神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第42話 四人目の嘘

新井拓也の病室に黒い封筒が届けられた。

 

その知らせは、事件がまだ終わっていないことを、捜査班全員に突きつけた。

 

藤崎茜は留置中。

藤崎啓吾も取調べ中。

倉木美緒は県警本部で事情聴取を受けている。

 

それでも、新たな封筒は届いた。

 

つまり、外にいる。

 

三年前の事故を知り、今回の事件を操っている人物が、まだ。

 

神奈川県警本部の会議室には、再び緊張が戻っていた。

 

ホワイトボードには、これまでの流れが整理されている。

 

一人目、新井拓也。

白バイで襲撃され負傷。

 

二人目、佐伯巡査部長。

黒いバイクに尾行され、三年前の沈黙を暴かれる。

 

三人目。

隊長の前で折れる。

 

そして今回。

 

四人目は、まだ嘘をついている。

 

横溝重悟は、封筒の写真を机に叩きつけるように置いた。

 

「ふざけやがって」

 

写真は、三年前の事故現場を写したものだった。

 

倒れた倉木怜央のバイク。

赤い車。

路肩に立つ藤崎茜らしき影。

そして、写真の端。

 

黒いバイクのミラーらしきものが、わずかに写り込んでいた。

 

押村奏斗は、その端をじっと見つめていた。

 

「この写真は、当時現場にいた人物しか撮れません」

 

村上が頷く。

 

「藤崎啓吾と藤崎茜は、この写真について知らないと言っています。倉木美緒の資料にも、この角度の写真はありません」

 

千速は腕を組み、低く言った。

 

「つまり、黒いバイクの四人目が撮った」

 

押村は静かに頷く。

 

「その可能性が高い」

 

横溝が眉をひそめる。

 

「四人目は、まだ嘘をついている……か。誰に向けた言葉だ」

 

押村はホワイトボードを見た。

 

「四人目が自分自身を指しているとは考えにくいです。犯人はこれまで、標的に番号を振ってきました」

 

千速が続ける。

 

「一人目は新井。二人目は佐伯。三人目は私への挑発。なら四人目も、誰か白バイ関係者か?」

 

村上が資料を見ながら言った。

 

「三年前の倉木事故に関わった可能性のある交通部関係者は、佐伯巡査部長以外だと……当時の事故処理に関わった地元署交通課の警察官が数名います」

 

横溝が言う。

 

「全員洗え」

 

「はい」

 

押村は写真を手に取った。

 

「ただ、気になることがあります」

 

千速が押村を見る。

 

「何だ」

 

「この封筒は、新井隊員の病室に届けられました」

 

「それが?」

 

「新井隊員は一人目です。すでに襲われた被害者です。犯人が次の予告をするなら、捜査一課や第三交機に送ればいい」

 

横溝が目を細める。

 

「なのに、わざわざ新井の病室に届けた」

 

「はい」

 

押村は写真の裏に書かれた文字を見た。

 

四人目は、まだ嘘をついている。

 

「犯人は、新井隊員にこれを見せたかった」

 

千速の顔が強張った。

 

「新井に?」

 

「はい」

 

「新井は三年前の事故とは関係ない。まだ警察学校にも入ってねぇ」

 

押村は頷く。

 

「その通りです。だから、三年前ではなく、今回の事件における“嘘”かもしれません」

 

横溝が低く言う。

 

「今回の事件で、新井が気づいてねぇ嘘……」

 

千速の目が動いた。

 

「襲撃された時のことか」

 

押村は静かに言った。

 

「新井隊員は、最初の襲撃で“黒いライダーの左手首に傷があった”と証言しました」

 

村上が反応する。

 

「それで矢代悟にたどり着きました」

 

「はい。でも矢代にはアリバイがあった。あの傷は、犯人が意図的に見せた可能性があります」

 

千速が眉を寄せる。

 

「藤崎茜が、矢代の傷を真似たってことか?」

 

