黒崎邸の事件が一段落した翌日。
神奈川県警捜査一課の執務室は、いつも通り慌ただしかった。
事件そのものは解決した。
黒崎玲子と黒崎拓真は逮捕され、供述も始まっている。
凶器、仕掛け、ワゴン車、物置の装置。
それぞれの裏付け捜査が進められていた。
ただ、押村奏斗の机の上にはまだ資料が積まれていた。
事件が終わっても、刑事の仕事は終わらない。
調書。
鑑識結果。
関係者の再聴取。
送致書類。
押村はペンを動かしながら、時折スマホを見ていた。
画面には、前日の千速とのメッセージが残っている。
千速:ちゃんと飯食えよ。
押村:分かった。
千速:分かっただけで済ませるな。何食ったか報告しろ。
押村:考えておく。
千速:考えるな、食え。
押村はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その瞬間。
「押村」
横溝重悟の声が飛んだ。
押村はすぐにスマホを伏せる。
「はい」
横溝は腕を組み、押村の机の前に立っていた。
鋭い目つき。
坊主頭。
捜査一課の警部としての迫力。
ただし、今の目は完全に仕事の目ではなかった。
「お前、さっきから何回スマホ見てんだ」
「必要な確認です」
「何の」
「……私用です」
「正直だな」
横溝は鼻で笑った。
「千速か」
押村は黙った。
横溝は勝ち誇ったように言う。
「図星か」
「否定する理由がありません」
「ほんと可愛げがねぇな、お前は」
横溝は押村の机に肘をついた。
「で、飯には誘ったのか」
押村の手が止まった。
「飯、ですか」
「あいつ、昨日言ってただろ。ちゃんと食えって」
「はい」
「なら一緒に食いに行け」
押村は少し考えた。
「それは、どういう理由で?」
横溝の眉間に皺が寄る。
「理由?」
「事件後の情報共有でしょうか」
「違ぇよ」
「交通部への謝礼ですか」
「違ぇ」
「では――」
横溝は机を軽く叩いた。
「デートだよ、デート」
その単語に、近くの刑事が反応した。
村上が資料を抱えたまま、ぴくっと肩を動かす。
「押村警部補がデート……?」
「聞こえてんぞ、村上」
「すみません!」
しかし、村上はまったく離れようとしない。
横溝は面倒くさそうに押村を見る。
「お前ら付き合ってんだろ」
「はい」
「なら飯に誘うくらい普通だ」
押村は真面目に考え込んだ。
「ですが、千速は勤務が不規則です。第三交機の小隊長としての業務もあります。こちらも裏付け捜査が――」
「言い訳が長ぇ」
「言い訳ではなく、調整事項です」
「そういうところだぞ」
押村は黙った。
横溝は少し声を落とす。
「押村」
「はい」
「事件が終わった後くらい、ちゃんと会っとけ」
押村は横溝を見る。
横溝は珍しく、からかう顔ではなかった。
「お前も千速も、すぐ仕事に戻る。戻れるのは悪いことじゃねぇ。だが、戻りすぎると大事なもんを置いてくるぞ」
押村は視線を落とした。
大事なもの。
千速。
彼女はいつも前を向く。
研二を失った日も、松田を失った日も、泣かずに立っていた。
事件現場でも、白バイの上でも、小隊長としても。
けれど、それは平気という意味ではない。
押村はそれを知っている。
そして、自分もまた仕事に逃げる癖があることを分かっていた。
「分かりました」
押村はスマホを手に取った。
横溝が目を細める。
「今誘うのか」
「はい」
「電話でか?」
「その方が早いので」
村上が小声で言う。
「見届けてもいいですか」
横溝が睨む。
「仕事しろ」
「でも押村警部補の初デートのお誘いですよ」
「言い方が気持ち悪い」
押村は二人の会話を気にせず、千速へ電話をかけた。
数コールでつながる。
『奏斗?』
千速の声だった。
少し風の音が混じっている。
押村は自然に姿勢を正した。
「今、話せるか」
『休憩中。どうした? また飯食ってねぇのか?』
「まだ食べていない」
『食えって言っただろ』
「だから連絡した」
『は?』
押村は一呼吸置いた。
