神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

33 / 45
第33話 正しい殺人

横浜港の旧倉庫地区は、夜になると街の音から切り離されたように静まり返っていた。

 

古びた倉庫。

錆びたフェンス。

使われなくなった線路跡。

遠くで鳴る船の汽笛。

 

海風は冷たく、湿った匂いを運んでくる。

 

押村奏斗は、車を降りてすぐに倉庫群を見渡した。

 

榊亮三の車は、三号倉庫の裏手で発見されていた。

 

車内に榊の姿はない。

 

残されていたのは、押村宛ての封筒だけ。

 

押村奏斗。

君なら、正しい殺人を選べる。

 

その一文は、押村の胸の奥に冷たい棘のように刺さっていた。

 

横溝重悟が隣で吐き捨てる。

 

「胸糞悪ぃ文面だな」

 

「はい」

 

押村は短く答えた。

 

その声は落ち着いていた。

 

落ち着きすぎているようにも見えた。

 

萩原千速は、押村の横顔を見て眉を寄せた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今、何考えてる」

 

押村は倉庫を見たまま答える。

 

「榊の目的です」

 

「それだけか」

 

「……俺に何をさせたいのかも考えている」

 

千速は一歩近づく。

 

「させねぇよ」

 

押村が千速を見る。

 

千速の目はまっすぐだった。

 

「榊が何を仕掛けてようが、お前に人を殺させるなんてさせない」

 

押村は少しだけ目を伏せた。

 

「分かっている」

 

「本当だな」

 

「ああ」

 

横溝が低く言う。

 

「押村。お前は榊の舞台に立つ必要はある。だが、脚本通りに動く必要はねぇ」

 

押村は頷いた。

 

「はい」

 

横溝は無線を握った。

 

「三号倉庫を中心に包囲。榊亮三は危険人物だ。人質、罠、薬品、火器、全部警戒しろ。無理に突入するな」

 

捜査員たちが動き出す。

 

千速は倉庫の周囲を見た。

 

「ここ、逃げ道が多いな」

 

「はい」

 

押村は構内図を広げる。

 

「三号倉庫は港側に搬出口があります。裏の岸壁から小型船へ乗ることも可能です」

 

「道路側は?」

 

千速が問う。

 

「車両通行可能な道は二本。ただし、使われていない搬入路が一本ある」

 

「なら、バイクなら抜けられるな」

 

横溝が千速を見る。

 

「またバイクか」

 

「この事件、車よりバイクの方が厄介だっただろ」

 

押村が頷く。

 

「千速の言う通りです。搬入路側も押さえる必要があります」

 

横溝はすぐ指示を追加した。

 

「交通部と連携して搬入路を塞げ。バイクが出ても逃がすな」

 

「了解!」

 

倉庫の中は暗い。

 

だが、三号倉庫の二階部分にだけ、ぼんやりと灯りが見えた。

 

榊は、そこにいる。

 

いや。

 

そう見せている。

 

押村はそう考えた。

 

榊亮三は、自分を心理の専門家だと思っている。

相手の動きを読み、感情を誘導し、選択肢を狭める。

 

玖城怜司が作ったKシリーズ。

 

それを、榊は本物の実験として完成させたい。

 

殺意を持たない人間に、殺人を選ばせる構造。

 

その相手として、榊は押村を選んだ。

 

なぜか。

 

押村が、人を救いたいと思う刑事だからだ。

 

人の罪を背負おうとする人間だからだ。

 

榊はきっと、そこを突いてくる。

 

横溝が押村の肩を軽く叩いた。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

千速も横に並ぶ。

 

押村が彼女を見る。

 

「千速は外周を――」

 

「行く」

 

即答だった。

 

押村は言葉を止める。

 

千速は睨むように言った。

 

「外周も大事だ。でも、お前が榊に狙われてるなら、私は近くにいる」

 

「危険だ」

 

「お前もな」

 

横溝がため息をつく。

 

「揉めてる時間はねぇ。千速、お前は押村から離れるな。ただし、勝手に突っ込むな」

 

「分かってる」

 

「信用していいんだな」

 

「小隊長だぞ」

 

「余計心配だ」

 

千速は少しだけ笑った。

 

だが、その目は笑っていなかった。

 

押村は静かに言った。

 

「分かった。一緒に行こう」

 

千速は頷いた。

 

