神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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ちょくちょくサイドストーリー的な話を入れていこうと思います


第23話 初めての食事

黒崎邸の事件が一段落した翌日。

 

神奈川県警捜査一課の執務室は、いつも通り慌ただしかった。

 

事件そのものは解決した。

 

黒崎玲子と黒崎拓真は逮捕され、供述も始まっている。

凶器、仕掛け、ワゴン車、物置の装置。

それぞれの裏付け捜査が進められていた。

 

ただ、押村奏斗の机の上にはまだ資料が積まれていた。

 

事件が終わっても、刑事の仕事は終わらない。

 

調書。

鑑識結果。

関係者の再聴取。

送致書類。

 

押村はペンを動かしながら、時折スマホを見ていた。

 

画面には、前日の千速とのメッセージが残っている。

 

千速:ちゃんと飯食えよ。

 

押村:分かった。

 

千速:分かっただけで済ませるな。何食ったか報告しろ。

 

押村:考えておく。

 

千速:考えるな、食え。

 

押村はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

その瞬間。

 

「押村」

 

横溝重悟の声が飛んだ。

 

押村はすぐにスマホを伏せる。

 

「はい」

 

横溝は腕を組み、押村の机の前に立っていた。

 

鋭い目つき。

坊主頭。

捜査一課の警部としての迫力。

 

ただし、今の目は完全に仕事の目ではなかった。

 

「お前、さっきから何回スマホ見てんだ」

 

「必要な確認です」

 

「何の」

 

「……私用です」

 

「正直だな」

 

横溝は鼻で笑った。

 

「千速か」

 

押村は黙った。

 

横溝は勝ち誇ったように言う。

 

「図星か」

 

「否定する理由がありません」

 

「ほんと可愛げがねぇな、お前は」

 

横溝は押村の机に肘をついた。

 

「で、飯には誘ったのか」

 

押村の手が止まった。

 

「飯、ですか」

 

「あいつ、昨日言ってただろ。ちゃんと食えって」

 

「はい」

 

「なら一緒に食いに行け」

 

押村は少し考えた。

 

「それは、どういう理由で?」

 

横溝の眉間に皺が寄る。

 

「理由?」

 

「事件後の情報共有でしょうか」

 

「違ぇよ」

 

「交通部への謝礼ですか」

 

「違ぇ」

 

「では――」

 

横溝は机を軽く叩いた。

 

「デートだよ、デート」

 

その単語に、近くの刑事が反応した。

 

村上が資料を抱えたまま、ぴくっと肩を動かす。

 

「押村警部補がデート……?」

 

「聞こえてんぞ、村上」

 

「すみません!」

 

しかし、村上はまったく離れようとしない。

 

横溝は面倒くさそうに押村を見る。

 

「お前ら付き合ってんだろ」

 

「はい」

 

「なら飯に誘うくらい普通だ」

 

押村は真面目に考え込んだ。

 

「ですが、千速は勤務が不規則です。第三交機の小隊長としての業務もあります。こちらも裏付け捜査が――」

 

「言い訳が長ぇ」

 

「言い訳ではなく、調整事項です」

 

「そういうところだぞ」

 

押村は黙った。

 

横溝は少し声を落とす。

 

「押村」

 

「はい」

 

「事件が終わった後くらい、ちゃんと会っとけ」

 

押村は横溝を見る。

 

横溝は珍しく、からかう顔ではなかった。

 

「お前も千速も、すぐ仕事に戻る。戻れるのは悪いことじゃねぇ。だが、戻りすぎると大事なもんを置いてくるぞ」

 

押村は視線を落とした。

 

大事なもの。

 

千速。

 

彼女はいつも前を向く。

 

研二を失った日も、松田を失った日も、泣かずに立っていた。

事件現場でも、白バイの上でも、小隊長としても。

 

けれど、それは平気という意味ではない。

 

押村はそれを知っている。

 

そして、自分もまた仕事に逃げる癖があることを分かっていた。

 