横溝と村上が、なぜか固唾をのんで見守っている。
押村は静かに言った。
「千速。今日、仕事が終わったら一緒に食事に行かないか」
電話の向こうが、ぴたりと静かになった。
風の音だけが聞こえる。
押村は少し不安になる。
「都合が悪ければ、別の日でも――」
『待て』
「何だ」
『今の、もう一回言え』
押村は瞬きをした。
「今日、仕事が終わったら一緒に食事に行かないか」
また沈黙。
そして、千速の声が少しだけ低くなる。
『それは、飯を食う必要があるからか?』
押村は考えた。
「それもある」
『それも?』
「君と会いたいからだ」
横溝が片手で顔を覆った。
村上が声にならない悲鳴を上げた。
電話の向こうの千速も、しばらく何も言わなかった。
『……お前さ』
「何だ」
『そういうこと、急に真顔で言うな』
「顔は見えていない」
『そういう問題じゃねぇ』
押村は少しだけ首を傾げた。
「嫌だったか」
『嫌じゃねぇよ』
即答だった。
その声が少し照れていて、押村は胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
『何食べるんだ』
「君は何がいい」
『肉』
「分かった」
『即答かよ』
「候補を探す」
『いや、店くらい私も探す』
「誘ったのは俺だから」
また電話の向こうが静かになる。
『……じゃあ任せる』
「分かった」
『変な高級店とかやめろよ。気を遣う』
「では、普通に食事ができる店にする」
『普通って何だよ』
「調べる」
『本当に大丈夫か?』
「努力する」
『デートの店選びを努力って言うな』
押村は少しだけ黙った。
「デート、なのか」
電話の向こうで、千速が息を詰まらせた気配がした。
『付き合ってる男女が二人で飯行くんだから、そうだろ』
押村は静かに頷いた。
「そうか」
『何で納得してんだ』
「初めてなので」
『……』
また沈黙。
押村は少し不安になった。
「千速?」
『今、顔赤くなったから黙ってただけだ』
押村は言葉に詰まった。
横溝が机に額をぶつけそうになっている。
村上は両手で口を押さえている。
押村は電話口に向かって、静かに言った。
「見たかった」
『馬鹿!』
千速の声が跳ねた。
『と、とにかく! 終わったら連絡する。場所送れ』
「分かった」
『あと、ちゃんと仕事終わらせてから来いよ』
「君も」
『私は終わらせる』
「無茶はするな」
『お前に言われたくねぇ』
いつものやり取り。
けれど、今日は少しだけ甘かった。
通話が切れる。
押村はスマホを置いた。
横溝が低く言う。
「押村」
「はい」
「お前、無自覚で千速を殺す気か」
「どういう意味ですか」
村上が真剣に言う。
「押村警部補、今のはすごかったです」
「何がですか」
「全部です」
押村は眉を寄せた。
「具体性がありません」
横溝はため息をついた。
「もういい。さっさと店探せ」
「はい」
押村はパソコンで店を探し始めた。
横溝はその背中を見ながら、少しだけ笑った。
「まったく……事件より手間がかかるな」
その日の夜。
千速は第三交機の更衣室で、鏡の前に立っていた。
仕事終わり。
制服から私服に着替えたものの、何となく落ち着かない。
黒の細身のパンツに、白いシャツ。
その上に短めのジャケット。
普段通りだ。
デートだからといって、急に女らしい格好をするつもりはない。
ないのだが。
「……変じゃねぇよな」
小さく呟いた。
その瞬間、背後のロッカーが開いた。
新井が顔を出す。
「小隊長、デートですか?」
千速は振り返る。
「何でいる」
「着替え中です」
「何で聞いてた」
「聞こえました」
「忘れろ」
新井はにこにこしている。
「押村警部補ですか?」
千速は無言で睨む。
新井は姿勢を正した。
「すみません。でも、小隊長が鏡の前で悩んでるの珍しくて」
「悩んでねぇ」
「じゃあ確認ですか?」
「……うるさい」
新井は嬉しそうに笑った。
「似合ってますよ」
