神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第40話 黙っていた白バイ

藤崎啓吾と藤崎茜が確保された翌朝。

 

第三交通機動隊の空気は、重かった。

 

新井を襲った黒いバイクの正体は、藤崎茜だった。

その背後には、元白バイ隊員の藤崎啓吾がいた。

 

三年前、倉木怜央が死んだカーブ。

そこにいた赤い車。

白いヘルメット。

そして、事故直後の現場を目撃していた佐伯。

 

事件はひとまず止まった。

 

だが、終わってはいなかった。

 

萩原千速は、詰所の奥にある小さな面談室の前で立ち止まった。

 

扉の向こうには、佐伯巡査部長がいる。

 

三年前の事故を見ていた隊員。

そして、昨日、藤崎茜に「三人目」として狙われた隊員。

 

千速は一度だけ深く息を吐いた。

 

隣には押村奏斗がいる。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「無理に怒りを抑える必要はない」

 

千速は押村を見る。

 

「怒ってるように見えるか」

 

「はい」

 

「正直だな」

 

「君には、正直に言うと決めている」

 

千速は少しだけ表情を緩めた。

 

「そうだったな」

 

押村は続ける。

 

「ただ、佐伯隊員も今は追い詰められている。聞き方を間違えると、肝心な部分を閉ざすかもしれない」

 

「分かってる」

 

千速は扉を見つめた。

 

「でも、あいつは黙ってた。三年前、藤崎啓吾が現場にいたことを」

 

「はい」

 

「それで倉木の死は単独事故で処理された。今回、新井まで襲われた」

 

押村は否定しなかった。

 

千速は拳を握る。

 

「部下だからこそ、腹が立つ」

 

押村は静かに言った。

 

「だからこそ、君が聞く意味がある」

 

千速は押村を見た。

 

押村の目はいつも通り静かだった。

 

それが、今はありがたかった。

 

「一緒に入れ」

 

「分かった」

 

千速は扉を開けた。

 

佐伯巡査部長は、椅子に座っていた。

 

三十代後半。

普段は落ち着いた隊員で、後輩の面倒見もいい。

 

だが今は、顔色が悪かった。

 

目の下に隈ができ、手元の紙コップはほとんど減っていない。

 

千速が向かいに座る。

 

押村はその隣に腰を下ろした。

 

佐伯は二人を見ると、小さく頭を下げた。

 

「小隊長……押村警部補……」

 

千速は短く言った。

 

「話を聞く」

 

佐伯は唇を結ぶ。

 

「はい」

 

押村が録音機を置いた。

 

「これは事情聴取です。ですが、現時点ではあなたを責めるためだけの場ではありません。三年前の事故と今回の事件の全体を確認するためです」

 

佐伯は押村を見た。

 

その言葉に少しだけ救われたような顔をした。

 

だが千速は、すぐに本題へ入った。

 

「三年前、倉木怜央の事故現場にいたんだな」

 

佐伯の肩が震えた。

 

「……はい」

 

「非番だったのか」

 

「はい。あの日は非番でした。箱根方面へ私用で出ていて、帰り道でした」

 

「事故を見たのか」

 

佐伯は首を横に振った。

 

「転倒の瞬間は見ていません。私が通りかかった時には、もう倉木のバイクは倒れていました」

 

「現場には誰がいた」

 

佐伯は目を伏せた。

 

「藤崎啓吾さんと、藤崎茜さんです」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「やっぱりな」

 

佐伯は苦しそうに続ける。

 

「茜さんは泣いていました。倉木の名前を呼んでいて……啓吾さんは、白いヘルメットを持っていました」

 

押村が問う。

 

「白いヘルメットとは、白バイ隊員用のものですか」

 

「似ていました。でも、本物かどうかは分かりません。少なくとも、遠目には白バイ隊員のヘルメットに見えました」

 

「啓吾さんは、そのヘルメットをどうしていましたか」

 

佐伯は両手を握った。

 

「道路脇の茂みに隠そうとしていました」

 

千速の声が低くなる。

 

「それを見たのに、なぜ報告しなかった」

 

佐伯は顔を上げられない。

 

「怖かったんです」

 

千速の表情が硬くなる。

 

「怖かった?」

 

「はい」

 

佐伯の声は震えていた。

 

「藤崎啓吾さんは、当時すでに退職していましたが、交通部では有名な人でした。腕が良くて、厳しくて、怖くて……自分はまだ若くて、何を見たのかも分からなくて」

 