「ああ」

 

三人は、三号倉庫へ入った。

 

倉庫の中は広かった。

 

古いコンテナ。

木箱。

使われなくなったフォークリフト。

天井から吊られた錆びた鎖。

 

奥には階段がある。

 

二階事務室へ続く鉄階段。

 

上から、薄い光が漏れていた。

 

横溝が無線で言う。

 

「内部に入った。二階へ向かう」

 

押村は足元を確認しながら進んだ。

 

妙に綺麗な道筋がある。

 

床の埃が、一部だけ払われている。

 

誰かを誘導するように。

 

千速も気づいた。

 

「道が作られてる」

 

「はい」

 

「この通りに歩かせたいってことか」

 

「そうだと思う」

 

横溝が低く唸る。

 

「じゃあ、外れたら罠か?」

 

押村は床を見た。

 

埃の残る場所に、細いワイヤーが見える。

 

踏めば何かが作動する。

 

「その可能性があります」

 

千速が小さく舌打ちする。

 

「面倒くせぇ」

 

「榊は俺たちを急がせたいはずです」

 

押村は静かに言った。

 

「急がせて、焦らせて、正しい判断ができない状態にする」

 

横溝が頷く。

 

「なら急がねぇ」

 

「はい」

 

三人は慎重に進んだ。

 

階段の前まで来た時、倉庫内に突然スピーカー音が響いた。

 

古い拡声器から、男の声が流れる。

 

『ようこそ、押村警部補』

 

榊亮三の声だった。

 

千速が顔を上げる。

 

「榊……!」

 

横溝が周囲を睨む。

 

「どこからだ」

 

押村は二階の灯りを見る。

 

「録音かもしれません」

 

声は続いた。

 

『君はここまで、実に誠実に事件を追ってきた。黒崎邸を解き、風見台を止め、劇場の仕掛けを見抜き、鳥羽遥を死なせなかった』

 

押村の表情は変わらない。

 

だが、千速には分かった。

 

押村の呼吸が、わずかに浅くなった。

 

『君は人を救いたい。罪を止めたい。だが、救うためには時に選ばなければならない』

 

横溝が無線で叫ぶ。

 

「音声の発信源を探せ!」

 

榊の声は淡々としていた。

 

『K-20。最後の実験。殺意を持たない人間に、殺人を選ばせる構造』

 

千速の拳に力が入る。

 

『君なら、正しい殺人を選べる』

 

押村は低く言った。

 

「正しい殺人などない」

 

その声に反応したように、スピーカーから笑い声が流れた。

 

録音ではない。

 

榊は聞いている。

 

『そう言うと思ったよ、押村警部補』

 

横溝が顔を上げる。

 

「リアルタイムか」

 

押村は静かに言った。

 

「どこかから監視しています」

 

『では試そう』

 

その瞬間、二階事務室の窓に明かりがついた。

 

中に、人影が見えた。

 

椅子に縛られている人物。

 

千速が目を凝らす。

 

「誰だ……?」

 

押村の顔が強張った。

 

「鳥羽遥です」

 

横溝が低く唸る。

 

「何だと」

 

二階事務室の中。

 

鳥羽遥が椅子に縛られていた。

 

口には布。

意識はあるようで、必死にもがいている。

 

彼女の頭上には、錆びた鉄骨が吊られていた。

 

細いワイヤー一本で支えられている。

 

榊の声が響く。

 

『鳥羽遥は、私の計画を乱した。父への復讐心に溺れ、Kシリーズを子供じみた悲劇に変えた。だが、彼女にも役割がある』

 

押村は二階を見上げる。

 

榊は続けた。

 

『彼女の頭上の鉄骨は、十分後に落ちる。助けたければ二階へ来るといい』

 

横溝が怒鳴る。

 

「ふざけやがって!」

 

『ただし、二階の扉は内側から開かない。解除装置は一階奥の制御盤にある』

 

倉庫の奥に、赤いランプが点いた。

 

制御盤。

 

だが、そこへ向かう床にはワイヤーが張り巡らされている。

 

榊の声が少し楽しげになる。

 

『制御盤まで行けば遥は助かる。ただし、そこへ向かう途中に別の仕掛けがある』

 

倉庫の反対側に、もう一つ明かりが点いた。

 

そこには、透明なケースの中に注射器が置かれていた。

 

