翌日の午後六時。
横浜・青葉市民ホールの前には、すでに多くの観客が集まり始めていた。
雨は上がっていたが、空にはまだ重い雲が残っている。
市民ホールの外壁には、今夜の公演ポスターが貼られていた。
推理劇「割れた羽の密室」
脚本・演出:白鳥遥
押村奏斗は、その名前を見て足を止めた。
「白鳥遥……」
隣に立つ横溝重悟が低く唸る。
「鳥羽遥の変名か」
「おそらく」
ポスターには、白い羽が割れるような図案が描かれていた。
それは黒いセダンに貼られていたステッカーと、ほとんど同じ形だった。
割れた羽。
犯人の署名。
いや、今はもう署名というより、舞台の幕印のように見えた。
横溝は険しい顔で言う。
「堂々と出してきやがったな」
「挑発です」
押村は静かに答えた。
「犯人は、こちらが気づくことを前提にしています」
「気に入らねぇ」
「同感です」
ホールの正面入口では、捜査員たちが一般客に紛れて配置についていた。
表向きは通常公演。
公演中止も検討されたが、鳥羽遥の供述は曖昧だった。
彼女は「第十九案はもう始まっている」と言っただけで、誰が狙われるのか、どの瞬間に事件が起こるのかは語らなかった。
そして最も厄介だったのは、彼女自身が主犯である証拠がまだ足りないことだった。
鳥羽遥は任意同行に応じた。
だが、取調べではこう繰り返した。
「私は、物語の続きを読んでいるだけです」
その言葉の意味は分からない。
だが、押村には一つだけ分かっていた。
今夜、この劇場で何かが起こる。
そして犯人は、それを止められるものなら止めてみろと言っている。
「奏斗」
声がした。
振り向くと、萩原千速が歩いてきた。
黒いジャケットに動きやすいパンツ。
今日は制服ではない。
だが、その立ち姿だけで警察官だと分かる鋭さがあった。
押村は少しだけ眉を寄せる。
「千速」
「何だ、その顔」
「本当に来たんだな」
「言っただろ。劇場なら出入口と動線が鍵になるって」
横溝が腕を組む。
「交通部の小隊長が、今日は劇場案内か」
千速は横溝を見る。
「人の流れを読むのも交通の仕事だろ」
「まあ、理屈は通るな」
「だろ」
千速はホールの入口を見た。
「観客の動線、搬入口、非常口、地下駐車場。全部確認した。問題は、この劇場が古いってことだ」
押村が尋ねる。
「古い?」
「ああ。改修を繰り返してるせいで、客席裏と舞台袖の通路が複雑になってる。関係者用の階段も多い」
横溝が舌打ちする。
「逃げ道だらけか」
「それだけじゃない」
千速は図面を広げた。
「舞台の上に吊り物用のバトンがある。照明、幕、背景パネルを上下させる装置だ。古い手動式と電動式が混在してる」
押村の目が細くなった。
「事故に見せかけられる」
「そうだ」
千速は低く言った。
「舞台上で誰かに落とす。観客は見てる。でも、犯人がどこで操作したかは分からない」
押村は封筒に書かれていた言葉を思い出した。
閉じた劇場。
観客は全員、犯人を見ている。
だが、誰も犯人を覚えていない。
横溝が図面を睨む。
「舞台事故に見せかけた殺人か」
押村は首を横に振った。
「それだけなら、“誰も犯人を覚えていない”という言葉が不自然です」
千速が押村を見る。
「どういうことだ?」
「観客が犯人を見ているなら、犯人は舞台上にいる可能性があります」
横溝の眉が動く。
「役者か」
「はい」
押村はポスターを見る。
出演者は五人。
探偵役。
助手役。
令嬢役。
執事役。
謎の作家役。
そして脚本・演出が白鳥遥。
千速が低く言った。
「役者なら、観客は見てる。でも芝居の中の人物として見てるから、犯人として覚えてない」
「その可能性があります」
横溝は捜査員に指示を飛ばす。
「出演者全員を確認しろ。控室、舞台袖、吊り物装置、全部だ。中止にできる材料があれば即中止だ」
押村は劇場入口へ視線を向けた。
観客たちが次々と中へ入っていく。
その中に、犯人がいるかもしれない。
あるいは舞台の上に。
あるいは裏方に。
時間は、開演まで一時間を切っていた。
青葉市民ホールの内部は、昭和の名残を残した古い劇場だった。
赤い座席。
木製の壁。
