神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第4話 内通者

病院の廊下は、異様なほど静かだった。

 

白い壁。

消毒液の匂い。

遠くから聞こえるナースコールの音。

 

そのすべてが、押村奏斗には現実味の薄いものに感じられた。

 

手の中のスマホには、差出人不明のメールが表示されたままだった。

 

『三年前を掘るな。次は萩原千速が死ぬ』

 

押村は画面を見つめたまま、動かなかった。

 

その隣で、萩原千速が低く笑う。

 

「ずいぶん親切な脅迫だな。わざわざ狙いを教えてくれるなんてよ」

 

「萩原」

 

押村の声は硬かった。

 

「これは挑発じゃない。警告だ」

 

「分かってる」

 

「なら、軽く扱うな」

 

千速は押村を見る。

 

普段ならそこで茶化す。

「心配性だな、奏斗」とでも言って、軽く肩を叩く。

 

だが、今の押村の顔を見て、千速は何も言えなかった。

 

顔色が悪い。

目だけが異様に鋭い。

怒りと恐怖を無理やり押さえ込んでいる顔だった。

 

横溝重悟が二人の間に入るように立った。

 

「押村、メールを転送しろ。発信元を洗わせる」

 

「はい」

 

押村はすぐに操作した。

 

横溝は声を落とす。

 

「ただし、捜査一課全体には流さねぇ」

 

千速が眉をひそめる。

 

「内通者がいるかもしれないからか」

 

「ああ」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「三浦が言った。“警察の人間だ”とな。あれが本当なら、情報を広げれば広げるほど、こっちが不利になる」

 

押村は静かに頷いた。

 

「三浦亮介の周辺、黒いセダン、三年前の捜査資料。すべて、限られた人間だけで確認しましょう」

 

「そうだ」

 

横溝は押村を見た。

 

「まずは三年前の事件に関わった警察関係者を洗う」

 

千速が腕を組む。

 

「当時の捜査員、交通規制に入った隊員、鑑識、照会担当……かなりいるぞ」

 

「だから絞る」

 

押村が言った。

 

二人の視線が押村に向く。

 

押村はスマホを握ったまま、静かに続けた。

 

「三浦亮介は“見ただけだ”と言いました。つまり、犯人と接点があった可能性が高い。今回、三浦さんが消されかけた理由は、三年前のことを話そうとしたからです」

 

「誰に話そうとした?」

 

横溝が問う。

 

「おそらく、今回の殺人事件の被害者です」

 

千速の表情が変わる。

 

「最初の被害者か」

 

「はい。今回の被害者、村瀬浩一。会社員、三十二歳。財布もスマホも残っていた。怨恨の線も薄いと見られていた」

 

押村は一度目を伏せる。

 

「でも、もし村瀬さんが三浦さんから三年前の話を聞いていたとしたら」

 

横溝が低く唸る。

 

「口封じの殺しになる」

 

「そう考えれば、物取りではない理由も説明できます」

 

千速は奥歯を噛みしめた。

 

「三浦は三年前の犯人を知ってた。村瀬に話した。村瀬は殺された。三浦も消されかけた」

 

「はい」

 

押村の声は冷静だった。

 

「そして、その情報を知ることができた人物が警察内部にいる」

 

横溝が拳を握る。

 

「胸糞悪ぃな」

 

「横溝警部」

 

押村は顔を上げた。

 

「三年前の事件で、車両照会の記録を確認したいです」

 

横溝の目が細くなる。

 

「車両照会?」

 

「はい。当時、黒いセダンの候補車両は複数ありました。その中で、今回見つかった車両に関する情報がなぜ途切れたのか。そこに人為的な操作があった可能性があります」

 

「誰かが車を外したってことか」

 

「断定はできません」

 

押村は一拍置いた。

 

「ですが、調べる価値はあります」

 

横溝は短く頷いた。

 

「よし。俺が上に言って資料室を開けさせる。だが理由は伏せる」

 

「お願いします」

 

千速が押村に視線を向けた。

 

「私は?」

 

押村はすぐには答えなかった。

 

千速はその沈黙だけで察した。

 

「奏斗」

 

「萩原は、しばらく単独行動を避けてくれ」

 

「断る」

 

即答だった。

 

押村の眉がわずかに動く。

 

「萩原」

 

「私は捜査から外れねぇ」

 

「命を狙われている」

 

「だから何だ」

 

千速の声が強くなる。

 

「脅されたから引っ込む? 冗談じゃねぇ。そんなことしたら、相手の思うつぼだろうが」

 

「白バイ隊員としての通常勤務もある。狙われる場所はいくらでもある」

 

「なら、なおさら私が動いた方がいい。道路の上であいつを見つけられるのは、私たち交通部だ」

 

