神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第31話 帰り道の先

駅へ向かう道の途中で、千速はふと足を止めた。

 

押村奏斗も、つないでいた手に引かれるようにして立ち止まる。

 

夜風が、二人の間を抜けていった。

 

「千速?」

 

押村が静かに呼ぶ。

 

千速は少しだけ視線を泳がせた。

 

さっきまで居酒屋で、横溝重悟と三人で笑っていた。

事件の話をして、くだらない言い合いをして、横溝に奢られて、少しだけ日常に戻れた気がした。

 

その帰り道。

 

横溝と別れてから、二人だけになった。

 

手は、まだつないだままだった。

 

千速は自分からつないだくせに、今になって少し照れくさくなっていた。

 

「……奏斗」

 

「何だ」

 

「今日、お前ん家行ってもいいか」

 

押村の表情が、ほんの少しだけ変わった。

 

驚き。

 

それから、戸惑い。

 

そして、真面目すぎる沈黙。

 

千速はその顔を見て、急に恥ずかしくなる。

 

「いや、別に変な意味じゃ……」

 

そこまで言って、自分で止まった。

 

変な意味じゃない。

 

そう言えば嘘になる。

 

ただ話したいだけでもある。

一緒にいたいだけでもある。

 

でも、それだけではない。

 

今夜、もう少しだけ押村のそばにいたかった。

 

事件が終わった夜だからかもしれない。

鳥羽遥の涙や、玖城怜司の遺体や、二十年前の罪を見た後だからかもしれない。

 

生きているうちに、伝えられることは伝えたい。

 

触れられる距離にいるなら、触れたい。

 

そう思ってしまった。

 

押村は千速を見つめた。

 

「来てほしい」

 

短い言葉だった。

 

千速の胸が、どくんと鳴った。

 

「……即答かよ」

 

「迷う理由がなかった」

 

「そういうこと、真顔で言うなって何回言わせるんだ」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

千速は少し笑った。

 

押村は、つないでいた手を少しだけ握り直した。

 

「ただ」

 

「何だ」

 

「無理はしないでほしい」

 

千速は押村を見る。

 

押村の目は、いつも通り静かだった。

 

けれど、その奥には確かな緊張があった。

 

千速を大事に扱おうとしている目だった。

 

千速はそれを見て、胸の奥が柔らかくなる。

 

「無理はしねぇよ」

 

「本当に?」

 

「本当だ」

 

「なら、いい」

 

「お前もな」

 

押村が少し首を傾げる。

 

「俺も?」

 

「無理すんな。変に我慢したり、全部こっちに合わせようとしたりするな」

 

押村は少し考えてから、頷いた。

 

「分かった」

 

「本当だな」

 

「本当だ」

 

二人はまた歩き出した。

 

駅とは反対方向へ。

 

押村の家へ向かって。

 

押村の部屋は、相変わらず整っていた。

 

必要なものだけが、きちんと置かれている。

 

本棚には事件資料ではなく、法律関係の本や小説が並んでいた。

テーブルの上には余計なものがない。

 

千速は靴を脱ぎながら、少し呆れたように笑った。

 

「ほんと、生活感が薄いな」

 

押村はコートを掛けながら答える。

 

「そうか」

 

「そうだよ。モデルルームかと思う」

 

「散らかっているよりはいい」

 

「まあな」

 

千速は部屋の中へ入る。

 

以前にも来たことはある。

 

差し入れを持ってきた日。

警察学校時代のアルバムを見つけた日。

 

けれど、今日は少し違う。

 

夜。

二人きり。

事件の打ち上げの後。

そして、自分から来たいと言った。

 

その事実が、妙に体温を上げる。

 

押村が台所から声をかけた。

 

「お茶でいいか」

 

千速は思わず笑った。

 

「この流れでお茶か」

 

押村が振り向く。

 

「何か変だったか」

 

「いや、奏斗らしい」

 

「他のものがいいなら――」

 

「お茶でいい」

 