「分かりました」

 

押村はスマホを手に取った。

 

横溝が目を細める。

 

「今誘うのか」

 

「はい」

 

「電話でか?」

 

「その方が早いので」

 

村上が小声で言う。

 

「見届けてもいいですか」

 

横溝が睨む。

 

「仕事しろ」

 

「でも押村警部補の初デートのお誘いですよ」

 

「言い方が気持ち悪い」

 

押村は二人の会話を気にせず、千速へ電話をかけた。

 

数コールでつながる。

 

『奏斗?』

 

千速の声だった。

 

少し風の音が混じっている。

 

押村は自然に姿勢を正した。

 

「今、話せるか」

 

『休憩中。どうした? また飯食ってねぇのか?』

 

「まだ食べていない」

 

『食えって言っただろ』

 

「だから連絡した」

 

『は?』

 

押村は一呼吸置いた。

 

横溝と村上が、なぜか固唾をのんで見守っている。

 

押村は静かに言った。

 

「千速。今日、仕事が終わったら一緒に食事に行かないか」

 

電話の向こうが、ぴたりと静かになった。

 

風の音だけが聞こえる。

 

押村は少し不安になる。

 

「都合が悪ければ、別の日でも――」

 

『待て』

 

「何だ」

 

『今の、もう一回言え』

 

押村は瞬きをした。

 

「今日、仕事が終わったら一緒に食事に行かないか」

 

また沈黙。

 

そして、千速の声が少しだけ低くなる。

 

『それは、飯を食う必要があるからか?』

 

押村は考えた。

 

「それもある」

 

『それも?』

 

「君と会いたいからだ」

 

横溝が片手で顔を覆った。

 

村上が声にならない悲鳴を上げた。

 

電話の向こうの千速も、しばらく何も言わなかった。

 

『……お前さ』

 

「何だ」

 

『そういうこと、急に真顔で言うな』

 

「顔は見えていない」

 

『そういう問題じゃねぇ』

 

押村は少しだけ首を傾げた。

 

「嫌だったか」

 

『嫌じゃねぇよ』

 

即答だった。

 

その声が少し照れていて、押村は胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。

 

『何食べるんだ』

 

「君は何がいい」

 

『肉』

 

「分かった」

 

『即答かよ』

 

「候補を探す」

 

『いや、店くらい私も探す』

 

「誘ったのは俺だから」

 

また電話の向こうが静かになる。

 

『……じゃあ任せる』

 

「分かった」

 

『変な高級店とかやめろよ。気を遣う』

 

「では、普通に食事ができる店にする」

 

『普通って何だよ』

 

「調べる」

 

『本当に大丈夫か?』

 

「努力する」

 

『デートの店選びを努力って言うな』

 

押村は少しだけ黙った。

 

「デート、なのか」

 

電話の向こうで、千速が息を詰まらせた気配がした。

 

『付き合ってる男女が二人で飯行くんだから、そうだろ』

 

押村は静かに頷いた。

 

「そうか」

 

『何で納得してんだ』

 

「初めてなので」

 

『……』

 

また沈黙。

 

押村は少し不安になった。

 

「千速?」

 

『今、顔赤くなったから黙ってただけだ』

 

押村は言葉に詰まった。

 

横溝が机に額をぶつけそうになっている。

 

村上は両手で口を押さえている。

 

押村は電話口に向かって、静かに言った。

 

「見たかった」

 

『馬鹿!』

 

千速の声が跳ねた。

 

『と、とにかく! 終わったら連絡する。場所送れ』

 

「分かった」

 

『あと、ちゃんと仕事終わらせてから来いよ』

 

「君も」

 

『私は終わらせる』

 

「無茶はするな」

 

『お前に言われたくねぇ』

 

いつものやり取り。

 

けれど、今日は少しだけ甘かった。

 

通話が切れる。

 

押村はスマホを置いた。

 

横溝が低く言う。

 

「押村」

 

