神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第28話 閉じた劇場

翌日の午後六時。

 

横浜・青葉市民ホールの前には、すでに多くの観客が集まり始めていた。

 

雨は上がっていたが、空にはまだ重い雲が残っている。

 

市民ホールの外壁には、今夜の公演ポスターが貼られていた。

 

推理劇「割れた羽の密室」

脚本・演出:白鳥遥

 

押村奏斗は、その名前を見て足を止めた。

 

「白鳥遥……」

 

隣に立つ横溝重悟が低く唸る。

 

「鳥羽遥の変名か」

 

「おそらく」

 

ポスターには、白い羽が割れるような図案が描かれていた。

 

それは黒いセダンに貼られていたステッカーと、ほとんど同じ形だった。

 

割れた羽。

 

犯人の署名。

 

いや、今はもう署名というより、舞台の幕印のように見えた。

 

横溝は険しい顔で言う。

 

「堂々と出してきやがったな」

 

「挑発です」

 

押村は静かに答えた。

 

「犯人は、こちらが気づくことを前提にしています」

 

「気に入らねぇ」

 

「同感です」

 

ホールの正面入口では、捜査員たちが一般客に紛れて配置についていた。

 

表向きは通常公演。

 

公演中止も検討されたが、鳥羽遥の供述は曖昧だった。

 

彼女は「第十九案はもう始まっている」と言っただけで、誰が狙われるのか、どの瞬間に事件が起こるのかは語らなかった。

 

そして最も厄介だったのは、彼女自身が主犯である証拠がまだ足りないことだった。

 

鳥羽遥は任意同行に応じた。

 

だが、取調べではこう繰り返した。

 

「私は、物語の続きを読んでいるだけです」

 

その言葉の意味は分からない。

 

だが、押村には一つだけ分かっていた。

 

今夜、この劇場で何かが起こる。

 

そして犯人は、それを止められるものなら止めてみろと言っている。

 

「奏斗」

 

声がした。

 

振り向くと、萩原千速が歩いてきた。

 

黒いジャケットに動きやすいパンツ。

今日は制服ではない。

だが、その立ち姿だけで警察官だと分かる鋭さがあった。

 

押村は少しだけ眉を寄せる。

 

「千速」

 

「何だ、その顔」

 

「本当に来たんだな」

 

「言っただろ。劇場なら出入口と動線が鍵になるって」

 

横溝が腕を組む。

 

「交通部の小隊長が、今日は劇場案内か」

 

千速は横溝を見る。

 

「人の流れを読むのも交通の仕事だろ」

 

「まあ、理屈は通るな」

 

「だろ」

 

千速はホールの入口を見た。

 

「観客の動線、搬入口、非常口、地下駐車場。全部確認した。問題は、この劇場が古いってことだ」

 

押村が尋ねる。

 

「古い?」

 

「ああ。改修を繰り返してるせいで、客席裏と舞台袖の通路が複雑になってる。関係者用の階段も多い」

 

横溝が舌打ちする。

 

「逃げ道だらけか」

 

「それだけじゃない」

 

千速は図面を広げた。

 

「舞台の上に吊り物用のバトンがある。照明、幕、背景パネルを上下させる装置だ。古い手動式と電動式が混在してる」

 

押村の目が細くなった。

 

「事故に見せかけられる」

 

「そうだ」

 

千速は低く言った。

 

「舞台上で誰かに落とす。観客は見てる。でも、犯人がどこで操作したかは分からない」

 

押村は封筒に書かれていた言葉を思い出した。

 

閉じた劇場。

観客は全員、犯人を見ている。

だが、誰も犯人を覚えていない。

 

横溝が図面を睨む。

 

「舞台事故に見せかけた殺人か」

 

押村は首を横に振った。

 

「それだけなら、“誰も犯人を覚えていない”という言葉が不自然です」

 

千速が押村を見る。

 

「どういうことだ?」

 

「観客が犯人を見ているなら、犯人は舞台上にいる可能性があります」

 

横溝の眉が動く。

 

「役者か」

 

「はい」

 

押村はポスターを見る。

 

出演者は五人。

 

探偵役。

助手役。

令嬢役。

執事役。

謎の作家役。

 

そして脚本・演出が白鳥遥。

 

