その日の夜。
横浜駅から少し離れた路地にある居酒屋は、平日にもかかわらずほどよく賑わっていた。
派手すぎず、静かすぎず。
座敷席とカウンターがあり、焼き鳥の匂いと、だし巻き卵の湯気が漂っている。
萩原千速は、店の入口で腕を組んで立っていた。
「で?」
目の前には、押村奏斗。
そして、その少し後ろに横溝重悟。
千速は二人を交互に見た。
「何で重悟がいるんだ?」
横溝が眉をひそめる。
「お前が呼んだんだろうが」
「呼んだ」
「なら何でって何だ」
「いや、来るとは思わなくて」
「殴るぞ」
押村が静かに言った。
「千速は、事件の打ち上げだと言っていた」
「言ったな」
「横溝警部も、一連の捜査の中心にいた」
「いたな」
「なら、三人で食事をするのは自然だと思う」
千速は押村を見る。
「奏斗」
「何だ」
「お前、重悟を気遣ってるのか?」
押村は少し考えた。
「はい」
横溝が顔をしかめる。
「やめろ。気持ち悪ぃ」
「失礼しました」
「謝るな。余計に気持ち悪ぃ」
千速が吹き出した。
「いいじゃねぇか。たまには三人で飲むのも」
横溝は鼻を鳴らす。
「俺は飲みすぎねぇぞ。明日も仕事だ」
千速がにやりと笑う。
「へぇ。重悟が大人みたいなこと言ってる」
「俺はお前らより大人だ」
「年齢だけな」
「千速」
「何だよ」
「仕事終わりだからって油断すんなよ」
「はいはい、横溝警部」
「棒読みやめろ」
押村は二人のやり取りを見て、少しだけ表情を緩めた。
それに気づいた千速が目を細める。
「奏斗、笑ったな」
「少し」
「珍しい」
「最近、よく言われる」
横溝がぼそっと言う。
「千速のせいだな」
千速が一瞬だけ顔を赤くする。
「何でそこで私なんだよ」
「分かりやすいからだよ」
「うるせぇ」
三人は店の中へ入った。
案内されたのは、奥の半個室だった。
横溝が上座に座ろうとして、千速が先にどかっと腰を下ろした。
「おい」
「何だ?」
「そこは俺だろ」
「細けぇな。階級順か?」
「そういう問題じゃねぇ」
押村が静かに言った。
「では、横溝警部はこちらへ」
「お前は真面目に調整するな」
結局、千速が奥、押村がその隣、横溝が向かいに座る形になった。
店員が注文を取りに来る。
千速はメニューを見ながら言った。
「とりあえず生でいいか?」
横溝が頷く。
「俺は生」
押村は少し考える。
「烏龍茶で」
千速と横溝が同時に押村を見る。
押村は二人の視線に気づき、首を傾げた。
「何ですか」
千速が言う。
「飲まねぇのか?」
「明日、報告書の確認があります」
横溝がため息をつく。
「お前なぁ。打ち上げだぞ」
「飲酒しなくても打ち上げはできます」
「正論で返すな」
千速は少し笑った。
「いいんじゃねぇの。奏斗らしい」
押村はメニューを見ながら言う。
「君は飲むのか」
「飲む」
「明日は?」
「勤務だ」
押村が黙る。
千速が眉を上げる。
「何だよ」
「飲みすぎないように」
「お前は私の上司か」
「彼氏として言った」
千速の顔が一気に赤くなった。
横溝が箸袋を握り潰しそうになる。
「押村」
「はい」
「俺の前でそういうのを平然と言うな」
「事実です」
「事実なら何でも言っていいわけじゃねぇ」
千速は片手で顔を覆った。
「奏斗……お前、本当にさ……」
「嫌だったか」
「嫌じゃねぇから困ってんだよ」
横溝が天井を仰いだ。
「帰っていいか」
「まだ何も食ってねぇだろ、重悟」
「もう腹いっぱいだ」
そんなことを言いながらも、横溝は席を立たなかった。
飲み物が運ばれてくる。
千速がジョッキを持ち上げた。
「じゃあ、一応」
横溝もジョッキを持つ。
押村は烏龍茶のグラスを持った。
千速は二人を見る。
「Kシリーズ事件、お疲れ」
横溝が低く言う。
「死者を増やさずに済んだ」
押村も静かに頷く。
「はい」
千速は少しだけ表情を柔らかくした。
「じゃあ、乾杯」
三つのグラスが軽く鳴った。
最初の料理が運ばれてきた。
枝豆。
刺身。
焼き鳥。
だし巻き卵。
唐揚げ。
千速は迷わず唐揚げに箸を伸ばした。
「うまい」
横溝が焼き鳥を取りながら言う。
「お前、本当に肉好きだな」
「悪いか」
「悪くねぇけど、白バイ乗ってる奴の食い方じゃねぇ」
「白バイ隊員だって肉食うだろ」
押村が静かに唐揚げを一つ取り皿に置き、千速の前に寄せた。
千速がそれを見る。
「何だよ」
「好きそうだったから」
