神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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新しい事件編です。


第22話 濡れない死体

雨の音が、窓ガラスを叩いていた。

 

神奈川県警捜査一課の執務室は、午後八時を過ぎても明かりが落ちない。

 

押村奏斗は、机の上に広げた資料を見つめていた。

 

階級は警部補。

捜査一課の刑事として、もう新人ではない。

 

だが、事件のたびに思う。

 

慣れることなどない。

 

人が死ぬ。

誰かが嘘をつく。

残された痕跡が、黙って真実を訴える。

 

それを拾うのが、刑事の仕事だった。

 

「押村」

 

荒っぽい声が飛ぶ。

 

横溝重悟警部が、濡れたコートを片手に執務室へ入ってきた。

 

坊主頭に鋭い目つき。

相変わらず、顔だけで半分の被疑者を黙らせそうな迫力がある。

 

「現場だ」

 

押村はすぐに立ち上がった。

 

「殺しですか」

 

「ああ。鎌倉の旧洋館。資産家の男が死んだ」

 

「旧洋館?」

 

「山側にある古い別荘だ。今夜、親族が集まって遺言の話をしていたらしい」

 

横溝は資料を押村に渡す。

 

「被害者は黒崎宗一郎、六十八歳。不動産会社の会長。頭部を殴打されて死亡。発見場所は二階の書斎」

 

押村は資料に目を落とす。

 

「容疑者は」

 

「親族と関係者が五人。全員、館内にいた」

 

「外部犯の可能性は」

 

「雨で庭は泥だらけだ。だが、外から侵入した足跡がねぇらしい」

 

押村の目が細くなる。

 

「密室ですか」

 

「完全な密室じゃねぇ。だが妙なことがある」

 

「妙なこと?」

 

横溝は舌打ちするように言った。

 

「被害者の死体だけが、濡れてねぇ」

 

押村は顔を上げた。

 

「死体だけが?」

 

「ああ。現場の書斎は窓が開いていて、雨が吹き込んでいた。机も床もカーテンも濡れている。だが、死体の服と髪だけが乾いていた」

 

押村は数秒黙った。

 

「死後に運ばれた可能性があります」

 

「普通はそう考える」

 

横溝は続けた。

 

「だが、書斎の入口は親族たちが廊下から見ていた。誰も出入りしていないと言っている」

 

「発見までの時間は」

 

「被害者が書斎に入ったのが午後七時十分。悲鳴が上がったのが七時四十分。死体発見が七時四十二分」

 

「三十分」

 

押村は資料を閉じた。

 

「行きます」

 

「もう一つ」

 

横溝が言った。

 

「交通部から萩原も来る」

 

押村の手が一瞬止まる。

 

「千速が?」

 

「ああ。現場近くの県道で、被害者の車に関係する妙な通報があった。白バイが先に押さえてる」

 

横溝はにやりと笑った。

 

「仕事中は節度を持てよ、押村」

 

押村は真顔で答えた。

 

「承知しています」

 

「その顔で言うな。余計怪しい」

 

鎌倉の山手にある黒崎邸は、雨の中で沈むように建っていた。

 

古い洋館。

 

白い外壁はところどころ黒ずみ、蔦が壁を這っている。

正面玄関には警察車両の赤色灯が反射し、濡れた石畳が光っていた。

 

押村と横溝が到着すると、門の前に白バイが停まっていた。

 

その隣に、萩原千速が立っている。

 

神奈川県警交通部・第三交通機動隊小隊長。

階級は警部補。

 

雨具を着ていても、姿勢の良さは変わらない。

男勝りな目つきで、現場周辺を見ていた。

 

押村が近づく。

 

「千速」

 

千速は振り向いた。

 

「奏斗。重悟」

 

横溝が眉をひそめる。

 

「仕事中だぞ、千速」

 

「分かってるよ、横溝警部」

 

「重悟って呼んだ後で取り繕うな」

 

千速は肩をすくめる。

 

「で、そっちは殺しだろ」

 

押村が頷く。

 

「黒崎宗一郎。二階の書斎で死亡している」

 

「こっちは交通絡みで変な話がある」

 

千速は手帳を開いた。

 