そして、ケースの上には拳銃が一丁。

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「銃……?」

 

『ケースの中にある薬品を私に注射すれば、私は死ぬ。私の心臓には持病がある。この薬で確実に止まる』

 

千速が低く吐く。

 

「何言ってんだ、こいつ……」

 

『私が死ねば、すべての仕掛けは止まる。遥も助かる。倉庫に仕掛けた火災装置も作動しない。外にいる捜査員たちも無事だ』

 

横溝の顔が変わる。

 

「火災装置だと?」

 

『制御盤へ向かえば時間がかかる。ワイヤーに触れれば火が出る。だが、私を殺せば一瞬で終わる』

 

榊の声が冷たくなる。

 

『選びたまえ、押村警部補。鳥羽遥を救うために、私を殺すか。正義のために、殺人を選ぶか』

 

倉庫内に、タイマー音が響き始めた。

 

電子音。

 

十分。

 

鳥羽遥の頭上の鉄骨が、わずかに揺れる。

 

千速が押村の腕を掴んだ。

 

「奏斗。聞くな」

 

押村は動かなかった。

 

横溝がすぐに指示を飛ばす。

 

「爆発物処理班と消防を呼べ! 倉庫周囲の人間を下げろ! 電源を切れるか確認しろ!」

 

『無駄だよ、横溝警部』

 

榊の声は余裕を崩さない。

 

『外部電源ではない。内部バッテリーだ。解除には中から制御盤を操作するしかない』

 

押村は制御盤への道を見る。

 

ワイヤー。

足元の罠。

火災装置。

時間制限。

 

そして、榊を殺せば止まるという誘惑。

 

正しい殺人。

 

ありもしない選択肢を、榊は押村の前に置いた。

 

押村は静かに言った。

 

「榊は、俺が銃を取るところを見たいんです」

 

千速が即座に言う。

 

「取るな」

 

「取らない」

 

押村の返答は早かった。

 

千速は少しだけ息を吐く。

 

横溝が言う。

 

「なら制御盤へ行くぞ」

 

押村は倉庫の奥を見た。

 

「その前に確認したいことがあります」

 

「何だ」

 

「榊が本当にここにいるとは限らない」

 

横溝の目が動く。

 

「どういうことだ」

 

「自分を殺せと言いながら、榊本人の姿が見えない。薬品と銃だけを置いている。もし俺が銃を取ったとして、誰を撃てばいいのか」

 

千速が気づく。

 

「榊は、私たちに榊を探させたい?」

 

「あるいは、そこにいると思わせたい」

 

押村は倉庫の奥の制御盤を見た。

 

「榊は心理を誘導する男です。選択肢を二つに見せている。でも、本当は三つ目がある」

 

横溝が低く言った。

 

「榊を殺すか、制御盤へ行くか」

 

千速が続ける。

 

「三つ目は、榊の仕掛けそのものを崩す」

 

押村は頷いた。

 

「はい」

 

榊の声がスピーカーから響く。

 

『時間は進んでいるよ、押村警部補』

 

押村は顔を上げた。

 

「榊亮三」

 

『何かな』

 

「あなたはここにいない」

 

一瞬、スピーカーが沈黙した。

 

千速と横溝が押村を見る。

 

押村は続けた。

 

「あなたは自分を殺せと言った。だが、姿を見せていない。薬品と拳銃を置いただけだ。それは殺人ではなく、殺人を選ぶ動作を見たいだけだからです」

 

スピーカーの向こうで、榊が小さく笑った。

 

『面白い』

 

「あなたの目的は、自分が死ぬことではない。俺に“殺す意思”を持たせることだ」

 

榊は答えない。

 

押村は制御盤へ向かう通路を見た。

 

「鳥羽遥さんを殺すつもりも、最初からない」

 

千速が驚いて押村を見る。

 

「奏斗?」

 

押村は静かに言った。

 

「鉄骨は落ちません」

 

横溝が眉を寄せる。

 

「なぜ分かる」

 

「榊は鳥羽遥を必要としています。Kシリーズ事件の表向きの実行者として。彼女が死ねば、全てを彼女に背負わせられなくなる」

 

榊の声が少し低くなった。

 

『推測に過ぎない』

 

「はい。ですが、あなたの言葉は矛盾している」

 

押村は二階を見上げる。

 

