神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第27話 第十九案の影

風見台の夜から、三日が経った。

 

神奈川県警捜査一課の会議室には、二つの事件の資料が並んでいた。

 

一つ目は、黒崎邸。

 

資産家・黒崎宗一郎が殺害された事件。

雨の夜、二階書斎、濡れない死体。

そして地下室から見つかった、殺人計画のノート。

 

K-17 黒崎邸・雨天密室型

 

二つ目は、風見台。

 

黒崎宗一郎の長女・黒崎美怜が呼び出され、灯台跡で何者かに襲われかけた事件。

崖沿いの県道には細工されたガードレール。

油の撒かれた路面。

焼却された白い軽トラック。

 

そこから見つかった金属プレート。

 

K-18

 

第十八案は未完成に終わった。

 

黒崎美怜は生きている。

 

それは確かな成果だった。

 

だが、押村奏斗の表情は晴れなかった。

 

ホワイトボードには、横溝重悟の荒い字で大きく書かれている。

 

Kシリーズ

割れた羽

玖城怜司

第十七案/第十八案

次はあるのか

 

横溝は腕を組み、会議室の前に立っていた。

 

「整理するぞ」

 

低い声が室内に響く。

 

「K-17は黒崎邸で実行された。実行犯は黒崎玲子と黒崎拓真。ただし、黒崎玲子は匿名の電話で地下室のノートの存在を知らされた」

 

刑事たちがメモを取る。

 

横溝は続けた。

 

「K-18は風見台。黒崎美怜が封筒で呼び出され、現場には転落事故を装う仕掛けがあった。だが、美怜は殺されずに済んだ」

 

押村が静かに口を開く。

 

「風見台の犯人は、設計者本人ではない可能性があります」

 

横溝が振り向く。

 

「黒いレインコートの奴か」

 

「はい」

 

押村は資料を一枚持ち上げた。

 

「黒崎美怜に届いた文面には、『あなたは第十八案の証人になる』とありました。殺す対象ではなく、何かを見せる対象だったと考えられます」

 

村上が眉を寄せる。

 

「でも、実際には突き落とされかけましたよね」

 

「はい。だから、設計者の意図と、現場で動いた人物の行動がずれています」

 

横溝が低く唸る。

 

「設計者と実行犯が別。しかも実行犯は勝手に殺そうとした」

 

「その可能性があります」

 

会議室の端に座っていた萩原千速が、腕を組んだまま言った。

 

「だとしたら厄介だな」

 

全員の視線が千速へ向く。

 

交通部・第三交通機動隊小隊長。

本来なら捜査会議にいる立場ではない。

 

だが、今回の事件では、黒い車両の逃走経路、風見台の道路細工、ガードレールの不審点を見つけたのは千速だった。

 

横溝はもう何も言わなくなっていた。

 

千速は続ける。

 

「設計者は事件を作る。実行犯はそれを利用して誰かを殺そうとする。二重に歪んでる」

 

押村は頷いた。

 

「そうだ」

 

「じゃあ、次があるなら、同じことが起きるかもしれねぇ。設計者の予定とは違う形で」

 

横溝が舌打ちした。

 

「つまり、犯人側も一枚岩じゃねぇってことか」

 

「はい」

 

押村はホワイトボードを見る。

 

「そして、もう一つ気になることがあります」

 

「何だ」

 

「なぜ番号が十七から始まっているのか」

 

会議室が静かになった。

 

押村は続けた。

 

「K-17、K-18。もしこれが連続した殺人設計図なら、K-1からK-16も存在するはずです」

 

村上が小さく呟く。

 

「過去にも事件が……?」

 

「可能性はあります」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「未解決事件を洗え。過去二十年、県内外問わず、不自然な密室、事故偽装、過剰に凝ったトリックがある事件だ」

 

村上がすぐに頷く。

 

「はい!」

 

押村はもう一枚の資料を机に置いた。

 