「午後七時二十五分ごろ、黒崎邸近くの県道で、黒いワゴン車が不自然に停車していたって通報があった。通報者は近所の住民。雨なのにヘッドライトも点けず、路肩に停まっていたらしい」

 

横溝が反応する。

 

「ワゴン車?」

 

「ああ。ナンバーは泥で見えなかった。私たちが確認に向かった時には、もう消えていた」

 

押村が尋ねる。

 

「タイヤ痕は?」

 

「残ってる。ただ、雨でだいぶ流れてる。でも不自然なことがある」

 

「何だ」

 

千速は邸の裏手へ視線を向けた。

 

「そのワゴン車が停まっていた場所から、この屋敷の二階書斎が見える」

 

押村は顔を上げた。

 

雨の中、洋館の二階を見る。

 

一つだけ窓が開いていた。

 

白いカーテンが、雨風に揺れている。

 

「あれか」

 

「たぶんな」

 

千速は低く言った。

 

「それと、県道のガードレールに新しい擦過痕があった。車が接触した跡だ」

 

「その車が事件に関係している可能性がある」

 

「あると思う」

 

横溝が舌打ちした。

 

「密室に、濡れない死体に、消えたワゴン車か。面倒くせぇ事件だな」

 

押村は二階の窓を見上げた。

 

「面倒だからこそ、作為があります」

 

千速が横目で見る。

 

「つまり?」

 

「犯人は、現場を奇妙に見せようとしている」

 

押村は静かに言った。

 

「問題は、なぜ奇妙に見せる必要があったのかです」

 

黒崎邸の中は、外観以上に古かった。

 

玄関ホールには大きなシャンデリア。

壁には古い肖像画。

床は磨かれた木製で、雨に濡れた靴音が不気味に響く。

 

二階へ上がる階段の前には、親族たちが集められていた。

 

黒崎宗一郎の長男、黒崎彰人。四十二歳。

不動産会社の専務。

 

長女、黒崎美怜。三十九歳。

画廊を経営している。

 

後妻、黒崎玲子。四十五歳。

宗一郎とは十年前に再婚。

 

甥の黒崎拓真。二十八歳。

宗一郎の会社で働いている。

 

そして秘書の三枝由香里。三十二歳。

 

全員、疲れ切った顔をしている。

だが、恐怖だけではない。

 

誰かが疑われることへの苛立ち。

相続への不安。

隠し事を見られたくない緊張。

 

それぞれの顔に、違う色が浮かんでいた。

 

横溝が低い声で告げる。

 

「全員、勝手に帰るな。順番に話を聞く」

 

長男の彰人が不満げに言う。

 

「我々を疑っているんですか」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「人が死んでんだ。疑うに決まってんだろ」

 

彰人は黙った。

 

押村は書斎へ向かった。

 

二階奥の部屋。

 

入口の扉は開いている。

 

中に入ると、雨の匂いがした。

 

窓が開いている。

雨は斜めに吹き込み、床の一部を濡らしていた。

机の上の書類も端が濡れている。

 

だが、部屋の中央付近に横たわる黒崎宗一郎の遺体だけは、確かに濡れていなかった。

 

高級そうなスーツ。

白髪。

右側頭部に打撃痕。

床には少量の血液。

 

押村はしゃがみ込む。

 

「遺体の位置は動かしていませんか」

 

鑑識員が答える。

 

「はい。発見時のままです」

 

「死亡推定時刻は」

 

「午後七時十五分から七時三十五分の間。ただ、詳しくは司法解剖待ちです」

 

押村は室内を見回した。

 

机。

本棚。

暖炉。

ソファ。

窓。

古い柱時計。

 

柱時計は七時三十分で止まっていた。

 

横溝が入ってくる。

 

「凶器は?」

 

「まだ見つかっていません」

 

「窓から捨てたか」

 

押村は窓へ近づいた。

 

窓の外は庭。

その向こうに県道が見える。

 

千速の言った通り、二階書斎から道路が見下ろせた。

 

「外へ捨てたなら、雨で痕跡が流れている可能性があります」

 

「庭を捜索させる」

 

押村は窓枠を見た。

 

雨に濡れている。

 

しかし、内側の鍵には埃が少し残っていた。

 

「窓は事件前から開いていたのでしょうか」

 

横溝が眉を上げる。

 