「分かった」

 

押村は湯を沸かし始める。

 

その背中を、千速は黙って見ていた。

 

真面目で、不器用で、時々驚くほどまっすぐで。

 

仕事では冷静なのに、自分のことになると少し戸惑う。

 

けれど、逃げない。

 

研二の墓前でも。

陣平の墓前でも。

今回の事件でも。

 

いつだって、押村は隣に立とうとしてくれた。

 

千速はふと、胸がいっぱいになった。

 

「奏斗」

 

押村が振り向く。

 

「何だ」

 

千速は一歩近づいた。

 

そして、押村の袖を掴んだ。

 

押村の動きが止まる。

 

「千速?」

 

「お茶、後でいい」

 

その言葉に、押村は何も言わなかった。

 

ただ、静かに火を止めた。

 

部屋が、急に静かになる。

 

冷蔵庫の低い音。

外を走る車の音。

二人の呼吸。

 

千速は自分の心臓の音が、押村に聞こえているんじゃないかと思った。

 

「……緊張してる」

 

思わず、そう言っていた。

 

押村は小さく頷いた。

 

「俺も」

 

「お前もか」

 

「はい」

 

「そこは格好つけてもいいんだぞ」

 

「つけられない」

 

千速は少し笑った。

 

その笑いで、ほんの少しだけ空気がほどける。

 

押村は千速の手に、そっと自分の手を重ねた。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「嫌なことがあったら、すぐ言ってほしい」

 

千速は目を伏せる。

 

「分かってる」

 

「途中でやめてもいい」

 

「うん」

 

「今日は、ただ一緒にいるだけでもいい」

 

千速は顔を上げた。

 

押村は本気で言っていた。

 

自分の気持ちを押しつけるのではなく、千速が少しでも不安にならないように。

 

その真面目さが、たまらなく愛おしかった。

 

千速は小さく息を吐く。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「キスして」

 

押村の目が揺れた。

 

けれど、すぐに静かに頷いた。

 

「分かった」

 

押村の手が、千速の頬に触れる。

 

少し冷たい指先。

 

でも、触れ方は優しかった。

 

千速は目を閉じた。

 

唇が重なる。

 

最初は、確かめるように。

 

それから少しずつ、離れがたくなるように。

 

千速は押村のシャツを掴んだ。

 

押村の腕が、そっと千速の背中に回る。

 

強く抱きしめるのではなく、逃げ道を残すような抱き方だった。

 

それが、千速には分かった。

 

分かってしまったから、余計に胸が熱くなった。

 

唇が離れる。

 

千速は少し息を整えながら、押村を見上げた。

 

「……ほんと、優しいな」

 

押村は静かに答える。

 

「大事だから」

 

その一言で、千速の中の迷いが少し消えた。

 

千速は押村の胸に額を寄せる。

 

「ずるい」

 

「何が」

 

「そういうとこ」

 

押村は何も言わず、千速の髪にそっと触れた。

 

千速は目を閉じたまま言う。

 

「今日は、帰りたくない」

 

押村の腕に、少しだけ力が入った。

 

「……泊まっていくか」

 

「うん」

 

千速は小さく頷いた。

 

「泊まりたい」

 

押村は千速を見つめた。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「俺も、君にいてほしい」

 

千速は顔を赤くして、少しだけ笑った。

 

「なら決まりだな」

 

「ああ」

 

二人は、もう一度キスをした。

 

さっきよりも長く。

 

さっきよりも近く。

 

それでも、急がなかった。

 

押村は何度も千速の様子を見た。

 

千速はそのたびに、少し照れながらも頷いた。

 

「大丈夫」

 

そう言う千速の声は、強がりではなかった。

 

押村の手を取り、自分から距離を縮める。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「私も、お前が大事だ」

 

押村の表情が、静かに揺れた。

 

「ありがとう」

 

「礼を言うな」

 

「嬉しいから」

 

「……ほんと、そういうところだぞ」

 