千速が低く言った。

 

「役者なら、観客は見てる。でも芝居の中の人物として見てるから、犯人として覚えてない」

 

「その可能性があります」

 

横溝は捜査員に指示を飛ばす。

 

「出演者全員を確認しろ。控室、舞台袖、吊り物装置、全部だ。中止にできる材料があれば即中止だ」

 

押村は劇場入口へ視線を向けた。

 

観客たちが次々と中へ入っていく。

 

その中に、犯人がいるかもしれない。

 

あるいは舞台の上に。

 

あるいは裏方に。

 

時間は、開演まで一時間を切っていた。

 

青葉市民ホールの内部は、昭和の名残を残した古い劇場だった。

 

赤い座席。

木製の壁。

天井から吊るされた照明。

舞台には重い緞帳が下りている。

 

押村たちは、支配人の案内で舞台裏へ入った。

 

支配人は青ざめていた。

 

「警察の方がこんなに……公演に何か問題でも?」

 

横溝が低く言う。

 

「安全確認だ」

 

「ですが、もうお客様も入っていますし――」

 

「人が死ぬかもしれねぇんだぞ」

 

支配人は言葉を失った。

 

押村は横から静かに言った。

 

「公演の中止も含めて判断します。そのために確認させてください」

 

「……分かりました」

 

舞台袖は慌ただしかった。

 

スタッフが走り、役者が衣装を整え、小道具が並べられている。

 

その中で、押村は一人の女性を見つけた。

 

黒いワンピース。

短く切った髪。

冷静な目。

 

鳥羽遥だった。

 

いや、今夜の名前は白鳥遥。

 

彼女は押村を見ると、穏やかに微笑んだ。

 

「来てくださったんですね」

 

横溝が一歩前に出る。

 

「公演は中止だ」

 

遥は首を傾げる。

 

「なぜですか?」

 

「とぼけるな」

 

「私は何もしていません。警察の方が想像しているだけでは?」

 

横溝の額に血管が浮く。

 

押村が制した。

 

「鳥羽遥さん」

 

「今日は白鳥です」

 

「では、白鳥遥さん」

 

押村は彼女を真っ直ぐ見た。

 

「第十九案とは何ですか」

 

遥は静かに笑った。

 

「今夜の演目です」

 

「誰が標的ですか」

 

「標的?」

 

「この舞台で、誰を殺すつもりですか」

 

周囲のスタッフがざわついた。

 

遥は少し困ったように肩をすくめる。

 

「押村警部補。ここは劇場です。殺す、殺されるという言葉は台本の中にいくらでもあります」

 

横溝が怒鳴る。

 

「ふざけるな!」

 

遥は横溝を見る。

 

「ふざけているのは、昔の人たちです」

 

その声だけが、急に冷えた。

 

「父も、黒崎宗一郎も、玖城怜司も。人間の死を物語として消費した。なら、その物語が現実に戻ってきても、不思議ではないでしょう」

 

押村は目を細める。

 

「復讐ですか」

 

遥は少しだけ笑った。

 

「違います」

 

「では何です」

 

「完成です」

 

その言葉に、押村の胸がざわついた。

 

「完成?」

 

「Kシリーズは二十あります。でも玖城怜司は、それを完成させる前に消えた。父たちは、彼を止めたと言いながら、実際には何も終わらせなかった」

 

遥は舞台の方を見る。

 

「だから私は読むんです。最後まで」

 

横溝が低く言った。

 

「狂ってやがる」

 

遥は横溝を見ない。

 

「狂っているのは、物語を途中で閉じた人たちです」

 

押村は静かに尋ねた。

 

「玖城怜司に何があったんですか」

 

遥の表情が、ほんの少しだけ揺れた。

 

だが、すぐに微笑みに戻る。

 

「幕が上がれば分かります」

 

押村は言った。

 

「公演は中止します」

 

遥は首を横に振った。

 

「もう遅いです」

 

その時、舞台袖のモニターに客席が映った。

 

観客席はほぼ埋まっている。

 

ざっと二百人。

 

横溝が無線で言う。

 

「避難準備だ。客を出す」

 

しかし、その直後。

 

客席側の扉からスタッフが飛び込んできた。

 

