神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第29話 最後の羽

夜の大学キャンパスは、昼間とはまるで別の場所だった。

 

街灯に照らされた並木道。

雨に濡れた石畳。

古い講義棟の窓には、ところどころ薄い光が反射している。

 

押村奏斗は、車を降りるなり、正面にそびえる旧講義棟を見上げた。

 

三十五年前。

 

黒崎宗一郎。

鳥羽悠介。

玖城怜司。

 

彼らが犯罪心理研究会として集まり、推理小説と犯罪心理を語り合っていた場所。

 

そして、おそらく。

 

Kシリーズが生まれた場所。

 

横溝重悟が荒い足取りで隣に並ぶ。

 

「始まりの場所ってのがここなら、鳥羽遥は父親をここに連れてきたってことか」

 

「はい」

 

押村は構内図を確認した。

 

「犯罪心理研究会が使っていた部屋は、旧講義棟三階のゼミ室です」

 

「そこにいると思うか」

 

「可能性は高いです」

 

横溝は無線を掴む。

 

「旧講義棟を包囲しろ。出入口を全部押さえろ。鳥羽悠介の身柄保護が最優先だ。鳥羽遥は確保。ただし、刺激するな」

 

『了解』

 

押村は旧講義棟へ向かって歩き出す。

 

その時、背後から白バイのエンジン音が近づいた。

 

雨上がりの構内道路に、萩原千速が停まる。

 

ヘルメットを外し、鋭い目で二人を見た。

 

「間に合ったか」

 

横溝が眉をひそめる。

 

「お前、劇場からそのまま来たのか」

 

「バイクの男を引き渡してから来た」

 

「休む気はねぇのか」

 

「今休める状況か?」

 

横溝は舌打ちした。

 

「本当にお前らは似た者同士だな」

 

千速は押村を見る。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「状況は?」

 

「鳥羽悠介が自宅から消えた。残された封筒には、K-20。最後の羽は、始まりの場所で折れる、とあった」

 

千速は旧講義棟を見上げる。

 

「始まりの場所……ここか」

 

「おそらく」

 

「鳥羽遥は父親を殺すつもりか?」

 

押村は少し黙った。

 

「分からない」

 

千速が目を細める。

 

「分からない?」

 

「K-19では神崎修を殺すことが目的ではなかった。観客に罪を共有させることが目的だった」

 

「なら、K-20も単純な殺人じゃないってことか」

 

「そう思う」

 

横溝が低く言う。

 

「だが、危険なのは変わらねぇ」

 

押村は頷いた。

 

「はい」

 

三人は旧講義棟へ入った。

 

建物の中は、湿った空気と古い木材の匂いがした。

 

廊下の蛍光灯は半分ほどしか点いていない。

足音が、やけに大きく響く。

 

一階ロビーには誰もいない。

 

夜間の大学は警備員が巡回しているはずだったが、その姿もない。

 

横溝が無線で確認する。

 

「警備員は?」

 

『一名、管理棟で眠らされているのを発見。命に別状なし。睡眠薬の可能性があります』

 

横溝の顔が険しくなる。

 

「やりやがったな」

 

千速が低く言う。

 

「準備してたってことか」

 

押村は階段を見上げた。

 

三階。

 

そこに、始まりの部屋がある。

 

「行きましょう」

 

階段を上る。

 

二階。

三階。

 

三階廊下に出た瞬間、押村は足を止めた。

 

廊下の床に、白い羽が落ちていた。

 

本物の羽ではない。

 

紙で作られた羽。

 

その中心に、黒い線が一本入っている。

 

割れた羽。

 

千速が拾おうとすると、押村が止めた。

 

「触らないで」

 

「分かってる」

 

千速は手を引いた。

 

横溝が舌打ちする。

 

「趣味悪ぃ案内板だな」

 

廊下の奥。

 

ゼミ室の扉が少し開いている。

 

中から、薄い光が漏れていた。

 

押村は扉の前に立つ。

 

静かに耳を澄ませる。

 

声が聞こえた。

 

女の声。

 

鳥羽遥。

 

「お父さん、覚えてる?」

 

その声は、不思議なほど穏やかだった。

 

「ここで玖城怜司は、最初の羽を見せたんでしょう?」

 

押村は横溝と千速に視線を送る。

 

三人は静かに扉を開けた。

 

ゼミ室の中は、まるで舞台のように整えられていた。

 

古い長机が円形に並べられている。

 

壁には、三十五年前の犯罪心理研究会の写真が貼られていた。

 