千速は小さく笑って、押村の首に腕を回した。

 

夜は、ゆっくり深くなっていった。

 

事件のことも、明日の仕事も、過去の痛みも、完全に消えるわけではない。

 

けれど、その夜だけは。

 

二人は互いの体温を確かめるように、近くにいた。

 

焦らずに。

言葉を交わしながら。

何度も確認しながら。

 

初めての夜は、派手でも劇的でもなかった。

 

ただ、静かで、少し照れくさくて、優しかった。

 

そして二人は、同じ部屋で朝を迎えた。

 

朝。

 

カーテンの隙間から、柔らかい光が差し込んでいた。

 

千速はゆっくり目を開ける。

 

見慣れない天井。

 

それから、隣にいる押村。

 

一瞬だけ状況を思い出し、顔が熱くなる。

 

押村はまだ眠っていた。

 

いつも隙のない顔をしているのに、眠っている時は少しだけ幼く見える。

 

千速はその横顔を見つめた。

 

「……寝顔、普通なんだな」

 

小さく呟く。

 

すると、押村が目を開けた。

 

「普通?」

 

千速はびくっとした。

 

「起きてたのかよ」

 

「今起きた」

 

「聞いてたじゃねぇか」

 

「聞こえた」

 

「忘れろ」

 

「難しい」

 

「努力しろ」

 

押村は少しだけ目を細めた。

 

笑っているように見えた。

 

千速は布団を少し引き上げ、顔を隠す。

 

「見るな」

 

「なぜ」

 

「恥ずかしいからだよ」

 

押村はすぐに視線を外した。

 

「分かった」

 

千速は布団の中から目だけ出す。

 

「……素直すぎるだろ」

 

「見ない方がいいと言われた」

 

「そうだけどさ」

 

押村は起き上がろうとしたが、千速がその袖を掴んだ。

 

押村が止まる。

 

「千速?」

 

千速は小さく言った。

 

「もう少しだけ」

 

押村は静かに頷いた。

 

「分かった」

 

もう少しだけ、二人で並んでいた。

 

何も話さなくてもよかった。

 

同じ部屋で、同じ朝を迎えた。

 

それだけで、千速の胸は満たされていた。

 

しばらくして、押村が言った。

 

「朝食を作る」

 

千速は目を瞬かせる。

 

「作れるのか?」

 

「簡単なものなら」

 

「意外だな」

 

「一人暮らしなので」

 

「そういやそうか」

 

千速は少し笑う。

 

「じゃあ、頼む」

 

「分かった」

 

押村が立ち上がろうとする。

 

千速はその背中に向かって言った。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「昨日……ありがとな」

 

押村は振り返る。

 

「こちらこそ」

 

千速は少し照れながら、視線を逸らした。

 

「大事にしてくれて」

 

押村はしばらく千速を見ていた。

 

そして、静かに言った。

 

「これからも、大事にする」

 

千速は耳まで赤くなった。

 

「朝からそういうこと言うな」

 

「言いたかった」

 

「ずるい」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

いつものやり取り。

 

けれど、昨日までとは少し違う。

 

距離が、ほんの少し近くなっていた。

 

押村は台所へ向かった。

 

千速は布団の中で、天井を見上げる。

 

窓の外は晴れていた。

 

白バイに乗るには、悪くない天気だった。

 

けれど、今だけはもう少し、この部屋にいたいと思った。

 

奏斗のいる部屋に。

 

千速は小さく笑った。

 

「……ほんと、参るな」

 

台所から、押村の声がする。

 

「何か言ったか」

 

「何でもねぇ」

 

「そうか」

 

千速は布団から起き上がる。

 

事件はまた来る。

仕事もある。

過去の傷も消えない。

 

でも、二人は少しずつ前に進んでいる。

 

手をつなぎ、同じ食卓を囲み、同じ朝を迎えながら。

 

その一歩一歩が、千速には少しだけくすぐったくて。

 

そして、とても大切だった。

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