駅へ向かう道の途中で、千速はふと足を止めた。
押村奏斗も、つないでいた手に引かれるようにして立ち止まる。
夜風が、二人の間を抜けていった。
「千速?」
押村が静かに呼ぶ。
千速は少しだけ視線を泳がせた。
さっきまで居酒屋で、横溝重悟と三人で笑っていた。
事件の話をして、くだらない言い合いをして、横溝に奢られて、少しだけ日常に戻れた気がした。
その帰り道。
横溝と別れてから、二人だけになった。
手は、まだつないだままだった。
千速は自分からつないだくせに、今になって少し照れくさくなっていた。
「……奏斗」
「何だ」
「今日、お前ん家行ってもいいか」
押村の表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚き。
それから、戸惑い。
そして、真面目すぎる沈黙。
千速はその顔を見て、急に恥ずかしくなる。
「いや、別に変な意味じゃ……」
そこまで言って、自分で止まった。
変な意味じゃない。
そう言えば嘘になる。
ただ話したいだけでもある。
一緒にいたいだけでもある。
でも、それだけではない。
今夜、もう少しだけ押村のそばにいたかった。
事件が終わった夜だからかもしれない。
鳥羽遥の涙や、玖城怜司の遺体や、二十年前の罪を見た後だからかもしれない。
生きているうちに、伝えられることは伝えたい。
触れられる距離にいるなら、触れたい。
そう思ってしまった。
押村は千速を見つめた。
「来てほしい」
短い言葉だった。
千速の胸が、どくんと鳴った。
「……即答かよ」
「迷う理由がなかった」
「そういうこと、真顔で言うなって何回言わせるんだ」
「すまない」
「謝るな」
千速は少し笑った。
押村は、つないでいた手を少しだけ握り直した。
「ただ」
「何だ」
「無理はしないでほしい」
千速は押村を見る。
押村の目は、いつも通り静かだった。
けれど、その奥には確かな緊張があった。
千速を大事に扱おうとしている目だった。
千速はそれを見て、胸の奥が柔らかくなる。
「無理はしねぇよ」
「本当に?」
「本当だ」
「なら、いい」
「お前もな」
押村が少し首を傾げる。
「俺も?」
「無理すんな。変に我慢したり、全部こっちに合わせようとしたりするな」
押村は少し考えてから、頷いた。
「分かった」
「本当だな」
「本当だ」
二人はまた歩き出した。
駅とは反対方向へ。
押村の家へ向かって。
押村の部屋は、相変わらず整っていた。
必要なものだけが、きちんと置かれている。
本棚には事件資料ではなく、法律関係の本や小説が並んでいた。
テーブルの上には余計なものがない。
千速は靴を脱ぎながら、少し呆れたように笑った。
「ほんと、生活感が薄いな」
押村はコートを掛けながら答える。
「そうか」
「そうだよ。モデルルームかと思う」
「散らかっているよりはいい」
「まあな」
千速は部屋の中へ入る。
以前にも来たことはある。
差し入れを持ってきた日。
警察学校時代のアルバムを見つけた日。
けれど、今日は少し違う。
夜。
二人きり。
事件の打ち上げの後。
そして、自分から来たいと言った。
その事実が、妙に体温を上げる。
押村が台所から声をかけた。
「お茶でいいか」
千速は思わず笑った。
「この流れでお茶か」
押村が振り向く。
「何か変だったか」
「いや、奏斗らしい」
「他のものがいいなら――」
「お茶でいい」
「分かった」
押村は湯を沸かし始める。
その背中を、千速は黙って見ていた。
真面目で、不器用で、時々驚くほどまっすぐで。
仕事では冷静なのに、自分のことになると少し戸惑う。
けれど、逃げない。
研二の墓前でも。
陣平の墓前でも。
今回の事件でも。
いつだって、押村は隣に立とうとしてくれた。
千速はふと、胸がいっぱいになった。
「奏斗」
押村が振り向く。
「何だ」
千速は一歩近づいた。
そして、押村の袖を掴んだ。
押村の動きが止まる。
「千速?」
「お茶、後でいい」
その言葉に、押村は何も言わなかった。
ただ、静かに火を止めた。
部屋が、急に静かになる。
冷蔵庫の低い音。
外を走る車の音。
二人の呼吸。
千速は自分の心臓の音が、押村に聞こえているんじゃないかと思った。
「……緊張してる」
思わず、そう言っていた。
押村は小さく頷いた。
「俺も」
「お前もか」
「はい」
「そこは格好つけてもいいんだぞ」
「つけられない」
千速は少し笑った。
その笑いで、ほんの少しだけ空気がほどける。
押村は千速の手に、そっと自分の手を重ねた。
「千速」
「何だ」
「嫌なことがあったら、すぐ言ってほしい」
千速は目を伏せる。
「分かってる」
「途中でやめてもいい」
「うん」
「今日は、ただ一緒にいるだけでもいい」
千速は顔を上げた。
押村は本気で言っていた。
自分の気持ちを押しつけるのではなく、千速が少しでも不安にならないように。
その真面目さが、たまらなく愛おしかった。
千速は小さく息を吐く。
「奏斗」
「何だ」
「キスして」
