神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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また原作とは違う部分があります。ご容赦ください。


第20話 観覧車の中の最後の声

萩原研二が殉職してから、四年が経っていた。

 

あの日、白バイ隊員だった萩原千速は泣かなかった。

 

弟の死を告げられても。

松田陣平が荒れた声で「守れなかった」と言っても。

研二のスマホに残った最後のメッセージを見ても。

 

泣かなかった。

 

泣けば、全部が崩れる気がしたからだ。

 

それから四年。

 

千速は神奈川県警交通部・第三交通機動隊で、小隊長になったばかりだった。

 

階級は巡査部長。

 

まだ隊を率いる立場に慣れたとは言えない。

だが、白バイに乗る姿は以前より鋭く、背負うものも増えていた。

 

押村奏斗も、神奈川県警捜査一課で巡査部長になっていた。

 

事件を抱え込みすぎる癖は変わらない。

それでも以前より少しだけ、周囲に頼ることを覚えていた。

 

横溝重悟は警部になっていた。

 

坊主頭に鋭い目つき。

荒っぽい口調。

けれど、部下や後輩を見る目は昔より深くなっていた。

 

そして、松田陣平は。

 

警視庁捜査一課にいた。

 

研二を殺した爆弾犯を追うために。

 

その日の朝、千速は白バイの点検をしていた。

 

秋の空気は乾いていて、エンジン音がやけに澄んで聞こえる。

 

「萩原小隊長」

 

若い隊員が声をかける。

 

千速はまだその呼び方に少し慣れていなかった。

 

「何だ」

 

「午後の警戒配置ですが、駅前周辺を重点でよろしいですか」

 

「ああ。イベントで人が増える。歩行者と車両の接触に注意しろ」

 

「了解しました」

 

隊員が去っていく。

 

千速はグローブを締め直した。

 

小隊長。

 

自分が誰かに指示を出す側になった。

 

少し前まで、上司に「無茶をするな」と怒鳴られていた側だったのに。

 

いや、今でも怒鳴られることはある。

 

ただ、怒鳴られる内容が少し変わっただけだ。

 

その時、スマホが震えた。

 

表示を見て、千速は一瞬だけ眉を動かす。

 

松田陣平

 

久しぶりだった。

 

千速は少し離れた場所へ歩き、電話に出た。

 

「陣平」

 

『よお、千速』

 

相変わらずの声だった。

 

少し低く、ぶっきらぼうで、どこか面倒くさそう。

 

だが、千速には分かった。

 

声の底に、妙な張りつめ方がある。

 

「何だ。朝から珍しいな」

 

『そっちは相変わらず白バイか』

 

「小隊長になったばっかだ。忙しいんだよ」

 

『へぇ。お前が小隊長ね』

 

「何だ、その言い方」

 

『いや、部下が気の毒だと思ってな』

 

「お前、今どこだ。殴りに行くぞ」

 

松田は電話の向こうで短く笑った。

 

その笑い方が、研二に少し似ている時がある。

 

「で、本題は?」

 

『本題ってほどじゃねぇよ』

 

「嘘つけ。お前が用もなく電話してくるか」

 

沈黙。

 

それだけで、千速の胸が少しざわついた。

 

『千速』

 

「何だ」

 

『あの事件の犯人、動いたかもしれねぇ』

 

千速の手に力が入る。

 

「……本当か」

 

『まだ確定じゃねぇ。だが、爆弾を使った脅迫が入った。文面の癖が似てる』

 

「場所は」

 

『米花町の観覧車』

 

千速は息を止めた。

 

観覧車。

 

高い場所。

閉じ込められる空間。

人質にも、爆弾にも、最悪の条件。

 

「お前、現場にいるのか」

 

『向かってる』

 

「陣平」

 

千速の声が低くなる。

 

「無茶するな」

 

電話の向こうで、松田が鼻で笑った気配がした。

 

『お前に言われたくねぇ』

 

「私は本気で言ってる」

 

『分かってる』

 

「分かってねぇだろ」

 

『千速』

 

松田の声が少しだけ柔らかくなった。

 

それが、余計に嫌だった。

 

『俺は、四年前からこのためにいる』

 

千速は歯を食いしばった。

 

「仇を取るとか言うなって、あの時言っただろ」

 

『ああ』

 

「研二はそんなこと望まねぇとも言った」

 

『それも覚えてる』

 

「じゃあ――」

 

『でもな』

 

松田が遮った。

 

『あいつを殺した奴が、また爆弾で人を殺そうとしてるなら、俺は止める』

 

