玖城怜司の遺体が、旧講義棟の地下から発見された翌日。
神奈川県警捜査一課の会議室には、再び重い空気が戻っていた。
Kシリーズ事件は、鳥羽遥の逮捕によって止まった。
黒崎邸。
風見台。
青葉市民ホール。
そして、旧講義棟。
二十年前に埋められた真実は、ようやく掘り起こされた。
だが、事件はまだ終わっていない。
押村奏斗は、ホワイトボードの前に立っていた。
そこには、犯罪心理研究会の元メンバーの名前が並んでいる。
玖城怜司 死亡
黒崎宗一郎 死亡
鳥羽悠介 供述中
水原真紀 所在確認済み
榊亮三 所在不明
横溝重悟は腕を組み、険しい顔でその文字を睨んでいた。
「鳥羽の供述が本当なら、二十年前に玖城怜司を見殺しにして、死体を隠したのは四人だ」
押村は頷く。
「黒崎宗一郎、鳥羽悠介、水原真紀、榊亮三」
「黒崎はもう死んでる。鳥羽は病院で喋り始めた。残るは水原と榊」
会議室の端にいた萩原千速が口を開いた。
「榊亮三は、昨日から連絡が取れないんだろ」
押村が答える。
「ああ。自宅にも勤務先にもいない。携帯も電源が切られている」
横溝が舌打ちする。
「逃げたか」
「可能性はあります」
「水原真紀は?」
村上が資料をめくった。
「現在六十一歳。横浜市内で心理カウンセラーをしています。任意聴取には応じるとのことです。ただ、昨夜から体調不良を訴えていて、事務所で話を聞いてほしいと」
横溝の眉が動く。
「都合よく体調不良か」
千速が低く言った。
「それ、本当に本人か?」
村上が顔を上げる。
「え?」
千速は椅子にもたれたまま続ける。
「この事件、ずっと“本人に見えるもの”で騙してきた。黒崎邸では後ろ姿。風見台では囮の軽トラ。劇場では観客全員を犯人に見せた」
押村が千速を見る。
「水原真紀本人が事務所にいるとは限らない、ということか」
「ああ。電話やメールで体調不良って言ってるだけなら、誰かが代わりに送ってる可能性もある」
横溝がすぐに指示を飛ばした。
「水原の事務所周辺、防犯カメラを確認しろ。本人の直近の映像を押さえろ」
「はい!」
押村はホワイトボードの名前を見つめた。
水原真紀。
榊亮三。
二十年前の共犯者。
鳥羽遥の狙いが、父への復讐だけで終わるとは限らない。
彼女はすでに捕まっている。
だが、Kシリーズを利用した者が、彼女一人とは限らなかった。
風見台で黒崎美怜を突き落とそうとした黒いレインコートの人物。
劇場で逃走した囮の男。
そして、鳥羽遥が最後まで曖昧にした部分。
押村は静かに言った。
「鳥羽遥は、すべてを話していません」
横溝が押村を見る。
「何を隠してる」
「黒いレインコートの人物です」
千速の表情が鋭くなる。
「風見台で美怜を押した奴か」
「はい。遥は美怜さんを“証人”にするつもりだったと供述しています。殺害の意思は否認。現場の仕掛けは転落事故に見せるためではなく、K-18の再現のためだったと」
横溝が低く唸る。
「だが実際には美怜は殺されかけた」
「はい。つまり、誰かがK-18を利用して、別の目的を果たそうとした」
千速が腕を組む。
「その誰かが、二十年前の共犯者かもしれない」
押村は頷いた。