黒崎宗一郎。

鳥羽悠介。

玖城怜司。

水原真紀。

榊亮三。

 

若い彼らが笑っている。

 

その前に、鳥羽悠介が椅子に座らされていた。

 

両手は縛られていない。

 

だが、ぐったりとしていて、自力では立てそうにない。

 

鳥羽遥はその背後に立っていた。

 

黒いワンピース。

肩にかかる短い髪。

手には、一冊の古いノート。

 

押村は静かに言った。

 

「鳥羽遥さん」

 

遥はゆっくり振り向いた。

 

「早かったですね」

 

横溝が一歩前に出る。

 

「鳥羽悠介を解放しろ」

 

遥は少し笑った。

 

「解放?」

 

「ふざけるな」

 

「私は縛っていません。お父さんは、自分の過去に縛られているだけです」

 

千速が低く言う。

 

「眠らせたんだろ」

 

遥は千速を見る。

 

「少しだけ。逃げられると困るので」

 

「十分犯罪だ」

 

「そうですね」

 

遥はあっさり認めた。

 

それが逆に不気味だった。

 

押村は鳥羽悠介の状態を見る。

 

意識はある。

 

だが、朦朧としている。

 

「鳥羽さん、聞こえますか」

 

鳥羽悠介はわずかに顔を上げた。

 

「……押村、さん」

 

「今助けます」

 

「だめだ……」

 

鳥羽は掠れた声で言った。

 

「この子は……止まらない……」

 

遥の表情が少しだけ動いた。

 

「お父さんが言うんだ」

 

その声には、初めて感情が滲んだ。

 

「止まらなかったのは、あなたたちでしょう」

 

横溝が言う。

 

「玖城怜司に何があった」

 

遥はノートを抱えるように持った。

 

「やっと聞いてくれるんですね」

 

押村は彼女を見た。

 

「あなたは、それを聞かせるためにここへ来た」

 

遥は微笑む。

 

「はい」

 

「K-20とは何ですか」

 

遥はゼミ室の壁を見る。

 

そこには大きく紙が貼られていた。

 

K-20

最後の羽。

罪を語らせる部屋。

 

横溝が眉を寄せる。

 

「罪を語らせる?」

 

遥はゆっくり話し始めた。

 

「三十五年前、玖城怜司は天才でした。人間の殺意を観察し、物語にする才能があった。でも、彼は現実に手を出そうとした」

 

鳥羽悠介が苦しそうに目を閉じる。

 

「遥……」

 

「黙ってて」

 

遥の声が鋭くなる。

 

だが、すぐにまた穏やかに戻った。

 

「玖城はKシリーズを作った。二十の殺人構造案。けれど、それはただの小説ではなかった。人間の感情を操作し、殺人へ導く実験計画だった」

 

押村は静かに聞く。

 

遥は続けた。

 

「研究会のメンバーは、それを恐れた。黒崎宗一郎、鳥羽悠介、水原真紀、榊亮三。彼らは玖城を止めようとした」

 

横溝が低く言う。

 

「どうやってだ」

 

遥は父を見た。

 

「殺したんです」

 

ゼミ室の空気が止まった。

 

千速が息を呑む。

 

押村は鳥羽悠介を見た。

 

鳥羽は震えていた。

 

「……違う」

 

遥は笑った。

 

「違わない」

 

「私たちは……殺すつもりでは……」

 

「でも死んだ」

 

遥の声が冷える。

 

「玖城怜司は、二十年前に死んだ。失踪したんじゃない。あなたたちが死体を隠した」

 

横溝が鋭く言う。

 

「証拠は」

 

遥はノートを開いた。

 

「玖城の最後のノートです。父の書斎に隠されていました」

 

鳥羽悠介が顔を歪める。

 

「なぜ……それを……」

 

「見つけたの。お父さんが、黒崎宗一郎の事件を聞いてから怯えていたから」

 

遥はページをめくる。

 

「ここに全部書いてあった。玖城は自分が殺されるかもしれないことに気づいていた。だから、最後のK-20を作った」

 

押村は静かに言った。

 

「自分を殺した者に、罪を語らせるために」

 

遥は微笑んだ。

 

「そうです」

 

千速が低く呟く。

 

「だから、最後の羽は始まりの場所で折れる……」

 

押村は鳥羽悠介を見る。

 

「鳥羽さん」

 

鳥羽は震える声で言った。

 

「私たちは……本当に、殺すつもりじゃなかった」

 