千速は言葉を失った。

 

それは仇ではなく、警察官としての言葉だった。

 

だからこそ、止める言葉が見つからなかった。

 

『千速』

 

「何だ」

 

『もし何かあったら――』

 

「言うな」

 

即座に遮った。

 

「そういうことは言うな」

 

『……相変わらずだな』

 

「お前もな」

 

松田は少しだけ黙った。

 

それから、軽く笑うように言った。

 

『萩に会ったら、姉ちゃんは相変わらず怖ぇぞって言っとくわ』

 

千速の胸が凍った。

 

「陣平」

 

『冗談だ』

 

「冗談でも言うな」

 

『悪い』

 

珍しく素直に謝った。

 

千速はそれが、ひどく怖かった。

 

「陣平」

 

『何だ』

 

「必ず帰ってこい」

 

松田はすぐには答えなかった。

 

やがて、低く言った。

 

『……努力する』

 

「そこは断言しろ」

 

『お前、押村みてぇなこと言うな』

 

千速は一瞬だけ押し黙った。

 

奏斗。

 

その名前を出されると、少しだけ現実に引き戻される。

 

「奏斗は、お前よりは人の話を聞く」

 

『あいつも大概だろ』

 

「まあな」

 

松田は短く笑った。

 

『じゃあな、千速』

 

「陣平」

 

『何だよ』

 

「帰ってきたら、研二の墓参り行くぞ」

 

電話の向こうで、松田がわずかに息を呑んだ。

 

『……ああ』

 

「約束だ」

 

『分かった』

 

通話が切れた。

 

千速はしばらくスマホを見つめていた。

 

隊員の声が遠く聞こえる。

 

小隊長、と呼ばれている。

 

だが、返事が少し遅れた。

 

胸の奥に、七年前と同じ冷たいものが落ちていた。

 

同じ頃。

 

神奈川県警捜査一課で、押村奏斗は資料の確認をしていた。

 

机の上には未処理の事件ファイル。

隣では横溝重悟が乱暴にコーヒーを置いている。

 

「押村」

 

「はい」

 

「顔が硬ぇぞ」

 

「いつも通りです」

 

「嘘つけ。お前のいつも通りはもっと面倒くせぇ顔だ」

 

「それは評価でしょうか」

 

「悪口だ」

 

その時、捜査一課の電話が鳴った。

 

一人の刑事が受話器を取り、すぐに表情を変える。

 

「警部。警視庁から緊急共有です」

 

横溝の目つきが変わる。

 

「何だ」

 

「都内の観覧車に爆弾。警視庁捜査一課の松田陣平巡査部長が現場対応中」

 

押村の手が止まった。

 

横溝も一瞬だけ黙る。

 

「松田……」

 

四年前、研二が殉職した日。

 

神奈川県警の駐車場に現れた、荒れた目の男。

 

千速の前で「守れなかった」と言った男。

 

横溝は低く言った。

 

「研二の件と関係あるのか」

 

「警視庁は、同一犯の可能性も視野に入れているとのことです」

 

押村は椅子から立ち上がった。

 

「横溝警部」

 

「分かってる」

 

横溝は電話を掴む。

 

「警視庁との連絡線をつなげ。情報を全部回せ。こっちで支援できることがあるか確認しろ」

 

押村はスマホを取り出した。

 

千速へ電話をかける。

 

数コールでつながった。

 

『奏斗』

 

声は落ち着いていた。

 

だが、押村には分かった。

 

無理に落ち着かせている声だ。

 

「松田の件を聞いた」

 

『そうか』

 

「君は今どこにいる」

 

『第三交機。勤務中だ』

 

「現場へ向かうつもりか」

 

沈黙。

 

押村は目を閉じた。

 

「千速」

 

『陣平が現場にいる』

 

「分かっている」

 

『研二の時と同じ犯人かもしれねぇ』

 

「それも聞いた」

 

『なら――』

 

「神奈川県警の白バイ小隊長が、管轄外の現場へ勝手に向かうことはできない」

 

押村の声は静かだった。

 

冷たいほど正しい。

 

千速は電話の向こうで黙った。

 

押村は続ける。

 

「だが、君の気持ちは分かる」

 

『分かるって言うな』

 

声が鋭くなる。

 

「分かるよ」

 

押村は、今度は譲らなかった。

 

「七年前、君が泣かなかった日を覚えている。松田が来た日のことも」

 

電話の向こうで、千速の呼吸がわずかに乱れた。

 