「あなたは本物のK-20を完成させたい。殺意のない人間に殺人を選ばせる構造。それなら、被害者が死ぬ必要はない。必要なのは、俺が殺すと決断することです」

 

千速は押村の横顔を見ていた。

 

押村の声は静かだった。

 

怒りも焦りも表に出していない。

 

榊の舞台に立ちながら、舞台を分析している。

 

横溝が低く言う。

 

「ならタイマーは脅しか」

 

「脅しです。ただし、火災装置や罠が本物である可能性はあります」

 

「結局危ねぇじゃねぇか」

 

「はい」

 

押村は制御盤へ向かって歩き出そうとした。

 

千速が止める。

 

「待て」

 

押村が振り向く。

 

「何だ」

 

「制御盤へは私が行く」

 

「危険だ」

 

「道を読むのは私の方が得意だ」

 

「千速」

 

「お前が榊に狙われてる。なら、お前が一番やっちゃいけないのは、榊に指定された場所へ行くことだ」

 

押村は黙った。

 

千速は強く言った。

 

「私は道を見る。重悟は指示を出す。お前は榊の嘘を剥がせ」

 

横溝が頷く。

 

「千速の言う通りだ。押村、お前は榊と話せ。奴の注意を引け」

 

押村は千速を見た。

 

「一人では行かせない」

 

千速は少し笑った。

 

「言うと思った」

 

横溝がすぐに無線を入れる。

 

「新井、聞こえるか。千速の補助に入れ。制御盤までの通路を二人で進む。ワイヤーに触れるな。床も壁も確認しろ」

 

『了解!』

 

千速は押村に近づき、小声で言った。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「信じろ」

 

押村は千速の目を見た。

 

「信じている」

 

千速は一瞬だけ表情を柔らかくした。

 

「なら大丈夫だ」

 

千速は新井と合流し、制御盤へ向かう準備を始めた。

 

押村はスピーカーを見上げた。

 

「榊亮三。あなたの相手は俺です」

 

榊の声が返る。

 

『いいだろう。話そう』

 

千速は床にしゃがみ、ワイヤーの位置を確認した。

 

細い透明な糸。

低い位置に張られたもの。

膝の高さにあるもの。

壁際に沿うもの。

 

よく見れば、完全に進めない道ではない。

 

ただし、焦れば必ず引っかかる。

 

新井が隣で息を整える。

 

「小隊長、右側の床に感圧板らしきものがあります」

 

「見えてる。左の木箱を回る」

 

「でも左は糸が二本」

 

「一本はダミーだ。埃がついてる。最近張られたのは奥の一本」

 

新井が目を見張る。

 

「よく分かりますね」

 

「道を見るのが仕事だ」

 

千速は低く笑った。

 

「行くぞ」

 

二人はゆっくり進んだ。

 

一歩。

また一歩。

 

焦らない。

 

押村の声が、倉庫に響いている。

 

「榊。あなたは玖城怜司に憧れていた。でも、彼になれなかった」

 

スピーカーから榊の声が返る。

 

『憧れ? 違うな。私は彼を超えた』

 

押村は静かに言う。

 

「超えたのなら、なぜ二十年前に彼を見殺しにした」

 

沈黙。

 

押村は続けた。

 

「恐れていたからです。玖城が生きていれば、自分が二番手であることを突きつけられる」

 

『違う』

 

榊の声が少しだけ揺れた。

 

押村はそれを聞き逃さない。

 

「あなたは玖城の理論を欲しがった。だが、玖城本人は邪魔だった」

 

『違う。玖城は危険だった』

 

「あなたにとって、です」

 

千速はその会話を聞きながら進む。

 

押村が榊の注意を引いている。

 

榊の感情を揺らしている。

 

その間に、千速は制御盤へ近づいていく。

 

残り五メートル。

 

床のワイヤーが複雑になる。

 

千速は息を止めた。

 

「新井、そこで止まれ」

 

「はい」

 

「ここから先は私が行く」

 

「小隊長」

 

「二人で入る幅じゃない。私一人なら抜けられる」

 

新井は一瞬迷った。

 

だが、千速の目を見て頷く。

 

「分かりました」

 

千速は体を低くし、ワイヤーの下をくぐる。

 

床に手をつく。

 

その瞬間、押村の声が少し強くなった。

 

「榊。あなたは自分では何も完成させていない」

 

