、涙は出なかった。

 

「……馬鹿研二」

 

声だけが、少し掠れた。

 

押村奏斗は、少し離れた場所から千速を見ていた。

 

横溝重悟も隣に立っている。

 

「行かねぇのか」

 

横溝が低く言った。

 

押村は千速の背中から目を離さない。

 

「今は、行かない方がいいと思います」

 

「何でだ」

 

「彼女が、そう言ったからです」

 

横溝は押村を見る。

 

「触られたら崩れる、か」

 

「はい」

 

横溝は短く息を吐いた。

 

「強ぇ女だな」

 

押村は静かに言った。

 

「強いですが、平気なわけではありません」

 

「分かってる」

 

横溝は険しい顔で千速を見る。

 

「俺たちは研二って奴を知らねぇ。知らねぇ奴の死を、家族に伝えるってのは嫌な仕事だな」

 

押村は答えなかった。

 

嫌な仕事。

 

その言葉では足りなかった。

 

警察官として、殉職の知らせを伝えることはある。

だが、相手が自分の知っている人間なら。

 

警察学校時代から、千速はいつもまっすぐだった。

 

無茶をする。

怒る。

笑う。

負けず嫌いで、強がりで、けれど誰よりも情が深い。

 

そんな彼女に、弟の死を告げた。

 

押村の胸には、どうしようもない無力感があった。

 

「押村」

 

横溝が言う。

 

「お前、あいつと知り合いなんだろ」

 

「同期です」

 

「なら、今後も見てやれ」

 

押村は横溝を見る。

 

「横溝巡査部長がですか」

 

当時の横溝は巡査部長ではなく警部補かもしれない。

押村は一瞬、呼び方を迷った。

 

横溝はその揺れに気づいたのか、面倒くさそうに言った。

 

「階級なんざ今はどうでもいい。俺は一課の横溝だ」

 

「はい」

 

「俺は今日初めて会った。だから踏み込めねぇ。だがお前は違う」

 

押村は少しだけ黙った。

 

「俺も、踏み込めるほど近くはありません」

 

横溝は鼻で笑った。

 

「そう思ってんのはお前だけかもな」

 

押村は答えなかった。

 

千速はまだ駐車場の隅に立っている。

 

スマホを握ったまま、動かない。

 

泣かない。

 

崩れない。

 

それが余計に痛々しかった。

 

しばらくして、低いエンジン音が近づいてきた。

 

黒い車が駐車場に乱暴に停まる。

 

ドアが開き、一人の男が降りてきた。

 

黒いスーツ。

くせのある髪。

鋭い目つき。

 

煙草の匂いをまとったような男だった。

 

松田陣平。

 

警視庁の刑事。

研二の同級生で、親友。

 

千速とも昔からの知り合いだった。

 

松田は周囲を見ようともせず、まっすぐ千速の方へ歩いていく。

 

押村が一歩出ようとすると、横溝が肩を掴んだ。

 

「待て」

 

「ですが」

 

「あいつは知り合いだろ」

 

押村は足を止めた。

 

松田は千速の前で止まった。

 

二人の間に、しばらく沈黙が落ちる。

 

先に口を開いたのは千速だった。

 

「陣平」

 

松田の顔が歪んだ。

 

「千速」

 

その声は、荒れていた。

 

いつもの松田なら、もっとぶっきらぼうに、どこか投げやりに話す。

だが今は、声の奥が削れていた。

 

千速は松田を見る。

 

「現場にいたのか」

 

松田は答えるまでに時間がかかった。

 

「近くにいた」

 

「研二と?」

 

「電話してた」

 

千速の指がわずかに動いた。

 

松田は唇を噛む。

 

「爆弾の前で、あいつと電話してた」

 

千速は何も言わなかった。

 

松田の拳が震えている。

 

「いつもの調子だった。ふざけた声でよ。『陣平ちゃん、姉ちゃんに怒られる前に帰らねぇとな』って」

 

千速の目がわずかに揺れた。

 

松田は続けた。

 

「最後まで、あいつは軽かった。爆弾の仕組みを読んで、笑ってやがった」

 

「研二らしいな」

 

千速の声は、驚くほど静かだった。

 

松田はその静けさに、逆に顔を歪めた。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「泣けよ」

 

千速は松田を見た。

 

「泣かねぇよ」

 

「何でだよ」

 

「泣いたら、研二が帰ってくるのか」

 

松田は何も言えなかった。

 

千速はまっすぐ立っていた。

 

白バイ隊員の制服のまま。

背筋を伸ばして。

弟を失った姉には見えないほど、強く。

 

でも、その目の奥には何かが凍りついていた。

 

松田が低く言う。

 

「俺が近くにいた」

 

「……」

 

「俺が、もっと早く行ってりゃ」

 

千速の声が鋭くなった。

 

「やめろ」

 

松田は黙らない。

 

「俺があの爆弾を――」

 

「やめろって言ってんだろ!」

 

千速の声が駐車場に響いた。

 

押村も横溝も、思わず息を止めた。

 

千速は松田を睨んでいた。

 

「研二は爆発物処理班だ。自分の仕事をした。お前のせいじゃねぇ」

 

松田の目が揺れる。

 

「じゃあ誰のせいだ」

 

「犯人だ」

 

千速は即答した。

 

「爆弾を仕掛けた奴のせいだ。お前じゃない」

 

松田の拳が震える。

 

「俺は許さねぇ」

 

「知ってる」

 

「絶対に見つける」

 

「分かってる」

 

「研二を殺した奴を、俺が――」

 

「陣平」

 

千速は一歩近づいた。

 

「仇を取るとか言うな」

 

松田は千速を見る。

 

「何でだ」

 

「研二は、そんなこと望まねぇ」

 

