その日の午後、神奈川県警捜査一課の空気は、妙にざわついていた。
最初に報せを受けたのは横溝重悟だった。
電話を切った直後、彼の顔つきが変わった。
坊主頭に鋭い目つき。
普段から威圧感のある男だが、その時の横溝は明らかに違っていた。
怒りではない。
緊張でもない。
もっと古く、もっと深い場所から滲み出るような硬さだった。
押村奏斗はすぐに気づいた。
「横溝警部」
横溝は低く答える。
「警視庁からだ」
会議室にいた刑事たちの動きが止まる。
横溝は受話器を置き、短く息を吐いた。
「東京都内に爆破予告が出た」
押村の目が鋭くなる。
「場所は」
「複数候補。まだ特定中だ」
「犯人は」
横溝は一瞬だけ黙った。
その沈黙で、押村は嫌な予感を覚えた。
横溝は言った。
「七年前と三年前の爆弾事件に関わった犯人と同一の可能性がある」
空気が凍った。
押村の脳裏に、二人の名が浮かぶ。
萩原研二。
七年前、警視庁警備部機動隊・爆発物処理班。
爆弾解体中に殉職。
松田陣平。
三年前、警視庁捜査一課。
研二の仇を取ろうとし、観覧車内の爆弾解体中に殉職。
そして、その二人は。
萩原千速にとって、弟と、幼なじみのような存在だった。
横溝は苦い声で続ける。
「警視庁は都内各所で警戒態勢に入ってる。神奈川県警にも、県境周辺の検問と逃走経路封鎖の準備要請が来た」
押村はすぐに頷いた。
「了解しました」
「交通部にも連絡が行ってる。千速のところにもな」
押村の手が、ほんのわずかに止まった。
横溝はそれを見逃さない。
「押村」
「はい」
「仕事だ」
押村は顔を上げる。
「分かっています」
横溝は押村を睨むように見た。
「ならいい」
だが、その声には、押村自身への釘だけではなく、自分自身へ言い聞かせる響きもあった。
七年前。
横溝は、研二の殉職を千速に伝えた。
あの時、彼と千速はほぼ初対面だった。
三年前。
松田陣平が死んだ時も、横溝は千速のそばにいた。
そして今。
その犯人が、また動いたかもしれない。
押村は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
第三交通機動隊の詰所では、千速がすでに指示を飛ばしていた。
「県境周辺の主要道路、東名、第三京浜、首都高接続部、全部確認しろ。警視庁から追加要請が来たら即応できるように隊を分ける」
「了解!」
新井が資料を持って駆け寄る。
「小隊長、爆破予告の対象はまだ不明。都内全域で警戒とのことです」
千速は資料を受け取る。
その表情は冷静だった。
あまりにも冷静だった。
新井は一瞬、言葉をためらった。
「小隊長……」
「何だ」
「大丈夫ですか」
千速の目が新井に向く。
鋭いが、怒ってはいなかった。
「大丈夫に見えねぇか」
新井は正直に言った。
「見えます。だから逆に心配です」
千速は少しだけ黙った。
それから、短く息を吐く。
「仕事中だ」
「はい」
「今は、私情を挟まねぇ」
「……はい」
千速は資料に目を落とす。
爆破予告。
同一犯の可能性。
研二。
陣平。
その名前を頭の中で呼んでも、千速の表情は変わらなかった。
泣かなかった。
叫ばなかった。
怒鳴りもしなかった。
けれど、握っていた資料の端だけが、少し折れていた。
その時、スマホが震えた。
奏斗からだった。
警視庁から要請が来た。こちらも動く。無理をするな。
千速は画面を見つめた。
少し前なら、ここで強がっていたかもしれない。
「分かってる」とだけ返して終わりにしたかもしれない。
だが、あの喧嘩の後だった。
黙らないこと。
隠さないこと。
一人で抱え込まないこと。
千速は短く返信した。
正直、腹は立ってる。でも仕事はする。そっちも無理すんな。
すぐに返事が来た。
分かった。何かあればすぐ言ってほしい。
千速は小さく息を吐いた。
「……分かってるよ」
新井が横から覗き込むようにして言う。
「押村警部補ですか」
千速はスマホを伏せた。
「仕事しろ」
