喧嘩の始まりは、些細なことだった。
少なくとも、外から見ればそうだった。
神奈川県警本部の廊下で、萩原千速は腕を組んだまま、押村奏斗を睨んでいた。
「だから、何で私に言わなかったんだよ」
押村はいつも通り、静かな顔をしていた。
ただ、その目元には疲れが残っている。
「交通部を巻き込む必要がないと判断した」
「交通部の話をしてるんじゃねぇ」
千速の声が少し低くなる。
「私の話をしてるんだよ」
押村は黙った。
その沈黙が、千速の苛立ちに火を足した。
数日前、押村は捜査中に一人で参考人の元へ向かった。
危険な相手ではない。
そう判断していた。
だが、結果としてその参考人は証拠隠滅を図り、押村は小競り合いの中で腕を軽く負傷した。
大事には至らなかった。
擦り傷と打撲程度。
けれど千速がそれを知ったのは、本人からではなく、横溝重悟からだった。
「別に、全部私に報告しろって言ってるわけじゃねぇ」
千速は唇を噛んだ。
「でも怪我したなら、言えよ」
押村は静かに答えた。
「心配をかけたくなかった」
「それが一番腹立つんだよ」
押村の表情が少しだけ揺れる。
千速は一歩近づいた。
「心配かけたくないから黙る? それ、結局こっちに何もさせねぇってことだろ」
「そういう意味ではない」
「じゃあどういう意味だよ」
押村は答えようとして、言葉を探した。
その間が、さらに悪かった。
千速は目を逸らす。
「もういい」
「千速」
「仕事中だ。萩原警部補って呼べば?」
押村が息を止めた。
その一言が、千速自身にも少し刺さった。
でも、引けなかった。
押村は静かに言った。
「……すまない」
「謝るな」
千速は背を向けた。
「謝れば済むと思ってるなら、余計腹立つ」
押村はそれ以上、追いかけなかった。
追いかけられなかった。
廊下に、二人分の沈黙だけが残った。
⸻
その日から、二人は口を聞かなくなった。
正確には、仕事上必要な会話だけはした。
「資料、確認した」
「了解」
「交通規制の件、第三交機で対応する」
「助かる」
「現場写真、共有しといた」
「確認する」
それだけ。
以前なら、その後に必ず一言あった。
「無理すんなよ」
「そっちも」
「飯食ったか」
「君も食べたか」
そんなやり取りが、すっかり消えた。
捜査一課の空気は、明らかに変だった。
村上は資料を配りながら、横溝重悟に小声で尋ねた。
「警部……押村警部補と萩原警部補、何かありました?」
横溝は書類から顔を上げずに答える。
「喧嘩だろ」
「やっぱり」
「見りゃ分かる」
「どうします?」
「放っとけ」
村上は少し驚いた。
「いいんですか?」
横溝は顔をしかめる。
「俺が間に入ったら余計面倒になる」
「でも、この空気……」
その時、会議室の向こうで押村と千速が同時に資料へ手を伸ばし、指先が触れかけた。
二人は同時に手を引いた。
そして、同時に目を逸らした。
村上は小さく息を呑む。
横溝はこめかみを押さえた。
「……面倒くせぇ」
⸻
二日目。
千速は第三交通機動隊の詰所で、無言のまま書類を処理していた。
新井がそっと様子を窺う。
「小隊長」
「何だ」
「今日、機嫌悪いですか」
千速のペンが止まる。
「悪く見えるか?」
「はい」
「正直だな」
「嘘ついたら怒られそうなので」
千速はため息をついた。
「怒らねぇよ」
「押村警部補と何かありました?」
千速の目が鋭くなる。
新井はすぐ両手を上げた。
「すみません、聞かなかったことにします」
「いや」
千速はペンを置いた。
「……私が怒りすぎたのかもしれない」
新井は少し驚いた顔をした。
「小隊長がそう言うの、珍しいですね」
「うるせぇ」
「すみません」
千速は椅子にもたれ、天井を見上げる。
「でもさ。黙られるのって、きついんだよ」
「押村警部補がですか?」
「あいつ、心配かけたくないって言うだろ」
「言いそうですね」
「それって、優しさみたいに聞こえるけどさ。こっちからしたら、壁作られてるみたいに感じる時がある」
新井は何も言わずに聞いていた。
千速は少しだけ苦く笑う。
「私だって、あいつに何かあったら心配する。怒る。支えたいって思う。でも黙られたら、何もできねぇ」
新井は静かに言った。
「それ、押村警部補に言いました?」
千速は黙った。
新井は恐る恐る続ける。
「言えてない顔ですね」
「お前、最近遠慮なくなってきたな」
「小隊長に鍛えられました」
千速は小さく笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「言えばよかったんだろうな」
「今からでも言えばいいんじゃないですか」
千速はスマホを見た。
押村とのメッセージ画面。
最後のやり取りは、二日前。
現場資料を送る。
確認した。ありがとう。
それだけ。
千速は画面を閉じた。
「……今日は無理だ」
「そうですか」
「意地張ってるのは分かってる」
「はい」
「分かってるけど、まだ腹が立ってる」
新井は苦笑した。
「なら、飲みに行ってきたらどうですか」
千速が顔を上げる。
「飲み?」
「誰かに話した方がいいですよ。押村警部補本人に言えないなら」
千速は少し考えた。
そして、ある人物の顔が浮かんだ。
坊主頭。
鋭い目つき。
口が悪くて、直情的で、不器用なくせに面倒見がいい男。
「……重悟か」
新井が少し笑う。
「適任ですね」
「適任か?」
「少なくとも、押村警部補のことも小隊長のことも知ってます」
千速はしばらく考え、スマホを手に取った。
⸻
その夜。
横溝重悟は、捜査一課のデスクで書類に目を通していた。
そこへスマホが震える。
相手は千速。
今日飲めるか。
横溝は画面を見て、眉をひそめた。
少し迷ってから返信する。
押村は?
