横浜港の旧倉庫地区は、夜になると街の音から切り離されたように静まり返っていた。
古びた倉庫。
錆びたフェンス。
使われなくなった線路跡。
遠くで鳴る船の汽笛。
海風は冷たく、湿った匂いを運んでくる。
押村奏斗は、車を降りてすぐに倉庫群を見渡した。
榊亮三の車は、三号倉庫の裏手で発見されていた。
車内に榊の姿はない。
残されていたのは、押村宛ての封筒だけ。
押村奏斗。
君なら、正しい殺人を選べる。
その一文は、押村の胸の奥に冷たい棘のように刺さっていた。
横溝重悟が隣で吐き捨てる。
「胸糞悪ぃ文面だな」
「はい」
押村は短く答えた。
その声は落ち着いていた。
落ち着きすぎているようにも見えた。
萩原千速は、押村の横顔を見て眉を寄せた。
「奏斗」
「何だ」
「今、何考えてる」
押村は倉庫を見たまま答える。
「榊の目的です」
「それだけか」
「……俺に何をさせたいのかも考えている」
千速は一歩近づく。
「させねぇよ」
押村が千速を見る。
千速の目はまっすぐだった。
「榊が何を仕掛けてようが、お前に人を殺させるなんてさせない」
押村は少しだけ目を伏せた。
「分かっている」
「本当だな」
「ああ」
横溝が低く言う。
「押村。お前は榊の舞台に立つ必要はある。だが、脚本通りに動く必要はねぇ」
押村は頷いた。
「はい」
横溝は無線を握った。
「三号倉庫を中心に包囲。榊亮三は危険人物だ。人質、罠、薬品、火器、全部警戒しろ。無理に突入するな」
捜査員たちが動き出す。
千速は倉庫の周囲を見た。
「ここ、逃げ道が多いな」
「はい」
押村は構内図を広げる。
「三号倉庫は港側に搬出口があります。裏の岸壁から小型船へ乗ることも可能です」
「道路側は?」
千速が問う。
「車両通行可能な道は二本。ただし、使われていない搬入路が一本ある」
「なら、バイクなら抜けられるな」
横溝が千速を見る。
「またバイクか」
「この事件、車よりバイクの方が厄介だっただろ」
押村が頷く。
「千速の言う通りです。搬入路側も押さえる必要があります」
横溝はすぐ指示を追加した。
「交通部と連携して搬入路を塞げ。バイクが出ても逃がすな」
「了解!」
倉庫の中は暗い。
だが、三号倉庫の二階部分にだけ、ぼんやりと灯りが見えた。
榊は、そこにいる。
いや。
そう見せている。
押村はそう考えた。
榊亮三は、自分を心理の専門家だと思っている。
相手の動きを読み、感情を誘導し、選択肢を狭める。
玖城怜司が作ったKシリーズ。
それを、榊は本物の実験として完成させたい。
殺意を持たない人間に、殺人を選ばせる構造。
その相手として、榊は押村を選んだ。
なぜか。
押村が、人を救いたいと思う刑事だからだ。
人の罪を背負おうとする人間だからだ。
榊はきっと、そこを突いてくる。
横溝が押村の肩を軽く叩いた。
「行くぞ」
「はい」
千速も横に並ぶ。
押村が彼女を見る。
「千速は外周を――」
「行く」
即答だった。
押村は言葉を止める。
千速は睨むように言った。
「外周も大事だ。でも、お前が榊に狙われてるなら、私は近くにいる」
「危険だ」
「お前もな」
横溝がため息をつく。
「揉めてる時間はねぇ。千速、お前は押村から離れるな。ただし、勝手に突っ込むな」
「分かってる」
「信用していいんだな」
「小隊長だぞ」
「余計心配だ」
千速は少しだけ笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
押村は静かに言った。
「分かった。一緒に行こう」
千速は頷いた。
「ああ」
三人は、三号倉庫へ入った。
倉庫の中は広かった。
古いコンテナ。
木箱。
使われなくなったフォークリフト。
天井から吊られた錆びた鎖。
奥には階段がある。
二階事務室へ続く鉄階段。
上から、薄い光が漏れていた。
横溝が無線で言う。
「内部に入った。二階へ向かう」
押村は足元を確認しながら進んだ。
妙に綺麗な道筋がある。
床の埃が、一部だけ払われている。
誰かを誘導するように。
千速も気づいた。