「はい」

 

「お前、無自覚で千速を殺す気か」

 

「どういう意味ですか」

 

村上が真剣に言う。

 

「押村警部補、今のはすごかったです」

 

「何がですか」

 

「全部です」

 

押村は眉を寄せた。

 

「具体性がありません」

 

横溝はため息をついた。

 

「もういい。さっさと店探せ」

 

「はい」

 

押村はパソコンで店を探し始めた。

 

横溝はその背中を見ながら、少しだけ笑った。

 

「まったく……事件より手間がかかるな」

 

その日の夜。

 

千速は第三交機の更衣室で、鏡の前に立っていた。

 

仕事終わり。

 

制服から私服に着替えたものの、何となく落ち着かない。

 

黒の細身のパンツに、白いシャツ。

その上に短めのジャケット。

 

普段通りだ。

 

デートだからといって、急に女らしい格好をするつもりはない。

 

ないのだが。

 

「……変じゃねぇよな」

 

小さく呟いた。

 

その瞬間、背後のロッカーが開いた。

 

新井が顔を出す。

 

「小隊長、デートですか?」

 

千速は振り返る。

 

「何でいる」

 

「着替え中です」

 

「何で聞いてた」

 

「聞こえました」

 

「忘れろ」

 

新井はにこにこしている。

 

「押村警部補ですか?」

 

千速は無言で睨む。

 

新井は姿勢を正した。

 

「すみません。でも、小隊長が鏡の前で悩んでるの珍しくて」

 

「悩んでねぇ」

 

「じゃあ確認ですか?」

 

「……うるさい」

 

新井は嬉しそうに笑った。

 

「似合ってますよ」

 

千速は一瞬だけ言葉に詰まる。

 

「……聞いてねぇ」

 

「聞かれてなくても言います」

 

「調子乗るなよ」

 

「はい!」

 

新井は敬礼したあと、少しだけ真面目な顔になった。

 

「小隊長」

 

「何だ」

 

「楽しんできてください」

 

千速は目を瞬かせた。

 

新井は続ける。

 

「最近、大きな事件続きでしたし。小隊長、いつも現場では格好いいですけど、たまには普通に楽しんでもいいと思います」

 

千速は少し黙った。

 

それから、視線を逸らす。

 

「……生意気言うようになったな」

 

「小隊長の部下なので」

 

「そこは関係ねぇだろ」

 

でも、悪い気はしなかった。

 

千速はバッグを持つ。

 

「行ってくる」

 

「はい。押村警部補によろしくお伝えください」

 

「伝えねぇよ」

 

千速はそう言って更衣室を出た。

 

けれど、少しだけ歩き出す足取りは軽かった。

 

押村が選んだ店は、横浜の路地にある小さな洋食屋だった。

 

高級ではない。

騒がしすぎもしない。

カウンターとテーブル席が少しだけある、落ち着いた店。

 

千速が店の前に着くと、押村はすでに立って待っていた。

 

紺色のコート。

姿勢のいい立ち方。

 

遠目でもすぐに分かる。

 

千速は少し足を止めた。

 

仕事場以外で、こうして待ち合わせるのは不思議だった。

 

今までも二人で会うことはあった。

 

事件の後。

墓参り。

家に行った時。

差し入れを持っていった時。

 

でも、今日は違う。

 

押村が誘った。

 

二人で食事に行く。

 

初めての、ちゃんとしたデート。

 

そう思った瞬間、顔が少し熱くなる。

 

「何照れてんだ、私」

 

小さく呟いてから、千速は歩き出した。

 

押村が気づく。

 

「千速」

 

「待ったか?」

 

「少し」

 

「そこは今来たところって言う場面だろ」

 

「事実ではない」

 

「お前なあ」

 

千速は呆れながら笑った。

 

押村は彼女を見て、少しだけ黙る。

 

千速は眉を寄せる。

 

「何だ」

 

「似合ってる」

 

千速の顔が赤くなる。

 

