神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

36 / 52
なるべく原作に寄せているつもりです


第36話 東京タワーの赤い灯

その日の午後、神奈川県警捜査一課の空気は、妙にざわついていた。

 

最初に報せを受けたのは横溝重悟だった。

 

電話を切った直後、彼の顔つきが変わった。

 

坊主頭に鋭い目つき。

普段から威圧感のある男だが、その時の横溝は明らかに違っていた。

 

怒りではない。

 

緊張でもない。

 

もっと古く、もっと深い場所から滲み出るような硬さだった。

 

押村奏斗はすぐに気づいた。

 

「横溝警部」

 

横溝は低く答える。

 

「警視庁からだ」

 

会議室にいた刑事たちの動きが止まる。

 

横溝は受話器を置き、短く息を吐いた。

 

「東京都内に爆破予告が出た」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「場所は」

 

「複数候補。まだ特定中だ」

 

「犯人は」

 

横溝は一瞬だけ黙った。

 

その沈黙で、押村は嫌な予感を覚えた。

 

横溝は言った。

 

「七年前と三年前の爆弾事件に関わった犯人と同一の可能性がある」

 

空気が凍った。

 

押村の脳裏に、二人の名が浮かぶ。

 

萩原研二。

 

七年前、警視庁警備部機動隊・爆発物処理班。

爆弾解体中に殉職。

 

松田陣平。

 

三年前、警視庁捜査一課。

研二の仇を取ろうとし、観覧車内の爆弾解体中に殉職。

 

そして、その二人は。

 

萩原千速にとって、弟と、幼なじみのような存在だった。

 

横溝は苦い声で続ける。

 

「警視庁は都内各所で警戒態勢に入ってる。神奈川県警にも、県境周辺の検問と逃走経路封鎖の準備要請が来た」

 

押村はすぐに頷いた。

 

「了解しました」

 

「交通部にも連絡が行ってる。千速のところにもな」

 

押村の手が、ほんのわずかに止まった。

 

横溝はそれを見逃さない。

 

「押村」

 

「はい」

 

「仕事だ」

 

押村は顔を上げる。

 

「分かっています」

 

横溝は押村を睨むように見た。

 

「ならいい」

 

だが、その声には、押村自身への釘だけではなく、自分自身へ言い聞かせる響きもあった。

 

七年前。

 

横溝は、研二の殉職を千速に伝えた。

 

あの時、彼と千速はほぼ初対面だった。

 

三年前。

 

松田陣平が死んだ時も、横溝は千速のそばにいた。

 

そして今。

 

その犯人が、また動いたかもしれない。

 

押村は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 

第三交通機動隊の詰所では、千速がすでに指示を飛ばしていた。

 

「県境周辺の主要道路、東名、第三京浜、首都高接続部、全部確認しろ。警視庁から追加要請が来たら即応できるように隊を分ける」

 

「了解!」

 

新井が資料を持って駆け寄る。

 

「小隊長、爆破予告の対象はまだ不明。都内全域で警戒とのことです」

 

千速は資料を受け取る。

 

その表情は冷静だった。

 

あまりにも冷静だった。

 

新井は一瞬、言葉をためらった。

 

「小隊長……」

 

「何だ」

 

「大丈夫ですか」

 

千速の目が新井に向く。

 

鋭いが、怒ってはいなかった。

 

「大丈夫に見えねぇか」

 

新井は正直に言った。

 

「見えます。だから逆に心配です」

 

千速は少しだけ黙った。

 

それから、短く息を吐く。

 

「仕事中だ」

 

「はい」

 

「今は、私情を挟まねぇ」

 

「……はい」

 

千速は資料に目を落とす。

 

爆破予告。

 

同一犯の可能性。

 

研二。

陣平。

 

その名前を頭の中で呼んでも、千速の表情は変わらなかった。

 

泣かなかった。

 

叫ばなかった。

 

怒鳴りもしなかった。

 

けれど、握っていた資料の端だけが、少し折れていた。

 