「分からなくても、報告はできただろ」

 

佐伯は息を呑む。

 

千速の声は荒くはない。

 

だが、鋭かった。

 

佐伯は唇を噛む。

 

「啓吾さんに言われたんです」

 

押村が目を上げる。

 

「何と」

 

「“余計なことを言うな。これは倉木の単独事故だ。お前が変な証言をすれば、萩原千速の追跡責任まで掘り返される”と」

 

千速の表情が変わった。

 

「私の?」

 

佐伯は頷いた。

 

「五年前、倉木を追ったのは萩原隊員だった。あいつはそのせいで逃げ続けて、最後に死んだ。そういう話にされるぞ、と」

 

千速は言葉を失った。

 

押村が静かに続ける。

 

「啓吾は、千速を盾にしてあなたを黙らせた」

 

「はい」

 

佐伯は拳を握った。

 

「私は……小隊長が責められるかもしれないと思いました。当時はまだ、直接の上司ではありませんでしたが、萩原さんの追跡が正しかったことは知っていました。だから、余計な証言で迷惑をかけたくなかった」

 

千速が低く言った。

 

「それで黙ったのか」

 

「……はい」

 

「私を守るために?」

 

佐伯は顔を上げた。

 

「そう思っていました」

 

その言葉に、千速の胸の奥が重く沈んだ。

 

守る。

 

その言葉が、押村と喧嘩した時のことを思い出させた。

 

心配かけたくないから黙る。

守りたいから黙る。

 

黙ることが、誰かを守るとは限らない。

 

むしろ、黙ったせいで傷が深くなることがある。

 

佐伯も同じだったのだ。

 

千速はゆっくり息を吐いた。

 

「佐伯」

 

「はい」

 

「お前、馬鹿だな」

 

佐伯は目を伏せた。

 

「はい」

 

「私はそんなことで守られたくない」

 

「……はい」

 

「お前が見たものを言ってくれれば、三年前に違う捜査ができたかもしれない」

 

佐伯の肩が震える。

 

「はい」

 

「新井が襲われずに済んだかもしれない」

 

佐伯の目から、涙が落ちた。

 

「……はい」

 

千速は拳を握った。

 

怒りはある。

 

失望もある。

 

だが、それだけではない。

 

目の前の部下は、三年間ずっと黙っていた。

 

正義感ではなく、弱さと恐怖で。

 

それでも、千速を守るつもりだったと言った。

 

その間違いが、許されるわけではない。

 

けれど、切り捨てればいい話でもなかった。

 

押村が静かに口を開いた。

 

「佐伯隊員。藤崎啓吾から、その後も接触はありましたか」

 

佐伯は涙を拭い、頷いた。

 

「ありました」

 

「いつ」

 

「今回の事件が始まる少し前です」

 

千速が顔を上げる。

 

「何?」

 

「一週間ほど前、啓吾さんから電話がありました。“茜が動き出した。三年前のことを蒸し返される前に、お前は何も知らないと言え”と」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「啓吾は茜さんの行動を事前に把握していた」

 

「はい」

 

「新井隊員が襲われることも?」

 

佐伯は首を横に振る。

 

「そこまでは……分かりません。ただ、啓吾さんは“茜は萩原を狙う。その前に周りを削るつもりだ”と言っていました」

 

千速の声が低くなる。

 

「それをなぜすぐ言わなかった」

 

佐伯は唇を噛む。

 

「言えば、三年前のことも話さなければならないと思って……」

 

千速は立ち上がりかけた。

 

押村がそっと視線だけで制する。

 

千速は息を吸い、座り直した。

 

「続けろ」

 

佐伯は震えながら頷く。

 

「新井が襲われた後、私は言おうとしました。でも、怖くて……それで、二人目の封筒を見た時、自分が狙われる理由が分かりました」

 

「だから一人で出たのか」

 

「はい。自分が話せば済むと思って。でも、どう話せばいいか分からなくて……事故現場へ向かいました」

 

千速は目を閉じた。

 

馬鹿野郎。

 

そう怒鳴りたかった。

 

だが、今は怒鳴る場面ではない。

 

佐伯にはまだ話すべきことがある。

 

押村が問う。

 

「藤崎茜さんは、新井隊員を襲った時、単独で動いていたと思いますか」

 