「それと、玖城怜司についてですが」

 

横溝が顔を向ける。

 

「出たか」

 

「三十五年前、横浜の私立大学に在籍。犯罪心理学と推理小説研究の自主サークルに所属していました。黒崎宗一郎とも同時期に同じサークルにいた記録があります」

 

千速が眉を寄せる。

 

「今どこにいる?」

 

「不明です」

 

「不明?」

 

「二十年前に失踪しています」

 

会議室の空気が変わった。

 

横溝が低く言う。

 

「失踪者か」

 

「はい。戸籍上は生存。死亡届は出ていません。ただし、住民票は職権消除。家族とも連絡が途絶えています」

 

千速が言った。

 

「二十年前って、そのKノートが作られた頃か?」

 

「時期は重なります」

 

押村はノートのコピーを見た。

 

「玖城怜司がノートを書いた人物だとすれば、失踪前後にKシリーズを残したことになります」

 

横溝が腕を組む。

 

「だが、今動いてる奴は別人の可能性が高いな。二十年前に消えた男が、今になって黒い車でうろついてるとは限らねぇ」

 

「はい」

 

押村は静かに言った。

 

「誰かが玖城怜司の遺した設計図を使っている」

 

千速が低く呟く。

 

「死人か幽霊の名前で、人を殺してるってわけか」

 

押村は小さく頷く。

 

「そして、その人物は黒崎家だけではなく、玖城怜司の過去にも詳しい」

 

横溝はホワイトボードに新しく書いた。

 

玖城怜司の関係者

 

「押村、千速」

 

「はい」

 

「何だ」

 

横溝は二人を見る。

 

「玖城怜司の足取りを追う。黒崎宗一郎の古い交友関係、大学時代のサークル、失踪前の居場所。全部洗うぞ」

 

押村は頷いた。

 

「分かりました」

 

千速も立ち上がる。

 

「私は道路側から追う。風見台の軽トラがどこから来たか、もう少し絞れるはずだ」

 

横溝が苦い顔をした。

 

「お前、完全に捜査に混ざってんな」

 

「役に立ってるだろ」

 

「……否定はしねぇ」

 

千速は少し得意そうに笑った。

 

押村はそんな千速を見ていた。

 

その視線に気づき、千速が目を細める。

 

「何だよ」

 

「頼もしいと思った」

 

「仕事中にそういうこと言うな」

 

横溝が大きくため息をついた。

 

「頼むから俺の前でやるな」

 

玖城怜司の名前を追って、押村と横溝は古い大学資料館を訪ねた。

 

横浜市内にある私立大学。

 

春休み前のキャンパスは静かだった。

 

資料館の奥で、古い学生名簿とサークル記録を閲覧する。

 

担当職員は、埃をかぶった箱を机に置いた。

 

「三十五年前の自主サークル記録です。正式な部活動ではなかったので、残っている資料は少ないですが」

 

押村は礼を言う。

 

「ありがとうございます」

 

横溝は箱の中を覗き込む。

 

「犯罪心理研究会……名前からしてろくでもねぇ」

 

押村は一冊のファイルを開いた。

 

そこには、当時のサークル紹介文が残っていた。

 

犯罪心理研究会

犯罪者の心理、推理小説の構造、現実事件における論理性を研究する。

 

部員一覧。

 

黒崎宗一郎。

玖城怜司。

鳥羽悠介。

水原真紀。

榊亮三。

 

押村は名前を一つずつメモした。

 

横溝が隣から覗く。

 

「鳥羽、水原、榊……こいつらを洗うか」

 

「はい」

 

ページをめくると、サークルの集合写真があった。

 

古い写真。

 

学生たちが芝生の上で並んでいる。

 

その中央に、若い黒崎宗一郎らしき男。

 

その隣に、痩せた青年。

 

鋭い目。

整った顔立ち。

口元だけが妙に冷たい。

 

