黒いバイクが第三交通機動隊の前に現れた翌朝。
神奈川県警の会議室には、第三交通機動隊と捜査一課の資料が並べられていた。
ホワイトボードには、黒いバイクの映像が貼られている。
後部にある白い交差線のマーク。
BLACK LANCE
五年前、違法レースで一般車両を巻き込んだバイクチーム。
そして、その主犯格だった男。
倉木怜央
三年前に単独事故で死亡。
押村奏斗は、その名前の横に赤い線を引いた。
「倉木怜央本人は死亡しています。ですが、今回の犯人はBLACK LANCEのマークを使っている」
横溝重悟が腕を組む。
「倉木の関係者か、チームの残党か」
「その可能性が高いです」
千速は席に座らず、壁際に立ったまま映像を見ていた。
黒いバイク。
細い車間を抜ける時の角度。
白バイを誘うような減速。
逃げる時のライン取り。
速い。
だが、それだけではない。
相手は、白バイ隊員がどう動くかを知っている。
横溝が言った。
「千速。五年前の件をもう一度話せ」
千速は腕を組んだまま頷いた。
「五年前、BLACK LANCEは深夜の湾岸線周辺で違法レースを繰り返してた。一般車を巻き込む危険運転も多かった」
押村が資料をめくる。
「摘発時の記録では、複数台が逃走。逮捕されたのは末端の二名。主犯格の倉木怜央は逃走」
「ああ」
千速の声が少し低くなる。
「その時、私は倉木を追った。かなり無茶な走りだった。首都高から一般道へ降りて、住宅街へ逃げようとした」
横溝が眉をひそめる。
「逃がしたのか」
千速は横溝を見る。
「途中で追跡を打ち切った」
「なぜだ」
「奴が通学路へ突っ込もうとしたからだ。時間帯は夜だったが、歩行者がいた。追えば巻き込む可能性があった」
押村は静かに聞いていた。
千速は続ける。
「私は追うのをやめた。結果、倉木は逃げた」
会議室に少し沈黙が落ちる。
千速は平然としているように見えた。
だが、押村には分かった。
その時の判断を、千速は今でも覚えている。
横溝が低く言った。
「判断としては正しい」
「分かってる」
千速は短く答えた。
「でも、その後も倉木は逃げ続けた。そして三年前、山中の県道で死んだ」
押村が資料を確認する。
「倉木怜央の死亡事故。場所は箱根方面へ向かう県道。深夜、カーブを曲がりきれず転倒。発見時、単独事故と判断されています」
村上が続ける。
「事故処理は地元署です。現場に他車両の接触痕はなく、ブレーキ痕も薄い。速度超過の可能性が高いと」
千速の眉がわずかに動く。
「速度超過……」
押村が千速を見る。
「何か気になるのか」
「倉木は確かに無茶な走りをする。でも、カーブで単独転倒するほど下手じゃない」
横溝が言う。
「事故に見せかけた何かがあったってことか?」
「まだ分からねぇ。ただ、あいつならギリギリで立て直すと思う」
押村はホワイトボードに書いた。
三年前の倉木事故:再調査
横溝が頷く。
「倉木の遺族、元チームメンバー、事故現場。全部当たれ」
「はい!」
その時、会議室の扉が開いた。
新井が入ってくる。
右腕には包帯。
膝にも軽い固定具。
千速が即座に顔をしかめた。
「新井。病院にいろって言っただろ」
新井は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。でも、どうしても直接伝えたいことがあって」
横溝が言う。
「何だ」
新井はテーブルに一枚の写真を置いた。
「襲われた時、黒いバイクのライダーの左手首が見えました」
千速が目を細める。
「手首?」
「はい。グローブと袖の隙間に、傷跡みたいなものがありました」
押村が写真を見る。
それは、新井が記憶を頼りに簡単に描いたものだった。
左手首に、斜めに走る白い傷。
新井は続けた。
「古い火傷か、切り傷みたいな。一直線ではなくて、少し歪んでました」
村上がすぐに端末を操作する。
「倉木怜央の元メンバーで、左手首に傷がある人物を探します」
千速は新井を見る。
「よく覚えてたな」
「悔しくて、何回も思い出してたので」
千速は少しだけ表情を緩めた。
「無理すんな」
「はい。でも、次は逃がしたくないです」
千速は新井の目を見た。
そこには怒りがあった。
恐怖もある。
でも、それより強い悔しさがあった。
千速は低く言った。
「その気持ちは分かる。でも今のお前は追う側じゃない。証言する側だ」
新井は唇を噛む。
「……はい」