「……ありがと」
横溝がその様子を見て、露骨に顔をしかめる。
「自然にやるな」
押村は不思議そうに見る。
「何をですか」
「今の全部だ」
千速が苦笑する。
「重悟、諦めろ。奏斗はこういう奴だ」
「お前も慣れるな」
「慣れてねぇよ」
「顔赤いぞ」
「うるせぇ」
押村は少しだけ千速を見る。
「赤いのか」
「見るな」
「すまない」
「謝るな」
横溝はビールを飲みながら、ぼそっと言った。
「事件の犯人より厄介だな、お前ら」
千速は笑った。
「それは言いすぎだろ」
「いや、ある意味でこっちの方が読めねぇ」
押村が真面目に言う。
「俺たちの関係がですか」
「聞き返すな」
「すみません」
「だから謝るなって言ってんだろ」
三人の空気は、事件現場とはまるで違っていた。
張り詰めた緊張もない。
無線の音もない。
誰かの悲鳴もない。
ただ、料理があって、酒があって、少し乱暴な会話がある。
千速はジョッキを置き、ふっと息を吐いた。
「こういうの、久しぶりだな」
押村が見る。
「三人で食事をすることが?」
「ああ。事件じゃなくてさ」
横溝は枝豆をつまみながら言った。
「お前ら、事件の後でもすぐ仕事に戻るからな」
「それ、重悟もだろ」
「俺はいいんだよ」
「何でだよ」
「上司だからだ」
千速は呆れたように笑う。
「便利な言葉だな、上司」
押村が静かに言った。
「横溝警部は、俺たちを見ていてくれています」
横溝の箸が止まった。
千速も少し押村を見る。
押村は続ける。
「今回も、俺が考えすぎる前に止めてくれました」
横溝は顔をしかめる。
「やめろ」
「事実です」
「だから、事実なら何でも言うな」
千速は少し笑った。
「照れてんのか、重悟」
「照れてねぇ」
「耳赤いぞ」
「酒だ」
「一杯目だろ」
横溝は不機嫌そうにビールを飲んだ。
「お前ら、こういう時だけ息合うな」
千速は押村を見る。
押村も少しだけ視線を返す。
千速はそれだけで、少し笑った。
「まあな」
しばらく料理を食べた後、話題は自然と事件のことになった。
横溝が焼酎に変えながら言う。
「鳥羽遥の供述、始まったらしいな」
押村は頷く。
「はい。黒崎玲子への電話、風見台の封筒、劇場の仕掛けについては関与を認めています」
千速が箸を止める。
「Kシリーズは全部、遥が動かしたのか?」
「黒崎邸の実行は玲子と拓真です。遥は玲子を誘導した。風見台は、美怜さんを証人として呼び出した。ただ、黒いレインコートで彼女を押した人物については、まだ曖昧です」
横溝が低く言う。
「共犯か、遥が雇った人間か」
「はい」
「劇場の観客参加型の仕掛けは?」
「遥が演出として組み込んだようです。スタッフの一部も、危険性を知らずに協力していました」
千速の顔が険しくなる。
「気持ち悪いな」
押村は静かに頷く。
「はい」
横溝が押村を見る。
「お前、まだ引きずってるだろ」
押村は答えなかった。
千速も押村を見た。
押村は少しだけ視線を落とす。
「観客に紐を引かせたことが、どうしても」
千速は何も言わなかった。
横溝も黙っている。
押村は続けた。
「自分が誰かを傷つけたかもしれないと思わせる。それも、演出の名で」
千速が低く言った。
「最悪だな」
「はい」
「でも、神崎さんは生きてる」
押村は千速を見る。
千速はまっすぐに言った。
「観客も、ちゃんと説明を受けてる。悪いのは仕掛けた遥だ。紐を引いた人たちじゃない」
押村は黙った。
横溝が続ける。
「そうだ。お前が全部背負うな。お前が紐を引いたわけじゃねぇ」
押村は小さく息を吐いた。
「分かっています」
千速が目を細める。
「分かってる顔じゃねぇな」
押村は困ったように言う。
「顔に出ていますか」
横溝と千速が同時に言った。
「出てる」
押村は少しだけ目を伏せた。
「……努力します」
千速が箸で押村の取り皿にだし巻き卵を乗せる。
「食え」
押村がそれを見る。
「これは?」
「考えすぎ防止だ」
横溝が唐揚げを一つ追加する。
「ついでにこれも食え」
押村は二人を見る。
「ありがとうございます」
横溝が顔をしかめる。
「真面目に礼を言うな。調子狂う」
千速は少し柔らかい顔で言った。
「奏斗」
「何だ」
「一人で抱えるなって、何回も言っただろ」
「はい」
「抱えそうになったら、飯食わせるからな」
押村は少しだけ考えた。
「効果があるのか」
「ある」
横溝が頷く。