「どういう意味だ」

 

「雨が吹き込んでいるわりに、窓の内鍵の埃が残っています。犯行直後に慌てて開けたなら、ここに触れた跡があるはずです」

 

「なら、窓は最初から開いていた?」

 

「あるいは、窓を開けたのは犯人ではない」

 

横溝が低く唸る。

 

「ややこしいこと言うな」

 

押村は床を見る。

 

濡れた床に、靴跡がある。

 

だが、遺体の周辺だけ乾いている。

 

まるで、雨の届かない場所に遺体が置かれていたように。

 

その時、千速が入口から顔を出した。

 

「奏斗」

 

押村が振り向く。

 

「何だ」

 

「外で見つかった。金属バットだ」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「凶器か」

 

「庭の植え込みの中。雨で濡れてるが、血らしきものがついてる」

 

押村は立ち上がった。

 

「見ます」

 

庭の植え込みに落ちていた金属バットは、古いものだった。

 

グリップには泥。

先端には赤黒い付着物。

 

鑑識が慎重に回収する。

 

横溝が腕を組む。

 

「分かりやすい凶器だな」

 

千速が言う。

 

「分かりやすすぎねぇか?」

 

押村は頷いた。

 

「同感だ」

 

「だよな」

 

千速は屋敷の二階を見る。

 

「窓から捨てたなら、植え込みまで届くか?」

 

押村は距離を測るように視線を動かす。

 

「成人男性なら可能です。ただし、雨風の中で正確にあそこへ落とすのは難しい」

 

横溝が言う。

 

「犯人が慌てて投げたなら、正確さは関係ねぇだろ」

 

「そうですね」

 

押村は少し考える。

 

「ただ、妙です」

 

「何が」

 

「遺体は濡れていない。凶器は濡れている。部屋は濡れている。つまり、同じ時間に同じ場所にあったものとは思えません」

 

千速が目を細める。

 

「死体と凶器と現場の時間がずれてるってことか?」

 

押村は千速を見る。

 

「そういうことだ」

 

横溝が舌打ちした。

 

「つまり、犯行時刻そのものが怪しいってことか」

 

「はい」

 

押村は二階の窓を見上げた。

 

「犯人は、午後七時十分から七時四十分の三十分間に殺したように見せている」

 

「実際は違う?」

 

「その可能性があります」

 

千速が低く言う。

 

「でも、被害者は七時十分に書斎へ入ったのを全員が見てるんだろ」

 

押村は静かに答えた。

 

「見たものが、本当に本人だったかどうかです」

 

横溝と千速が同時に押村を見る。

 

「替え玉か」

 

押村は首を横に振った。

 

「まだ分かりません。ただ、この屋敷には古い構造があります。死体を濡らさず、部屋だけを濡らす仕掛け。あるいは、死体が後から現れたように見せる仕掛け」

 

千速が半眼になる。

 

「推理小説みたいなこと言い出したな」

 

「実際、犯人はそういう舞台を作っています」

 

押村は屋敷を見上げる。

 

「なら、こちらも舞台裏を探すべきです」

 

事情聴取は一人ずつ行われた。

 

まず長男の彰人。

 

「父は午後七時十分に書斎へ入りました。遺言書の最終確認をすると言って」

 

「その後、あなたはどこに?」

 

「一階の応接間です。妹と玲子さん、拓真、三枝さんもいました」

 

「全員一緒に?」

 

彰人は少し言葉に詰まる。

 

「いえ……途中で多少の出入りはありました」

 

横溝が睨む。

 

「最初から言え」

 

彰人は不快そうに顔を歪めた。

 

「私は七時二十分頃、電話をするため廊下へ出ました」

 

「何分ほど」

 

「五分程度です」

 

次に長女の美怜。

 

「父は最近、遺言を変えると言っていました」

 

「誰に有利に?」

 

美怜は苦い顔をした。

 

「秘書の三枝さんです。父は彼女にかなりの株を譲るつもりでした」

 

「あなたは反対だった」

 

「当然です。家族でもないのに」

 

後妻の玲子は、終始落ち着いていた。

 

「宗一郎さんは人を試すのが好きでした。今夜も、私たちを集めて遺言の話をするなんて、悪趣味です」

 