榊の声が鋭くなる。

 

『黙れ』

 

「K-17は黒崎玲子の殺意に乗った。K-18は鳥羽遥の計画に乗った。K-19も、劇場の観客を利用した。K-20も俺を利用しようとしている」

 

押村は一歩も動かない。

 

「あなたはいつも、誰かの手を使っているだけです」

 

『黙れ!』

 

スピーカーが割れるように鳴った。

 

その瞬間、倉庫内の赤いランプが点滅した。

 

千速の足元で、小さな装置が作動音を立てる。

 

「まずい」

 

新井が叫ぶ。

 

「小隊長、足元!」

 

千速は見た。

 

ワイヤーではない。

 

床の下に仕込まれた小型発火装置。

 

押村が榊を怒らせたことで、榊が罠を早めた。

 

千速は迷わなかった。

 

制御盤まで一メートル。

 

走れば届く。

 

だが、走ればワイヤーに触れる。

 

千速は近くにあった金属パイプを掴んだ。

 

「新井、伏せろ!」

 

パイプを横に投げる。

 

パイプは複数のワイヤーをまとめて切った。

 

同時に発火装置が作動する。

 

火花。

 

だが、炎は上がらなかった。

 

発火剤へ届く前に、切れたワイヤーが装置を引き抜いていた。

 

千速はその隙に制御盤へ飛びついた。

 

「開け!」

 

扉を開く。

 

中には複数のスイッチとタイマー。

 

どれが本物か、一瞬では分からない。

 

だが、千速は表示を見た。

 

二階吊り下げ装置。

火災装置。

音響。

照明。

 

そして、非常停止。

 

赤いカバー付きのスイッチ。

 

「これか!」

 

千速はためらわず押した。

 

倉庫全体に低い停止音が響く。

 

二階の鉄骨を吊るワイヤーがロックされる音。

 

火災装置のランプが消える。

 

スピーカーから、榊の怒声が響いた。

 

『余計なことを……!』

 

横溝が叫ぶ。

 

「よし! 二階へ行け! 鳥羽遥を保護しろ!」

 

捜査員たちが一斉に動く。

 

押村はスピーカーを見上げた。

 

「榊。終わりです」

 

『終わり?』

 

榊の声は、低く笑っていた。

 

『まだだよ、押村警部補』

 

押村の胸に嫌な予感が走る。

 

『本物のK-20は、そこではない』

 

倉庫の奥。

 

銃と薬品が入ったケースの下で、ランプが点いた。

 

押村は即座に理解した。

 

あれも罠。

 

榊を殺すための道具ではなく、最後の引き金。

 

ケースの下から、別のスピーカー音が鳴る。

 

そして、倉庫外から無線が入った。

 

『横溝警部! 港側の搬出口付近で人影! 榊亮三と思われます!』

 

横溝が怒鳴る。

 

「追え!」

 

『待ってください! 榊の近くに人質がいます!』

 

押村の表情が変わる。

 

「誰ですか」

 

無線の向こうで、村上の声が震えた。

 

『鳥羽悠介です!』

 

千速が制御盤から顔を上げる。

 

「何だって……!」

 

押村は二階を見る。

 

そこには鳥羽遥がいた。

 

そして港側には鳥羽悠介。

 

榊は、親子を別々に人質に取っていた。

 

倉庫内のタイマーは囮。

 

本当の舞台は港側。

 

榊の声が最後に響いた。

 

『押村警部補。急ぎたまえ。今度こそ、選ぶ時間だ』

 

通信が切れた。

 

横溝が拳を握る。

 

「野郎……!」

 

押村は走り出した。

 

千速も制御盤から駆け戻る。

 

「奏斗!」

 

押村は振り返らずに言った。

 

「港側へ行く」

 

「私も行く!」

 

「分かってる!」

 

三人は倉庫の奥、港へ続く搬出口へ向かった。

 

港側の搬出口を抜けると、冷たい海風が吹きつけた。

 

岸壁には古いクレーンが立っている。

 

その足元に、榊亮三がいた。

 

痩せた男。

 

六十二歳とは思えないほど背筋が伸び、スーツ姿に乱れはない。

 

その隣に、鳥羽悠介が膝をついていた。

 

手首を縛られ、顔色は悪い。

 

榊の手には、拳銃。

 

それが鳥羽悠介のこめかみに向けられていた。

 