「あるな。人間は食って寝りゃ、多少まともになる」
「横溝警部らしい理論ですね」
「文句あんのか」
「ありません」
千速は笑った。
「じゃあ食え。事件の話は一回終わり」
押村は頷いた。
「分かった」
二杯目に入った頃、横溝の口調は少しだけ緩んでいた。
「そういや千速」
「何だ」
「お前、風見台で美怜を助けた時、相当危なかったらしいな」
千速は刺身を食べながら答える。
「そうでもねぇよ」
押村が即座に見る。
「危なかったのか」
千速はしまった、という顔をした。
横溝がにやりと笑う。
「崖の柵のところで腕掴んだんだろ」
「重悟」
「足場も滑ってたらしいな」
「重悟」
「あと一歩遅けりゃ、二人とも――」
「横溝警部」
押村の声が低くなった。
横溝が一瞬黙る。
千速も押村を見る。
押村は静かに言った。
「詳しく聞かせてください」
千速は目を逸らした。
「いや、あれは……」
「千速」
「何だよ」
「怪我はなかったのか」
「なかった」
「本当に?」
「本当だ」
「無茶はしていないのか」
千速は少し口を尖らせた。
「結果的に助けられたんだからいいだろ」
押村は黙る。
その沈黙が、千速には少し痛かった。
千速はビールを置き、少し声を柔らかくする。
「奏斗」
「何だ」
「無茶したつもりはない。小隊長として、助けられる距離にいたから動いた」
押村は彼女を見る。
千速は続ける。
「でも、心配かけたなら悪かった」
押村は少しだけ目を伏せる。
「謝ってほしいわけではない」
「分かってる」
「ただ、君が危険な場所にいたと聞くと、冷静ではいられない」
千速の顔が少し赤くなる。
横溝がビールを飲みながら小さく咳払いした。
「俺、いるぞ」
千速が横溝を睨む。
「知ってるよ」
押村は真面目に横溝を見る。
「すみません」
「俺に謝るな」
千速は少し照れ隠しのように枝豆を押村の皿へ入れた。
「はいはい。心配してくれてありがとな」
押村はその枝豆を見る。
「これは?」
「心配料」
「そういう制度があるのか」
「今作った」
横溝が呆れたように笑った。
「お前ら、本当に面倒くせぇな」
千速も笑う。
「重悟も大概だろ」
「俺のどこがだ」
「心配してるくせに口が悪い」
「口は元からだ」
「知ってる」
押村が静かに言った。
「横溝警部は、優しいです」
横溝は今度こそ本気で嫌そうな顔をした。
「押村。お前、酒飲んでねぇよな?」
「飲んでいません」
「素面でそれか」
千速が腹を抱えて笑った。
料理が少なくなってきた頃、千速は少しだけ真面目な顔になった。
「なあ、重悟」
「何だ」
「二十年前の事件、どうなると思う」
横溝は箸を置いた。
「玖城怜司の遺体が本人と確認されれば、死体遺棄は確実に動く。殺人か保護責任者遺棄か、そこは供述と証拠次第だ」
押村が続ける。
「鳥羽悠介、水原真紀、榊亮三の供述が必要になります。黒崎宗一郎は死亡しているため、当時の客観証拠をどこまで拾えるかが課題です」
千速は静かに聞いていた。
「遥は、それを暴きたかったんだよな」
押村は頷く。
「はい。ただし、方法を間違えた」
「分かってる」
千速は少しだけグラスを見つめた。
「でもさ。親の罪を知って、あそこまで壊れるって……きついな」
横溝が低く言う。
「同情はできる。だが、許されねぇ」
「分かってるよ」
押村は千速を見た。
彼女の横顔には、どこか遠いものを見るような表情があった。
大切な人を失った者にしか分からない痛み。
父親への怒りと愛情がねじれた鳥羽遥の苦しみを、千速は完全には否定できないのかもしれない。
押村は静かに言った。
「千速」
「何だ」
「彼女が生きていることには、意味があると思う」
千速は押村を見る。
押村は続ける。
「罪は消えない。でも、生きていれば語ることはできる。裁かれることも、謝ることも、やり直すことはできなくても向き合うことはできる」
千速は少し黙った。
それから、小さく頷いた。
「そうだな」
横溝は二人を見て、少しだけ声を落とす。
「お前ら、刑事と白バイやってんのに、時々坊主みたいなこと言うな」
千速が笑った。
「重悟が言うと説得力ねぇな」
「何でだ」
「見た目は坊主っぽいのに」
「髪型の話かよ」
押村は真面目に言った。
「横溝警部は、説法より説教の方が似合います」
横溝は押村を睨んだ。
「お前、たまにすげぇ失礼だな」
千速はまた笑った。