天井から吊るされた照明。
舞台には重い緞帳が下りている。
押村たちは、支配人の案内で舞台裏へ入った。
支配人は青ざめていた。
「警察の方がこんなに……公演に何か問題でも?」
横溝が低く言う。
「安全確認だ」
「ですが、もうお客様も入っていますし――」
「人が死ぬかもしれねぇんだぞ」
支配人は言葉を失った。
押村は横から静かに言った。
「公演の中止も含めて判断します。そのために確認させてください」
「……分かりました」
舞台袖は慌ただしかった。
スタッフが走り、役者が衣装を整え、小道具が並べられている。
その中で、押村は一人の女性を見つけた。
黒いワンピース。
短く切った髪。
冷静な目。
鳥羽遥だった。
いや、今夜の名前は白鳥遥。
彼女は押村を見ると、穏やかに微笑んだ。
「来てくださったんですね」
横溝が一歩前に出る。
「公演は中止だ」
遥は首を傾げる。
「なぜですか?」
「とぼけるな」
「私は何もしていません。警察の方が想像しているだけでは?」
横溝の額に血管が浮く。
押村が制した。
「鳥羽遥さん」
「今日は白鳥です」
「では、白鳥遥さん」
押村は彼女を真っ直ぐ見た。
「第十九案とは何ですか」
遥は静かに笑った。
「今夜の演目です」
「誰が標的ですか」
「標的?」
「この舞台で、誰を殺すつもりですか」
周囲のスタッフがざわついた。
遥は少し困ったように肩をすくめる。
「押村警部補。ここは劇場です。殺す、殺されるという言葉は台本の中にいくらでもあります」
横溝が怒鳴る。
「ふざけるな!」
遥は横溝を見る。
「ふざけているのは、昔の人たちです」
その声だけが、急に冷えた。
「父も、黒崎宗一郎も、玖城怜司も。人間の死を物語として消費した。なら、その物語が現実に戻ってきても、不思議ではないでしょう」
押村は目を細める。
「復讐ですか」
遥は少しだけ笑った。
「違います」
「では何です」
「完成です」
その言葉に、押村の胸がざわついた。
「完成?」
「Kシリーズは二十あります。でも玖城怜司は、それを完成させる前に消えた。父たちは、彼を止めたと言いながら、実際には何も終わらせなかった」
遥は舞台の方を見る。
「だから私は読むんです。最後まで」
横溝が低く言った。
「狂ってやがる」
遥は横溝を見ない。
「狂っているのは、物語を途中で閉じた人たちです」
押村は静かに尋ねた。
「玖城怜司に何があったんですか」
遥の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
だが、すぐに微笑みに戻る。
「幕が上がれば分かります」
押村は言った。
「公演は中止します」
遥は首を横に振った。
「もう遅いです」
その時、舞台袖のモニターに客席が映った。
観客席はほぼ埋まっている。
ざっと二百人。
横溝が無線で言う。
「避難準備だ。客を出す」
しかし、その直後。
客席側の扉からスタッフが飛び込んできた。
「大変です! 正面入口の扉が開きません!」
支配人が叫ぶ。
「何だって?」
「鍵が……内側からも外側からも動かないんです!」
千速がすぐに走った。
押村も続く。
劇場の正面入口。
分厚い扉の鍵穴には、透明な樹脂のようなものが詰められていた。
非常口も同じ。
千速が低く言う。
「固められてる」
横溝が到着する。
「破れ!」
「外から工具を入れてる。時間がかかる」
千速は周囲を見る。
「観客を慌てさせるな。パニックになる」
押村は劇場内を見た。
閉じた劇場。
言葉通りになった。
観客は閉じ込められた。
そして、開演ベルが鳴った。
舞台の幕が上がった。
中止を命じたはずだった。
だが照明が落ち、音楽が流れ、緞帳がゆっくり上がっていく。
スタッフの一部が混乱している。
「誰が照明を!」
「音響室、応答ありません!」
横溝が怒鳴る。
「音響室を押さえろ!」
千速は舞台袖の上手側へ走った。
「私は非常口をもう一度見る!」
押村は舞台を見た。
役者たちが出ている。
探偵役の男。
助手役の女。
令嬢役の女。
執事役の男。
謎の作家役の男。
彼らの顔にも戸惑いがある。
だが、芝居は始まっていた。