横溝が銃を構える。

 

「榊亮三! 銃を捨てろ!」

 

榊は穏やかに笑った。

 

「やっと会えましたね、押村警部補」

 

押村は榊を見た。

 

「鳥羽さんを解放してください」

 

「それでは実験にならない」

 

「実験は終わりました」

 

「いいえ。ここからです」

 

榊は鳥羽悠介の肩に手を置く。

 

「この男は、二十年前に玖城怜司を見殺しにした。黒崎宗一郎も、鳥羽悠介も、水原真紀も、私も。全員が罪人です」

 

横溝が怒鳴る。

 

「ならお前も裁かれる側だ!」

 

榊は笑った。

 

「もちろんです。だからこそ、私は罰を受けても構わない」

 

押村は静かに言った。

 

「嘘です」

 

榊の目が押村へ向く。

 

「あなたは罰を受けたいのではない。自分の罪を、意味のあるものにしたいだけです」

 

榊の笑みが少し薄くなる。

 

押村は一歩前に出た。

 

「玖城怜司を見殺しにした罪。Kシリーズを欲した罪。鳥羽遥さんを利用した罪。黒崎玲子を誘導した罪。あなたはそれらを認めるのが怖い」

 

「怖い?」

 

「はい。だから実験という言葉で飾っている」

 

千速は押村の横に立った。

 

いつでも動ける距離。

 

だが、榊の銃は鳥羽へ向いている。

 

動けない。

 

榊はゆっくり言った。

 

「押村警部補。君は賢い。だが、現実は言葉では救えない」

 

榊は鳥羽悠介の首元に銃口を押し当てる。

 

鳥羽が呻く。

 

「やめろ!」

 

鳥羽遥が、倉庫の中から捜査員に支えられながら出てきた。

 

「お父さん!」

 

榊は遥を見る。

 

「君は失敗した。だが、最後の観客としてはちょうどいい」

 

遥の顔が青ざめる。

 

「榊……あんたが……」

 

「君にKシリーズを渡したのは私だ」

 

押村の目が鋭くなる。

 

榊は静かに告げた。

 

「君の父が隠していたノートの所在を教えたのも、黒崎邸のK-17を示したのも、風見台の資料を与えたのも、私だ」

 

鳥羽遥は言葉を失った。

 

「私は……」

 

「君は物語を読んでいるつもりだった。だが、私のページをめくっていただけだ」

 

遥の顔が歪む。

 

千速が低く吐き捨てた。

 

「最低だな」

 

榊は千速を一瞥する。

 

「感情的ですね」

 

「感情がないよりマシだ」

 

榊は少しだけ笑った。

 

そして押村を見る。

 

「さあ、押村警部補。選びなさい」

 

榊は銃を鳥羽悠介から離した。

 

そして、銃口を自分の胸へ向けた。

 

「君が私を撃てば、鳥羽悠介は助かる。私の証言も必要ない。手帳も録音も、すべて倉庫に残してある。事件は解決する」

 

横溝が叫ぶ。

 

「押村、聞くな!」

 

榊は続ける。

 

「だが、撃たなければ」

 

榊はもう片方の手に、小型の起爆装置を見せた。

 

「この岸壁に仕掛けた発火装置が作動する。大した爆発ではないが、鳥羽悠介くらいなら海へ落ちる。今の体力では助からないでしょう」

 

鳥羽遥が叫ぶ。

 

「やめて!」

 

榊は穏やかに言った。

 

「父を救いたいか、遥くん。なら君が押村警部補に頼むといい」

 

押村は榊を見つめた。

 

状況は最悪だった。

 

撃てば榊が死ぬ。

 

撃たなければ鳥羽が死ぬかもしれない。

 

千速の声が聞こえる。

 

「奏斗」

 

短い声。

 

だが、その中に全部があった。

 

撃つな。

 

一人で背負うな。

 

榊の脚本に従うな。

 

押村は静かに息を吸った。

 

そして、銃を構えなかった。

 

榊が目を細める。

 

「撃たないのですか」

 

「撃ちません」

 

「鳥羽悠介が死にますよ」

 

「死なせません」

 

榊が笑う。

 

「どうやって?」

 

押村は榊ではなく、鳥羽悠介を見た。

 

「鳥羽さん」

 

鳥羽悠介は震えながら顔を上げる。

 