押村の目が揺れた。
けれど、すぐに静かに頷いた。
「分かった」
押村の手が、千速の頬に触れる。
少し冷たい指先。
でも、触れ方は優しかった。
千速は目を閉じた。
唇が重なる。
最初は、確かめるように。
それから少しずつ、離れがたくなるように。
千速は押村のシャツを掴んだ。
押村の腕が、そっと千速の背中に回る。
強く抱きしめるのではなく、逃げ道を残すような抱き方だった。
それが、千速には分かった。
分かってしまったから、余計に胸が熱くなった。
唇が離れる。
千速は少し息を整えながら、押村を見上げた。
「……ほんと、優しいな」
押村は静かに答える。
「大事だから」
その一言で、千速の中の迷いが少し消えた。
千速は押村の胸に額を寄せる。
「ずるい」
「何が」
「そういうとこ」
押村は何も言わず、千速の髪にそっと触れた。
千速は目を閉じたまま言う。
「今日は、帰りたくない」
押村の腕に、少しだけ力が入った。
「……泊まっていくか」
「うん」
千速は小さく頷いた。
「泊まりたい」
押村は千速を見つめた。
「千速」
「何だ」
「俺も、君にいてほしい」
千速は顔を赤くして、少しだけ笑った。
「なら決まりだな」
「ああ」
二人は、もう一度キスをした。
さっきよりも長く。
さっきよりも近く。
それでも、急がなかった。
押村は何度も千速の様子を見た。
千速はそのたびに、少し照れながらも頷いた。
「大丈夫」
そう言う千速の声は、強がりではなかった。
押村の手を取り、自分から距離を縮める。
「奏斗」
「何だ」
「私も、お前が大事だ」
押村の表情が、静かに揺れた。
「ありがとう」
「礼を言うな」
「嬉しいから」
「……ほんと、そういうところだぞ」
千速は小さく笑って、押村の首に腕を回した。
夜は、ゆっくり深くなっていった。
事件のことも、明日の仕事も、過去の痛みも、完全に消えるわけではない。
けれど、その夜だけは。
二人は互いの体温を確かめるように、近くにいた。
焦らずに。
言葉を交わしながら。
何度も確認しながら。
初めての夜は、派手でも劇的でもなかった。
ただ、静かで、少し照れくさくて、優しかった。
そして二人は、同じ部屋で朝を迎えた。
朝。
カーテンの隙間から、柔らかい光が差し込んでいた。
千速はゆっくり目を開ける。
見慣れない天井。
それから、隣にいる押村。
一瞬だけ状況を思い出し、顔が熱くなる。
押村はまだ眠っていた。
いつも隙のない顔をしているのに、眠っている時は少しだけ幼く見える。
千速はその横顔を見つめた。
「……寝顔、普通なんだな」
小さく呟く。
すると、押村が目を開けた。
「普通?」
千速はびくっとした。
「起きてたのかよ」
「今起きた」
「聞いてたじゃねぇか」
「聞こえた」
「忘れろ」
「難しい」
「努力しろ」
押村は少しだけ目を細めた。
笑っているように見えた。
千速は布団を少し引き上げ、顔を隠す。
「見るな」
「なぜ」
「恥ずかしいからだよ」
押村はすぐに視線を外した。
「分かった」
千速は布団の中から目だけ出す。
「……素直すぎるだろ」
「見ない方がいいと言われた」
「そうだけどさ」
押村は起き上がろうとしたが、千速がその袖を掴んだ。
押村が止まる。
「千速?」
千速は小さく言った。
「もう少しだけ」
押村は静かに頷いた。
「分かった」
もう少しだけ、二人で並んでいた。
何も話さなくてもよかった。
同じ部屋で、同じ朝を迎えた。
それだけで、千速の胸は満たされていた。
しばらくして、押村が言った。
「朝食を作る」
千速は目を瞬かせる。
「作れるのか?」
「簡単なものなら」
「意外だな」
「一人暮らしなので」
「そういやそうか」
千速は少し笑う。
「じゃあ、頼む」
「分かった」
押村が立ち上がろうとする。
千速はその背中に向かって言った。
「奏斗」
「何だ」
「昨日……ありがとな」
押村は振り返る。
「こちらこそ」
千速は少し照れながら、視線を逸らした。
「大事にしてくれて」
押村はしばらく千速を見ていた。
そして、静かに言った。
「これからも、大事にする」
千速は耳まで赤くなった。
「朝からそういうこと言うな」
「言いたかった」
「ずるい」
「すまない」
「謝るな」
いつものやり取り。
けれど、昨日までとは少し違う。
距離が、ほんの少し近くなっていた。
押村は台所へ向かった。
千速は布団の中で、天井を見上げる。
窓の外は晴れていた。
白バイに乗るには、悪くない天気だった。
けれど、今だけはもう少し、この部屋にいたいと思った。
奏斗のいる部屋に。
千速は小さく笑った。
「……ほんと、参るな」
台所から、押村の声がする。
「何か言ったか」
「何でもねぇ」
「そうか」
千速は布団から起き上がる。
事件はまた来る。
仕事もある。
過去の傷も消えない。
でも、二人は少しずつ前に進んでいる。
手をつなぎ、同じ食卓を囲み、同じ朝を迎えながら。
その一歩一歩が、千速には少しだけくすぐったくて。
そして、とても大切だった。