「可能性があります」
横溝はホワイトボードに赤字で書いた。
K-18の実行犯
「押村、千速。水原真紀に会いに行くぞ」
千速が少し眉を上げる。
「私も?」
横溝は当然のように言った。
「ここまで来て外す方が面倒だ」
千速はにやりと笑った。
「素直じゃねぇな、重悟」
「うるせぇ。行くぞ」
押村は資料を手に取った。
事件は終盤へ向かっている。
だが、終わりに近づくほど、隠れていたものは牙を剥く。
押村はそれを知っていた。
水原真紀のカウンセリング事務所は、横浜市内の古いビルの三階にあった。
白い看板には、柔らかい字体でこう書かれている。
水原心理相談室
階段を上がる途中、千速が小声で言った。
「静かすぎねぇか」
押村は頷く。
「予約制の事務所なら不自然ではない。ただ、受付の明かりがついていない」
横溝が低く言う。
「警戒しろ」
三人は三階に上がった。
事務所の扉は閉まっている。
横溝がノックした。
「神奈川県警です。水原真紀さん、いらっしゃいますか」
返事はない。
もう一度ノックする。
沈黙。
押村は扉の隙間を見る。
内側から鍵はかかっている。
だが、ドアの下から、かすかに紙片が覗いていた。
押村は手袋をはめ、慎重に引き抜く。
白い紙。
そこには、割れた羽の印があった。
千速が低く呟く。
「またか」
横溝が扉を睨む。
「開けるぞ」
管理会社を通じて鍵を開けさせる時間はなかった。
中で人が倒れている可能性がある。
横溝は応援へ連絡し、最小限の破壊で扉を開けた。
中に入ると、甘い匂いがした。
アロマの香り。
だが、その奥に、別の匂いが混じっている。
薬品のような、鼻につく匂い。
押村がすぐに言った。
「換気を」
千速が窓へ走る。
横溝は奥の相談室へ向かった。
「水原さん!」
相談室のソファに、女性が倒れていた。
六十代。
水原真紀。
机の上には、睡眠薬の瓶。
そして、半分ほど残った水の入ったグラス。
村上たちが到着し、救急要請が入る。
千速が脈を確認する。
「生きてる。呼吸は浅い」
押村は机の上を見た。
薬の瓶は、わざと見えるように置かれている。
自殺に見せかけた配置。
だが、押村の目は別の一点で止まった。
グラスの横。
小さな黒い繊維が落ちている。
黒いレインコートに使われるような防水素材。
千速もそれを見た。
「風見台の奴か」
「可能性がある」
横溝が紙片を開いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
罪は語られた。
次は、沈黙する者が裁かれる。
千速が顔をしかめる。
「沈黙する者……水原のことか」
押村は首を横に振った。
「いえ。水原さんは生きている。殺害ではなく、口を封じる目的かもしれません」
横溝が低く言う。
「誰かが水原に喋られると困る」
「はい」
その時、村上が事務所の奥から声を上げた。
「警部補、これを!」
押村たちが向かうと、奥の書棚の一部が不自然にずれていた。
押村が本を取り出す。
奥に、小さな金庫が隠されている。
鍵は開いていた。
中には、古いカセットテープが数本。
そして一冊の手帳。
表紙には、黒ずんだ文字でこう書かれていた。
R.K.