押村はそのやり取りを見ながら、静かに口を開いた。
「新井隊員」
「はい」
「あなたが生きていてくれたから、犯人の情報が増えました」
新井が押村を見る。
押村は続ける。
「追えなかったのではありません。市民を守って、生き残って、情報を持ち帰った。それは重要な成果です」
新井は一瞬、目を伏せた。
「ありがとうございます」
千速は押村を横目で見た。
「奏斗」
「何だ」
「今のは、いい言い方だった」
押村は少しだけ戸惑った。
「そうか」
横溝がぼそっと言う。
「褒められて固まるな」
会議室に、少しだけ空気が戻った。
だが、その直後。
村上の端末が鳴った。
「警部!」
「何だ」
「BLACK LANCEの元メンバーに該当者がいます。左手首に大きな傷跡あり」
画面に一人の男の顔写真が映し出された。
短く刈った髪。
鋭い目。
痩せた頬。
矢代悟。三十二歳。
村上が続ける。
「五年前の摘発時には逃走。倉木怜央の側近格です。三年前、倉木の事故後に一度事情聴取を受けていますが、不起訴。その後、所在不明期間があり、現在は川崎市内のバイク修理工場で働いています」
千速の目が鋭くなる。
「矢代……」
押村が尋ねる。
「知っているのか」
「ああ。五年前、倉木の後ろを走ってた奴だ。腕はかなり良かった」
横溝が言う。
「そいつが今回の黒バイクか」
「可能性はあります」
押村は写真を見つめる。
「ただ、簡単すぎる気もします」
横溝が眉を寄せる。
「どういうことだ」
「犯人はBLACK LANCEのマークを隠していません。むしろ見せている。さらに、手首の傷も新井隊員に見える位置で残している」
千速が続ける。
「矢代にたどり着かせたいってことか?」
「その可能性もあります」
横溝が舌打ちする。
「容疑者に見せかけた囮か」
押村は頷く。
「断定する前に、慎重に確認しましょう」
千速は画面の矢代を見た。
五年前の夜を思い出す。
黒いバイクの列。
耳を裂くようなエンジン音。
赤信号を無視して逃げる尾灯。
そして、自分が追跡をやめた瞬間。
あの時の選択は正しかった。
それでも、逃がした事実は残っている。
「矢代に会いに行く」
千速が言うと、押村がすぐに見た。
「一緒に行く」
「当然だ」
横溝も立ち上がる。
「俺も行く。相手が白バイ絡みなら、交通部だけに任せねぇ」
千速は少し笑った。
「頼もしいな、重悟」
「茶化すな」
「茶化してねぇよ」
押村は資料を手に取った。
事件はようやく、人の顔を持ち始めた。
だが、その顔が本物とは限らない。
黒いバイクはまだ、道路のどこかを走っている。
矢代悟が働いているというバイク修理工場は、川崎市内の倉庫街にあった。
看板は古びているが、敷地内には整備中のバイクが何台も置かれている。
その奥で、作業着姿の男が一台の大型バイクを整備していた。
矢代悟。
写真よりも痩せて見える。
左手首には、確かに古い傷跡があった。
横溝が警察手帳を見せる。
「神奈川県警だ。矢代悟だな」
矢代は工具を置いた。
「……また警察か」
千速が一歩前へ出る。
「久しぶりだな、矢代」
矢代は千速を見た。
一瞬、目が鋭くなる。
「萩原千速」
「覚えてたか」
「忘れるわけないだろ。倉木を追った白バイだ」
押村は二人の間の空気を観察していた。
敵意はある。
だが、それだけではない。
矢代の目には、どこか疲れがある。
横溝が問う。
「昨日、第三交通機動隊の白バイ隊員が黒い大型バイクに襲われた」
矢代は表情を変えない。
「ニュースで見た」
「お前の手首の傷と似た特徴が目撃されている」
矢代は左手首を見た。
「だから俺だと?」
千速が低く言う。
「違うなら証明しろ」
矢代は鼻で笑った。
「五年前から変わらないな。押しが強い」
「お前もな」
押村が静かに入る。
「昨日の午前十時二十二分、どこにいましたか」
矢代は押村を見る。
「ここだ」
「証明できる人は」
「店長と客が一人いた」
「確認します」
「ああ、好きにしろ」
矢代は工具を拾い直そうとした。
横溝が止める。
「まだ終わってねぇ」
矢代は苛立ったように顔を上げる。
「何だよ」
押村は質問を変えた。
「倉木怜央さんの事故について聞きたい」
その名前が出た瞬間、矢代の表情が変わった。
怒り。
悲しみ。
そして、何かを隠すような硬さ。
「怜央は関係ない」
千速が見逃さなかった。
「関係ないって言い方は変だな」
矢代は千速を睨む。
「死人を掘り返すな」