「道が作られてる」
「はい」
「この通りに歩かせたいってことか」
「そうだと思う」
横溝が低く唸る。
「じゃあ、外れたら罠か?」
押村は床を見た。
埃の残る場所に、細いワイヤーが見える。
踏めば何かが作動する。
「その可能性があります」
千速が小さく舌打ちする。
「面倒くせぇ」
「榊は俺たちを急がせたいはずです」
押村は静かに言った。
「急がせて、焦らせて、正しい判断ができない状態にする」
横溝が頷く。
「なら急がねぇ」
「はい」
三人は慎重に進んだ。
階段の前まで来た時、倉庫内に突然スピーカー音が響いた。
古い拡声器から、男の声が流れる。
『ようこそ、押村警部補』
榊亮三の声だった。
千速が顔を上げる。
「榊……!」
横溝が周囲を睨む。
「どこからだ」
押村は二階の灯りを見る。
「録音かもしれません」
声は続いた。
『君はここまで、実に誠実に事件を追ってきた。黒崎邸を解き、風見台を止め、劇場の仕掛けを見抜き、鳥羽遥を死なせなかった』
押村の表情は変わらない。
だが、千速には分かった。
押村の呼吸が、わずかに浅くなった。
『君は人を救いたい。罪を止めたい。だが、救うためには時に選ばなければならない』
横溝が無線で叫ぶ。
「音声の発信源を探せ!」
榊の声は淡々としていた。
『K-20。最後の実験。殺意を持たない人間に、殺人を選ばせる構造』
千速の拳に力が入る。
『君なら、正しい殺人を選べる』
押村は低く言った。
「正しい殺人などない」
その声に反応したように、スピーカーから笑い声が流れた。
録音ではない。
榊は聞いている。
『そう言うと思ったよ、押村警部補』
横溝が顔を上げる。
「リアルタイムか」
押村は静かに言った。
「どこかから監視しています」
『では試そう』
その瞬間、二階事務室の窓に明かりがついた。
中に、人影が見えた。
椅子に縛られている人物。
千速が目を凝らす。
「誰だ……?」
押村の顔が強張った。
「鳥羽遥です」
横溝が低く唸る。
「何だと」
二階事務室の中。
鳥羽遥が椅子に縛られていた。
口には布。
意識はあるようで、必死にもがいている。
彼女の頭上には、錆びた鉄骨が吊られていた。
細いワイヤー一本で支えられている。
榊の声が響く。
『鳥羽遥は、私の計画を乱した。父への復讐心に溺れ、Kシリーズを子供じみた悲劇に変えた。だが、彼女にも役割がある』
押村は二階を見上げる。
榊は続けた。
『彼女の頭上の鉄骨は、十分後に落ちる。助けたければ二階へ来るといい』
横溝が怒鳴る。
「ふざけやがって!」
『ただし、二階の扉は内側から開かない。解除装置は一階奥の制御盤にある』
倉庫の奥に、赤いランプが点いた。
制御盤。
だが、そこへ向かう床にはワイヤーが張り巡らされている。
榊の声が少し楽しげになる。
『制御盤まで行けば遥は助かる。ただし、そこへ向かう途中に別の仕掛けがある』
倉庫の反対側に、もう一つ明かりが点いた。
そこには、透明なケースの中に注射器が置かれていた。
そして、ケースの上には拳銃が一丁。
横溝の目が鋭くなる。
「銃……?」
『ケースの中にある薬品を私に注射すれば、私は死ぬ。私の心臓には持病がある。この薬で確実に止まる』
千速が低く吐く。
「何言ってんだ、こいつ……」
『私が死ねば、すべての仕掛けは止まる。遥も助かる。倉庫に仕掛けた火災装置も作動しない。外にいる捜査員たちも無事だ』
横溝の顔が変わる。
「火災装置だと?」
『制御盤へ向かえば時間がかかる。ワイヤーに触れれば火が出る。だが、私を殺せば一瞬で終わる』
榊の声が冷たくなる。
『選びたまえ、押村警部補。鳥羽遥を救うために、私を殺すか。正義のために、殺人を選ぶか』
倉庫内に、タイマー音が響き始めた。
電子音。
十分。
鳥羽遥の頭上の鉄骨が、わずかに揺れる。
千速が押村の腕を掴んだ。
「奏斗。聞くな」
押村は動かなかった。
横溝がすぐに指示を飛ばす。
「爆発物処理班と消防を呼べ! 倉庫周囲の人間を下げろ! 電源を切れるか確認しろ!」