その時、スマホが震えた。

 

奏斗からだった。

 

警視庁から要請が来た。こちらも動く。無理をするな。

 

千速は画面を見つめた。

 

少し前なら、ここで強がっていたかもしれない。

 

「分かってる」とだけ返して終わりにしたかもしれない。

 

だが、あの喧嘩の後だった。

 

黙らないこと。

 

隠さないこと。

 

一人で抱え込まないこと。

 

千速は短く返信した。

 

正直、腹は立ってる。でも仕事はする。そっちも無理すんな。

 

すぐに返事が来た。

 

分かった。何かあればすぐ言ってほしい。

 

千速は小さく息を吐いた。

 

「……分かってるよ」

 

新井が横から覗き込むようにして言う。

 

「押村警部補ですか」

 

千速はスマホを伏せた。

 

「仕事しろ」

 

「はい」

 

だが、新井は少し安心したように笑っていた。

 

午後五時過ぎ。

 

神奈川県警と警視庁の連絡線は慌ただしく動いていた。

 

爆破予告は複数の施設名を匂わせるものだったが、明確な場所は示されていない。

 

都内の高層建築物。

観光地。

駅。

公園。

人が集まる場所。

 

どこでもあり得る。

 

だからこそ、厄介だった。

 

横溝は会議室で警視庁からの情報を整理していた。

 

「爆弾犯は都内から出る可能性もある。こっちは県境で網を張る。押村、お前は逃走経路の予測を出せ」

 

「はい」

 

押村は地図を広げる。

 

「警視庁の警戒が都心部に集中するなら、犯人が逃走に使うのは首都高経由か、一般道で神奈川方面へ抜けるルートです。特に川崎、横浜方面への流入を警戒すべきです」

 

横溝が頷く。

 

「千速たち交通部にはその辺を見てもらう」

 

「はい」

 

村上がテレビをつけた。

 

「各局、速報を出しています」

 

画面には、都内の映像が映っていた。

 

物々しい警察車両。

規制線。

不安げに周囲を見る通行人。

 

アナウンサーの声が響く。

 

『警視庁によりますと、本日、東京都内の複数施設に対し爆破を示唆する予告があり――』

 

横溝は画面を睨む。

 

「報道が先走ると、余計混乱する」

 

押村は画面を見ながら言った。

 

「犯人は、それも計算に入れている可能性があります」

 

「目立ちたがりか」

 

「七年前と三年前の事件から考えると、警察を挑発する傾向があります」

 

横溝の顔が険しくなる。

 

「……胸糞悪ぃ野郎だ」

 

押村は何も言わなかった。

 

言えば、自分の中の怒りが形になりそうだった。

 

その時、テレビの画面が切り替わった。

 

『速報です。東京タワーの中で不審物が発見されたとの情報が入りました』

 

会議室の全員が画面を見る。

 

押村の手が止まる。

 

横溝が低く言った。

 

「東京タワー……」

 

アナウンサーは続ける。

 

『現在、警視庁の爆発物処理班が現場へ急行しているとのことです。東京タワー周辺では規制が敷かれ、観光客や職員の避難が進められています』

 

村上が青ざめる。

 

「東京タワーに爆弾……」

 

横溝はすぐ無線と電話で確認を始めた。

 

「警視庁につなげ。現場状況を確認しろ」

 

押村はテレビの前に立った。

 

東京タワー。

 

管轄外だ。

 

神奈川県警の押村たちは、現場へ入れない。

 

できることは、警視庁からの要請に備え、逃走経路と県境を固めること。

 

そして、テレビ越しに見守ることだけ。

 

それが、押村にはひどくもどかしかった。

 

千速も同じ頃、交通機動隊の詰所でテレビを見ていた。

 

誰も声を出さない。

 

画面の中では、東京タワーの赤い鉄骨が映っている。

 

その足元に、警察車両が集まり、規制線が張られている。

 

千速は立ったまま、画面を見つめていた。

 

七年前、研二は爆弾解体中に死んだ。

 