横溝が低く言う。
「その死人の名前で、白バイ隊員が襲われてんだよ」
矢代の目が揺れた。
「……何?」
押村は静かに言った。
「犯人のバイクに、BLACK LANCEのマークがありました」
矢代は完全に動きを止めた。
「嘘だろ」
千速が問う。
「心当たりは?」
矢代はしばらく黙った。
そして、工場の奥を見た。
「……怜央の妹に会ったか」
押村の目が動く。
「妹?」
「倉木美緒。怜央の妹だ」
村上が端末で確認する。
「倉木美緒、二十八歳。現在、横浜市内在住。職業はデザイナー。兄の事故後、警察に何度か再捜査を求める文書を出しています」
千速が矢代を見る。
「美緒がやったって言いたいのか」
矢代は首を横に振った。
「違う。美緒はバイクに乗れない」
「じゃあ何で名前を出した」
矢代は苦い顔をした。
「最近、妙な奴が美緒の周りをうろついてた」
押村が問う。
「妙な奴?」
「バイク乗りだ。顔は見てない。黒いフルフェイス。美緒に“兄の仇を取れる”って言ってたらしい」
千速の目が鋭くなる。
「兄の仇?」
矢代は千速を見た。
「怜央の妹は、今でも兄貴の事故は警察のせいだと思ってる」
千速の表情が硬くなる。
「私のせいだってことか」
矢代は答えなかった。
沈黙が、肯定に近かった。
横溝が苛立ったように言う。
「倉木は単独事故だろ」
矢代は低く言った。
「そう処理された。でも美緒は信じてない」
押村が尋ねる。
「あなたは?」
矢代は少し黙る。
「俺は……分からない」
「分からない?」
「あの日、怜央は誰かに呼び出されてた」
千速が一歩近づく。
「誰に」
「知らない。だけど、電話で“白バイの女に会わせる”って言われたらしい」
千速の顔色が変わる。
「私?」
「怜央はそう思って出て行った。あんたが来るって」
押村が千速を見る。
千速は明らかに驚いていた。
「私は呼んでない」
矢代は言う。
「だろうな。だから変なんだよ」
横溝が低く唸る。
「誰かが千速の名前を使って倉木を呼び出した」
押村は静かに続ける。
「そして倉木怜央は事故死した」
千速は拳を握った。
五年前、自分が追って逃がした男。
三年前、自分の名前で呼び出されて死んだかもしれない男。
そして今、その死を理由に、部下が襲われた。
押村が言った。
「矢代さん。あなたにアリバイ確認の協力をお願いします。それと、倉木美緒さんへの接触情報を詳しく教えてください」
矢代は少し迷った後、頷いた。
「分かった」
千速が低く言う。
「矢代」
「何だ」
「もしお前が何か隠してるなら、今言え」
矢代は千速を見た。
「隠してることはある」
横溝が眉を動かす。
「何だ」
矢代は工場の奥へ歩き、古い段ボール箱を持ってきた。
中から出てきたのは、壊れたバイク用のアクションカメラだった。
「怜央の事故車から、俺が持ち出した」
千速が目を見開く。
「事故車から?」
「警察に渡せば都合よく消えると思った」
横溝が声を荒げる。
「証拠隠しじゃねぇか!」
矢代は横溝を睨む。
「ああ。悪かったよ。でも、俺は警察を信用してなかった」
押村はカメラを見た。
「データは」
「壊れて見られなかった。でも、メモリーカードは残ってる」
矢代は小さなカードを押村へ差し出した。
「怜央が死んだ夜、何が映ってるかは知らない」
押村は慎重に受け取った。
「確認します」
千速はメモリーカードを見つめた。
三年前の事故。
そこに、今回の事件の鍵がある。
そんな気がした。
県警へ戻る車の中。
千速は窓の外を見ていた。
押村は運転席の横に座り、資料を確認している。
横溝は後部座席で腕を組んでいた。
「千速」
押村が呼ぶ。
「何だ」
「倉木怜央の事故に、君は関与していない」
千速は少し笑った。
「まだ何も言ってねぇぞ」
「言いそうだった」
「そんなに分かりやすいか」
「はい」
後部座席から横溝が言う。
「分かりやすいな」
千速はため息をつく。
「二人して言うな」
押村は資料を閉じた。
「犯人は、君に罪悪感を持たせたいのかもしれない」
千速の目が少し鋭くなる。
「私を狙ってるってことか」
「はい。ただし、直接ではなく周囲から」
横溝が低く言う。
「新井を一人目にしたのも、そのためか」
押村は頷く。
「千速の部下を襲えば、千速に最も効く」
千速は唇を結んだ。
その通りだった。
新井が襲われた。
それだけで、千速の中には怒りが生まれた。
そして、もし倉木の死に自分の名前が使われていたとすれば。