『無駄だよ、横溝警部』
榊の声は余裕を崩さない。
『外部電源ではない。内部バッテリーだ。解除には中から制御盤を操作するしかない』
押村は制御盤への道を見る。
ワイヤー。
足元の罠。
火災装置。
時間制限。
そして、榊を殺せば止まるという誘惑。
正しい殺人。
ありもしない選択肢を、榊は押村の前に置いた。
押村は静かに言った。
「榊は、俺が銃を取るところを見たいんです」
千速が即座に言う。
「取るな」
「取らない」
押村の返答は早かった。
千速は少しだけ息を吐く。
横溝が言う。
「なら制御盤へ行くぞ」
押村は倉庫の奥を見た。
「その前に確認したいことがあります」
「何だ」
「榊が本当にここにいるとは限らない」
横溝の目が動く。
「どういうことだ」
「自分を殺せと言いながら、榊本人の姿が見えない。薬品と銃だけを置いている。もし俺が銃を取ったとして、誰を撃てばいいのか」
千速が気づく。
「榊は、私たちに榊を探させたい?」
「あるいは、そこにいると思わせたい」
押村は倉庫の奥の制御盤を見た。
「榊は心理を誘導する男です。選択肢を二つに見せている。でも、本当は三つ目がある」
横溝が低く言った。
「榊を殺すか、制御盤へ行くか」
千速が続ける。
「三つ目は、榊の仕掛けそのものを崩す」
押村は頷いた。
「はい」
榊の声がスピーカーから響く。
『時間は進んでいるよ、押村警部補』
押村は顔を上げた。
「榊亮三」
『何かな』
「あなたはここにいない」
一瞬、スピーカーが沈黙した。
千速と横溝が押村を見る。
押村は続けた。
「あなたは自分を殺せと言った。だが、姿を見せていない。薬品と拳銃を置いただけだ。それは殺人ではなく、殺人を選ぶ動作を見たいだけだからです」
スピーカーの向こうで、榊が小さく笑った。
『面白い』
「あなたの目的は、自分が死ぬことではない。俺に“殺す意思”を持たせることだ」
榊は答えない。
押村は制御盤へ向かう通路を見た。
「鳥羽遥さんを殺すつもりも、最初からない」
千速が驚いて押村を見る。
「奏斗?」
押村は静かに言った。
「鉄骨は落ちません」
横溝が眉を寄せる。
「なぜ分かる」
「榊は鳥羽遥を必要としています。Kシリーズ事件の表向きの実行者として。彼女が死ねば、全てを彼女に背負わせられなくなる」
榊の声が少し低くなった。
『推測に過ぎない』
「はい。ですが、あなたの言葉は矛盾している」
押村は二階を見上げる。
「あなたは本物のK-20を完成させたい。殺意のない人間に殺人を選ばせる構造。それなら、被害者が死ぬ必要はない。必要なのは、俺が殺すと決断することです」
千速は押村の横顔を見ていた。
押村の声は静かだった。
怒りも焦りも表に出していない。
榊の舞台に立ちながら、舞台を分析している。
横溝が低く言う。
「ならタイマーは脅しか」
「脅しです。ただし、火災装置や罠が本物である可能性はあります」
「結局危ねぇじゃねぇか」
「はい」
押村は制御盤へ向かって歩き出そうとした。
千速が止める。
「待て」
押村が振り向く。
「何だ」
「制御盤へは私が行く」
「危険だ」
「道を読むのは私の方が得意だ」
「千速」
「お前が榊に狙われてる。なら、お前が一番やっちゃいけないのは、榊に指定された場所へ行くことだ」
押村は黙った。
千速は強く言った。
「私は道を見る。重悟は指示を出す。お前は榊の嘘を剥がせ」
横溝が頷く。
「千速の言う通りだ。押村、お前は榊と話せ。奴の注意を引け」
押村は千速を見た。
「一人では行かせない」
千速は少し笑った。
「言うと思った」
横溝がすぐに無線を入れる。
「新井、聞こえるか。千速の補助に入れ。制御盤までの通路を二人で進む。ワイヤーに触れるな。床も壁も確認しろ」
『了解!』
千速は押村に近づき、小声で言った。
「奏斗」
「何だ」
「信じろ」
押村は千速の目を見た。
「信じている」
千速は一瞬だけ表情を柔らかくした。
「なら大丈夫だ」
千速は新井と合流し、制御盤へ向かう準備を始めた。
押村はスピーカーを見上げた。
