神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第44話 三年前の再現

三年前の事故を、殺人事件として組み直す。

 

その方針が決まった瞬間から、捜査一課と第三交通機動隊の動きは変わった。

 

それまで散らばっていた証言や物証が、一本の線に並び直していく。

 

倉木怜央は、単独事故で死んだのではない。

 

藤崎啓吾に呼び出され、藤崎茜の赤い車に進路を塞がれ、黒川直人によってブレーキを細工され、佐伯の沈黙によって真実を隠された。

 

そして、倉木美緒はその真実を求めるあまり、藤崎茜の復讐心に火をつけた。

 

押村奏斗は会議室の中央に立ち、ホワイトボードに書かれた時系列を見つめていた。

 

「問題は、黒川のブレーキ細工を殺意として立証できるかです」

 

横溝重悟が腕を組む。

 

「本人は“殺すつもりはなかった”の一点張りか」

 

「はい。倉木なら曲がれると思った、と供述しています」

 

千速が低く言った。

 

「ふざけた言い訳だな」

 

「はい」

 

押村は否定しない。

 

「ただ、感情では起訴できません。黒川が、あの速度、あのカーブ、あの状況でブレーキが遅れれば死亡する可能性が高いと認識していたことを示す必要があります」

 

村上が資料をめくる。

 

「黒川は整備士です。バイクの構造にも詳しい。細工の影響を理解していたと見るのが自然では」

 

押村は頷いた。

 

「それを客観的に示します」

 

千速が顔を上げる。

 

「再現するのか」

 

「はい」

 

押村はモニターに事故現場の図を映した。

 

県道七十二号。

山間部の連続カーブ。

倉木が転倒した急カーブ。

 

「実車を使った走行実験は危険です。ですが、現場検証、制動距離の計算、ブレーキ部品の鑑定、そして白バイ隊員による走行ラインの分析で、黒川の供述が不自然であることを示せます」

 

横溝が千速を見る。

 

「千速。お前の出番だな」

 

千速は腕を組んだまま頷いた。

 

「ああ。倉木がどう走ったか、黒川の細工で何が起きたか、現場を見れば分かる」

 

押村は千速を見た。

 

「危険な再現走行はしない」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

千速は少し不満そうに眉を寄せた。

 

「何回確認すんだよ」

 

「必要なだけ」

 

横溝がぼそっと言った。

 

「押村の心配性が出たな」

 

千速は小さく笑った。

 

「でも、悪くねぇよ」

 

押村は少しだけ目を伏せる。

 

「ならよかった」

 

そのやり取りを見て、村上が小さく咳払いした。

 

「ええと、現場検証は本日午後で調整済みです。交通規制も入ります」

 

横溝が頷く。

 

「よし。行くぞ」

 

千速は白いヘルメットを手に取った。

 

「三年前の道を、もう一度見る」

 

午後。

 

県道七十二号は一部規制され、現場検証の準備が進められていた。

 

山道には冷たい風が吹いている。

 

三年前、倉木怜央が死んだカーブ。

 

昨日まで何度も通った道なのに、今日は違って見えた。

 

事故現場としてではない。

 

殺人現場として。

 

千速は白バイの横に立ち、路面を見ていた。

 

押村が隣に来る。

 

「何か分かるか」

 

「ああ」

 

千速はカーブの入口を指した。

 

「倉木はこのラインで入ってる。アウトから入って、ここで車体を倒す。普通なら抜けられる」

 

「ブレーキが正常なら?」

 

「正常ならな」

 

千速はしゃがみ、路面に手を近づけた。

 

「でも、前方に赤い車。道路脇に白いヘルメット。しかも呼び出された相手が私だと思ってる。そりゃ一瞬迷う」

 

押村は静かに聞いていた。

 

千速は続ける。

 

「その一瞬でブレーキを握る。でも効きが遅れたら、ラインが外へ膨らむ」

 

千速は立ち上がり、ガードレールの方を見る。

 

「ここへ飛ぶ」

 

ガードレールには、三年前の傷跡はもう残っていない。

 

修理され、塗り直されている。

 

それでも、千速には見える気がした。

 

黒いバイクが倒れ、火花を散らし、倉木怜央が路面へ投げ出される光景が。

 

「黒川は知ってた」

 

千速は低く言った。

 