すぐ返ってきた。
誘ってない。
横溝は天井を見た。
「……面倒くせぇ」
だが、返信した。
一時間後。いつもの店。
送信してから、横溝は押村のデスクを見た。
押村は黙々と書類を処理している。
顔色は普通。
いや、普通に見せているだけだ。
横溝は立ち上がる。
「押村」
押村が顔を上げる。
「はい」
「今日はもう帰れ」
「まだ報告書が」
「明日でいい」
「ですが」
横溝は低い声で言った。
「上司命令だ」
押村は少し黙る。
「分かりました」
横溝は机の上の資料を片付けながら、何気ないふりで言った。
「千速とまだ喧嘩してんのか」
押村の手が止まる。
「……喧嘩というほどでは」
「喧嘩だろ」
押村は黙った。
横溝はため息をつく。
「お前は黙ると余計こじれる」
「分かっています」
「分かってねぇから二日も口聞いてねぇんだろ」
押村は返す言葉がなかった。
横溝はジャケットを羽織る。
「相手を心配させたくないってのは、優しさじゃなくて横着になる時がある」
押村が横溝を見る。
「横着、ですか」
「ああ。説明する手間から逃げてるだけになる」
押村の表情がわずかに変わった。
横溝はそれ以上言わなかった。
「帰れ」
「横溝警部は?」
「用がある」
「そうですか」
押村は立ち上がる。
「お疲れさまでした」
「ああ」
押村が出ていくのを見送ってから、横溝は小さく呟いた。
「手のかかる同期どもだな」
⸻
居酒屋の奥の席で、千速はすでにビールを頼んでいた。
横溝が向かいに座る。
「早ぇな」
「先に飲んでる」
「見りゃ分かる」
千速はジョッキを持ち上げる。
「お疲れ」
横溝もビールを受け取り、軽く合わせた。
「で」
「早いな」
「呼び出したのはお前だろ」
千速はビールを一口飲んだ。
しばらく黙る。
横溝は急かさなかった。
焼き鳥と枝豆を注文し、腕を組んで待っている。
千速はようやく口を開いた。
「奏斗と喧嘩した」
「知ってる」
「だよな」
「捜査一課の空気が悪い」
「悪いか」
「悪い」
千速は少し肩を落とした。
「悪いとは思ってる」
横溝は枝豆をつまむ。
「何で揉めた」
「奏斗が怪我したのを黙ってた」
「ああ」
「しかも私に言わなかった理由が、心配かけたくなかった、だと」
横溝は何も言わなかった。
千速は少し声を荒げる。
「腹立つだろ。私には言えよって思うだろ」
「思うな」
「だろ?」
「だが、お前も言い方きつかったんじゃねぇのか」
千速は言葉に詰まる。
横溝はビールを飲む。
「図星か」
「……仕事中だ。萩原警部補って呼べ、って言った」
横溝は顔をしかめた。
「そりゃ刺さるな」
千速はジョッキを置いた。
「分かってる」
「なら謝れ」
「簡単に言うなよ」
「簡単だろ。悪いと思ってるなら」
「重悟は単純でいいな」
「お前らが複雑にしすぎなんだよ」
千速は黙った。
店員が焼き鳥を運んでくる。
横溝は一本取り、千速の皿に置いた。
「食え」
千速はその焼き鳥を見る。
「奏斗みたいなことするな」
「俺をあいつと一緒にするな」
「似てる時あるぞ」
「殴るぞ」
千速は少し笑った。
でも、その笑いはすぐに消えた。
「……怖いんだよ」
横溝は黙って千速を見る。
千速はグラスの水滴を指でなぞった。
「奏斗ってさ、静かに無理するだろ」
「ああ」
「怪我しても、大丈夫って言う。眠ってなくても、少し寝たって言う。飯食ってなくても、後で食べるって言う」
「腹立つくらい言うな」
「そういう奴だって分かってる。でも、私にまで黙られると……」
千速は言葉を切った。
横溝は続きを促さない。
千速は少しして、低く言った。
「私は、そばにいる意味あんのかなって思う」
横溝の目が少し細くなる。
「……それを押村に言ったのか」
千速は首を横に振る。
「言ってない」
「じゃあ伝わってねぇ」
「分かってる」
「押村は察しがいいようで、自分のことになると鈍いぞ」
「知ってる」
「なら言え」
千速は苦い顔をする。
「重悟は本当に容赦ねぇな」
「優しく慰めてほしかったのか?」