「その可能性があります。ですが、茜さんは新井襲撃時に手首の傷を見せた理由を説明できていません」

 

横溝が腕を組む。

 

「茜が誰かに指示された?」

 

「はい」

 

押村はホワイトボードに書いた。

 

偽の左手首の傷

新井に見せた理由

矢代悟へ誘導

 

千速は顔を上げた。

 

「つまり、四人目は矢代?」

 

押村は首を横に振る。

 

「矢代さんが直接犯人とは限りません。ただ、誰かが矢代さんに疑いを向けた。その理由を考える必要があります」

 

横溝が呟く。

 

「矢代は倉木の側近だった」

 

村上が続ける。

 

「倉木事故後、独自に事故車のアクションカメラを持ち出していました」

 

押村が頷く。

 

「はい。もし矢代さんがカメラを持っていることを知っている人物がいたなら、捜査を矢代さんへ向ければ、カメラが出てくると期待できます」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「つまり、犯人はカメラを出させたかった?」

 

「はい」

 

「三年前の映像を警察に見せたかったってことか」

 

押村は写真を見た。

 

「犯人は、三年前の真実を暴きたい。しかし自分では表に出たくない。だから、関係者を少しずつ動かしている」

 

横溝は吐き捨てるように言った。

 

「正義面した卑怯者だな」

 

千速は拳を握った。

 

「新井を使った時点で、正義なんかじゃねぇ」

 

押村は静かに頷いた。

 

その通りだった。

 

真実を暴くためだとしても、白バイ隊員を襲わせる理由にはならない。

 

誰かを危険に晒していい理由にはならない。

 

新井の病室。

 

窓際のベッドで、新井拓也は包帯を巻いた右腕を見つめていた。

 

千速が病室に入ると、新井は慌てて姿勢を正そうとした。

 

「小隊長」

 

「寝てろ」

 

「はい」

 

千速の声は短いが、怒っているわけではない。

 

押村も後ろから入る。

 

新井は少し緊張した顔で言った。

 

「押村警部補も」

 

「体調はどうですか」

 

「大丈夫です。右腕はまだ痛みますけど」

 

千速はベッド脇の椅子に座った。

 

「封筒のことを聞く」

 

新井の顔が硬くなる。

 

「はい」

 

「届けた人間を見たか」

 

「直接は見ていません。看護師さんが受け取って、警察関係の資料かと思って持ってきてくれたみたいで」

 

押村が問う。

 

「封筒を開けた時、写真を見て何か思い出しましたか」

 

新井は首を横に振りかけて、止まった。

 

千速が気づく。

 

「何だ」

 

新井は少し迷った。

 

「……襲われた時のことです」

 

押村の目が静かになる。

 

「話してください」

 

新井は記憶を辿るように目を伏せた。

 

「黒いバイクが最初に並んだ時、左手首の傷が見えたって話をしましたよね」

 

「ああ」

 

「でも、今考えると……変なんです」

 

千速が身を乗り出す。

 

「何が」

 

「黒いライダーは、僕の右側から並びました。殴ってきたのは左手です。でも、左手首の傷が見えたのは、その直前の一瞬だけでした」

 

押村が言った。

 

「つまり、わざと袖を上げて見せた」

 

新井は頷く。

 

「はい。それに、傷に見えたものが、本当に傷だったのか……」

 

「どういう意味だ」

 

「白かったんです。皮膚の傷跡というより、何か貼っているようにも見えました」

 

千速の顔が険しくなる。

 

「偽装か」

 

「すみません。最初は混乱していて、そこまで言えませんでした」

 

千速はすぐに言った。

 

「謝るな。今思い出したなら、それでいい」

 

新井は少しだけほっとした顔をした。

 

押村は続けた。

 

「他に気づいたことはありますか」

 

新井は少し考える。

 

「声です」

 

千速が反応する。

 

「一人目って言った声か」

 

「はい。あれ、女性の声だと思ってました。でも……」

 

「違うのか」

 