「殺したいほど憎んでいましたか」

 

玲子は少し笑った。

 

「刑事さん。夫婦なんて、毎日一度くらいは相手を殺したくなるものです。でも実際にはしません」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「冗談に聞こえねぇな」

 

甥の拓真は青ざめていた。

 

「俺じゃありません。俺は叔父さんに借金を肩代わりしてもらっていて……殺す理由なんて」

 

押村が尋ねる。

 

「遺言が変われば、あなたへの援助が打ち切られる可能性があったのでは」

 

拓真は黙った。

 

最後に秘書の三枝由香里。

 

彼女は静かに泣いていた。

 

「会長は、私によくしてくださいました。でも、遺産なんて望んでいません」

 

「遺言変更のことは知っていましたか」

 

「はい。でも、私は断るつもりでした」

 

「午後七時二十五分頃、あなたはどこに?」

 

三枝はハンカチを握る。

 

「応接間にいました。でも……停電がありました」

 

押村の目が動く。

 

「停電?」

 

「一分ほどです。雷のせいかと思いました」

 

横溝が他の供述を確認する。

 

「全員、停電には触れてなかったぞ」

 

「短かったので……」

 

押村は静かに言う。

 

「その一分間、誰かの姿は見えましたか」

 

三枝は首を横に振った。

 

「暗くて、よく分かりませんでした」

 

横溝が押村を見る。

 

押村は小さく頷いた。

 

一分間の暗闇。

 

犯人が何かをするには短い。

しかし、仕掛けを作動させるには十分かもしれない。

 

押村は再び書斎に戻った。

 

千速もついてくる。

 

「交通部の私がいつまで殺しの現場にいていいんだ?」

 

「君の県道の情報が必要だ」

 

「便利に使うな」

 

「頼りにしている」

 

千速は少し顔を赤くして視線を逸らす。

 

「仕事中だぞ」

 

「仕事上の発言だ」

 

「それ、前にも聞いた」

 

横溝が後ろから低く言う。

 

「お前ら、今度本当に別々に聴取するぞ」

 

千速は咳払いする。

 

押村は書斎の柱時計の前で止まった。

 

七時三十分で止まった時計。

 

古い振り子時計だ。

 

押村は時計の側面を見る。

 

「横溝警部、鑑識を」

 

「何かあるのか」

 

「この時計、動かされた跡があります」

 

千速が近づく。

 

「どこで分かる?」

 

「壁の埃です。時計の後ろだけ、埃の跡がずれています」

 

横溝が鑑識を呼ぶ。

 

押村は時計の下を見る。

 

床には小さな水滴があった。

 

雨が届く位置ではない。

 

「時計の中を確認してください」

 

鑑識員が慎重に扉を開ける。

 

中から、細い釣り糸のようなものが見つかった。

 

横溝が声を低くする。

 

「何だこりゃ」

 

押村は目を細める。

 

「糸の先は?」

 

鑑識が慎重にたどる。

 

糸は時計の裏から壁の隙間を通り、書棚の陰へ伸びていた。

 

書棚の横には、小さな滑車。

 

さらに床近くの通風口へ。

 

千速がしゃがむ。

 

「通風口の奥に続いてる」

 

押村は言った。

 

「この屋敷には古い暖房用の通気ダクトがあるはずです」

 

横溝が屋敷の管理人を呼ばせる。

 

管理人によれば、この洋館には昔、各部屋をつなぐ通気ダクトがあり、現在は使われていないが、一部は残っているという。

 

押村はすぐに一階へ向かった。

 

書斎の真下は、使われていない小部屋だった。

 

扉は施錠されていたが、鍵は管理室にあった。

 

中に入ると、埃っぽい空気が流れた。

 

古い物置。

 

その天井付近に、書斎へつながる通気口がある。

 

そして床には、濡れた布が落ちていた。

 

千速がそれを見て眉をひそめる。

 

「雨水?」

 

押村は布の横にあるものを見る。

 

小型の電動ウインチ。

タイマー。

そして、折り畳まれた黒いレインコート。

 

横溝が低く唸る。

 

「仕掛け部屋か」

 

押村は静かに言った。

 

「おそらく、遺体は一時的にここに隠されていた」

 

千速が驚く。

 