三年前、陣平も爆弾解体中に死んだ。

 

今また、誰かが同じ場所へ向かっている。

 

爆弾の前へ。

 

千速の拳が震えた。

 

新井がそっと言う。

 

「小隊長」

 

千速は低く答えた。

 

「大丈夫だ」

 

「でも」

 

「大丈夫だ」

 

それは、新井への返事ではなかった。

 

自分に言い聞かせる言葉だった。

 

神奈川県警本部の会議室では、テレビの音だけが響いていた。

 

アナウンサーの声は緊迫している。

 

『警視庁によりますと、不審物は東京タワーのエレベーター内で発見された模様です。現在、爆発物である可能性を含めて確認が進められています』

 

横溝は電話を切った。

 

「現場は警視庁が対応中。うちは周辺逃走支援なし。県境検問は継続だ」

 

押村は頷いた。

 

「了解しました」

 

「ただし、犯人が都内から出る可能性はまだある。気を抜くな」

 

「はい」

 

 

押村はテレビ画面を見た。

 

現場の映像は遠い。

 

規制線の向こう、人々の動きは小さくしか見えない。

 

だが、その中に、確かに小さな少年の姿が一瞬映った。

 

眼鏡をかけた男の子。

 

横溝が目を細める。

 

「……あのボウズか、」

 

押村はその言葉に、少しだけ引っかかるものを覚えた。

 

ただの小学生ではない。

 

横溝の口調が、そう物語っていた。

 

時間はゆっくりと進んだ。

 

五分。

十分。

十五分。

 

東京タワーの中で何が起きているのか、神奈川県警には断片的な情報しか入らない。

 

爆発物らしきものが確認された。

処理班が接近した。

避難はほぼ完了。

犯人から追加メッセージはなし。

 

横溝は苛立ちを隠さず、何度も時計を見た。

 

押村はテレビの画面と地図を交互に見ていた。

 

千速からメッセージが入る。

 

東京タワーの件、見てる。

 

押村はすぐ返した。

 

こちらも見ている。

 

少し間があって、次のメッセージ。

 

研二と陣平の時を思い出す。

 

押村は画面を見つめた。

 

千速が自分からそう書いた。

 

それだけで、押村は胸の奥が締めつけられるようだった。

 

けれど、彼女が言葉にしたことが大事だった。

 

押村は返信した。

 

今は一人で見るな。新井たちと一緒にいてほしい。

 

千速から返事が来る。

 

いる。大丈夫。

 

少し置いて、もう一文。

 

本当は現場に行きたい。でも管轄外だし、行っても邪魔になる。分かってる。

 

押村は静かに文字を打った。

 

分かっている君は強い。

 

しばらく返事がなかった。

 

やがて短く返ってきた。

 

そういうこと言うな。泣きそうになる。

 

押村はスマホを見つめた。

 

千速が泣きそうになると書いた。

 

でも泣かないのだろう。

 

きっと、テレビの前で真っ直ぐ立っている。

 

拳を握って。

 

研二と松田の名前を胸に抱えたまま。

 

押村は返信した。

 

終わったら会いに行く。

 

返事はすぐだった。

 

来い。

 

押村はスマホをしまった。

 

横溝が横目で見る。

 

「千速か」

 

「はい」

 

「大丈夫そうか」

 

押村は少し考える。

 

「大丈夫そうにしています」

 

横溝は低く息を吐いた。

 

「そういう奴だ」

 

「はい」

 

そして、速報が入った。

 

テレビの画面が切り替わり、アナウンサーの声が一段高くなる。

 

『ただいま新しい情報が入りました。東京タワーで発見された爆発物について、現場に居合わせた少年、江戸川コナンくんが解体に関与し、爆発を未然に防いだとのことです』

 

会議室が静まり返った。

 

村上が目を見開く。

 

押村も驚きを隠せなかった。

 

横溝は額に手を当てた。

 

「……眼鏡のボウズ」

 

「眼鏡のボウズ?」

 

