本牧ふ頭へ向かう車内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
運転席には横溝重悟。
助手席には押村奏斗。
窓の外では、港へ続く道路を大型トラックが何台も行き交っている。コンテナを積んだ車両、海風に揺れる街路樹、灰色の空。昼間だというのに、倉庫街へ近づくほど空気は冷たく感じられた。
横溝はハンドルを握ったまま、低い声で言った。
「押村」
「はい」
「三年前の件、お前まだ引きずってんのか」
押村は少しだけ沈黙した。
「……忘れたことはありません」
「そういう意味じゃねぇ」
横溝の目は前を向いたままだった。
「自分の責任だと思ってねぇかって聞いてんだ」
押村は答えなかった。
三年前。
港北区で起きた高校生のひき逃げ死亡事件。
あの時、押村はまだ若かった。
捜査一課に異動して間もなく、何もかもに必死だった。
現場に残された小さな手提げ袋。
中に入っていたのは、安物のネックレスだった。
母親への誕生日プレゼント。
それを見た時、押村は初めて「事件の資料」ではなく、「誰かの人生」を扱っているのだと思い知った。
だが、犯人は捕まらなかった。
黒いセダンは消えた。
証拠は途中で途切れた。
被害者の母親は、何度も何度も県警に足を運んだ。
「まだですか」
「もう少しですか」
「息子を殺した人は、まだ普通に生きているんですか」
その言葉を、押村は忘れられなかった。
「押村」
横溝の声が少し強くなる。
「一人で背負うなって、何回言わせんだ」
「背負っているつもりはありません」
「嘘つけ」
短い言葉だった。
だが、横溝の声には怒りだけではないものが混じっていた。
押村は窓の外へ目を向ける。
「……犯人を逃した事実は変わりません」
「逃したのはお前一人じゃねぇ。俺もだ。交通部もだ。県警全体だ」
「ですが、当時の車両照会で――」
「それ以上言うな」
横溝が低く遮った。
「お前はいつもそうだ。後から拾った小さなミスを全部自分に貼り付ける。そんなことしても、死んだ人間は戻らねぇ」
押村はわずかに拳を握った。
「分かっています」
「分かってねぇから言ってんだよ」
車内にまた沈黙が落ちる。
その時、前方に赤色灯の光が見えた。
本牧ふ頭近くの倉庫街。
古びた倉庫が並ぶ一角に、数台のパトカーと鑑識車両が停まっていた。
横溝は車を停め、すぐに降りた。
「行くぞ」
「はい」
押村も車を降りる。
潮の匂いと油の匂いが混ざった空気が鼻をついた。
遠くでクレーンが唸り、コンテナを吊り上げている。
規制線の向こうに、黒いセダンがあった。
古い型のクラウン。
黒いボディは潮風と埃でくすんでいる。
左後部のバンパーには、白く擦れた傷。
押村の胸が、静かにざわめいた。
間違いない。
三年前、何度も捜査資料の中で追い続けた車。
ようやく目の前に現れた。
横溝が現場の警察官に声をかける。
「状況は」
「はい。巡回中の警らが発見しました。エンジンは停止。運転席に男性一名。発見時は意識不明でしたが、救急搬送後、かろうじて意識が戻ったとの連絡が入っています」
「身元は」
「免許証がありました。名前は、三浦亮介。三十五歳。住所は川崎市内です」
押村がすぐに反応した。
「三浦亮介……」
横溝が視線を向ける。
「知ってる名前か」
「三年前のひき逃げ事件で、一度名前が出ています」
「何?」
押村は記憶をたどるように言った。
「当時、被害者の通学路付近にあった整備工場の従業員です。黒いセダンを見たかどうか、任意で事情を聞かれていました。ただ、その時は有力な証言はありませんでした」
横溝の顔が険しくなる。
「つまり、三年前の周辺人物が、三年前の疑惑車両の中で倒れてたってことか」
「そうなります」
そこへ、白バイのエンジン音が近づいてきた。
萩原千速だった。