「二階の書斎じゃなくて、一階に?」

 

「はい」

 

押村は天井の通気口を見る。

 

「遺体を完全に運ぶことはできない。しかし、あるものなら通せます」

 

「あるもの?」

 

押村は机の上に置かれた古い図面を見る。

 

「ワイヤーです」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「死体をワイヤーで吊ったってのか?」

 

「いえ。死体そのものではありません」

 

押村は書斎の写真を取り出す。

 

「遺体の発見位置は、書斎中央。そこには大きな絨毯があります」

 

千速が気づく。

 

「絨毯ごと移動させた?」

 

「はい」

 

押村は頷く。

 

「被害者はおそらく、午後七時十分より前に殺害されています。その後、遺体は絨毯に乗せられ、書斎の隣の隠し空間、あるいはこのダクトに近い場所に一時的に隠された」

 

横溝が言う。

 

「だが、全員が被害者が書斎に入るのを見てる」

 

押村は静かに答える。

 

「見せられたのは、被害者本人ではありません」

 

千速が低く言う。

 

「影か」

 

押村は千速を見る。

 

「そう。停電前、廊下から見えたのは、書斎へ入る黒崎宗一郎の後ろ姿だけです。屋敷の照明、廊下の位置、そして被害者の特徴的なガウン。これを使えば、背格好の近い人物が本人に見える」

 

横溝が供述を思い出す。

 

「背格好が近いのは長男の彰人か、甥の拓真」

 

「ただし、それだけではない」

 

押村は小型ウインチを見る。

 

「七時二十五分の停電。この暗闇の一分間に、犯人はタイマーを作動させた。ウインチが動き、書斎内の絨毯を滑らせ、隠していた遺体を中央へ移動させた」

 

千速が書斎の床を思い出す。

 

「だから遺体だけ濡れてなかった。雨が吹き込んだ後に出てきたから」

 

「正確には、雨の当たらない場所から、濡れた床の上へ後から滑り出した」

 

横溝が唸る。

 

「柱時計は?」

 

「仕掛けの時間を誤認させるためです。七時三十分で止めて、犯行時刻をその前後に見せた」

 

千速が腕を組む。

 

「でも、誰が停電を起こした?」

 

押村は物置の配電盤を見る。

 

「ここに細工があります。ブレーカーが落ちるよう、電気ポットか暖房器具を使った過負荷を仕込んだのでしょう」

 

横溝が目を鋭くする。

 

「計画的だな」

 

「かなり」

 

押村は続けた。

 

「そして、外のワゴン車」

 

千速が反応する。

 

「あれも仕掛けか?」

 

「はい。書斎の窓を外から監視するため、あるいは合図を送るために使われた可能性があります」

 

「共犯?」

 

「そう考えるのが自然です」

 

横溝が笑みを消す。

 

「五人の中に犯人。外に共犯者。厄介だな」

 

押村は首を横に振った。

 

「いえ。共犯者は、おそらく館内の人物です」

 

「どういう意味だ」

 

「ワゴン車は外にあった。しかし、車を運転していた人物がずっと外にいたとは限りません」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「車は無人だった?」

 

「自動で動く仕掛け、あるいは坂道を利用した無人走行です」

 

千速が県道の地形を思い出す。

 

「停まっていた場所は緩い下り坂だ。サイドブレーキを途中で外す仕掛けがあれば、無人でも動く」

 

「ガードレールの擦過痕は、その証拠です」

 

押村は静かに言った。

 

「ワゴン車は、誰かが運転して逃げたのではない。犯行後、無人で坂を下り、どこかへ消えたように見せた」

 

横溝が低く呟く。

 

「つまり、外部犯を演出したわけか」

 

「はい」

 

押村は物置の床を見る。

 

そこに、わずかな赤い繊維が落ちていた。

 

「そして、犯人はこの仕掛けを準備できる人物です」

 

千速が尋ねる。

 

「屋敷の構造を知ってる奴」

 

「はい。さらに、電気設備と車の扱いに詳しい人物」

 

横溝が容疑者リストを見る。

 

「甥の拓真。会社で設備管理部門にいたな」

 

押村は静かに言った。

 

「彼が最有力です」

 

黒崎拓真は、応接室で震えていた。

 