「このカーブでブレーキが遅れたらどうなるか、整備士なら分かる。ライダーならもっと分かる」

 

押村はメモを取る。

 

「黒川は倉木の走り方を熟知していた」

 

「ああ。倉木のバイクを一番いじってたんだろ。なら、どの速度で入るか、どこでブレーキを握るか、全部読めたはずだ」

 

横溝が近づいてくる。

 

「つまり、偶然じゃねぇな」

 

千速は頷いた。

 

「偶然じゃない。殺す気がなかったとしても、死ぬ可能性が高いことは分かってた」

 

押村は静かに言った。

 

「未必の故意ですね」

 

横溝が鋭く頷く。

 

「そこを詰める」

 

その時、鑑識の一人が声を上げた。

 

「押村警部補、こちらへ」

 

押村たちが向かうと、路肩の古い排水溝付近に小さな金属片が見つかっていた。

 

鑑識が説明する。

 

「三年前の事故当時のものかは鑑定待ちですが、ブレーキ部品の破片に似ています」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「事故車から落ちたやつか」

 

押村は慎重に見つめた。

 

「当時、回収漏れがあった可能性があります」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「三年も残ってたのか」

 

鑑識が答える。

 

「排水溝の隙間に落ちて、土砂に埋まっていたようです。最近の雨で少し表に出たのかもしれません」

 

押村は頷いた。

 

「鑑定をお願いします。黒川の細工と一致すれば、大きな証拠になります」

 

千速はその小さな破片を見ていた。

 

三年前、誰にも見つけられなかった欠片。

 

今になって、ようやく顔を出した。

 

まるで、倉木怜央自身が、まだ終わっていないと言っているようだった。

 

現場検証の途中、倉木美緒が立ち会いに現れた。

 

任意の事情聴取は続いていたが、兄の事故現場を見たいという希望を出していた。

 

もちろん、自由に歩き回れるわけではない。

 

捜査員が付き添い、距離を保った上での立ち会いだった。

 

美緒はカーブの手前で立ち止まり、路面を見た。

 

「ここで兄は……」

 

千速は少し離れた場所から見ていた。

 

押村が隣に来る。

 

「声をかけるか」

 

千速は一度迷った。

 

「……行く」

 

美緒の前に立つと、彼女はゆっくり顔を上げた。

 

「萩原さん」

 

「大丈夫か」

 

美緒は首を横に振った。

 

「大丈夫じゃないです」

 

「そうか」

 

千速はそれ以上、慰めなかった。

 

美緒はカーブを見つめながら言った。

 

「兄は、どんな気持ちだったんでしょう」

 

千速は少し黙った。

 

「分からねぇ」

 

美緒の目が揺れる。

 

千速は続けた。

 

「私は倉木怜央じゃない。だから最後の気持ちは分からない」

 

「……はい」

 

「でも、走りを見れば分かることはある」

 

美緒が千速を見る。

 

千速はカーブを指した。

 

「倉木は逃げようとしてたんじゃない。避けようとしてたんだと思う」

 

「避ける?」

 

「赤い車を。白いヘルメットを持った藤崎啓吾を。事故を。死ぬことを」

 

美緒の目から涙がこぼれる。

 

千速は静かに言った。

 

「あいつは最後まで走りたかったんじゃない。最後に止まろうとしたんだ」

 

美緒は口元を押さえた。

 

その言葉が、黒川の歪んだ理想を真っ向から否定していた。

 

倉木怜央は、死を選んだのではない。

止まりたかった。

避けたかった。

生きたかった。

 

美緒は泣きながら頷いた。

 

「兄は……生きたかったんですね」

 

千速は低く答えた。

 

「ああ」

 

押村は少し離れて、そのやり取りを見ていた。

 

千速の言葉は、推理ではない。

 

白バイ隊員として道を読み、ライダーの動きを読み、人の迷いを読んだ言葉だった。

 

その言葉は、美緒にとって、どんな調書よりも必要だったのかもしれない。

 

その夜。

 

県警本部に戻った押村たちは、鑑定結果の速報を待っていた。

 

会議室には疲労が漂っている。

 

千速は椅子にもたれ、目を閉じていた。

 

押村が紙コップのコーヒーを置く。

 

「飲むか」

 

千速は片目を開ける。

 

「お前が淹れたのか」

 

「自販機です」

 

