七年前。
その日の萩原千速は、朝から最悪だった。
第三交通機動隊の一隊員として白バイに乗っていた千速は、まだ小隊長でもなければ、警部補でもなかった。
階級は巡査長。
白バイ隊員としての腕には自信があった。
だが、その自信が時々、上司の胃を痛める原因にもなっていた。
その日もそうだった。
交差点で危険な割り込みをした車両を追い、千速は白バイでかなり強引な追跡をした。
結果として違反車両は止めた。
事故も起きなかった。
だが、経路上で別のパトカーが急ブレーキを踏み、交通課の上司が真っ赤な顔で千速を怒鳴った。
「萩原! お前は白バイを何だと思ってる!」
千速は背筋を伸ばして立っていた。
「すみません」
「すみませんじゃない! お前な、腕があるのは分かってる。だが、腕がある奴ほど無茶をするな!」
「はい」
「関係各所に謝ってこい。特に今朝の件で巻き込んだ地域課と、交通管制だ」
「はい」
「それから、今日はもう目立つな」
千速は少しだけ眉を動かした。
「目立つつもりはありません」
「目立ってるんだよ、存在が!」
上司の怒鳴り声が、廊下に響いた。
千速は反論を飲み込み、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
それから数時間。
千速は白バイ隊員の制服のまま、関係部署を回っていた。
地域課。
交通管制。
当直責任者。
現場近くにいたパトカーの警察官。
頭を下げて、事情を説明して、また頭を下げる。
白バイに乗っている方がずっと楽だった。
廊下を歩きながら、千速は小さく息を吐いた。
「ったく……今日は厄日かよ」
スマホを見る。
弟の萩原研二から、少し前にメッセージが入っていた。
研二:姉ちゃん、今日帰り遅い?
千速は歩きながら返信する。
千速:たぶん遅い。上司に怒られて謝罪巡り中。
すぐに既読がついた。
研二:うわ、姉ちゃんまた白バイで無茶した?
千速は眉をひそめた。
千速:またって何だ。
研二:いやー、姉ちゃんだからさ。
千速:帰ったら一発な。
研二:暴力反対〜。今日ハンバーグで許して。
千速は思わず口元を緩めた。
同居している弟。
二つ下の研二は、昔から妙に人懐っこく、軽い口調で人の懐に入るのがうまかった。
警視庁の爆発物処理班に入ってからも、それは変わらなかった。
危険な仕事をしているくせに、電話越しではいつも笑っている。
「姉ちゃん、今日も機嫌悪い?」
「悪くねぇよ」
「いや、悪い声してる」
そんなやり取りが、千速の日常だった。
千速はスマホをしまい、次の部署へ向かった。
その時だった。
廊下の向こうが、急にざわついた。
刑事部の方から、数人の刑事が早足で出てくる。
顔つきが違った。
千速は一瞬だけ足を止めた。
警察官なら分かる。
何か大きな事件が起きた時の空気だ。
「爆発?」
「警視庁の処理班が――」
「殉職者が出たらしい」
断片的な言葉が耳に入る。
千速の体が、ぴたりと止まった。
爆発。
警視庁。
処理班。
その三つだけで、胸の奥が冷たくなった。
だが、まだ何も分からない。
研二とは限らない。
そう思った。
そう思おうとした。
「萩原」
背後から声がした。
振り返ると、押村奏斗が立っていた。
捜査一課に配属されたばかりの巡査長。
警察学校時代からの同期。
いつもより顔が硬かった。
「奏斗」
千速はすぐに違和感を覚えた。
押村の横には、坊主頭で目つきの鋭い刑事がいた。
千速より少し年上だろう。
刑事らしい荒っぽい空気をまとっている。
その男が千速を見る。
「萩原千速巡査長か」
「そうですけど」
押村が一歩前に出た。
「萩原」
その声が、いつもより低かった。
千速の喉が、乾いた。
「何だよ」
押村はすぐに言わなかった。
それが答えみたいだった。
千速は眉を寄せる。
「奏斗。何だ」
隣の男が、短く息を吐いた。
「俺は捜査一課の横溝重悟だ」
「……萩原です」
「突然で悪い」
横溝の声は荒い。
だが、どこか言葉を選んでいた。
「警視庁から連絡が入った。爆発物処理中に殉職者が出た」
千速は動かなかった。
押村が静かに続ける。
「警備部機動隊、爆発物処理班所属」
千速は押村を見ていた。
呼吸がうまくできない。
押村の口が、ゆっくり動く。
「萩原研二巡査が、殉職した」
音が消えた。
廊下のざわめきも、足音も、遠くの電話の音も。
全部、遠くなった。
千速は押村を見ていた。
奏斗が何か言っている。
