神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第30話 事件終わりの三人

その日の夜。

 

横浜駅から少し離れた路地にある居酒屋は、平日にもかかわらずほどよく賑わっていた。

 

派手すぎず、静かすぎず。

座敷席とカウンターがあり、焼き鳥の匂いと、だし巻き卵の湯気が漂っている。

 

萩原千速は、店の入口で腕を組んで立っていた。

 

「で?」

 

目の前には、押村奏斗。

 

そして、その少し後ろに横溝重悟。

 

千速は二人を交互に見た。

 

「何で重悟がいるんだ?」

 

横溝が眉をひそめる。

 

「お前が呼んだんだろうが」

 

「呼んだ」

 

「なら何でって何だ」

 

「いや、来るとは思わなくて」

 

「殴るぞ」

 

押村が静かに言った。

 

「千速は、事件の打ち上げだと言っていた」

 

「言ったな」

 

「横溝警部も、一連の捜査の中心にいた」

 

「いたな」

 

「なら、三人で食事をするのは自然だと思う」

 

千速は押村を見る。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「お前、重悟を気遣ってるのか?」

 

押村は少し考えた。

 

「はい」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「やめろ。気持ち悪ぃ」

 

「失礼しました」

 

「謝るな。余計に気持ち悪ぃ」

 

千速が吹き出した。

 

「いいじゃねぇか。たまには三人で飲むのも」

 

横溝は鼻を鳴らす。

 

「俺は飲みすぎねぇぞ。明日も仕事だ」

 

千速がにやりと笑う。

 

「へぇ。重悟が大人みたいなこと言ってる」

 

「俺はお前らより大人だ」

 

「年齢だけな」

 

「千速」

 

「何だよ」

 

「仕事終わりだからって油断すんなよ」

 

「はいはい、横溝警部」

 

「棒読みやめろ」

 

押村は二人のやり取りを見て、少しだけ表情を緩めた。

 

それに気づいた千速が目を細める。

 

「奏斗、笑ったな」

 

「少し」

 

「珍しい」

 

「最近、よく言われる」

 

横溝がぼそっと言う。

 

「千速のせいだな」

 

千速が一瞬だけ顔を赤くする。

 

「何でそこで私なんだよ」

 

「分かりやすいからだよ」

 

「うるせぇ」

 

三人は店の中へ入った。

 

案内されたのは、奥の半個室だった。

 

横溝が上座に座ろうとして、千速が先にどかっと腰を下ろした。

 

「おい」

 

「何だ?」

 

「そこは俺だろ」

 

「細けぇな。階級順か?」

 

「そういう問題じゃねぇ」

 

押村が静かに言った。

 

「では、横溝警部はこちらへ」

 

「お前は真面目に調整するな」

 

結局、千速が奥、押村がその隣、横溝が向かいに座る形になった。

 

店員が注文を取りに来る。

 

千速はメニューを見ながら言った。

 

「とりあえず生でいいか?」

 

横溝が頷く。

 

「俺は生」

 

押村は少し考える。

 

「烏龍茶で」

 

千速と横溝が同時に押村を見る。

 

押村は二人の視線に気づき、首を傾げた。

 

「何ですか」

 

千速が言う。

 

「飲まねぇのか?」

 

「明日、報告書の確認があります」

 

横溝がため息をつく。

 

「お前なぁ。打ち上げだぞ」

 

「飲酒しなくても打ち上げはできます」

 

「正論で返すな」

 

千速は少し笑った。

 

「いいんじゃねぇの。奏斗らしい」

 

押村はメニューを見ながら言う。

 

「君は飲むのか」

 

「飲む」

 

「明日は?」

 

「勤務だ」

 

押村が黙る。

 

千速が眉を上げる。

 

「何だよ」

 

「飲みすぎないように」

 

「お前は私の上司か」

 

「彼氏として言った」

 

千速の顔が一気に赤くなった。

 

横溝が箸袋を握り潰しそうになる。

 

「押村」

 

「はい」

 

「俺の前でそういうのを平然と言うな」

 

「事実です」

 

「事実なら何でも言っていいわけじゃねぇ」

 

千速は片手で顔を覆った。

 

「奏斗……お前、本当にさ……」

 

「嫌だったか」

 

「嫌じゃねぇから困ってんだよ」

 

横溝が天井を仰いだ。

 