「……何が」

 

「服が」

 

「そういうのは、もう少し自然に言え」

 

「自然に言ったつもりだ」

 

「だから困るんだよ」

 

押村は少し考える。

 

「言わない方がよかったか」

 

千速は目を逸らした。

 

「言われて嫌ではない」

 

「ならよかった」

 

「……本当に変わらねぇな」

 

千速は軽く咳払いする。

 

「で、ここか?」

 

「ああ。肉料理がある。静かで、値段も高すぎない」

 

「調べたんだな」

 

「はい」

 

「ありがとな」

 

押村は少しだけ目を伏せる。

 

「どういたしまして」

 

二人は店に入った。

 

店内は温かかった。

 

雨上がりの湿った空気から一転して、バターとデミグラスソースの香りが漂っている。

 

席に案内されると、千速はメニューを開いた。

 

「お、ハンバーグある」

 

押村が言う。

 

「肉がいいと言っていたから」

 

「お前は?」

 

「同じものにする」

 

「自分で選べ」

 

「君が美味しそうに見ていた」

 

「私基準かよ」

 

「参考にした」

 

千速は少し笑った。

 

「じゃあ、ハンバーグ二つ。あとサラダとスープな」

 

「分かった」

 

注文を終えると、少し沈黙が落ちた。

 

店の中には静かな音楽が流れている。

 

隣の席では老夫婦がゆっくり食事をしていた。

カウンターでは会社帰りらしい男性が一人でビーフシチューを食べている。

 

普通の夜。

 

事件も、無線も、サイレンもない。

 

千速はグラスの水を一口飲んだ。

 

「何か変な感じだな」

 

押村が尋ねる。

 

「何が」

 

「お前とこういう店で飯食うの」

 

「嫌か」

 

「嫌じゃねぇよ」

 

千速はすぐに答えた。

 

そして、自分で言ってから少し照れる。

 

「ただ、いつも事件とか仕事絡みだったからさ」

 

「そうだな」

 

「今日みたいに、お前から誘われるとは思わなかった」

 

押村は少し真面目な顔になる。

 

「誘いたかった」

 

千速は言葉に詰まる。

 

「……またそういうこと言う」

 

「言わない方がいいか」

 

「いや」

 

千速は視線を落とした。

 

「言ってくれた方が、嬉しい」

 

押村は黙った。

 

その沈黙が妙に恥ずかしくて、千速は慌てて話題を変える。

 

「そういや、重悟に何か言われたか?」

 

「食事に誘えと言われた」

 

「やっぱりか」

 

「横溝警部は、事件が終わった後くらいちゃんと会っておけ、と」

 

千速は少し目を細めた。

 

「重悟らしいな」

 

「はい」

 

「あいつ、口は悪いけど時々ちゃんと見てるんだよな」

 

「そうだな」

 

「そこが腹立つ」

 

押村は少しだけ笑った。

 

千速はその笑みに気づき、目を丸くする。

 

「今笑ったか?」

 

「少し」

 

「珍しい」

 

「そうか」

 

「うん。いい顔してた」

 

押村は視線を落とした。

 

今度は押村の方が少し照れた。

 

千速はそれを見て、思わず笑う。

 

「お前も照れるんだな」

 

「照れる」

 

「正直だな」

 

「隠す理由がない」

 

「いや、少しは隠せよ」

 

その時、料理が運ばれてきた。

 

熱々の鉄板に乗ったハンバーグ。

湯気とともに香ばしい匂いが立ち上がる。

 

千速の目が輝いた。

 

「うまそう」

 

押村はその表情を見て、少し安心した。

 

千速がフォークを持つ。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

二人は食べ始めた。

 

千速は一口食べて、すぐに頷いた。

 

「うまい」

 

押村も一口食べる。

 

「美味しい」

 

「よかったな、店選び成功だ」

 

「安心した」

 

「そんなに緊張してたのか?」

 

「少し」

 