裏に名前が書かれていた。

 

玖城怜司

 

押村は写真をじっと見た。

 

「この人が……」

 

横溝が低く言う。

 

「見た目からして面倒くさそうな男だな」

 

押村は写真をさらに見る。

 

玖城怜司の胸元。

 

そこに小さなバッジがついていた。

 

鳥の羽のような形。

 

ただし、割れてはいない。

 

完全な羽。

 

押村の目が鋭くなった。

 

「横溝警部」

 

「見えてる」

 

横溝も同じ箇所を見ていた。

 

「割れた羽の元か」

 

押村は写真を撮影した。

 

「おそらく」

 

さらに資料をめくる。

 

サークルの活動記録の中に、気になる記述があった。

 

第十七回研究発表

発表者:玖城怜司

題目:殺意の誘導と物語構造

 

押村は指を止めた。

 

横溝がその文字を読む。

 

「殺意の誘導……」

 

「黒崎玲子の事件と同じ言葉です」

 

次のページ。

 

第十八回研究発表

発表者:玖城怜司

題目:証人を用いた事故偽装の破綻

 

押村の手が止まった。

 

「風見台と一致します」

 

横溝の声が低くなる。

 

「第十七案、第十八案は、こいつの学生時代の研究発表が元か」

 

押村はページをめくる。

 

第十九回研究発表。

 

しかし、その欄だけが破られていた。

 

題目が分からない。

 

横溝が顔をしかめる。

 

「誰かが抜き取ってやがる」

 

押村は破れた跡を指でなぞった。

 

古い破れではない。

 

紙の白さがまだ新しい。

 

「最近です」

 

横溝の表情が変わる。

 

「誰かが俺たちより先に来てる」

 

押村は職員を呼んだ。

 

「この資料を最近閲覧した人物はいますか」

 

職員は記録を確認する。

 

「一週間ほど前に、お一人います」

 

「名前は」

 

「閲覧申請書では……鳥羽遥」

 

押村が眉を動かす。

 

「鳥羽?」

 

「はい。鳥羽悠介氏の親族と記載されています」

 

横溝が押村を見る。

 

「鳥羽悠介は、当時のサークル員だったな」

 

「はい」

 

「その鳥羽悠介は今どこにいる」

 

押村は端末で照会する。

 

数秒後、画面に結果が出た。

 

鳥羽悠介。六十二歳。元推理作家。現在、鎌倉市在住。

 

横溝が低く言う。

 

「推理作家か」

 

押村は画面を見たまま頷いた。

 

「Kノートが推理小説のプロット集だと黒崎が説明していた理由が見えてきました」

 

「鳥羽悠介が関係してると?」

 

「会って確認する必要があります」

 

同じ頃、千速は交通部で軽トラックの足取りを追っていた。

 

風見台で燃えた白い軽トラックは盗難車だった。

 

盗まれたのは事件の二日前。

 

場所は横須賀市内の小さな工務店。

 

だが、防犯カメラに映っていたのは軽トラックを盗む人物ではない。

 

盗まれる前日、工務店の近くに停まっていた一台のバイクだった。

 

黒い大型バイク。

 

ナンバーは隠されている。

 

千速はその映像を何度も見返した。

 

「車じゃない……」

 

新井が横から覗き込む。

 

「小隊長?」

 

「黒いセダン、白い軽トラ。車にばかり目がいってた」

 

「はい」

 

「でも、下見に使うならバイクの方が便利だ。狭い道も通れる。駐車場所にも困らない。ナンバーを隠せば追いにくい」

 

新井が頷く。

 

「たしかに」

 

千速は映像を止める。

 

バイクの側面に、わずかに白い模様が見える。

 

拡大すると、ぼやけていたが形が分かった。

 

割れた羽。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「いた」

 

新井が息を呑む。

 

「同じマークですか」

 

「ああ」

 

千速はすぐに押村へ電話をかけた。

 