「帰っていいか」

 

「まだ何も食ってねぇだろ、重悟」

 

「もう腹いっぱいだ」

 

そんなことを言いながらも、横溝は席を立たなかった。

 

飲み物が運ばれてくる。

 

千速がジョッキを持ち上げた。

 

「じゃあ、一応」

 

横溝もジョッキを持つ。

 

押村は烏龍茶のグラスを持った。

 

千速は二人を見る。

 

「Kシリーズ事件、お疲れ」

 

横溝が低く言う。

 

「死者を増やさずに済んだ」

 

押村も静かに頷く。

 

「はい」

 

千速は少しだけ表情を柔らかくした。

 

「じゃあ、乾杯」

 

三つのグラスが軽く鳴った。

 

最初の料理が運ばれてきた。

 

枝豆。

刺身。

焼き鳥。

だし巻き卵。

唐揚げ。

 

千速は迷わず唐揚げに箸を伸ばした。

 

「うまい」

 

横溝が焼き鳥を取りながら言う。

 

「お前、本当に肉好きだな」

 

「悪いか」

 

「悪くねぇけど、白バイ乗ってる奴の食い方じゃねぇ」

 

「白バイ隊員だって肉食うだろ」

 

押村が静かに唐揚げを一つ取り皿に置き、千速の前に寄せた。

 

千速がそれを見る。

 

「何だよ」

 

「好きそうだったから」

 

「……ありがと」

 

横溝がその様子を見て、露骨に顔をしかめる。

 

「自然にやるな」

 

押村は不思議そうに見る。

 

「何をですか」

 

「今の全部だ」

 

千速が苦笑する。

 

「重悟、諦めろ。奏斗はこういう奴だ」

 

「お前も慣れるな」

 

「慣れてねぇよ」

 

「顔赤いぞ」

 

「うるせぇ」

 

押村は少しだけ千速を見る。

 

「赤いのか」

 

「見るな」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

横溝はビールを飲みながら、ぼそっと言った。

 

「事件の犯人より厄介だな、お前ら」

 

千速は笑った。

 

「それは言いすぎだろ」

 

「いや、ある意味でこっちの方が読めねぇ」

 

押村が真面目に言う。

 

「俺たちの関係がですか」

 

「聞き返すな」

 

「すみません」

 

「だから謝るなって言ってんだろ」

 

三人の空気は、事件現場とはまるで違っていた。

 

張り詰めた緊張もない。

無線の音もない。

誰かの悲鳴もない。

 

ただ、料理があって、酒があって、少し乱暴な会話がある。

 

千速はジョッキを置き、ふっと息を吐いた。

 

「こういうの、久しぶりだな」

 

押村が見る。

 

「三人で食事をすることが?」

 

「ああ。事件じゃなくてさ」

 

横溝は枝豆をつまみながら言った。

 

「お前ら、事件の後でもすぐ仕事に戻るからな」

 

「それ、重悟もだろ」

 

「俺はいいんだよ」

 

「何でだよ」

 

「上司だからだ」

 

千速は呆れたように笑う。

 

「便利な言葉だな、上司」

 

押村が静かに言った。

 

「横溝警部は、俺たちを見ていてくれています」

 

横溝の箸が止まった。

 

千速も少し押村を見る。

 

押村は続ける。

 

「今回も、俺が考えすぎる前に止めてくれました」

 

横溝は顔をしかめる。

 

「やめろ」

 

「事実です」

 

「だから、事実なら何でも言うな」

 

千速は少し笑った。

 

「照れてんのか、重悟」

 

「照れてねぇ」

 

「耳赤いぞ」

 

「酒だ」

 

「一杯目だろ」

 

横溝は不機嫌そうにビールを飲んだ。

 

「お前ら、こういう時だけ息合うな」

 

千速は押村を見る。

 

押村も少しだけ視線を返す。

 

千速はそれだけで、少し笑った。

 

「まあな」

 

しばらく料理を食べた後、話題は自然と事件のことになった。

 

横溝が焼酎に変えながら言う。

 

「鳥羽遥の供述、始まったらしいな」

 

押村は頷く。

 

「はい。黒崎玲子への電話、風見台の封筒、劇場の仕掛けについては関与を認めています」

 

千速が箸を止める。

 

「Kシリーズは全部、遥が動かしたのか?」

 