佐伯は少し考えた。

 

「たぶん、最初は単独です。でも、啓吾さんは止められたはずです。むしろ途中から利用していたと思います」

 

「利用?」

 

「茜さんが小隊長を恨んでいることを利用して、三年前の罪をすべて茜さんに背負わせようとしていたんじゃないかと」

 

千速の目が鋭くなる。

 

押村も同じ結論にたどり着いていた。

 

藤崎啓吾は、茜を止めようとしたのではない。

 

自分の罪が掘り返されないように動いていた。

 

そして最終的には、茜を犯人として表に出し、自分は逃げるつもりだった。

 

押村は低く言った。

 

「啓吾はまだ全てを話していません」

 

横溝が面談室の外で待っていたかのように、扉を開けた。

 

「だろうな」

 

千速が振り向く。

 

「重悟」

 

横溝は腕を組み、佐伯を見た。

 

「佐伯。今話したこと、正式な供述として取るぞ」

 

佐伯は深く頭を下げた。

 

「はい」

 

横溝は厳しい声で続ける。

 

「お前が黙ったことで、捜査が遅れた。結果として新井も襲われた」

 

「はい」

 

「だが、今話したなら最後まで話せ。自分に都合の悪いことも全部だ」

 

佐伯は顔を上げた。

 

「話します」

 

横溝は短く頷く。

 

「ならいい」

 

千速は佐伯を見つめた。

 

「処分は免れねぇぞ」

 

「分かっています」

 

「白バイに戻れるかも分からない」

 

佐伯の顔が歪む。

 

それでも、彼は頷いた。

 

「それでも、話します」

 

千速は少しだけ黙った。

 

そして低く言った。

 

「それが今、お前がやるべきことだ」

 

佐伯はもう一度、深く頭を下げた。

 

取調室で、藤崎啓吾は黙秘を続けていた。

 

腕を組み、椅子に座ったまま、押村と横溝を見ようともしない。

 

横溝が机を叩く。

 

「藤崎啓吾。佐伯が証言した。三年前、お前が現場にいて白いヘルメットを隠したことも、口止めしたこともな」

 

啓吾は目を閉じたまま答えた。

 

「佐伯が何を言おうが、証拠はない」

 

押村は静かに資料を置いた。

 

「証拠はあります」

 

啓吾の目がわずかに開く。

 

押村は一枚の写真を出す。

 

復元されたアクションカメラの画像。

 

道路脇に立つ黒いヘルメットの人物。

白いヘルメットを掲げる姿。

 

「顔は映っていません。しかし、白いヘルメットを持つ人物の左膝の動きに特徴があります」

 

啓吾は反応しない。

 

押村は続ける。

 

「あなたは現役時代、左膝を負傷していますね。追跡訓練中の転倒で、左膝外側靱帯を損傷。以後、歩行時にわずかに左足を外へ逃がす癖が残っている」

 

横溝が別の映像を出す。

 

配送会社の防犯カメラ映像。

 

そこに映る藤崎啓吾の歩き方。

 

そして三年前の映像。

 

押村は二つを並べた。

 

「一致します」

 

啓吾の顔がわずかに強張る。

 

横溝が低く言う。

 

「さらに、茜の赤い車の廃車業者を当たった。車体の右後部に、バイクの接触痕が残っていたと証言が取れた。お前が手配して急いで潰したそうだな」

 

啓吾は黙っている。

 

押村はもう一枚、資料を置いた。

 

「あなたの携帯電話の過去ログも復元中です。倉木怜央さんへ連絡した人物、佐伯隊員へ口止めした記録、茜さんへ送ったメッセージ。すべて確認します」

 

啓吾が低く笑った。

 

「ずいぶん偉そうだな」

 

押村は答えない。

 

啓吾はようやく顔を上げた。

 

「お前らに何が分かる。白バイが一度追跡を誤れば、人生が終わるんだ」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「だから他人を殺していいってか」

 

「殺すつもりはなかった!」

 

啓吾の声が初めて荒くなった。

 

押村は静かに見つめる。

 

「では、何をするつもりだったのですか」

 

啓吾は息を荒くした。

 

「倉木を止めたかった。あいつは茜を巻き込んでいた。違法レースもやめない。俺は警察を辞めた後も、ずっとあいつが許せなかった」

 

横溝が言う。

 

「だから千速の名前を使った」

 

啓吾は目を逸らす。

 

