神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第43話 白いヘルメットの重さ

黒川直人が逮捕された翌日。

 

神奈川県警捜査一課の会議室には、事件関係者の名前が並んでいた。

 

藤崎啓吾。

藤崎茜。

倉木美緒。

佐伯巡査部長。

矢代悟。

黒川直人。

そして、倉木怜央。

 

すべての線は、三年前の県道七十二号へ集まっていた。

 

だが、真相が明らかになったからといって、事件が簡単に終わるわけではない。

 

押村奏斗は、黒川の供述調書を読み返していた。

 

黒川は、倉木のバイクに細工したことを認めた。

 

ただし、その理由は常軌を逸していた。

 

倉木怜央を「最高のライダー」として終わらせたかった。

誰にも捕まらず、誰にも止められず、最後まで走り続けた男として完成させたかった。

 

横溝重悟は、その供述を聞いた時、机を叩いた。

 

「ふざけた野郎だ」

 

押村は静かに頷く。

 

「はい」

 

「殺しておいて、完成させた? どこまで歪んでやがる」

 

「黒川にとって、倉木怜央は人間ではなく、理想化した偶像だったのでしょう」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「偶像?」

 

「はい。黒川は倉木本人を見ていたのではなく、自分が作り上げた“最高のライダー”を見ていた」

 

押村は資料を閉じた。

 

「だから、倉木さんが恐怖を感じることも、迷うことも、止まりたいと思うことも許せなかった」

 

横溝は低く唸った。

 

「だからブレーキに細工したってか」

 

「そう考えられます」

 

「狂ってるな」

 

「はい」

 

その時、会議室の扉が開いた。

 

千速が入ってくる。

 

制服ではなく、交通機動隊の上着を羽織っている。

 

表情はいつも通り鋭い。

 

だが、押村には分かった。

 

眠れていない。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「寝たか」

 

千速は一瞬黙った。

 

横溝がすぐに言う。

 

「寝てねぇ顔だな」

 

千速は面倒くさそうに眉を寄せる。

 

「二人して何だよ」

 

押村は柔らかく言った。

 

「心配している」

 

「……少しは寝た」

 

横溝が鼻で笑う。

 

「押村みたいな返ししやがって」

 

「うるせぇ」

 

千速は椅子に座り、資料を手に取った。

 

「黒川は?」

 

押村が答える。

 

「バイクへの細工は認めた。ただし、殺意については否認に近い供述を続けている」

 

「完成させたとか言ってるんだろ」

 

「はい」

 

千速は資料を握りしめた。

 

「胸糞悪いな」

 

横溝が腕を組む。

 

「同感だ」

 

千速はホワイトボードを見る。

 

「で、今日は何を詰める」

 

押村は立ち上がり、赤いペンを取った。

 

「黒川の犯行だけでなく、今回の白バイ隊員襲撃事件全体の流れを固めます」

 

「黒川が全部操ってたんじゃないのか」

 

「一部はそうです。ただ、すべてではありません」

 

押村はホワイトボードに書く。

 

一、倉木美緒が藤崎茜へ接触

二、藤崎茜が復讐心から行動開始

三、黒川が茜の動きを利用し、新井襲撃の構図を作る

四、佐伯の沈黙を暴く

五、美緒を事故現場へ誘導し、自分の“真実”を見せようとした

 

千速は目を細める。

 

「新井を襲った実行犯は茜で確定か?」

 

押村は少し間を置いた。

 

「そこがまだ不確定です」

 

横溝も顔を上げる。

 

「何?」

 

押村は新井の追加証言を示した。

 

「新井隊員は、襲撃時の声に違和感があったと言っています。ボイスチェンジャーのような加工音。そして左手首の傷も偽装の可能性が高い」

 

千速が低く言う。

 

「茜が黒川に指示されて、その通りにやった可能性は?」

 

「あります。ただし、茜は“新井を襲ったのは自分”と供述しています」

 