「萩原」

 

「奏斗」

 

千速は一歩近づいた。

 

「お前、また一人で抱え込もうとしてるだろ」

 

押村は黙った。

 

横溝が横から舌打ちする。

 

「また始まったな、同期の面倒くせぇやつ」

 

千速は横溝を睨んだ。

 

「うるさいぞ、重悟」

 

「うるさくもなるわ。お前ら、こういう時だけ意地の張り方が似てんだよ」

 

横溝は押村を指さした。

 

「押村。千速を捜査から外しても、こいつは勝手に動く」

 

「勝手にとは失礼だな」

 

「事実だろうが」

 

横溝は次に千速を睨む。

 

「千速。お前も単独で走るな。動くなら必ず連絡を入れろ。いいな」

 

千速は少し不満そうに唇を尖らせたが、やがて頷いた。

 

「分かったよ」

 

押村は静かに息を吐いた。

 

「萩原。頼むから、無茶はするな」

 

千速は押村を見る。

 

その声に含まれた、わずかな震えに気づいた。

 

いつも感情を表に出さない男が、今だけは隠しきれていない。

 

千速は少しだけ表情を和らげた。

 

「大丈夫だ、奏斗」

 

そして、軽く拳を押村の胸に当てる。

 

「私はそんな簡単にやられねぇよ」

 

押村はその拳を見つめ、静かに頷いた。

 

夕方。

 

県警本部の資料室は、古い紙と埃の匂いで満ちていた。

 

押村は三年前のひき逃げ事件の捜査資料を机に広げていた。

 

横溝は扉の近くに立ち、廊下を警戒している。

千速は交通部から取り寄せた当時の違反車両照会記録を確認していた。

 

「これ、見ろ」

 

千速が一枚の書類を押村に差し出した。

 

「当時、黒いセダンの候補として三十二台がリストアップされてる。そのうち一台、所有者不明扱いで除外されてる車がある」

 

押村は書類を受け取った。

 

「登録抹消済みのクラウン」

 

「今回見つかった車と一致する可能性が高い」

 

横溝が近づいてきた。

 

「除外した担当者は誰だ」

 

押村は記録の下部にある署名欄を見た。

 

一瞬、空気が止まった。

 

そこには、ある名前があった。

 

神奈川県警捜査一課 警部補 佐伯慎吾

 

横溝の顔が険しくなる。

 

「佐伯……」

 

千速が眉をひそめた。

 

「知ってるのか?」

 

横溝は低く答えた。

 

「今は生活安全部にいる。三年前は捜査一課にいた男だ」

 

押村は署名欄を見つめたまま言った。

 

「佐伯警部補は、三年前の事件で車両照会を担当していましたか」

 

「担当の一人だった」

 

「今も県警内にいる」

 

「ああ」

 

千速が腕を組む。

 

「かなり怪しいな」

 

「怪しいだけでは動けません」

 

押村は言った。

 

「この除外処理が適切だった可能性もあります」

 

横溝は押村を睨む。

 

「お前、庇ってんのか?」

 

「違います。確実に詰めたいだけです」

 

押村は資料を一枚ずつ確認していく。

 

「除外理由は“所有者確認不能、車両所在不明”。ですが、同じ条件の他の車両は追跡調査がされています。この一台だけ、追加調査がされていない」

 

千速が低く言う。

 

「誰かが止めた」

 

「可能性があります」

 

その時だった。

 

資料室の外で、足音が止まった。

 

横溝がすぐに扉へ視線を向ける。

 

次の瞬間、扉がノックされた。

 

「横溝警部、いらっしゃいますか」

 

若い刑事の声だった。

 

横溝は扉を少しだけ開ける。

 

「何だ」

 

「すみません。捜査会議の件で、課長がお呼びです」

 

「今行く」

 

横溝は短く答え、扉を閉めた。

 

だが、押村は若い刑事の去っていく足音をじっと聞いていた。

 

千速が小声で尋ねる。

 

「どうした」

 

「今の刑事、ここにいることをどうやって知った」

 

横溝の表情が変わる。

 

「資料室に入ることは、上には最低限しか伝えてねぇ」

 

「つまり」

 

千速が声を落とす。

 

「もう漏れてる」

 

三人は互いに視線を交わした。

 

その瞬間、押村のスマホが再び震えた。

 

差出人不明。

 

本文は、また一行だけだった。

 

『資料室の奥を見ろ』

 

「何だ、これ」

 

横溝が低く呟く。

 

押村はすぐに資料室の奥へ向かった。

 

古い事件資料が並ぶ棚。

段ボール。

廃棄予定のファイル。

 