「はい」
だが、新井は少し安心したように笑っていた。
午後五時過ぎ。
神奈川県警と警視庁の連絡線は慌ただしく動いていた。
爆破予告は複数の施設名を匂わせるものだったが、明確な場所は示されていない。
都内の高層建築物。
観光地。
駅。
公園。
人が集まる場所。
どこでもあり得る。
だからこそ、厄介だった。
横溝は会議室で警視庁からの情報を整理していた。
「爆弾犯は都内から出る可能性もある。こっちは県境で網を張る。押村、お前は逃走経路の予測を出せ」
「はい」
押村は地図を広げる。
「警視庁の警戒が都心部に集中するなら、犯人が逃走に使うのは首都高経由か、一般道で神奈川方面へ抜けるルートです。特に川崎、横浜方面への流入を警戒すべきです」
横溝が頷く。
「千速たち交通部にはその辺を見てもらう」
「はい」
村上がテレビをつけた。
「各局、速報を出しています」
画面には、都内の映像が映っていた。
物々しい警察車両。
規制線。
不安げに周囲を見る通行人。
アナウンサーの声が響く。
『警視庁によりますと、本日、東京都内の複数施設に対し爆破を示唆する予告があり――』
横溝は画面を睨む。
「報道が先走ると、余計混乱する」
押村は画面を見ながら言った。
「犯人は、それも計算に入れている可能性があります」
「目立ちたがりか」
「七年前と三年前の事件から考えると、警察を挑発する傾向があります」
横溝の顔が険しくなる。
「……胸糞悪ぃ野郎だ」
押村は何も言わなかった。
言えば、自分の中の怒りが形になりそうだった。
その時、テレビの画面が切り替わった。
『速報です。東京タワーの中で不審物が発見されたとの情報が入りました』
会議室の全員が画面を見る。
押村の手が止まる。
横溝が低く言った。
「東京タワー……」
アナウンサーは続ける。
『現在、警視庁の爆発物処理班が現場へ急行しているとのことです。東京タワー周辺では規制が敷かれ、観光客や職員の避難が進められています』
村上が青ざめる。
「東京タワーに爆弾……」
横溝はすぐ無線と電話で確認を始めた。
「警視庁につなげ。現場状況を確認しろ」
押村はテレビの前に立った。
東京タワー。
管轄外だ。
神奈川県警の押村たちは、現場へ入れない。
できることは、警視庁からの要請に備え、逃走経路と県境を固めること。
そして、テレビ越しに見守ることだけ。
それが、押村にはひどくもどかしかった。
千速も同じ頃、交通機動隊の詰所でテレビを見ていた。
誰も声を出さない。
画面の中では、東京タワーの赤い鉄骨が映っている。
その足元に、警察車両が集まり、規制線が張られている。
千速は立ったまま、画面を見つめていた。
七年前、研二は爆弾解体中に死んだ。
三年前、陣平も爆弾解体中に死んだ。
今また、誰かが同じ場所へ向かっている。
爆弾の前へ。
千速の拳が震えた。
新井がそっと言う。
「小隊長」
千速は低く答えた。
「大丈夫だ」
「でも」
「大丈夫だ」
それは、新井への返事ではなかった。
自分に言い聞かせる言葉だった。
神奈川県警本部の会議室では、テレビの音だけが響いていた。
アナウンサーの声は緊迫している。
『警視庁によりますと、不審物は東京タワーのエレベーター内で発見された模様です。現在、爆発物である可能性を含めて確認が進められています』
横溝は電話を切った。
「現場は警視庁が対応中。うちは周辺逃走支援なし。県境検問は継続だ」
押村は頷いた。
「了解しました」
「ただし、犯人が都内から出る可能性はまだある。気を抜くな」
「はい」
押村はテレビ画面を見た。
現場の映像は遠い。
規制線の向こう、人々の動きは小さくしか見えない。
だが、その中に、確かに小さな少年の姿が一瞬映った。
眼鏡をかけた男の子。
横溝が目を細める。
「……あのボウズか、」
押村はその言葉に、少しだけ引っかかるものを覚えた。
ただの小学生ではない。
横溝の口調が、そう物語っていた。
時間はゆっくりと進んだ。
五分。