横溝が言った。

 

「供述してるなら確定じゃねぇのか」

 

押村は首を横に振る。

 

「茜さんは、黒川を庇っている可能性があります」

 

千速の顔が険しくなる。

 

「また庇うのか」

 

「はい。藤崎啓吾を庇っていたのと同じ構図です」

 

横溝は苛立ったように息を吐く。

 

「どいつもこいつも、黙ったり庇ったりしやがって」

 

押村は静かに続ける。

 

「新井隊員を襲った実行犯が黒川だった場合、茜さんの供述は一部虚偽になります」

 

千速が即座に言った。

 

「でも、黒いバイクで佐伯を追い詰めたのは茜だ。私は顔を見てる」

 

「はい。佐伯隊員への襲撃は茜さんで確定していいと思います」

 

押村は資料を並べた。

 

「問題は最初の襲撃です。犯人は新井隊員に“矢代の傷”を見せ、BLACK LANCEへ捜査を誘導した。その後、矢代さんからアクションカメラが出てきた」

 

千速が腕を組む。

 

「新井への襲撃は、黒川がカメラを出させるためにやった」

 

「その可能性が高い」

 

「じゃあ黒川が実行犯か」

 

押村は頷きかけて、少しだけ止まった。

 

「あるいは、黒川が茜さんに細かく指示した」

 

横溝が言う。

 

「どっちにしろ黒川が絡んでるな」

 

「はい」

 

押村は最後に一枚の写真を出した。

 

黒川のバイクのハンドル部分。

 

そこには、小型の音声出力装置を取り付けた跡があった。

 

「黒川のバイクには、ボイスチェンジャー用の装置跡がありました。これが新井隊員の証言と一致します」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「なら、本人を落とすしかないな」

 

横溝は立ち上がった。

 

「ああ。黒川をもう一度叩く」

 

取調室。

 

黒川直人は、静かに座っていた。

 

昨日の狂ったような笑みは消えている。

 

だが、目の奥にはまだ歪んだ熱があった。

 

押村と横溝が向かいに座る。

 

千速は取調室の外でモニターを見ていた。

 

本来なら、自分も中へ入りたい。

 

新井を襲った可能性がある男だ。

 

佐伯を罠にかけ、美緒を利用し、倉木を殺した男だ。

 

だが、今の自分が入れば、怒りが出る。

 

そう判断して、千速は外に残った。

 

押村は机に資料を置く。

 

「黒川直人。新井拓也隊員襲撃について聞きます」

 

黒川は薄く笑った。

 

「あれは藤崎茜がやった。本人も認めているだろ」

 

横溝が低く言う。

 

「お前のバイクから、音声装置の跡が出た」

 

黒川は少しだけ眉を動かした。

 

押村は続けた。

 

「新井隊員は、襲撃時の声が加工されていたと証言しています。また、左手首の傷も偽装だった可能性がある」

 

「それが?」

 

「藤崎茜さんのバイクには、音声装置の痕跡はありませんでした」

 

黒川は答えない。

 

押村は静かに言った。

 

「新井隊員を襲ったのは、あなたですね」

 

黒川はしばらく沈黙した。

 

それから、小さく笑った。

 

「証拠は?」

 

横溝が机を叩く。

 

「お前のバイクだろうが」

 

「バイクに装置があったとしても、俺が乗っていたとは限らない」

 

押村は表情を変えない。

 

「では、藤崎茜さんに貸したと?」

 

黒川は笑う。

 

「さあな」

 

押村は次の資料を出した。

 

「襲撃現場付近の防犯カメラ映像を再解析しました」

 

黒川の目がわずかに動く。

 

「黒いバイクはナンバーが隠されていました。車体も改造されていて識別は困難です。しかし、車体右側のミラーに小さな欠けがあります」

 

押村は写真を置いた。

 

黒川のバイクの右ミラー。

 

同じ位置に、欠け。

 

「一致しました」

 

黒川は黙っている。

 