千速は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……聞いてねぇ」
「聞かれてなくても言います」
「調子乗るなよ」
「はい!」
新井は敬礼したあと、少しだけ真面目な顔になった。
「小隊長」
「何だ」
「楽しんできてください」
千速は目を瞬かせた。
新井は続ける。
「最近、大きな事件続きでしたし。小隊長、いつも現場では格好いいですけど、たまには普通に楽しんでもいいと思います」
千速は少し黙った。
それから、視線を逸らす。
「……生意気言うようになったな」
「小隊長の部下なので」
「そこは関係ねぇだろ」
でも、悪い気はしなかった。
千速はバッグを持つ。
「行ってくる」
「はい。押村警部補によろしくお伝えください」
「伝えねぇよ」
千速はそう言って更衣室を出た。
けれど、少しだけ歩き出す足取りは軽かった。
押村が選んだ店は、横浜の路地にある小さな洋食屋だった。
高級ではない。
騒がしすぎもしない。
カウンターとテーブル席が少しだけある、落ち着いた店。
千速が店の前に着くと、押村はすでに立って待っていた。
紺色のコート。
姿勢のいい立ち方。
遠目でもすぐに分かる。
千速は少し足を止めた。
仕事場以外で、こうして待ち合わせるのは不思議だった。
今までも二人で会うことはあった。
事件の後。
墓参り。
家に行った時。
差し入れを持っていった時。
でも、今日は違う。
押村が誘った。
二人で食事に行く。
初めての、ちゃんとしたデート。
そう思った瞬間、顔が少し熱くなる。
「何照れてんだ、私」
小さく呟いてから、千速は歩き出した。
押村が気づく。
「千速」
「待ったか?」
「少し」
「そこは今来たところって言う場面だろ」
「事実ではない」
「お前なあ」
千速は呆れながら笑った。
押村は彼女を見て、少しだけ黙る。
千速は眉を寄せる。
「何だ」
「似合ってる」
千速の顔が赤くなる。
「……何が」
「服が」
「そういうのは、もう少し自然に言え」
「自然に言ったつもりだ」
「だから困るんだよ」
押村は少し考える。
「言わない方がよかったか」
千速は目を逸らした。
「言われて嫌ではない」
「ならよかった」
「……本当に変わらねぇな」
千速は軽く咳払いする。
「で、ここか?」
「ああ。肉料理がある。静かで、値段も高すぎない」
「調べたんだな」
「はい」
「ありがとな」
押村は少しだけ目を伏せる。
「どういたしまして」
二人は店に入った。
店内は温かかった。
雨上がりの湿った空気から一転して、バターとデミグラスソースの香りが漂っている。
席に案内されると、千速はメニューを開いた。
「お、ハンバーグある」
押村が言う。
「肉がいいと言っていたから」
「お前は?」
「同じものにする」
「自分で選べ」
「君が美味しそうに見ていた」
「私基準かよ」
「参考にした」
千速は少し笑った。
「じゃあ、ハンバーグ二つ。あとサラダとスープな」
「分かった」
注文を終えると、少し沈黙が落ちた。
店の中には静かな音楽が流れている。
隣の席では老夫婦がゆっくり食事をしていた。
カウンターでは会社帰りらしい男性が一人でビーフシチューを食べている。
普通の夜。
事件も、無線も、サイレンもない。
千速はグラスの水を一口飲んだ。
「何か変な感じだな」
押村が尋ねる。
「何が」
「お前とこういう店で飯食うの」
「嫌か」
「嫌じゃねぇよ」
千速はすぐに答えた。
そして、自分で言ってから少し照れる。
「ただ、いつも事件とか仕事絡みだったからさ」
「そうだな」
「今日みたいに、お前から誘われるとは思わなかった」
押村は少し真面目な顔になる。
「誘いたかった」
千速は言葉に詰まる。
「……またそういうこと言う」
「言わない方がいいか」
「いや」
千速は視線を落とした。
「言ってくれた方が、嬉しい」
押村は黙った。
その沈黙が妙に恥ずかしくて、千速は慌てて話題を変える。
「そういや、重悟に何か言われたか?」