「君が今、走り出したいことも分かる」

 

『だったら止めるな』

 

「止める」

 

押村は即答した。

 

「君が小隊長だからだ」

 

『……』

 

「君の部下が見ている。君が今、勝手に動けば、部下たちは小隊長を失う不安を覚える」

 

千速は何も言わない。

 

押村は少し声を柔らかくした。

 

「俺も、君に無茶をしてほしくない」

 

『奏斗』

 

「情報は取る。横溝警部も動いている。できる支援はする」

 

『私は、何もできねぇのか』

 

その声が、少しだけ幼く聞こえた。

 

七年前、研二の殉職を知らされた時。

 

泣かなかった千速。

 

その千速が、今は必死に何かを堪えている。

 

押村は胸が痛んだ。

 

「できることはある」

 

『何だよ』

 

「待つことだ」

 

千速は笑った。

 

乾いた、怒りの混じった笑いだった。

 

『一番苦手だ』

 

「知っている」

 

『なら言うな』

 

「だから言う」

 

押村は静かに続けた。

 

「待つことは、何もしないことではない」

 

電話の向こうで、千速は黙った。

 

押村の言葉を聞いている。

 

「戻ってきた時に、迎える人間がいる。それは必要だ」

 

しばらく、何も聞こえなかった。

 

やがて、千速が低く言った。

 

『帰ってくると思うか』

 

押村はすぐに答えられなかった。

 

警察官として、楽観的なことは言えない。

人として、嘘もつけない。

 

それでも、答えた。

 

「帰ってきてほしいと思っている」

 

千速は小さく息を吐いた。

 

『……分かった』

 

「千速」

 

『何だ』

 

「一人で行くな」

 

千速は長く黙った。

 

そして、言った。

 

『行かねぇよ』

 

その言葉が本当かどうか、押村には分からなかった。

 

だが、信じるしかなかった。

 

午後。

 

警視庁からの情報は断片的に届いた。

 

観覧車に爆弾。

乗客の避難は完了。

松田陣平がゴンドラ内で解体作業中。

犯人は過去の爆破事件と関連がある可能性。

通信は不安定。

 

横溝は神奈川県警の一室で、警視庁との連絡を取り続けていた。

 

「何で松田一人なんだ!」

 

電話口に怒鳴る。

 

相手の声は聞こえない。

 

横溝は舌打ちした。

 

「分かってる! ゴンドラの構造上、複数人は入れねぇってことくらい分かってる!」

 

押村は隣で情報を整理していた。

 

心拍が速い。

 

顔には出さない。

 

だが、手元のペンがわずかに止まる。

 

松田陣平とは、深い付き合いがあるわけではない。

 

だが、千速にとって大事な人間だということは分かっていた。

 

研二の親友。

昔から千速を知る男。

そして、千速のことを好きだった男。

 

それを押村は知っていた。

 

松田の目を見れば分かった。

 

千速を見る時だけ、あの荒っぽい男の中に、言葉にしない感情があった。

 

押村はそれを一度も口にしたことはない。

 

千速も、おそらく気づいていた。

 

気づいていても、松田は何も言わなかったのだろう。

 

研二の死が二人の間にあったから。

 

横溝が電話を切った。

 

「爆弾の解除は進んでるらしい」

 

押村が顔を上げる。

 

「状況は」

 

「松田が一部を解除。ただ、最後の仕掛けがあるらしい」

 

「最後の仕掛け?」

 

横溝の表情が険しくなる。

 

「爆発直前に、もう一つの爆弾の設置場所が表示される可能性がある」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「つまり、松田はその情報を見るために――」

 

「最後まで残る気だ」

 

部屋の空気が凍った。

 

押村はすぐにスマホを取った。

 

千速に電話する。

 

だが、繋がらなかった。

 

呼び出し音だけが続く。

 

「出ない」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「まさか行ったか」

 

押村はすぐに第三交機へ連絡を入れた。

 

数秒後、返答が来る。

 

「萩原小隊長は、隊内にいます。隊員たちと待機中とのことです」

 

押村は小さく息を吐いた。

 

だが、安心はできなかった。

 

千速はきっと、何もできない自分に耐えている。

 

それが、どれほど苦しいか。

 

押村には想像できた。

 

第三交通機動隊の詰所。

 

千速は壁際に立ち、無線の音を聞いていた。

 

隊員たちは誰も軽口を叩かなかった。

 

小隊長の顔を見れば分かる。

 

今、何かを抱えている。

 