「さらに、襲撃後にあなたの勤務先周辺の防犯カメラが、同じ欠けのある黒いバイクを捉えています。時刻は、新井隊員襲撃の三十分後」

 

横溝が低く言った。

 

「逃げ帰ったんだろ」

 

黒川は押村を見る。

 

「すごいな、刑事さん」

 

押村は淡々と続けた。

 

「あなたは新井隊員を殺すつもりではなかった。白バイ隊員を襲い、BLACK LANCEへ捜査を向け、矢代さんの持つアクションカメラを引き出すためだった」

 

黒川は何も言わない。

 

「ただし、それは結果論です。新井隊員は一歩間違えれば死亡していた」

 

「白バイ隊員なら避けられると思った」

 

その言葉に、横溝の顔が険しくなる。

 

「何だと?」

 

黒川は平然と言った。

 

「新井は優秀だと聞いていた。萩原千速の部下だ。あの程度なら死なない」

 

取調室の外で、千速の拳が固まった。

 

押村の声は低くなった。

 

「人の命を、技量の試験のように扱ったのですか」

 

黒川は押村を見る。

 

「白バイ隊員だろ。走ることを選んだ人間だ」

 

横溝が立ち上がりかける。

 

押村が静かに制した。

 

「横溝警部」

 

横溝は奥歯を噛み、座り直した。

 

押村は黒川を見た。

 

「あなたは、倉木怜央さんの時も同じ考えでしたね」

 

黒川の表情が変わる。

 

押村は続ける。

 

「倉木さんなら避けられる。倉木さんなら走り抜けられる。倉木さんなら死さえも美しい結末にできる」

 

黒川の目が細くなる。

 

「違う」

 

「違いません」

 

「怜央は特別だった」

 

「特別だったとしても、人間です」

 

黒川の表情から笑みが消えた。

 

押村は静かに言った。

 

「怖ければブレーキを握る。迷えば速度を落とす。生きたいと思えば止まる。それが人間です」

 

黒川の呼吸が乱れ始めた。

 

「怜央は止まらない」

 

「止まろうとしたから、あなたはブレーキに細工した」

 

黒川の指がぴくりと動く。

 

押村は言葉を続けた。

 

「あなたは倉木さんの走りを愛していたのではありません。あなたが作った理想像に倉木さんを閉じ込めていた」

 

「黙れ」

 

「倉木さんは、あなたの作品ではありません」

 

「黙れ!」

 

黒川が机を叩いた。

 

横溝が身構える。

 

押村は動かない。

 

「あなたは倉木さんを殺した。そして今度は、新井隊員や佐伯隊員まで、自分の物語の部品にした」

 

黒川の目が怒りで揺れる。

 

「俺がいなければ、怜央の真実は埋もれたままだった!」

 

押村は静かに言った。

 

「真実を暴くために、人を傷つけていい理由にはなりません」

 

黒川は肩で息をしていた。

 

「警察は何もしなかった」

 

「だから、あなたが人を傷つけていい理由にはならない」

 

「美緒はずっと苦しんでいた!」

 

「だから、あなたが美緒さんを利用していい理由にはなりません」

 

「茜だって!」

 

「だから、あなたが茜さんの罪悪感を煽っていい理由にはなりません」

 

押村の声は淡々としている。

 

だが、一言ずつ逃げ場を塞いでいく。

 

黒川は黙り込んだ。

 

長い沈黙。

 

そして、低く言った。

 

「……新井を襲ったのは俺だ」

 

取調室の外で、千速が息を止めた。

 

横溝が確認する。

 

「認めるんだな」

 

黒川は笑った。

 

今度の笑みは、疲れたものだった。

 

「最初だけだ。茜に火をつけるには、最初の狼煙が必要だった」

 

押村は静かに問う。

 

「新井隊員を選んだ理由は」

 

「若くて、萩原千速に信頼されている。傷つけば、隊長は動く」

 

