神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

35 / 36
第35話 言えなかった心配

喧嘩の始まりは、些細なことだった。

 

少なくとも、外から見ればそうだった。

 

神奈川県警本部の廊下で、萩原千速は腕を組んだまま、押村奏斗を睨んでいた。

 

「だから、何で私に言わなかったんだよ」

 

押村はいつも通り、静かな顔をしていた。

 

ただ、その目元には疲れが残っている。

 

「交通部を巻き込む必要がないと判断した」

 

「交通部の話をしてるんじゃねぇ」

 

千速の声が少し低くなる。

 

「私の話をしてるんだよ」

 

押村は黙った。

 

その沈黙が、千速の苛立ちに火を足した。

 

数日前、押村は捜査中に一人で参考人の元へ向かった。

 

危険な相手ではない。

 

そう判断していた。

 

だが、結果としてその参考人は証拠隠滅を図り、押村は小競り合いの中で腕を軽く負傷した。

 

大事には至らなかった。

 

擦り傷と打撲程度。

 

けれど千速がそれを知ったのは、本人からではなく、横溝重悟からだった。

 

「別に、全部私に報告しろって言ってるわけじゃねぇ」

 

千速は唇を噛んだ。

 

「でも怪我したなら、言えよ」

 

押村は静かに答えた。

 

「心配をかけたくなかった」

 

「それが一番腹立つんだよ」

 

押村の表情が少しだけ揺れる。

 

千速は一歩近づいた。

 

「心配かけたくないから黙る? それ、結局こっちに何もさせねぇってことだろ」

 

「そういう意味ではない」

 

「じゃあどういう意味だよ」

 

押村は答えようとして、言葉を探した。

 

その間が、さらに悪かった。

 

千速は目を逸らす。

 

「もういい」

 

「千速」

 

「仕事中だ。萩原警部補って呼べば?」

 

押村が息を止めた。

 

その一言が、千速自身にも少し刺さった。

 

でも、引けなかった。

 

押村は静かに言った。

 

「……すまない」

 

「謝るな」

 

千速は背を向けた。

 

「謝れば済むと思ってるなら、余計腹立つ」

 

押村はそれ以上、追いかけなかった。

 

追いかけられなかった。

 

廊下に、二人分の沈黙だけが残った。

 

 

その日から、二人は口を聞かなくなった。

 

正確には、仕事上必要な会話だけはした。

 

「資料、確認した」

 

「了解」

 

「交通規制の件、第三交機で対応する」

 

「助かる」

 

「現場写真、共有しといた」

 

「確認する」

 

それだけ。

 

以前なら、その後に必ず一言あった。

 

「無理すんなよ」

「そっちも」

「飯食ったか」

「君も食べたか」

 

そんなやり取りが、すっかり消えた。

 

捜査一課の空気は、明らかに変だった。

 

村上は資料を配りながら、横溝重悟に小声で尋ねた。

 

「警部……押村警部補と萩原警部補、何かありました?」

 

横溝は書類から顔を上げずに答える。

 

「喧嘩だろ」

 

「やっぱり」

 

「見りゃ分かる」

 

「どうします?」

 

「放っとけ」

 

村上は少し驚いた。

 

「いいんですか?」

 

横溝は顔をしかめる。

 

「俺が間に入ったら余計面倒になる」

 

「でも、この空気……」

 

その時、会議室の向こうで押村と千速が同時に資料へ手を伸ばし、指先が触れかけた。

 

二人は同時に手を引いた。

 

そして、同時に目を逸らした。

 

村上は小さく息を呑む。

 

横溝はこめかみを押さえた。

 

「……面倒くせぇ」

 

 

二日目。

 

千速は第三交通機動隊の詰所で、無言のまま書類を処理していた。

 

新井がそっと様子を窺う。

 

「小隊長」

 

「何だ」

 

「今日、機嫌悪いですか」

 

千速のペンが止まる。

 

「悪く見えるか?」

 

「はい」

 

「正直だな」

 

「嘘ついたら怒られそうなので」

 

千速はため息をついた。

 

「怒らねぇよ」

 

「押村警部補と何かありました?」

 

千速の目が鋭くなる。

 

新井はすぐ両手を上げた。

 

「すみません、聞かなかったことにします」

 

「いや」

 

千速はペンを置いた。

 

「……私が怒りすぎたのかもしれない」

 

