神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第34話 割れた羽の終着点

榊亮三が逮捕された翌朝。

 

神奈川県警捜査一課の会議室には、徹夜明けの空気が漂っていた。

 

机の上には、押収品が並べられている。

 

玖城怜司の手帳。

Kシリーズの複製資料。

榊の事務所から見つかった録音データ。

鳥羽遥に送られていた封筒。

黒崎玲子への匿名電話の音声記録。

風見台周辺の下見資料。

青葉市民ホールの舞台図面。

 

そして、二十年前の犯罪心理研究会の集合写真。

 

押村奏斗は、その写真をじっと見ていた。

 

若い頃の黒崎宗一郎。

鳥羽悠介。

水原真紀。

榊亮三。

玖城怜司。

 

五人の表情は、どこにでもいる学生のように見える。

 

まだ誰も死んでいない。

まだ誰も罪を隠していない。

まだ誰も、自分の人生が二十年後にこんな形で裁かれるとは思っていない。

 

横溝重悟が、紙コップのコーヒーを机に置いた。

 

「押村」

 

「はい」

 

「寝てねぇだろ」

 

「少し寝ました」

 

「それは仮眠って言うんだよ」

 

会議室の入口から萩原千速が入ってくる。

 

手にはコンビニの袋。

 

「ほら」

 

千速は袋を押村の前に置いた。

 

中にはおにぎりとサンドイッチ、温かいお茶が入っていた。

 

押村は袋を見る。

 

「これは」

 

「朝飯」

 

「ありがとう」

 

「食え」

 

横溝が腕を組む。

 

「俺の分は?」

 

千速はもう一つ袋を投げた。

 

「あるよ」

 

横溝は受け取りながら、少しだけ目を丸くする。

 

「珍しく気が利くな」

 

「殴るぞ」

 

「褒めたんだよ」

 

「褒め方が下手なんだよ」

 

押村は袋からおにぎりを取り出した。

 

千速がじっと見る。

 

「今食え」

 

「今?」

 

「今」

 

「分かった」

 

押村は素直に封を開ける。

 

横溝がそれを見て、少しだけ笑った。

 

「千速の方が上司みてぇだな」

 

千速は椅子に座りながら言う。

 

「奏斗は放っておくと食わねぇからな」

 

「完全に扱いが分かってきたな」

 

押村は真面目に言った。

 

「助かっています」

 

千速は少し顔を赤くする。

 

「飯食いながらそういうこと言うな」

 

横溝がため息をつく。

 

「朝からやめろ」

 

その一瞬だけ、会議室の空気が緩んだ。

 

だが、横溝が資料を開くと、全員の顔が仕事のものに戻った。

 

「榊の聴取、始めるぞ」

 

押村は頷いた。

 

「はい」

 

 

取調室の榊亮三は、逮捕時の混乱が嘘のように落ち着いていた。

 

髪の乱れも直され、姿勢も変わらない。

 

まるで、自分が被疑者ではなく、講義を受け持つ教授であるかのように。

 

押村と横溝が向かいに座る。

 

榊は薄く笑った。

 

「お疲れのようですね、押村警部補」

 

押村は静かに答える。

 

「あなたほどではありません」

 

横溝が低く言う。

 

「余裕ぶってられるのも今のうちだぞ」

 

榊は横溝を見る。

 

「余裕ではありません。観察しているだけです」

 

「まだ人間を材料扱いか」

 

「人間は皆、互いを観察していますよ。私だけが特別ではない」

 

押村は机の上に録音機を置いた。

 

「榊亮三。あなたには、黒崎玲子への殺人教唆、黒崎美怜への殺人未遂、鳥羽遥への監禁、鳥羽悠介への監禁及び殺人未遂、水原真紀への殺人未遂、その他一連の事件への関与について話を聞きます」

 

榊は静かに笑った。

 

「ずいぶん多い」

 

横溝が睨む。

 

「他人事みてぇに言うな」

 

押村は資料を一枚出した。

 

「まず、黒崎玲子への電話です。あなたですね」

 

榊は答えない。

 

押村は続けた。

 