千速の爪が手のひらに食い込む。

 

黒川は続けた。

 

「でも殺すつもりはなかった。うまく倒れれば、それでよかった」

 

横溝が吐き捨てる。

 

「それを殺人未遂って言うんだよ」

 

黒川は黙った。

 

押村は最後に尋ねた。

 

「四人目は、誰を指していたのですか」

 

黒川は目を上げる。

 

「俺だよ」

 

横溝が眉をひそめる。

 

「お前?」

 

黒川は小さく笑った。

 

「四人目は、まだ嘘をついている。藤崎啓吾でも、茜でも、佐伯でもない。俺自身だ」

 

押村は静かに見つめる。

 

「なぜ新井隊員の病室へ送ったのですか」

 

黒川は答えた。

 

「新井なら気づくと思った。最初に襲われた時の違和感に」

 

横溝が低く言う。

 

「自白したかったのか」

 

黒川は笑った。

 

「違う。見つけてほしかったんだ」

 

押村は言った。

 

「同じことです」

 

黒川は黙った。

 

「あなたは自分の罪を隠したかった。でも同時に、誰かに暴いてほしかった。倉木さんの死を“完成”だと言いながら、それが殺人だと分かっていた」

 

黒川は顔を伏せた。

 

もう何も言わなかった。

 

取調室を出ると、千速が廊下に立っていた。

 

押村が近づく。

 

「千速」

 

千速は押村を見る。

 

「新井を襲ったの、黒川だったんだな」

 

「はい」

 

「茜じゃなくて」

 

「最初の襲撃は黒川です。佐伯への襲撃は茜。罠を仕掛けたのは黒川。藤崎啓吾は三年前の隠蔽と、今回の茜の行動を利用しようとしていた」

 

千速は壁にもたれた。

 

「ぐちゃぐちゃだな」

 

「はい」

 

「でも、ようやく線がつながった」

 

「はい」

 

千速は少しだけ目を伏せる。

 

「新井に言わねぇとな」

 

押村は頷いた。

 

「一緒に行こう」

 

千速は押村を見る。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今、怒鳴らずに済んだのは、お前が中に入ってくれたからだ」

 

押村は少しだけ首を傾げた。

 

「そうか」

 

「そうだよ」

 

千速は小さく息を吐く。

 

「私が入ってたら、机くらい蹴ってた」

 

横溝が後ろから歩いてきて言った。

 

「蹴るな。壊れる」

 

千速が睨む。

 

「例えだ」

 

「お前の場合、例えで済まねぇ」

 

押村は静かに言う。

 

「否定しきれない」

 

「奏斗まで言うな」

 

ほんの少しだけ、空気が緩んだ。

 

だが、その緩さは長く続かない。

 

横溝はすぐ仕事の顔に戻った。

 

「黒川の供述で、新井襲撃は固まる。次は藤崎茜の供述訂正だ。茜がなぜ黒川を庇ったかも詰める」

 

押村が頷く。

 

「はい」

 

千速が低く言う。

 

「茜は、また自分が全部背負えばいいと思ったのか」

 

「おそらく」

 

横溝が苛立ったように言った。

 

「誰かを庇って嘘をつく奴ばっかだな」

 

押村は静かに言う。

 

「今回は、それが事件の中心です」

 

千速は目を閉じた。

 

黙ること。

庇うこと。

守るふりをして、自分の罪から逃げること。

 

この事件は、ずっとそれを繰り返していた。

 

夕方。

 

千速と押村は、新井の病室を訪れた。

 

新井はベッドの上で、差し入れのプリンを見つめていた。

 

千速が眉を寄せる。

 

「何してる」

 

新井は顔を上げた。

 

「あ、小隊長。いや、片手だと開けにくくて」

 

千速は無言でプリンを取り、蓋を開けて渡した。

 

「ありがとうございます」

 

「怪我人は余計なことで悩むな」

 

「はい」

 

押村が少しだけ目を細めた。

 