新井は少し驚いた顔をした。

 

「小隊長がそう言うの、珍しいですね」

 

「うるせぇ」

 

「すみません」

 

千速は椅子にもたれ、天井を見上げる。

 

「でもさ。黙られるのって、きついんだよ」

 

「押村警部補がですか?」

 

「あいつ、心配かけたくないって言うだろ」

 

「言いそうですね」

 

「それって、優しさみたいに聞こえるけどさ。こっちからしたら、壁作られてるみたいに感じる時がある」

 

新井は何も言わずに聞いていた。

 

千速は少しだけ苦く笑う。

 

「私だって、あいつに何かあったら心配する。怒る。支えたいって思う。でも黙られたら、何もできねぇ」

 

新井は静かに言った。

 

「それ、押村警部補に言いました?」

 

千速は黙った。

 

新井は恐る恐る続ける。

 

「言えてない顔ですね」

 

「お前、最近遠慮なくなってきたな」

 

「小隊長に鍛えられました」

 

千速は小さく笑った。

 

だが、すぐに表情を戻す。

 

「言えばよかったんだろうな」

 

「今からでも言えばいいんじゃないですか」

 

千速はスマホを見た。

 

押村とのメッセージ画面。

 

最後のやり取りは、二日前。

 

現場資料を送る。

確認した。ありがとう。

 

それだけ。

 

千速は画面を閉じた。

 

「……今日は無理だ」

 

「そうですか」

 

「意地張ってるのは分かってる」

 

「はい」

 

「分かってるけど、まだ腹が立ってる」

 

新井は苦笑した。

 

「なら、飲みに行ってきたらどうですか」

 

千速が顔を上げる。

 

「飲み?」

 

「誰かに話した方がいいですよ。押村警部補本人に言えないなら」

 

千速は少し考えた。

 

そして、ある人物の顔が浮かんだ。

 

坊主頭。

鋭い目つき。

口が悪くて、直情的で、不器用なくせに面倒見がいい男。

 

「……重悟か」

 

新井が少し笑う。

 

「適任ですね」

 

「適任か?」

 

「少なくとも、押村警部補のことも小隊長のことも知ってます」

 

千速はしばらく考え、スマホを手に取った。

 

 

その夜。

 

横溝重悟は、捜査一課のデスクで書類に目を通していた。

 

そこへスマホが震える。

 

相手は千速。

 

今日飲めるか。

 

横溝は画面を見て、眉をひそめた。

 

少し迷ってから返信する。

 

押村は?

 

すぐ返ってきた。

 

誘ってない。

 

横溝は天井を見た。

 

「……面倒くせぇ」

 

だが、返信した。

 

一時間後。いつもの店。

 

送信してから、横溝は押村のデスクを見た。

 

押村は黙々と書類を処理している。

 

顔色は普通。

 

いや、普通に見せているだけだ。

 

横溝は立ち上がる。

 

「押村」

 

押村が顔を上げる。

 

「はい」

 

「今日はもう帰れ」

 

「まだ報告書が」

 

「明日でいい」

 

「ですが」

 

横溝は低い声で言った。

 

「上司命令だ」

 

押村は少し黙る。

 

「分かりました」

 

横溝は机の上の資料を片付けながら、何気ないふりで言った。

 

「千速とまだ喧嘩してんのか」

 

押村の手が止まる。

 

「……喧嘩というほどでは」

 

「喧嘩だろ」

 

押村は黙った。

 

横溝はため息をつく。

 

「お前は黙ると余計こじれる」

 

「分かっています」

 

「分かってねぇから二日も口聞いてねぇんだろ」

 

押村は返す言葉がなかった。

 

横溝はジャケットを羽織る。

 

「相手を心配させたくないってのは、優しさじゃなくて横着になる時がある」

 

押村が横溝を見る。

 

「横着、ですか」

 

「ああ。説明する手間から逃げてるだけになる」

 

押村の表情がわずかに変わった。

 

横溝はそれ以上言わなかった。

 

「帰れ」

 

「横溝警部は?」

 

「用がある」

 

「そうですか」

 

押村は立ち上がる。

 

「お疲れさまでした」

 

「ああ」

 

押村が出ていくのを見送ってから、横溝は小さく呟いた。

 

「手のかかる同期どもだな」

 

 