十分。
十五分。
東京タワーの中で何が起きているのか、神奈川県警には断片的な情報しか入らない。
爆発物らしきものが確認された。
処理班が接近した。
避難はほぼ完了。
犯人から追加メッセージはなし。
横溝は苛立ちを隠さず、何度も時計を見た。
押村はテレビの画面と地図を交互に見ていた。
千速からメッセージが入る。
東京タワーの件、見てる。
押村はすぐ返した。
こちらも見ている。
少し間があって、次のメッセージ。
研二と陣平の時を思い出す。
押村は画面を見つめた。
千速が自分からそう書いた。
それだけで、押村は胸の奥が締めつけられるようだった。
けれど、彼女が言葉にしたことが大事だった。
押村は返信した。
今は一人で見るな。新井たちと一緒にいてほしい。
千速から返事が来る。
いる。大丈夫。
少し置いて、もう一文。
本当は現場に行きたい。でも管轄外だし、行っても邪魔になる。分かってる。
押村は静かに文字を打った。
分かっている君は強い。
しばらく返事がなかった。
やがて短く返ってきた。
そういうこと言うな。泣きそうになる。
押村はスマホを見つめた。
千速が泣きそうになると書いた。
でも泣かないのだろう。
きっと、テレビの前で真っ直ぐ立っている。
拳を握って。
研二と松田の名前を胸に抱えたまま。
押村は返信した。
終わったら会いに行く。
返事はすぐだった。
来い。
押村はスマホをしまった。
横溝が横目で見る。
「千速か」
「はい」
「大丈夫そうか」
押村は少し考える。
「大丈夫そうにしています」
横溝は低く息を吐いた。
「そういう奴だ」
「はい」
そして、速報が入った。
テレビの画面が切り替わり、アナウンサーの声が一段高くなる。
『ただいま新しい情報が入りました。東京タワーで発見された爆発物について、現場に居合わせた少年、江戸川コナンくんが解体に関与し、爆発を未然に防いだとのことです』
会議室が静まり返った。
村上が目を見開く。
押村も驚きを隠せなかった。
横溝は額に手を当てた。
「……眼鏡のボウズ」
「眼鏡のボウズ?」
「ああ。眠りの小五郎のいる毛利探偵事務所に居候してるらしい。事件現場で大人が気づかねぇことに、やたら気づく」
「眠りの小五郎ですか。横溝警部、お知り合いなんですか?」
「何回かな」
テレビでは、混乱した現場の様子が続いている。
『警視庁は詳細を明らかにしていませんが、爆発物はすでに無力化され、けが人はいないということです』
横溝が低く呟いた。
「またあのボウズか……」
村上が恐る恐る言う。
「横溝警部、本当に何者なんですか、その子」
「俺が聞きてぇよ」
押村は画面を見つめていた。
けが人はいない。
爆発は防がれた。
その事実に、胸の奥から力が抜ける。
研二の時は、防げなかった。
松田の時も、防げなかった。
でも今日は。
爆発しなかった。
誰も死ななかった。
押村はすぐ千速へメッセージを送った。
爆弾は解体された。けが人なし。
千速からの返事は少し遅れた。
見た。
それだけだった。
だが、その短い二文字の向こうに、どれほどの感情があるか、押村には分かった。
第三交通機動隊の詰所では、ニュース速報を見た隊員たちが一斉に息を吐いていた。
「けが人なし……」
「よかった……」
新井が千速を見る。
「小隊長」
千速はテレビを見つめたままだった。
画面には、東京タワーが映っている。
赤い鉄骨。
夕暮れの空。
その下で、警察車両のライトが点滅している。
千速は小さく呟いた。
「研二」
新井は何も言わなかった。
千速は続けて、もう一人の名前を呼ぶ。
「陣平」
声は震えていない。
でも、いつもより少し低かった。
「今日は、爆発しなかったぞ」
誰に向けた言葉なのか。
新井には分からなかった。
でも、その場にいた全員が、黙って聞いていた。
千速は拳をほどいた。
手のひらに、爪の跡が残っていた。
ほどなくして、警視庁から神奈川県警へ正式な連絡が入った。
横溝が電話を取る。