「それはそれで気持ち悪い」
「だろ」
千速は少し笑い、焼き鳥を食べた。
横溝は腕を組み直す。
「あいつも悪い。黙ってたのは間違いだ」
千速は黙って聞く。
「だが、お前もあいつに一番刺さる言葉を選んだ」
「……うん」
「同期で、恋人で、仕事仲間なんだろ」
「何だよ急に」
「立場が多い分、揉めるのも面倒なんだよ。刑事と白バイだけなら報告系統の話で終わる。恋人だけなら心配の話で終わる。でもお前らは全部混ざる」
千速は少し目を伏せた。
「そうだな」
「だから、仕事の怒りなのか、恋人としての寂しさなのか、分けて言え」
千速は横溝を見る。
「重悟、恋愛相談できるんだな」
横溝は嫌そうな顔をした。
「今のを恋愛相談って言うな」
「でも助かる」
「やめろ。調子狂う」
千速は少しだけ柔らかく笑った。
「ありがとな」
横溝は目を逸らす。
「礼は押村と仲直りしてから言え」
「明日、話す」
「今日じゃねぇのか」
千速はスマホを見る。
「今日は……まだ酒入ってるし、変なこと言いそうだ」
「それは正解だな」
「だろ」
横溝はビールを飲み干した。
「ただ、あんまり長引かせるな」
「分かってる」
「あいつ、平気な顔してるが、相当効いてるぞ」
千速の表情が変わった。
「……そうか」
「ああ」
「そっか」
千速は少しだけ胸が痛くなった。
自分も傷ついた。
でも、押村も傷ついていた。
分かっていたはずなのに、怒りの向こうに置き去りにしていた。
千速は小さく息を吐いた。
「明日、ちゃんと話す」
横溝は頷いた。
「そうしろ」
⸻
翌日。
県警本部の屋上。
千速は押村を呼び出した。
風は少し冷たい。
空は曇っているが、雨は降っていない。
押村は約束の時間ぴったりに来た。
「千速」
その呼び方に、千速の胸が少し痛んだ。
二日前、自分はその呼び方を拒んだ。
千速はフェンスにもたれ、押村を見た。
「来てくれてありがとな」
「君が呼んだから」
「そういうとこだよな」
押村は少し戸惑う。
「何か悪かったか」
「悪くねぇ」
千速は深呼吸した。
意地を張るな。
仕事の怒りと、寂しさを分けろ。
重悟の言葉を思い出す。
「まず、謝る」
押村の目が動いた。
「謝るのは俺の方だ」
「先に言わせろ」
押村は静かに頷いた。
千速は少し視線を落とす。
「仕事中だ。萩原警部補って呼べ、って言ったこと。あれは言いすぎた」
押村は黙って聞いている。
「お前が私を千速って呼ぶの、大事にしてるって分かってたのに。そこを刺した。悪かった」
押村はゆっくり息を吐いた。
「……正直、少し堪えた」
千速は顔を上げる。
押村は目を逸らさなかった。
「でも、君が怒る理由も分かっている」
「分かってるなら、何で黙ったんだよ」
責める声になりかけて、千速は言い直した。
「いや、違う。責めたいんじゃなくて……聞きたい」
押村は少し考えてから答えた。
「怪我は軽かった。だから、わざわざ伝えるほどではないと思った」
千速は黙る。
押村は続ける。
「それと、君に心配をかけたくなかった」
千速が眉を寄せる。
押村はすぐに言った。
「でも、それは間違っていた」
千速の目が少し揺れる。
「横溝警部にも言われました。説明する手間から逃げているだけになる、と」
「重悟が?」
「はい」
「あいつ……」
千速は少しだけ笑いそうになったが、堪えた。
押村は真面目に続ける。
「俺は、君に心配をかけたくないと思っていた。でも結果的に、君を遠ざけた」
千速は唇を結んだ。
押村は静かに頭を下げた。
「すまなかった」
千速は少し慌てる。
「頭下げんなよ」
「謝りたい」
「……分かった」
押村が顔を上げる。
千速はフェンスから離れ、一歩近づいた。
「私はさ」
「うん」
「お前が怪我したことだけに怒ってたんじゃない」
押村は真剣に聞いている。
「黙られたのが嫌だった。私には言ってほしかった。心配かけたくないって理由で何も言わないなら、私はそばにいる意味あんのかなって思った」
押村の表情が変わった。