押村が続ける。

 

「倉木さんは、千速に対抗心を持っていた。だから名前を使えば必ず来ると思った」

 

啓吾は拳を握る。

 

「脅して、二度と茜に近づくなと言うつもりだった。白いヘルメットを見せたのは、警察に見られていると思わせるためだ」

 

「赤い車は」

 

「茜が運転していた。倉木を止めるために、前へ出た。だが、あいつは速度を落とさなかった」

 

押村が静かに言う。

 

「だから急減速した」

 

啓吾は黙る。

 

「その結果、倉木さんは避けようとして転倒した」

 

啓吾の顔が歪む。

 

「あいつが勝手に突っ込んだんだ」

 

横溝が低く吐く。

 

「まだ言うか」

 

啓吾は声を荒げる。

 

「俺たちは殺してない!」

 

押村は静かに言った。

 

「あなたは、そう思いたかった」

 

啓吾の目が押村へ向く。

 

「何?」

 

「倉木さんを呼び出した。白いヘルメットで動揺させた。赤い車で進路を塞いだ。事故後、救護より先に証拠を隠した。佐伯隊員を脅して黙らせた」

 

押村は一つずつ言葉を置いた。

 

「それでも、殺していないと言い続けたかった」

 

啓吾の呼吸が荒くなる。

 

押村は続ける。

 

「今回、茜さんが復讐に走った時も、あなたは止めなかった。なぜなら、茜さんが白バイ隊員を襲えば、三年前の罪を茜さんの狂気として処理できるからです」

 

啓吾が机を叩いた。

 

「違う!」

 

「違いません」

 

押村の声は揺れなかった。

 

「あなたは、三年前も今も、自分の罪から逃げるために他人を使った」

 

啓吾は肩で息をしている。

 

横溝が鋭く言った。

 

「藤崎啓吾。もう逃げ場はねぇぞ」

 

啓吾は唇を震わせた。

 

そして、長い沈黙の後。

 

ぽつりと言った。

 

「……俺は、白バイを降ろされた」

 

誰も遮らなかった。

 

啓吾は低く続けた。

 

「追跡判断が悪いと責められた。俺は犯人を捕まえようとしただけだった。なのに、組織は俺を切った」

 

押村は静かに言う。

 

「だから、千速を恨んだ」

 

啓吾の目が鋭くなる。

 

「あいつは俺と違った。追跡を打ち切って、正しい判断をしたと言われた。倉木を逃がしたのに、責められなかった」

 

横溝が低く唸る。

 

「逆恨みだな」

 

啓吾は押し黙った。

 

押村は理解した。

 

藤崎啓吾が本当に見ていたのは、倉木でも茜でもない。

 

萩原千速だった。

 

自分が白バイを降ろされた過去。

千速が正しい判断で評価された現実。

その妬みが、倉木の死と絡まり、歪んだ。

 

押村は静かに言った。

 

「あなたが憎んでいたのは、倉木さんではなく、自分が白バイを降りた事実です」

 

啓吾は何も言わなかった。

 

だが、その沈黙は、否定ではなかった。

 

一方、藤崎茜の取調べは難航していた。

 

茜は新井襲撃については認めた。

 

佐伯を追い詰めたことも認めた。

 

だが、啓吾の関与については曖昧な供述を続けていた。

 

「兄は関係ない」

 

「私が一人でやった」

 

「三年前のことも、兄は私を止めようとしただけ」

 

千速は取調室の外でその供述を聞いていた。

 

横溝が隣で腕を組む。

 

「兄貴を庇ってるな」

 

千速は頷く。

 

「ああ」

 

「厄介だな」

 

「でも、揺れてる」

 

押村が来る。

 

「啓吾が、一部供述を始めました」

 

千速が振り向く。

 

「本当か」

 

「はい。倉木を呼び出したこと、白いヘルメットを使ったことは認めています。ただし殺意は否認」

 

横溝が舌打ちする。

 

「予想通りだな」

 

押村は取調室の中の茜を見る。

 

「茜さんは、啓吾にずっと支配されていた可能性があります」

 

千速が目を細める。

 

「兄妹ってやつか」

 

「はい。茜さんは倉木さんを失った後、罪悪感と兄への依存の間にいた。今回の襲撃も、自分の怒りだと思っていたが、実際には啓吾に誘導されていた」

 

「榊の事件みたいだな」

 