「横溝だ」
押村はその横顔を見ていた。
横溝の目がわずかに変わる。
「……確保?」
会議室の全員が反応する。
横溝は受話器を強く握った。
「本当か」
少し沈黙。
「分かった。詳細は追って共有してくれ」
電話を切る。
横溝は数秒黙っていた。
押村が静かに問う。
「横溝警部」
横溝は顔を上げた。
「爆弾犯を確保した」
会議室に、重い静寂が落ちた。
誰もすぐには声を出さなかった。
押村は息を吸った。
「……警視庁が?」
「ああ。犯人からの暗号解読して米花町近辺で身柄確保。七年前と三年前の事件への関与も含めて追及するそうだ」
村上が小さく言う。
「終わったんですか」
横溝はすぐには答えなかった。
「捜査としては、これからだ。だが少なくとも、身柄は押さえた」
押村はスマホを取り出した。
千速へ連絡する。
警視庁が爆弾犯を確保した。
既読はすぐについた。
返事は来なかった。
押村は立ち上がった。
横溝が見る。
「千速のところへ行くのか」
「はい」
「行け」
押村は少しだけ頭を下げる。
「ありがとうございます」
横溝は目を逸らした。
「俺も後で行く」
押村は頷いた。
「はい」
千速は、第三交機の車庫にいた。
白バイが整然と並ぶ中、一人で立っていた。
いや、正確には一人ではなかった。
遠くに新井たちがいる。
だが、誰も近づかなかった。
千速が今、何を抱えているのか。
誰も簡単には踏み込めなかった。
押村はゆっくり歩いていった。
「千速」
千速は振り向かなかった。
「来たか」
「ああ」
「犯人、捕まったんだな」
「警視庁から連絡があった」
「そうか」
千速は白バイのミラーに手を置いた。
「捕まったのか」
「はい」
「研二を殺した奴が」
押村は静かに答える。
「その可能性が高い」
「陣平を殺した奴も」
「はい」
千速は少しだけ笑った。
笑った、というより、息が漏れたような声だった。
「遅ぇよ」
押村は何も言わなかった。
千速は続ける。
「七年だぞ。研二が死んでから」
「ああ」
「陣平が死んでからだって、三年だ」
「ああ」
「遅すぎる」
「そうだな」
千速の肩がわずかに震えた。
でも、涙は落ちない。
押村は一歩近づいた。
「千速」
「何だ」
「今は、泣いてもいいと思う」
千速は振り向いた。
目は赤くなっていた。
でも、まだ泣いてはいなかった。
「泣けねぇよ」
「そうか」
「泣いたら、何か終わったみたいになる」
押村は静かに聞いていた。
千速は拳を握る。
「でも、研二は帰ってこねぇ。陣平も帰ってこねぇ。犯人が捕まっても、二人は戻らねぇ」
「はい」
「なのに、ほっとしてる自分もいる」
千速の声が少しだけ詰まる。
「それが、悔しい」
押村は千速の前に立った。
「ほっとしていい」
千速が押村を見る。
「いいのかよ」
「いい」
押村は真っ直ぐ言った。
「犯人がもう誰も殺せないことに、ほっとしていい。今日、誰も死ななかったことに、ほっとしていい」
千速の顔が歪む。
「……奏斗」
押村は静かに腕を広げた。
「ここにいる」
千速は一瞬だけ迷った。
それから、押村の胸に額を預けた。
押村はゆっくり抱きしめる。
強くではなく、逃げ道を残すように。
でも、確かに支えるように。
千速は押村の上着を掴んだ。
「悔しい」
「うん」
「腹立つ」
「うん」
「研二にも、陣平にも……言いたいこと、まだあった」
「うん」
「馬鹿野郎って、言いたかった」
「うん」
千速の声が、少しずつ震えていく。
「何で勝手に死んでんだって」
「うん」
「何で私より先に行ってんだって」
押村は何も遮らなかった。
ただ、相槌だけを返した。
千速がずっと言えなかった言葉を、今ようやく吐き出しているのだと分かったから。
少し離れた場所で、新井がそっと目を伏せた。
横溝がいつの間にか車庫の入口に立っていた。
彼も近づかない。
ただ、静かに見守っていた。
千速は押村の胸に顔を伏せたまま、小さく言った。
「今日、爆発しなくてよかった」
押村は頷く。