「ああ。眠りの小五郎のいる毛利探偵事務所に居候してるらしい。事件現場で大人が気づかねぇことに、やたら気づく」

 

「眠りの小五郎ですか。横溝警部、お知り合いなんですか?」

 

「何回かな」

 

テレビでは、混乱した現場の様子が続いている。

 

『警視庁は詳細を明らかにしていませんが、爆発物はすでに無力化され、けが人はいないということです』

 

横溝が低く呟いた。

 

「またあのボウズか……」

 

村上が恐る恐る言う。

 

「横溝警部、本当に何者なんですか、その子」

 

「俺が聞きてぇよ」

 

押村は画面を見つめていた。

 

けが人はいない。

 

爆発は防がれた。

 

その事実に、胸の奥から力が抜ける。

 

研二の時は、防げなかった。

 

松田の時も、防げなかった。

 

でも今日は。

 

爆発しなかった。

 

誰も死ななかった。

 

押村はすぐ千速へメッセージを送った。

 

爆弾は解体された。けが人なし。

 

千速からの返事は少し遅れた。

 

見た。

 

それだけだった。

 

だが、その短い二文字の向こうに、どれほどの感情があるか、押村には分かった。

 

第三交通機動隊の詰所では、ニュース速報を見た隊員たちが一斉に息を吐いていた。

 

「けが人なし……」

 

「よかった……」

 

新井が千速を見る。

 

「小隊長」

 

千速はテレビを見つめたままだった。

 

画面には、東京タワーが映っている。

 

赤い鉄骨。

 

夕暮れの空。

 

その下で、警察車両のライトが点滅している。

 

千速は小さく呟いた。

 

「研二」

 

新井は何も言わなかった。

 

千速は続けて、もう一人の名前を呼ぶ。

 

「陣平」

 

声は震えていない。

 

でも、いつもより少し低かった。

 

「今日は、爆発しなかったぞ」

 

誰に向けた言葉なのか。

 

新井には分からなかった。

 

でも、その場にいた全員が、黙って聞いていた。

 

千速は拳をほどいた。

 

手のひらに、爪の跡が残っていた。

 

ほどなくして、警視庁から神奈川県警へ正式な連絡が入った。

 

横溝が電話を取る。

 

「横溝だ」

 

押村はその横顔を見ていた。

 

横溝の目がわずかに変わる。

 

「……確保?」

 

会議室の全員が反応する。

 

横溝は受話器を強く握った。

 

「本当か」

 

少し沈黙。

 

「分かった。詳細は追って共有してくれ」

 

電話を切る。

 

横溝は数秒黙っていた。

 

押村が静かに問う。

 

「横溝警部」

 

横溝は顔を上げた。

 

「爆弾犯を確保した」

 

会議室に、重い静寂が落ちた。

 

誰もすぐには声を出さなかった。

 

押村は息を吸った。

 

「……警視庁が?」

 

「ああ。犯人からの暗号解読して米花町近辺で身柄確保。七年前と三年前の事件への関与も含めて追及するそうだ」

 

村上が小さく言う。

 

「終わったんですか」

 

横溝はすぐには答えなかった。

 

「捜査としては、これからだ。だが少なくとも、身柄は押さえた」

 

押村はスマホを取り出した。

 

千速へ連絡する。

 

警視庁が爆弾犯を確保した。

 

既読はすぐについた。

 

返事は来なかった。

 

押村は立ち上がった。

 

横溝が見る。

 

「千速のところへ行くのか」

 

「はい」

 

「行け」

 

押村は少しだけ頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

横溝は目を逸らした。

 

「俺も後で行く」

 

押村は頷いた。

 

「はい」

 

千速は、第三交機の車庫にいた。

 

白バイが整然と並ぶ中、一人で立っていた。

 

いや、正確には一人ではなかった。

 

遠くに新井たちがいる。

 

だが、誰も近づかなかった。

 

千速が今、何を抱えているのか。

 

誰も簡単には踏み込めなかった。

 

押村はゆっくり歩いていった。

 