「食事に誘えと言われた」
「やっぱりか」
「横溝警部は、事件が終わった後くらいちゃんと会っておけ、と」
千速は少し目を細めた。
「重悟らしいな」
「はい」
「あいつ、口は悪いけど時々ちゃんと見てるんだよな」
「そうだな」
「そこが腹立つ」
押村は少しだけ笑った。
千速はその笑みに気づき、目を丸くする。
「今笑ったか?」
「少し」
「珍しい」
「そうか」
「うん。いい顔してた」
押村は視線を落とした。
今度は押村の方が少し照れた。
千速はそれを見て、思わず笑う。
「お前も照れるんだな」
「照れる」
「正直だな」
「隠す理由がない」
「いや、少しは隠せよ」
その時、料理が運ばれてきた。
熱々の鉄板に乗ったハンバーグ。
湯気とともに香ばしい匂いが立ち上がる。
千速の目が輝いた。
「うまそう」
押村はその表情を見て、少し安心した。
千速がフォークを持つ。
「いただきます」
「いただきます」
二人は食べ始めた。
千速は一口食べて、すぐに頷いた。
「うまい」
押村も一口食べる。
「美味しい」
「よかったな、店選び成功だ」
「安心した」
「そんなに緊張してたのか?」
「少し」
千速はハンバーグを切る手を止めた。
「奏斗が?」
「はい」
「仕事じゃあんなに平然としてんのに?」
「仕事は手順がある」
「デートにはないって?」
「ない。少なくとも、俺は知らない」
千速は少し黙ったあと、吹き出した。
「真面目に言うなよ」
「本当だから」
「じゃあ教えてやる」
押村が顔を上げる。
「何を」
「デートの手順」
千速は少し得意げに言った。
「まず、ちゃんと飯を食う」
「はい」
「相手の話を聞く」
「はい」
「無理に格好つけない」
「分かった」
「それから」
千速は少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。
「一緒にいて楽しいと思ったら、それで成功」
押村はしばらく千速を見つめた。
「なら、今のところ成功している」
千速の顔が赤くなる。
「だから早ぇんだよ、そういうのが」
「でも、楽しい」
「……私もだよ」
千速は小さく言って、ハンバーグを口に運んだ。
押村はそれ以上何も言わなかった。
ただ、その言葉を大事にしまうように、静かに食事を続けた。
食事の途中、話題は警察学校時代のことになった。
「覚えてるか? 奏斗が初めて千速って呼んだ日」
押村は頷く。
「君が白バイ隊員になり、俺が捜査一課に配属された日だ」
「よく覚えてんな」
「忘れない」
「お前、そういうの本当に覚えてるよな」
「大事なことだから」
千速は照れ隠しに水を飲む。
「私は、あの日びっくりした」
「そう見えた」
「そりゃそうだろ。三年ずっと萩原だったやつが、急に千速って呼ぶんだから」
「呼びたいと思った」
「何で?」
押村は少し考えた。
「君が白バイに乗って走っていくのを見て、萩原では少し遠いと思った」
千速の手が止まる。
「……そんなこと思ってたのか」
「ああ」
「その時言えよ」
「当時は言葉にできなかった」
千速は少しだけ視線を落とした。
「そっか」
押村が尋ねる。
「君はなぜ、警察学校の頃に俺を奏斗と呼ぶようになった?」
千速はむせそうになった。
「今聞くか?」
「前に、呼びやすいからと言っていた」
「それは建前だ」
「そうなのか」
「押村より奏斗の方が長いしな」
「気づいていた」
「じゃあ突っ込めよ」
押村は静かに待つ。
千速は少しだけ口元を尖らせた。
「……苗字だと、遠いと思ったんだよ」
押村は目を上げる。
千速は続けた。
「他の同期と同じ距離じゃ嫌だった。別にその時は恋愛とかじゃなくて……ただ、奏斗は私にとって少し違ってた」
押村は黙って聞いていた。
千速の声は少し小さくなる。
「勉強教えてくれて、走る時は一緒に最後まで走って、私が落ち込んでる時に変な理屈で励ましてくれて」
「変だったか」
「変だった。でも効いた」
千速は押村を見る。