しかし、つながらない。

 

「……出ねぇ」

 

嫌な予感がした。

 

押村が電話に出ないことはある。

 

捜査中なら当然だ。

 

だが、こういう時の千速の勘は、よく当たる。

 

もう一度かける。

 

やはり出ない。

 

千速は横溝へかけた。

 

こちらはつながった。

 

『横溝だ』

 

「重悟、奏斗は?」

 

『今、大学資料館だ。俺も一緒だ』

 

「電話出ねぇんだけど」

 

『今ちょうど資料見てる。どうした』

 

「割れた羽、バイクにも貼られてた」

 

横溝の声が変わる。

 

『バイク?』

 

「白い軽トラの盗難前日、工務店付近に黒い大型バイクが映ってた。下見か監視だと思う」

 

『映像送れ』

 

「送る。それと、そっちは何か出たか」

 

横溝は少し間を置いた。

 

『玖城怜司のサークル資料が出た。第十七、第十八の元ネタらしき研究発表もな』

 

千速は眉を寄せる。

 

「元ネタ?」

 

『第十七回、殺意の誘導と物語構造。第十八回、証人を用いた事故偽装の破綻』

 

千速は息を止めた。

 

「じゃあ、第十九回は?」

 

『破られてる』

 

千速の胸がざわついた。

 

「誰かが持っていったってことか」

 

『ああ。一週間前に鳥羽遥って奴が閲覧してる。鳥羽悠介の親族らしい』

 

「鳥羽悠介?」

 

『元推理作家だ』

 

千速は映像の黒いバイクを見た。

 

大型バイク。

割れた羽。

 

そして、鳥羽という名前。

 

「重悟」

 

『何だ』

 

「鳥羽遥の年齢と性別、分かるか」

 

『待て』

 

少しして、横溝が答えた。

 

『鳥羽遥。三十一歳。女性。鳥羽悠介の娘。職業はフリーの編集者』

 

千速は目を細めた。

 

「バイクの体格と合うかもしれねぇ」

 

『押村に伝える』

 

「いや、今すぐ本人に言え。第十九案の紙を持ってるなら、もう動いてるかもしれない」

 

横溝の声が低くなる。

 

『分かった』

 

通話が切れた。

 

千速は映像を見つめた。

 

黒い大型バイクが、雨の降る前の夜道に停まっている。

 

割れた羽。

 

車だけではない。

 

犯人は、いくつもの顔を持っている。

 

千速は拳を握った。

 

「逃がさねぇぞ」

 

鎌倉市内。

 

鳥羽悠介の自宅は、古い和洋折衷の家だった。

 

かつて推理作家として名を残した男の家にしては、門は錆び、庭は荒れている。

 

押村と横溝が到着した頃には、雨が降り始めていた。

 

玄関を開けたのは、痩せた老人だった。

 

鳥羽悠介、六十二歳。

 

髪は白く、頬はこけている。

だが目だけは妙に鋭かった。

 

「警察の方ですか」

 

押村は警察手帳を示した。

 

「神奈川県警捜査一課の押村です」

 

横溝も続ける。

 

「横溝だ」

 

鳥羽は二人を見た。

 

「黒崎君の件でしょう」

 

押村は静かに答える。

 

「はい。それと、玖城怜司について伺いたいことがあります」

 

鳥羽の表情がわずかに変わった。

 

「……古い名前ですね」

 

「ご存じですね」

 

「忘れられる名前ではありません」

 

鳥羽は二人を客間へ通した。

 

部屋には本が積まれていた。

 

推理小説。

犯罪史。

古い雑誌。

書きかけの原稿用紙。

 

だが、部屋には生活感よりも、過去に取り残されたような空気が漂っていた。

 

押村は向かいに座る。

 

「玖城怜司は、どんな人物でしたか」

 

鳥羽はしばらく黙っていた。

 

やがて、ゆっくり話し始めた。

 