横溝が机にバットの写真を置く。

 

「これに見覚えは」

 

拓真は首を振る。

 

「ありません」

 

押村が静かに言う。

 

「あなたは、大学時代に自動車部に所属していましたね」

 

拓真の顔が動いた。

 

「それが何ですか」

 

「車の簡単な改造や、ワイヤーを使った固定には慣れている」

 

「そんなの、証拠にならない」

 

「そうですね」

 

押村はもう一枚、写真を置いた。

 

物置で見つかった赤い繊維。

 

「あなたのネクタイと同じ素材の繊維が、仕掛け部屋に落ちていました」

 

拓真は黙る。

 

横溝が低く言う。

 

「まだあるぞ。ワゴン車は廃車予定の会社車両だった。お前が管理を任されていた車だ」

 

「違う……」

 

拓真の声が震える。

 

「俺は殺してない」

 

押村は拓真を見た。

 

「では、誰が殺したんですか」

 

拓真は顔を上げた。

 

その視線が、一瞬だけ扉の方へ動いた。

 

押村はそれを見逃さなかった。

 

「あなたは仕掛けを作った。しかし、殴ったのは別の人物ですね」

 

横溝が目を細める。

 

「共犯がいるな」

 

拓真は唇を噛む。

 

押村は静かに続けた。

 

「黒崎宗一郎さんを殺したのは、遺言変更で最も失うものが大きい人物」

 

横溝が言う。

 

「長男か」

 

押村は首を横に振る。

 

「違います」

 

千速が応接室の入口に立っていた。

 

押村は彼女の方を見る。

 

千速は小さく頷き、手帳を開く。

 

「県道で消えたワゴン車、見つかった。屋敷から一キロ先の空き地に突っ込んでた」

 

横溝が尋ねる。

 

「無人か」

 

「ああ。運転席には誰もいない。ただ、助手席に女物の香水の匂いが残ってた」

 

応接室の空気が変わる。

 

押村は言った。

 

「後妻の玲子さんですね」

 

扉の向こうで、微かな物音がした。

 

横溝が扉を開ける。

 

そこには、黒崎玲子が立っていた。

 

顔色は変わっていない。

 

だが、目だけが冷たかった。

 

「推理ごっこは終わりましたか」

 

押村は玲子を見る。

 

「はい。終わりです」

 

玲子は微笑む。

 

「なら、証明してみてください」

 

押村は淡々と言った。

 

「あなたは午後七時より前に、黒崎宗一郎さんを物置で殺害した。おそらく、遺言の内容を知った後です」

 

玲子は黙っている。

 

「その後、甥の拓真さんに協力させた。拓真さんは借金で追い詰められていた。あなたは、遺産の一部を渡すと約束した」

 

拓真が俯く。

 

押村は続ける。

 

「拓真さんは被害者のガウンを着て、七時十分に書斎へ入る後ろ姿を見せた。停電中に物置のウインチを作動させ、遺体を仕掛けで書斎中央へ移動させた」

 

横溝が玲子を睨む。

 

「凶器のバットは?」

 

押村が答える。

 

「玲子さんが庭に捨てた。停電の直後、一階から外へ出て、あらかじめ濡らしたバットを植え込みに置いた。雨で外から投げ捨てたように見せるためです」

 

玲子は薄く笑う。

 

「面白い話ですね。でも、私は応接間にいました」

 

千速が前へ出る。

 

「停電の一分間は誰も見てない。それと、あんたの靴」

 

玲子の表情が初めて動く。

 

千速は言った。

 

「玄関横の靴箱にあった黒いパンプス。泥がついてた。庭に出たなら当然だな」

 

玲子は黙った。

 

押村は最後に言う。

 

「そして、決定的なのは香水です。ワゴン車の助手席に残っていた香り。あなたが使っているものと同じです」

 

玲子は笑った。

 

「香水なんて、誰でも使うわ」

 

「はい」

 

押村は頷く。

 

「だから、鑑識結果を待ちます。助手席のシートには、あなたのコートと同じ繊維も残っているはずです」

 

沈黙。

 

雨の音だけが聞こえた。

 

やがて、拓真が崩れるように言った。

 

「玲子さんが……言ったんです。叔父さんは俺を切り捨てるって。遺言が変わったら、俺は終わりだって……」

 