だが、誰も踏み込めない。

 

新井が恐る恐る近づく。

 

「小隊長」

 

「何だ」

 

「座ってください」

 

「必要ない」

 

「でも、さっきから一時間以上立ったままです」

 

千速は無線から目を離さない。

 

「立ってた方が楽なんだよ」

 

新井は何も言えなくなった。

 

千速の手にはスマホが握られていた。

 

松田からの最後の通話履歴。

 

押村からの着信。

 

何度も画面を見る。

 

だが、今は誰にもかけられなかった。

 

電話をかけたら、何かが確定してしまう気がした。

 

松田は言った。

 

研二に会ったら、姉ちゃんは相変わらず怖ぇぞって言っとくわ。

 

冗談だと言った。

 

だが、あれは半分本気だった。

 

千速は分かっていた。

 

松田は、研二の死から四年間、ずっと止まっていなかった。

 

いや、止まれなかった。

 

爆弾犯を追うことでしか、自分を保てなかった。

 

「陣平……」

 

小さく呟いた。

 

その声は、誰にも聞こえなかった。

 

警視庁の観覧車。

 

松田陣平は、ゴンドラの中で爆弾を見つめていた。

 

狭い空間。

揺れる床。

遠くに見える街。

 

工具を握る手は、驚くほど冷静だった。

 

爆弾の構造は厄介だった。

 

だが、解けないわけではない。

 

問題は最後のメッセージ。

 

爆発直前に表示される、もう一つの爆弾の位置。

 

それを見なければ、多くの人間が死ぬ。

 

松田は携帯を取り出した。

 

画面には、千速の名前がある。

 

電話をかけようとして、やめた。

 

声を聞いたら、迷うかもしれない。

 

いや。

 

迷わない。

 

でも、千速の声が耳に残ったまま死ぬのは、少しきつい。

 

松田は苦笑した。

 

「情けねぇな」

 

代わりに、メール画面を開く。

 

文章を打つ。

 

消す。

 

また打つ。

 

結局、短くなった。

 

千速。

研二のこと、悪かった。

俺はあいつの仇を取るためじゃなく、今ここにいる人間を守るために残る。

だから怒るな、って言っても怒るだろうな。

お前は泣かねぇだろうけど、無理すんな。

押村に頼れ。あいつなら、お前の隣に立てる。

 

そこで手が止まった。

 

最後に、もう一文。

 

好きだった。昔から。

言わねぇままで悪い。

 

送信ボタンを押す前に、松田は少し笑った。

 

「送る相手、間違えてねぇよな」

 

そして、送信した。

 

爆弾の表示が変わる。

 

残り時間は少ない。

 

「研二」

 

誰もいないゴンドラで呟く。

 

「そっち行ったら、千速に怒られたって愚痴聞けよ」

 

街のどこかで、もう一つの爆弾の場所が表示される。

 

松田はそれを見た。

 

すぐにメールを打ち始める

 

「もう一つの爆弾は――」

 

その情報が届けば、人は助かる。

 

それでいい。

 

 

 

爆発音が、空に響いた。

 

その瞬間。

 

第三交機の詰所の無線が、ざらついた音を立てた。

 

誰かが叫んだ。

 

「爆発――」

 

千速の体が止まった。

 

スマホが震えた。

 

メール。

 

差出人は、松田陣平。

 

千速は画面を見た。

 

一行目を読んだ瞬間、呼吸が止まった。

 

全部を読み終えるまで、何も聞こえなかった。

 

隊員たちの声も。

無線の音も。

遠くのサイレンも。

 

最後の一文。

 

好きだった。昔から。

言わねぇままで悪い。

 

千速の手が震えた。

 

七年前と同じだ。

 

また、爆弾。

 

また、電話の後。

 

また、大事な人間が帰ってこない。

 

新井が声をかける。

 

「小隊長……?」

 

千速はスマホを握りしめた。

 

泣かなかった。

 

泣けなかった。

 

ただ、唇を噛んだ。

 

血の味がした。

 

「……馬鹿野郎」

 

それだけが、喉から出た。

 

「馬鹿野郎、陣平……」

 

新井が何も言えずに立っている。

 

千速は顔を上げた。

 

目は濡れていなかった。

 

だが、隊員たちは誰も、その顔を強いとは思わなかった。

 

今にも砕けそうな顔だった。

 

それでも千速は言った。

 

「配置を確認しろ」

 

「え……」

 

「二つ目の爆弾の情報が来る。交通規制が必要になるかもしれねぇ。すぐ動けるようにしろ」

 