横溝も何か言おうとしている。
でも、言葉が届くのに少し時間がかかった。
「……研二?」
自分の声が、ひどく平坦に聞こえた。
押村は小さく頷いた。
「はい」
千速は視線を落とした。
白バイ隊員のブーツ。
廊下の床。
自分の手。
震えてはいなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、現実だけが、体の中に入ってこない。
今朝、メッセージをした。
ハンバーグで許して、なんてふざけていた。
帰ったら一発な、と返した。
その研二が。
もう帰ってこない。
千速はゆっくり顔を上げた。
「場所は」
押村が答える。
「都内のマンションです。爆発物の解体中に爆発が発生したと」
「即死か」
押村の表情がわずかに歪んだ。
答えるのをためらった。
横溝が代わりに低く言う。
「詳しい状況はまだ入ってねぇ。ただ、現場で死亡確認された」
千速は横溝を見た。
初対面の刑事。
目つきは鋭い。
口調も荒い。
でも、嘘を言う顔ではなかった。
「そうですか」
それだけ言った。
押村が一歩近づく。
「萩原」
千速は首を横に振った。
「大丈夫だ」
押村は黙った。
横溝が眉をひそめる。
「大丈夫なわけねぇだろ」
千速は横溝を見る。
「初対面の人に言われたくない」
横溝は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……悪い」
「いえ」
千速は姿勢を正した。
「連絡、ありがとうございました」
押村の顔が苦しそうになる。
「千速、無理を――」
「してない」
即答だった。
「私は今、勤務中です。上司に報告して、必要な手続きをします」
「千速」
「泣くと思ったか」
押村は答えなかった。
千速は少しだけ笑った。
笑えていたかは分からない。
「泣かねぇよ」
廊下の空気が重くなる。
千速は背を向けた。
「上司に報告してきます」
歩き出そうとした瞬間、足元が一瞬だけ揺れた。
押村が反射的に腕を伸ばす。
だが、千速は自分で踏みとどまった。
「触るな」
声が鋭かった。
押村の手が止まる。
千速は振り返らなかった。
「今触られたら、崩れる」
押村は静かに手を下ろした。
横溝も黙っていた。
千速はそのまま廊下を歩いていった。
背筋は伸びていた。
白バイ隊員の制服は乱れていない。
足取りも、見た目にはしっかりしていた。
ただ、握りしめた右手の爪が、掌に食い込んでいた。
上司に報告した後のことは、断片的にしか覚えていない。
誰かが何かを言った。
「すぐ帰れ」
「警視庁から連絡が来る」
「家族への説明がある」
「付き添いを――」
千速は全部に頷いた。
返事もした。
必要な手続きもした。
けれど、自分が何を話したのか、あとから思い出せなかった。
ただ一つ覚えているのは、上司が最後に言った言葉だった。
「萩原。今日は白バイに乗るな」
千速は少しだけ顔を上げた。
「分かっています」
「本当に分かってるな」
「はい」
「お前はこういう時ほど走ろうとする」
千速は何も言えなかった。
その通りだったからだ。
走っていれば、考えずに済む。
エンジン音の中にいれば、研二の声を思い出さずに済む。
風を切っていれば、泣かずに済む。
だが、それを上司は見抜いていた。
千速は静かに頭を下げた。
「今日は乗りません」
「帰れ」
「はい」
署を出た時、夕方の光が差していた。
空は妙に青かった。
こんな日に限って、天気がいい。
千速は駐車場の隅に立ち、スマホを開いた。
研二とのメッセージが残っている。
研二:暴力反対〜。今日ハンバーグで許して。
千速はその画面をじっと見た。
返信欄に指を置く。
でも、何も打てなかった。
もう既読はつかない。
そう思った瞬間、胃の奥がねじれるように痛んだ。
それでも、涙は出なかった。
「……馬鹿研二」
声だけが、少し掠れた。
押村奏斗は、少し離れた場所から千速を見ていた。
横溝重悟も隣に立っている。
「行かねぇのか」
横溝が低く言った。
押村は千速の背中から目を離さない。
「今は、行かない方がいいと思います」
「何でだ」
「彼女が、そう言ったからです」
横溝は押村を見る。
「触られたら崩れる、か」
「はい」
横溝は短く息を吐いた。
「強ぇ女だな」
押村は静かに言った。
「強いですが、平気なわけではありません」
「分かってる」
横溝は険しい顔で千速を見る。
「俺たちは研二って奴を知らねぇ。知らねぇ奴の死を、家族に伝えるってのは嫌な仕事だな」