「機械を通したような声でした。ヘルメットの中にボイスチェンジャーみたいなものがあったのかもしれません」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「藤崎茜さん本人の声とは限らない」

 

新井は頷いた。

 

「はい」

 

千速は押村を見る。

 

「茜は本当に一人で新井を襲ったのか?」

 

押村は静かに答えた。

 

「そこが揺らぎます」

 

新井が少し顔を強張らせる。

 

「あの……僕を襲ったのは藤崎茜じゃない可能性があるんですか」

 

押村はすぐには答えなかった。

 

千速が代わりに言う。

 

「まだ分からない。でも、お前の証言は大事だ」

 

新井は拳を握った。

 

「なら、もっと思い出します」

 

「無理はするな」

 

「します」

 

千速が眉を上げる。

 

新井は慌てて言い直した。

 

「……無理のない範囲で、します」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「よし」

 

押村は封筒の写真を見た。

 

犯人は、新井に何かを思い出させようとしている。

 

左手首の傷。

声。

黒いバイク。

 

新井の記憶の中に、まだ鍵がある。

 

その日の午後。

 

矢代悟が県警に呼ばれた。

 

彼は相変わらず不機嫌そうな顔で取調室に入ってきた。

 

「また俺か」

 

横溝が低く言う。

 

「協力しろ」

 

「してるだろ。カメラも渡した」

 

千速が正面に立つ。

 

「矢代。新井襲撃の時、犯人はお前の手首の傷を真似た可能性がある」

 

矢代の目が動いた。

 

「俺の傷を?」

 

押村が写真を見せる。

 

「あなたの左手首の傷は、BLACK LANCEの元メンバーには知られていましたか」

 

矢代は鼻で笑う。

 

「知ってる奴は多い。昔、転倒した時にできた傷だ」

 

「藤崎茜は?」

 

「知ってる。倉木と付き合ってたからな。何度も会ってる」

 

「倉木美緒は?」

 

矢代は少し考える。

 

「美緒ちゃんも知ってるだろうな。怜央の妹だし」

 

押村は続ける。

 

「では、あなたが倉木さんの事故車からアクションカメラを持ち出したことは?」

 

矢代の顔が硬くなった。

 

「……それは誰にも言ってない」

 

千速が目を細める。

 

「本当か」

 

「本当だ。警察にも言わなかったんだぞ。誰にも言うわけねぇ」

 

押村は静かに問う。

 

「倉木美緒さんにも?」

 

矢代は一瞬、目を逸らした。

 

千速がすぐに気づく。

 

「矢代」

 

矢代は苦い顔で頭をかいた。

 

「……一度だけ言った」

 

横溝が声を低くする。

 

「おい」

 

「映像が壊れてて見られなかったんだ。期待させるのが嫌で、詳しくは言わなかった」

 

押村が問う。

 

「いつですか」

 

「一か月くらい前だ。美緒ちゃんがまた事故のことを調べてるって聞いて、会った。その時、カメラのことを少しだけ」

 

千速が低く言う。

 

「それで美緒が知った」

 

矢代は顔をしかめる。

 

「美緒ちゃんが何かしたのか」

 

押村は慎重に答えた。

 

「彼女は、藤崎茜へBLACK LANCEのマークと封筒を渡しています」

 

矢代は目を見開いた。

 

「何だと?」

 

横溝が睨む。

 

「知らなかったのか」

 

「知るかよ!」

 

矢代は机を叩いた。

 

「美緒ちゃんが、白バイを襲わせたってのか?」

 

千速が言う。

 

「そこまではまだ分からない」

 

矢代は苛立ったように立ち上がりかけた。

 

横溝が低く怒鳴る。

 

「座れ」

 

矢代はしぶしぶ座る。

 

押村は矢代を見つめた。

 

「一か月前、倉木美緒さん以外に会った人物はいますか。あなたの傷やカメラのことを知る可能性がある人物です」

 

矢代はしばらく考えた。

 