「大変です! 正面入口の扉が開きません!」

 

支配人が叫ぶ。

 

「何だって?」

 

「鍵が……内側からも外側からも動かないんです!」

 

千速がすぐに走った。

 

押村も続く。

 

劇場の正面入口。

 

分厚い扉の鍵穴には、透明な樹脂のようなものが詰められていた。

 

非常口も同じ。

 

千速が低く言う。

 

「固められてる」

 

横溝が到着する。

 

「破れ!」

 

「外から工具を入れてる。時間がかかる」

 

千速は周囲を見る。

 

「観客を慌てさせるな。パニックになる」

 

押村は劇場内を見た。

 

閉じた劇場。

 

言葉通りになった。

 

観客は閉じ込められた。

 

そして、開演ベルが鳴った。

 

舞台の幕が上がった。

 

中止を命じたはずだった。

 

だが照明が落ち、音楽が流れ、緞帳がゆっくり上がっていく。

 

スタッフの一部が混乱している。

 

「誰が照明を!」

 

「音響室、応答ありません!」

 

横溝が怒鳴る。

 

「音響室を押さえろ!」

 

千速は舞台袖の上手側へ走った。

 

「私は非常口をもう一度見る!」

 

押村は舞台を見た。

 

役者たちが出ている。

 

探偵役の男。

助手役の女。

令嬢役の女。

執事役の男。

謎の作家役の男。

 

彼らの顔にも戸惑いがある。

 

だが、芝居は始まっていた。

 

いや、始めさせられている。

 

客席はまだ事態に気づいていない。

 

むしろ突然始まった演出だと思っているのか、静かに舞台を見つめていた。

 

探偵役が台詞を言う。

 

「この館は閉ざされた。犯人は、この中にいる」

 

客席が静まり返る。

 

その台詞は、今の状況と重なりすぎていた。

 

押村は台本を確認する。

 

支配人が震えながらコピーを差し出した。

 

押村はページをめくる。

 

第一幕。

 

密室の館。

登場人物紹介。

舞台上で灯りが消える。

再点灯すると、作家役が倒れている。

 

押村の手が止まった。

 

「横溝警部」

 

「何だ!」

 

「第一幕の終わりで、作家役が倒れる場面があります」

 

「殺される役か」

 

「はい」

 

押村は舞台上の謎の作家役を見た。

 

中年の男。

 

名前は神崎修。

 

元人気脚本家。

現在はこの劇団の客演。

 

押村は支配人に尋ねる。

 

「神崎修さんは、鳥羽悠介さんと関係がありますか」

 

支配人は青ざめた。

 

「神崎さんは、昔、鳥羽先生の弟子だったと聞いています」

 

横溝が低く唸る。

 

「またつながったな」

 

押村は台本を見る。

 

灯りが消えるまで、あと数分。

 

「作家役を舞台から下ろします」

 

押村が舞台袖へ向かおうとした瞬間、客席の照明が落ちた。

 

予定より早い。

 

舞台上だけが青白く照らされる。

 

音響から女の声が流れた。

 

録音された声。

 

それは鳥羽遥の声だった。

 

第十九案。閉じた劇場。

観客は全員、犯人を見ている。

だが、誰も犯人を覚えていない。

 

客席がざわつく。

 

役者たちも動揺している。

 

神崎修が舞台上で立ち尽くす。

 

押村は叫んだ。

 

「神崎さん、動かないでください!」

 

だが、その声は客席のざわめきにかき消された。

 

次の瞬間、舞台の照明がすべて消えた。

 

完全な暗闇。

 

一秒。

二秒。

三秒。

 

押村は暗闇の中で音を聞いた。

 

足音。

布が擦れる音。

金属が鳴る音。

 

そして、上から何かが落ちる低い音。

 

照明が戻った。

 

舞台中央に、神崎修が倒れていた。

 

そのすぐ横に、重い背景パネルが落ちている。

 

客席から悲鳴が上がった。

 

横溝が叫ぶ。

 

「救急! 舞台を封鎖しろ!」

 

押村は舞台へ駆け上がった。

 

神崎修は動かない。

 

だが、胸はわずかに上下していた。

 

「生きています!」

 

横溝が息を吐く。

 

「よし!」

 