「今から、横へ倒れてください」

 

榊の表情が変わる。

 

押村は続けた。

 

「今です」

 

鳥羽悠介は一瞬だけ迷った。

 

だが、鳥羽遥が叫んだ。

 

「お父さん!」

 

その声に、鳥羽は体を横へ倒した。

 

同時に千速が走った。

 

榊が反応する。

 

起爆装置のボタンに指がかかる。

 

押村は地面に落ちていた鎖を蹴った。

 

鎖が榊の足元に絡む。

 

榊の体勢が崩れる。

 

千速が鳥羽悠介に飛びつき、そのまま岸壁の端から引き離した。

 

横溝が榊へ突進する。

 

「榊!」

 

榊は起爆装置を押した。

 

岸壁の端で火花が散る。

 

小さな爆発音。

 

だが、鳥羽悠介はもうそこにいない。

 

千速が鳥羽を抱えるように転がり、火花を避けた。

 

押村は榊の腕を掴み、起爆装置を叩き落とす。

 

榊は押村を見て、初めて怒りを露わにした。

 

「なぜだ!」

 

押村は榊の腕を捻り上げる。

 

「人は、あなたの実験材料ではありません」

 

横溝が榊を地面に押さえつける。

 

「榊亮三、殺人未遂、監禁、脅迫その他諸々で逮捕だ!」

 

榊は地面に押さえられながらも、押村を睨んでいた。

 

「君は選ばなかった。正しい殺人を選べなかった」

 

押村は榊を見下ろした。

 

「選びました」

 

榊の目が動く。

 

押村は静かに言った。

 

「誰も殺さないことを」

 

榊の表情が歪んだ。

 

それは怒りなのか、敗北なのか、恐怖なのか。

 

押村には分からなかった。

 

だが、榊はもう何も言わなかった。

 

千速は鳥羽悠介のそばに膝をついていた。

 

「大丈夫か」

 

鳥羽は咳き込みながら頷いた。

 

「……はい」

 

鳥羽遥が駆け寄ろうとして、捜査員に止められる。

 

彼女も被疑者だ。

 

けれど、鳥羽悠介は娘を見た。

 

「遥……」

 

遥の目から涙が落ちた。

 

「お父さん……」

 

鳥羽は掠れた声で言う。

 

「すまなかった」

 

遥はその場に崩れ落ちた。

 

押村はその光景を見ていた。

 

二十年前に止まった親子の時間。

 

それが戻るわけではない。

 

罪は消えない。

傷も消えない。

 

だが、生きている。

 

生きていれば、向き合うことはできる。

 

千速が押村のそばに来た。

 

「怪我は?」

 

「ない」

 

「本当だな」

 

「本当だ」

 

千速はじっと押村を見た。

 

「撃たなかったな」

 

「撃つ理由がなかった」

 

「榊は撃たせたかった」

 

「だから撃たなかった」

 

千速は少しだけ息を吐いた。

 

「よかった」

 

押村は千速を見る。

 

「信じてくれてありがとう」

 

千速は少し目を逸らす。

 

「信じろって言ったのは私だからな」

 

横溝が榊を連行させながら近づいてきた。

 

「お前ら、そこでいい雰囲気になるな」

 

千速が振り向く。

 

「なってねぇよ」

 

「なってた」

 

押村が真面目に言う。

 

「横溝警部、榊の身柄は」

 

「確保した。倉庫内の火災装置も停止。鳥羽遥も鳥羽悠介も生存。水原も病院で保護」

 

横溝は海を見た。

 

「残るは榊の供述と、二十年前の裏付けだ」

 

押村は頷いた。

 

「はい」

 

横溝は押村を見る。

 

「あと少しだ」

 

押村は静かに答えた。

 

「はい」

 

港の夜風が、三人の間を吹き抜けた。

 

Kシリーズは崩れた。

 

榊亮三は捕まった。

 

だが、最後に残っているのは、二十年前の真実。

 

玖城怜司はなぜ死んだのか。

 

誰が、どこまで罪を背負うのか。

 

そして、Kシリーズ事件の全貌を法の前に明らかにすること。

 

押村は、連行される榊の背中を見つめた。

 

これで終わりではない。

 

だが、終わりは見えた。

 

あと一歩。

 

その一歩を踏み外さないために、押村は千速と横溝のいる場所へ戻った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。