ヘルメットを脱ぎながら、規制線の前で足を止める。
「奏斗、重悟」
「千速、早かったな」
横溝が言うと、千速は肩をすくめた。
「道路の上なら、うちらの庭だって言ったろ」
そして黒いセダンを見た瞬間、千速の表情が消えた。
「……これか」
「ああ」
押村が頷く。
千速は車の左後部に回り、白い擦り傷を見つめた。
普段なら冗談の一つでも飛ばす彼女が、何も言わない。
押村はその横顔を見た。
千速もまた、三年前の事件を忘れていない。
あの夜、彼女は白バイで周辺道路を駆けずり回った。
目撃情報を追い、逃走経路を絞り、何度も無線に耳を澄ませた。
それでも、黒いセダンは見つからなかった。
千速は小さく言った。
「今さら出てきやがって」
その声には怒りがにじんでいた。
鑑識員が近づいてくる。
「横溝警部、車内の簡易確認が終わりました」
「どうだ」
「運転席周辺に血痕。量は多くありません。男性本人のものと思われますが、鑑定待ちです。助手席側にも少量の血痕があります」
「助手席?」
押村の目が細くなる。
鑑識員は頷いた。
「はい。それと、後部座席からこれが見つかりました」
証拠袋の中には、古いキーホルダーが入っていた。
小さな青いイルカのキーホルダー。
一部が欠けている。
押村の呼吸がわずかに止まった。
横溝が気づく。
「押村?」
押村は証拠袋を見つめたまま言った。
「三年前の被害者の鞄についていたものです」
千速が勢いよく振り向いた。
「何だって?」
「当時、現場で鞄は発見されました。ただ、鞄についていたキーホルダーが一つなくなっていました。母親が、青いイルカのキーホルダーだったと証言しています」
横溝の顔がみるみる険しくなる。
「それがこの車の後部座席にあったってことは……」
「この車が三年前のひき逃げに関わっていた可能性は高いです」
押村の声は冷静だった。
だが、千速には分かった。
冷静すぎる時の押村は、危ない。
感情を抑え込んでいる。
怒りも後悔も、全部胸の奥に押し込めて、事件だけを見ようとしている。
千速は一歩近づいた。
「奏斗」
「大丈夫だ」
「まだ何も言ってねぇよ」
「顔に出ている」
「お前の方が出てる」
押村は答えなかった。
横溝が鑑識員に尋ねる。
「車内に凶器らしきものは」
「現時点ではありません。ただ、トランクから工具箱が出ています」
「工具箱?」
「はい。中に古い血痕らしきものが付着したレンチがあります。こちらも鑑定に回します」
横溝は舌打ちした。
「三年前の証拠が今さらごろごろ出てきやがる」
押村は黒いセダンの運転席を覗き込んだ。
シートには血が残っている。
ステアリングにも、わずかな赤黒い跡。
足元には、泥と細かなガラス片。
そして、灰皿の中に焦げた紙片があった。
押村は鑑識員に声をかける。
「これを」
鑑識員が慎重に紙片を回収する。
黒く焼けているが、一部だけ文字が残っていた。
『……三年前の……見ていた……』
横溝が低く呟く。
「口封じか」
千速の表情が険しくなる。
「三浦って男は、三年前の事件の何かを知ってた。で、今になって誰かに消されかけた」
「その可能性があります」
押村は頷いた。
その時、現場の警察官が走ってきた。
「横溝警部!」
「何だ」
「搬送先の病院からです。三浦亮介が意識を取り戻しました。ただ、かなり衰弱していて、話せる時間は限られるとのことです」
押村がすぐに動こうとした。
「行きます」
だが、その腕を千速が掴んだ。
押村は振り向く。
「萩原?」
千速は真っ直ぐに押村を見た。
「私も行く」
「これは捜査一課の――」
「三年前の事件は交通部も関わってる。あの車を追ったのは私たちだ」
「しかし――」
「それに」
千速は声を低くした。
「お前一人で行かせたら、三浦の言葉を全部自分の中に抱え込むだろ」
押村は黙った。
横溝が二人の間に割って入るように言った。