犯人は、千速の過去を掘り返している。
横溝のスマホが鳴った。
「横溝だ」
数秒後、横溝の顔が険しくなる。
「何だと?」
押村と千速が同時に見る。
横溝は短く返事をし、電話を切った。
「矢代のアリバイが取れた。昨日の新井襲撃時、工場にいた」
千速が息を吐く。
「やっぱり違ったか」
「それだけじゃねぇ」
横溝は二人を見る。
「二人目が出た」
千速の顔が変わる。
「誰だ」
「第三交機の別隊員。名前は佐伯。巡回中、黒いバイクに尾行された。接触はなし。ただし、現場にこれが残されてた」
横溝は送られてきた画像を見せる。
路面に置かれた黒い封筒。
そこには白い交差線のマーク。
中には一枚の紙。
二人目はまだ走っている。
三人目は、隊長の前で折れる。
千速の目が、鋭く燃えた。
「ふざけやがって……」
押村は低く言った。
「三人目は、千速の前で襲うという予告です」
横溝が運転手へ言う。
「県警へ急げ」
車内に緊張が走る。
犯人は次へ進んでいる。
一人目は新井。
二人目は警告。
そして三人目は、千速の前で折る。
白バイ隊員を襲う黒い影は、ただ復讐しているだけではない。
千速に見せるために、走っている。
その夜。
解析班が矢代から受け取ったメモリーカードの復元に取りかかった。
データは破損していたが、一部の映像が回復できた。
押村、千速、横溝は解析室のモニター前に立つ。
画面はノイズだらけだった。
夜の山道。
倉木怜央のバイク視点。
エンジン音が荒い。
速度はかなり出ている。
やがて前方に、一台の車が映った。
白ではない。
赤い小型車。
その車が、急に減速する。
倉木のバイクが避けようとする。
その瞬間、画面の端に何かが映った。
道路脇に立つ人物。
黒いヘルメット。
そして、その人物が掲げているもの。
白バイ用のヘルメットに似た、白いヘルメット。
千速が息を止めた。
「何だ、これ……」
映像は激しく揺れ、直後に途切れた。
横溝が低く言う。
「倉木は、白バイ隊員がいると思って動揺した?」
押村は映像を巻き戻す。
黒いヘルメットの人物。
白いヘルメット。
そして赤い小型車。
「事故は単独ではない可能性があります」
千速は画面を睨んだ。
「誰かが倉木を罠にかけた」
押村は静かに頷く。
「そして今、その誰かが倉木の死を利用しているのかもしれない」
千速の拳が震える。
「私の名前を使って倉木を呼び出した奴と、今の黒バイクが同じとは限らないってことか」
「はい」
横溝が腕を組む。
「つまり、三年前の事件の犯人が別にいて、今回の犯人はそいつを探してる可能性もある」
押村はモニターの赤い小型車を見た。
「まずはこの車を特定します」
村上が映像を拡大する。
ナンバーは見えない。
だが、リアガラスに小さなステッカーが貼られていた。
押村が目を細める。
「これは……」
千速が画面に近づく。
ステッカーには、白い犬の絵。
その下に小さな文字。
SAKURA PET CLINIC
村上がすぐ検索する。
「さくら動物病院……県内に複数あります」
横溝が言う。
「当時、そのステッカーを配っていた病院を洗え。赤い小型車の登録もだ」
「はい!」
千速は画面から目を離さなかった。
三年前の夜。
倉木怜央の事故。
赤い車。
黒いヘルメット。
偽の白バイヘルメット。
そして今、黒いバイクは三人目を狙うと予告している。
押村が千速の横に立った。
「千速」
「何だ」
「三人目を出さない」
千速は押村を見る。
「当たり前だ」
「そのためには、君が囮になる可能性もある」
千速は少し笑った。
「ようやく分かってきたな」
押村は真剣だった。
「ただし、一人ではない」
千速はその目を見て、静かに頷いた。
「ああ。一人ではやらねぇ」
横溝が背後から言う。
「当然だ。今回はこっちから罠を張る」
千速の目が鋭くなる。
「黒いバイクを、白バイで追い込む」
押村は頷いた。
「ただし、追うだけではない。犯人がなぜ千速に見せたいのか、それを突き止める」
横溝が低く言った。
「推理と追跡、両方だな」
千速は白いヘルメットを手に取った。
「上等だ」
その目には、怒りだけではない。
白バイ隊員としての誇りがあった。
部下を襲った相手を捕まえる。
三年前の事故の真相を暴く。
そして、これ以上誰も傷つけさせない。
黒いバイクが夜を走るなら。
白バイは、その先に立つ。
事件は、次のカーブへ入ろうとしていた。