「榊亮三。あなたの相手は俺です」
榊の声が返る。
『いいだろう。話そう』
千速は床にしゃがみ、ワイヤーの位置を確認した。
細い透明な糸。
低い位置に張られたもの。
膝の高さにあるもの。
壁際に沿うもの。
よく見れば、完全に進めない道ではない。
ただし、焦れば必ず引っかかる。
新井が隣で息を整える。
「小隊長、右側の床に感圧板らしきものがあります」
「見えてる。左の木箱を回る」
「でも左は糸が二本」
「一本はダミーだ。埃がついてる。最近張られたのは奥の一本」
新井が目を見張る。
「よく分かりますね」
「道を見るのが仕事だ」
千速は低く笑った。
「行くぞ」
二人はゆっくり進んだ。
一歩。
また一歩。
焦らない。
押村の声が、倉庫に響いている。
「榊。あなたは玖城怜司に憧れていた。でも、彼になれなかった」
スピーカーから榊の声が返る。
『憧れ? 違うな。私は彼を超えた』
押村は静かに言う。
「超えたのなら、なぜ二十年前に彼を見殺しにした」
沈黙。
押村は続けた。
「恐れていたからです。玖城が生きていれば、自分が二番手であることを突きつけられる」
『違う』
榊の声が少しだけ揺れた。
押村はそれを聞き逃さない。
「あなたは玖城の理論を欲しがった。だが、玖城本人は邪魔だった」
『違う。玖城は危険だった』
「あなたにとって、です」
千速はその会話を聞きながら進む。
押村が榊の注意を引いている。
榊の感情を揺らしている。
その間に、千速は制御盤へ近づいていく。
残り五メートル。
床のワイヤーが複雑になる。
千速は息を止めた。
「新井、そこで止まれ」
「はい」
「ここから先は私が行く」
「小隊長」
「二人で入る幅じゃない。私一人なら抜けられる」
新井は一瞬迷った。
だが、千速の目を見て頷く。
「分かりました」
千速は体を低くし、ワイヤーの下をくぐる。
床に手をつく。
その瞬間、押村の声が少し強くなった。
「榊。あなたは自分では何も完成させていない」
榊の声が鋭くなる。
『黙れ』
「K-17は黒崎玲子の殺意に乗った。K-18は鳥羽遥の計画に乗った。K-19も、劇場の観客を利用した。K-20も俺を利用しようとしている」
押村は一歩も動かない。
「あなたはいつも、誰かの手を使っているだけです」
『黙れ!』
スピーカーが割れるように鳴った。
その瞬間、倉庫内の赤いランプが点滅した。
千速の足元で、小さな装置が作動音を立てる。
「まずい」
新井が叫ぶ。
「小隊長、足元!」
千速は見た。
ワイヤーではない。
床の下に仕込まれた小型発火装置。
押村が榊を怒らせたことで、榊が罠を早めた。
千速は迷わなかった。
制御盤まで一メートル。
走れば届く。
だが、走ればワイヤーに触れる。
千速は近くにあった金属パイプを掴んだ。
「新井、伏せろ!」
パイプを横に投げる。
パイプは複数のワイヤーをまとめて切った。
同時に発火装置が作動する。
火花。
だが、炎は上がらなかった。
発火剤へ届く前に、切れたワイヤーが装置を引き抜いていた。
千速はその隙に制御盤へ飛びついた。
「開け!」
扉を開く。
中には複数のスイッチとタイマー。
どれが本物か、一瞬では分からない。
だが、千速は表示を見た。
二階吊り下げ装置。
火災装置。
音響。
照明。
そして、非常停止。
赤いカバー付きのスイッチ。
「これか!」
千速はためらわず押した。
倉庫全体に低い停止音が響く。
二階の鉄骨を吊るワイヤーがロックされる音。
火災装置のランプが消える。
スピーカーから、榊の怒声が響いた。
『余計なことを……!』
横溝が叫ぶ。
「よし! 二階へ行け! 鳥羽遥を保護しろ!」
捜査員たちが一斉に動く。
押村はスピーカーを見上げた。
「榊。終わりです」
『終わり?』
榊の声は、低く笑っていた。
『まだだよ、押村警部補』
押村の胸に嫌な予感が走る。
『本物のK-20は、そこではない』
倉庫の奥。
銃と薬品が入ったケースの下で、ランプが点いた。
押村は即座に理解した。
あれも罠。
榊を殺すための道具ではなく、最後の引き金。