そして、ふと顔を上げた。

 

「一人いる」

 

千速が問う。

 

「誰だ」

 

「黒川直人」

 

村上がすぐに端末へ入力する。

 

矢代は続けた。

 

「BLACK LANCEの元メンバーだ。と言っても、表にはほとんど出てなかった。整備担当みたいな奴だった」

 

押村が聞く。

 

「黒川直人は、倉木怜央さんと近かったのですか」

 

「近かった。というより、怜央のバイクを一番いじってたのは黒川だ」

 

村上が検索結果を読み上げる。

 

「黒川直人、三十四歳。元バイク整備士。現在は中古バイク販売店勤務。五年前のBLACK LANCE摘発時は証拠不十分で立件なし。三年前の倉木事故では、関係者として事情聴取……」

 

村上の手が止まる。

 

「事故当日、現場付近にいた可能性あり」

 

横溝が目を細める。

 

「来たな」

 

押村は村上を見る。

 

「詳細を」

 

「当時、黒川は倉木のバイクの整備を担当していました。事故後、“整備不良ではない”と証言しています。ただし、事故当日の夜のアリバイは曖昧です」

 

千速が低く言う。

 

「もう一台の黒いバイク」

 

矢代が顔を上げる。

 

「まさか、黒川が?」

 

押村は静かに言った。

 

「可能性があります」

 

矢代は信じられないという顔をした。

 

「でも、あいつは怜央に惚れ込んでた。怜央の走りを誰より認めてた」

 

千速は鋭く言った。

 

「だからこそ、死の真相を暴こうとしてるのかもしれない」

 

押村が続ける。

 

「あるいは、三年前の現場にいて、何かを隠している」

 

横溝は立ち上がった。

 

「黒川直人を当たるぞ」

 

黒川直人の勤務先は、横浜市内の中古バイク販売店だった。

 

店内には、整備済みの大型バイクが並んでいる。

 

だが、黒川の姿はなかった。

 

店長は怪訝な顔で言った。

 

「黒川なら、今日は急に休みましたよ」

 

横溝が問う。

 

「理由は」

 

「体調不良とだけ。まあ、最近様子がおかしかったですから」

 

押村が聞く。

 

「どうおかしかったのですか」

 

「ずっとスマホを気にしていました。誰かから連絡が来るたび、顔色を変えて外へ出てました」

 

千速が店内を見渡す。

 

「黒川の私物はありますか」

 

店長は整備スペースへ案内した。

 

黒川の工具箱。

ロッカー。

作業台。

 

押村は作業台の上に置かれた小さな紙片を見つけた。

 

黒い紙の切れ端。

 

そこには、白い交差線の一部が印刷されていた。

 

千速が目を細める。

 

「封筒と同じ紙か」

 

村上が手袋で回収する。

 

「鑑識へ回します」

 

その時、千速は店の奥に停められた一台のバイクに目を留めた。

 

黒い大型バイク。

 

ナンバーは外されている。

 

車体後部には何も貼られていない。

 

だが、ステッカーを剥がしたような薄い跡がある。

 

千速は近づき、しゃがみ込んだ。

 

「これ……」

 

押村が隣に来る。

 

「黒いバイクか」

 

千速はタイヤを見る。

 

「タイヤが新しすぎる。交換したばかりだ」

 

横溝が店長を見る。

 

「このバイクは誰のだ」

 

店長は戸惑う。

 

「黒川の私物です。しばらく乗ってなかったはずですが」

 

千速はハンドル周りを見た。

 

「ボイスチェンジャー用の小型スピーカーを付けた跡がある」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「新井隊員が聞いた声」

 

村上がさらにバイクを確認する。

 

「リアフェンダー裏に白い接着剤の残りがあります。ステッカーを剥がした跡かもしれません」

 

横溝が低く言う。

 

「黒川で決まりか」

 

押村は首を横に振った。

 

「まだです」

 

千速が押村を見る。

 

「まだ違和感か」

 

