春の陽射しが、神奈川県警第三交通機動隊の車庫に差し込んでいた。
白く磨かれた白バイが、整然と並んでいる。
金属の光沢。
整備されたタイヤ。
ヘルメットの白。
それらは、萩原千速にとって日常の風景だった。
「新井、二号車のタイヤ圧、確認したか」
「はい、小隊長。規定値です」
「ブレーキも見たな」
「異常なしです」
新井拓也。
千速の部下で、若手の白バイ隊員。
真面目で、少し緊張しやすいところはあるが、腕は確かだった。
千速は腕を組み、新井の白バイを見た。
「今日の重点は国道沿いの速度違反と、通学路周辺の危険運転だ。無理に追うな。逃げる車両が出たら、まず周囲の安全を優先しろ」
新井は背筋を伸ばす。
「了解しました」
「返事だけよくても駄目だぞ」
「分かってます」
千速は少し目を細めた。
「分かってる奴ほど、現場で熱くなる」
新井は苦笑する。
「小隊長に言われると説得力があります」
「どういう意味だ」
「いえ、何でもありません」
千速が軽く睨むと、新井は慌ててヘルメットを抱えた。
そのやり取りを見ていた隊員たちが小さく笑う。
平穏な朝だった。
いつも通りの点検。
いつも通りの出動前確認。
いつも通りの千速の叱咤。
けれど、その平穏は、数時間後に破られることになる。
午前十時二十二分。
新井は国道沿いの巡回を終え、住宅街へ抜ける県道に入っていた。
通学路の時間帯は過ぎているが、歩行者は多い。
新井は速度を落とし、左側の歩道と横断歩道を確認しながら走る。
その時だった。
後方から、低いエンジン音が近づいてきた。
大型バイク。
ミラーの端に映ったのは、黒い車体だった。
ライダーは黒いフルフェイスヘルメット。
黒いジャケット。
黒いグローブ。
全身が黒かった。
新井は一瞬だけ警戒した。
追い抜きか。
そう思った直後、黒いバイクが急加速した。
白バイの右側へ並ぶ。
新井が視線を向けた瞬間、黒いライダーの左手が伸びた。
銀色の棒のようなもの。
「え――」
次の瞬間、強い衝撃が新井の右腕を打った。
ハンドルがぶれる。
「くっ!」
新井は必死に姿勢を戻す。
黒いバイクはそのまま前へ出ると、今度は急減速して進路を塞いだ。
新井はブレーキをかける。
タイヤが鳴る。
前方には横断歩道。
左には自転車の高齢者。
右には対向車。
転倒すれば巻き込む。
新井は歯を食いしばり、車体を倒し込みながら黒いバイクを避けた。
白バイのステップが路面を擦る。
火花が散る。
わずかに車体が跳ねた。
それでも新井は持ちこたえた。
「こちら第三交機、新井! 黒色大型バイクに進路妨害を受けた! 現在――」
無線に手を伸ばした瞬間、黒いバイクが再び横へ並んだ。
今度は後輪付近に何かを投げた。
小さな金属片。
それが路面に散らばる。
「撒菱……!?」
前輪がわずかに弾かれる。
新井は咄嗟に体重を逃がしたが、完全には避けきれなかった。
白バイが大きく揺れる。
ハンドルが取られる。
視界が傾く。
それでも新井は最後まで、歩道へ突っ込まないよう車体を右へ逃がした。
白バイはガードレールに接触し、激しい音を立てて停止した。
黒いバイクは振り返りもせず、路地の奥へ消えた。
新井は倒れた白バイの横で、荒く息を吐いた。
右腕が痺れている。
膝も打った。
だが意識はある。
「……小隊長に怒られるな」
そう呟いた直後、痛みが遅れて襲ってきた。
連絡を受けた千速は、誰よりも早く現場へ到着した。
白バイを降りるなり、新井の姿を探す。
救急隊員に処置されている新井を見つけると、千速は一直線に歩いた。
「新井!」
新井は顔を上げる。
「小隊長……すみません」
千速はその言葉に眉を寄せた。
「謝るな。怪我は」
「右腕の打撲と、膝を少し。骨はたぶん大丈夫です」
「たぶんで済ませるな。検査受けろ」
「はい」
千速は新井の白バイを見た。
右側面に擦過痕。
ガードレールへの接触跡。
後輪付近には金属片が散らばっている。
新井は低い声で言った。
「狙われました」