新井は息を呑んだ。

 

「はい!」

 

隊員たちが一斉に動き出す。

 

千速はスマホを胸元に押し当てた。

 

松田の最後のメール。

 

泣くのは後だ。

 

今は、松田が残した情報で誰かを守る。

 

それが警察官としてできることだった。

 

押村が第三交機に着いたのは、それから一時間後だった。

 

横溝も一緒だった。

 

警視庁からの正式連絡は届いていた。

 

松田陣平巡査長、殉職。

 

爆弾の爆発により死亡。

 

彼が最後に送った情報で、もう一つの爆弾は発見され、被害は未然に防がれた。

 

押村は詰所の前で足を止めた。

 

中では隊員たちが慌ただしく動いている。

 

その中央に、千速がいた。

 

指示を出している。

 

声は冷静だった。

 

「国道側は規制準備。周辺の歩行者誘導も確認しろ。慌てるな。情報が錯綜する時ほど基本通りに動け」

 

小隊長の顔だった。

 

押村は、その姿を見て胸が痛んだ。

 

七年前と同じだ。

 

泣かずに、立っている。

 

横溝が低く言う。

 

「まただな」

 

押村は頷いた。

 

「はい」

 

「お前、行け」

 

「横溝警部は」

 

「俺が行くと、たぶん余計なこと言う」

 

「自覚があるんですね」

 

「うるせぇ」

 

押村は詰所へ入った。

 

千速が気づく。

 

一瞬だけ、表情が崩れそうになった。

 

だが、すぐに戻した。

 

「奏斗」

 

「千速」

 

隊員たちは空気を読んで、少し距離を取った。

 

押村は近づき、静かに言った。

 

「松田のこと、聞いた」

 

千速は頷いた。

 

「そうか」

 

「最後の情報で、もう一つの爆弾は処理された」

 

「知ってる」

 

「被害は出ていない」

 

「知ってる」

 

「松田が守った」

 

その言葉に、千速の目が揺れた。

 

でも、涙は出なかった。

 

「……あいつは、最後まで馬鹿だった」

 

「そうかもしれない」

 

「帰ってこいって言ったのに」

 

「うん」

 

「研二の墓参り行くって、約束したのに」

 

「うん」

 

「好きだったとか、最後に言いやがって」

 

押村は黙った。

 

千速は笑おうとした。

 

でも、笑えなかった。

 

「ずるいだろ、そんなの」

 

押村は静かに言った。

 

「ずるいと思う」

 

千速の肩が震えた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「私、また泣けねぇ」

 

押村の胸が締めつけられた。

 

七年前、千速は言った。

 

いつか、泣けなくなる日があるかもしれねぇから。

その時は、思い出させろ。

私は泣けないんじゃなくて、泣かなかっただけだって。

 

押村はその言葉を、忘れていなかった。

 

「千速」

 

「何だよ」

 

「君は泣けないんじゃない」

 

千速の目が押村を見た。

 

押村は静かに続けた。

 

「今は、泣かないことを選んでいるだけだ」

 

千速の顔が歪んだ。

 

「……覚えてたのかよ」

 

「忘れないと言った」

 

千速は唇を噛む。

 

押村は少し近づいた。

 

「今は小隊長として立っている。なら、それでいい」

 

「……」

 

「でも、終わったら」

 

押村は言葉を選んだ。

 

「その時は、一人でいるな」

 

千速は何も言わなかった。

 

押村は手を伸ばさなかった。

 

七年前、千速は言った。

 

今触られたら、崩れる。

 

だから、押村は待った。

 

千速が自分で選ぶまで。

 

長い沈黙の後。

 

千速が一歩だけ近づいた。

 

そして、押村の胸元に額を当てた。

 

抱きついたわけではない。

泣いたわけでもない。

 

ただ、ほんの少しだけ体重を預けた。

 

押村は静かに、その背中に手を置いた。

 

千速は小さく言った。

 

「少しだけだ」

 

「分かった」

 

「今だけだからな」

 

「分かった」

 

「泣いてねぇから」

 

「うん」

 

押村は、それ以上何も言わなかった。

 

千速の肩は震えていた。

 

でも、涙は落ちなかった。

 

それでも、七年前とは違った。

 

あの時、千速は誰にも触れさせなかった。

 

今は、自分から少しだけ寄りかかっていた。

 

それだけで、十分だった。

 

夜。

 

松田陣平の殉職は、正式に各所へ伝えられた。

 