「はい」

 

押村は黒いバイクを見つめた。

 

「ここまで証拠が揃いすぎています。犯人が本当に黒川なら、このバイクを店に残して休むでしょうか」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「また囮か」

 

「その可能性があります」

 

千速は整備スペースを見渡した。

 

「でも、黒川が関わってるのは間違いねぇ」

 

押村は頷いた。

 

「はい。少なくとも、黒川は何かを知っています」

 

その時、店長が思い出したように言った。

 

「そういえば、黒川が昨日、妙なことを言ってました」

 

横溝が振り向く。

 

「何だ」

 

「“明日で全部終わる。あの白バイ隊長が最後の道を走れば”って」

 

千速の表情が消えた。

 

押村が低く問う。

 

「最後の道とは?」

 

店長は首を横に振った。

 

「そこまでは……」

 

千速はすぐに気づいた。

 

「三年前の事故現場か」

 

横溝が無線を入れる。

 

「黒川直人の所在を追え! 自宅、勤務先周辺、携帯位置情報、全部だ!」

 

押村はスマホを確認する。

 

その直後、会議室にいる村上から連絡が入った。

 

『押村警部補!』

 

「どうしました」

 

『倉木美緒がいません!』

 

千速が振り向く。

 

「何だと?」

 

村上の声は焦っている。

 

『任意聴取後、別室で待機してもらっていましたが、トイレに行くと言って戻りません。置き手紙があります』

 

押村の声が低くなる。

 

「内容は」

 

村上は読み上げた。

 

『“兄が最後に走った道へ行きます。黒川さんが真実を見せると言いました。止めないでください”』

 

千速は白バイのキーを握りしめた。

 

「黒川、美緒を事故現場に呼び出したのか」

 

押村の顔も険しくなる。

 

「最後の道。三年前の事故現場です」

 

横溝が叫ぶ。

 

「全車、県道七十二号へ向かえ! 黒川直人と倉木美緒を確保する!」

 

千速はすでにヘルメットを手にしていた。

 

「私は白バイで出る」

 

押村が見る。

 

「千速」

 

「分かってる。一人で突っ込まない」

 

「俺たちも追う」

 

千速は短く頷いた。

 

「遅れるなよ」

 

押村は静かに返す。

 

「必ず追いつく」

 

夜の県道七十二号。

 

山道へ向かう道路は、冷たい風に包まれていた。

 

千速の白バイが闇を裂くように走る。

 

サイレンは鳴らしていない。

 

相手に気づかれるより、先に距離を詰める必要がある。

 

無線から押村の声が入る。

 

『千速、黒川の携帯位置が事故現場付近で確認されました』

 

「美緒は?」

 

『同じ付近です。ただし、二人が一緒にいるかは不明』

 

「了解」

 

千速はカーブへ入る。

 

三年前、倉木怜央が死んだ道。

 

昨日、佐伯が追い詰められた道。

 

そして今、倉木美緒がそこへ向かっている。

 

「またこの道かよ……」

 

千速は低く呟いた。

 

その時、前方にライトが見えた。

 

一台の黒いバイク。

 

停まっている。

 

そのそばに、倉木美緒が立っていた。

 

そして、もう一人。

 

黒川直人。

 

黒いジャケットを着た男が、美緒の前に立っている。

 

千速は白バイを止め、慎重に降りた。

 

「倉木美緒!」

 

美緒が振り向く。

 

「萩原さん……」

 

黒川はゆっくり千速を見た。

 

整った顔立ちだが、目だけが異様に冷たい。

 

「来たか。白バイ隊長」

 

千速は一歩前へ出る。

 

「黒川直人だな」

 

「そうだ」

 

「美緒を離せ」

 

黒川は笑った。

 

「離す? 俺は彼女を連れてきたんじゃない。彼女が真実を見に来たんだ」

 

美緒が震える声で言った。

 

「黒川さんが、兄の最後を全部話すって……」

 

千速は美緒から目を離さず言う。

 