居酒屋の奥の席で、千速はすでにビールを頼んでいた。

 

横溝が向かいに座る。

 

「早ぇな」

 

「先に飲んでる」

 

「見りゃ分かる」

 

千速はジョッキを持ち上げる。

 

「お疲れ」

 

横溝もビールを受け取り、軽く合わせた。

 

「で」

 

「早いな」

 

「呼び出したのはお前だろ」

 

千速はビールを一口飲んだ。

 

しばらく黙る。

 

横溝は急かさなかった。

 

焼き鳥と枝豆を注文し、腕を組んで待っている。

 

千速はようやく口を開いた。

 

「奏斗と喧嘩した」

 

「知ってる」

 

「だよな」

 

「捜査一課の空気が悪い」

 

「悪いか」

 

「悪い」

 

千速は少し肩を落とした。

 

「悪いとは思ってる」

 

横溝は枝豆をつまむ。

 

「何で揉めた」

 

「奏斗が怪我したのを黙ってた」

 

「ああ」

 

「しかも私に言わなかった理由が、心配かけたくなかった、だと」

 

横溝は何も言わなかった。

 

千速は少し声を荒げる。

 

「腹立つだろ。私には言えよって思うだろ」

 

「思うな」

 

「だろ?」

 

「だが、お前も言い方きつかったんじゃねぇのか」

 

千速は言葉に詰まる。

 

横溝はビールを飲む。

 

「図星か」

 

「……仕事中だ。萩原警部補って呼べ、って言った」

 

横溝は顔をしかめた。

 

「そりゃ刺さるな」

 

千速はジョッキを置いた。

 

「分かってる」

 

「なら謝れ」

 

「簡単に言うなよ」

 

「簡単だろ。悪いと思ってるなら」

 

「重悟は単純でいいな」

 

「お前らが複雑にしすぎなんだよ」

 

千速は黙った。

 

店員が焼き鳥を運んでくる。

 

横溝は一本取り、千速の皿に置いた。

 

「食え」

 

千速はその焼き鳥を見る。

 

「奏斗みたいなことするな」

 

「俺をあいつと一緒にするな」

 

「似てる時あるぞ」

 

「殴るぞ」

 

千速は少し笑った。

 

でも、その笑いはすぐに消えた。

 

「……怖いんだよ」

 

横溝は黙って千速を見る。

 

千速はグラスの水滴を指でなぞった。

 

「奏斗ってさ、静かに無理するだろ」

 

「ああ」

 

「怪我しても、大丈夫って言う。眠ってなくても、少し寝たって言う。飯食ってなくても、後で食べるって言う」

 

「腹立つくらい言うな」

 

「そういう奴だって分かってる。でも、私にまで黙られると……」

 

千速は言葉を切った。

 

横溝は続きを促さない。

 

千速は少しして、低く言った。

 

「私は、そばにいる意味あんのかなって思う」

 

横溝の目が少し細くなる。

 

「……それを押村に言ったのか」

 

千速は首を横に振る。

 

「言ってない」

 

「じゃあ伝わってねぇ」

 

「分かってる」

 

「押村は察しがいいようで、自分のことになると鈍いぞ」

 

「知ってる」

 

「なら言え」

 

千速は苦い顔をする。

 

「重悟は本当に容赦ねぇな」

 

「優しく慰めてほしかったのか?」

 

「それはそれで気持ち悪い」

 

「だろ」

 

千速は少し笑い、焼き鳥を食べた。

 

横溝は腕を組み直す。

 

「あいつも悪い。黙ってたのは間違いだ」

 

千速は黙って聞く。

 

「だが、お前もあいつに一番刺さる言葉を選んだ」

 

「……うん」

 

「同期で、恋人で、仕事仲間なんだろ」

 

「何だよ急に」

 

「立場が多い分、揉めるのも面倒なんだよ。刑事と白バイだけなら報告系統の話で終わる。恋人だけなら心配の話で終わる。でもお前らは全部混ざる」

 

千速は少し目を伏せた。

 

「そうだな」

 

「だから、仕事の怒りなのか、恋人としての寂しさなのか、分けて言え」

 

千速は横溝を見る。

 

「重悟、恋愛相談できるんだな」

 

横溝は嫌そうな顔をした。

 

「今のを恋愛相談って言うな」

 

「でも助かる」

 

「やめろ。調子狂う」

 