「千速」

 

千速は振り向かなかった。

 

「来たか」

 

「ああ」

 

「犯人、捕まったんだな」

 

「警視庁から連絡があった」

 

「そうか」

 

千速は白バイのミラーに手を置いた。

 

「捕まったのか」

 

「はい」

 

「研二を殺した奴が」

 

押村は静かに答える。

 

「その可能性が高い」

 

「陣平を殺した奴も」

 

「はい」

 

千速は少しだけ笑った。

 

笑った、というより、息が漏れたような声だった。

 

「遅ぇよ」

 

押村は何も言わなかった。

 

千速は続ける。

 

「七年だぞ。研二が死んでから」

 

「ああ」

 

「陣平が死んでからだって、三年だ」

 

「ああ」

 

「遅すぎる」

 

「そうだな」

 

千速の肩がわずかに震えた。

 

でも、涙は落ちない。

 

押村は一歩近づいた。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「今は、泣いてもいいと思う」

 

千速は振り向いた。

 

目は赤くなっていた。

 

でも、まだ泣いてはいなかった。

 

「泣けねぇよ」

 

「そうか」

 

「泣いたら、何か終わったみたいになる」

 

押村は静かに聞いていた。

 

千速は拳を握る。

 

「でも、研二は帰ってこねぇ。陣平も帰ってこねぇ。犯人が捕まっても、二人は戻らねぇ」

 

「はい」

 

「なのに、ほっとしてる自分もいる」

 

千速の声が少しだけ詰まる。

 

「それが、悔しい」

 

押村は千速の前に立った。

 

「ほっとしていい」

 

千速が押村を見る。

 

「いいのかよ」

 

「いい」

 

押村は真っ直ぐ言った。

 

「犯人がもう誰も殺せないことに、ほっとしていい。今日、誰も死ななかったことに、ほっとしていい」

 

千速の顔が歪む。

 

「……奏斗」

 

押村は静かに腕を広げた。

 

「ここにいる」

 

千速は一瞬だけ迷った。

 

それから、押村の胸に額を預けた。

 

押村はゆっくり抱きしめる。

 

強くではなく、逃げ道を残すように。

 

でも、確かに支えるように。

 

千速は押村の上着を掴んだ。

 

「悔しい」

 

「うん」

 

「腹立つ」

 

「うん」

 

「研二にも、陣平にも……言いたいこと、まだあった」

 

「うん」

 

「馬鹿野郎って、言いたかった」

 

「うん」

 

千速の声が、少しずつ震えていく。

 

「何で勝手に死んでんだって」

 

「うん」

 

「何で私より先に行ってんだって」

 

押村は何も遮らなかった。

 

ただ、相槌だけを返した。

 

千速がずっと言えなかった言葉を、今ようやく吐き出しているのだと分かったから。

 

少し離れた場所で、新井がそっと目を伏せた。

 

横溝がいつの間にか車庫の入口に立っていた。

 

彼も近づかない。

 

ただ、静かに見守っていた。

 

千速は押村の胸に顔を伏せたまま、小さく言った。

 

「今日、爆発しなくてよかった」

 

押村は頷く。

 

「ああ」

 

「あの眼鏡の少年、すげぇな」

 

「江戸川コナンか」

 

「小一なんだろ」

 

「らしい」

 

「何者だよ」

 

押村は少しだけ考える。

 

「横溝警部も同じことを言っていた」

 

千速は、ほんの少しだけ笑った。

 

ようやく、少しだけ。

 

「重悟、知ってんのか」

 

「何回か会っているそうだ。眼鏡のボウズ、と呼んでいた」

 

千速は小さく笑う。

 

「重悟らしいな」

 

その声に、少しだけ力が戻っていた。

 

押村は抱きしめた腕を緩める。

 

千速は顔を上げた。

 

目は潤んでいたが、涙は落ちていなかった。

 

それでも、さっきより呼吸は楽そうだった。

 

横溝がゆっくり近づいてくる。

 

「千速」

 