千速の目が鋭くなる。
「相手は」
「黒い大型バイクです。フルフェイス。ナンバーは泥か何かで隠されていました」
「一人か」
「はい。たぶん男です。体格は大きめ。ただ、断定はできません」
「攻撃されたのは?」
「最初に右腕を棒のようなもので殴られました。その後、進路を塞がれて、最後に金属片を撒かれました」
千速は路面を見た。
白バイのタイヤ痕が蛇行している。
新井が転倒を避けようとした跡だ。
そして、歩道側へ逃げず、右へ流してガードレールに当てている。
千速は新井を見る。
「よく歩道へ行かなかった」
新井は少しだけ笑う。
「小隊長に、周囲の安全優先って言われましたから」
千速は一瞬だけ黙った。
それから、新井のヘルメットを軽く叩く。
「よくやった」
新井の表情が少し緩む。
「ありがとうございます」
しかし、千速の目は笑っていなかった。
白バイ隊員が、白昼堂々、バイクに襲われた。
偶然ではない。
明確に、狙っている。
千速は路面に落ちていた金属片を見た。
三角形に加工された小さな鋼片。
タイヤを裂くためのものだ。
「白バイ狩りかよ……」
千速の声は低かった。
そこへ、捜査一課の車両が到着した。
降りてきたのは、押村奏斗と横溝重悟だった。
横溝は現場を見るなり、顔をしかめた。
「派手にやりやがったな」
押村は新井の方を見る。
「新井隊員の容体は」
千速が答える。
「命に別状はない。だが右腕と膝をやられてる」
押村は静かに頷く。
「そうか」
その声に、安堵と怒りが混じっていた。
千速は押村を見る。
「奏斗」
「何だ」
「これは事故じゃない」
押村は路面の金属片を見た。
「分かっている」
横溝が鑑識へ指示を出す。
「路面の金属片を全部拾え。ガードレール、白バイの接触部、タイヤ痕、全部記録しろ。周辺の防犯カメラも押さえろ」
「はい!」
押村は現場をゆっくり歩いた。
黒いバイクはどこから近づき、どこで新井の白バイに並び、どこで攻撃したのか。
路面の痕跡を追う。
千速も隣に並ぶ。
「相手は走り慣れてる」
押村が聞く。
「なぜそう思う」
「新井の進路を塞いだ場所がいやらしい。横断歩道、自転車、対向車。新井が強引に追えない状況を選んでる」
「なるほど」
「それに、撒菱を投げたタイミングも最悪だ。少しでも慌てたら歩道に突っ込んでた」
押村は千速を見る。
「新井隊員の腕がよかったから、被害が抑えられた」
「ああ」
千速の声が硬くなる。
「殺す気だったかもしれない」
押村は否定しなかった。
横溝が二人のところへ来る。
「押村、千速。周辺のカメラ映像が出た」
村上がタブレットを持ってくる。
映像には、黒いバイクが映っていた。
新井の白バイに並ぶ直前の映像。
ナンバーは隠されている。
車種もはっきりしない。
ただ、黒いバイクの後部に、小さなステッカーのようなものが見えた。
千速が目を細める。
「止めろ」
村上が映像を止める。
千速は画面を拡大した。
そこには、白い線で描かれた図案があった。
翼のようにも見える。
だが、割れた羽ではない。
二本の白い線が交差した、稲妻のような形。
押村が呟く。
「マークか」
横溝が眉をひそめる。
「暴走族か?」
千速は首を横に振った。
「今のところ、見覚えはない」
新井が救急車に乗せられる直前、声を上げた。
「小隊長!」
千速が振り返る。
新井は痛みに顔をしかめながらも言った。
「相手、変なことを言ってました」
千速が近づく。
「何だ」
「最初に並ばれた時、インカム越しじゃないのに聞こえたんです。たぶん叫んでました」
「何て」
新井は記憶を探るように眉を寄せた。
「“一人目”って」
その場の空気が変わった。
横溝の目が鋭くなる。
「一人目?」
押村が低く言った。
「つまり、次がある」
千速の拳が強く握られた。
「白バイ隊員を順番に狙うつもりか」
押村は黒いバイクの映像を見た。
一人目。
黒い大型バイク。
白バイへの襲撃。
謎のマーク。
これは始まりだ。
犯人は、ただ逃げたのではない。