「だから、名前で呼びたくなった」
押村はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「嬉しい」
千速は少し照れる。
「今さらだろ」
「今だから分かる」
「何が」
「君が距離を縮めようとしてくれていたこと」
千速は目を逸らした。
「気づくの遅ぇよ」
「すまない」
「謝るな」
二人は少しだけ笑った。
料理はすっかり減っていた。
千速は最後の一口を食べ終え、満足そうに息を吐いた。
「うまかった」
「よかった」
「奏斗もちゃんと食べたな」
「はい」
「よし」
千速はまるで部下を褒めるように頷いた。
押村は少し困ったように言う。
「俺は小隊の部下ではない」
「似たようなもんだろ」
「そうだろうか」
「食生活に関してはな」
「否定できない」
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
雨は完全に上がっていて、路面には街灯が反射している。
千速は空を見上げた。
「晴れたな」
「そうだな」
「少し歩くか」
押村は頷く。
「歩こう」
二人は横浜の夜道を並んで歩いた。
人通りは多すぎず、少なすぎない。
千速はジャケットのポケットに手を入れていたが、少し歩いたところで、押村の手が隣にあることに気づいた。
つなぐか。
どうするか。
いや、付き合っているのだから別におかしくない。
だが、外だ。
とはいえ、仕事中ではない。
千速がそんなことを考えていると、押村が静かに言った。
「千速」
「何だ」
「手をつないでもいいか」
千速は足を止めかけた。
「……聞くなよ」
「聞いた方がいいと思った」
「そうだけど」
千速は少し赤くなりながら、手を差し出した。
「いい」
押村はその手を取った。
指先が触れ、ゆっくりと手が重なる。
千速の手は、白バイのハンドルを握る手だった。
強くて、少し硬い。
けれど、温かい。
押村はその手を大切に握った。
千速はしばらく黙って歩いた。
やがて、小さく言う。
「初デートっぽいな」
「今までは違ったのか」
「墓参りとか事件後の飯は、ちょっと違うだろ」
「そうか」
「今日は、ちゃんとデートだ」
押村はその言葉を噛みしめるように頷いた。
「覚えておく」
千速は笑った。
「いちいち記録すんな」
「大事なことだから」
「またそれか」
でも、嫌ではなかった。
夜道を歩きながら、千速はふと思った。
研二が生きていたら、絶対にからかっただろう。
姉ちゃん、初デートで手ぇつないでるの?
松田が生きていたら、きっと煙草をくわえながら鼻で笑っただろう。
押村、千速泣かせたら許さねぇぞ。
その声はもうない。
けれど、今日は不思議と苦しくなかった。
隣に奏斗がいるからだ。
千速はつないだ手に少し力を込めた。
押村が見る。
「どうした」
「何でもねぇ」
「そうか」
「ただ」
千速は少しだけ照れながら言った。
「今日、誘ってくれてよかった」
押村の表情が柔らかくなる。
「俺も、誘ってよかった」
「次は私が店選ぶ」
「分かった」
「肉以外も食べるぞ」
「はい」
「あと、デートの手順その二」
「何だ」
千速は少し考え、笑った。
「次の約束をする」
押村は足を止めた。
千速も止まる。
夜の街灯の下で、押村は真っ直ぐに千速を見た。
「では、次も一緒に食事に行きたい」
千速は赤くなりながらも、目を逸らさなかった。
「いいぞ」
「ありがとう」
「礼を言うな」
「嬉しいから」
「……ほんと、ずるい」
千速はそう言って、少しだけ押村の肩に自分の肩をぶつけた。
押村は驚いたように瞬きしたあと、小さく笑った。
二人はまた歩き出す。
事件の影も、過去の傷も、明日の仕事も消えはしない。
けれど、この夜だけは。
ただ、二人で同じものを食べ、同じ道を歩き、同じ次の約束をした。
押村奏斗が萩原千速を誘った、初めての食事デート。
それは派手でも劇的でもなかった。
けれど、二人にとっては十分すぎるほど特別な夜だった。