押村は少しだけ目を伏せた。

 

「似ています。ただ、今回はもっと近い関係です」

 

千速は取調室の扉を見た。

 

「私が話す」

 

横溝が眉をひそめる。

 

「千速、お前は被害側に近い立場だぞ」

 

「分かってる。でも、茜は私に言いたいことがある。逆もだ」

 

押村は少しだけ考えた。

 

「感情的にならないと約束できるか」

 

千速は押村を見る。

 

「努力する」

 

押村が黙って見つめる。

 

千速は小さく息を吐く。

 

「確約する」

 

押村は頷いた。

 

「なら、同席する」

 

横溝はため息をついた。

 

「お前ら、最近そのやり取り多いな」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「気のせいだ」

 

取調室。

 

藤崎茜は疲れ切った顔で椅子に座っていた。

 

千速が入ると、その目に一瞬だけ憎しみが戻った。

 

「萩原千速」

 

千速は向かいに座る。

 

押村は隣に立った。

 

茜が笑う。

 

「白バイの隊長が、私を説教しに来たの?」

 

千速は静かに答えた。

 

「違う。聞きに来た」

 

「何を」

 

「お前が本当にやりたかったことだ」

 

茜の顔が歪む。

 

「復讐よ」

 

「誰への」

 

「白バイ」

 

「違うだろ」

 

茜の目が鋭くなる。

 

千速は続けた。

 

「お前が本当に怒ってる相手は、私でも新井でも佐伯でもない」

 

「勝手に決めないで」

 

「藤崎啓吾だ」

 

茜の頬がわずかに震えた。

 

「違う」

 

「違わねぇよ」

 

千速の声は低いが、落ち着いていた。

 

「倉木を呼び出したのは兄。白いヘルメットを使ったのも兄。事故後に隠蔽したのも兄。お前を黙らせたのも兄だ」

 

「黙って」

 

「でも、お前は兄を責められなかった」

 

茜の目に涙が浮かぶ。

 

「黙ってって言ってるでしょ!」

 

千速は引かなかった。

 

「だから、代わりに白バイを憎んだ」

 

茜の手が震える。

 

押村は静かに見守っていた。

 

千速は言葉を選ぶ。

 

「分かる、とは言わねぇ。新井を襲ったことも、佐伯を追い詰めたことも、許さない」

 

茜は歯を食いしばる。

 

千速は続けた。

 

「でも、お前が倉木を失って壊れたことは分かる。大事な人を突然失うことが、どれだけ人間を変えるかも知ってる」

 

茜の目が揺れる。

 

「あなたに何が分かるの」

 

千速は少しだけ目を伏せた。

 

「弟を爆弾で失った。陣平も失った」

 

茜の表情が変わった。

 

「……」

 

「だからって、関係ない誰かを傷つけていい理由にはならねぇ」

 

千速はまっすぐ茜を見る。

 

「私はそれを知ってる」

 

茜の涙がこぼれた。

 

千速は低く言った。

 

「お前が本当に言うべき相手は、私じゃない。兄だ」

 

茜は震えながら首を振る。

 

「兄さんは……私を守ろうとして……」

 

「違う」

 

千速ははっきりと言った。

 

「兄は、自分を守るためにお前を使った」

 

茜は息を呑んだ。

 

押村が静かに資料を机に置く。

 

「啓吾さんは、倉木さんを呼び出したことを認めています。白いヘルメットを使ったことも」

 

茜は資料を見つめる。

 

押村は続けた。

 

「あなたにすべての罪を背負わせるつもりだった可能性もあります」

 

「嘘……」

 

千速が言う。

 

「嘘かどうかは、自分で確かめろ。でも、もう黙るな」

 

茜は顔を覆った。

 

泣き声が漏れる。

 

長い長い沈黙の後、茜は震える声で言った。

 

「兄さんが……白いヘルメットを持っていた」

 

千速は黙って聞いた。

 

「私が赤い車で前に出た。怜央を止めたかった。話をしたかった。でも兄さんが無線で言ったの。“今だ、減速しろ”って」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「啓吾さんの指示で急減速した」

 

茜は頷いた。

 

「私は……そんなつもりじゃなかった。怜央が避けきれなくて、転んで……」

 

涙が止まらなくなる。

 

「兄さんは、救急車より先にヘルメットを隠した。車を移動させろって言った。怜央はもう駄目だって……」

 

千速は拳を握った。

 