千速はハンバーグを切る手を止めた。

 

「奏斗が?」

 

「はい」

 

「仕事じゃあんなに平然としてんのに?」

 

「仕事は手順がある」

 

「デートにはないって?」

 

「ない。少なくとも、俺は知らない」

 

千速は少し黙ったあと、吹き出した。

 

「真面目に言うなよ」

 

「本当だから」

 

「じゃあ教えてやる」

 

押村が顔を上げる。

 

「何を」

 

「デートの手順」

 

千速は少し得意げに言った。

 

「まず、ちゃんと飯を食う」

 

「はい」

 

「相手の話を聞く」

 

「はい」

 

「無理に格好つけない」

 

「分かった」

 

「それから」

 

千速は少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。

 

「一緒にいて楽しいと思ったら、それで成功」

 

押村はしばらく千速を見つめた。

 

「なら、今のところ成功している」

 

千速の顔が赤くなる。

 

「だから早ぇんだよ、そういうのが」

 

「でも、楽しい」

 

「……私もだよ」

 

千速は小さく言って、ハンバーグを口に運んだ。

 

押村はそれ以上何も言わなかった。

 

ただ、その言葉を大事にしまうように、静かに食事を続けた。

 

食事の途中、話題は警察学校時代のことになった。

 

「覚えてるか? 奏斗が初めて千速って呼んだ日」

 

押村は頷く。

 

「君が白バイ隊員になり、俺が捜査一課に配属された日だ」

 

「よく覚えてんな」

 

「忘れない」

 

「お前、そういうの本当に覚えてるよな」

 

「大事なことだから」

 

千速は照れ隠しに水を飲む。

 

「私は、あの日びっくりした」

 

「そう見えた」

 

「そりゃそうだろ。三年ずっと萩原だったやつが、急に千速って呼ぶんだから」

 

「呼びたいと思った」

 

「何で?」

 

押村は少し考えた。

 

「君が白バイに乗って走っていくのを見て、萩原では少し遠いと思った」

 

千速の手が止まる。

 

「……そんなこと思ってたのか」

 

「ああ」

 

「その時言えよ」

 

「当時は言葉にできなかった」

 

千速は少しだけ視線を落とした。

 

「そっか」

 

押村が尋ねる。

 

「君はなぜ、警察学校の頃に俺を奏斗と呼ぶようになった?」

 

千速はむせそうになった。

 

「今聞くか?」

 

「前に、呼びやすいからと言っていた」

 

「それは建前だ」

 

「そうなのか」

 

「押村より奏斗の方が長いしな」

 

「気づいていた」

 

「じゃあ突っ込めよ」

 

押村は静かに待つ。

 

千速は少しだけ口元を尖らせた。

 

「……苗字だと、遠いと思ったんだよ」

 

押村は目を上げる。

 

千速は続けた。

 

「他の同期と同じ距離じゃ嫌だった。別にその時は恋愛とかじゃなくて……ただ、奏斗は私にとって少し違ってた」

 

押村は黙って聞いていた。

 

千速の声は少し小さくなる。

 

「勉強教えてくれて、走る時は一緒に最後まで走って、私が落ち込んでる時に変な理屈で励ましてくれて」

 

「変だったか」

 

「変だった。でも効いた」

 

千速は押村を見る。

 

「だから、名前で呼びたくなった」

 

押村はしばらく黙っていた。

 

そして、静かに言った。

 

「嬉しい」

 

千速は少し照れる。

 

「今さらだろ」

 

「今だから分かる」

 

「何が」

 

「君が距離を縮めようとしてくれていたこと」

 

千速は目を逸らした。

 

「気づくの遅ぇよ」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

二人は少しだけ笑った。

 

料理はすっかり減っていた。

 

千速は最後の一口を食べ終え、満足そうに息を吐いた。

 

「うまかった」

 

「よかった」

 

「奏斗もちゃんと食べたな」

 

「はい」

 

「よし」

 