千速は続ける。
「仕事上の報告じゃなくてさ。恋人として、知りたかった」
押村はしばらく黙った。
そして、低く言った。
「君に、そんなふうに思わせたかったわけじゃない」
「分かってる」
「でも、思わせた」
「うん」
押村は拳を軽く握った。
「俺は、君に頼ることがまだ下手だ」
千速は少しだけ笑う。
「知ってる」
「これからは、怪我をしたら伝える」
「怪我する前に気をつけろ」
「努力する」
「努力じゃなくて確約しろ」
押村は少しだけ目を細めた。
「確約する」
千速はその顔を見て、胸の奥がほどけるのを感じた。
「あと」
「何だ」
「心配かけたくないって言うなら、隠すな。隠された方が心配する」
「分かった」
「本当だな」
「本当だ」
千速はようやく息を吐いた。
二、三日分の張り詰めたものが、少しずつ抜けていく。
押村が静かに言った。
「千速」
「何だ」
「また、そう呼んでもいいか」
千速は一瞬、言葉を失った。
胸が痛くなった。
自分が言った言葉が、そこまで押村に残っていたのだと分かったから。
千速は押村の手を取った。
「当たり前だろ」
押村の目がわずかに揺れる。
千速は少し強めに言った。
「奏斗が私を千速って呼ぶの、私は好きだ」
押村は静かに千速を見た。
「そうか」
「そうだよ」
「なら、呼ぶ」
「うん」
押村は、握られた手を握り返した。
「千速」
「何だ」
「仲直りしたい」
千速は少し笑った。
「もうしてるだろ」
「そうか」
「そうだ」
押村は少しだけ表情を緩めた。
千速はその顔を見て、二日分の意地が馬鹿らしくなった。
「奏斗」
「何だ」
「今日、飯行くぞ」
「二人で?」
「二人で」
「分かった」
「あと、重悟にも礼言わねぇとな」
押村は少し考える。
「昨日、横溝警部と飲みに行ったのか」
千速は固まった。
「……あ」
押村は千速を見る。
「そうか」
「いや、別に変な意味じゃねぇぞ。相談しただけだ」
「分かっている」
「本当か?」
「本当だ」
押村は少しだけ真面目に言った。
「横溝警部には、俺も礼を言う」
千速はほっとして、すぐに苦笑した。
「お前、ほんと真面目だな」
「そうだろうか」
「そうだよ」
千速は握った手を離さなかった。
押村も離さなかった。
曇り空の下、二人はしばらく屋上に立っていた。
喧嘩は、終わった。
言えなかったことを言っただけで、すべてが簡単に解決するわけではない。
きっとまた、押村は黙ろうとする。
千速は強く言いすぎる。
互いの仕事と気持ちがぶつかる日もある。
それでも、次は少しだけ早く話せる。
二、三日も黙り込む前に。
千速は押村の横顔を見て、軽く肩をぶつけた。
「次黙ったら、許さねぇからな」
押村は頷いた。
「分かった」
「本当だな」
「本当だ」
押村は少し間を置いて言った。
「千速も、怒った時は理由を言ってほしい」
千速は苦笑する。
「努力する」
押村が見つめる。
「努力?」
千速は観念したように言い直した。
「確約する」
押村は少しだけ笑った。
千速も笑った。
屋上のドアが開く音がした。
横溝が顔を出す。
「お前ら、いつまで屋上にいる」
千速が振り向く。
「重悟」
横溝は二人のつないだ手を見た。
そして、深々とため息をつく。
「仲直りしたなら仕事しろ」
押村は手をつないだまま、真面目に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
横溝が顔をしかめる。
「手ぇ離してから謝れ」
千速は吹き出した。
「重悟、昨日ありがとな」
「ここで言うな」
押村も続ける。
「ありがとうございました」
「だから二人揃って言うな。気持ち悪ぃ」
横溝は背を向けた。
「戻るぞ。書類が山だ」
千速が小声で言う。
「照れてるな」
押村が頷く。
「はい」
横溝が振り返らずに怒鳴った。
「聞こえてるぞ!」
千速は笑いながら、押村の手を一度だけ強く握った。
それから、仕事に戻るために手を離した。
でも、距離はもう離れていなかった。