「こっちへ来い」

 

黒川が首を振る。

 

「まだだ。彼女には見る権利がある」

 

「何を」

 

黒川は道の先を指した。

 

「倉木怜央が死んだ本当の理由だ」

 

千速の背筋に嫌な予感が走る。

 

無線に小さく言う。

 

「奏斗、聞こえるか。黒川と美緒を発見。事故現場手前。黒川が何か仕掛けてる可能性あり」

 

押村の声がすぐ返る。

 

『了解。こちらも接近中。距離を保ってください』

 

黒川はそれに気づいたように笑った。

 

「仲間を呼んだか」

 

千速は低く言う。

 

「当然だ」

 

「怒りで突っ込んでくるかと思ったが、案外冷静だな」

 

「白バイ隊員だからな」

 

黒川の目が少し細くなる。

 

「そういうところが気に入らない」

 

千速は眉を寄せる。

 

「何?」

 

黒川は美緒を見た。

 

「怜央はな、最後まで走りたがっていた。誰より速く、誰より自由に。なのに、警察も、藤崎も、茜も、矢代も、美緒も、みんな怜央を止めようとした」

 

美緒が震える。

 

「黒川さん……?」

 

黒川は穏やかに続ける。

 

「俺だけが分かっていた。怜央は止まるべきじゃなかった。あのまま走っていればよかった」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「お前、事故現場にいたな」

 

黒川は笑った。

 

「いたよ」

 

「何をした」

 

黒川はゆっくりと言った。

 

「怜央のバイクに細工をした」

 

美緒の顔が真っ白になる。

 

「え……?」

 

千速も息を呑んだ。

 

「何だと」

 

黒川は静かに語る。

 

「藤崎啓吾と茜が怜央を呼び出すことは知っていた。矢代が止めようとしていたことも、美緒が兄を心配していたことも。みんな怜央を縛ろうとしていた」

 

「だから殺したのか」

 

「違う」

 

黒川の目が狂気を帯びる。

 

「俺は、怜央を完成させたんだ」

 

千速の拳に力が入る。

 

「ふざけるな」

 

「怜央は最高のライダーだった。だが、最後の最後で迷った。茜の車を避ける時、白いヘルメットを見た時、奴は一瞬ブレーキを握った」

 

黒川は笑った。

 

「だから、握れないようにした」

 

千速は背筋が冷たくなった。

 

「ブレーキに細工したのか」

 

「少しだけな。普通の速度なら問題ない。でも、あのカーブで、あの速度なら効きが遅れる」

 

美緒が崩れ落ちるように膝をついた。

 

「嘘……黒川さん、だってあなた、兄のことを……」

 

「愛していたよ」

 

黒川は美緒を見る。

 

「だから、怜央には最高のまま終わってほしかった」

 

千速は怒鳴った。

 

「お前が殺したんだ!」

 

黒川は千速を見る。

 

「藤崎啓吾が呼び出した。茜が進路を塞いだ。佐伯が黙った。美緒が疑い続けた。矢代がカメラを隠した。皆が怜央の死を作った」

 

「違う」

 

千速は一歩前に出た。

 

「最後に殺したのはお前だ」

 

黒川の笑みが消えた。

 

「白バイ隊長。お前は本当に邪魔だ」

 

その瞬間、黒川がポケットからリモコンのようなものを取り出した。

 

千速は身構える。

 

「何だ、それ」

 

黒川は道路脇のガードレールを指した。

 

そこには、小さな装置が取り付けられていた。

 

ワイヤー。

 

道路を横切るように張られている。

 

見えにくい透明なワイヤーだ。

 

千速の顔が変わる。

 

「美緒、伏せろ!」

 

黒川がリモコンを押す。

 

ワイヤーが一気に張り上がる。

 

その瞬間、道路の向こうから一台の白バイがカーブを抜けてきた。

 

佐伯だった。

 

「佐伯!」

 

千速が叫ぶ。

 