ケースの下から、別のスピーカー音が鳴る。
そして、倉庫外から無線が入った。
『横溝警部! 港側の搬出口付近で人影! 榊亮三と思われます!』
横溝が怒鳴る。
「追え!」
『待ってください! 榊の近くに人質がいます!』
押村の表情が変わる。
「誰ですか」
無線の向こうで、村上の声が震えた。
『鳥羽悠介です!』
千速が制御盤から顔を上げる。
「何だって……!」
押村は二階を見る。
そこには鳥羽遥がいた。
そして港側には鳥羽悠介。
榊は、親子を別々に人質に取っていた。
倉庫内のタイマーは囮。
本当の舞台は港側。
榊の声が最後に響いた。
『押村警部補。急ぎたまえ。今度こそ、選ぶ時間だ』
通信が切れた。
横溝が拳を握る。
「野郎……!」
押村は走り出した。
千速も制御盤から駆け戻る。
「奏斗!」
押村は振り返らずに言った。
「港側へ行く」
「私も行く!」
「分かってる!」
三人は倉庫の奥、港へ続く搬出口へ向かった。
港側の搬出口を抜けると、冷たい海風が吹きつけた。
岸壁には古いクレーンが立っている。
その足元に、榊亮三がいた。
痩せた男。
六十二歳とは思えないほど背筋が伸び、スーツ姿に乱れはない。
その隣に、鳥羽悠介が膝をついていた。
手首を縛られ、顔色は悪い。
榊の手には、拳銃。
それが鳥羽悠介のこめかみに向けられていた。
横溝が銃を構える。
「榊亮三! 銃を捨てろ!」
榊は穏やかに笑った。
「やっと会えましたね、押村警部補」
押村は榊を見た。
「鳥羽さんを解放してください」
「それでは実験にならない」
「実験は終わりました」
「いいえ。ここからです」
榊は鳥羽悠介の肩に手を置く。
「この男は、二十年前に玖城怜司を見殺しにした。黒崎宗一郎も、鳥羽悠介も、水原真紀も、私も。全員が罪人です」
横溝が怒鳴る。
「ならお前も裁かれる側だ!」
榊は笑った。
「もちろんです。だからこそ、私は罰を受けても構わない」
押村は静かに言った。
「嘘です」
榊の目が押村へ向く。
「あなたは罰を受けたいのではない。自分の罪を、意味のあるものにしたいだけです」
榊の笑みが少し薄くなる。
押村は一歩前に出た。
「玖城怜司を見殺しにした罪。Kシリーズを欲した罪。鳥羽遥さんを利用した罪。黒崎玲子を誘導した罪。あなたはそれらを認めるのが怖い」
「怖い?」
「はい。だから実験という言葉で飾っている」
千速は押村の横に立った。
いつでも動ける距離。
だが、榊の銃は鳥羽へ向いている。
動けない。
榊はゆっくり言った。
「押村警部補。君は賢い。だが、現実は言葉では救えない」
榊は鳥羽悠介の首元に銃口を押し当てる。
鳥羽が呻く。
「やめろ!」
鳥羽遥が、倉庫の中から捜査員に支えられながら出てきた。
「お父さん!」
榊は遥を見る。
「君は失敗した。だが、最後の観客としてはちょうどいい」
遥の顔が青ざめる。
「榊……あんたが……」
「君にKシリーズを渡したのは私だ」
押村の目が鋭くなる。
榊は静かに告げた。
「君の父が隠していたノートの所在を教えたのも、黒崎邸のK-17を示したのも、風見台の資料を与えたのも、私だ」
鳥羽遥は言葉を失った。
「私は……」
「君は物語を読んでいるつもりだった。だが、私のページをめくっていただけだ」
遥の顔が歪む。
千速が低く吐き捨てた。
「最低だな」
榊は千速を一瞥する。
「感情的ですね」
「感情がないよりマシだ」
榊は少しだけ笑った。
そして押村を見る。
「さあ、押村警部補。選びなさい」
榊は銃を鳥羽悠介から離した。
そして、銃口を自分の胸へ向けた。
「君が私を撃てば、鳥羽悠介は助かる。私の証言も必要ない。手帳も録音も、すべて倉庫に残してある。事件は解決する」
横溝が叫ぶ。
「押村、聞くな!」
榊は続ける。
「だが、撃たなければ」
榊はもう片方の手に、小型の起爆装置を見せた。
「この岸壁に仕掛けた発火装置が作動する。大した爆発ではないが、鳥羽悠介くらいなら海へ落ちる。今の体力では助からないでしょう」
鳥羽遥が叫ぶ。
「やめて!」