いや、始めさせられている。
客席はまだ事態に気づいていない。
むしろ突然始まった演出だと思っているのか、静かに舞台を見つめていた。
探偵役が台詞を言う。
「この館は閉ざされた。犯人は、この中にいる」
客席が静まり返る。
その台詞は、今の状況と重なりすぎていた。
押村は台本を確認する。
支配人が震えながらコピーを差し出した。
押村はページをめくる。
第一幕。
密室の館。
登場人物紹介。
舞台上で灯りが消える。
再点灯すると、作家役が倒れている。
押村の手が止まった。
「横溝警部」
「何だ!」
「第一幕の終わりで、作家役が倒れる場面があります」
「殺される役か」
「はい」
押村は舞台上の謎の作家役を見た。
中年の男。
名前は神崎修。
元人気脚本家。
現在はこの劇団の客演。
押村は支配人に尋ねる。
「神崎修さんは、鳥羽悠介さんと関係がありますか」
支配人は青ざめた。
「神崎さんは、昔、鳥羽先生の弟子だったと聞いています」
横溝が低く唸る。
「またつながったな」
押村は台本を見る。
灯りが消えるまで、あと数分。
「作家役を舞台から下ろします」
押村が舞台袖へ向かおうとした瞬間、客席の照明が落ちた。
予定より早い。
舞台上だけが青白く照らされる。
音響から女の声が流れた。
録音された声。
それは鳥羽遥の声だった。
第十九案。閉じた劇場。
観客は全員、犯人を見ている。
だが、誰も犯人を覚えていない。
客席がざわつく。
役者たちも動揺している。
神崎修が舞台上で立ち尽くす。
押村は叫んだ。
「神崎さん、動かないでください!」
だが、その声は客席のざわめきにかき消された。
次の瞬間、舞台の照明がすべて消えた。
完全な暗闇。
一秒。
二秒。
三秒。
押村は暗闇の中で音を聞いた。
足音。
布が擦れる音。
金属が鳴る音。
そして、上から何かが落ちる低い音。
照明が戻った。
舞台中央に、神崎修が倒れていた。
そのすぐ横に、重い背景パネルが落ちている。
客席から悲鳴が上がった。
横溝が叫ぶ。
「救急! 舞台を封鎖しろ!」
押村は舞台へ駆け上がった。
神崎修は動かない。
だが、胸はわずかに上下していた。
「生きています!」
横溝が息を吐く。
「よし!」
しかし、押村の目はすぐに別のものを捉えた。
神崎の右手。
そこに、紙片が握られている。
押村は手袋をはめ、慎重に取った。
そこには短い文字。
犯人は、拍手の中にいる。
押村は客席を見た。
二百人の観客。
全員が舞台を見ていた。
犯人を見ていた。
だが、誰も覚えていない。
なぜなら、犯人は役者ではない。
舞台上ではなく、客席にいた。
押村は低く言った。
「違う……」
横溝が振り向く。
「何がだ」
「犯人は舞台上ではありません」
「じゃあどこだ」
押村は客席を見渡す。
「観客席です」
その時、千速の声が無線に入った。
『奏斗! 非常口の一つが開いた! 誰かが外へ出た形跡がある!』
押村は客席の後方を見る。
そこに一つ、空席があった。
開演前には埋まっていたはずの席。
通路側。
非常口に近い場所。
押村は叫んだ。
「千速、非常口側を押さえてくれ! 犯人が出た!」
『了解!』
千速は外へ飛び出した。
非常口の外は、裏手の搬入路につながっていた。
雨上がりの地面は濡れている。
千速は懐中電灯を向けた。
足跡がある。
細い靴底。
そして、バイクのタイヤ痕。
「またバイクか……!」
遠くでエンジン音がした。
千速は走った。
搬入路の先、黒い大型バイクが発進しようとしている。
乗っているのは黒いヘルメットの人物。
千速は叫ぶ。
「止まれ!」
バイクは加速した。
千速は近くに停めていた白バイへ走る。
新井が叫ぶ。
「小隊長!」
「追う!」
「危険です!」
「分かってる!」
千速はヘルメットを被り、白バイを発進させた。
夜の市街地へ、黒いバイクが飛び出す。
その後ろを、千速の白バイが追う。
無線が入る。
『千速、追跡中か』
押村の声。
「黒い大型バイクを追ってる。割れた羽の奴だ」
『無茶をするな』
「分かってる!」
黒いバイクは車の間をすり抜ける。
千速は距離を保った。
追いつきすぎない。
