神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第2話 黒いセダン

昼前の県警本部前。

 

強い日差しがアスファルトを照らし、行き交う車の音が途切れなく響いていた。

押村奏斗はコンビニの袋を片手に、正面玄関の脇に立っていた。

 

中身はおにぎり二つと缶コーヒー。

 

そのうち一つは、ほとんど手つかずだった。

 

「おい」

 

背後から声が飛ぶ。

 

振り向く前に、押村の手からコンビニ袋が奪われた。

 

萩原千速だった。

 

白バイ隊員の制服に身を包み、長身の体をまっすぐ立たせている。ヘルメットを小脇に抱え、鋭い目で袋の中を覗き込んだ。

 

「……奏斗」

 

「何だ、萩原」

 

「おにぎり、残ってるぞ」

 

「あとで食べる」

 

「その“あとで”は一生来ねぇやつだろ」

 

千速は袋からおにぎりを取り出し、押村の胸に押しつけた。

 

「今食え」

 

「萩原、事件の確認を――」

 

「食いながら聞け」

 

押村は小さく息を吐いた。

 

反論しても無駄だと分かっている。

同期になってから十年以上、千速がこういう時に絶対に引かないことを、押村はよく知っていた。

 

包装を開け、無言でおにぎりを口に運ぶ。

 

千速はそれを見届けてから、ようやく話し始めた。

 

「昨日、黒いセダンを見た隊員は新井ってやつだ。まだ若いが目はいい。場所は西区浅間町の交差点付近。時刻は二十三時四十分頃」

 

「被害者が襲われた推定時刻は二十三時二十分から四十分」

 

押村はすぐに言った。

 

「時間は重なる」

 

「そうだな」

 

「車種は?」

 

「トヨタのクラウンに見えたらしい。ただ、型は少し古い。黒。左後部のバンパーに白い擦り傷。ナンバーは横浜三百、下二桁が……八七か、八一」

 

押村の目が細くなった。

 

「八七か八一」

 

「ああ。夜だったし、かなり飛ばしてた。確定はできねぇ」

 

「十分だ」

 

押村はおにぎりを片手に、もう片方の手でスマホにメモを打ち込んだ。

 

千速が呆れた顔をする。

 

「器用だな、お前」

 

「必要だからな」

 

「そういうとこだよ」

 

「どういう意味だ」

 

「何でも一人で処理しようとするところ」

 

押村は答えなかった。

 

その沈黙に、千速は小さく肩をすくめた。

 

「まあいい。新井は今、隊舎にいる。話を聞くなら案内する」

 

「助かる」

 

押村がそう言った瞬間だった。

 

県警本部の自動ドアが開き、横溝重悟が大股で出てきた。

 

坊主頭に鋭い目つき。スーツの上着を肩に引っ掛け、相変わらず不機嫌そうな顔をしている。

 

「押村ァ!」

 

押村はすぐに姿勢を正した。

 

「横溝警部」

 

「飯は食ったか」

 

「食べています」

 

押村は手元のおにぎりを見せた。

 

横溝はそれを見て、千速に視線を向ける。

 

「千速、よくやった」

 

「犬のしつけみたいに言うな、重悟」

 

「似たようなもんだろ。こいつは放っとくと仕事しかしねぇ」

 

「否定はしねぇ」

 

二人の会話を聞きながら、押村は静かにおにぎりを飲み込んだ。

 

「横溝警部、黒いセダンについてですが」

 

「分かってる。交通部の目撃情報と、防犯カメラの映像を照合した」

 

横溝の表情が険しくなる。

 

「該当車両が一台浮いた」

 

押村の目が変わった。

 

「所有者は?」

 

「名義は廃車業者だ。三年前に登録抹消されてる」

 

千速が眉をひそめた。

 

「登録抹消? じゃあ今走ってるのはおかしいだろ」

 

「ああ。ナンバーを付け替えてる可能性がある」

 

横溝は低い声で続けた。

 

「しかもな、その車両の特徴が妙なんだ」

 

「特徴?」

 

「左後部のバンパーに白い擦り傷」

 

押村と千速は同時に顔を見合わせた。

 

千速が先に口を開く。

 

「新井が見た車と同じだ」

 

「そういうことだ」

 

横溝は押村に資料を渡した。

 

防犯カメラの粗い画像。

夜の道路を走る黒いセダン。

ナンバーはぼやけているが、左後部の白い傷だけが不自然に目立っていた。

 

押村はその画像を凝視した。

 

胸の奥で、何かが引っかかる。

 

どこかで見た。

この車を。

いや、この傷を。

 

記憶の底に沈んでいた何かが、わずかに浮かび上がる。

 

「押村?」

 

横溝が声をかける。

 

押村は一瞬だけ遅れて返事をした。

 

「……いえ。確認します」

 

「何か思い出したのか」

 

「まだ確証がありません」

 

「またそれか」

 

横溝の目つきがさらに鋭くなる。

 

「言え」

 

押村は資料から視線を外さなかった。

 

「三年前の未解決ひき逃げ事件です」

 

