昼前の県警本部前。
強い日差しがアスファルトを照らし、行き交う車の音が途切れなく響いていた。
押村奏斗はコンビニの袋を片手に、正面玄関の脇に立っていた。
中身はおにぎり二つと缶コーヒー。
そのうち一つは、ほとんど手つかずだった。
「おい」
背後から声が飛ぶ。
振り向く前に、押村の手からコンビニ袋が奪われた。
萩原千速だった。
白バイ隊員の制服に身を包み、長身の体をまっすぐ立たせている。ヘルメットを小脇に抱え、鋭い目で袋の中を覗き込んだ。
「……奏斗」
「何だ、萩原」
「おにぎり、残ってるぞ」
「あとで食べる」
「その“あとで”は一生来ねぇやつだろ」
千速は袋からおにぎりを取り出し、押村の胸に押しつけた。
「今食え」
「萩原、事件の確認を――」
「食いながら聞け」
押村は小さく息を吐いた。
反論しても無駄だと分かっている。
同期になってから十年以上、千速がこういう時に絶対に引かないことを、押村はよく知っていた。
包装を開け、無言でおにぎりを口に運ぶ。
千速はそれを見届けてから、ようやく話し始めた。
「昨日、黒いセダンを見た隊員は新井ってやつだ。まだ若いが目はいい。場所は西区浅間町の交差点付近。時刻は二十三時四十分頃」
「被害者が襲われた推定時刻は二十三時二十分から四十分」
押村はすぐに言った。
「時間は重なる」
「そうだな」
「車種は?」
「トヨタのクラウンに見えたらしい。ただ、型は少し古い。黒。左後部のバンパーに白い擦り傷。ナンバーは横浜三百、下二桁が……八七か、八一」
押村の目が細くなった。
「八七か八一」
「ああ。夜だったし、かなり飛ばしてた。確定はできねぇ」
「十分だ」
押村はおにぎりを片手に、もう片方の手でスマホにメモを打ち込んだ。
千速が呆れた顔をする。
「器用だな、お前」
「必要だからな」
「そういうとこだよ」
「どういう意味だ」
「何でも一人で処理しようとするところ」
押村は答えなかった。
その沈黙に、千速は小さく肩をすくめた。
「まあいい。新井は今、隊舎にいる。話を聞くなら案内する」
「助かる」
押村がそう言った瞬間だった。
県警本部の自動ドアが開き、横溝重悟が大股で出てきた。
坊主頭に鋭い目つき。スーツの上着を肩に引っ掛け、相変わらず不機嫌そうな顔をしている。
「押村ァ!」
押村はすぐに姿勢を正した。
「横溝警部」
「飯は食ったか」
「食べています」
押村は手元のおにぎりを見せた。
横溝はそれを見て、千速に視線を向ける。
「千速、よくやった」
「犬のしつけみたいに言うな、重悟」
「似たようなもんだろ。こいつは放っとくと仕事しかしねぇ」
「否定はしねぇ」
二人の会話を聞きながら、押村は静かにおにぎりを飲み込んだ。
「横溝警部、黒いセダンについてですが」
「分かってる。交通部の目撃情報と、防犯カメラの映像を照合した」
横溝の表情が険しくなる。
「該当車両が一台浮いた」
押村の目が変わった。
「所有者は?」
「名義は廃車業者だ。三年前に登録抹消されてる」
千速が眉をひそめた。
「登録抹消? じゃあ今走ってるのはおかしいだろ」
「ああ。ナンバーを付け替えてる可能性がある」
横溝は低い声で続けた。
「しかもな、その車両の特徴が妙なんだ」
「特徴?」
「左後部のバンパーに白い擦り傷」
押村と千速は同時に顔を見合わせた。
千速が先に口を開く。
「新井が見た車と同じだ」
「そういうことだ」
横溝は押村に資料を渡した。
防犯カメラの粗い画像。
夜の道路を走る黒いセダン。
ナンバーはぼやけているが、左後部の白い傷だけが不自然に目立っていた。
押村はその画像を凝視した。
胸の奥で、何かが引っかかる。
どこかで見た。
この車を。
いや、この傷を。
記憶の底に沈んでいた何かが、わずかに浮かび上がる。
「押村?」
横溝が声をかける。
押村は一瞬だけ遅れて返事をした。
「……いえ。確認します」
「何か思い出したのか」
「まだ確証がありません」
「またそれか」
横溝の目つきがさらに鋭くなる。
「言え」
押村は資料から視線を外さなかった。
「三年前の未解決ひき逃げ事件です」
千速の表情が変わった。