「分かんねぇだろ」

 

「分かる」

 

千速の声が少しだけ震えた。

 

「私は、姉ちゃんだからな」

 

松田は何も言えなくなった。

 

その言葉だけは、否定できなかった。

 

千速は視線を落とし、少しだけ息を吸った。

 

「研二はきっと、最後までふざけてただろ」

 

松田は苦しそうに頷いた。

 

「ああ」

 

「なら、あいつらしい」

 

「千速」

 

「でも」

 

千速の手が、ゆっくり拳になる。

 

「許さねぇ」

 

松田は顔を上げた。

 

千速の目は泣いていなかった。

 

涙など一滴もなかった。

 

ただ、静かな怒りだけがあった。

 

「研二を殺した奴も、爆弾で人の命を弄んだ奴も、絶対に許さねぇ」

 

松田はその目を見て、少しだけ口元を歪めた。

 

笑ったのではない。

 

泣く代わりに、顔が歪んだだけだった。

 

「ああ」

 

それだけ言った。

 

二人の間に、長い沈黙が落ちる。

 

やがて松田は、千速の前に立ったまま、小さく呟いた。

 

「悪かった」

 

「何が」

 

「守れなかった」

 

千速は少しだけ目を伏せた。

 

「お前が謝るな」

 

「でも」

 

「謝るなら、研二に言え」

 

松田は唇を噛む。

 

「……ああ」

 

千速はスマホを握りしめた。

 

「私も言うことがある」

 

「何を」

 

「帰ったら一発って言ったのに、帰ってこなかったって」

 

松田は苦しそうに目を閉じた。

 

「それ、あいつ笑うぞ」

 

「笑わせるために言うんだよ」

 

千速は空を見上げた。

 

泣かなかった。

 

泣けなかった。

 

涙になってしまえば、研二が本当にいなくなったことを認めるようで。

 

だから、立っていた。

 

ただ、立っていた。

 

少し離れた場所で、横溝は低く呟いた。

 

「きついな」

 

押村は何も言わなかった。

 

松田と千速の間にあるものは、自分には入れない。

 

弟。

親友。

昔からのつながり。

同じ喪失。

 

押村は、その外側にいる。

 

それでも、千速が立っている姿を見ていることしかできなかった。

 

横溝が隣で言った。

 

「あの松田って奴、危ねぇな」

 

押村は横溝を見る。

 

「危ない?」

 

「目がな」

 

横溝は松田を見ている。

 

「ああいう目の奴は、自分を止めねぇ」

 

押村は沈黙した。

 

松田は千速の前で、怒りと後悔を抱えたまま立っている。

 

まるで、もうどこかへ走り出すことを決めているようだった。

 

押村は静かに言った。

 

「誰かが止めなければ」

 

横溝は鼻を鳴らした。

 

「止まるような奴には見えねぇけどな」

 

その言葉は、三年後に現実になる。

 

松田陣平は、研二の仇を追い続ける。

そして、爆弾解体中に命を落とす。

 

だが、この時の彼らはまだ知らない。

 

今日失ったものの重さが、さらに別の喪失につながっていくことを。

 

夜になっても、千速は泣かなかった。

 

警視庁からの説明。

遺体確認の手続き。

必要書類。

連絡。

研二の荷物。

 

すべてを、淡々とこなした。

 

押村は付き添いを申し出たが、千速は首を横に振った。

 

「一人で行ける」

 

「無理をするな」

 

「してねぇ」

 

「千速」

 

千速は押村を見る。

 

その目は赤くなかった。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今日のこと、忘れるな」

 

押村は少し息を止めた。

 

「忘れない」

 

「研二のこと、知らなくてもいい。でも、今日私が泣かなかったことは忘れるな」

 

「……なぜ?」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「いつか、泣けなくなる日があるかもしれねぇから」

 

押村は言葉を失った。

 

千速は背を向ける。

 

「その時は、思い出させろ。私は泣けないんじゃなくて、泣かなかっただけだって」

 

押村は静かに頷いた。

 

「分かった」

 

「頼む」

 

「分かった」

 

千速は歩き出した。

 

その背中は、ひどく真っ直ぐだった。

 

だからこそ、痛々しかった。

 

横溝が隣に来る。

 

「押村」

 

「はい」

 

「俺も覚えとく」

 

押村は横溝を見る。

 

「今日、初対面でしたよね」

 

「ああ」

 

横溝は千速の背中を見ながら言った。

 

「だが、あんな顔されたら忘れられねぇよ」

 

押村も同じ方向を見る。

 

白バイ隊員、萩原千速。

 

弟を失った姉。

それでも泣かなかった人。

 

この日から、押村奏斗の中で千速は、ただの同期ではなくなった。

 

守りたいと思ったわけではない。

 

彼女は守られるだけの人間ではなかったからだ。

 

ただ、いつか彼女が崩れそうになった時。

 

その時だけは、隣にいたいと思った。

 

そして横溝重悟もまた、この日に萩原千速という女を知った。

 

荒っぽくて、強くて、泣かない。

 

けれど、誰よりも深く傷ついている女を。

 

七年前。

 

萩原研二が殉職した日。

 

千速は泣かなかった。

 

松田陣平は、怒りを胸に焼きつけた。

 

押村奏斗は、何もできない自分を知った。

 

横溝重悟は、初めて会った女の強さを忘れられなくなった。

 

そしてその日から、彼らの時間の中に、戻らない名前が刻まれた。

 

萩原研二。

 

チャラくて、人懐っこくて、姉を「姉ちゃん」と呼んで笑っていた男。

 

その声は、もう帰ってこない。

 

けれど、千速の中で。

 

松田の中で。

 

そして、いつか奏斗と重悟の中でも。

 

研二は、消えない傷として残り続けることになった。

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