押村は答えなかった。
嫌な仕事。
その言葉では足りなかった。
警察官として、殉職の知らせを伝えることはある。
だが、相手が自分の知っている人間なら。
警察学校時代から、千速はいつもまっすぐだった。
無茶をする。
怒る。
笑う。
負けず嫌いで、強がりで、けれど誰よりも情が深い。
そんな彼女に、弟の死を告げた。
押村の胸には、どうしようもない無力感があった。
「押村」
横溝が言う。
「お前、あいつと知り合いなんだろ」
「同期です」
「なら、今後も見てやれ」
押村は横溝を見る。
「横溝巡査部長がですか」
当時の横溝は巡査部長ではなく警部補かもしれない。
押村は一瞬、呼び方を迷った。
横溝はその揺れに気づいたのか、面倒くさそうに言った。
「階級なんざ今はどうでもいい。俺は一課の横溝だ」
「はい」
「俺は今日初めて会った。だから踏み込めねぇ。だがお前は違う」
押村は少しだけ黙った。
「俺も、踏み込めるほど近くはありません」
横溝は鼻で笑った。
「そう思ってんのはお前だけかもな」
押村は答えなかった。
千速はまだ駐車場の隅に立っている。
スマホを握ったまま、動かない。
泣かない。
崩れない。
それが余計に痛々しかった。
しばらくして、低いエンジン音が近づいてきた。
黒い車が駐車場に乱暴に停まる。
ドアが開き、一人の男が降りてきた。
黒いスーツ。
くせのある髪。
鋭い目つき。
煙草の匂いをまとったような男だった。
松田陣平。
警視庁の刑事。
研二の同級生で、親友。
千速とも昔からの知り合いだった。
松田は周囲を見ようともせず、まっすぐ千速の方へ歩いていく。
押村が一歩出ようとすると、横溝が肩を掴んだ。
「待て」
「ですが」
「あいつは知り合いだろ」
押村は足を止めた。
松田は千速の前で止まった。
二人の間に、しばらく沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは千速だった。
「陣平」
松田の顔が歪んだ。
「千速」
その声は、荒れていた。
いつもの松田なら、もっとぶっきらぼうに、どこか投げやりに話す。
だが今は、声の奥が削れていた。
千速は松田を見る。
「現場にいたのか」
松田は答えるまでに時間がかかった。
「近くにいた」
「研二と?」
「電話してた」
千速の指がわずかに動いた。
松田は唇を噛む。
「爆弾の前で、あいつと電話してた」
千速は何も言わなかった。
松田の拳が震えている。
「いつもの調子だった。ふざけた声でよ。『陣平ちゃん、姉ちゃんに怒られる前に帰らねぇとな』って」
千速の目がわずかに揺れた。
松田は続けた。
「最後まで、あいつは軽かった。爆弾の仕組みを読んで、笑ってやがった」
「研二らしいな」
千速の声は、驚くほど静かだった。
松田はその静けさに、逆に顔を歪めた。
「千速」
「何だ」
「泣けよ」
千速は松田を見た。
「泣かねぇよ」
「何でだよ」
「泣いたら、研二が帰ってくるのか」
松田は何も言えなかった。
千速はまっすぐ立っていた。
白バイ隊員の制服のまま。
背筋を伸ばして。
弟を失った姉には見えないほど、強く。
でも、その目の奥には何かが凍りついていた。
松田が低く言う。
「俺が近くにいた」
「……」
「俺が、もっと早く行ってりゃ」
千速の声が鋭くなった。
「やめろ」
松田は黙らない。
「俺があの爆弾を――」
「やめろって言ってんだろ!」
千速の声が駐車場に響いた。
押村も横溝も、思わず息を止めた。
千速は松田を睨んでいた。
「研二は爆発物処理班だ。自分の仕事をした。お前のせいじゃねぇ」
松田の目が揺れる。
「じゃあ誰のせいだ」
「犯人だ」
千速は即答した。
「爆弾を仕掛けた奴のせいだ。お前じゃない」
松田の拳が震える。
「俺は許さねぇ」
「知ってる」
「絶対に見つける」
「分かってる」
「研二を殺した奴を、俺が――」
「陣平」
千速は一歩近づいた。
「仇を取るとか言うな」
松田は千速を見る。
「何でだ」
「研二は、そんなこと望まねぇ」
「分かんねぇだろ」
「分かる」
千速の声が少しだけ震えた。
「私は、姉ちゃんだからな」
松田は何も言えなくなった。
その言葉だけは、否定できなかった。
千速は視線を落とし、少しだけ息を吸った。
「研二はきっと、最後までふざけてただろ」
松田は苦しそうに頷いた。
「ああ」
「なら、あいつらしい」
「千速」
「でも」