宣言している。
まだ続けると。
その日の夕方。
神奈川県警の会議室には、交通部と捜査一課の合同捜査班が置かれた。
ホワイトボードには、事件名が仮で書かれている。
白バイ隊員襲撃事件
横溝が前に立つ。
「被害者は第三交機所属、新井拓也巡査部長。命に別状はないが、右腕打撲、膝部損傷。犯行に使われたのは黒色大型バイク。凶器は棒状のもの、加えてタイヤ損傷を狙った金属片」
千速は腕を組んだまま聞いていた。
押村は映像資料を示す。
「犯人は新井隊員の走行ルートを把握していた可能性があります」
村上が頷く。
「待ち伏せですか」
「はい。新井隊員があの時間、あの県道に入ることを知っていなければ、あの位置で襲撃するのは難しい」
横溝が低く言う。
「内部情報か」
会議室が重くなる。
千速が即座に言った。
「第三交機の中に犯人がいるって言いたいのか」
押村は千速を見る。
「断定はしていない」
「でも可能性は見てる」
「はい」
千速は押村の目を見た。
少し前なら、ここで感情的になっていたかもしれない。
部下を疑われたと思って。
だが、今は違う。
捜査には必要な視点だ。
千速は短く息を吐いた。
「分かった。隊員の勤務予定と共有範囲は全部出す」
横溝が頷く。
「助かる」
押村は続けた。
「ただし、犯人が外部からルートを読んだ可能性もあります。白バイ隊員の巡回ルートはある程度パターン化されます。観察を続ければ予測は可能です」
千速が言う。
「狙いが新井個人なのか、白バイ隊員全体なのかもまだ分からない」
「はい」
押村はホワイトボードに書く。
標的:新井個人?/白バイ隊員全体?
横溝が映像のマークを指す。
「このマークを洗え。暴走族、旧車會、違法レース、バイク系SNS、全部だ」
「はい!」
千速は映像をじっと見ていた。
黒いバイクの走り方。
車線変更の癖。
加速の間。
体重移動。
どこかで見たような気がした。
だが、思い出せない。
押村が隣に来る。
「千速」
「何だ」
「何か気づいたか」
「まだ分からねぇ。ただ、こいつは速いだけじゃない。白バイの動きも分かってる」
「元白バイ隊員?」
「可能性はある。でも、それだけじゃない」
千速は画面の黒いバイクを指した。
「こいつ、新井を転ばせようとはしてる。でも一般人を巻き込まない位置を選んでる」
押村の目が動く。
「殺意が曖昧ということか」
「ああ。新井を潰す気はある。でも無差別じゃない」
横溝が二人を見る。
「じゃあ何だ。白バイに恨みがある奴か」
千速は低く言った。
「たぶん、白バイの誰かに見せつけたいんだ」
押村はその言葉を受け止める。
「見せつけたい相手」
「新井じゃないかもしれない」
千速の視線が、黒いバイクの映像から離れない。
「一人目って言ったんだろ。なら次がある。しかも、わざとそう伝えた」
押村が静かに言う。
「犯人は、恐怖を広げようとしている」
横溝が低く唸る。
「隊全体を狙った挑発か」
会議室の空気がさらに重くなった。
その時、村上が端末を見て声を上げた。
「警部、押村警部補。このマーク、似たものが出ました」
全員の視線が集まる。
村上は画面を大型モニターに映した。
そこには、数年前に摘発された違法バイクチームの記事が表示されていた。
チーム名。
BLACK LANCE
黒い槍。
ロゴは、二本の白い線が交差した稲妻のような印。
千速の目が鋭くなった。
「こいつら……」
押村が尋ねる。
「知っているのか」
千速は少しだけ顎を引いた。
「五年前、私が追ったことがある」
横溝が眉をひそめる。
「五年前?」
「ああ。違法レースで一般車両を巻き込んだ。私が白バイで追跡して、一人捕まえた」
押村は静かに聞く。
千速は続けた。
「その時、逃げた主犯格がいた」
「名前は」
千速は画面を睨んだ。
「倉木怜央」
村上が検索する。
「倉木怜央……当時二十六歳。危険運転、道路交通法違反、傷害容疑で指名手配歴あり。ただし、その後逮捕記録は……」
村上の手が止まる。