「新井隊員、話があります」

 

新井はすぐ真面目な顔になる。

 

「はい」

 

千速は椅子に座った。

 

「お前を襲った犯人が分かった」

 

新井の表情が強張る。

 

「藤崎茜ではなかったんですか」

 

押村が答える。

 

「最初にあなたを襲ったのは、黒川直人でした」

 

新井は黙った。

 

しばらくして、低く言う。

 

「やっぱり……」

 

千速が目を向ける。

 

「気づいてたのか」

 

「確信はなかったです。でも、茜さんを見た時、何か違う気がしました。体格というか、バイクの圧というか」

 

千速は頷く。

 

「そういう違和感は大事だ」

 

新井は視線を落とす。

 

「僕がもっと早く言えていれば」

 

千速は即座に言った。

 

「それは違う」

 

新井が顔を上げる。

 

千速ははっきり言った。

 

「襲われて、怪我して、混乱してた。それでもお前は覚えてることを話した。責めるところはない」

 

「でも」

 

「でもじゃねぇ」

 

千速の声は少し強くなる。

 

「お前は被害者だ。それを忘れるな」

 

新井は言葉に詰まった。

 

押村が静かに続ける。

 

「あなたの証言があったから、矢代さん、アクションカメラ、三年前の事故、黒川へとつながりました」

 

新井は押村を見る。

 

「僕の証言が?」

 

「はい。最初の手首の傷が、意図的な誘導だったと分かったことも重要です」

 

新井は深く息を吐いた。

 

「……少し、楽になりました」

 

千速はプリンを指す。

 

「食え」

 

「今ですか」

 

「今」

 

新井は素直にスプーンを取った。

 

押村はその様子を見て、少しだけ笑った。

 

千速が横目で見る。

 

「何笑ってんだ」

 

「いや」

 

「何だよ」

 

「君らしいと思った」

 

千速は少し顔を赤くした。

 

「うるせぇ」

 

新井はプリンを食べながら、少しだけ笑った。

 

病室に、ほんのわずかな日常が戻った。

 

その夜。

 

第三交通機動隊の車庫。

 

千速は一人で白バイの前に立っていた。

 

新井の白バイはまだ修理中。

佐伯の白バイも点検に回されている。

 

車庫には、いつもより少し隙間があった。

 

その隙間が、千速には妙に大きく見えた。

 

「白いヘルメットを持っているだけで、人は警察だと思う」

 

背後から押村の声がした。

 

千速は振り向かずに答える。

 

「三年前の倉木もそうだったんだろうな」

 

押村が隣に立つ。

 

「はい」

 

千速は白いヘルメットを手に取った。

 

「これ、重いんだよ」

 

押村は千速を見る。

 

「物理的に?」

 

「それもある。でも、そうじゃない」

 

千速はヘルメットを見つめた。

 

「白バイ隊員ってだけで、誰かから見れば正義の象徴になる。誰かから見れば恐怖になる。誰かから見れば、憎しみの的にもなる」

 

押村は静かに聞いていた。

 

「私たちは、交通を守るために走る。でも、追われる側からしたら、追い詰める存在だ」

 

「はい」

 

「だから判断を間違えたら、人が死ぬ。追うべき時と、止まるべき時。その一瞬で変わる」

 

千速は目を伏せた。

 

「五年前、私は止まった。それは今でも正しいと思ってる」

 

「はい」

 

「でも、倉木は三年前に死んだ。私の名前を使われて」

 

押村は低く言った。

 

「それは君の責任ではない」

 

千速は苦笑した。

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

千速は押村を見る。

 

「分かってるよ。今回は本当に」

 

押村は黙って千速を見つめた。

 

千速は少しだけ笑った。

 

「疑ってるな」

 

「確認している」

 

「刑事だな」

 

「はい」

 

千速はヘルメットを棚に戻した。

 

「黒川は、走ることを美化した。止まることを許さなかった。でも、白バイは逆だ」

 