しかし、押村の目はすぐに別のものを捉えた。

 

神崎の右手。

 

そこに、紙片が握られている。

 

押村は手袋をはめ、慎重に取った。

 

そこには短い文字。

 

犯人は、拍手の中にいる。

 

押村は客席を見た。

 

二百人の観客。

 

全員が舞台を見ていた。

 

犯人を見ていた。

 

だが、誰も覚えていない。

 

なぜなら、犯人は役者ではない。

 

舞台上ではなく、客席にいた。

 

押村は低く言った。

 

「違う……」

 

横溝が振り向く。

 

「何がだ」

 

「犯人は舞台上ではありません」

 

「じゃあどこだ」

 

押村は客席を見渡す。

 

「観客席です」

 

その時、千速の声が無線に入った。

 

『奏斗! 非常口の一つが開いた! 誰かが外へ出た形跡がある!』

 

押村は客席の後方を見る。

 

そこに一つ、空席があった。

 

開演前には埋まっていたはずの席。

 

通路側。

非常口に近い場所。

 

押村は叫んだ。

 

「千速、非常口側を押さえてくれ! 犯人が出た!」

 

『了解!』

 

千速は外へ飛び出した。

 

非常口の外は、裏手の搬入路につながっていた。

 

雨上がりの地面は濡れている。

 

千速は懐中電灯を向けた。

 

足跡がある。

 

細い靴底。

 

そして、バイクのタイヤ痕。

 

「またバイクか……!」

 

遠くでエンジン音がした。

 

千速は走った。

 

搬入路の先、黒い大型バイクが発進しようとしている。

 

乗っているのは黒いヘルメットの人物。

 

千速は叫ぶ。

 

「止まれ!」

 

バイクは加速した。

 

千速は近くに停めていた白バイへ走る。

 

新井が叫ぶ。

 

「小隊長!」

 

「追う!」

 

「危険です!」

 

「分かってる!」

 

千速はヘルメットを被り、白バイを発進させた。

 

夜の市街地へ、黒いバイクが飛び出す。

 

その後ろを、千速の白バイが追う。

 

無線が入る。

 

『千速、追跡中か』

 

押村の声。

 

「黒い大型バイクを追ってる。割れた羽の奴だ」

 

『無茶をするな』

 

「分かってる!」

 

黒いバイクは車の間をすり抜ける。

 

千速は距離を保った。

 

追いつきすぎない。

 

煽らない。

 

逃走車両が事故を起こせば、一般人を巻き込む。

 

小隊長として、無茶はできない。

 

でも、逃がすわけにもいかない。

 

「前方、港方面へ逃走中。応援を回せ!」

 

『了解!』

 

黒いバイクは倉庫街へ入った。

 

道路は広いが、人通りは少ない。

 

千速は速度を上げる。

 

その時、バイクの後部から何かが落ちた。

 

小さな金属缶。

 

千速は反射的に進路をずらす。

 

缶が弾け、中から白い煙が噴き出した。

 

「また発煙かよ!」

 

視界が遮られる。

 

だが千速は煙の切れ目を読んで抜けた。

 

黒いバイクは左へ曲がる。

 

しかし、その先は行き止まりだった。

 

倉庫のフェンス。

 

千速はブレーキをかけ、距離を取る。

 

「終わりだ。降りろ」

 

黒いヘルメットの人物はバイクを止めた。

 

ゆっくりと降りる。

 

千速は慎重に近づく。

 

「ヘルメットを外せ」

 

相手は動かない。

 

「外せ!」

 

その人物は、ゆっくりヘルメットに手をかけた。

 

外した。

 

中から現れたのは、若い男だった。

 

千速は眉を寄せる。

 

「鳥羽遥じゃない……」

 

男は青ざめていた。

 

二十代半ばほど。

 

額に汗を浮かべ、目が泳いでいる。

 

「頼まれただけだ……俺は、頼まれただけなんだ……」

 

千速は警戒を解かずに近づく。

 

「誰に」

 

男は震える声で答えた。

 

「白鳥って女に……」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「鳥羽遥か」

 

「知らない。本名なんか知らない。ただ、逃げるだけで金を払うって……劇場が暗くなったら非常口から出て、バイクで逃げろって言われたんだ」

 