煽らない。
逃走車両が事故を起こせば、一般人を巻き込む。
小隊長として、無茶はできない。
でも、逃がすわけにもいかない。
「前方、港方面へ逃走中。応援を回せ!」
『了解!』
黒いバイクは倉庫街へ入った。
道路は広いが、人通りは少ない。
千速は速度を上げる。
その時、バイクの後部から何かが落ちた。
小さな金属缶。
千速は反射的に進路をずらす。
缶が弾け、中から白い煙が噴き出した。
「また発煙かよ!」
視界が遮られる。
だが千速は煙の切れ目を読んで抜けた。
黒いバイクは左へ曲がる。
しかし、その先は行き止まりだった。
倉庫のフェンス。
千速はブレーキをかけ、距離を取る。
「終わりだ。降りろ」
黒いヘルメットの人物はバイクを止めた。
ゆっくりと降りる。
千速は慎重に近づく。
「ヘルメットを外せ」
相手は動かない。
「外せ!」
その人物は、ゆっくりヘルメットに手をかけた。
外した。
中から現れたのは、若い男だった。
千速は眉を寄せる。
「鳥羽遥じゃない……」
男は青ざめていた。
二十代半ばほど。
額に汗を浮かべ、目が泳いでいる。
「頼まれただけだ……俺は、頼まれただけなんだ……」
千速は警戒を解かずに近づく。
「誰に」
男は震える声で答えた。
「白鳥って女に……」
千速の目が鋭くなる。
「鳥羽遥か」
「知らない。本名なんか知らない。ただ、逃げるだけで金を払うって……劇場が暗くなったら非常口から出て、バイクで逃げろって言われたんだ」
千速は一瞬、息を止めた。
囮。
この男は犯人ではない。
観客席から消えた人間として、警察に追わせるための駒。
千速はすぐに無線を入れた。
「奏斗! バイクの男は囮だ!」
『囮?』
「鳥羽遥に雇われただけだ。本犯じゃない!」
一瞬、無線が静かになった。
そして押村の声が低く返る。
『分かった。劇場内を再確認する』
千速は歯を食いしばった。
「くそ……!」
また先を読まれた。
いや。
読まれたのではない。
読まされている。
犯人は、警察がどう動くかまで舞台に組み込んでいる。
劇場内。
神崎修は救急搬送された。
命に別状はない。
落下した背景パネルは、直接頭部に当たってはいなかった。
だが、倒れた際に強く肩と頭を打っていた。
押村は舞台上を見ていた。
背景パネルの吊り具は、切断されていた。
しかし、問題はそこではない。
切断されたワイヤーの位置。
舞台袖からではなく、客席側から操作できるよう細工されていた。
座席の下を通した細いワイヤー。
それが後方通路の柱へ伸び、さらに非常口付近へ続いていた。
横溝が唸る。
「観客席から引いたのか」
押村は頷いた。
「はい。暗転の瞬間、観客席の誰かがワイヤーを引いた」
「じゃあ、逃げた奴が犯人じゃねぇのか」
「そう見せたかったんです」
押村は客席を見た。
空席は一つ。
だが、犯人がそこにいたとは限らない。
「ワイヤーは非常口付近を通っていますが、引く位置は一か所ではない。途中で分岐しています」
横溝の顔色が変わる。
「分岐?」
「はい」
押村は座席の下を照らす。
細いワイヤーが、何本かの座席列へ伸びていた。
「複数の観客が、同じ動作をすれば、誰が引いたか分からない」
横溝が低く言う。
「観客は全員、犯人を見ている。だが誰も覚えていない」
「はい」
押村は顔を上げる。
「犯人は一人ではありません」
横溝が目を細める。
「観客の中に、共犯が複数いる?」
「いえ」
押村は首を横に振った。
「おそらく、本人たちは共犯だと思っていません」
「どういう意味だ」
押村は座席の肘掛けを見る。
そこには、小さなカードが挟まれていた。
観客参加型演出の説明カード。
第一幕の暗転時、あなたの席の下にある紐を静かに引いてください。
物語の密室が完成します。
横溝の表情が凍った。
「ふざけやがって……」
押村の声は低かった。
「観客に引かせたんです」
無関係な観客たちに。
自分たちが演出に参加していると思わせて。
その誰かの手で、背景パネルを落とさせた。
だから、犯人は拍手の中にいる。
観客は全員、犯人を見ている。
だが、誰も犯人を覚えていない。