千速はまるで部下を褒めるように頷いた。

 

押村は少し困ったように言う。

 

「俺は小隊の部下ではない」

 

「似たようなもんだろ」

 

「そうだろうか」

 

「食生活に関してはな」

 

「否定できない」

 

店を出ると、夜風が少し冷たかった。

 

雨は完全に上がっていて、路面には街灯が反射している。

 

千速は空を見上げた。

 

「晴れたな」

 

「そうだな」

 

「少し歩くか」

 

押村は頷く。

 

「歩こう」

 

二人は横浜の夜道を並んで歩いた。

 

人通りは多すぎず、少なすぎない。

 

千速はジャケットのポケットに手を入れていたが、少し歩いたところで、押村の手が隣にあることに気づいた。

 

つなぐか。

 

どうするか。

 

いや、付き合っているのだから別におかしくない。

 

だが、外だ。

 

とはいえ、仕事中ではない。

 

千速がそんなことを考えていると、押村が静かに言った。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「手をつないでもいいか」

 

千速は足を止めかけた。

 

「……聞くなよ」

 

「聞いた方がいいと思った」

 

「そうだけど」

 

千速は少し赤くなりながら、手を差し出した。

 

「いい」

 

押村はその手を取った。

 

指先が触れ、ゆっくりと手が重なる。

 

千速の手は、白バイのハンドルを握る手だった。

 

強くて、少し硬い。

けれど、温かい。

 

押村はその手を大切に握った。

 

千速はしばらく黙って歩いた。

 

やがて、小さく言う。

 

「初デートっぽいな」

 

「今までは違ったのか」

 

「墓参りとか事件後の飯は、ちょっと違うだろ」

 

「そうか」

 

「今日は、ちゃんとデートだ」

 

押村はその言葉を噛みしめるように頷いた。

 

「覚えておく」

 

千速は笑った。

 

「いちいち記録すんな」

 

「大事なことだから」

 

「またそれか」

 

でも、嫌ではなかった。

 

夜道を歩きながら、千速はふと思った。

 

研二が生きていたら、絶対にからかっただろう。

 

姉ちゃん、初デートで手ぇつないでるの?

 

松田が生きていたら、きっと煙草をくわえながら鼻で笑っただろう。

 

押村、千速泣かせたら許さねぇぞ。

 

その声はもうない。

 

けれど、今日は不思議と苦しくなかった。

 

隣に奏斗がいるからだ。

 

千速はつないだ手に少し力を込めた。

 

押村が見る。

 

「どうした」

 

「何でもねぇ」

 

「そうか」

 

「ただ」

 

千速は少しだけ照れながら言った。

 

「今日、誘ってくれてよかった」

 

押村の表情が柔らかくなる。

 

「俺も、誘ってよかった」

 

「次は私が店選ぶ」

 

「分かった」

 

「肉以外も食べるぞ」

 

「はい」

 

「あと、デートの手順その二」

 

「何だ」

 

千速は少し考え、笑った。

 

「次の約束をする」

 

押村は足を止めた。

 

千速も止まる。

 

夜の街灯の下で、押村は真っ直ぐに千速を見た。

 

「では、次も一緒に食事に行きたい」

 

千速は赤くなりながらも、目を逸らさなかった。

 

「いいぞ」

 

「ありがとう」

 

「礼を言うな」

 

「嬉しいから」

 

「……ほんと、ずるい」

 

千速はそう言って、少しだけ押村の肩に自分の肩をぶつけた。

 

押村は驚いたように瞬きしたあと、小さく笑った。

 

二人はまた歩き出す。

 

事件の影も、過去の傷も、明日の仕事も消えはしない。

 

けれど、この夜だけは。

 

ただ、二人で同じものを食べ、同じ道を歩き、同じ次の約束をした。

 

押村奏斗が萩原千速を誘った、初めての食事デート。

 

それは派手でも劇的でもなかった。

 

けれど、二人にとっては十分すぎるほど特別な夜だった。

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