千速の手が、ゆっくり拳になる。
「許さねぇ」
松田は顔を上げた。
千速の目は泣いていなかった。
涙など一滴もなかった。
ただ、静かな怒りだけがあった。
「研二を殺した奴も、爆弾で人の命を弄んだ奴も、絶対に許さねぇ」
松田はその目を見て、少しだけ口元を歪めた。
笑ったのではない。
泣く代わりに、顔が歪んだだけだった。
「ああ」
それだけ言った。
二人の間に、長い沈黙が落ちる。
やがて松田は、千速の前に立ったまま、小さく呟いた。
「悪かった」
「何が」
「守れなかった」
千速は少しだけ目を伏せた。
「お前が謝るな」
「でも」
「謝るなら、研二に言え」
松田は唇を噛む。
「……ああ」
千速はスマホを握りしめた。
「私も言うことがある」
「何を」
「帰ったら一発って言ったのに、帰ってこなかったって」
松田は苦しそうに目を閉じた。
「それ、あいつ笑うぞ」
「笑わせるために言うんだよ」
千速は空を見上げた。
泣かなかった。
泣けなかった。
涙になってしまえば、研二が本当にいなくなったことを認めるようで。
だから、立っていた。
ただ、立っていた。
少し離れた場所で、横溝は低く呟いた。
「きついな」
押村は何も言わなかった。
松田と千速の間にあるものは、自分には入れない。
弟。
親友。
昔からのつながり。
同じ喪失。
押村は、その外側にいる。
それでも、千速が立っている姿を見ていることしかできなかった。
横溝が隣で言った。
「あの松田って奴、危ねぇな」
押村は横溝を見る。
「危ない?」
「目がな」
横溝は松田を見ている。
「ああいう目の奴は、自分を止めねぇ」
押村は沈黙した。
松田は千速の前で、怒りと後悔を抱えたまま立っている。
まるで、もうどこかへ走り出すことを決めているようだった。
押村は静かに言った。
「誰かが止めなければ」
横溝は鼻を鳴らした。
「止まるような奴には見えねぇけどな」
その言葉は、三年後に現実になる。
松田陣平は、研二の仇を追い続ける。
そして、爆弾解体中に命を落とす。
だが、この時の彼らはまだ知らない。
今日失ったものの重さが、さらに別の喪失につながっていくことを。
夜になっても、千速は泣かなかった。
警視庁からの説明。
遺体確認の手続き。
必要書類。
連絡。
研二の荷物。
すべてを、淡々とこなした。
押村は付き添いを申し出たが、千速は首を横に振った。
「一人で行ける」
「無理をするな」
「してねぇ」
「千速」
千速は押村を見る。
その目は赤くなかった。
「奏斗」
「何だ」
「今日のこと、忘れるな」
押村は少し息を止めた。
「忘れない」
「研二のこと、知らなくてもいい。でも、今日私が泣かなかったことは忘れるな」
「……なぜ?」
千速は少しだけ笑った。
「いつか、泣けなくなる日があるかもしれねぇから」
押村は言葉を失った。
千速は背を向ける。
「その時は、思い出させろ。私は泣けないんじゃなくて、泣かなかっただけだって」
押村は静かに頷いた。
「分かった」
「頼む」
「分かった」
千速は歩き出した。
その背中は、ひどく真っ直ぐだった。
だからこそ、痛々しかった。
横溝が隣に来る。
「押村」
「はい」
「俺も覚えとく」
押村は横溝を見る。
「今日、初対面でしたよね」
「ああ」
横溝は千速の背中を見ながら言った。
「だが、あんな顔されたら忘れられねぇよ」
押村も同じ方向を見る。
白バイ隊員、萩原千速。
弟を失った姉。
それでも泣かなかった人。
この日から、押村奏斗の中で千速は、ただの同期ではなくなった。
守りたいと思ったわけではない。
彼女は守られるだけの人間ではなかったからだ。
ただ、いつか彼女が崩れそうになった時。
その時だけは、隣にいたいと思った。
そして横溝重悟もまた、この日に萩原千速という女を知った。
荒っぽくて、強くて、泣かない。
けれど、誰よりも深く傷ついている女を。
七年前。
萩原研二が殉職した日。
千速は泣かなかった。
松田陣平は、怒りを胸に焼きつけた。
押村奏斗は、何もできない自分を知った。
横溝重悟は、初めて会った女の強さを忘れられなくなった。
そしてその日から、彼らの時間の中に、戻らない名前が刻まれた。
萩原研二。
チャラくて、人懐っこくて、姉を「姉ちゃん」と呼んで笑っていた男。
その声は、もう帰ってこない。
けれど、千速の中で。
松田の中で。
そして、いつか奏斗と重悟の中でも。
研二は、消えない傷として残り続けることになった。