「天才でしたよ。少なくとも、私たちはそう思っていた」

 

横溝が言う。

 

「何の天才だ」

 

「人間を観察する天才です」

 

鳥羽の声は乾いていた。

 

「玖城は、殺人そのものには興味がないと言っていました。興味があるのは、人が殺人に至るまでの物語だと」

 

押村の目が細くなる。

 

「殺意の誘導」

 

鳥羽は頷いた。

 

「ええ。彼は、人間の殺意には形があると言った。そこに適切な舞台と筋書きを与えれば、人は自分の意志で殺人を選ぶ、と」

 

横溝が不快そうに言う。

 

「イカれてるな」

 

鳥羽は苦く笑った。

 

「当時の私たちは、若かった。推理小説の議論として聞いていたんです。現実に使うなど、思ってもいなかった」

 

押村は尋ねる。

 

「Kシリーズとは何ですか」

 

鳥羽の顔が強張った。

 

「その名前を、どこで」

 

「黒崎邸でK-17、風見台でK-18が見つかりました」

 

鳥羽の手が震えた。

 

「まさか……」

 

横溝が身を乗り出す。

 

「知ってるなら話せ」

 

鳥羽は目を閉じた。

 

「Kシリーズは、玖城が作った殺人構造案です。最初は小説のプロットでした。ですが途中から、彼はそれを現実の人間で試すことを考え始めた」

 

押村は静かに聞いていた。

 

「何案まであるんですか」

 

鳥羽は答えた。

 

「二十」

 

横溝が息を呑む。

 

「二十……」

 

「K-1からK-20まで。玖城はそれを“二十の羽”と呼んでいました」

 

押村は尋ねる。

 

「なぜ羽なのですか」

 

鳥羽は壁に掛かった古い写真を見る。

 

そこには、若い頃の研究会メンバーが写っていた。

 

「玖城は、殺人計画を“飛べない羽”と呼んでいた。人間の中にある欲望は羽だが、現実には飛べない。だから、舞台を与えて飛ばしてやるのだと」

 

千速が聞いたら、間違いなく「気持ち悪い」と言うだろう。

 

押村も同じ気持ちだった。

 

「割れた羽のマークについては」

 

鳥羽はゆっくり頷いた。

 

「玖城の印です。ただし、昔は割れていなかった。割れた羽は……」

 

そこで鳥羽は言葉を切った。

 

横溝が睨む。

 

「何だ」

 

「玖城が失踪する直前に描いていたものです」

 

押村が静かに言う。

 

「失踪の理由は」

 

鳥羽は答えなかった。

 

その時だった。

 

玄関の方で物音がした。

 

誰かが入ってきた。

 

鳥羽の表情が変わる。

 

「遥……?」

 

廊下に足音が響く。

 

現れたのは、一人の女性だった。

 

黒いコート。

短く切った髪。

細い体つき。

そして、鋭い目。

 

鳥羽遥。

 

彼女は押村と横溝を見ても驚かなかった。

 

「警察が来ていたんですね」

 

横溝が立ち上がる。

 

「鳥羽遥さんだな」

 

「はい」

 

押村は彼女を見る。

 

「一週間前、大学資料館で犯罪心理研究会の資料を閲覧しましたね」

 

遥は少し笑った。

 

「しました」

 

「第十九回研究発表のページを破ったのは、あなたですか」

 

鳥羽悠介が驚いて娘を見る。

 

「遥……?」

 

遥は父を見なかった。

 

「破ったのは私です」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「なぜだ」

 

遥は押村を見た。

 

「第十九案が始まるからです」

 

部屋の空気が凍った。

 

押村は一歩前に出る。

 

「第十九案とは何ですか」

 

遥は微笑んだ。

 

「知りたいですか」

 

横溝が低く唸る。

 

「ふざけるな」

 

遥は横溝を見ていない。

 

その目は押村に向いていた。

 