会計は、千速が言い出した通り自分が払うと言った。
だが、横溝が伝票を奪った。
「今回は俺が払う」
千速が眉を上げる。
「何でだよ。今日は私が奢るって言っただろ」
「お前ら二人に払わせたら、後で妙な空気になる」
「妙な空気って何だ」
横溝は押村を指した。
「こいつが真面目に礼を言って、お前が照れて、俺が不快になる」
千速は言葉に詰まる。
押村は静かに言う。
「ありがとうございます」
横溝が即座に顔をしかめる。
「ほらもう始まった」
千速は笑いながら財布を出そうとする。
「じゃあ割り勘でいいだろ」
「いい。今日は上司命令だ」
「私、あんたの部下じゃねぇぞ」
「細けぇこと言うな」
横溝はさっさと会計へ向かった。
千速はその背中を見て、小さく呟いた。
「格好つけやがって」
押村が言う。
「優しいですね」
「本人に言うなよ」
「もう言いました」
「そうだった」
二人が店の外へ出ると、夜風が少し冷たかった。
横溝が後から出てくる。
「帰るぞ」
千速が言う。
「重悟、ありがとな」
横溝は目を逸らす。
「別に」
押村も頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
「お前は本当に丁寧すぎる」
「感謝しています」
「分かった分かった」
千速は少し笑いながら、横溝を見る。
「次は私が払うからな」
「次があればな」
「あるだろ」
横溝は少しだけ目を細めた。
「そうだな」
三人は駅へ向かって歩き出した。
道の途中で、横溝が先に曲がる。
「俺はこっちだ」
千速が手を上げる。
「お疲れ、重悟」
「おう。明日遅刻すんなよ」
「しねぇよ」
横溝は押村を見る。
「押村」
「はい」
「千速を送ってけ」
千速が即座に言う。
「一人で帰れる」
「知ってる。だが送ってけ」
押村は頷いた。
「分かりました」
「奏斗まで真面目に返事すんな」
横溝は二人を見て、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあな」
そう言って、横溝は夜道へ歩いていった。
千速はその背中を見送りながら言った。
「重悟、ほんと不器用だな」
押村が隣で頷く。
「はい」
「でも、ありがたいな」
「はい」
しばらく二人は並んで歩いた。
さっきまで三人だった道が、今は二人になっている。
千速は少しだけ押村を見る。
「奏斗」
「何だ」
「今日、楽しかったな」
押村は頷いた。
「楽しかった」
「事件の打ち上げなのに、こんなこと言うのも変だけどさ」
「変ではないと思う」
「そうか?」
「はい。終わった後に、ちゃんと笑えることは大事だ」
千速は少しだけ目を伏せる。
「そうだな」
夜風が吹く。
千速はふと、押村の手を見た。
昼間、擦り傷があった手。
千速はその手を取った。
押村が少し驚いたように見る。
「千速?」
「怪我の確認」
「もう確認した」
「二回目だ」
「そうか」
押村はそのまま手を握り返した。
千速は少し照れたが、離さなかった。
「奏斗」
「何だ」
「次の事件が来るまでに、また飯行こうな」
「三人で?」
千速は少し考えた。
「三人でもいいし」
押村を見る。
「二人でもいい」
押村の表情が柔らかくなる。
「二人で行きたい」
千速は顔を赤くした。
「即答すんな」
「大事なことだから」
「ほんと、お前は……」
千速は呆れたように笑った。
でも、手は離さない。
事件は終わった。
過去の清算はまだ続く。
明日になれば、また書類と聴取と現場が待っている。
それでも今夜は。
横溝の不器用な優しさと、千速の笑い声と、押村の静かな言葉があった。
三人で囲んだ食卓。
事件の後に戻ってくる日常。
それは派手な打ち上げではなかった。
けれど、三人にとっては十分だった。
千速は夜空を見上げ、小さく言った。
「明日は晴れるかな」
押村も空を見る。
「晴れるといい」
「白バイ乗るには晴れがいいからな」
「そうだな」
「奏斗は?」
「君が走りやすいなら、晴れがいい」
千速はまた顔を赤くする。
「……そういうところだぞ」
「何が」
「もういい」
千速は少しだけ押村の手を強く握った。
押村も、同じ強さで握り返した。
二人は駅へ向かって歩いていく。
少し前を歩いていた横溝が振り返ったら、きっとまた「俺の前でやるな」と言っただろう。
けれど今は、二人だけだった。
だから千速は、そのまま手を離さなかった。