横溝が低く問う。

 

「何があった」

 

鳥羽悠介は長く沈黙した。

 

そして、ゆっくりと話し始めた。

 

「二十年前……玖城が突然現れたんです。失踪したと思っていた彼が、黒崎君の前に現れた」

 

押村の目が動く。

 

「失踪はその前から?」

 

「ええ。大学を出た後、彼は一度姿を消した。だが二十年前、戻ってきた。Kシリーズを完成させたと言って」

 

鳥羽は息を整える。

 

「彼は言った。実験を始める、と。人間の殺意を導く二十の構造を、現実で試すのだと」

 

横溝が拳を握る。

 

「それで止めようとした」

 

「はい。私たちは話し合おうとした。ここで……この部屋で」

 

鳥羽はゼミ室を見回した。

 

「だが、玖城は笑っていた。お前たちにも殺意はある、と。自分を止めたいなら殺すしかない、と」

 

遥が静かに言う。

 

「そして?」

 

鳥羽の声が震える。

 

「揉み合いになった。黒崎君が玖城を押した。玖城は机の角に頭を打った」

 

横溝が言う。

 

「事故か」

 

鳥羽は俯く。

 

「その時は、まだ息があった」

 

押村の目が細くなる。

 

鳥羽は絞り出すように続けた。

 

「救急車を呼ぼうとした。でも、黒崎君が止めた。玖城が生きていれば、私たちは終わりだと。彼は自分たちを実験台にする。人生を壊される、と」

 

千速の表情が険しくなる。

 

「見殺しにしたのか」

 

鳥羽の肩が震えた。

 

「……はい」

 

遥の目が、冷たい怒りで揺れた。

 

「お父さんたちは、玖城怜司が死ぬのを見ていた。そして死体を隠した」

 

「どこに」

 

横溝が問う。

 

鳥羽は掠れた声で答えた。

 

「旧講義棟の地下。今は封鎖された標本保管室です」

 

ゼミ室に沈黙が落ちた。

 

二十年前の死体。

 

Kシリーズの作者。

 

玖城怜司。

 

すべての始まりは、殺人ではなく、見殺しだった。

 

いや、それもまた殺人だ。

 

遥は父を見下ろした。

 

「これで、K-20は完成です」

 

押村は一歩踏み出した。

 

「まだです」

 

遥が押村を見る。

 

「何が?」

 

「あなたは、ここで鳥羽悠介さんに罪を語らせた。それが目的なら、もう終わっています」

 

遥は微笑んだ。

 

「終わり?」

 

押村は彼女の手元を見た。

 

ノート。

 

その下に、細いリモコンのようなものが見えた。

 

「あなたはまだ何かを残している」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「遥、手を見せろ」

 

遥は手を隠さなかった。

 

むしろ、ゆっくりとリモコンを見せた。

 

横溝が怒鳴る。

 

「何のスイッチだ!」

 

遥は穏やかに言った。

 

「この部屋は、二十年前から何も変わっていません。でも、少しだけ舞台を整えました」

 

押村は周囲を見る。

 

長机。

古い蛍光灯。

窓。

壁に貼られた写真。

 

そして、天井。

 

古い照明器具の上に、何かが取り付けられている。

 

千速が先に気づいた。

 

「奏斗、上!」

 

押村が見上げる。

 

天井の梁に、小型の金属容器。

 

横溝が顔を歪める。

 

「まさか爆発物か!」

 

遥は首を横に振った。

 

「爆弾じゃありません。火を出すだけです」

 

「十分危ねぇんだよ!」

 

遥の声は静かだった。

 

「この部屋は燃えます。父と、玖城怜司のノートと、私と一緒に」

 

鳥羽悠介が叫んだ。

 

「遥!」

 

遥の目から、初めて涙が落ちた。

 

「お父さん。私ね、あなたが怖がってる理由を知りたかっただけだった」

 

押村は一歩ずつ近づく。

 

「鳥羽さんを殺しても、あなたの苦しみは終わりません」

 

遥は笑った。

 

「殺す?」

 

「違うんですか」

 

「私は、お父さんを殺したいわけじゃありません」

 

遥はリモコンを握りしめる。

 

「私がお父さんに殺されたいんです」

 

千速が息を止めた。

 

横溝が低く唸る。

 

「何を言ってやがる」

 

遥は父を見る。

 

「お父さんは、二十年前、玖城を見殺しにした。だから今度は、私を見殺しにするの。そうすれば、お父さんは本当に自分の罪から逃げられなくなる」

 