「三年前、事故死しています」
千速が眉を寄せる。
「事故死?」
「はい。山中の県道でバイク転倒。単独事故として処理されています」
横溝が低く言う。
「死んでる奴が襲ってくるわけねぇな」
押村は画面を見つめた。
「倉木怜央の関係者を洗う必要があります」
千速の表情は険しかった。
五年前。
違法バイクチーム。
逃げた主犯格。
三年前の事故死。
そして今、白バイ隊員への襲撃。
過去の道路が、現在へつながり始めている。
夜。
千速は第三交機の車庫で、新井の白バイを見ていた。
修理に回す前の車体。
傷ついた右側面。
擦れたステップ。
衝撃の跡。
「悪かったな」
白バイに向かって、千速は小さく言った。
「お前も新井も、よく耐えた」
背後から足音がした。
押村だった。
「まだ残っていたのか」
千速は振り向かずに答える。
「お前こそ」
「君がここにいる気がした」
「何だそれ」
「当たった」
千速は少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「新井、悔しそうだった」
押村は隣に立つ。
「そうだろうな」
「白バイ隊員が、バイクに襲われたんだ。しかも取り逃がした」
「彼は一般人を守った」
「分かってる」
千速は白バイの傷を見つめる。
「でも悔しいんだよ。新井も、私も」
押村は静かに言う。
「犯人を捕まえる」
千速は押村を見る。
「当たり前だ」
「ただ、君が標的になる可能性がある」
千速は少し笑う。
「むしろ、私が本命かもしれねぇな」
押村の表情がわずかに硬くなる。
千速はそれに気づいた。
「奏斗」
「何だ」
「黙って一人で抱え込むなよ」
押村は目を伏せる。
「言われると思った」
「言うに決まってる」
「君も、一人で追わないでほしい」
千速は白バイを見た。
「追いたくなっても?」
「はい」
「相手が目の前にいても?」
「応援を呼んで、安全を確保してから」
千速は少し不満そうに顔をしかめる。
「つまんねぇ答え」
「刑事としての答えだ」
「恋人としては?」
押村は千速を見る。
「無事でいてほしい」
千速は一瞬黙った。
そして、顔を少し赤くして視線を逸らす。
「……そういうこと言うな」
「聞かれたから答えた」
「真面目か」
「はい」
千速は小さく笑った。
でも、その笑いはすぐに消えた。
車庫の外から、白バイのサイレンが遠く聞こえた。
いや。
白バイではない。
バイクのエンジン音。
低く、鋭い音。
千速と押村が同時に振り向く。
車庫の外、道路の向こう。
一台の黒い大型バイクが、街灯の下に停まっていた。
黒いフルフェイス。
黒いジャケット。
後部には、白い交差線のマーク。
押村が低く言う。
「犯人……」
千速の目が鋭くなる。
黒いライダーは、こちらを見ていた。
そして、ゆっくりと右手を上げた。
指を一本立てる。
一人目。
次に、二本目の指を立てた。
二人目。
千速が白バイへ走ろうとした。
押村が腕を掴む。
「千速!」
「離せ!」
「罠だ!」
黒いバイクはそのまま急発進した。
夜の道路へ消えていく。
千速は悔しそうに歯を食いしばる。
「くそっ!」
押村はすぐ無線を入れた。
「黒色大型バイク、第三交機前から逃走。県道方面へ向かった。追跡班を回してください」
横溝の声が返る。
『見せに来やがったか』
「はい」
『挑発だ。千速を出すな』
千速が無線に向かって怒鳴る。
「聞こえてるぞ、重悟!」
横溝の声は冷静だった。
『なら聞け。今追えば奴の思う壺だ』
千速は拳を握る。
押村はその横で、黒いバイクが消えた方向を見つめた。
犯人は逃げたのではない。
宣戦布告に来た。
新井は一人目。
次は二人目。
標的は、第三交通機動隊。
そしておそらく。
萩原千速。
押村は静かに言った。
「この事件、必ず止める」
千速は悔しさを飲み込み、低く答えた。
「ああ。絶対に捕まえる」
夜の道路に、黒いバイクのエンジン音だけが残っていた。
白バイを狙う影は、まだ走り続けている。