「だよな」

 

千速は受け取った。

 

「ありがと」

 

「どういたしまして」

 

横溝が二人を見ながら言った。

 

「お前ら、職場で空気出すな」

 

千速がコーヒーを吹きかける。

 

「出してねぇよ!」

 

押村は真面目に言った。

 

「空気とは?」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「そういうとこだぞ、押村」

 

村上が必死に笑いを堪えていた。

 

緊張続きの会議室に、少しだけいつもの空気が戻る。

 

しかし、その直後、鑑識から連絡が入った。

 

村上が受話器を取り、すぐに顔を上げる。

 

「結果が出ました」

 

全員の表情が変わる。

 

「現場で見つかった金属片は、倉木怜央の事故車に使われていたブレーキ部品と同型。さらに、黒川の作業場から押収した工具痕と一致する可能性が高いとのことです」

 

横溝が拳を握る。

 

「来たな」

 

押村は静かに頷いた。

 

「黒川の細工を裏づける物証になります」

 

千速は息を吐いた。

 

「三年越しに、やっとか」

 

村上は続ける。

 

「さらに、黒川の作業場から押収した古い整備メモに、倉木のバイクの制動系統に関する記録がありました」

 

押村が目を上げる。

 

「内容は」

 

「“カーブ侵入時、制動遅延〇・五秒で外へ流れる。怜央なら立て直せるか?”という記述が」

 

会議室が静まり返った。

 

千速の顔から表情が消えた。

 

横溝が低く唸る。

 

「完全に試してやがったな」

 

押村の声も冷たくなる。

 

「これで、黒川が危険性を認識していたことを示せます」

 

千速は机の上に拳を置いた。

 

強く叩きはしない。

 

だが、その手は震えていた。

 

「人の命で実験したのかよ」

 

誰も答えなかった。

 

答えなど、必要なかった。

 

翌日。

 

黒川直人への再取調べが行われた。

 

今回は、押村と横溝に加え、千速も同席した。

 

黒川は千速を見ると、薄く笑った。

 

「白バイ隊長も来たのか」

 

千速は座らず、壁際に立った。

 

「お前の顔を見ておきたかっただけだ」

 

押村が資料を机に置く。

 

「現場でブレーキ部品の破片が見つかりました。あなたの工具痕との一致が確認されつつあります」

 

黒川の表情がわずかに変わる。

 

押村はさらに整備メモを出した。

 

「あなたの作業場から、このメモも見つかりました」

 

黒川の目が、初めて明確に揺れた。

 

横溝が低く言う。

 

「“制動遅延〇・五秒で外へ流れる。怜央なら立て直せるか?”……お前、分かっててやったんだな」

 

黒川は黙った。

 

押村は静かに続ける。

 

「あなたは倉木さんが危険な状態に陥ることを予見していた。それでも細工をした」

 

黒川は小さく笑う。

 

「怜央なら立て直せた」

 

千速が口を開いた。

 

「立て直せなかった」

 

黒川の目が千速へ向く。

 

千速はまっすぐ黒川を見ていた。

 

「倉木は、最後に止まろうとした。ブレーキを握った。でもお前が効かなくした」

 

「違う」

 

「違わねぇよ」

 

千速の声は低い。

 

怒鳴ってはいない。

 

だが、その声には白バイ隊員としての確信があった。

 

「お前は倉木の走りを見てたんだろ。なら分かったはずだ。あいつが最後に避けようとしたことくらい」

 

黒川の口元が引きつる。

 

「怜央は止まらない」

 

「止まろうとした」

 

「違う!」

 

黒川が机を叩いた。

 

千速は一歩も動かない。

 

「お前はそれを認めたくないだけだ。倉木が怖がったことも、生きたかったことも、ブレーキを握ったことも」

 

黒川の呼吸が荒くなる。

 

「黙れ……」

 

「倉木はお前の理想じゃない。勝手に殺して、勝手に完成させるな」

 

黒川は立ち上がろうとしたが、横溝がすぐに制した。

 

「座れ」

 

黒川は肩を震わせながら座り直した。

 

押村が静かに問う。

 

「黒川さん。あなたは本当は見ていたんですね。倉木さんが最後に止まろうとした瞬間を」

 

黒川の目が押村へ向く。

 