押村の胸が冷たくなった。

 

K-20。

 

罪を語らせる部屋。

 

最後の羽。

 

それは、復讐のための殺人ではない。

 

父に、もう一度見殺しを選ばせるための舞台。

 

「遥さん」

 

押村の声は低く、強かった。

 

「あなたは、玖城怜司の物語に自分を差し出しているだけです」

 

遥の表情が変わる。

 

「違う」

 

「違いません」

 

押村は一歩近づく。

 

「あなたは、父親の罪を暴きたいんじゃない。自分の痛みに形を与えたいんです」

 

遥の手が震えた。

 

千速は鳥羽悠介の近くへじりじりと移動する。

 

横溝は遥の手元を見ている。

 

押村は続けた。

 

「Kシリーズは、人の殺意に物語を与えるものだった。でも、あなたには殺意だけではない。怒り、寂しさ、失望、愛情。全部がある」

 

遥の目が揺れる。

 

「黙って……」

 

「あなたは父親に死んでほしいんじゃない。見てほしかったんです」

 

「黙って!」

 

遥の指がスイッチにかかる。

 

千速が叫んだ。

 

「奏斗!」

 

その瞬間、押村は動いた。

 

遥の手を掴む。

 

リモコンが床に落ちる。

 

しかし、遥の指はボタンを押していた。

 

天井の装置から火花が散る。

 

金属容器が割れ、床に液体が滴った。

 

アルコールの匂い。

 

横溝が叫ぶ。

 

「逃げろ!」

 

火が走った。

 

壁の古い紙資料に燃え移る。

 

千速は鳥羽悠介を抱えるように立たせた。

 

「立て! 死にたくなきゃ足動かせ!」

 

鳥羽は朦朧としながらも立つ。

 

横溝が消火器を壁から引き抜き、火元に向けた。

 

「押村! 遥を連れて出ろ!」

 

押村は遥の腕を掴んでいた。

 

遥は抵抗していた。

 

「離して! 終わらせるの!」

 

「終わらせません!」

 

「どうして!」

 

押村は彼女を見た。

 

「あなたは、まだ生きている」

 

遥の顔が歪む。

 

「生きてたって……!」

 

「生きていれば、罪と向き合えます。あなたの父親も、あなたも」

 

火の勢いが増す。

 

煙が広がる。

 

千速が鳥羽を支えながら叫んだ。

 

「奏斗、早く!」

 

押村は遥を抱えるように引きずり、出口へ向かう。

 

遥は泣いていた。

 

初めて、冷静な演出家ではなく、一人の娘の顔で泣いていた。

 

「お父さんは……私を見てくれなかった……」

 

押村は言った。

 

「それを、今度は法廷で言ってください」

 

遥は泣きながら崩れた。

 

「法廷で……?」

 

「はい」

 

「物語じゃなくて?」

 

「現実として」

 

遥はもう抵抗しなかった。

 

全員が廊下へ出た直後、ゼミ室の窓が熱で割れた。

 

火はすぐに消防隊によって抑えられた。

 

旧講義棟は大きな火災にはならなかったが、ゼミ室は半分ほど焼けた。

 

だが、玖城怜司のノートの一部は押村が持ち出していた。

 

鳥羽悠介は救急搬送。

 

命に別状はなかった。

 

鳥羽遥は現住建造物等放火未遂、監禁、傷害、脅迫、その他一連の事件への関与で逮捕された。

 

校舎の外。

 

夜風の中で、押村は煙の残る旧講義棟を見上げていた。

 

千速が隣に来る。

 

「怪我は?」

 

「少し手を擦っただけだ」

 

千速は押村の手を掴んだ。

 

「見せろ」

 

「大丈夫だ」

 

「見せろ」

 

押村は素直に手を出した。

 

手の甲に擦り傷がある。

 

千速は眉を寄せた。

 

「大丈夫じゃねぇだろ」

 

「軽傷だ」

 

「お前の大丈夫は信用できねぇ」

 

「すまない」

 

千速は小さく息を吐いた。

 

そして、押村の手を離さずに言った。

 

「でも、よく止めた」

 

押村は旧講義棟を見る。

 

「止められたのかは分からない」

 

「止めたよ」

 

千速の声は強かった。

 

「鳥羽遥は生きてる。鳥羽悠介も生きてる。誰も死ななかった」

 

押村は黙った。

 

横溝が後ろから歩いてくる。

 