「黒崎邸の実行は玲子と拓真です。遥は玲子を誘導した。風見台は、美怜さんを証人として呼び出した。ただ、黒いレインコートで彼女を押した人物については、まだ曖昧です」

 

横溝が低く言う。

 

「共犯か、遥が雇った人間か」

 

「はい」

 

「劇場の観客参加型の仕掛けは?」

 

「遥が演出として組み込んだようです。スタッフの一部も、危険性を知らずに協力していました」

 

千速の顔が険しくなる。

 

「気持ち悪いな」

 

押村は静かに頷く。

 

「はい」

 

横溝が押村を見る。

 

「お前、まだ引きずってるだろ」

 

押村は答えなかった。

 

千速も押村を見た。

 

押村は少しだけ視線を落とす。

 

「観客に紐を引かせたことが、どうしても」

 

千速は何も言わなかった。

 

横溝も黙っている。

 

押村は続けた。

 

「自分が誰かを傷つけたかもしれないと思わせる。それも、演出の名で」

 

千速が低く言った。

 

「最悪だな」

 

「はい」

 

「でも、神崎さんは生きてる」

 

押村は千速を見る。

 

千速はまっすぐに言った。

 

「観客も、ちゃんと説明を受けてる。悪いのは仕掛けた遥だ。紐を引いた人たちじゃない」

 

押村は黙った。

 

横溝が続ける。

 

「そうだ。お前が全部背負うな。お前が紐を引いたわけじゃねぇ」

 

押村は小さく息を吐いた。

 

「分かっています」

 

千速が目を細める。

 

「分かってる顔じゃねぇな」

 

押村は困ったように言う。

 

「顔に出ていますか」

 

横溝と千速が同時に言った。

 

「出てる」

 

押村は少しだけ目を伏せた。

 

「……努力します」

 

千速が箸で押村の取り皿にだし巻き卵を乗せる。

 

「食え」

 

押村がそれを見る。

 

「これは?」

 

「考えすぎ防止だ」

 

横溝が唐揚げを一つ追加する。

 

「ついでにこれも食え」

 

押村は二人を見る。

 

「ありがとうございます」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「真面目に礼を言うな。調子狂う」

 

千速は少し柔らかい顔で言った。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「一人で抱えるなって、何回も言っただろ」

 

「はい」

 

「抱えそうになったら、飯食わせるからな」

 

押村は少しだけ考えた。

 

「効果があるのか」

 

「ある」

 

横溝が頷く。

 

「あるな。人間は食って寝りゃ、多少まともになる」

 

「横溝警部らしい理論ですね」

 

「文句あんのか」

 

「ありません」

 

千速は笑った。

 

「じゃあ食え。事件の話は一回終わり」

 

押村は頷いた。

 

「分かった」

 

二杯目に入った頃、横溝の口調は少しだけ緩んでいた。

 

「そういや千速」

 

「何だ」

 

「お前、風見台で美怜を助けた時、相当危なかったらしいな」

 

千速は刺身を食べながら答える。

 

「そうでもねぇよ」

 

押村が即座に見る。

 

「危なかったのか」

 

千速はしまった、という顔をした。

 

横溝がにやりと笑う。

 

「崖の柵のところで腕掴んだんだろ」

 

「重悟」

 

「足場も滑ってたらしいな」

 

「重悟」

 

「あと一歩遅けりゃ、二人とも――」

 

「横溝警部」

 

押村の声が低くなった。

 

横溝が一瞬黙る。

 

千速も押村を見る。

 

押村は静かに言った。

 

「詳しく聞かせてください」

 

千速は目を逸らした。

 

「いや、あれは……」

 

「千速」

 

「何だよ」

 

「怪我はなかったのか」

 

「なかった」

 

「本当に?」

 

「本当だ」

 

「無茶はしていないのか」

 

千速は少し口を尖らせた。

 

「結果的に助けられたんだからいいだろ」

 

押村は黙る。

 

その沈黙が、千速には少し痛かった。

 

千速はビールを置き、少し声を柔らかくする。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「無茶したつもりはない。小隊長として、助けられる距離にいたから動いた」

 

押村は彼女を見る。

 

千速は続ける。

 

「でも、心配かけたなら悪かった」

 

押村は少しだけ目を伏せる。

 

「謝ってほしいわけではない」

 