「ああ」
「あの眼鏡の少年、すげぇな」
「江戸川コナンか」
「小一なんだろ」
「らしい」
「何者だよ」
押村は少しだけ考える。
「横溝警部も同じことを言っていた」
千速は、ほんの少しだけ笑った。
ようやく、少しだけ。
「重悟、知ってんのか」
「何回か会っているそうだ。眼鏡のボウズ、と呼んでいた」
千速は小さく笑う。
「重悟らしいな」
その声に、少しだけ力が戻っていた。
押村は抱きしめた腕を緩める。
千速は顔を上げた。
目は潤んでいたが、涙は落ちていなかった。
それでも、さっきより呼吸は楽そうだった。
横溝がゆっくり近づいてくる。
「千速」
千速は袖で目元を乱暴に拭った。
「何だよ」
横溝は少し黙った。
それから、低く言った。
「捕まった」
「聞いた」
「七年前のことも、三年前のことも、これから全部吐かせる」
千速は横溝を見た。
横溝の目にも、怒りがあった。
千速だけの怒りではない。
押村だけの事件でもない。
横溝にとっても、あの日は消えていなかった。
千速は小さく頷いた。
「頼む」
横溝は短く答えた。
「ああ」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
その夜、ニュースは東京タワー爆破未遂事件で持ちきりだった。
江戸川コナンという少年が爆弾の解体に関与したこと。
警視庁が爆弾犯を確保したこと。
詳細はまだ伏せられている。
けれど、都内を揺るがした爆破予告は、未遂に終わった。
神奈川県警の応援態勢も解除された。
第三交通機動隊も、捜査一課も、それぞれ通常体制へ戻っていく。
だが、千速の中では、何かが大きく動いた日だった。
夜。
押村と千速は、県警本部の外に並んで立っていた。
横溝は少し前に帰った。
帰り際に、
「今日は押村が送ってけ」
とだけ言い残して。
千速は夜空を見上げた。
「東京タワー、赤かったな」
「テレビ越しでも、よく見えた」
「あそこに爆弾か」
「はい」
「研二なら、文句言いながら解体しただろうな」
押村は黙って聞く。
千速は少し笑った。
「“姉ちゃん、心配しすぎ”とか言いそうだ」
「松田は?」
千速の目が少し遠くなる。
「陣平は……たぶん、煙草くわえながら“くだらねぇことしやがって”って言う」
「そうですか」
「で、研二に“陣平ちゃん、顔怖いよ”って茶化される」
千速はそこまで言って、少しだけ声を落とした。
「……見たかったな」
押村は静かに言った。
「はい」
千速は押村の手を取った。
「でも、今日誰も死ななかった」
「ああ」
「犯人も捕まった」
「ああ」
「だから、今日はそれでいい」
押村は頷いた。
「そうだな」
千速は押村の手を握ったまま、少しだけ寄りかかった。
「奏斗」
「何だ」
「明日、墓参り行く」
押村は彼女を見る。
「研二さんと松田の?」
「ああ」
「一緒に行ってもいいか」
千速は少しだけ考えた。
そして、頷いた。
「来い」
押村は静かに答えた。
「行く」
千速は小さく息を吐いた。
「報告しねぇとな。犯人、捕まったぞって」
「はい」
「あと、東京タワーの爆弾は、眼鏡の少年が解体したって」
押村は少しだけ目を細めた。
「信じてもらえるだろうか」
千速はふっと笑った。
「研二は面白がる。陣平は疑う」
「そうか」
「で、二人でその子に会いに行きそうだ」
押村は静かに笑った。
千速はその横顔を見て、少しだけ目を細める。
「笑ったな」
「少し」
「いいよ。今日は笑っていい日だ」
押村は千速を見る。
「君も」
千速は少し黙った。
それから、小さく笑った。
「……そうだな」
東京タワーの赤い灯は、ここからは見えない。
けれど、その夜、千速の中で止まっていた何かが、ほんの少しだけ前へ進んだ。
研二は帰らない。
陣平も帰らない。
それでも、犯人は捕まった。
誰も死ななかった夜があった。
そして隣には、押村奏斗がいた。
千速はその手を握ったまま、夜道を歩き出した。
明日、二つの墓前に報告するために。