「珍しく千速に同意だ」

 

千速が横溝を見る。

 

「珍しくって何だよ、重悟」

 

「仕事中だぞ」

 

「今それ言うか」

 

横溝は押村を見る。

 

「押村。今回は勝ちだ」

 

押村は少しだけ目を伏せた。

 

「はい」

 

横溝は煙の上がる窓を見上げる。

 

「ただし、地下は調べる。玖城怜司の遺体が本当にあるなら、二十年前の事件も始まる」

 

押村は頷いた。

 

「分かっています」

 

「黒崎は死んだ。鳥羽は生きてる。水原と榊も探す必要がある」

 

千速が言う。

 

「事件は終わりじゃなくて、過去に戻るってことか」

 

横溝は低く答えた。

 

「ああ」

 

押村は静かに言った。

 

「でも、Kシリーズは終わりました」

 

最後の羽。

 

K-20。

 

鳥羽遥が完成させようとした物語は、燃え尽きる前に止まった。

 

人の殺意に物語を与える。

 

人の罪を舞台に変える。

 

その歪んだ連鎖は、ここで断ち切られた。

 

少なくとも、今夜は。

 

翌朝。

 

旧講義棟の地下、封鎖された標本保管室から、白骨化した遺体が発見された。

 

身元確認には時間がかかる。

 

だが、遺留品の中に古い万年筆があった。

 

そこには、小さく名前が刻まれていた。

 

玖城怜司

 

二十年前の真実が、ようやく地上へ戻ってきた。

 

鳥羽悠介は病院のベッドで、すべてを供述する意思を示した。

 

水原真紀と榊亮三にも事情聴取が行われることになった。

 

黒崎宗一郎はすでに死んでいる。

 

だが、彼もまた、二十年前の罪を抱えたまま殺されたのだ。

 

押村は報告書を閉じた。

 

会議室には、横溝と千速がいた。

 

横溝が言う。

 

「一応、これで一つの山は越えたな」

 

千速が腕を組む。

 

「一応、か」

 

「過去の事件が残ってるからな」

 

押村は頷いた。

 

「はい。ただ、黒崎邸から始まった一連のKシリーズ事件は、鳥羽遥の逮捕で止まりました」

 

千速は押村を見る。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「ちゃんと飯食えよ」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「また始まった」

 

押村は真面目に答える。

 

「分かった」

 

千速は目を細める。

 

「分かっただけじゃ信用しねぇ」

 

「では、今日一緒に食事に行くか」

 

横溝が天井を仰いだ。

 

「俺の前で誘うな」

 

千速は一瞬顔を赤くしたが、すぐに笑った。

 

「いいぞ。今日は私が奢る」

 

押村が少し驚く。

 

「いいのか」

 

「事件終わりの打ち上げだ」

 

横溝がぼそっと言う。

 

「俺は?」

 

千速が横溝を見る。

 

「来たいのか?」

 

「いや、聞いただけだ」

 

押村は静かに言った。

 

「横溝警部もご一緒しますか」

 

横溝は押村を睨んだ。

 

「真顔で言うな。行かねぇよ」

 

千速は吹き出した。

 

久しぶりに、緊張のない笑いだった。

 

押村はその笑顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。

 

事件は完全には終わっていない。

 

二十年前の罪。

玖城怜司の死。

Kシリーズが生んだ傷。

 

それらはこれから、法と証言の中で裁かれていく。

 

だが、少なくとも今。

 

鳥羽遥は生きている。

鳥羽悠介も生きている。

次の羽はもうない。

 

押村は窓の外を見た。

 

雨は止んでいた。

 

雲の切れ間から、朝の光が差し込んでいる。

 

千速が隣に立つ。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「次は、もう少し普通の事件がいいな」

 

押村は少しだけ考えた。

 

「普通の事件というものは、あまりない」

 

千速は苦笑した。

 

「だと思った」

 

横溝が背後で資料を抱える。

 

「お前ら、余韻に浸ってるところ悪いが、仕事だ」

 

千速が肩をすくめる。

 

「はいはい」

 

押村は資料を手に取った。

 

日常が戻ってくる。

 

事件があり、嘘があり、誰かの痛みがある。

 

それでも、押村はもう一人で抱え込まない。

 

隣には千速がいる。

 

前には横溝がいる。

 

そして、彼らはまた次の現場へ向かう。

 

割れた羽の物語は、ここで幕を下ろした。

 

だが、押村奏斗と萩原千速の物語は、まだ続いていく。

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