「千速も来い」
押村が横溝を見る。
「横溝警部」
「文句あるか」
「……ありません」
「なら決まりだ」
横溝は現場の刑事に指示を出す。
「車両は徹底的に調べろ。三年前の事件との関連資料も全部引っ張れ。廃車業者の関係者も洗い直せ」
「はい!」
三人は現場を離れ、病院へ向かった。
搬送先の病院は、港から車で二十分ほどの場所にあった。
病室の前には制服警官が立っている。
横溝が手帳を見せると、すぐに通された。
病室の中は白く、静かだった。
ベッドの上に、三浦亮介が横たわっている。
頬はこけ、唇は乾き、顔色は紙のように白い。
右腕には点滴が刺さり、額には包帯が巻かれていた。
押村たちが入ると、三浦の目がわずかに動いた。
横溝が低く声をかける。
「三浦亮介さん。神奈川県警捜査一課の横溝です。話せますか」
三浦は苦しげに息を吸った。
「……警察……」
「あなたが乗っていた黒いセダンについて聞きたい」
その言葉に、三浦の瞳が怯えたように揺れた。
押村が一歩前に出る。
「三年前、港北区で起きたひき逃げ事件を覚えていますか」
三浦の喉が小さく動いた。
「……俺じゃ……ない」
かすれた声だった。
千速が眉を寄せる。
「じゃあ誰だ」
三浦は天井を見つめ、震える唇を動かした。
「俺は……見ただけだ」
押村の目が鋭くなる。
「何を見たんですか」
「車を……運転してた男……」
横溝が身を乗り出す。
「名前は」
三浦は答えようとした。
だが、急に呼吸が乱れる。
モニターの音が速くなった。
看護師が慌てて入ってくる。
「すみません、これ以上は――」
押村は一歩引かなかった。
「三浦さん、お願いします。三年前の被害者のためにも、教えてください」
三浦の目から涙が流れた。
「……あいつは……警察の……」
押村の表情が固まる。
横溝も、千速も動きを止めた。
三浦は最後の力を振り絞るように、声を絞り出した。
「警察の……人間だ……」
その瞬間、病室の空気が凍った。
看護師が押村たちを下がらせる。
医師が駆け込んでくる。
三浦の言葉は、そこで途切れた。
廊下に出された三人は、しばらく誰も口を開かなかった。
警察の人間。
三年前のひき逃げ犯が、警察内部にいる。
それが事実なら、事件はただの未解決事件ではない。
組織の奥に隠された闇だ。
千速が低く言った。
「……冗談じゃねぇぞ」
横溝は拳を握りしめていた。
「押村」
「はい」
「今の話、外には漏らすな」
「分かっています」
「内部に犯人がいるなら、情報が漏れた瞬間に逃げられる」
「はい」
押村の声は静かだった。
だが、その目は暗く燃えていた。
千速が押村を見つめる。
「奏斗」
押村は振り向いた。
「今度は、本当に一人で抱えるな」
押村は少しだけ間を置いた。
そして、静かに頷いた。
「分かった。萩原、横溝警部」
二人の名前を呼び、押村は言った。
「力を貸してください」
横溝は荒々しく笑った。
「最初からそのつもりだ、馬鹿野郎」
千速も口元を上げる。
「やっと言ったな、奏斗」
押村は病室の扉を見つめた。
黒いセダン。
三年前のひき逃げ。
消された証人。
そして、警察内部の犯人。
事件は、県警そのものを揺るがすものへと変わった。
その時、押村のスマホが震えた。
差出人不明のメール。
本文は、たった一行。
『三年前を掘るな。次は萩原千速が死ぬ』
押村の顔から血の気が引いた。
千速が画面を覗き込む。
「……上等だ」
彼女は低く呟いた。
「こっちから追い詰めてやる」
横溝は鋭い目で廊下の先を睨んだ。
「押村、千速。ここからは内通者との勝負だ」
押村はスマホを握りしめた。
一人ではない。
今度は、二人がいる。
それでも胸の奥に湧き上がる怒りと恐怖は、簡単には消えなかった。
白い病院の廊下に、三人の足音だけが響く。
三年前の闇が、ついに牙を剥いた。