佐伯は無線で叫ぶ。

 

『小隊長、避けます!』

 

だが、ワイヤーは首の高さではない。

 

前輪を引っ掛ける位置。

 

転倒させるための罠。

 

千速は白バイへ飛び乗った。

 

エンジンをかけ、即座に発進する。

 

「佐伯、左へ倒すな! 私の後ろへ入れ!」

 

千速は加速し、佐伯の前へ滑り込む。

 

ワイヤーまで数十メートル。

 

黒川が目を見開く。

 

「何をする気だ!」

 

千速は白バイをわずかに斜めへ倒し、路肩の工事用コーンを蹴るように弾いた。

 

コーンがワイヤーへ当たる。

 

張ったワイヤーが一瞬だけ浮き、位置がずれる。

 

その隙に千速は白バイを低く沈め、ワイヤーの下を抜けた。

 

佐伯も千速のラインをなぞる。

 

白バイ二台が、紙一重で罠を抜けた。

 

タイヤが悲鳴を上げる。

 

佐伯の車体が揺れる。

 

千速はすぐに速度を落とし、佐伯を守るように横へつく。

 

「佐伯、無事か!」

 

『はい……!』

 

黒川は舌打ちし、黒いバイクへ駆け寄った。

 

「逃げる気か!」

 

千速は白バイを反転させる。

 

だが、押村の声が無線で飛ぶ。

 

『千速、追わないでください! 先の道にまだ罠がある可能性があります!』

 

千速は歯を食いしばった。

 

黒川のバイクが走り出す。

 

逃げ道は山の上へ続く旧道。

 

このまま逃がせば、また誰かが狙われる。

 

だが、無理に追えば罠にかかる。

 

千速は一瞬だけ迷った。

 

その時。

 

反対側の道路から、横溝の車両が飛び出してきた。

 

「黒川直人! 止まれ!」

 

黒川は進路を変えようとする。

 

しかし、さらに別方向から押村の車両が道を塞いだ。

 

完全な挟み撃ち。

 

黒川は舌打ちし、バイクを急停止させた。

 

そしてガードレールを越えて、山林へ逃げ込もうとする。

 

千速は白バイから降り、走り出した。

 

「逃がすか!」

 

押村も車から飛び出す。

 

黒川は足場の悪い斜面を駆け上がる。

 

だが、白バイ隊員の千速はこういう足場にも強い。

 

一気に距離を詰める。

 

黒川が振り向き、工具のような金属棒を振るった。

 

千速は身を引いて避け、腕を掴む。

 

黒川が抵抗する。

 

「離せ!」

 

「離すかよ!」

 

黒川が千速を突き飛ばそうとした瞬間、押村が横から入った。

 

黒川の腕を押さえ、地面へ倒す。

 

千速がすぐに金属棒を蹴り飛ばす。

 

横溝が駆け寄り、黒川に手錠をかけた。

 

「黒川直人。殺人、殺人未遂、傷害、威力業務妨害、その他諸々で逮捕だ」

 

黒川は地面に伏せながら、狂ったように笑った。

 

「怜央は最高だった……あいつは最後まで走ったんだ……」

 

千速は冷たい目で見下ろした。

 

「違う。お前が止めたんだ」

 

黒川の笑いが止まる。

 

千速は低く言った。

 

「走りを奪ったのは、お前だ」

 

黒川は何も言わなかった。

 

道路脇では、倉木美緒が震えながら座り込んでいた。

 

押村がそばに膝をつく。

 

「怪我はありませんか」

 

美緒はゆっくり首を横に振る。

 

「兄を殺したのは……藤崎さんたちだけじゃなかったんですね」

 

押村は静かに答えた。

 

「はい」

 

「私は……何を見ていたんだろう」

 

千速が近づく。

 

美緒は千速を見上げた。

 

「萩原さん……」

 

千速は少し黙った。

 

そして言った。

 

「今度こそ、全部調べる」

 

美緒の目に涙が浮かぶ。

 