「まだ生きてたのか」

 

茜は泣きながら頷く。

 

「息をしてた……少しだけ」

 

取調室の空気が凍った。

 

押村の声が低くなる。

 

「救護義務違反だけでは済みませんね」

 

千速は目を閉じた。

 

三年前も、また。

 

誰かが救えたかもしれない命の前で、隠すことを選んだ。

 

茜は泣き崩れながら言った。

 

「私は、怜央を殺したのは白バイだって思いたかった。そうじゃないと、自分が壊れそうだった。でも本当は……」

 

千速が静かに言う。

 

「本当は?」

 

茜は顔を上げた。

 

「私と兄さんが、怜央を殺した」

 

その言葉が、事件の核心だった。

 

押村は録音機を確認し、静かに頷いた。

 

「供述として記録します」

 

茜は力なく頷いた。

 

千速は椅子から立ち上がる。

 

扉へ向かう直前、茜が言った。

 

「萩原さん」

 

千速は振り返る。

 

「何だ」

 

「新井さんに……謝っても、許されないですよね」

 

千速は少し黙った。

 

そして答えた。

 

「許すかどうかは新井が決める。私は、お前を許さない」

 

茜は目を伏せた。

 

千速は続けた。

 

「でも、謝ることから逃げるな」

 

茜は泣きながら頷いた。

 

取調室を出ると、千速は廊下の壁にもたれた。

 

押村が隣に立つ。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫……って言いたいけど、ちょっときつい」

 

「そうか」

 

押村はそれ以上聞かなかった。

 

千速は天井を見上げた。

 

「また、黙ったせいで人が傷ついた」

 

「はい」

 

「佐伯も、茜も、啓吾も。みんな黙って、隠して、誰かを守るふりをして、自分を守った」

 

押村は静かに言った。

 

「誰にでも起こり得ることです」

 

千速は押村を見る。

 

「お前も?」

 

押村は少しだけ黙った。

 

「俺も」

 

「私もだな」

 

押村は千速を見た。

 

「そうかもしれない」

 

千速は小さく笑った。

 

「否定しねぇのかよ」

 

「君には正直に言うと決めている」

 

「そうだったな」

 

千速は目を閉じ、深く息を吐いた。

 

「新井に報告しないとな」

 

「一緒に行く」

 

「ああ」

 

その時、横溝が廊下の向こうから歩いてきた。

 

「二人とも、啓吾が落ちた」

 

千速が顔を上げる。

 

「供述したのか」

 

横溝は頷く。

 

「茜の供述を聞かされてな。倉木を呼び出したこと、白いヘルメットで動揺させたこと、事故後に救護より証拠隠しを優先したこと。大筋認めた」

 

押村が静かに言った。

 

「これで三年前の事故は再捜査できます」

 

横溝は腕を組む。

 

「ああ。だが、今回の事件はまだ全部終わってねぇ」

 

千速が眉を寄せる。

 

「何かあるのか」

 

横溝は一枚の写真を差し出した。

 

「藤崎茜の黒バイクを調べた。車体後部にBLACK LANCEのマークがあったのは確かだ。だが、そのステッカーを作ったのは茜じゃない」

 

押村が写真を見る。

 

「誰が」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「倉木美緒だ」

 

千速の表情が変わる。

 

「倉木の妹……」

 

「茜は、マーク入りのステッカーと封筒を美緒から受け取ったと供述している」

 

押村は静かに言った。

 

「つまり、茜を動かした人物がもう一人いる」

 

横溝は頷いた。

 

「倉木美緒。兄の死を追い続けていた女だ」

 

千速は拳を握った。

 

黒いバイクは止まった。

藤崎兄妹の罪も明らかになった。

 

だが、事件の底にはまだ誰かがいる。

 

倉木怜央の妹。

 

彼女は、三年前の真実を知っていたのか。

それとも、知りたくて誰かを動かしたのか。

 

千速は低く言った。

 

「次は美緒か」

 

押村は頷く。

 

「はい」

 

横溝は歩き出した。

 

「行くぞ。事件はまだ半分だ」

 

白バイを狙った影は、単なる復讐ではなかった。

 

三年前のカーブに残された嘘。

 

それを暴こうとする者。

それを隠そうとする者。

それに利用された者。

 

そして、まだ姿を見せていない倉木美緒。

 

新たな真相は、さらに深い場所へ続いていた。

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