「声は加工されていましたが、音声解析であなたの声と一致する可能性が高いと出ています。さらに、電話がかけられた公衆電話付近で確認された黒い偽装車両。あれを保管していた廃工場から、あなたの指紋が検出されました」

 

榊はわずかに眉を動かした。

 

押村は次の資料を置く。

 

「鳥羽遥にKシリーズの資料を渡したのもあなたです。彼女の端末から、あなたが使用していた匿名アカウントとのやり取りが見つかりました」

 

横溝が低く言う。

 

「逃げられねぇぞ」

 

榊はしばらく黙っていた。

 

それから、小さく息を吐いた。

 

「黒崎玲子には、ただ真実を知らせただけです」

 

押村は榊を見る。

 

「真実?」

 

「黒崎宗一郎が二十年前に人を死なせたこと。地下にK-17の計画案が残っていること。彼女が夫を憎んでいたこと。私は、それらをつなげただけです」

 

横溝が机を叩いた。

 

「それを殺人教唆って言うんだよ」

 

榊は穏やかに返す。

 

「殺意は彼女自身のものです」

 

押村は静かに言った。

 

「そう言えば、自分の罪が軽くなると思っていますか」

 

榊の目が押村へ向く。

 

押村は続ける。

 

「あなたは、黒崎玲子の殺意を知ったうえでK-17の存在を伝えた。さらに、黒崎邸の構造図と仕掛けの一部を彼女たちへ渡した。殺意を持つ人間に、手段を与えた」

 

榊は答えない。

 

「あなたはずっと同じことをしている。自分は手を下さず、他人の感情を利用する」

 

「それは玖城怜司も同じだった」

 

榊の声に、初めて鋭さが混じった。

 

「彼もまた、人間の中にある殺意を見つけ、それを構造化した。私は彼の理論を実証しただけです」

 

横溝が吐き捨てる。

 

「やっぱり憧れてたんじゃねぇか」

 

榊は横溝を睨んだ。

 

「違う」

 

押村は静かに言う。

 

「違いません」

 

榊の視線が押村に戻る。

 

「あなたは玖城怜司に勝ちたかった。彼の理論を自分のものにし、現実で証明したかった」

 

「私は彼を超えた」

 

「超えていません」

 

押村の声は淡々としていた。

 

だが、その一言は榊の表情を大きく揺らした。

 

「何?」

 

「あなたは最後まで、玖城怜司の言葉から逃げられなかった。Kシリーズという枠組みからも、割れた羽という印からも、玖城の手帳からも」

 

押村は机に玖城怜司の手帳のコピーを置いた。

 

「あなた自身の事件ではない。玖城怜司の物語を借りていただけです」

 

榊の口元が歪む。

 

「借りていた?」

 

「はい」

 

「私が、彼の真似をしていたと?」

 

「違いますか」

 

取調室に沈黙が落ちた。

 

横溝は押村を横目で見た。

 

榊の呼吸が、わずかに乱れている。

 

押村は榊を煽っているのではない。

 

事実を突きつけている。

 

榊が最も認めたくない事実を。

 

「玖城は危険だった」

 

榊が低く言った。

 

「彼は人間の内側にある殺意を見つけることができた。誰よりも正確に。だから、彼を止める必要があった」

 

押村は聞いた。

 

「二十年前、旧講義棟で何があったんですか」

 

榊は長い沈黙の後、口を開いた。

 

「玖城は、我々を試していました」

 

 

二十年前。

 

旧講義棟三階のゼミ室。

 

夜。

 

犯罪心理研究会の元メンバーたちは、久しぶりに集まっていた。

 

黒崎宗一郎。

鳥羽悠介。

水原真紀。

榊亮三。

そして、玖城怜司。

 

玖城は、数年ぶりに彼らの前に現れた。

 

痩せていたが、目だけは変わらなかった。

 

人間を見透かすような、冷たい目。

 

「Kシリーズは完成した」

 

玖城はそう言った。

 

「二十の羽。人間の殺意を飛ばすための構造だ」

 

鳥羽悠介は怯えていた。

 

水原真紀は震えていた。

 