千速は少しだけ柔らかく笑った。

 

「ありがとな」

 

横溝は目を逸らす。

 

「礼は押村と仲直りしてから言え」

 

「明日、話す」

 

「今日じゃねぇのか」

 

千速はスマホを見る。

 

「今日は……まだ酒入ってるし、変なこと言いそうだ」

 

「それは正解だな」

 

「だろ」

 

横溝はビールを飲み干した。

 

「ただ、あんまり長引かせるな」

 

「分かってる」

 

「あいつ、平気な顔してるが、相当効いてるぞ」

 

千速の表情が変わった。

 

「……そうか」

 

「ああ」

 

「そっか」

 

千速は少しだけ胸が痛くなった。

 

自分も傷ついた。

 

でも、押村も傷ついていた。

 

分かっていたはずなのに、怒りの向こうに置き去りにしていた。

 

千速は小さく息を吐いた。

 

「明日、ちゃんと話す」

 

横溝は頷いた。

 

「そうしろ」

 

 

翌日。

 

県警本部の屋上。

 

千速は押村を呼び出した。

 

風は少し冷たい。

 

空は曇っているが、雨は降っていない。

 

押村は約束の時間ぴったりに来た。

 

「千速」

 

その呼び方に、千速の胸が少し痛んだ。

 

二日前、自分はその呼び方を拒んだ。

 

千速はフェンスにもたれ、押村を見た。

 

「来てくれてありがとな」

 

「君が呼んだから」

 

「そういうとこだよな」

 

押村は少し戸惑う。

 

「何か悪かったか」

 

「悪くねぇ」

 

千速は深呼吸した。

 

意地を張るな。

 

仕事の怒りと、寂しさを分けろ。

 

重悟の言葉を思い出す。

 

「まず、謝る」

 

押村の目が動いた。

 

「謝るのは俺の方だ」

 

「先に言わせろ」

 

押村は静かに頷いた。

 

千速は少し視線を落とす。

 

「仕事中だ。萩原警部補って呼べ、って言ったこと。あれは言いすぎた」

 

押村は黙って聞いている。

 

「お前が私を千速って呼ぶの、大事にしてるって分かってたのに。そこを刺した。悪かった」

 

押村はゆっくり息を吐いた。

 

「……正直、少し堪えた」

 

千速は顔を上げる。

 

押村は目を逸らさなかった。

 

「でも、君が怒る理由も分かっている」

 

「分かってるなら、何で黙ったんだよ」

 

責める声になりかけて、千速は言い直した。

 

「いや、違う。責めたいんじゃなくて……聞きたい」

 

押村は少し考えてから答えた。

 

「怪我は軽かった。だから、わざわざ伝えるほどではないと思った」

 

千速は黙る。

 

押村は続ける。

 

「それと、君に心配をかけたくなかった」

 

千速が眉を寄せる。

 

押村はすぐに言った。

 

「でも、それは間違っていた」

 

千速の目が少し揺れる。

 

「横溝警部にも言われました。説明する手間から逃げているだけになる、と」

 

「重悟が?」

 

「はい」

 

「あいつ……」

 

千速は少しだけ笑いそうになったが、堪えた。

 

押村は真面目に続ける。

 

「俺は、君に心配をかけたくないと思っていた。でも結果的に、君を遠ざけた」

 

千速は唇を結んだ。

 

押村は静かに頭を下げた。

 

「すまなかった」

 

千速は少し慌てる。

 

「頭下げんなよ」

 

「謝りたい」

 

「……分かった」

 

押村が顔を上げる。

 

千速はフェンスから離れ、一歩近づいた。

 

「私はさ」

 

「うん」

 

「お前が怪我したことだけに怒ってたんじゃない」

 

押村は真剣に聞いている。

 

「黙られたのが嫌だった。私には言ってほしかった。心配かけたくないって理由で何も言わないなら、私はそばにいる意味あんのかなって思った」

 

押村の表情が変わった。

 

千速は続ける。

 

「仕事上の報告じゃなくてさ。恋人として、知りたかった」

 

押村はしばらく黙った。

 

そして、低く言った。

 

「君に、そんなふうに思わせたかったわけじゃない」

 

「分かってる」

 

「でも、思わせた」

 

「うん」

 

押村は拳を軽く握った。

 

「俺は、君に頼ることがまだ下手だ」

 