千速は袖で目元を乱暴に拭った。

 

「何だよ」

 

横溝は少し黙った。

 

それから、低く言った。

 

「捕まった」

 

「聞いた」

 

「七年前のことも、三年前のことも、これから全部吐かせる」

 

千速は横溝を見た。

 

横溝の目にも、怒りがあった。

 

千速だけの怒りではない。

 

押村だけの事件でもない。

 

横溝にとっても、あの日は消えていなかった。

 

千速は小さく頷いた。

 

「頼む」

 

横溝は短く答えた。

 

「ああ」

 

それだけだった。

 

でも、それで十分だった。

 

その夜、ニュースは東京タワー爆破未遂事件で持ちきりだった。

 

江戸川コナンという少年が爆弾の解体に関与したこと。

 

警視庁が爆弾犯を確保したこと。

 

詳細はまだ伏せられている。

 

けれど、都内を揺るがした爆破予告は、未遂に終わった。

 

神奈川県警の応援態勢も解除された。

 

第三交通機動隊も、捜査一課も、それぞれ通常体制へ戻っていく。

 

だが、千速の中では、何かが大きく動いた日だった。

 

夜。

 

押村と千速は、県警本部の外に並んで立っていた。

 

横溝は少し前に帰った。

 

帰り際に、

 

「今日は押村が送ってけ」

 

とだけ言い残して。

 

千速は夜空を見上げた。

 

「東京タワー、赤かったな」

 

「テレビ越しでも、よく見えた」

 

「あそこに爆弾か」

 

「はい」

 

「研二なら、文句言いながら解体しただろうな」

 

押村は黙って聞く。

 

千速は少し笑った。

 

「“姉ちゃん、心配しすぎ”とか言いそうだ」

 

「松田は?」

 

千速の目が少し遠くなる。

 

「陣平は……たぶん、煙草くわえながら“くだらねぇことしやがって”って言う」

 

「そうですか」

 

「で、研二に“陣平ちゃん、顔怖いよ”って茶化される」

 

千速はそこまで言って、少しだけ声を落とした。

 

「……見たかったな」

 

押村は静かに言った。

 

「はい」

 

千速は押村の手を取った。

 

「でも、今日誰も死ななかった」

 

「ああ」

 

「犯人も捕まった」

 

「ああ」

 

「だから、今日はそれでいい」

 

押村は頷いた。

 

「そうだな」

 

千速は押村の手を握ったまま、少しだけ寄りかかった。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「明日、墓参り行く」

 

押村は彼女を見る。

 

「研二さんと松田の?」

 

「ああ」

 

「一緒に行ってもいいか」

 

千速は少しだけ考えた。

 

そして、頷いた。

 

「来い」

 

押村は静かに答えた。

 

「行く」

 

千速は小さく息を吐いた。

 

「報告しねぇとな。犯人、捕まったぞって」

 

「はい」

 

「あと、東京タワーの爆弾は、眼鏡の少年が解体したって」

 

押村は少しだけ目を細めた。

 

「信じてもらえるだろうか」

 

千速はふっと笑った。

 

「研二は面白がる。陣平は疑う」

 

「そうか」

 

「で、二人でその子に会いに行きそうだ」

 

押村は静かに笑った。

 

千速はその横顔を見て、少しだけ目を細める。

 

「笑ったな」

 

「少し」

 

「いいよ。今日は笑っていい日だ」

 

押村は千速を見る。

 

「君も」

 

千速は少し黙った。

 

それから、小さく笑った。

 

「……そうだな」

 

東京タワーの赤い灯は、ここからは見えない。

 

けれど、その夜、千速の中で止まっていた何かが、ほんの少しだけ前へ進んだ。

 

研二は帰らない。

 

陣平も帰らない。

 

それでも、犯人は捕まった。

 

誰も死ななかった夜があった。

 

そして隣には、押村奏斗がいた。

 

千速はその手を握ったまま、夜道を歩き出した。

 

明日、二つの墓前に報告するために。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。