黒崎宗一郎は怒っていた。

 

榊亮三だけが、静かに聞いていた。

 

玖城は彼ら一人ひとりを見て、笑った。

 

「君たちは、私を止めたいと思っている」

 

黒崎が怒鳴った。

 

「当たり前だ! お前は危険だ!」

 

玖城は頷いた。

 

「なら、どう止める?」

 

誰も答えなかった。

 

玖城は机に一冊のノートを置いた。

 

「警察に行くか。私を説得するか。それとも、私を殺すか」

 

水原が泣きそうな声で言った。

 

「やめて、玖城」

 

玖城は水原を見る。

 

「君は優しい。だが、優しさは時に最も残酷な選択をする」

 

鳥羽が震える声で言った。

 

「君は狂っている」

 

玖城は笑った。

 

「狂っているかどうかは、結果で分かる」

 

黒崎が玖城の胸ぐらを掴んだ。

 

「ふざけるな!」

 

揉み合いになった。

 

玖城の体が机にぶつかる。

 

次の瞬間、玖城は倒れた。

 

机の角に頭を打ち、床に血が広がった。

 

水原が叫んだ。

 

鳥羽が救急車を呼ぼうとした。

 

黒崎は立ち尽くしていた。

 

その時、榊が言った。

 

「待て」

 

全員が榊を見た。

 

榊は倒れた玖城を見下ろしていた。

 

「救急車を呼べば、彼は生き残るかもしれない」

 

鳥羽が叫んだ。

 

「当たり前だ!」

 

榊は静かに言った。

 

「そして、我々全員を壊す」

 

水原が泣いた。

 

「そんなこと……」

 

「彼は必ずやる。今日ここで起きたことを、彼は“実証”に使う。我々が彼を止めるために暴力を選んだことを、彼は喜ぶ」

 

黒崎が震える声で言った。

 

「じゃあ、どうしろって言うんだ」

 

榊は答えた。

 

「何もしない」

 

鳥羽が榊を見る。

 

「何を言っている」

 

「何もしない。彼が死ぬまで」

 

沈黙。

 

血の匂い。

 

水原のすすり泣き。

 

玖城の浅い呼吸。

 

誰も動かなかった。

 

いや。

 

動けなかった。

 

榊だけが、動かなかった。

 

まるで、その沈黙すら計算していたように。

 

やがて、玖城怜司の呼吸は止まった。

 

 

取調室。

 

榊は静かに語り終えた。

 

横溝は拳を握り締めていた。

 

「つまり、お前が止めたんだな。救急車を呼ぼうとした奴らを」

 

榊は答えない。

 

押村が言った。

 

「あなたは、その瞬間から玖城の理論を証明しようとしていた」

 

「違う」

 

榊の声は低い。

 

「私は皆を守った」

 

「いいえ」

 

押村は静かに首を横に振った。

 

「あなたは、皆の恐怖を利用した」

 

榊の目が鋭くなる。

 

押村は続ける。

 

「黒崎宗一郎の保身。鳥羽悠介の弱さ。水原真紀の混乱。あなたはそれらを見て、最も効果的な言葉を選んだ」

 

「……」

 

「二十年前、殺意を持たない人間たちに、見殺しを選ばせた」

 

榊の顔から表情が消えた。

 

押村は低く言った。

 

「あなたは、二十年前にすでにK-20を実行していたんです」

 

取調室の空気が止まった。

 

横溝も、思わず押村を見る。

 

榊の目がわずかに見開かれる。

 

押村は手帳を指した。

 

「本物のK-20。殺意を持たない人間に、殺人を選ばせる構造。それは倉庫で俺に仕掛けたものではありません。二十年前、あなたが旧講義棟でやったことです」

 

榊の唇がかすかに震えた。

 

「……違う」

 

「違いません」

 

「私は、玖城を止めた」

 

「救わなかった」

 

「彼は危険だった!」

 

「それは殺していい理由にはなりません」

 

押村の声は静かだった。

 

けれど、逃げ場がなかった。

 

榊は初めて、言葉を失った。

 

長い沈黙の後、榊は小さく笑った。

 