千速の表情が変わった。

 

それまで軽さを残していた空気が、一瞬で凍る。

 

「……三年前?」

 

「ああ」

 

押村は静かに頷いた。

 

「港北区で起きた、男子高校生のひき逃げ死亡事故。犯行車両は黒いセダンと見られていた。目撃証言では、左後部に白い擦り傷があった」

 

千速は唇を結んだ。

 

横溝も黙った。

 

その事件は、三人にとって忘れられないものだった。

 

当時、押村はまだ捜査一課に上がったばかり。

横溝は現場班の中心にいて、千速は交通機動隊として逃走車両の捜索に加わっていた。

 

だが、犯人は捕まらなかった。

 

被害者の少年は、母親に誕生日プレゼントを買って帰る途中だった。

現場に残されたのは、割れたヘッドライトの破片と、車体から剥がれた黒い塗膜だけ。

 

押村は、その母親の泣き崩れる姿を今も覚えている。

 

「でも、あの車は見つからなかった」

 

千速が低く言った。

 

「事故のあと、解体された可能性が高いって話だったはずだ」

 

「その廃車業者の名前を覚えているか」

 

押村が言った。

 

横溝が目を細める。

 

「まさか」

 

押村は資料の一点を指さした。

 

「今回浮上した名義人と同じです」

 

千速が小さく息を呑んだ。

 

「……偶然じゃねぇな」

 

「偶然なら、出来すぎている」

 

押村の声は冷静だった。

だが、その目の奥には確かな熱が宿っていた。

 

横溝は資料を握りしめた。

 

「三年前の逃げ得野郎が、今度は殺人事件に絡んでるってことか」

 

「まだ断定はできません」

 

「だが追う価値はある」

 

「はい」

 

横溝は即座に指示を飛ばした。

 

「押村、当時の捜査資料を全部洗い直せ。車両関係、廃車業者、目撃者、全部だ」

 

「分かりました」

 

「千速」

 

「何だ」

 

「その黒いセダン、交通部でも網を張れるか」

 

千速はヘルメットを持ち直し、口元をわずかに上げた。

 

「誰に言ってんだ、重悟。道路の上なら、うちらの庭だ」

 

「頼む」

 

「任せとけ」

 

千速はそう言うと、押村を見た。

 

「奏斗」

 

「何だ、萩原」

 

「今度こそ一人で抱え込むなよ」

 

押村はすぐには答えなかった。

 

三年前の事件。

泣き崩れた母親。

消えた黒いセダン。

そして、今回の被害者。

 

全てが一本の線で繋がり始めている。

 

押村は静かに言った。

 

「……分かっている」

 

千速は少しだけ目を細めた。

 

「本当か?」

 

「今回は、萩原にも頼る」

 

その言葉に、千速は一瞬だけ驚いた顔をした。

 

だがすぐに、いつもの勝気な笑みを浮かべる。

 

「よし。言ったな。撤回すんなよ」

 

「ああ」

 

横溝が二人を見て、乱暴に息を吐いた。

 

「青春ごっこはそこまでだ。動くぞ」

 

「誰が青春だ、重悟」

 

「うるせぇ。お前ら同期組はたまに空気が面倒くせぇんだよ」

 

千速が睨み返す。

 

押村は黙って資料を閉じた。

 

その時、横溝のスマホが鳴った。

 

短く応答した横溝の顔色が変わる。

 

「……分かった。すぐ向かう」

 

通話を切ると、横溝は低い声で言った。

 

「黒いセダンが見つかった」

 

押村と千速の表情が一気に引き締まる。

 

「場所は?」

 

押村が尋ねる。

 

「本牧ふ頭近くの倉庫街だ。巡回中の警らが見つけた。だが――」

 

横溝は一拍置いた。

 

「運転席に、男が一人乗ってる。意識不明だ」

 

千速が眉を寄せる。

 

「犯人か?」

 

「分からん」

 

横溝は奥歯を噛みしめるように言った。

 

「ただし、車内から血痕が出てる」

 

押村は資料を胸元に抱えた。

 

三年前から消えていた黒いセダン。

今回の殺人事件。

そして、車内の血痕。

 

事件は終わるどころか、さらに深い闇へ踏み込もうとしていた。

 

「行きましょう、横溝警部」

 

押村の声は静かだった。

 

だが、その目はもう迷っていなかった。

 

千速はヘルメットを被り、白バイへ向かって歩き出す。

 

「奏斗、現場で会おう」

 

「ああ。萩原、無理はするな」

 

千速は振り返らずに手を上げた。

 

「それ、お前にだけは言われたくねぇよ」

 

エンジン音が響く。

 

白バイが鋭く走り出し、昼の道路へ消えていく。

 

押村はその背中を見送り、すぐに横溝の車へ乗り込んだ。

 

黒いセダンが、再び姿を現した。

 

三年前に逃げた影が、今度は自ら闇の中から這い出してきたように。

 

そして押村はまだ知らない。

 

その車の中にいた男が、三年前の事件の犯人ではなく、

“犯人に追われていた人物”であることを。

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