警視庁捜査一課。

神奈川県警。

爆発物処理に関わった関係部署。

 

松田が最後に残した情報で、多くの命が救われたことも報告された。

 

横溝は屋上で煙草を吸う代わりに、缶コーヒーを握っていた。

 

押村が隣に立つ。

 

「横溝警部」

 

「千速は」

 

「隊員たちの対応を終えて、今は休ませています」

 

「泣いたか」

 

押村は少し黙った。

 

「泣いてはいません」

 

横溝は空を見上げた。

 

「そうか」

 

「でも、七年前とは違います」

 

「何がだ」

 

「一人ではありません」

 

横溝は押村を見た。

 

それから、少しだけ笑った。

 

「お前がいるからか」

 

押村はすぐには答えなかった。

 

「俺だけではありません」

 

「じゃあ誰だ」

 

「横溝警部もいます」

 

横溝は苦い顔をした。

 

「俺はああいう時、気の利いたこと言えねぇぞ」

 

「知っています」

 

「殴るぞ」

 

「ですが、千速は分かっていると思います」

 

横溝は黙った。

 

四年前、初めて会った白バイ隊員。

 

弟を失っても泣かなかった女。

 

その女が今、また大事な人間を爆弾で失った。

 

世の中は理不尽だ。

 

警察官であっても、人を守れない時がある。

 

横溝は缶コーヒーを強く握った。

 

「松田って奴は、最後まで警察官だったな」

 

押村は頷いた。

 

「はい」

 

「馬鹿だが」

 

「はい」

 

「強ぇ馬鹿だ」

 

押村は少しだけ目を伏せた。

 

「千速も、そう言うと思います」

 

数日後。

 

松田陣平の葬儀の後、千速は一人で研二の墓を訪れた。

 

いや、一人ではなかった。

 

押村が少し後ろにいた。

 

横溝もさらに離れた場所で、黙って立っていた。

 

千速は墓前に花を置いた。

 

「研二」

 

風が吹く。

 

「陣平がそっち行った」

 

返事はない。

 

「馬鹿だろ、あいつ。帰ってこいって言ったのにさ」

 

千速は墓石を見つめた。

 

「でも、最後まで人を守った。悔しいけど、あいつらしい」

 

沈黙。

 

千速はポケットからスマホを取り出した。

 

松田の最後のメールは消せなかった。

 

これからも消せないだろう。

 

「研二」

 

声が少しだけ震えた。

 

「陣平に会ったら、言っとけ」

 

千速は空を見上げた。

 

涙は落ちなかった。

 

それでも、声は震えていた。

 

「姉ちゃんは怒ってるって」

 

少し間を置いて、続けた。

 

「でも……よくやったって」

 

押村は後ろで黙っていた。

 

千速の背中が小さく見えた。

 

強くて、男勝りで、泣かない。

 

でも、傷つかないわけではない。

 

千速は振り返らずに言った。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「帰るぞ」

 

「分かった」

 

「重悟も」

 

少し離れた場所で横溝が顔を上げる。

 

「俺もか」

 

「当たり前だろ。研二も陣平も、あんたの顔くらい覚えたんじゃねぇか」

 

横溝は少しだけ目を細めた。

 

「そうかよ」

 

千速は歩き出した。

 

押村が隣に並ぶ。

 

横溝も少し後ろからついてくる。

 

墓地の道を、三人で歩く。

 

七年前、研二が死んだ日。

 

千速は一人で立っていた。

 

松田は怒りを抱えた。

 

押村は何もできなかった。

 

横溝は初めて千速を知った。

 

そして今。

 

松田もまた、爆弾の中で命を落とした。

 

それでも、千速は一人ではなかった。

 

泣かないままでも。

 

泣けないままでも。

 

隣に、押村奏斗がいた。

 

後ろに、横溝重悟がいた。

 

失った名前は戻らない。

 

萩原研二。

 

松田陣平。

 

二人の声は、もう帰ってこない。

 

けれど、千速の中で消えることはない。

 

そして、その傷ごと抱えて進む道を。

 

今度は一人で歩かなくていい。

 

千速は空を見上げ、小さく呟いた。

 

「馬鹿ども」

 

風が吹いた。

 

まるで、どこかで研二が軽く笑い、松田が面倒くさそうに煙草をくわえているような風だった。

 

千速は少しだけ口元を緩めた。

 

涙は、まだ出なかった。

 

でも、それでよかった。

 

今はまだ。

 

歩けるなら、それでよかった。

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