だが、それは余裕の笑みではなかった。

 

「君は……本当に嫌な刑事だ」

 

横溝が低く言った。

 

「褒め言葉だな」

 

榊は押村を見つめた。

 

「私が、最初からK-20を完成させていたと?」

 

押村は答えた。

 

「はい」

 

「では、私は玖城を超えていた」

 

「違います」

 

榊の表情が再び歪む。

 

押村は言った。

 

「あなたが完成させたのは、理論ではありません。ただの罪です」

 

その一言で、榊は完全に沈黙した。

 

 

榊亮三は、その後、二十年前の出来事について供述を始めた。

 

旧講義棟で玖城怜司が倒れたこと。

救急車を呼ばなかったこと。

死後、四人で遺体を地下の標本保管室へ運んだこと。

黒崎宗一郎が保管していたKシリーズのノートを、榊が密かに複写していたこと。

鳥羽悠介が一部を持ち帰り、書斎に隠したこと。

水原真紀が玖城の手帳を預かっていたこと。

 

そして、二十年後。

 

黒崎宗一郎が過去を清算しようとしたこと。

 

黒崎は、榊に連絡していた。

 

「玖城のことを警察に話す」

 

それが、すべての始まりだった。

 

榊は黒崎を直接殺さなかった。

 

だが、黒崎玲子の夫への憎悪を知り、彼女を誘導した。

 

K-17を使わせた。

 

黒崎宗一郎を殺させた。

 

その後、鳥羽遥が父の書斎からKシリーズの一部を見つけたことを知ると、彼女に近づいた。

 

遥の怒りと孤独を利用した。

 

「父親の罪を暴きたいなら、物語を最後まで読め」

 

そう囁いた。

 

風見台。

劇場。

旧講義棟。

 

遥は自分の意思で動いているつもりだった。

 

だが、その背後では常に榊が舞台を調整していた。

 

K-18で黒崎美怜を突き落とそうとしたのも、榊だった。

 

美怜が生きていれば、黒崎家の相続や過去の資料が警察へ渡る可能性がある。

 

証人など不要。

 

榊はそう判断した。

 

水原真紀を襲ったのも榊。

 

過去を話される前に、沈黙させるためだった。

 

そして最後に、榊は押村にK-20を仕掛けた。

 

自分の罪を、実験という形に変えるために。

 

だが、それは失敗した。

 

押村は殺さなかった。

 

誰も、榊の望む形では死ななかった。

 

 

その日の夕方。

 

会議室で、横溝は捜査資料を閉じた。

 

「一連の流れは固まったな」

 

押村は頷く。

 

「はい」

 

千速は椅子の背に腕をかけながら言った。

 

「じゃあ、これで本当に終わりか?」

 

横溝は少し考えてから答える。

 

「刑事事件としては、まだ書類も送検も裁判もある。黒崎玲子や鳥羽遥の責任も別に問われる」

 

「分かってる」

 

「だが、事件の全体像は見えた」

 

千速は小さく息を吐いた。

 

「長かったな」

 

押村はホワイトボードを見る。

 

K-17。

K-18。

K-19。

K-20。

 

割れた羽。

 

榊亮三。

 

玖城怜司。

 

二十年前の罪。

 

すべての線が、ようやく一本になった。

 

村上が会議室に入ってくる。

 

「警部、押村警部補。鳥羽遥が、押村警部補に伝言を」

 

押村が顔を上げる。

 

「伝言?」

 

「はい」

 

村上はメモを読む。

 

「“私は、榊のページを読まされていた。でも、最後に閉じたのは押村さんだった。父と話します。今度は物語じゃなく、現実として”……だそうです」

 

千速は黙って聞いていた。

 

横溝が腕を組む。

 

「遅ぇけど、一歩だな」

 

押村は静かに頷いた。

 

「はい」

 

村上は続ける。

 

「それと、鳥羽悠介も正式に供述書へ署名するそうです。水原真紀も証言に応じると」

 

横溝が深く息を吐いた。

 

「よし」

 

会議室に、ようやく終わりの気配が降りた。

 

完全な救いではない。

 

被害者は戻らない。

 