「はい……」

 

「でも、お前がしたことも消えない」

 

美緒は頷いた。

 

「分かっています」

 

千速はそれ以上責めなかった。

 

責めるべきことはある。

 

だが、美緒は今、兄を二度失ったような顔をしていた。

 

信じていたものが、また崩れた。

 

押村が立ち上がる。

 

「千速、佐伯隊員を確認しましょう」

 

千速は頷いた。

 

「ああ」

 

佐伯は白バイの横で、息を整えていた。

 

顔色は悪いが、怪我はない。

 

千速が近づくと、佐伯は深く頭を下げた。

 

「小隊長……すみません。また勝手に出ました」

 

千速はしばらく佐伯を見た。

 

そして、軽く拳でヘルメットを叩いた。

 

「馬鹿野郎」

 

「はい」

 

「でも、今は生きてるからいい」

 

佐伯の目が揺れる。

 

「はい」

 

「ただし、あとで説教だ」

 

「はい」

 

押村が横で静かに言った。

 

「かなり長くなりそうですね」

 

千速は佐伯を睨んだまま言う。

 

「当然だ」

 

佐伯は苦笑しながら、もう一度頭を下げた。

 

その夜。

 

黒川直人の逮捕によって、事件の構図は大きく変わった。

 

三年前、倉木怜央の死には複数の人間が絡んでいた。

 

藤崎啓吾は、千速の名前を使って倉木を呼び出した。

藤崎茜は、赤い車で倉木の前に出た。

佐伯は、事故後に藤崎啓吾が証拠を隠すところを見ながら黙った。

倉木美緒は、兄の死を追う中で藤崎茜を刺激し、今回の事件の引き金を引いた。

そして黒川直人は、倉木のバイクに細工し、事故を決定的なものにした。

 

誰か一人の罪ではない。

 

だからこそ、重かった。

 

神奈川県警の会議室で、横溝は資料を閉じた。

 

「ようやく黒幕にたどり着いたな」

 

押村は頷く。

 

「はい。ただ、詰めるべき点はまだ多いです」

 

千速は腕を組み、窓の外を見ていた。

 

横溝が声をかける。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「大丈夫か」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「重悟に心配される日が来るとはな」

 

「茶化すな」

 

「大丈夫じゃねぇよ」

 

千速は正直に言った。

 

横溝も押村も、黙って聞いた。

 

「部下は襲われた。佐伯は黙ってた。倉木の死には、私の名前も使われてた。美緒は壊れかけてて、茜も啓吾も黒川も、みんな何かを間違えた」

 

千速は小さく息を吐く。

 

「大丈夫なわけねぇ」

 

押村が静かに言った。

 

「それでも、君は止めた」

 

千速は押村を見る。

 

「新井も佐伯も死なせなかった。美緒も守った。黒川も捕まえた」

 

横溝が頷く。

 

「それは事実だ」

 

千速は少しだけ目を伏せた。

 

「そうだな」

 

押村は続けた。

 

「次は、事実を整理して法に渡す番です」

 

千速は頷いた。

 

「ああ」

 

事件は大きく動いた。

 

だが、まだ終わりではない。

 

黒川の供述。

藤崎兄妹との関係。

美緒の責任。

佐伯の処分。

そして新井が向き合うべき傷。

 

白バイを狙った事件は、真相へ辿り着いた。

 

だが、本当に終わるには、まだ痛みを整理しなければならない。

 

千速は、白いヘルメットを机の上に置いた。

 

「あと四話、か」

 

押村が少し不思議そうに見る。

 

「何が?」

 

千速は小さく笑った。

 

「いや、こっちの話だ」

 

横溝が眉をひそめる。

 

「何言ってんだ、お前」

 

「気にすんな」

 

千速はヘルメットに手を置いた。

 

黒いバイクは止まった。

 

でも、白バイはまだ走る。

 

傷ついた道の先へ。

 

真実を、最後まで運ぶために。




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