押村が聞く。

 

「逆?」

 

「止まるために走るんだよ」

 

千速は白バイを見る。

 

「危ない車を止める。事故を止める。誰かが死ぬ前に止める。時には、自分自身も止める」

 

押村は静かに頷いた。

 

「君が今回、それをした」

 

千速は少し照れくさそうに目を逸らす。

 

「そういうこと言うな」

 

「事実だ」

 

「分かってるよ」

 

押村は千速の手を見た。

 

「手の甲、まだ赤い」

 

千速は手を引っ込める。

 

「大したことねぇ」

 

「冷やしたか」

 

「……忘れてた」

 

押村は小さく息を吐いた。

 

「約束したはずだ」

 

千速は観念したように笑う。

 

「分かった。冷やす」

 

押村は少しだけ柔らかい声で言った。

 

「今」

 

千速は目を丸くする。

 

「お前、最近私の言い方を真似してないか」

 

「効果的だから」

 

千速は吹き出した。

 

久しぶりに、自然な笑いだった。

 

その笑いに、押村も少しだけ表情を緩めた。

 

翌日。

 

藤崎茜は、黒川が新井襲撃を認めたと聞かされると、しばらく黙り込んだ。

 

そして、供述を一部訂正した。

 

新井襲撃は黒川から聞いていた。

自分がやったことにすれば、兄の罪も黒川の罪もまとめて背負えると思った。

佐伯を追い詰めたのは自分。

だが、黒川に煽られた。

 

押村はその供述を読みながら、深く息を吐いた。

 

横溝が隣で言う。

 

「また背負うか」

 

「はい」

 

「背負えば許されるわけじゃねぇのにな」

 

「むしろ、真実から遠ざかります」

 

横溝は腕を組んだ。

 

「この事件、全員それだな」

 

押村は頷く。

 

「はい」

 

千速も資料を見ていた。

 

そして、小さく呟いた。

 

「黙るな、か」

 

押村が見る。

 

千速は資料を閉じた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「この事件が終わったら、第三交機で話をする」

 

「隊員たちに?」

 

「ああ。佐伯のことも、新井のことも、全部は話せない。でも、黙ることが何を生むかは伝えたい」

 

押村は静かに頷く。

 

「いいと思う」

 

横溝が言う。

 

「捜査一課でもやるか。押村、お前が講師な」

 

押村が少し驚く。

 

「俺がですか」

 

「そうだ。抱え込むタイプの代表として」

 

千速が笑う。

 

「いいな、それ」

 

押村は困った顔をする。

 

「それは、あまり適任ではない気がします」

 

横溝が即座に言う。

 

「自覚があるなら適任だ」

 

千速も頷く。

 

「私も賛成」

 

押村は二人を見て、諦めたように言った。

 

「検討します」

 

横溝が睨む。

 

「やれ」

 

「はい」

 

千速はまた笑った。

 

事件はまだ終わっていない。

 

だが、ようやく輪郭は見えた。

 

あとは、証拠を固め、供述を整理し、それぞれの罪を正しい場所へ渡すだけだ。

 

それは派手な追跡ではない。

 

白バイのサイレンも鳴らない。

 

けれど、事件を終わらせるために最も大切な仕事だった。

 

押村はホワイトボードに最後の線を引いた。

 

黒川直人から、倉木怜央へ。

藤崎兄妹へ。

佐伯へ。

倉木美緒へ。

新井へ。

そして千速へ。

 

一本一本の線は、痛みでできている。

 

だが、その線をほどかなければ、誰も前へ進めない。

 

押村は静かにペンを置いた。

 

「次は、倉木怜央の死を正式に組み直します」

 

千速は頷いた。

 

「三年前の事故を、殺人事件として」

 

横溝が低く言った。

 

「ああ。ここからが本当の詰めだ」

 

白いヘルメットの重さを知る者たちは、もう一度、三年前のカーブへ向き合うことになる。

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