千速は一瞬、息を止めた。

 

囮。

 

この男は犯人ではない。

 

観客席から消えた人間として、警察に追わせるための駒。

 

千速はすぐに無線を入れた。

 

「奏斗! バイクの男は囮だ!」

 

『囮?』

 

「鳥羽遥に雇われただけだ。本犯じゃない!」

 

一瞬、無線が静かになった。

 

そして押村の声が低く返る。

 

『分かった。劇場内を再確認する』

 

千速は歯を食いしばった。

 

「くそ……!」

 

また先を読まれた。

 

いや。

 

読まれたのではない。

 

読まされている。

 

犯人は、警察がどう動くかまで舞台に組み込んでいる。

 

劇場内。

 

神崎修は救急搬送された。

 

命に別状はない。

 

落下した背景パネルは、直接頭部に当たってはいなかった。

だが、倒れた際に強く肩と頭を打っていた。

 

押村は舞台上を見ていた。

 

背景パネルの吊り具は、切断されていた。

 

しかし、問題はそこではない。

 

切断されたワイヤーの位置。

 

舞台袖からではなく、客席側から操作できるよう細工されていた。

 

座席の下を通した細いワイヤー。

 

それが後方通路の柱へ伸び、さらに非常口付近へ続いていた。

 

横溝が唸る。

 

「観客席から引いたのか」

 

押村は頷いた。

 

「はい。暗転の瞬間、観客席の誰かがワイヤーを引いた」

 

「じゃあ、逃げた奴が犯人じゃねぇのか」

 

「そう見せたかったんです」

 

押村は客席を見た。

 

空席は一つ。

 

だが、犯人がそこにいたとは限らない。

 

「ワイヤーは非常口付近を通っていますが、引く位置は一か所ではない。途中で分岐しています」

 

横溝の顔色が変わる。

 

「分岐?」

 

「はい」

 

押村は座席の下を照らす。

 

細いワイヤーが、何本かの座席列へ伸びていた。

 

「複数の観客が、同じ動作をすれば、誰が引いたか分からない」

 

横溝が低く言う。

 

「観客は全員、犯人を見ている。だが誰も覚えていない」

 

「はい」

 

押村は顔を上げる。

 

「犯人は一人ではありません」

 

横溝が目を細める。

 

「観客の中に、共犯が複数いる?」

 

「いえ」

 

押村は首を横に振った。

 

「おそらく、本人たちは共犯だと思っていません」

 

「どういう意味だ」

 

押村は座席の肘掛けを見る。

 

そこには、小さなカードが挟まれていた。

 

観客参加型演出の説明カード。

 

第一幕の暗転時、あなたの席の下にある紐を静かに引いてください。

物語の密室が完成します。

 

横溝の表情が凍った。

 

「ふざけやがって……」

 

押村の声は低かった。

 

「観客に引かせたんです」

 

無関係な観客たちに。

 

自分たちが演出に参加していると思わせて。

 

その誰かの手で、背景パネルを落とさせた。

 

だから、犯人は拍手の中にいる。

 

観客は全員、犯人を見ている。

 

だが、誰も犯人を覚えていない。

 

犯人は、全員だったから。

 

そして誰も、自分が犯人だと思っていない。

 

横溝は怒りを押し殺すように言った。

 

「鳥羽遥を押さえろ」

 

押村は舞台袖を見る。

 

「彼女がいません」

 

「何?」

 

「暗転後から姿が確認されていない」

 

横溝が無線で叫ぶ。

 

「鳥羽遥を探せ! まだ館内にいる可能性がある!」

 

押村は舞台袖へ向かった。

 

鳥羽遥の控室。

 

そこには、衣装と台本が残されていた。

 

机の上に、一枚の紙。

 

押村はそれを見た。

 

K-19は成功した。

殺人は未遂でも、犯人は生まれた。

次は、最後の羽。

 

横溝が後ろから紙を覗き込む。

 

「最後の羽……K-20か」

 

押村は紙を握りしめた。

 

「彼女は、神崎修を殺すことが目的ではなかった」

 

「じゃあ何が目的だ」

 

押村は客席を見た。

 

混乱し、不安げに座る観客たち。

 

その中には、自分が引いた紐で人が傷ついたかもしれないと知り、震えている人たちがいた。

 