それまで軽さを残していた空気が、一瞬で凍る。
「……三年前?」
「ああ」
押村は静かに頷いた。
「港北区で起きた、男子高校生のひき逃げ死亡事故。犯行車両は黒いセダンと見られていた。目撃証言では、左後部に白い擦り傷があった」
千速は唇を結んだ。
横溝も黙った。
その事件は、三人にとって忘れられないものだった。
当時、押村はまだ捜査一課に上がったばかり。
横溝は現場班の中心にいて、千速は交通機動隊として逃走車両の捜索に加わっていた。
だが、犯人は捕まらなかった。
被害者の少年は、母親に誕生日プレゼントを買って帰る途中だった。
現場に残されたのは、割れたヘッドライトの破片と、車体から剥がれた黒い塗膜だけ。
押村は、その母親の泣き崩れる姿を今も覚えている。
「でも、あの車は見つからなかった」
千速が低く言った。
「事故のあと、解体された可能性が高いって話だったはずだ」
「その廃車業者の名前を覚えているか」
押村が言った。
横溝が目を細める。
「まさか」
押村は資料の一点を指さした。
「今回浮上した名義人と同じです」
千速が小さく息を呑んだ。
「……偶然じゃねぇな」
「偶然なら、出来すぎている」
押村の声は冷静だった。
だが、その目の奥には確かな熱が宿っていた。
横溝は資料を握りしめた。
「三年前の逃げ得野郎が、今度は殺人事件に絡んでるってことか」
「まだ断定はできません」
「だが追う価値はある」
「はい」
横溝は即座に指示を飛ばした。
「押村、当時の捜査資料を全部洗い直せ。車両関係、廃車業者、目撃者、全部だ」
「分かりました」
「千速」
「何だ」
「その黒いセダン、交通部でも網を張れるか」
千速はヘルメットを持ち直し、口元をわずかに上げた。
「誰に言ってんだ、重悟。道路の上なら、うちらの庭だ」
「頼む」
「任せとけ」
千速はそう言うと、押村を見た。
「奏斗」
「何だ、萩原」
「今度こそ一人で抱え込むなよ」
押村はすぐには答えなかった。
三年前の事件。
泣き崩れた母親。
消えた黒いセダン。
そして、今回の被害者。
全てが一本の線で繋がり始めている。
押村は静かに言った。
「……分かっている」
千速は少しだけ目を細めた。
「本当か?」
「今回は、萩原にも頼る」
その言葉に、千速は一瞬だけ驚いた顔をした。
だがすぐに、いつもの勝気な笑みを浮かべる。
「よし。言ったな。撤回すんなよ」
「ああ」
横溝が二人を見て、乱暴に息を吐いた。
「青春ごっこはそこまでだ。動くぞ」
「誰が青春だ、重悟」
「うるせぇ。お前ら同期組はたまに空気が面倒くせぇんだよ」
千速が睨み返す。
押村は黙って資料を閉じた。
その時、横溝のスマホが鳴った。
短く応答した横溝の顔色が変わる。
「……分かった。すぐ向かう」
通話を切ると、横溝は低い声で言った。
「黒いセダンが見つかった」
押村と千速の表情が一気に引き締まる。
「場所は?」
押村が尋ねる。
「本牧ふ頭近くの倉庫街だ。巡回中の警らが見つけた。だが――」
横溝は一拍置いた。
「運転席に、男が一人乗ってる。意識不明だ」
千速が眉を寄せる。
「犯人か?」
「分からん」
横溝は奥歯を噛みしめるように言った。
「ただし、車内から血痕が出てる」
押村は資料を胸元に抱えた。
三年前から消えていた黒いセダン。
今回の殺人事件。
そして、車内の血痕。
事件は終わるどころか、さらに深い闇へ踏み込もうとしていた。
「行きましょう、横溝警部」
押村の声は静かだった。
だが、その目はもう迷っていなかった。
千速はヘルメットを被り、白バイへ向かって歩き出す。
「奏斗、現場で会おう」
「ああ。萩原、無理はするな」
千速は振り返らずに手を上げた。
「それ、お前にだけは言われたくねぇよ」
エンジン音が響く。
白バイが鋭く走り出し、昼の道路へ消えていく。
押村はその背中を見送り、すぐに横溝の車へ乗り込んだ。
黒いセダンが、再び姿を現した。
三年前に逃げた影が、今度は自ら闇の中から這い出してきたように。
そして押村はまだ知らない。
その車の中にいた男が、三年前の事件の犯人ではなく、
“犯人に追われていた人物”であることを。