榊は穏やかに言った。
「父を救いたいか、遥くん。なら君が押村警部補に頼むといい」
押村は榊を見つめた。
状況は最悪だった。
撃てば榊が死ぬ。
撃たなければ鳥羽が死ぬかもしれない。
千速の声が聞こえる。
「奏斗」
短い声。
だが、その中に全部があった。
撃つな。
一人で背負うな。
榊の脚本に従うな。
押村は静かに息を吸った。
そして、銃を構えなかった。
榊が目を細める。
「撃たないのですか」
「撃ちません」
「鳥羽悠介が死にますよ」
「死なせません」
榊が笑う。
「どうやって?」
押村は榊ではなく、鳥羽悠介を見た。
「鳥羽さん」
鳥羽悠介は震えながら顔を上げる。
「今から、横へ倒れてください」
榊の表情が変わる。
押村は続けた。
「今です」
鳥羽悠介は一瞬だけ迷った。
だが、鳥羽遥が叫んだ。
「お父さん!」
その声に、鳥羽は体を横へ倒した。
同時に千速が走った。
榊が反応する。
起爆装置のボタンに指がかかる。
押村は地面に落ちていた鎖を蹴った。
鎖が榊の足元に絡む。
榊の体勢が崩れる。
千速が鳥羽悠介に飛びつき、そのまま岸壁の端から引き離した。
横溝が榊へ突進する。
「榊!」
榊は起爆装置を押した。
岸壁の端で火花が散る。
小さな爆発音。
だが、鳥羽悠介はもうそこにいない。
千速が鳥羽を抱えるように転がり、火花を避けた。
押村は榊の腕を掴み、起爆装置を叩き落とす。
榊は押村を見て、初めて怒りを露わにした。
「なぜだ!」
押村は榊の腕を捻り上げる。
「人は、あなたの実験材料ではありません」
横溝が榊を地面に押さえつける。
「榊亮三、殺人未遂、監禁、脅迫その他諸々で逮捕だ!」
榊は地面に押さえられながらも、押村を睨んでいた。
「君は選ばなかった。正しい殺人を選べなかった」
押村は榊を見下ろした。
「選びました」
榊の目が動く。
押村は静かに言った。
「誰も殺さないことを」
榊の表情が歪んだ。
それは怒りなのか、敗北なのか、恐怖なのか。
押村には分からなかった。
だが、榊はもう何も言わなかった。
千速は鳥羽悠介のそばに膝をついていた。
「大丈夫か」
鳥羽は咳き込みながら頷いた。
「……はい」
鳥羽遥が駆け寄ろうとして、捜査員に止められる。
彼女も被疑者だ。
けれど、鳥羽悠介は娘を見た。
「遥……」
遥の目から涙が落ちた。
「お父さん……」
鳥羽は掠れた声で言う。
「すまなかった」
遥はその場に崩れ落ちた。
押村はその光景を見ていた。
二十年前に止まった親子の時間。
それが戻るわけではない。
罪は消えない。
傷も消えない。
だが、生きている。
生きていれば、向き合うことはできる。
千速が押村のそばに来た。
「怪我は?」
「ない」
「本当だな」
「本当だ」
千速はじっと押村を見た。
「撃たなかったな」
「撃つ理由がなかった」
「榊は撃たせたかった」
「だから撃たなかった」
千速は少しだけ息を吐いた。
「よかった」
押村は千速を見る。
「信じてくれてありがとう」
千速は少し目を逸らす。
「信じろって言ったのは私だからな」
横溝が榊を連行させながら近づいてきた。
「お前ら、そこでいい雰囲気になるな」
千速が振り向く。
「なってねぇよ」
「なってた」
押村が真面目に言う。
「横溝警部、榊の身柄は」
「確保した。倉庫内の火災装置も停止。鳥羽遥も鳥羽悠介も生存。水原も病院で保護」
横溝は海を見た。
「残るは榊の供述と、二十年前の裏付けだ」
押村は頷いた。
「はい」
横溝は押村を見る。
「あと少しだ」
押村は静かに答えた。
「はい」
港の夜風が、三人の間を吹き抜けた。
Kシリーズは崩れた。
榊亮三は捕まった。
だが、最後に残っているのは、二十年前の真実。
玖城怜司はなぜ死んだのか。
誰が、どこまで罪を背負うのか。
そして、Kシリーズ事件の全貌を法の前に明らかにすること。
押村は、連行される榊の背中を見つめた。
これで終わりではない。
だが、終わりは見えた。
あと一歩。
その一歩を踏み外さないために、押村は千速と横溝のいる場所へ戻った。