黒崎宗一郎は死に、玖城怜司は二十年もの間、地下に眠っていた。

 

多くの人間が傷ついた。

 

それでも、嘘は剥がれた。

 

隠された罪は、表に出た。

 

それだけは、刑事たちが積み上げた結果だった。

 

千速が押村を見る。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今回は、ちゃんと終わったな」

 

押村は少しだけ目を伏せた。

 

「はい」

 

「抱え込んでねぇな?」

 

押村は千速を見る。

 

「抱え込んでいない」

 

千速は目を細める。

 

「本当か?」

 

「本当だ」

 

横溝が横から言う。

 

「嘘なら顔に出るからな」

 

押村は少し困ったように二人を見る。

 

「そんなに分かりやすいですか」

 

千速と横溝が同時に言った。

 

「分かりやすい」

 

押村は黙った。

 

千速は小さく笑った。

 

その笑いが、押村には少しだけ救いのように思えた。

 

 

夜。

 

押村は県警本部の屋上にいた。

 

風は冷たかったが、港の明かりが遠くに見える。

 

捜査一課の喧騒から少しだけ離れたくて、ここに来た。

 

フェンス越しに街を眺めていると、後ろから足音がした。

 

振り向かなくても分かった。

 

「千速」

 

「何で分かるんだよ」

 

千速が隣に来る。

 

押村は少しだけ目を伏せる。

 

「足音」

 

「怖いな、お前」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

千速はフェンスにもたれ、夜景を見た。

 

しばらく、二人とも黙っていた。

 

沈黙は重くなかった。

 

事件の中で、何度も言葉を交わしてきた。

言わなくても分かることも、少しずつ増えていた。

 

千速が先に口を開いた。

 

「榊、落ちたな」

 

「はい」

 

「最後まで、自分の罪を実験って言いたかったんだろうな」

 

「そう思います」

 

「でも、お前が剥がした」

 

押村は夜景を見たまま言った。

 

「剥がせたのは、皆がいたからです」

 

「皆?」

 

「横溝警部、村上たち、捜査員、鑑識、交通部。それに、君がいた」

 

千速は少しだけ顔を赤くする。

 

「またそういうこと言う」

 

「事実だ」

 

「事実なら何でも言うなって、重悟に言われただろ」

 

「そうだった」

 

千速は笑った。

 

だが、すぐに真面目な顔になる。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「港でさ。榊が“正しい殺人”とか言った時、少し怖かった」

 

押村は千速を見る。

 

千速は夜景を見たままだった。

 

「お前が撃つと思ったわけじゃねぇ。でも、榊はお前の弱いところを分かってた」

 

「人を救いたいと思うことですか」

 

「違う」

 

千速は首を横に振った。

 

「人を救えなかった時、自分のせいにするところだ」

 

押村は黙った。

 

千速は続ける。

 

「奏斗は強い。でも、一人で立とうとしすぎると折れる」

 

「……」

 

「だから、私は隣にいる」

 

押村の目がわずかに揺れた。

 

千速は少し照れながらも、言葉を止めなかった。

 

「重悟もいる。村上たちもいる。お前が全部背負わなくても、事件は追える」

 

押村は静かに頷いた。

 

「分かっている」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

千速はようやく押村を見る。

 

「ならいい」

 

押村は少しだけ考え、言った。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「君も同じだ」

 

千速が眉を上げる。

 

「私?」

 

「君も一人で突っ込もうとする」

 

「……それは」

 

「風見台も、倉庫の制御盤も」

 

「必要だっただろ」

 

「必要だった。だが、心配もした」

 

千速は視線を逸らした。

 

「悪かったよ」

 

「謝ってほしいわけじゃない」

 

「じゃあ何だよ」

 

押村は静かに言った。

 

「俺も隣にいる」

 

千速の顔が赤くなる。

 

「……お前、そういう返しだけ上手くなってないか?」

 

「そうだろうか」

 

「無自覚かよ」

 

千速は小さく息を吐いてから、押村の手を取った。

 

屋上の冷たい風の中で、二人の手だけが温かかった。

 

「じゃあ、これからはお互い様だな」

 