その一番奥、掃除用具入れの陰に、小さな封筒が貼りつけられていた。

 

押村はハンカチ越しに封筒を外す。

 

中には、一枚の写真が入っていた。

 

夜の道路。

三年前のひき逃げ現場付近。

黒いセダンの運転席に、人影が写っている。

 

顔は粗い。

だが、制服の肩章が見えた。

 

警察官の制服。

 

千速が息を呑む。

 

「本当に……警察官だ」

 

横溝の拳が震える。

 

「誰だ、この野郎は」

 

押村は写真の端に目を留めた。

 

そこには、手書きのメモがあった。

 

『佐伯だけではない』

 

三人の間に、冷たい沈黙が落ちた。

 

佐伯慎吾。

三年前の車両照会を止めた可能性のある警察官。

 

だが、写真はそれだけでは終わらなかった。

 

「佐伯だけではない」

 

つまり、内通者は一人ではない。

 

千速が写真を睨む。

 

「県警の中に、何人いるんだよ」

 

横溝は奥歯を噛んだ。

 

「押村。この写真、誰が送ってきたと思う」

 

「分かりません」

 

押村は封筒を見つめた。

 

「ですが、少なくとも相手は県警内部にいる。資料室に封筒を置ける人間です」

 

「敵か味方かも分からねぇな」

 

「はい」

 

千速は押村の横顔を見た。

 

その表情は、静かだった。

 

静かすぎた。

 

「奏斗」

 

「分かっている」

 

押村は写真を証拠袋に入れながら言った。

 

「一人では動かない」

 

千速はわずかに目を丸くした。

 

「……先に言われた」

 

「言われると思った」

 

横溝が小さく鼻を鳴らす。

 

「少しは学習したか」

 

押村は答えなかった。

 

その時、千速の無線が鳴った。

 

『第三交機、萩原小隊長。応答願います』

 

千速は無線を取る。

 

「萩原。どうした」

 

『先ほど、例の黒いセダンと同型の車両が目撃されました。場所は鶴見区、産業道路方面。ナンバー不明。かなりの速度で南下中』

 

押村と横溝が同時に顔を上げる。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「黒いセダンは本牧で押収されてるはずだろ」

 

『はい。ただ、特徴が酷似しています。左後部に白い擦り傷あり』

 

横溝が低く呟く。

 

「もう一台あるのか」

 

押村はすぐに資料を掴んだ。

 

「同型車両を複数使っていた可能性があります」

 

千速はヘルメットを手に取った。

 

「私が行く」

 

押村が即座に言った。

 

「萩原、一人では――」

 

「分かってる」

 

千速は振り返る。

 

「だから、奏斗。お前も来い」

 

押村は一瞬だけ驚いた顔をした。

 

横溝が荒々しく笑う。

 

「よし。押村、千速と行け。俺は佐伯の所在を押さえる」

 

「横溝警部」

 

「こっちは任せろ。お前らはセダンを追え」

 

千速はすでに走り出していた。

 

押村もその後を追う。

 

県警本部の駐車場に出ると、千速の白バイが夕陽を浴びて光っていた。

 

「後ろに乗れ」

 

千速がヘルメットを投げる。

 

押村は受け取ったが、わずかに戸惑った。

 

「白バイに二人乗りは――」

 

「緊急時だ。細けぇこと言ってる場合か」

 

「萩原らしい判断だな」

 

「褒め言葉として受け取っとく」

 

押村はヘルメットを被り、千速の後ろに乗った。

 

エンジンが唸る。

 

千速が前を向いたまま言った。

 

「しっかり掴まってろよ、奏斗」

 

「問題ない」

 

「落ちても拾わねぇぞ」

 

「それは困る」

 

千速は短く笑った。

 

次の瞬間、白バイは鋭く発進した。

 

夕方の横浜を、サイレンが切り裂く。

 

道路を縫うように進む千速の背中は迷いがなかった。

男勝りで、荒っぽくて、それでも誰よりも道路の呼吸を知っている。

 

押村はその背中に手を添えながら、前方を見据えた。

 

黒いセダンは一台ではなかった。

内通者も一人ではなかった。

 

三年前の事件は、まだ終わっていない。

 

いや、三年前からずっと続いていたのだ。

 

そして、その闇は今、押村たちの目の前で再び走り出している。

 

千速が無線に叫ぶ。

 

「第三交機、萩原。対象車両を追う。各隊、産業道路を封鎖気味に絞れ。絶対に逃がすな!」

 

押村は風の中で、静かに呟いた。

 

「今度こそ、止める」

 

白バイは赤い夕陽の中へ飛び込んでいった。

 

その先で、黒いセダンの影が、ゆっくりと牙を剥いていた。

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