犯人は、全員だったから。
そして誰も、自分が犯人だと思っていない。
横溝は怒りを押し殺すように言った。
「鳥羽遥を押さえろ」
押村は舞台袖を見る。
「彼女がいません」
「何?」
「暗転後から姿が確認されていない」
横溝が無線で叫ぶ。
「鳥羽遥を探せ! まだ館内にいる可能性がある!」
押村は舞台袖へ向かった。
鳥羽遥の控室。
そこには、衣装と台本が残されていた。
机の上に、一枚の紙。
押村はそれを見た。
K-19は成功した。
殺人は未遂でも、犯人は生まれた。
次は、最後の羽。
横溝が後ろから紙を覗き込む。
「最後の羽……K-20か」
押村は紙を握りしめた。
「彼女は、神崎修を殺すことが目的ではなかった」
「じゃあ何が目的だ」
押村は客席を見た。
混乱し、不安げに座る観客たち。
その中には、自分が引いた紐で人が傷ついたかもしれないと知り、震えている人たちがいた。
「観客に、犯人になる感覚を与えることです」
横溝は言葉を失った。
押村は続ける。
「K-19は、殺人ではなく、罪の共有です」
横溝が低く吐き捨てる。
「最低だな」
「はい」
押村の目は、静かに怒っていた。
「最低です」
その時、押村のスマホが震えた。
千速からだった。
『奏斗、バイクの男を確保した。でも遥じゃない』
「分かっている」
『そっちは?』
「K-19は未遂。ただ、鳥羽遥は逃走した」
電話の向こうで、千速が息を吐いた。
『やられたな』
「ああ」
『でも、神崎って人は生きてるんだろ』
「はい」
『なら、まだ負けてねぇ』
押村は少しだけ目を閉じた。
千速の声は、いつもこういう時、押村を現実に引き戻す。
「そうだな」
『次は最後ってことか』
「K-20。彼女は最後の羽と言っています」
『なら、次で終わらせる』
「ああ」
千速は少し間を置いて、低く言った。
『奏斗』
「何だ」
『怒ってるな』
押村は黙った。
千速は続けた。
『その怒り、一人で抱え込むなよ』
押村は客席を見た。
震える観客。
倒れた神崎。
消えた鳥羽遥。
人の心を道具にする犯罪。
許せない。
だが、怒りだけで追えば、相手の舞台に乗る。
「分かった」
『本当か?』
「本当だ」
『ならいい』
通話が切れた。
押村は深く息を吐いた。
横溝が隣に立つ。
「千速か」
「はい」
「少し顔が戻ったな」
「そうですか」
「ああ」
横溝は鳥羽遥の残した紙を見た。
「最後の羽だとよ」
押村は頷いた。
「K-20が最後なら、彼女は必ず自分の物語を完成させようとします」
「次の舞台はどこだ」
押村は紙の裏を確認した。
何もない。
だが、封筒の中にもう一枚、小さな写真が入っていた。
古い集合写真。
犯罪心理研究会のメンバー。
黒崎宗一郎。
玖城怜司。
鳥羽悠介。
水原真紀。
榊亮三。
その写真の中で、一人だけ赤い丸がつけられていた。
鳥羽悠介
押村の目が鋭くなる。
「最後の標的は、鳥羽悠介です」
横溝の顔が変わった。
「父親か」
「はい」
押村は写真を見つめた。
鳥羽遥は、父を殺すつもりなのか。
それとも、父に何かを見せるつもりなのか。
Kシリーズの最後。
二十番目の羽。
それは、玖城怜司が残した物語の終幕。
押村は静かに言った。
「鳥羽悠介を保護します」
横溝はすぐに無線を入れた。
「鳥羽宅へ捜査員を回せ! 本人を保護しろ!」
しかし、返ってきた声は切迫していた。
『横溝警部! 鳥羽悠介が自宅から消えています!』
横溝が怒鳴る。
「何だと!」
『書斎に封筒が残されています。割れた羽のシールつきです!』
押村の胸が冷たくなる。
「中身は」
無線の向こうで、捜査員が紙を読む。
『K-20。最後の羽は、始まりの場所で折れる』
横溝が押村を見る。
「始まりの場所……」
押村は古い写真を見た。
犯罪心理研究会。
玖城怜司。
鳥羽悠介。
黒崎宗一郎。
始まりの場所。
押村は低く言った。
「大学です」
横溝が頷く。
「行くぞ」
押村は走り出した。
劇場の幕は下りた。
だが、本当の終幕はまだだった。
K-20。
最後の羽。
鳥羽遥は、父を連れて始まりの場所へ向かった。
二十年前に閉じられた物語を、今夜終わらせるために。