「あなたなら解けると思いますか、押村警部補」

 

押村の表情は変わらなかった。

 

「あなたは、Kシリーズの実行に関わっていますか」

 

遥は首を傾げる。

 

「実行?」

 

「黒崎玲子への電話。黒崎美怜への封筒。風見台の仕掛け。黒い車とバイク」

 

遥は静かに聞いていた。

 

そして言った。

 

「私は、物語の続きを読んでいるだけです」

 

横溝が一歩近づく。

 

「署で聞かせてもらう」

 

遥は笑った。

 

「任意ですか」

 

「今のところはな」

 

「なら、少し待ってください」

 

遥はバッグから一通の封筒を取り出した。

 

白い封筒。

 

裏には、割れた羽のシール。

 

押村は動かなかった。

 

遥はその封筒をテーブルに置く。

 

「第十九案です」

 

鳥羽悠介が青ざめる。

 

「遥、やめなさい……」

 

遥は初めて父を見た。

 

「もう止まりません。お父さんたちが昔、止めなかったから」

 

鳥羽は言葉を失った。

 

押村は封筒を見る。

 

「開けても?」

 

遥は微笑む。

 

「どうぞ」

 

横溝が警戒しながら封筒を開ける。

 

中には、一枚の紙。

 

そこには、短い文章が書かれていた。

 

K-19

閉じた劇場。

観客は全員、犯人を見ている。

だが、誰も犯人を覚えていない。

 

その下に、日時と場所。

 

明日 午後七時

横浜・青葉市民ホール

 

押村は紙を見つめた。

 

閉じた劇場。

 

観客は全員、犯人を見ている。

だが、誰も犯人を覚えていない。

 

横溝が低く言う。

 

「明日だと……」

 

遥は穏やかに言った。

 

「第十九案は、もう始まっています」

 

その瞬間、押村のスマホが震えた。

 

千速からだった。

 

押村はすぐに出る。

 

「千速」

 

『奏斗、今どこだ』

 

「鳥羽悠介宅だ」

 

『そこに鳥羽遥はいるか』

 

押村は遥を見た。

 

「いる」

 

電話の向こうで、千速の声が鋭くなる。

 

『気をつけろ。黒いバイクの映像を追ったら、鳥羽遥が青葉市民ホールに出入りしてるのが映ってた』

 

押村の視線が、紙の文字へ落ちる。

 

「分かった」

 

『それと、明日のホールで予定されてる公演がある』

 

「何だ」

 

千速は低く言った。

 

『推理劇だ。タイトルは――』

 

少し間が空く。

 

『「割れた羽の密室」』

 

押村は目を閉じた。

 

すべてが、舞台へ向かっている。

 

鳥羽遥は微笑んだまま立っていた。

 

まるで、観客席から幕が上がるのを待っているように。

 

横溝が拳を握る。

 

「押村」

 

「はい」

 

「今度こそ、始まる前に止めるぞ」

 

押村は紙を折りたたんだ。

 

「はい」

 

千速の声が電話越しに届く。

 

『奏斗』

 

「何だ」

 

『劇場なら、出入口と動線が鍵になる。私も行く』

 

「危険だ」

 

『だから行くんだろ』

 

押村は一瞬だけ黙った。

 

そして言った。

 

「分かった。ただし、一人で動くな」

 

『お前もな』

 

「分かった」

 

電話が切れる。

 

押村は鳥羽遥を見た。

 

「あなたには、詳しく話を聞かせてもらいます」

 

遥は微笑む。

 

「間に合うといいですね」

 

横溝が低く言った。

 

「間に合わせるんだよ」

 

外では、雨が本降りになっていた。

 

K-19。

 

閉じた劇場。

 

観客は全員、犯人を見ている。

だが、誰も犯人を覚えていない。

 

次の舞台は、横浜の市民ホール。

 

幕が上がるまで、残された時間は二十四時間を切っていた。

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