玖城怜司。
押村は手帳を開いた。
中には、びっしりと文字が書かれている。
Kシリーズの構造案。
各研究会メンバーの心理分析。
そして、最後のページ近くに、赤いインクで書かれた文章。
もし私が死んだら、私を殺すのは黒崎ではない。
鳥羽でもない。
水原でもない。
私の物語を本当に欲しがっている者は、別にいる。
押村の手が止まった。
横溝が覗き込む。
「別にいる?」
千速が低く言った。
「五人の研究会メンバー以外に、誰かいたってことか」
押村は手帳をめくる。
次のページには、名前が一つだけ書かれていた。
榊亮三
横溝が眉を寄せる。
「榊はメンバーだろ」
押村は静かに答えた。
「はい。ただ、玖城は“別にいる”と書いた後に、榊の名前を残している」
千速が目を細めた。
「榊が、メンバーでありながら別の立場だった?」
押村は頷いた。
「その可能性があります」
手帳の次のページには、さらに奇妙な文があった。
榊は、私を止めたいのではない。
私の方法を奪いたいのだ。
彼にだけは、K-20を渡してはいけない。
横溝の顔が険しくなる。
「榊亮三……こいつが本命か」
押村は手帳を閉じた。
「水原さんを襲った人物も、榊の可能性があります」
千速が拳を握る。
「じゃあ風見台で美怜を押した黒レインコートも」
「はい」
その時、救急隊員が水原を搬送していく。
意識はない。
だが、生きている。
押村はその姿を見送りながら思った。
水原真紀が目を覚ませば、何かを語る。
それを恐れた者がいる。
榊亮三。
二十年前の共犯者であり、Kシリーズを最も欲しがった男。
事件の影は、ようやく一人の人物へ絞られ始めていた。
榊亮三の経歴は、奇妙だった。
六十二歳。
元大学講師。
専門は社会心理学。
その後、民間の危機管理コンサルタントとして活動。
企業の不祥事対応。
世論誘導。
クレーム対応。
メディア対策。
横溝は資料を見ながら吐き捨てた。
「人の心理を操る仕事か」
押村は頷いた。
「玖城怜司の研究に近い分野です」
千速が端末の画面を見る。
「榊は今、どこにいる?」
村上が答える。
「自宅は不在。事務所も閉鎖されています。ただ、昨日夜、横浜港方面で榊名義の車が確認されています」
千速の顔が変わる。
「横浜港?」
「はい」
「港方面なら、劇場から逃げた黒いバイクが向かった倉庫街とも近い」
押村が地図を見る。
青葉市民ホール。
倉庫街。
榊の車両確認地点。
線がつながる。
横溝が言った。
「榊はずっと近くにいたのか」
「可能性があります」
その時、意識を取り戻した水原真紀から連絡が入った。
病院で短時間なら聴取可能。
押村と横溝、千速はすぐに病院へ向かった。
病室の水原真紀は、蒼白な顔でベッドに横たわっていた。
それでも目には、強い怯えが残っている。
押村は椅子に座り、静かに言った。
「水原さん。無理のない範囲で構いません。何があったか話してください」
水原は唇を震わせた。
「榊が……来ました」
横溝が身を乗り出す。
「榊亮三か」
水原は頷く。
「二十年前のことを、警察に話すなと言われました」
「それで薬を飲まされた?」
「はい……お茶に何かを入れられたと思います」
千速が低く問う。
「榊は、風見台にもいたか」
水原の顔が強張る。
「……いたと思います」
押村が静かに尋ねる。
「なぜそう思うんですか」
水原は目を閉じた。
「黒崎美怜さんが襲われたニュースを見て、私は榊に電話しました。あなたがやったのか、と」
「榊は何と」
「“遥は甘い。証人など残すべきではない”と」
千速が奥歯を噛む。
「やっぱりか」
押村は続けた。
「榊はKシリーズを使って、何をしようとしているんですか」
水原はしばらく黙っていた。
そして、掠れた声で言った。
「榊は、玖城を恐れていませんでした。むしろ憧れていた」
横溝の目が鋭くなる。
「憧れ?」
「ええ。玖城のように人を動かしたかった。殺意も罪悪感も、世論も恐怖も、全部を自分の手の中で動かしたかった」
水原の目に涙が滲む。