「観客に、犯人になる感覚を与えることです」

 

横溝は言葉を失った。

 

押村は続ける。

 

「K-19は、殺人ではなく、罪の共有です」

 

横溝が低く吐き捨てる。

 

「最低だな」

 

「はい」

 

押村の目は、静かに怒っていた。

 

「最低です」

 

その時、押村のスマホが震えた。

 

千速からだった。

 

『奏斗、バイクの男を確保した。でも遥じゃない』

 

「分かっている」

 

『そっちは?』

 

「K-19は未遂。ただ、鳥羽遥は逃走した」

 

電話の向こうで、千速が息を吐いた。

 

『やられたな』

 

「ああ」

 

『でも、神崎って人は生きてるんだろ』

 

「はい」

 

『なら、まだ負けてねぇ』

 

押村は少しだけ目を閉じた。

 

千速の声は、いつもこういう時、押村を現実に引き戻す。

 

「そうだな」

 

『次は最後ってことか』

 

「K-20。彼女は最後の羽と言っています」

 

『なら、次で終わらせる』

 

「ああ」

 

千速は少し間を置いて、低く言った。

 

『奏斗』

 

「何だ」

 

『怒ってるな』

 

押村は黙った。

 

千速は続けた。

 

『その怒り、一人で抱え込むなよ』

 

押村は客席を見た。

 

震える観客。

倒れた神崎。

消えた鳥羽遥。

 

人の心を道具にする犯罪。

 

許せない。

 

だが、怒りだけで追えば、相手の舞台に乗る。

 

「分かった」

 

『本当か?』

 

「本当だ」

 

『ならいい』

 

通話が切れた。

 

押村は深く息を吐いた。

 

横溝が隣に立つ。

 

「千速か」

 

「はい」

 

「少し顔が戻ったな」

 

「そうですか」

 

「ああ」

 

横溝は鳥羽遥の残した紙を見た。

 

「最後の羽だとよ」

 

押村は頷いた。

 

「K-20が最後なら、彼女は必ず自分の物語を完成させようとします」

 

「次の舞台はどこだ」

 

押村は紙の裏を確認した。

 

何もない。

 

だが、封筒の中にもう一枚、小さな写真が入っていた。

 

古い集合写真。

 

犯罪心理研究会のメンバー。

 

黒崎宗一郎。

玖城怜司。

鳥羽悠介。

水原真紀。

榊亮三。

 

その写真の中で、一人だけ赤い丸がつけられていた。

 

鳥羽悠介

 

押村の目が鋭くなる。

 

「最後の標的は、鳥羽悠介です」

 

横溝の顔が変わった。

 

「父親か」

 

「はい」

 

押村は写真を見つめた。

 

鳥羽遥は、父を殺すつもりなのか。

 

それとも、父に何かを見せるつもりなのか。

 

Kシリーズの最後。

 

二十番目の羽。

 

それは、玖城怜司が残した物語の終幕。

 

押村は静かに言った。

 

「鳥羽悠介を保護します」

 

横溝はすぐに無線を入れた。

 

「鳥羽宅へ捜査員を回せ! 本人を保護しろ!」

 

しかし、返ってきた声は切迫していた。

 

『横溝警部! 鳥羽悠介が自宅から消えています!』

 

横溝が怒鳴る。

 

「何だと!」

 

『書斎に封筒が残されています。割れた羽のシールつきです!』

 

押村の胸が冷たくなる。

 

「中身は」

 

無線の向こうで、捜査員が紙を読む。

 

『K-20。最後の羽は、始まりの場所で折れる』

 

横溝が押村を見る。

 

「始まりの場所……」

 

押村は古い写真を見た。

 

犯罪心理研究会。

 

玖城怜司。

 

鳥羽悠介。

 

黒崎宗一郎。

 

始まりの場所。

 

押村は低く言った。

 

「大学です」

 

横溝が頷く。

 

「行くぞ」

 

押村は走り出した。

 

劇場の幕は下りた。

 

だが、本当の終幕はまだだった。

 

K-20。

 

最後の羽。

 

鳥羽遥は、父を連れて始まりの場所へ向かった。

 

二十年前に閉じられた物語を、今夜終わらせるために。

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