押村は頷く。

 

「ああ」

 

「一人で抱え込まない」

 

「はい」

 

「一人で突っ込まない」

 

「君も」

 

「分かってる」

 

押村は少しだけ微笑んだ。

 

千速はそれを見て、目を細める。

 

「今、笑ったな」

 

「少し」

 

「いい顔するようになったじゃねぇか」

 

「君のおかげかもしれない」

 

「だから、そういうこと言うなって」

 

千速は照れ隠しのように、軽く押村の肩を小突いた。

 

押村はその手を離さなかった。

 

 

翌日。

 

玖城怜司の遺体は正式に身元確認された。

 

榊亮三は一連の事件への関与を認め、詳細な供述を続けた。

 

水原真紀は二十年前の隠蔽について証言。

鳥羽悠介も、死体遺棄と見殺しの事実を認めた。

鳥羽遥は、榊に誘導されていたことを認めながらも、自らの罪を否定しなかった。

 

黒崎玲子と黒崎拓真についても、K-17の実行犯として手続きが進められた。

 

黒崎美怜と神崎修は命を取り留め、事件の証人として警察に協力することになった。

 

割れた羽のマークは、証拠品として封じられた。

 

二十年前から続いた物語は、ようやく警察の記録となった。

 

もう誰かの舞台ではない。

 

誰かの小説でもない。

 

現実の事件として、裁かれる場所へ送られていく。

 

 

数日後。

 

押村、千速、横溝の三人は、旧講義棟の前に立っていた。

 

現場検証が終わり、大学側は建物の一部閉鎖を決めた。

 

三階のゼミ室は、火災の跡が残ったままだ。

 

地下の標本保管室には、もう誰も眠っていない。

 

横溝は建物を見上げ、低く言った。

 

「ここで始まって、ここで終わったか」

 

押村は頷く。

 

「はい」

 

千速が腕を組む。

 

「嫌な場所だな」

 

「そうだな」

 

押村は旧講義棟を見つめる。

 

「ですが、もう隠されているものはありません」

 

横溝が言う。

 

「そうであってほしいな」

 

「はい」

 

千速は押村の横顔を見る。

 

事件の間、何度も見た顔だった。

 

考え込み、背負い込み、時に怒りを隠しながら、それでも真実へ進む顔。

 

でも今は、少し違う。

 

終わったものを、ちゃんと終わったものとして見ている顔だった。

 

千速は小さく言った。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「次は、本当に普通の事件がいいな」

 

押村は少し考える。

 

横溝が先に言った。

 

「だから普通の事件なんかねぇって」

 

千速は顔をしかめる。

 

「重悟に言ってねぇよ」

 

押村は静かに答えた。

 

「それでも、次も解決するだけです」

 

千速は笑った。

 

「真面目か」

 

「はい」

 

「そこは否定しろ」

 

横溝が歩き出す。

 

「戻るぞ。報告書が山だ」

 

千速が露骨に嫌そうな顔をする。

 

「うわ、現実に戻された」

 

「刑事も白バイも、最後は書類だ」

 

「夢がねぇな」

 

「事件に夢なんかあるか」

 

押村は二人のやり取りを聞きながら、最後にもう一度、旧講義棟を振り返った。

 

割れた羽の事件は終わった。

 

だが、終わりとは、何もかもが綺麗に消えることではない。

 

罪を罪として残し、傷を傷として認め、それでも前に進むことだ。

 

押村は歩き出した。

 

隣には千速がいる。

 

少し前には横溝がいる。

 

背負うべきものはある。

 

だが、もう一人ではない。

 

「奏斗、置いてくぞ」

 

千速の声がした。

 

押村は顔を上げる。

 

「今行く」

 

三人は旧講義棟を後にした。

 

朝の光が、濡れた石畳を照らしている。

 

風に舞った紙片が一枚、足元を転がった。

 

そこには何も書かれていない。

 

ただの白い紙だった。

 

押村はそれを拾い、近くのゴミ箱へ捨てた。

 

物語は終わった。

 

現実は続いていく。

 

そして彼らは、次の現場へ向かう。

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