「分かってる」

 

「ただ、君が危険な場所にいたと聞くと、冷静ではいられない」

 

千速の顔が少し赤くなる。

 

横溝がビールを飲みながら小さく咳払いした。

 

「俺、いるぞ」

 

千速が横溝を睨む。

 

「知ってるよ」

 

押村は真面目に横溝を見る。

 

「すみません」

 

「俺に謝るな」

 

千速は少し照れ隠しのように枝豆を押村の皿へ入れた。

 

「はいはい。心配してくれてありがとな」

 

押村はその枝豆を見る。

 

「これは?」

 

「心配料」

 

「そういう制度があるのか」

 

「今作った」

 

横溝が呆れたように笑った。

 

「お前ら、本当に面倒くせぇな」

 

千速も笑う。

 

「重悟も大概だろ」

 

「俺のどこがだ」

 

「心配してるくせに口が悪い」

 

「口は元からだ」

 

「知ってる」

 

押村が静かに言った。

 

「横溝警部は、優しいです」

 

横溝は今度こそ本気で嫌そうな顔をした。

 

「押村。お前、酒飲んでねぇよな?」

 

「飲んでいません」

 

「素面でそれか」

 

千速が腹を抱えて笑った。

 

料理が少なくなってきた頃、千速は少しだけ真面目な顔になった。

 

「なあ、重悟」

 

「何だ」

 

「二十年前の事件、どうなると思う」

 

横溝は箸を置いた。

 

「玖城怜司の遺体が本人と確認されれば、死体遺棄は確実に動く。殺人か保護責任者遺棄か、そこは供述と証拠次第だ」

 

押村が続ける。

 

「鳥羽悠介、水原真紀、榊亮三の供述が必要になります。黒崎宗一郎は死亡しているため、当時の客観証拠をどこまで拾えるかが課題です」

 

千速は静かに聞いていた。

 

「遥は、それを暴きたかったんだよな」

 

押村は頷く。

 

「はい。ただし、方法を間違えた」

 

「分かってる」

 

千速は少しだけグラスを見つめた。

 

「でもさ。親の罪を知って、あそこまで壊れるって……きついな」

 

横溝が低く言う。

 

「同情はできる。だが、許されねぇ」

 

「分かってるよ」

 

押村は千速を見た。

 

彼女の横顔には、どこか遠いものを見るような表情があった。

 

大切な人を失った者にしか分からない痛み。

 

父親への怒りと愛情がねじれた鳥羽遥の苦しみを、千速は完全には否定できないのかもしれない。

 

押村は静かに言った。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「彼女が生きていることには、意味があると思う」

 

千速は押村を見る。

 

押村は続ける。

 

「罪は消えない。でも、生きていれば語ることはできる。裁かれることも、謝ることも、やり直すことはできなくても向き合うことはできる」

 

千速は少し黙った。

 

それから、小さく頷いた。

 

「そうだな」

 

横溝は二人を見て、少しだけ声を落とす。

 

「お前ら、刑事と白バイやってんのに、時々坊主みたいなこと言うな」

 

千速が笑った。

 

「重悟が言うと説得力ねぇな」

 

「何でだ」

 

「見た目は坊主っぽいのに」

 

「髪型の話かよ」

 

押村は真面目に言った。

 

「横溝警部は、説法より説教の方が似合います」

 

横溝は押村を睨んだ。

 

「お前、たまにすげぇ失礼だな」

 

千速はまた笑った。

 

会計は、千速が言い出した通り自分が払うと言った。

 

だが、横溝が伝票を奪った。

 

「今回は俺が払う」

 

千速が眉を上げる。

 

「何でだよ。今日は私が奢るって言っただろ」

 

「お前ら二人に払わせたら、後で妙な空気になる」

 

「妙な空気って何だ」

 

横溝は押村を指した。

 

「こいつが真面目に礼を言って、お前が照れて、俺が不快になる」

 

千速は言葉に詰まる。

 

押村は静かに言う。

 

「ありがとうございます」

 

横溝が即座に顔をしかめる。

 

「ほらもう始まった」

 

千速は笑いながら財布を出そうとする。

 

「じゃあ割り勘でいいだろ」

 

「いい。今日は上司命令だ」

 

「私、あんたの部下じゃねぇぞ」

 

「細けぇこと言うな」

 