玲子が冷たく言う。

 

「黙りなさい」

 

横溝が一歩前に出る。

 

「もう遅ぇよ」

 

拓真は震えながら続けた。

 

「殺すつもりなんて……俺は仕掛けだけだって……死体を見た時には、もう……」

 

玲子は深く息を吐いた。

 

そして、押村を見た。

 

「宗一郎は、全部を秘書に渡すと言ったのよ。私たちを笑いながら。家族を試すのは楽しいかって聞いたら、あの人は言ったわ」

 

玲子の目が暗くなる。

 

「価値のない人間に残す金はない、と」

 

横溝が低く言う。

 

「だから殺したのか」

 

玲子は答えなかった。

 

それが答えだった。

 

横溝は手錠を取り出した。

 

「黒崎玲子。黒崎宗一郎殺害容疑で逮捕する」

 

玲子は抵抗しなかった。

 

拓真もまた、共犯として連行された。

 

外では、まだ雨が降っていた。

 

事件後。

 

黒崎邸の門を出る頃には、雨は小降りになっていた。

 

千速は白バイの横でヘルメットを抱えている。

 

「複雑な事件だったな」

 

押村は頷いた。

 

「犯人は、時間と場所をずらしていた」

 

横溝が面倒そうに肩を回す。

 

「死体を濡らさねぇために、あんな大掛かりな仕掛けを作るとはな」

 

千速が言う。

 

「逆だろ」

 

横溝が見る。

 

「何がだ」

 

「死体が濡れてないっていう違和感を作ったんじゃねぇ。仕掛けのせいで、死体だけ濡らせなかったんだ」

 

押村は千速を見る。

 

「その通りだ」

 

千速は少し得意げに笑う。

 

「たまには私も推理する」

 

横溝が鼻で笑う。

 

「白バイ小隊長が刑事の仕事まで取る気か」

 

「交通の視点も役に立っただろ」

 

「まあな。ワゴン車の件は助かった」

 

千速は少し驚いたように横溝を見る。

 

「素直だな、重悟」

 

「仕事中だぞ」

 

「今さらだろ」

 

押村は小さく息を吐いた。

 

千速が彼を見る。

 

「奏斗、疲れた顔してるぞ」

 

「少し」

 

「ちゃんと飯食えよ」

 

「分かった」

 

横溝がすかさず言う。

 

「俺の前で始めるな」

 

千速が顔を赤くする。

 

「始めてねぇよ!」

 

押村は真面目に言った。

 

「食事の確認です」

 

「だからそれがだな……」

 

横溝は言いかけて諦めた。

 

「もういい。帰るぞ」

 

千速は白バイにまたがる。

 

ヘルメットを被る前に、押村を見る。

 

「次の事件は、もう少し分かりやすいといいな」

 

押村は静かに答える。

 

「分かりやすい殺人は、あまりない」

 

「それもそうか」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「じゃあ、またな。奏斗」

 

「ああ、千速」

 

白バイのエンジンがかかる。

 

雨上がりの道へ、千速は走り出した。

 

押村はその背中を見送る。

 

横溝が隣でぼそっと言う。

 

「お前、現場じゃ冷静なのに、千速がいると微妙に顔が違うな」

 

押村は横溝を見る。

 

「そうですか」

 

「そうだよ」

 

「自覚はありません」

 

「だろうな」

 

横溝は煙草を取り出しかけて、雨上がりの空を見てやめた。

 

「押村」

 

「はい」

 

「この事件、まだ終わってねぇぞ」

 

押村は頷いた。

 

「分かっています」

 

黒崎宗一郎の殺害。

 

それ自体は解けた。

 

だが、押村には一つだけ気になることが残っていた。

 

犯行に使われた仕掛けは、あまりにも手際が良すぎた。

 

玲子と拓真だけで、ここまで精密に組めたのか。

 

そして、物置に残されていた図面。

 

その端には、鉛筆で小さく記号が書かれていた。

 

K-17

 

押村はその意味をまだ知らない。

 

だが、これがただの相続殺人で終わらない可能性を、静かに感じていた。

 

雨は止んだ。

 

だが、事件の奥にある影は、まだ濡れたまま残っていた。

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