千速は少しだけ笑う。

 

「知ってる」

 

「これからは、怪我をしたら伝える」

 

「怪我する前に気をつけろ」

 

「努力する」

 

「努力じゃなくて確約しろ」

 

押村は少しだけ目を細めた。

 

「確約する」

 

千速はその顔を見て、胸の奥がほどけるのを感じた。

 

「あと」

 

「何だ」

 

「心配かけたくないって言うなら、隠すな。隠された方が心配する」

 

「分かった」

 

「本当だな」

 

「本当だ」

 

千速はようやく息を吐いた。

 

二、三日分の張り詰めたものが、少しずつ抜けていく。

 

押村が静かに言った。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「また、そう呼んでもいいか」

 

千速は一瞬、言葉を失った。

 

胸が痛くなった。

 

自分が言った言葉が、そこまで押村に残っていたのだと分かったから。

 

千速は押村の手を取った。

 

「当たり前だろ」

 

押村の目がわずかに揺れる。

 

千速は少し強めに言った。

 

「奏斗が私を千速って呼ぶの、私は好きだ」

 

押村は静かに千速を見た。

 

「そうか」

 

「そうだよ」

 

「なら、呼ぶ」

 

「うん」

 

押村は、握られた手を握り返した。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「仲直りしたい」

 

千速は少し笑った。

 

「もうしてるだろ」

 

「そうか」

 

「そうだ」

 

押村は少しだけ表情を緩めた。

 

千速はその顔を見て、二日分の意地が馬鹿らしくなった。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今日、飯行くぞ」

 

「二人で?」

 

「二人で」

 

「分かった」

 

「あと、重悟にも礼言わねぇとな」

 

押村は少し考える。

 

「昨日、横溝警部と飲みに行ったのか」

 

千速は固まった。

 

「……あ」

 

押村は千速を見る。

 

「そうか」

 

「いや、別に変な意味じゃねぇぞ。相談しただけだ」

 

「分かっている」

 

「本当か?」

 

「本当だ」

 

押村は少しだけ真面目に言った。

 

「横溝警部には、俺も礼を言う」

 

千速はほっとして、すぐに苦笑した。

 

「お前、ほんと真面目だな」

 

「そうだろうか」

 

「そうだよ」

 

千速は握った手を離さなかった。

 

押村も離さなかった。

 

曇り空の下、二人はしばらく屋上に立っていた。

 

喧嘩は、終わった。

 

言えなかったことを言っただけで、すべてが簡単に解決するわけではない。

 

きっとまた、押村は黙ろうとする。

千速は強く言いすぎる。

互いの仕事と気持ちがぶつかる日もある。

 

それでも、次は少しだけ早く話せる。

 

二、三日も黙り込む前に。

 

千速は押村の横顔を見て、軽く肩をぶつけた。

 

「次黙ったら、許さねぇからな」

 

押村は頷いた。

 

「分かった」

 

「本当だな」

 

「本当だ」

 

押村は少し間を置いて言った。

 

「千速も、怒った時は理由を言ってほしい」

 

千速は苦笑する。

 

「努力する」

 

押村が見つめる。

 

「努力?」

 

千速は観念したように言い直した。

 

「確約する」

 

押村は少しだけ笑った。

 

千速も笑った。

 

屋上のドアが開く音がした。

 

横溝が顔を出す。

 

「お前ら、いつまで屋上にいる」

 

千速が振り向く。

 

「重悟」

 

横溝は二人のつないだ手を見た。

 

そして、深々とため息をつく。

 

「仲直りしたなら仕事しろ」

 

押村は手をつないだまま、真面目に頭を下げた。

 

「ご迷惑をおかけしました」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「手ぇ離してから謝れ」

 

千速は吹き出した。

 

「重悟、昨日ありがとな」

 

「ここで言うな」

 

押村も続ける。

 

「ありがとうございました」

 

「だから二人揃って言うな。気持ち悪ぃ」

 

横溝は背を向けた。

 

「戻るぞ。書類が山だ」

 

千速が小声で言う。

 

「照れてるな」

 

押村が頷く。

 

「はい」

 

横溝が振り返らずに怒鳴った。

 

「聞こえてるぞ!」

 

千速は笑いながら、押村の手を一度だけ強く握った。

 

それから、仕事に戻るために手を離した。

 

でも、距離はもう離れていなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。