「二十年前、玖城が倒れた時……本当に死ぬまで何もさせなかったのは、黒崎さんじゃない」
押村の視線が鋭くなる。
「榊ですか」
水原は頷いた。
「黒崎さんは救急車を呼ぼうとした。鳥羽さんも震えていた。私も……何もできなかった。でも榊だけは冷静だった」
水原の声が震える。
「彼は言ったんです。“ここで生かせば、私たち全員が玖城の物語にされる。なら、こちらが彼の最後を設計すればいい”と」
横溝が拳を握った。
「榊が主導したのか」
「はい」
押村は手帳の言葉を思い出した。
私の物語を本当に欲しがっている者は、別にいる。
玖城怜司は分かっていた。
自分を止めようとしている者たちの中に、自分の方法を奪おうとする者がいることを。
「榊は今どこにいますか」
水原は首を振った。
「分かりません。でも……」
「でも?」
「彼は最後に言いました」
水原は押村を見た。
「“物語はまだ終わっていない。遥では足りない。最後に本物のK-20を完成させる”と」
千速が低く言った。
「本物のK-20?」
押村の胸に冷たいものが落ちた。
鳥羽遥が旧講義棟で再現したK-20は、父に罪を語らせる部屋だった。
だが、榊が言う本物のK-20とは何か。
押村は水原に尋ねた。
「本物のK-20について、何か知っていますか」
水原は青ざめた顔で、小さく言った。
「玖城が昔、言っていました」
病室の空気が静まり返る。
「K-20は、最後の実験。殺意を持たない人間に、殺人を選ばせる構造だと」
横溝が低く吐いた。
「最低だな」
押村は拳を握った。
殺意を持つ人間を誘導するのではない。
殺意を持たない人間に、殺させる。
それが本物のK-20。
千速が押村を見る。
「奏斗」
「何だ」
「榊は、誰に殺させるつもりだ?」
押村はすぐには答えなかった。
だが、頭の中で事件の構図が組み上がっていく。
榊は、玖城の方法を奪いたかった。
鳥羽遥は、玖城の物語を完成させようとした。
榊は、それを利用した。
そして今、本物のK-20を完成させようとしている。
殺意を持たない人間に、殺人を選ばせる。
その標的は、おそらく自分自身ではない。
榊は、自分の死すら他人を支配する道具にするような男ではない。
なら。
押村は低く言った。
「榊は、誰かに榊自身を殺させるつもりかもしれません」
横溝が顔を上げる。
「何?」
「自分が殺されることで、相手に罪を背負わせる。殺意のない人間に、殺人を選ばせたと証明するために」
千速の表情が強張った。
「誰に?」
その瞬間、押村のスマホが震えた。
村上からだった。
『押村警部補! 榊の車が見つかりました!』
「場所は」
『横浜港の旧倉庫地区です。それと、現場に封筒が残されていました』
押村は息を止めた。
「中身は」
村上の声が震える。
『押村奏斗様、と書かれています』
千速が押村を見る。
横溝の顔も変わる。
押村は静かに目を閉じた。
榊は、最初から見ていた。
黒崎邸を解き、風見台を止め、劇場の構造を見抜き、鳥羽遥を生かした男。
人の罪を背負い込みやすい刑事。
殺意を持たない人間。
榊が最後の実験台に選んだのは。
「俺です」
千速が即座に言った。
「行かせねぇぞ」
押村は千速を見る。
「行く必要があります」
「分かってる。でも、一人では行かせねぇ」
横溝が低く言う。
「当然だ。榊が何を仕掛けてるか分からねぇ。全員で行く」
押村は頷いた。
「はい」
千速は押村の腕を掴んだ。
「奏斗」
「何だ」
「絶対に、あいつの筋書き通りには動くな」
押村は千速の目を見た。
「分かった」
千速はさらに強く言った。
「お前は人を殺さない。絶対に」
押村は静かに頷いた。
「ああ」
横溝が病室の扉へ向かう。
「行くぞ。最後の舞台をぶっ壊しに行く」
押村は村上から送られてきた封筒の写真を見た。
白い封筒。
割れた羽。
宛名は、自分。
中には、たった一文。
押村奏斗。
君なら、正しい殺人を選べる。
押村の目が静かに鋭くなった。
正しい殺人などない。
その当たり前を、榊亮三に突きつけるために。
三人は、横浜港へ向かった。