「だから三年間、黙っていた。藤崎啓吾や茜さんが事故の原因だと言いながら、本当は自分の細工が決定打だったと分かっていた」

 

黒川は唇を震わせる。

 

押村は続けた。

 

「今回の事件も、真実を暴くためではない。あなた自身が抱えきれなくなった罪を、他人に暴かせるためだった」

 

「違う」

 

「新井隊員を襲ったのも、矢代さんに疑いを向けたのも、美緒さんを事故現場へ呼んだのも、すべてそのためです」

 

黒川は顔を伏せた。

 

長い沈黙。

 

やがて、黒川が小さく呟いた。

 

「……あいつ、ブレーキ握ったんだ」

 

取調室が静まり返る。

 

黒川の声は震えていた。

 

「怜央が、握ったんだよ。あの怜央が。逃げるでも、攻めるでもなく……止まろうとした」

 

千速は黙って聞いていた。

 

黒川は低く笑った。

 

泣いているようにも見えた。

 

「俺は、それを見たくなかった」

 

押村は静かに言った。

 

「だから殺した」

 

黒川は何も答えなかった。

 

だが、その沈黙は、もはや否定ではなかった。

 

取調べ後、千速は廊下で立ち止まった。

 

押村が隣に並ぶ。

 

「大丈夫か」

 

千速は少しだけ笑う。

 

「今日は言う前に聞いたな」

 

「聞く必要があると思った」

 

「……大丈夫じゃねぇけど、大丈夫だ」

 

押村は頷いた。

 

「そうか」

 

千速は壁にもたれ、天井を見上げた。

 

「倉木は、止まろうとしたんだな」

 

「はい」

 

「それが分かっただけでも、美緒には意味があるかもしれない」

 

「あると思う」

 

「私にも、少しある」

 

押村は千速を見る。

 

千速は静かに言った。

 

「五年前、私が止まったことは間違いじゃなかった。倉木も最後には止まろうとした。なら、走ることだけが答えじゃないって、あいつにもどこかで分かってたのかもしれねぇ」

 

押村は頷いた。

 

「そうだな」

 

千速は少し間を置いて言った。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「この事件、最後まで見届けよう」

 

「もちろん」

 

「新井にも、佐伯にも、美緒にも。ちゃんと終わったって言えるように」

 

押村は静かに答えた。

 

「ああ」

 

その日の夕方。

 

倉木美緒に、黒川の供述の一部が伝えられた。

 

すべてではない。

 

捜査上、話せる範囲だけだった。

 

それでも、美緒は長い間、何も言えなかった。

 

やがて、小さく呟いた。

 

「兄は、止まろうとしたんですね」

 

千速は頷いた。

 

「ああ」

 

美緒は泣いた。

 

今までの怒りや憎しみではなく、ただ悲しみとして。

 

兄が死んだこと。

兄が生きようとしたこと。

そして、その生きようとした瞬間を奪われたこと。

 

ようやく、彼女は兄の死を歪めずに泣くことができた。

 

千速は隣に立っていた。

 

抱きしめるわけではない。

慰めの言葉を並べるわけでもない。

 

ただ、そこにいた。

 

押村は少し離れた場所から見守っていた。

 

横溝がその隣で腕を組む。

 

「重い事件だな」

 

押村は頷く。

 

「はい」

 

「あと二話で終わるか?」

 

押村は少しだけ横溝を見る。

 

「何の話ですか」

 

横溝は顔をしかめた。

 

「いや、こっちの話だ」

 

押村は真面目に考え込んだ。

 

「最近、千速も似たことを言っていました」

 

横溝は頭をかく。

 

「お前はそこ拾わなくていい」

 

押村は首を傾げた。

 

その様子を見て、横溝は小さく笑いそうになったが、すぐに顔を引き締めた。

 

事件は終盤へ入った。

 

次にやるべきことは、明確だった。

 

藤崎啓吾。

藤崎茜。

黒川直人。

倉木美緒。

佐伯。

 

それぞれの供述を最終的に固め、矛盾を潰し、事件を法の場へ送る。

 

そして、第三交機の中にも残っている。

 

佐伯の処分。

新井の復帰。

千速が隊員たちに伝えるべきこと。

 

三年前のカーブは、ようやく真実の形を取り戻し始めた。

 

だが、白いヘルメットをかぶる者たちにとって、本当の終わりは、まだ少し先にあった。

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