横溝はさっさと会計へ向かった。

 

千速はその背中を見て、小さく呟いた。

 

「格好つけやがって」

 

押村が言う。

 

「優しいですね」

 

「本人に言うなよ」

 

「もう言いました」

 

「そうだった」

 

二人が店の外へ出ると、夜風が少し冷たかった。

 

横溝が後から出てくる。

 

「帰るぞ」

 

千速が言う。

 

「重悟、ありがとな」

 

横溝は目を逸らす。

 

「別に」

 

押村も頭を下げる。

 

「ごちそうさまでした」

 

「お前は本当に丁寧すぎる」

 

「感謝しています」

 

「分かった分かった」

 

千速は少し笑いながら、横溝を見る。

 

「次は私が払うからな」

 

「次があればな」

 

「あるだろ」

 

横溝は少しだけ目を細めた。

 

「そうだな」

 

三人は駅へ向かって歩き出した。

 

道の途中で、横溝が先に曲がる。

 

「俺はこっちだ」

 

千速が手を上げる。

 

「お疲れ、重悟」

 

「おう。明日遅刻すんなよ」

 

「しねぇよ」

 

横溝は押村を見る。

 

「押村」

 

「はい」

 

「千速を送ってけ」

 

千速が即座に言う。

 

「一人で帰れる」

 

「知ってる。だが送ってけ」

 

押村は頷いた。

 

「分かりました」

 

「奏斗まで真面目に返事すんな」

 

横溝は二人を見て、少しだけ口元を緩めた。

 

「じゃあな」

 

そう言って、横溝は夜道へ歩いていった。

 

千速はその背中を見送りながら言った。

 

「重悟、ほんと不器用だな」

 

押村が隣で頷く。

 

「はい」

 

「でも、ありがたいな」

 

「はい」

 

しばらく二人は並んで歩いた。

 

さっきまで三人だった道が、今は二人になっている。

 

千速は少しだけ押村を見る。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今日、楽しかったな」

 

押村は頷いた。

 

「楽しかった」

 

「事件の打ち上げなのに、こんなこと言うのも変だけどさ」

 

「変ではないと思う」

 

「そうか?」

 

「はい。終わった後に、ちゃんと笑えることは大事だ」

 

千速は少しだけ目を伏せる。

 

「そうだな」

 

夜風が吹く。

 

千速はふと、押村の手を見た。

 

昼間、擦り傷があった手。

 

千速はその手を取った。

 

押村が少し驚いたように見る。

 

「千速?」

 

「怪我の確認」

 

「もう確認した」

 

「二回目だ」

 

「そうか」

 

押村はそのまま手を握り返した。

 

千速は少し照れたが、離さなかった。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「次の事件が来るまでに、また飯行こうな」

 

「三人で?」

 

千速は少し考えた。

 

「三人でもいいし」

 

押村を見る。

 

「二人でもいい」

 

押村の表情が柔らかくなる。

 

「二人で行きたい」

 

千速は顔を赤くした。

 

「即答すんな」

 

「大事なことだから」

 

「ほんと、お前は……」

 

千速は呆れたように笑った。

 

でも、手は離さない。

 

事件は終わった。

過去の清算はまだ続く。

明日になれば、また書類と聴取と現場が待っている。

 

それでも今夜は。

 

横溝の不器用な優しさと、千速の笑い声と、押村の静かな言葉があった。

 

三人で囲んだ食卓。

 

事件の後に戻ってくる日常。

 

それは派手な打ち上げではなかった。

 

けれど、三人にとっては十分だった。

 

千速は夜空を見上げ、小さく言った。

 

「明日は晴れるかな」

 

押村も空を見る。

 

「晴れるといい」

 

「白バイ乗るには晴れがいいからな」

 

「そうだな」

 

「奏斗は?」

 

「君が走りやすいなら、晴れがいい」

 

千速はまた顔を赤くする。

 

「……そういうところだぞ」

 

「何が」

 

「もういい」

 

千速は少しだけ押村の手を強く握った。

 

押村も、同じ強さで握り返した。

 

二人は駅へ向かって歩いていく。

 

少し前を歩いていた横溝が振り返ったら、きっとまた「俺の前でやるな」と言っただろう。

 

けれど今は、二人だけだった。

 

だから千速は、そのまま手を離さなかった。

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